英語で「ジャガイモ」は potato である.「サツマイモ」 (sweet potato, batata) と区別すべく,Irish potato や white potato と呼ぶこともある.ジャガイモが南米原産(ペルーとボリビアにまたがるティティカカ湖周辺が原産地といわれる)であることはよく知られているが,1570年頃にスペイン人によってヨーロッパへ持ち込まれ,さらに17世紀にかけて世界へ展開していくにあたって,その呼び名は様々であった.
伊藤(著)『ジャガイモの世界史』 (44--45) によると,中南米の現地での呼称は papa であり,最初はそのままスペイン語に入ったという.しかし,ローマ法王を意味する papà と同音であることから恐れ多いとの理由で避けられ,音形を少しく変更して patata あるいは batata とした.この音形変化の動機づけが正しいとすれば,ここで起こったことは (1) 同音異義衝突 (homonymic_clash) の回避と,(2) ある種のタブー (taboo) 忌避の心理に駆動された,(3) 2つめの p を t で置き換える異化 (dissimilation) の作用(「#90. taper と paper」 ([2009-07-26-1]) を参照)と,(4) 音節 ta の繰り返しという重複 (reduplication) という過程,が関与していることになる.借用に関わる音韻形態的な過程としては,すこぶるおもしろい.
スペイン語 patata は,ときに若干の音形の変化はあるにせよ,英語 (potato) にも16世紀後半に伝わったし,イタリア語 (patata) やスウェーデン語 (potatis) にも入った(cf. 「#1411. 初期近代英語に入った "oversea language"」 ([2013-03-08-1]),「#1966. 段々おいしくなってきた英語の飲食物メニュー」 ([2014-09-14-1])).
一方,栄養価の高い食物という評価をこめて,「大地のリンゴ」あるいは「大地のナシ」という呼称も発達した.フランス語 pomme de terre,オランダ語 aardappel などが代表だが,スウェーデン語で jordpäron とも称するし,ドイツ語で Erdapfel, Erdbirne の呼称もある.
さらに別系統では,ドイツ語 Kartoffel がある.これはトリュフを指すイタリア語 tartufo に由来するが,初めてジャガイモに接したスペイン人がトリュフと勘違いしたという逸話に基づく.ロシア語 kartofel は,ドイツ語形を借用したものだろう.
日本語「ジャガイモ」は,ジャガイモが16世紀末の日本に,オランダ人の手によりジャワ島のジャカトラ(現ジャカルタの古名)から持ち込まれたことに端を発する呼び名である.日本の方言の訛語としては様々な呼称が行なわれているが,おもしろいところでは,徳川(編)の方言地図によると,北関東から南東北の太平洋側でアップラ,アンプラ,カンプラという語形が聞かれる.これは,前述のオランダ語 aardappel に基づくものと考えられる(伊藤,p. 167).
・ 伊藤 章治 『ジャガイモの世界史』 中央公論新社〈中公新書〉,2008年.
・ 徳川 宗賢(編) 『日本の方言地図』33版,中央公論新社〈中公新書〉,2013年. *
「#2827. PC の歴史」 ([2017-01-22-1]),「#2832. PC の特異な点」 ([2017-01-27-1]) に関連して,political_correctness という社会言語学上の運動について.今回は,誕生から半世紀ほどを経た PC が時間のなかでどのように変質・拡大してきたか,Hughes に従って考えてみたい.
3点ほど指摘できるように思われる.1つは,PC がいくつかの段階を経て社会に受容されてきたという点である.PC は当初はあるイデオロギーをもった内集団で用いられ始めた.それが,内集団の外へも広がっていき,社会的に認知されるようになった.例えば,"political correctness" などのキーワードそれ自体が広く知れ渡ることになった.次に,批判的な反応が,とりわけ皮肉やパロディなどの形で目立つようになってきた.さらに,反抗的な反応として,あえて "politically incorrect language" を用いる "shock jocks" や "rappers" のような存在も現われてきた.このように,PC は受容の拡大と否定的な反応という段階を経ながら成長してきた.しかし,おもしろいのは否定的な反応が目立つようになったとはいえ,PC それ自体は決して失われていないことだ.Hughes (283) は,"Although discredited and mocked, it refuses to go away but appears in new guises." と述べ,これを "the paradox of political correctness" と呼んでいる.
2つ目に,PC が流行に乗るにつれ,カバーする領域が拡散し,明確に定義できなくなってきたということがある.性や職業名などの問題に始まったが,新しいところでは外見,動物の権利,環境に関する問題まで,広く PC の問題として内包されるようになった.Hughes (284) が挙げている PC の対象となる分野のリストによれば,"fatness, appearance, stupidity, diet, crime, prostitution, race, homosexuality, disability, animal rights, the environment, and still others" が含まれている.別の言い方をすれば,言語や態度や行動のタブー (taboo) の領域が以前と比べて拡大してきた,ということだろう.PC とは,1つの見方によれば,タブー領域の拡大だったのである!
3つ目に,PC の焦点が,PC 用語のもつ意味的・形態的な側面よりも,誰が誰に対して,いつ,どのような状況でそれを用いるかというコンテクストに当てられるようになってきた.Hughes (286) 曰く,"political correctness has increasingly become less absolute and more contextual, that is to say the emphasis is increasingly less on what is said, but more on who said it and when." 例えば,白人が黒人を指すのに侮蔑的な用語を使うのと,黒人が自らを指すのに同じ用語を使うのとでは,その効果はまったく異なる.用語そのものの問題ではなく,語用的な問題が意識されるようになってきたということだろう.
このように,PC とは社会とともに成長してきた概念である.
・ Hughes, Geoffrey. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Malden, ML: Wiley Blackwell, 2010.
驚きや狼狽を表し,「ちくしょう,くそっ,なってこった」ほどと訳される間投詞としての Jesus がある.God や goddamn などと同様の罵り言葉であり,明らかに宗教的な名前に起源をもつが,それが時とともに語用標識 (pragmatic marker) へと発展したものである.いうまでもなく元来 Jesus は神の子イエス・キリストを指すが,"Jesus, please help me." のように非宗教的な嘆願の文脈でもしばしば用いられたことから,祈り,呪い,罵りの場面と密接に関係づけられるようになった.その結果,単独で間投詞として用いられるに至り,この用法としては,もはやイエス・キリストを指示する機能はきわめて希薄である.ある特定の文脈で繰り返し用いられることにより,この語に当該の語用的な含意が染みついた語用化 (pragmaticalisation) の例である.以下,Jucker and Taavitsainen (134--38) に拠って,この現象を覗いてみよう.
イエスの指示,嘆願における呼びかけ,そして間投詞としての Jesus の用法のグラデーションは,以下の例文により共時的にも感じ取ることができる (qtd. in Jucker and Taavitsainen 134).
・ I went through the motions, but I still prayed to Jesus at night, still went to church. (COCA, ABC_20/20, 2010)
・ Oh, Jesus please bless her. Here goes another one, little lady. (COCA, CNN_King, 1997)
・ He flicks on the TV. Nothing. Goddamn box. Not even plugged in. Jesus. He can't be prowling around looking for a socket. Shit. (COCA, Gologorsky, Beverly. The things we do to make it home, 1999)
古英語でもイエスを指示したり,イエスに嘆願するのに Iesus の語が用いられていたが,宗教的な文脈に限られていた.しかし,中英語ではすでに非宗教的な文脈で用いられている.例えば,1377年には "Bi iesus, with here ieweles, howre iustices she shendeth." とあり,語用化の道,間投詞への道をすでに歩んでいることがうかがえる.語用化の前後で共通しているものは話者の運命を左右する何者かへの訴えかけであり,その者とは神だったり,上位の者だったり,運命だったりするわけだ.
後期中英語より後では,罵り言葉としての Jesus の用法が明確になってくるが,それでも元来の用法との境目が曖昧な例は数多い.Jucker and Taavitsainen (136) は,曖昧な領域をまたぐこの語用化の道筋を誘導推論 (invited_inference) の観点から説明している.
The expression is regularly used with both the original meaning of religious invocation and the invited inference that the speaker also wants to communicate a certain amount of surprise and annoyance, and, therefore, the invited inference becomes part of the coded meaning of the expression, while the original meaning is increasingly backgrounded.
語用化の過程は,文法化 (grammaticalisation) や主観化 (subjectification) とも密接に関わっており,実際 Jesus の経た変化は,話者の感情を伝えるようになった点で主観化の例とみることもできる.また,嘆願の呼びかけとして文頭に現われやすいことが,文の他の要素からの独立を促し,間投詞化を推し進めたととらえることもできそうである.
・ Jucker, Andreas H. and Irma Taavitsainen. English Historical Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2013.
近代科学としての言語学では,言葉の魔力という問題について真っ向から取り組むことはない.しかし,「#1876. 言霊信仰」 ([2014-06-16-1]) でみたように,言葉の魔力は現代にも確かに存在する.「#1455. gematria」 ([2013-04-21-1]) などの言葉占いしかり,呪文や神仏の名を書いた護符の携帯しかり,タブー語の忌避とその代わりとしての婉曲表現の使用しかり,日常的な「記号=指示対象」の同一視しかり (「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1])) .言葉への畏れは,決して前近代的なものとして退けることはできない.
ましてや古代においては,言葉は真に現実的な畏怖の対象だったろう.とりわけ書き言葉は畏れられた.これは書記言語の超時間性や超空間性という特徴にも関連すると思われるが,書き手の権力や威信という要因もあったろう.文字を読み書きできる者は特権階級に限られており,人々からは超自然的な能力を有する者と信じられていたにちがいない.文字は,それが表わす語句の指示対象を想起させるがゆえに(すなわち,言霊機能ゆえに)畏れられたと同時に,それを書き記す者の絶大な力を想起させるがゆえにも,畏れられたのではないか.
意図的に刻みつけられた痕跡が刻んだ者を想起させるということであれば,それは文字に限らず,絵や記号でもよい.実際,文字が現われるずっと前から,個人,部族,職業などを標示する印は出土している.印はものの所有権を示したり,威信を誇示するのに用いられたと考えられ,その印を所有する権力者を想起させる役割を,すでにもっていたと想像される.文字の魔力は,その前段階にあった印の魔力を引き継いだものと見ることができそうだ.印に関する藤枝 (101) の見解が示唆的である.
印がないと,文書は文書としての効力をもたない.このことは今も昔も変わりはない.それほど印というものは昔から大切であったので,文字の歴史からいっても,重要な意味をもっている.中国では漢の時代に文書の制度が十分に整ったのに応じて,印章の制度も整い,いわばその発達の一極点に達したといってよい.だから印章制度の歴史は,漢代を規準にすると話が判りよい.
だからといって,漢代になって急に印の使用が盛んになったという訳ではない.印は実は悠久の昔から,オリエントでもインドでも中国でも使われていた.文字の歴史はせいぜい三,四千年にしかならないけれども,印章の方はその二倍程度は遡り得る.文字より遙かに古いのである.文字ができてないから,当時の印はただの文様や絵が刻ってあった〔中略〕.神聖な祭器や場所に,これで封印をした.文字が発明されて,やがて印には文字が刻られるようになるが,印といい,文字といい,当初は神聖な魔力をもつものであった.文字が下々にまで普及するに従って,印も次第に多くの人が使うようになったが,何千年も前からもっていた魔力はそう簡単には消滅しない.今日,銀行や役所などで,本人よりも印の方が幅をきかす場合にしばしばお眼にかかるが,これなどもその魔力の名残りに違いない.
現代日本の印鑑文化も,言霊思想のもう1つの例ということになる.
・ 藤枝 晃 『文字の文化史』 岩波書店,1971年.1991年.
英語には,英語本来語とフランス語・ラテン語からの借用語が使用域を違えて共存する,語彙の三層構造というべきものがある.一般に,本来語彙は日常的,一般的,庶民的,略式,暖かい,懐かしい,感情に直接うったえかけるなどの特徴をもち,借用語は学問的,専門的,文学的,格式,中立,よそよそしいといった響きをもつ.この使用域の対立については,Orr の記述が的確である.
For two hundred years and more, things intellectual, things pertaining to the spirit, were symbolized by words that had a flavour of remoteness, of higher courtliness, words redolent of the school rather than of the home, words that often had by their side humbler synonyms, humbler, yet used to express the things that are closer to our hearts as human beings, as children and parents, lovers and workers. (Orr, John. Words and Sounds in English and French. Oxford: Blackwell, 1953. p. 42 qtd. in Ullmann 146)
本ブログでも,この対立に関連する話題を「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1]),「#335. 日本語語彙の三層構造」 ([2010-03-28-1]),「#1296. 三層構造の例を追加」 ([2012-11-13-1]),「#1960. 英語語彙のピラミッド構造」 ([2014-09-08-1]),「#2072. 英語語彙の三層構造の是非」 ([2014-12-29-1]) ほか多くの記事で取り上げてきた.
本来語が低く,借用語が高いという使用域の分布が多くの語彙ペアに当てはまることは事実だろう.しかし,関係が逆転しているように見えるペアもないではない.例えば,Ullmann (147) は,次のペアを挙げている.最初の2組のペアについては,Jespersen (93) も触れている.
Native word | Foreign word |
---|---|
dale | valley |
deed | action |
foe | enemy |
meed | reward |
to heed | to take notice of |
言語表現の意味には,概念的意味 (conceptual meaning) と非概念的意味が区別される.概念的意味は辞書的意味 (dictionary meaning) とも呼ばれ,事物や出来事をカテゴリーとしてとらえ,それ自身をそれ以外のものから区別するために抽出された共通的・本質的要素の集合からなる.一方,非概念的意味は,文脈や場面,あるいはそれとの連想により概念的意味に付け加えられる意味である.非概念的意味には,いくつかの種類が認められる.Leech を参照して概説している中野 (23--26) に拠って,簡単に解説を施そう.
(1) 内包的意味 (connotative meaning)
語の指示対象から連想される指示対象特有の特性を指す ("what is communicated by virtue of what language refers to") .例えば,英語の mother や日本語の「母」は,その指示対象から連想される優しさ,愛情深さ,慈愛の深さなどのイメージを伴うかもしれない.しかし,これらのイメージは主観的で人によって異なるものであり,言語社会のなかで一定していない.
(2) 社会的意味 (social [stylistic] meaning)
言語使用の背景にある社会的状況について伝えられる内容 ("what is communicated of the social circumstances of language use") .年齢層,性別,社会階層,地域,媒体,堅苦しさ,敬意,文化などの社会的背景を反映したもの.文体的特徴として表出するので,文体的意味とも呼ばれる.英語の father, dad, daddy, pop, papa や日本語の「父」「お父さん」「お父ちゃん」「親父」「パパ」「おとう」などは,それぞれ異なる register に属しており,使用の社会的背景が異なっている.「#839. register」 ([2011-08-14-1]),「#227. 英語変種のモデル」 ([2009-12-10-1]),「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1]),「#849. 話し言葉と書き言葉 (2)」 ([2011-08-24-1]) なども参照.
(3) 情緒的意味 (affective meaning)
使用者の感情や態度について伝えられる内容 ("what is communicated of the feelings and attitudes of the speaker/writer") .Stop being so bloody arrogant." や "What a darling little dress!" におえるイタリック部分のように,話し手の愛情や嫌悪が表わされるような場合.
(4) 投影された意味 (reflected meaning)
その表現の別の語義からの連想により生じる意味 ("what is communicated through association with another sense of the same expression") .多義語が用いられる際に生じる重層的な意味を指し,忌詞や禁句 (taboo) に典型的に見られる.例えば,婚礼の際には「切る」「去る」「分かれる」はそれぞれの概念的意味の裏に,離婚を想起させる投影された意味が感じられる.英語の cock, ass なども性的に投影された意味を伴うために,変種によっては避けられる傾向がある.
(5) 連語的意味 (collocative meaning)
連語として共起することが多いために関連づけられる内容 ("what is communicated through association with words which tend to occur in the environment of another word") .例えば,典型的に pretty は女性を表わす語と共起し,handsome は男性を表わす語と共起する.両語の概念的意味は「器量のよい」で一致するが,連語的意味は異なる.連語的意味により,前者はかわいらしさ,後者は端正な顔立ちという特性を含意する.
上記 (1) から (5) は,語がもつ意味であり,まとめて連想的意味 (associative meaning) とも呼ばれる.一方,次の主題的意味は文がもつ意味である.
(6) 主題的意味 (thematic meaning)
語順や強調によって作り出される情報構造 (information structure) に関わる意味 ("what is communicated by the way in which the message is organized in terms of order and emphasis") .例えば,次の各ペアにおいて,1つ目と2つ目の文では,情報の新旧や力点の置き方によって主題的意味が異なる.
(a) John owns the biggest shop in London.
(b) The biggest shop in London belongs to John.
(c) I like Danish cheese best.
(d) Danish cheese, I like best.
(e) Bill uses an electric razor.
(f) The kind of razor that Bill uses is an electric one.
以上の非概念的意味,とりわけ語に属する (1)--(6) の連想的意味は,概念的意味のように固定的ではなく,使用者や使用の背景により変異しうるため,辞書に記載されることはない.例外として,(2) の社会的意味は比較的語彙の中で安定しているので,辞書にレーベルを伴って記載されることも多い.
・ 中野 弘三 「意味とは」『意味論』(中野弘三(編)) 朝倉書店,2012年,1--27頁.
昨日の記事「#1908. 女性を表わす語の意味の悪化 (1)」 ([2014-07-18-1]) で,英語史を通じて見られる semantic pejoration の一大語群を見た.英語史的には,女性を表わす語の意味の悪化は明らかな傾向であり,その背後には何らかの動機づけがあると考えられる.では,どのような動機づけがあるのだろうか.
1つは,とりわけ「売春婦」を指示する婉曲的な語句 (euphemism) の需要が常に存在したという事情がある.売春婦を意味する語は一種の taboo であり,間接的にやんわりとその指示対象を指示することのできる別の語を常に要求する.ある語に一度ネガティヴな含意がまとわりついてしまうと,それを取り払うのは難しいため,話者は手垢のついていない別の語を用いて指示することを選ぶのである.その方法は,「#469. euphemism の作り方」 ([2010-08-09-1]) でみたように様々あるが,既存の語を取り上げて,その意味を転換(下落)させてしまうというのが簡便なやり方の1つである.日本語の「風俗」「夜鷹」もこの類いである.関連して,女性の下着を表わす語の euphemism について「#908. bra, panties, nightie」 ([2011-10-22-1]) を参照されたい.
しかし,Schulz の主張によれば,最大の動機づけは,男性による女性への偏見,要するに女性蔑視の観念であるという.では,なぜ男性が女性を蔑視するかというと,それは男性が女性を恐れているからだという.恐怖の対象である女性の価値を社会的に(そして言語的にも)下げることによって,男性は恐怖から逃れようとしているのだ,と.さらに,なぜ男性は女性を恐れているのかといえば,根源は男性の "fear of sexual inadequacy" にある,と続く.Schulz (89) は複数の論者に依拠しながら,次のように述べる.
A woman knows the truth about his potency; he cannot lie to her. Yet her own performance remains a secret, a mystery to him. Thus, man's fear of woman is basically sexual, which is perhaps the reason why so many of the derogatory terms for women take on sexual connotations.
うーむ,これは恐ろしい.純粋に歴史言語学的な関心からこの意味変化の話題を取り上げたのだが,こんな議論になってくるとは.最初に予想していたよりもずっと学際的なトピックになり得るらしい.認識の言語への反映という観点からは,サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) にも関わってきそうだ.
・ Schulz, Muriel. "The Semantic Derogation of Woman." Language and Sex: Difference and Dominance. Ed. Barrie Thorne and Nancy Henley. Rowley, MA: Newbury House, 1975. 64--75.
言霊(ことだま)とは,言葉に宿る霊力を指し,古代日本人は言葉を神秘的な働きをするものと信じていた.秋山・三好 (19) による説明を引こう.
呪言や呪詞など日常の言葉とは異なる働きをする言葉には,不思議な霊力が宿ると考えられていた.口に出して言い立てた言葉は,そのまま事実として実現され,よい言葉・美しい言葉はサキハヒ(幸)をもたらし,悪い言葉はワザハヒ(禍)をもたらすという,“言”と“事”の同一性が信じられていたのである.こうした言葉に宿る霊力(言霊)に対する信仰を言霊信仰と呼んでいる.
言霊という語は,『万葉集』に3例現われる.
・ そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり (巻五・山上憶良の長歌の一部)
・ 言霊の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆうけ)問ふ 占(うら)正(まさ)に告(の)る 妹(いも)はあひ寄らむ (巻十一・柿本人麻呂歌集)
・ 磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国は 言霊の 幸(さきは)ふ国ぞ ま幸(さき)くありこそ (巻十三・柿本人麻呂歌集)
最初と最後の歌は,いずれも遣唐使派遣にかかわる歌であり,「対外的な緊張の中で,国家意識の目ざめとともに〈言霊〉への信仰が自覚された」(秋山・三好,p. 19)とされる.最後の歌を参照して,日本は「言霊の幸ふ国」(言霊の霊妙な働きによって栄える国)と呼ばれることがあるが,実際には言霊への信仰は日本(語)に限らず,古今東西に例がある.むしろ,言語をもつ人類にとって一般的な現象と考えられる.
祝詞,神託,呪文はとりわけ古代社会で重視された言霊信仰の反映であるし,忌詞 (taboo) の慣習と,それによって引き起こされる婉曲語法 (euphemism) の発達は,現代の諸言語にも広く見られる.記号の恣意性 (arbitrariness) への反例として広く観察される音象徴 (sound_symbolism) やオノマトペ (onomatopoeia) ,また古代ギリシアで起こった「#1315. analogist and anomalist controversy (1)」 ([2012-12-02-1]) の論争も,記号とその指示対象とを同一視しようとする傾向と深く関係している.五十音図の並びに深遠な意義があると説く江戸時代の音義説や,ユダヤ教で発展した「#1455. gematria」 ([2013-04-21-1]) などの言葉占いも,言霊信仰の現われである.Ogden and Richards の「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1]) への警鐘も,人々が「記号=指示対象」と同一視してしまう根強い性向への危機感からであった.言霊信仰は,決して前近代的な慣習ではなく,現代でも息づいている「言語の盲信」である.
言語情報にあふれた現代には,一方で「言語の不信」という問題がある.言語の盲信と不信という問題を意味論や記号論の立場で解決しようとするならば,まずは記号と指示対象との関係を正しく理解することから始める必要があろう.言霊信仰という話題は,この議論に絶好の材料を提供してくれる.
・ 秋山 虔,三好 行雄(編著) 『原色シグマ新日本文学史』 文英堂,2000年.
補充法 (suppletion) は広く関心をもたれる言語の話題である.go -- went -- gone, be -- is -- am -- are -- was -- were -- been, good -- better -- best, bad -- worse -- worst, first -- second -- third など,なぜ同一体系のなかに異なる語幹が現われるのか不思議である.言語における不規則性の極みのように思われるから,とりわけ学習者の目にとまりやすい.
しかし,専門の言語学においては,補充法への関心は必ずしも高くない.補充法を掘り下げて研究することには限界があると感じられているからだろう.その理由としては,(1) 単発であること,(2) 形態的に不規則で分析不可能であること,(3) 範列的な圧力 (paradigmatic pressure) から独立しており,形態的な類推 (analogy) が関与しないこと,などが挙げられる.つまり,個々の補充形は,文法のなかで体系的に扱うことができず,語彙項目として個別に登録されているにすぎないものと理解されている.一般にある語がなぜその形態を取っているのかが恣意的 (arbitrary) であるのと同様に,補充形がなぜその形態なのかも恣意的であり,より深く掘り下げられる種類の問題ではないということだろう.補充法の特徴を何かあぶりだせるとすれば,一握りの極めて高頻度の語にしか見られないということくらいである.
Hogg は,一見すると矛盾するように思われる "Regular Suppletion" という題名を掲げて,補充法研究の限界を打ち破り,可能性を開こうとした.補充法は,形態理論の研究に重要な意味をもつという.Hogg は,英語史からの補充法の例により,次の4点を論じている.
1つ目は,"the replacement of one suppletion by another" の例がみられることである.すでに古英語では yfel -- wyrsa -- wyrsta の補充法の比較が行なわれていたが,中英語では原級の語幹が入れ替わり,現代英語の bad -- worse -- worst へと至った.現在では,前者は evil -- more evil -- most evil となっている.yfel は極めて一般的な語義「悪い」を失い,宗教的な語義へ転じていったことにより,worse -- worst に対応する原級の地位を失い,後から一般的な語義を獲得した bad に席を譲ったということになる.Hogg は,古英語 *bæd はタブーだったために文証されていないだけであり,実際には14--18世紀に文証される badder -- baddest とともに,規則的な比較変化を示していたはずだと推測している (72) .あくまで仮説ではあるが,evil と bad について,比較級変化は以下のような歴史的変化を経ただろうとしている (72) .
evil → worse → worse, more evil → more evil bad → badder → worse, badder → worse
2つ目は,"the preference for suppletion over regularity" であり,go -- went に例をみることができる."to go" の補充過去形として古英語 ēode が中英語 went に置き換えられたことはよく知られている.それによって went の本来の現在形 wend が wended という規則的な過去形を獲得したことが,英語史上も話題になっている.went の例で重要なのは,規則形よりも補充形が好まれるという補充法の傾向を示すものではないかということだ.ただし,北部方言やスコットランド方言では,別途,規則形 gaid や gaed が生み出されたという事実もある.
3つ目は,"the addition of regularity without disturbance of the suppletion" である.古英語 bēon の3人称複数現在形の1つ syndon は,印欧祖語 *-es からの歴史的な発展形である synd や synt という補充形に,過去現在動詞 (preterite-present_verb) の現在複数屈折語尾 -on を加えたものである.本来的に形態的類推を寄せつけないはずの語幹に,形態的類推による屈折語尾を付加した興味深い例である.これは,上で触れた (2), (3) の反例を提供する.
4つ目は,"the creation of a new regular inflection on the basis of suppletion" である.古英語 bēon の1人称現在単数形の1つ (e)am は,Anglia 方言では語尾 -m の類推により非歴史的な bīom を生み出した.同方言ではこれが一般動詞に及び,非歴史的な1人称現在単数形 flēom (I flee) や sēom (I see) をも生み出すことになった.本来,補充形の内部にあって分析されないはずの -m がいまや形態素化したことになる.
Hogg (80--81) は,以上のように補充法の語彙的,形態的な注目点を明らかにしたうえで,"[S]uppletion is not merely a linguistic freak which does no more than give a small amount of pleasure to a rather giggling schoolboy. . . . [S]uppletion is a dynamic process." と述べ,補充法研究の可能性を探りながら,論文を閉じている.
・ Hogg, Richard. "Regular Suppletion." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 71--81.
[2013-05-19-1], [2013-06-02-1], [2013-06-03-1]の記事を受けて,再び taboo の言語学的意義について.Brown and Anderson の言語学事典の "Taboo: Verbal Practices" の項を読み,taboo の言語学的な側面に新たに気付いたので,3点ほどメモしておく.
(1) 南アフリカの Sotho 語においては,女性が義理の父親の名前を口にすることは禁じられている.このような taboo は,Papua New Guinea の Kabana 語など他の言語にも見られる現象である ([2013-05-19-1]) .さて,この義父の名前が「旅人」を意味する Moeti だった場合,普通名詞としての moeti (旅人)も忌避されるようになるが,さらに eta (旅する),leeto (旅(単数)),maeto (旅(複数)),etala (訪れる),etile (旅した(完了形)),etisa (訪れさせる),etalana (互いに訪れ合う)など,その女性にとって忌避すべきと感じられるほどに十分な形態的関連がある一連の語句もともに忌避されるようになる.ここでは単なる音声的な類似以上に,形態的な関連というより抽象的,文法的なレベルでの類似性が作用していることになる.
(2) 同じく Sotho 語の例で,上記のような女性は,taboo とされている語を口にすることは許されないが,文字で書くことは許される.これは,書き言葉が話し言葉よりも間接的な機能を果たしていることを示唆する.各媒体のもつ語用論的な機能の差異を示す例として,興味深い.
(3) 中国語や日本語では,「死」との同音により「四」を忌み嫌う.部屋番号や祝いの席で四の数を避けるということは広く行なわれている.日本語の「梨」も縁起の悪い「無し」を連想させるとして,「有りの実」と言い換えることは「#507. pear の綴字と発音」 ([2010-09-16-1]) で見たとおりである.これらの背景には,同音異義という語彙の問題がある.同音異義は,程度の差はあれあらゆる言語に見られ,必ずしも taboo を招く間接的な要因となっているわけではないが,中国語や日本語に特に同音異義が多い点は指摘しておく必要がある.また,中国語の「死」と「四」は分節音としては同一だが声調は異なるということ,日本語の「梨」と「無し」もアクセントは異なるということは,同音異義の関連づけに際して,超分節的な韻律よりも分節音のほうが重視される傾向があるということを示唆する.これは,音韻や韻律の属する階層という理論的な問題に関わってくるかもしれない.
なお,Brown and Anderson の記事についている taboo に関する書誌は有用.
・ Brown, E. K. and Anne H. Anderson, eds. Encyclopedia of Language and Linguistics. 2nd ed. Elsevier, 2006.
[2013-05-19-1], [2013-06-02-1]の記事に引き続き,taboo について.今回は,taboo 語と同義語 (synonym) の関係に焦点を当て,その言語学的な意義を考える.
一般に言語には完全同義語は存在しない,あるいは非常に稀であるとされる.完全同義語とは1つの signifiant に対して2つ(以上)の singifié が結びつけられている記号のあり方を指す.学術用語や技術用語などに見られることはあるが,日常語彙では非常に珍しい.完全同義語は習得に余計な負担がかかると考えられるから,ほとんど存在しないことは理に適っている.
しかし,語彙交替が比較的頻繁である言語において,新形と旧形のペア,あるいは2つの新形のペアが,同一指示対象を指しながら共存し続けるという例がないわけではない.言語において語彙交替が頻繁な状況というのは,多数の言語との濃密な混交によるものなどが考えられるが,もう1つ考えられるのは,昨日の記事「#1497. taboo が言語学的な話題となる理由 (2)」 ([2013-06-02-1]) で取り上げた Twana 語にみられるような taboo の習慣と関係するものである.
Suarez は,アルゼンチンの Santa Cruz 州で話されている Chon 語族の Tehuelche 語に,異常なほど多くの完全同義語が存在するという事実を報告している(Ethnologueによると,同語族の Mapdungun と言語的に同化しているという.こちらの言語地図を参照 *)."head", "hair", "spoon", "kind of vulture", "gull", "knife", "horse", "dog" などの日常語に,2つ以上の完全同義語が存在するという.完全同義語であることを示すには,生起環境,denotation (明示的意味),connotation (含蓄的意味),register (使用域)などを詳細に検討する必要があるが,この点で Suarez (193) は説得力のある数点の議論を展開しており,これらが完全同義語であることは受け入れてよさそうだ.では,なぜ Tehuelche には,通言語的に稀とされる現象が観察されるのだろうか.
背景には,あだ名の習慣と死者の名前に関する taboo の習慣がある.Tehuelche では個人にあだ名をつける習慣が広く行なわれており,例えば太った女性を「大瓶」と呼ぶ如くである.ある人が死ぬと,1年間の服喪のあいだ,本名とともにあだ名も taboo の対象となる.本名は共時的に意味が空疎だが,あだ名は一般の語を基体にもつ派生的な表現として有意味であるから,後者の派生元の語を一般的に用いることができなくなるいうのは不便である.そこで代替語が生み出されることになる.例えば,「犬」をあだ名にもつ人が亡くなると,「犬」の語は使用禁止となり,代わりに「嗅ぐもの」などの表現が用いられることになる.
だが,服喪が終わっても,新表現「嗅ぐもの」が犬を意味する語として引き続き使われてゆくということもあるだろう.やがて「嗅ぐもの」が犬を意味する語として一般的に用いられるようになると,もはや語内の形態分析,意味分析がなされなくなり,直接的に犬を指示する語として定着するだろう.つまり,ここでは意味変化が生じたことになる.
このように taboo の習慣に動機づけられた語彙交替と意味変化が何度となく生じ,「犬」を表わす数々の表現が盛衰する.そのなかで,いくつかのものは長く生き残り,完全同義語として並存するという状況が生じる.通常,2つの完全同義語が現われると,一方が消えるなり,双方が connotation を違えるなりして完全同義語状態が解消されるものだが,文化的な要因により語彙の盛衰がとりわけ激しい Tehuelche にあっては,事情は異なるようだ.
語彙交替,意味変化,完全同義語の形成と継続 --- これらの語彙的,意味的な変化を促す文化装置として,Tehuelche の taboo はすぐれて言語学的な話題を提供している.
・ Suarez, J. A. "A Case of Absolute Synonyms." International Journal of American Linguistics 37 (1971): 192--95.
「#1483. taboo が言語学的な話題となる理由」 ([2013-05-19-1]) に引き続いての話題.北米の西海岸,California から Alaska にかけての地域では,先住民による Salish 諸語が話されている(Ethnologueによる言語地図を参照 *).そのなかに,ワシントン州西部の the Hood Canal 地域で話されている Twana 語という言語がある.この言語(および少ない証拠が示すところによれば近隣の海岸部の他の Salish 系言語)では,世界の諸文化にしばしば見られるように,死者の名前に関しての taboo がある.Twana の人名には,幼名・あだ名と成人名が区別されるが,taboo が適用されるのは成人名のみである.成人名は持ち主が死ぬと taboo となり,親族の別の一員がその成人名を採用するまで効力が持続する.
ところが,Twana には死者の成人名の taboo と関連して,もう1つの2次的な taboo が生じうる.とりわけ死者が身分の高い家系の者であるとき,遺族は,その成人名と音声的に類似する別の語の使用を禁忌することを公言する機会をもつのだ.それは,葬式の後しばらくたった後に,村人たちを招いての宴会儀式の形を取る.その儀式では,贈り物を渡すなどしたあと,taboo となるべき語が発表され,その代替語が提案されるのである.
この2次的な taboo は,儀式に招かれた客の全員に適用されるほか,死者や遺族の社会的な地位に応じて,さらに広い共同体へ広がる可能性がある.海岸部の Salish 諸語は言語的に互いに不均質であり,細切れした様相を帯びているといわれるが,これは taboo に基づく語彙交替が毎回異なる範囲で適用されるからではないかとも考えられている.
具体例を1つ挙げると,1860年代に生まれた Twana 話者によれば,xa'twas という名の男性が死んだ後,儀式が開かれて xa'txat (mallard duck) が taboo となり,代替語として hɔ'hɔbšəd (red foot) が用いられるようになったという.この語彙交替はほぼ完全であり,1940年にはもともとの xa'txat はほとんどの話者に忘れ去られていたという(この点で,[2012-12-25-1]の記事「#1338. タブーの逆説」で例示した頑迷な taboo とは異なる).代替語は上述の "red foot" のように派生や複合による記述的な表現となることが多く,Twana には一般名詞で複数の要素に分析できるものが少なくないことから,これらの名詞も taboo とそれに伴う言い換えにより定着したものである可能性が高い.
この Twana の taboo のもつ言語学的な意義は,[2013-05-19-1]でも述べたように,語彙交替を伴うという点だ.新しい語が導入され,古い語は忘れ去られる.このことは,Swadesh の提案した「#1128. glottochronology」 ([2012-05-29-1]) の手法の正当性に大きな疑問を投げかける.Swadesh は,長い期間で見ると語彙交替は一定の速度で起こるということを計算の前提としているが,Twana のように語彙交替が文化の装置として機能している場合には,その前提は成り立たないはずである.実際,Swadesh は細切れな Salish 諸語の語彙を言語年代学の手法で分析したが,そこで出された諸言語間の分岐年代は不当に時間を遡りすぎている可能性が高い.Twana のような独特な taboo 文化は確かに稀だろうが,言語における一定速度の語彙交替という前提を真剣に疑うべき理由にはなる.
以上,Elmendorf を参照して執筆した.
・ Elmendorf, W. W. "Word Taboo and Lexical Change in Coast Salish." International Journal of American Linguistics 17 (1951): 205--08.
taboo (禁忌)は,ある社会において規定された「べからず集」であり,慣習,振る舞い,言葉遣いにかかわるものである.言葉としてのタブーは,慣習や振る舞いとしてのタブーと同列あるいは延長と考えられ,言語学の話題としてはあくまで周辺的なものと捉えられるかもしれない.しかし,言葉としてのタブーは,一般に思われている以上に言語学的な現象である.
まず,言葉としてのタブーは,言語記号 (signe) の形をとっている.忌避されるのは,signifiant と signifié の結束した記号そのものであるということだ.例えば,タブー視されやすい意味領域として性(交)があるが,英語では,それについて話題にすることはタブーではないし,intercourse などの語を口にすることもタブーではない.ところが,通常 f---ck は強く忌避される.タブーは signifié のみが問題なのではなく,それと signifiant が分かちがたく結びついた signe という単位にかかわる問題,すなわちすぐれて言語的な現象であることがわかる.
次に,ある語がタブーになると,婉曲的な代替語が用いられることが多いという事実がある.語彙的な drag chain とでも呼べる現象だ.タブーは,新たな語の出現に貢献するという点で,確かに言語的なインパクトを有する言語的な現象ということになる.例えば,Papua New Guinea の Kabana 語では,義理の父など姻戚関係にある者の名前を口にすることはタブーとされている.一方,この言語文化において人名は典型的に通常の名詞である.すると,例えば姻戚関係にある者がある種の魚を表わす urae という語にちなんで Urae というという名をもつ場合,一般名詞としての urae をも口にすることができなくなってしまう.それでは不便なので,代わりにその魚を指示する語としてタロイモを意味する moi が用いられる,といった具合だ (Wardhaugh 249) .
別の例としては,「#1362. なぜ言語には男女差があるのか --- タブー説」 ([2013-01-18-1]) で触れたズールー語 (Zulu) の例がある.ズールー語では,妻が義父とその兄弟の名前を呼ぶことは厳格なタブーであり,その名前に似た語や,その名前に含まれる特定の音をも忌避しなければならない.例えば,/z/ が忌避される音となると,amanzi (水)という語も忌避されねばならず,水を表わす代替語として amandabi などが用いられる (Trudgill 67) .
これらの例は,その文化に属さない者にとっては実に具合の悪い不合理な慣習に思えるが,そもそもタブーという現象は,それぞれの文化に独自の思考に基づいた慣習であり,非科学的であることも多い.頭では非科学的とわかっていても,それを意図的に取り除くことは難しいのがタブーである.
最後に,タブーの効果は言語をまたいで伝染することが知られている.北米先住民の Nootka 語を母語とする女性は,英語を話すときに such を使いたがらないという.理由は,Nootka 語ではそれが "vagina" を表わす語だからである (Trudgill 20) .同様に,Oklahoma 州の先住民によって行なわれている Creek 語の話者は,fákki (soil), apíswa (meat),apíssi (fat) などの発音が英語におけるタブー語を想起させるという理由で,避けたがるという (Wardhaugh 250) .
タブーは,文化と言語の関係を考える上で,重要な話題である.
・ Trudgill, Peter. Sociolinguistics: An Introduction to Language and Society. 4th ed. London: Penguin, 2000.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
「#1438. Sumer is icumen in」 ([2013-04-04-1]) で,中英語の有名な歌詞を紹介した.その8行目に uerteþ という動詞が現われる.
Bulluc sterteþ· bucke uerteþ
ここでは「雄牛が跳びはね,雄鹿が屁をひる」という動物たちの春の喜びが表わされているのだが,対応する現代英語の fart は,今では下品で俗な語であり,通常は避けられる four-letter word である.例えば,手元にある OALD8 によれば,"[intransitive] (taboo, slang) to let air from the bowels come out through the anus, especially when it happens loudly" とあり,婉曲表現として "to break wind" を挙げている.他のどの学習者用英英辞書にも "impolite", "informal", "not polite", "rude", "very informal" などのレーベルが貼られており,OED でも "Not now in decent use" とある.
しかし,"Not now" ということは,古くは必ずしもそうではなかったことを示唆する.確かに Sumer is icumen in のこの箇所で下品な歌詞を意図したとは読みにくく,むしろ対句として sterteþ に匹敵する健全な(?)威勢のよさを表わすものと読みたい(南部あるいは中部方言を示唆する語頭の有声音 /v/ も感じが出ていてよい).MED では ferten (v.) の初例がこの箇所となっており,名詞 fert (n.) の初出は1世紀半遅い14世紀末のことなので,本例は英語史上初の,輝かしい,かつ下品な含意をもたない fart の例ということになる.
13世紀に初出した fart が,どの段階で下品な含意をもち始めたのかを知るためには,各時代における用例や分布を調査する必要があるだろう.Crystal (108) によれば,お上品な19世紀のヴィクトリア朝ではタブー視されていたということであるし,OED の用例では少なくとも17世紀に f---'t という伏せ字が1例見られる.
HTOED (Historical Thesaurus of the Oxford English Dictionary) によれば,類義語の初出は以下の通り.fart (c1250), let (†let flee) a fart (14..), fist (c1440), †to let a scape (1549), to break wind (1552), †crepitate (1623), †crack (1653), poop (1689), roar (1897) .現在,最も普通の婉曲表現 to break wind は近代英語期になってからである.現代英語における類義語は,hyperdictionary 辺りをどうぞ.
昨日の記事「#1361. なぜ言語には男女差があるのか --- 征服説」 ([2013-01-17-1]) に引き続き,言語の男女差の起源について.
Trudgill は,征服説に懐疑的な立場を取りながら,次に Jespersen の提起する「タブー説」を紹介する (66) .Jespersen は,カリブ人の男性は戦いに出ると,大人の男性のみが使うことを許されるいくつかの語を使うことがあったことに注目した.女性や未熟な男性にとってはその語群はタブー (taboo) であり,代用表現が生み出されることとなった.これが,その語彙の男女差の起源だろうという.
同様の例は,ズールー語 (Zulu) からも例証される.ズールー語では,妻が義父とその兄弟の名前を呼ぶことは厳格なタブーとして禁じられており,その名前に似た語や,その名前に含まれる特定の音すら忌避しなければならないという習慣がある.例えば,/z/ が忌避されるべき音だとすると,「水」を表わす通常の amanzi という語は避けられ,代用語として amandabi などが用いられるというような次第だ.このような慣行が,その言語共同体の女性のあいだに一般化すれば,語彙の男女差が生まれることになるだろう.
しかし,このタブー説が世界に広く見られる一般的な男女差の説明となりうるかというと,Trudgill はこれにも懐疑的である.Trudgill は,第1に,タブーに由来する男女差がどのように言語共同体の女性にあいだに一般化しうるのかが不明であるし,第2に,語彙以外に見られる男女差で,タブー由来ではないことが明確な例が多くあると指摘する (67) .例えば,アメリカ・インディアンのマスコギ語族 (Muskogean) の コアサティ語 (Koasati) には男女差を示す言語項目があるが,これは習慣的に男女間で使い分けられているにすぎず,異性が口にすることがタブーであるわけではないことがわかっている.このようなケースでは,男性の言語でのみある革新が生じたが,女性の言語は保守的に古形を保ったとして十分に説明できるものがあるという.
女性の言語が保守的(かつ規範的)であるという考察は,より一般的にいって,興味深い.というのは,英語に関する多くの社会言語学の調査が,女性の言語の保守性を実証しているからだ.一般的に言語の男女差を解く鍵は,征服説でもタブー説でもなく,言語変化に対する態度の男女差にあるのではないか.明日の記事で,この提案について考察する.
・ Trudgill, Peter. Sociolinguistics: An Introduction to Language and Society. 4th ed. London: Penguin, 2000.
忌み言葉とも呼ばれる言語上のタブー・禁忌 (taboo) には,逆説的な性質がある.定義上,タブーは使用が避けられる表現なのだから,人々はそれを聞くこともないはずである.聞くことがなければ,忘れてしまい,いずれその言語から失われてゆくはずだ.しかし,そうはならない.これはなぜだろうか.
その理由は,タブーが実際にはむしろよく使用されているからである.タブーとは,規範として使用が避けられるべき表現にすぎず,現実には頻繁に使用されている.西江 (165) のいうように,「日常的に身近だからこそタブーになっている」のだ.タブーの対象とその表現が身近だからこそ,忘れられにくいし,失われにくいのである.逆にいえば,自分との関係の薄いもの,珍しいものはタブーにならないということだ.
タブーの生命力はかくもすさまじい.タブーの生命力を示すために,タブー語と,それと同じ発音をもつ語との関係を考察しよう.英語には「ウサギ」を表わす coney という語があるが,これは俗語で女性器を表わす語と同形である.これにより,「ウサギ」としての coney は避けられるようになった.同様に,cock, ass もタブーとして性的な含意をもつため,アメリカ英語では「雄鶏」「ロバ」の意味としては,rooster, donkey といった別の語が用いられるようになった.重要なのは,同音異義衝突 (homonymic clash) を解消するのに,タブー語が消えていったのではなく,ライバルの同音異義語が消えていったということである.Bloomfield (396) は,ここにタブー語の生命力を見いだす.
In such cases there is little real ambiguity, but some hearers react nevertheless to the powerful stimulus of the tabu-word; having called forth ridicule or embarrassment, the speaker avoids the innocent homonym. It is a remarkable fact that the tabu-word itself has a much tougher life than the harmless homonym.
タブーは,毒々しければ毒々しいほど,むしろ長く生き続けるのである.憎まれっ子世に憚る.
・ 西江 雅之 『新「ことば」の課外授業』 白水社,2012年.
・ Bloomfield, Leonard. Language. 1933. Chicago and London: U of Chicago P, 1984.
[2012-03-25-1], [2012-03-26-1]の記事で,人間の言語はなぜ音声に依存しているのかという問題について考えた.音声であるがゆえの長所や欠点を挙げてきたが,今回は,長所とも欠点ともいえない,音声であるがゆえの言語のもつ重要な特徴を1つ示したい.以下の記述には,鈴木 (26--28) の考察に拠るところが多いことを断わっておく.
昨日の記事で,人間にとって,音声信号は他の物理信号に比べて発信するのが著しく楽であるという点に触れた.発音は,呼吸や摂食という生理機能のために発達してきた器官を2次的に利用して生み出すものであり,「廃物利用」のたまものである.呼吸のような自然さで生み出されるというこの特殊事情により,音声言語は「第三者的な客体」という独特な性質を帯びる.独特というのは,通常であれば信号の発信者と受信者のあいだには,必要とされるエネルギーの点で不均衡が見られるものだからだ.例えば,匂い通信であれば,発信者は大きなエネルギーを消費して体から匂い成分を分泌しなければならないが,受信者はそれを嗅げばよいだけであり,ほとんどエネルギーを必要としない.ところが,音声言語による通信では,発信に要するエネルギーが限りなく少なくすむので,発信者と受信者の立場の差がほとんどないのである.すると,「オレが音声を出したはずだ,しかし出したという意識はない」という具合になる.音声は,自分が出した自分の分身であるにもかかわらず,一旦出てしまえばよそ者のように客観視できる存在へと変化する.はたして,話し手と聞き手のあいだには「第三者的な客体」たる音声言語が漂うことになる.
鈴木によれば,人はことばを第三者的な客体ととらえているからこそ,言霊思想なるものをも抱くに至るのではないかと示唆している (27) .ことばに魂が宿っていると信じるためには,始めにことばが憑り代(よりしろ)として客体化されていなければならないからだ.ここで思い出すのは,文化的タブーだ.タブーとなる事物は,しばしば2つの異なる世界の境界線上に漂っており,どちらともつかない世界に属する畏怖すべき存在である.人間に似ているが人間ではない神,鬼,妖精,妖怪,魔女.自分(の分身)でありながら自分ではない排泄物.どの世でも,人々はこのような中間的な存在に言いしれぬ畏怖を抱き,それをタブーとしてきた.ことばそのものが畏怖すべき存在であり,そこには言いしれぬ力が宿っているのだとする信念が言霊思想だとすれば,ここに「第三者的な客体」説の関与が疑われる.
鈴木はまた,ことばとその指示対象との関係は直接的なものではなく間接的なものであるという意味論上の説も,この「第三者的な客体」説と関係があるだろうと述べている (27) .
「第三者的な客体」説が含意するもう1つのことは,言語の主要な機能のうちのメタ言語的機能に関するものである([2010-10-02-1]の記事「#523. 言語の機能と言語の変化」を参照).同説によれば言語は客体なのだから,それ自身を話題の対象とするための言語使用が発達することは至極当然ということになる.
最後に,ことばが第三者的な客体であるということは,ことばが独立した有機体であるという考えにもつながるだろう.19世紀の比較言語学で信じられた言語有機体説や,20世紀でも Sapir の drift (偏流)に潜んでいる言語観の根本には,この説が関与しているのかもしれない.
・ 鈴木 孝夫 『教養としての言語学』 岩波書店,1996年.
昨日の記事[2010-12-13-1]で death と dead について話題にしたので,今日は動詞の die について.英語史ではよく知られているが,die という動詞は古英語には例証されていない.厳密にいえば古英語の最末期,12世紀前半に deȝen として初めて現われるが,事実上,中英語から現われ出した動詞といっていい.明らかに dēaþ や dēad と語源的,形態的な結びつきがあり,いやそれ以上にこれら派生語の語根ですらある動詞が,古英語期に知られていないというのは不自然に思われるのではないだろうか.
古英語で「死ぬ」という意味はどんな動詞によって表わされていたかというと,steorfan である.形態的には後に starve へと発展する語である.古英語から中英語にかけては,この語が広く「死ぬ」一般の意味を表わしていた(現代ドイツ語の sterben 「死ぬ」と比較).
広く受け入れられている説に従うと,英語は古英語後期から中英語初期にかけて,古ノルド語の動詞 deyja "die" を借用したとされている.英語で die が一般化してくると,古英語以来活躍してきた starve は徐々に「死ぬ」の意味では使われなくなり,「飢え死にする」へと意味を特殊化 ( specialisation; see [2009-09-01-1], [2010-08-13-1] ) することによって生きながらえることになった.
英語における die の出現は,一般的には上記のように語られる.しかし,このストーリーには謎が多い.上でも触れたように,古英語期から形容詞と名詞では明らかに die の派生語を使っていながら,動詞の die そのものが現われないのは妙ではないか.「死ぬ」は多くの言語で婉曲表現 ( euphemism ) の主題となる典型例であることは確かだが,もし言語的タブー ( linguistic taboo ) であるのならば,なぜ形容詞と名詞は許されたのか.また,古英語でタブーであったとしても,中英語ではなぜ「解禁」されたのか.古英語のみならず他の西ゲルマン諸語や Gothic でも動詞形は早くから(弱変化化しながら)失われていったようだが,古ノルド語ではなぜ保存されていたのか(しかも強変化動詞のままで).
話題が「死」だけに,謎めいたこと,変則的なことが多いということだろうか.古代日本語の「死ぬ」も「往ぬ」とともになにやら怪しげなナ行変格活用を示していた・・・.
「英語話者は北欧語の助けなしでは die することができない」ことについては,[2010-04-02-1]の Jespersen の引用を参照.
[2009-10-11-1]で世界の言語における T/V distinction の類型を簡単に紹介した.
英語では,中英語期に thou (親称)と you (敬称)により相手との社会的関係を標示する手段が存在したが,後に you に一本化されてからは区別する手段がなくなっている.thou でなく you の方に一本化したということは,相手との距離を大きく取る方向へ舵を切ったということになるだろう.
比較しておもしろいのは,ドイツ語の T/V distinction の通時的変遷である.現代ドイツ語では,二人称親称代名詞は du,二人称敬称代名詞は Sie として区別しているが,かつてはそうではなかったという.最初は二人称敬称代名詞として二人称複数形 Ihr を転用していたらしい.つまり,英語で本来的に二人称複数形であった you を敬称として転用したのと同じ状況があったことになる.
ところが,次に三人称単数男性形 Er が二人称敬称代名詞として使われるようになった.そして,さらに三人称複数形 Sie がその役割を担うようになり,現在に至っている.英語でたとえれば,二人称敬称代名詞が you → he → they と変遷してきたということになる.ドイツ語では,二人称敬称代名詞を表す形態こそ変化してきたが,その機能は失わずに保ってきたということになろう.
上記のように,英語とドイツ語とでは,二人称敬称代名詞に関して異なる歴史を歩んできたわけだが,T/V distinction という語用論的機能は,いずれの言語でも,どうやら扱いづらいもののようだ.二人称単数(=相手)を名指しするやり方は,日本語ならずとも,やはり神経を使うものなのだろう.
ドイツ語で,Ihr と複数形によって「あなた」を間接的に指していたはずが,使われ続けるうちにその間接性が薄まり,結局は直接的に指しているのと同じくらい生々しい効果を生んだ.そこで再び新しい間接的で丁寧な「あなた」として Er を使い出したが,これもそのうちに手垢がついて,直接性が感じられるようになる.そこで,次に Sie を持ってくる・・・.これは「敬意逓減の法則」と呼ばれるが,この調子でいくと,永遠に新しい語が現れては滅ぶということを繰り返すことになりそうだ.英語では,この輪廻を断ち切って,いわば涅槃の境地に達したということになるのかもしれない.
文化人類学的には,「人を呼ぶ」(=相手の名指し)は「相手に触れる」のと同様のタブー性を有しているとされ,多くの言語文化で敬避的呼称が発達しているという.[2009-10-11-1]の結論の追認することになるが,涅槃の境地に達した英語と,煩悩を抱き続けている日本語を含めた多くの言語とでは,呼称に対する言語文化の差は実に大きいのだなと改めて感じさせられる.
・滝浦 真人 「呼称のポライトネス」 『月刊言語』38巻12号,2009年,32--39頁.
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