ジュニア向けの新書をよく読む.一流の研究者が分野のエッセンスを示してくれることが多く,学びの効率がよいからである.その分野が,自分にとって入門の分野であれ,ある程度馴染みの分野であれ,気づきが多い.池上俊一(著)『王様でたどるイギリス史』もそのような一冊である.
同書ではイギリス史のエッセンスが多々示されているが,なかでも近代的な「イギリス国民」のアイデンティティが形成された時期と経緯についての1節が印象に残っている.pp. 125--26 より引用する.
「イギリス国民」の形成
リンダ・コリーという現代イギリスの歴史家は,一七〇七年のイングランドとウェールズへのスコットランド合併を定めた合同法からヴィクトリア時代が正式に始まる一八三七年までの歴史を扱い,この時期に「イギリス国民」のアイデンティティが形成されたと述べています.
そしてこの国民意識の形成は,何よりフランスとの間で約一三〇年もの間,断続的かつ熾烈な戦争(スペイン継承戦争,オーストリア継承戦争,七年戦争,ナポレオン戦争その他)に代表される,根深い敵対感情に負っているとしています.
つまりフランスとの対立がイギリス人の国民意識を創るとともに,イングランド銀行,効率的で全国的な財務システムおよび巨大軍事機構を創ったとも述べ,さらにこのフランスとの敵対が同時にプロテスタント対カトリックの宗教戦争でもあり,単に政治家や帰属の問題ではなく,大衆の同意を得て彼らの積極的協力で危機に対処するしかなくなったことが,この時期にグレートブリテンの住民が一つの「国民」となった根本的要因だ,としています.
文化的にも民族的にも不均質,いつも不安定で揺れ動いていたアイデンティティが,やっと「世界最強のカトリック国に対抗して,生き残りをかけて戦っているプロテスタントとして自己規定した」のです.これはより長いタイムスパンで考えるといささか相対化しなくてはならないかもしれませんが,この時期の仇敵がフランスであり,近代イギリス文化・社会が,反フランス文化・社会というフランスの陰画にほかならなかったというのは,その通りでしょう.以後イギリスは,フランスと対峙しつつ植民地戦争に勝利し,一九世紀には「パックス・ブリタニカ」(イギリス支配による平和),大英帝国を築いていきます.
国民と言語を軽々に比較することはできないが,イギリス国民のアイデンティティのみならず,近現代英語の社会的位置づけもまた「長い18世紀」にフランス(語)との対決と勝利を通じて決定されてきたとみることも可能かもしれない.
この長い18世紀の英仏対立は「第2次百年戦争」と呼ばれることもあるが,歴史的には3--4世紀ほど前の中世末期の「第1次百年戦争」 (hundred_years_war) の尾を引いていることは間違いない.そして,英語とフランス語の交流と対立の歴史も,同じように中世後期にさかのぼる.英語が反フランス語というフランス語の陰画であるという見方も一考する価値がありそうだ.
・ 池上 俊一 『王様でたどるイギリス史』 岩波書店〈岩波ジュニア新書〉,2017年.
昨日の記事「#4825. 英米史略年表 --- 『英語の教養』より」 ([2022-07-13-1]) で紹介した大井光隆(著)『英語の教養』(ベレ出版,2021年)とよく似た趣旨の本をもう1冊紹介したい.
同じく2021年に出版された,亀田尚己・中道キャサリン(著)『起源でたどる日常英語表現事典』(丸善出版)である.英語に関わる文化・歴史上の各キーワードを1ページで簡潔に解説してくれる事典だ.とりわけ単語の語源や使い方に焦点が当てられているが,文化・歴史的背景についても半ページほど割かれている.以下に章立てを示そう.
第I部 歴史・文化・制度に関する英語の起源
1 古代史・英米史にまつわる英語
2 聖書・文学にまつわる英語
3 権威・身分制度にまつわる英語
4 教育制度にまつわる英語
第II部 宗教・戦争・政治に関する英語の起源
1 宗教にまつわる英語
2 戦争にまつわる英語
3 政治・法律にまつわる英語
第III部 経済・商業・職業に関する英語の起源
1 経済活動にまつわる英語
2 契約にまつわる英語
3 両替・銀行・為替にまつわる英語
4 貿易にまつわる英語
5 工業・農業・職業にまつわる英語
第IV部 家庭・身体・道具に関する英語の起源
1 労働・運動・娯楽にまつわる英語
2 身体・食事・飲み物にまつわる英語
3 道具・乗り物・動物にまつわる英語
第V部 自然・気象・季節に関する英語の起源
1 海陸・地形・地勢・神霊にまつわる英語
2 気象・季節・降雨・日照にまつわる英語
3 天体・暦・時間にまつわる英語
第VI部 外国語に由来する英語の起源
1 ラテン語由来の英語
2 フランス語由来の英語
3 その他の外国語由来の英語
合計286の単語・表現が見出しに挙げられ解説されているが,パラパラめくって眺めているだけで飽きない.例えば,最後の第VI部の「外国語に由来する英語の起源」からの単語を挙げてみると,ラテン語由来として A.D., Alma Mater, Bona fide, Candle, Confidence, De facto, e.g., etc./et cetera, i.e., Mile, per, per cent/percent, v.v/vice versa, Verse が,フランス語由来として Attaché, Connoisseur, Gourmet, Novice, Vogue が,その他として Chocolate, Kindergarten, Magazine, Pyjamas/Pajamas, Tea が扱われている.
・ 亀田 尚己・中道 キャサリン 『起源でたどる日常英語表現事典』 丸善出版,2021年.
昨年出版された大井光隆(著)『英語の教養』(ベレ出版)をパラパラ眺めて楽しんでいる.文化的なキーワードを挙げつつ1テーマを1ページで解説する,手軽に読める英米文化誌の本となっている.どこから読んでもためになる.章立てを示そう.
第1章 英米の歴史
第2章 年中行事と祝日
第3章 ギリシャとローマの神話
第4章 聖書とキリスト教
第5章 伝説と民間伝承
第6章 生活のことば
第7章 スポーツの文化
第8章 架空の人物と民間のヒーロー
第9章 動物の世界
第10章 植物の世界
第1章を開いたところに「英米史略年表」が掲げられている (10--11) .英米史の全体像を大づかみするには,細かい年表よりも,このくらいの略年表が便利である.要点だけを押さえた英米史年表として以下に記しておきたい.
(紀元前) | |
600年頃 | ブリテン島に大陸からケルト人が移住 |
55年~4 | ローマの将軍カエサル,ブリテン島に侵攻(~54) |
このころ,イエス・キリスト誕生 | |
(紀元後) | |
43 | ローマによるブリテン島支配が始まる |
409 | ローマ軍,ブリテン島より撤退 |
597 | ローマの宣教師アウグスティヌスによるキリスト教の布教始まる |
800 | このころからバイキングの侵攻が始まる |
871 | アルフレッド王即位 |
1016 | デンマーク王クヌート (Canute) がイングランドを征服,王位に就く |
1066 | 「ノルマン征服」で,ウィリアム1世即位 |
1215 | ジョン王,マグナカルタを認める |
1337 | 英仏間の「百年戦争」始まる (~1453) |
1348 | 黒死病,猛威を振るう |
1455 | 「ばら戦争」始まる (~85) |
1509 | ヘンリー8世即位 (~47) |
1534 | 国教会 (Church of England) 成立,ローマ・カトリック教会と絶縁 |
1558 | エリザベス1世即位 (~1603) |
1588 | ドレイク,スペインの無敵艦隊を破る |
このころ,劇作家シェイクスピアが活躍 | |
1600 | 東インド会社が設立され,東洋との直接貿易始まる |
1607 | イギリス人が初めてアメリカに入植し,現在のバージニアに植民地ジェームズタウン (Jamestown) を設立 |
1620 | ピルグリム・ファーザーズがアメリカに移住 |
1640 | ピューリタン革命 (~60) |
1649 | チャールズ1世が処刑され,イングランド共和国成立 |
1660 | 王政復古 (the Restoration) で,チャールズ2世即位 (~85) |
1665 | ロンドンで黒死病が大流行 |
1666 | ロンドン大火で,市街の80%が消失 |
1688 | 名誉革命 (the Glorious Revolution) 始まる (~89) |
1707 | イングランドとスコットランドが合同し,グレートブリテン連合王国が成立 |
1775 | アメリカ独立戦争始まる |
1776 | アメリカ独立宣言が採択される |
1789 | フランス革命勃発 |
1801 | イギリス,アイルランドと合同 |
1815 | ウェリントン,ワーテルローの戦いでナポレオン軍を破る |
1830 | リバプール・マンチェスター間に鉄道が開業し,鉄道時代がスタート |
1837 | ビクトリア女王即位 (~1901) |
1840 | アヘン戦争勃発 (~42) |
1845 | アイルランドで大飢饉 (~46) |
1851 | ロンドンで第1回万博(ロンドン大博覧会)開催 |
1861 | アメリカで南北戦争始まる |
1914 | 第一次世界大戦始まる (~18) |
1939 | 第二次世界大戦始まる (~45) |
1952 | エリザベス2世即位 |
1960 | アメリカで公民権運動 |
1965 | ベトナム戦争 (~75) |
1989 | 「ベルリンの壁」崩壊 |
2019 | 世界各地で「新型コロナウィルス感染症」 (COVID-19) が発生 |
・ 大井 光隆 『英語の教養』 ベレ出版,2021年.
「#4698. 池上俊一(著)『ヨーロッパ史入門 原形から近代への胎動』より「ゲルマンの習俗」について」 ([2022-03-08-1]) でも紹介した,岩波ジュニア新書からの池上著より.池上 (vii--viii) は「まえがき」においてヨーロッパの特質を,次のように指摘している.
ヨーロッパは地理的に画定された地域ではありませんし,ヨーロッパ人種やヨーロッパ語があるわけでもありません.ヨーロッパとは,ひとつの国家でもなければ,EU(欧州連合)のような政治的形成体でもなく,各時代において,それ以前の時代から遺贈された諸要素を使って,そのつど創られていく現在進行中の構成体であり統一体です.主導しているのは「文化」だと言えますが,その「文化」は,もちろん政治,経済,社会,宗教などと切り離せないものです.
本書では,ヨーロッパ諸国の共通性に力点がおかれます.しかしその共通性の背後にひかえる多様性が生み出す力学にも着目し,中小諸国や辺境の動向,非ヨーロッパ世界との関係にも注目するつもりです.なぜならヨーロッパの共通性は,多様性があってはじめて生きる体のもの,ヨーロッパ文化の豊かさ,普遍性は,それを時代ごとに交替で旗手として先頭に立って担う複数の文化,国民性にあるのであり,それらが対立しつつ連帯することによってこそ活力が生まれるからです.のっぺりと平準化されたヨーロッパには,魂がないと言ってよいと思うのです.歴史の進行を見れば明らかですが,ヨーロッパは中世における誕生から二〇世紀半ばまで,分裂と対立のくり返される衝突のなか以外には存在しなかったのです.
ヨーロッパの大きな鳥瞰図として,核心を突いており,とても分かりやすい構図である.歴史では,このようなマクロな鷲づかみこそがますます必要になってきていると感じる.
英語史も然り.詳細を知ったるその道の専門家が,歴史を大づかみして提示していくことの意義を考えさせてくれる.
・ 池上 俊一 『ヨーロッパ史入門 原形から近代への胎動』 岩波書店〈岩波ジュニア新書〉,2021年.
4月1日に『英語史新聞』創刊号が発行されましたが,早くも新年度号外が出ました(笑).khelf(慶應英語史フォーラム)の顧問である泉類尚貴さん(福島高専)による,選りすぐりの英語で書かれた英語史概説書3冊のカジュアルな書評です.「#4722. 新年度の「英語史スタートアップ」企画を開始!」 ([2022-04-01-1]) を受けての,皆さんの英語史の学び始めを応援するための号外発行です.
号外で推薦している3冊は,以下のものです.「#4727. 英語史概説書等の書誌(2022年度版)」 ([2022-04-06-1]) でも紹介している推しの概説書です.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
・ Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006.
・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.
本ブログの文章で推薦するだけでは推しが弱いと思い,泉類さんと Voicy 「英語の語源が身につくラジオ」 (heldio) にて対談してしまいました.「泉類尚貴先生との対談 手に取って欲しい原書の英語史概説書3冊」です.ぜひお聴きください.
泉類さんとの昨年度の Voicy 対談として,「対談 英語史の入門書」および「対談 英語史×国際英語」(2021年10月19日)も関連しますので,どうぞ.
西洋中世史家の池上俊一氏による『ヨーロッパ史入門 原形から近代への胎動』(岩波ジュニア新書)を読んでいる.専門家がかみ砕いて書いたジュニア向け本は良いものが多いが,本書もヨーロッパの本質を分かりやすくえぐっている.
著者は「文化としてのヨーロッパ」という捉え方をしており,10世紀末から12世紀前半にかけて成立したそのヨーロッパの構成要素は「ギリシャ・ローマの知」「キリスト教の霊性」「ゲルマンの習俗」「ケルトの夢想」の4点であると主張する (212--13) .
英語史との関わりでは,とりわけ「ゲルマンの習俗」の立ち位置に興味がわいてくる.文化としてのヨーロッパのなかで果たしてきた「ゲルマン」の役割は何か.これについて,池上 (40--42) より引用したい.
ここで,習俗や技芸について,ゲルマン人が何を「ヨーロッパ」に伝えたのかについても考えてみましょう.ヨーロッパの人々の大半がキリスト教に改宗するようになるのは,四世紀以来の布教家の努力の賜物でした.しかしそれで住民たちのそれまでの信仰のあり方や心性が一変したわけではありません.異教的習俗・信仰と,それを否認する教会当局との長い長い争い,つばぜり合いが,その後もずっと続くのです.
ゲルマン人たちは,自然を崇拝し,多神教を信じていました.彼らは,キリスト教に改宗してからも,じつは旧来の信心を守っており,いわば表面のメッキがかわっただけだったのです.聖人崇敬や聖遺物崇敬は,異教時代の大樹や巨石・泉信仰,それら自然物に宿る神々への帰依を,聖母マリアや他の聖人たちへの崇敬に置きかえたものでしたし,現にそうした樹木や巨石,泉などを破壊・除去した跡地に,教会が建てられたのです.また,キリスト教会暦,聖人暦などの暦も,異教の祭儀の時を置きかえたものでした.たとえばキリスト生誕を祝うクリスマスは,実はローマの「不敗の太陽」の祭儀の日の置きかえでした.
キリスト教会が,ゲルマン人の習俗でなにより問題視したのは,福音(キリストの教え)に背馳する迷信行為でした.それは後に「贖罪規定書」というジャンルの作品にまとめて規定されることになりますが,自然物への願かけ・呪い・占いや,神の全能を損なうような行為が非難され罰せられました.
しかしこれは,消えることのないマグマのように近代初頭まで地下にわだかまり,ときにおどろくような形で噴出します.〔中略〕「異端」や「魔女」はその典型ですが,多くは民俗伝統として,ふるまいや民話・迷信となって農村社会に残っていきます.
ほかに,直接キリスト教に背馳するものではない,ゲルマン由来の要素もありました.家族・氏族・部族のしくみや習俗は,とくに貴族社会・騎士社会のベースになっていった点で重要です.ゲルマン人たちの紛争解決法としての復讐行為や,ジッペの間での戦い・フェーデ(後述,一族の義務たる血讐)は,中世の半ば以降にも残りましたし,その背景にあるジッペの名誉観念も中世の貴族・騎士たちに伝わりました.王・首長の統率下に一般自由人男子が入り,さまざまな贈与を受け保護されるかわりに,主君に忠誠を誓い彼のために戦うという「従士制」は,中世の封建的主従関係の柱として使われます.
ようするに「ギリシャ・ローマの理知」とならんで「ゲルマンの習俗」も,その後,中世におけるヨーロッパの形成因となっていったわけです.
工芸品をはじめとする技術や耕作・冶金・乗馬・武器のあつかいなどの実践的な知識も彼らはもたらしました.そしてそれら以上に,「言語」が重要な寄与でした.ローマの共通語ラテン語にゲルマン諸語が混ざって,ヨーロッパの各国語ができあがっていくのですから.
引用の最後の部分に言語の話題が出てくる.もちろん英語も「ヨーロッパの各国語」の1つであり,まさに中英語期以降,ゲルマン語的要素とラテン語的要素の混交が激しく起こっていくことになったのである.
・ 池上 俊一 『ヨーロッパ史入門 原形から近代への胎動』 岩波書店〈岩波ジュニア新書〉,2021年.
『三田評論』2022年1月号 (no. 1262) に「時の話題」の企画として「“新書”で英語を学ぶ」 (pp. 36--41) が掲載されています.2020年から2021年にかけて英語新書ブームを巻き起こした3名の著者による3本の記事です(オンライン版ではまだ閲覧できないようです).
・ 北村 一真(杏林大学外国語学部) 「英語の読解で拡がる世界」 (pp. 36--37)
・ 井上 逸兵(慶應義塾大学文学部) 「タテマエから知る英語のわかり方」 (pp. 38--39)
・ 今井 むつみ(慶應義塾大学環境情報学部) 「英語を自由に使うための“スキーマ”の習得」 (pp. 40--41)
ブームとなった新書は各々以下の通りです.
・ 北村 一真 『英語の読み方 ー ニュース,SNS から小説まで』 中央公論新社〈中公新書〉,2021年.
・ 井上 逸兵 『英語の思考法 ー 話すための文法・文化レッスン』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2021年.
・ 今井 むつみ 『英語独習法』 岩波書店〈岩波新書〉,2020年.
これまでも日本人の英語学習熱は常に高かったといってよいですが,英語を学ぶための新書ブームがこのタイミングで来たというのはおもしろいことだと思っています.なぜなのでしょうか,たまたまなのでしょうか.この点について私も関心をもち,昨秋,井上先生とおしゃべりしました.Voicy の私のチャンネル「英語の語源が身につくラジオ」にて収録・配信しましたので,関心のある方はぜひどうぞ.
・ 「『英語の思考法』(ちくま新書)の著者,井上逸兵先生との対談」(9月17日放送)
・ 「対談 井上逸兵先生と「英語新書ブーム」を語る」(10月22日放送)
『三田評論』の記事のなかで,井上先生は「コロナで「おうち時間」が増え,コロナ前のインバウンド歓待のムードも遠い昔に思え,「英会話」よりもじっくり腰をすえて本を読むという人が広い世代で増えたのかもしれない」 (p. 38) と述べています.
英語の勉強と合わせて英語史の学習についても,じっくり腰をすえてみてはいかがでしょうか.
(後記 2022/03/03(Thu):上記の『三田評論』の記事がオンラインで自由に閲覧できるようになったようです.こちらからどうぞ.)
名古屋外国語大学の高橋佑宜氏より,ひつじ書房から先日出版された,田地野 彰(編)『明日の授業に活かす「意味順」英語指導 理論的背景と授業実践』(ひつじ書房,2021年)をご献本いただきました(ありがとうございます!).
「意味順」による英語指導法というものについては,不勉強で知識がありませんでしたが,「意味順」の文法観が固定語順をもつ現代英語のような言語にとってしっくりくるものだということが,よく分かりました.
英語史を専門とする立場からは,高橋氏の執筆した「第4章 英語史からみた『意味順』」をとりわけおもしろく読みました.固定語順をもたない古英語に「意味順」を適用すると,いったいどうなるのか.また,固定語順が芽生え,確立する中英語から近代英語にかけての動的な時代は「意味順」ではどうとらえられるのか.「意味順」を通時軸に乗せてみた理論的実験として読みました.
この第4章は,趣旨としては「意味順」論考ではありますが,実は英語の語順の歴史を短く分かりやすく概説してくれる「英語語順史入門」になっています.英語統語論の歴史は研究の蓄積も豊富で(というよりも豊富すぎて),なかなか概観を得られないものですが,よく選ばれた先行研究への言及が随所にちりばめられており,このテーマの入門として読むことができると思います.ちょうど別件で語順の歴史について書いていたこともあり,私にとってタイムリーでした.
語順問題を扱った hellog 記事として,以下を挙げておきます.他にも word_order の各記事をご参照ください.
・ 「#132. 古英語から中英語への語順の発達過程」 ([2009-09-06-1])
・ 「#137. 世界の言語の基本語順」 ([2009-09-11-1])
・ 「#2975. 屈折の衰退と語順の固定化の協力関係」 ([2017-06-19-1])
・ 「#3124. 基本語順の類型論 (1)」 ([2017-11-15-1])
・ 「#3125. 基本語順の類型論 (2)」 ([2017-11-16-1])
・ 「#3128. 基本語順の類型論 (3)」 ([2017-11-19-1])
・ 「#3129. 基本語順の類型論 (4)」 ([2017-11-20-1])
・ 「#3127. 印欧祖語から現代英語への基本語順の推移」 ([2017-11-18-1])
・ 「#3131. 連載第11回「なぜ英語はSVOの語順なのか?(前編)」」 ([2017-11-22-1])
・ 「#3160. 連載第12回「なぜ英語はSVOの語順なのか?(後編)」」 ([2017-12-21-1])
・ 「#3733.『英語教育』の連載第5回「なぜ英語は語順が厳格に決まっているのか」」 ([2019-07-17-1]) ・
・ 「#4385. 英語が昔から SV の語順だったと思っていませんか?」 ([2021-04-29-1])
・ 田地野 彰(編) 『明日の授業に活かす「意味順」英語指導 理論的背景と授業実践』 ひつじ書房,2021年.
・ 高橋 佑宜 「第4章 英語史からみた『意味順』」田地野 彰(編)『明日の授業に活かす「意味順」英語指導 理論的背景と授業実践」 ひつじ書房,2021年.87-113頁.
去る7月に,ちくま新書より井上逸兵(著)『英語の思考法 ー 話すための文法・文化レッスン』が出版されました.著者は私の慶應義塾大学文学部英米文学専攻の同僚です(井上さん,ご献本いただきましてありがとうございます!).
著者の井上氏には本日,私が6月から放送している「英語の語源が身につくラジオ」(heldio) に特別ゲストとして出演していただいています(←同僚としての役得に甘えました).新書についてのおしゃべりです.10分×2本の収録となっていますので,2本目もお聞き逃しなく! しかも,2本目の最後は5秒ほど時間が足りなくてお尻が切れています(泣).
日本語(文化)には厄介なタテマエとホンネがありハッキリとものを言いにくいのに対して,英語(文化)ではそういうものがないのでハッキリ主張することが好ましい.これは,日本人の英語学習者の多くが感じていることではないでしょうか.しかし,井上氏が本書で軽妙なオヤジギャグと豊富な用例により次々と明らかにしていくのは,そうではないということです.英語(文化)にもタテマエとホンネはちゃんとある.ただし,日本語(文化)のそれとは違った形で存在している,ということです.
では,どう違っているのかといえば,英語(文化)の基盤には「独立」「つながり」「対等」への志向があるということです.「個人として対等な関係を保ちながらつながりを求める」のが英語流ということですね.個性や独立心が比較的弱く,上下関係のつながりを重視する伝統的な日本語(文化)の発想とは,確かに大きく異なります.
私が英語史の観点から抱いた関心は,英語的な「独立」「つながり」「対等」への志向は,いつ生まれたのだろうかということです.中世まではさほど強くなかったように思われるからです.おそらく近代に入ってからではないかと.社会的上下関係を内包する2人称代名詞の you/thou の区別が解消していくのも,近代期(17世紀以降)だった事実が思い出されます.
本書の中心テーマは日英語文化比較やポライトネスといったところだと思いますが,英語学研究者としての著者の真骨頂は,副題の「文法・文化レッスン」に現われているように思われます.文法という言語学的な堅い代物にも,その担い手の社会に特有の文化や思考回路が色濃く反映されているのだという点です.
一方,本書はすぐに使える英語の用例が豊富で,実用書的に読むこともできます.実際,私も英語を話したり書いたりするときに,早速いくつかの語法を活用しています.You lost me. とか Let me share with you . . . . とか.ですが,褒められたときに Can you tell my wife that? と返すのは,私には歯が浮いて言えなさそうです.
笑いながら読める英語本です.ぜひご一読ください.
・ 井上 逸兵 『英語の思考法 ー 話すための文法・文化レッスン』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2021年.
日本英語英文学会30周年記念号として,こちらの本が出版されています(先日ご献本いただきまして,関係の先生方には感謝申し上げます).
・ 渋谷 和郎・野村 忠央・女鹿 喜治・土居 峻(編) 『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』 DTP出版,2020年.
上記リンク先より目次が閲覧できますが,英語学・英語教育学・英米文学の各分野から,重要なキーワード,トピック,テーマが厳選されています.ページがきれいに偶数で揃っていることからも想像できる通り,すべての話題がページ見開きで簡潔に記述されているというのが本書の最大の特徴だと思います.ありそうでなかった試みとして,この工夫には感心してしまいました.各々の記述は簡潔ではあるものの,他の文献への参照も多く施されており,卒業論文やレポートなどの研究テーマ探しにもたいへん役立つのではないかと思いました(私自身もさっそくゼミ生などに紹介しました).
英語学分野で取り上げられている話題を一覧すると,各著者の専門分野に応じて理論的なものから文献学的ものまで幅広くカバーされていますが,ここでは英語史の観点から2つほどピックアップしてみます.
野村忠央氏による「定形性」(§52)は,動詞の定形 (finite form) と非定形 (non-finite form) という用語・概念に関する導入となっています.英語史において動詞の現在形,接続法(あるいは仮定法),命令形,不定詞は形態がおよそ「原形」に収斂してきた経緯がありますが,形態が同じだからといって機能が同じわけではないことが理論的かつ平易に解説されています.また,形が常に一定で変わらないのに「不定詞」という呼び方はおかしいのではないか,という誰しもが抱く疑問にも易しく答えています.
定形とも非定形とも考えられそうな歴史上の「接続法現在」について,村上まどか氏が「仮定法原形」(§64)で取り上げているので,こちらも紹介します.I demand that the student go to school regularly. のような文における go の形態や関連する統語を巡る問題です.この問題についていくつかの参考文献を挙げながら解説し,この用法においては that 節が省略されにくいなどの興味深い事実を指摘しています.こちらも英語史上の重要問題です.
上記2つの問題と関連する hellog からの記事セットをこちらにまとめましたので,関心のある方はどうぞ.
本書で参照されている参考文献を利用して視野を広げていけば,よい研究テーマにたどり着く可能性があります.教育的配慮の行き届いた書としてお薦めします.
・ 渋谷 和郎・野村 忠央・女鹿 喜治・土居 峻(編) 『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』 DTP出版,2020年.
授業で英語ベースのピジン語 (pidgin) やクレオール語 (creole) の話しをすると,多くの反響がある.私たちが知っている標準英語とはあまりに異なっており,必ず「それ,英語?」という反応が返ってくるのだ.英語の一種のようでありながら英語でない,あるいは逆に,英語ではないのに何となく英語ぽい,という中間的な存在が好奇心を誘うのだろう.
本ブログでも,ピジン語やクレオール語については様々に扱ってきた.まず,入門編から応用編までを取りそろえたこちらの記事セットをお薦めしておこう.関連するすべての記事を読みたい方は,pidgin と creole をどうぞ.
ピジン語やクレオール語に関して書かれた本としては,英語史的な観点に立った入門編として,唐澤 一友(著)『世界の英語ができるまで』をお薦めする.英語史研究のトレンドともなってきている世界英語 (world_englishes) に焦点を当てた読みやすい著書である.
4月6日に立ち上げた「英語史導入企画2021」の一環として,毎日ゼミ生から英語史コンテンツがアップされてきている.昨日公開されたコンテンツが,ピジン語とクレオール語に関する「それ,英語?」である.上述の唐澤氏の授業と著書に影響を受けたという学生によるピジン語とクレオール語の導入コンテンツで,非常に易しく書いてくれた.英語史の観点からピジン語・クレオール語に洞察を加えている箇所はとりわけ重要.ぜひ皆さんもご一読を.
・ 唐澤 一友 『世界の英語ができるまで』 亜紀書房,2016年.
英語史の知見を活かして英語を教えるには(あるいは学ぶには)どのような方法がよいのか.英語史と英語教育の接点を探る試みは,古くて新しい課題である.近年も,英語史を学ぶ意義は何かという問題意識と関連して,日本でも世界でも,再びこの課題が注目されるようになってきている.
私自身が英語史研究者であると同時に英語教員でもあり,私の大学ゼミには英語教員を目指す学生が一定数いるということもあり,この問題には常に関心を抱いてきた.この分野についてまとまった論考を読むことのできる,近年出版された論文集や書籍を4点ほど紹介したい.
(1) 家入葉子(編)『これからの英語教育――英語史研究との対話――』 (Can Knowing the History of English Help in the Teaching of English?). Studies in the History of English Language 5. 大阪洋書,2016年.
(2) Heyes, Mary and Allison Burkette, eds. Approaches to Teaching the History of the English Language: Pedagogy in Practice. Oxford: OUP, 2017.
(3) 片見 彰夫・川端 朋広・山本 史歩子(編)『英語教師のための英語史』 開拓社,2018年.
(4) 「特集 英語史教育を考える――なぜ・どのように英語史を教えるのか」 Asterisk 第28巻,2020年.66--180頁.
まず (1) について.英語史研究会の企画による論集.私も寄稿させていただいており,「#2566. 「3単現の -s の問題とは何か」」 ([2016-05-06-1]) に目次なども掲げたのでご参照ください.
(2) は,本ブログでも何度か参照して関連する記事を書いてきた論集だが,英語圏での様々な英語史教育の理論と実践が紹介されている.日本とはまったく異なる観点・発想からの英語史教育論として,これはこれで新鮮.
(3) は,英語史の分野の一線で活躍する論者たちによる論集で,タイトルが表わしている通りの内容.英語史の知識の具体的な活用事例が紹介されている.
(4) は,古田直肇氏が企画した Asterisk 誌の特集記事群で,私も寄稿させていただいた.執筆者に現役教員や教員経験者が含まれており実践的な内容となっている.論考のラインナップを以下に示しておきたい.
・ 英語の授業に必要な英語史の基礎知識 (江藤 裕之)
・ リベラル・アーツとしての英語史 (織田 哲司)
・ 疑問解決手段としての英語史 (黒須 祐貴)
・ 英語史という“実学” (下永 裕基)
・ 大学で英語を学ぶということ (高山 真梨子)
・ 国際社会における英語史教育の必要性 (田本 真喜子)
・ 現代英語に重きをおいた英語史教育 (寺澤 盾)
・ 中学校・高等学校における英語史教育 (鴇崎 孝太郎)
・ 広い視野を教えてくれた英語史 (長瀬 浩平)
・ 故きを温ねて,文法のうつろいやすさを知る (中山 匡美)
・ 英語史教育における日英対照言語史の視点 (堀田 隆一)
・ 卓越は線の細部から (安原 章)
この Asterisk の特集は,2019年9月22日に開かれた,駒場英語史研究会シンポジウム「これからの英語史教育を考える――英語史をトリビアに終わらせないために」(コーディネーター:古田直肇氏氏)の成果を部分的に取り込んだものとなっている.私自身が同シンポジウムで「英語史教育における日英対照言語史の視点」と題する発表を行なっているので,参考までにこちらにその時のハンドアウトを公開しておこう.
以上の文献を参考に「英語史の知見を活かした英語教育」について考えてもらえれば幸いである.また,関連して「英語史を教える・学ぶ意義」について,次の記事も参照.
・ 「#4021. なぜ英語史を学ぶか --- 私的回答」 ([2020-04-30-1])
・ 「#3641. 英語史のすゝめ (1) --- 英語史は教養的な学問領域」 ([2019-04-16-1])
・ 「#3642. 英語史のすゝめ (2) --- 英語史は教養的な学問領域」 ([2019-04-17-1])
・ 「#24. なぜ英語史を学ぶか」 ([2009-05-22-1])
・ 「#1199. なぜ英語史を学ぶか (2)」 ([2012-08-08-1])
・ 「#1200. なぜ英語史を学ぶか (3)」 ([2012-08-09-1])
・ 「#1367. なぜ英語史を学ぶか (4)」 ([2013-01-23-1])
・ 「#2984. なぜ英語史を学ぶか (5)」 ([2017-06-28-1])
・ 「#4019. ぜひ英語史学習・教育のために hellog の活用を!」 ([2020-04-28-1])
・ 「#2470. 2015年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2016-01-31-1])
・ 「#3566. 2018年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2019-01-31-1])
・ 「#3922. 2019年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2020-01-22-1])
・ 「#4045. 英語に関する素朴な疑問を1385件集めました」 ([2020-05-24-1])
・ 「#4073. 地獄の英語史からホテルの英語史へ」 ([2020-06-21-1])
・ 家入葉子(編)『これからの英語教育――英語史研究との対話――』 (Can Knowing the History of English Help in the Teaching of English?). Studies in the History of English Language 5. 大阪洋書,2016年.
・ Heyes, Mary and Allison Burkette, eds. Approaches to Teaching the History of the English Language: Pedagogy in Practice. Oxford: OUP, 2017.
・ 片見 彰夫・川端 朋広・山本 史歩子(編)『英語教師のための英語史』 開拓社,2018年.
・「特集 英語史教育を考える――なぜ・どのように英語史を教えるのか」 Asterisk 第28巻,2020年.66--180頁.
・ 堀田 隆一 「英語史教育における日英対照言語史の視点」(ハンドアウト) 駒場英語史研究会シンポジウム「これからの英語史教育を考える――英語史をトリビアに終わらせないために」 於東京大学駒場キャンパス,2019年9月22日.
敬愛する河西良治先生(中央大学文学部英語文学文化専攻教授)がこの3月でご退職されます.退職記念として,河西ゼミ門下生により編集された記念論文集『言語研究の扉を開く』が開拓社より出版されました.私自身も小論「英語の歴史にみられる3つの潮流」を寄稿させていただいたのですが,その拙論は別として,河西先生ご自身も含めた充実の執筆陣による多種多様な英語学の論文が集まっており,これからじっくり楽しんで読みたいと思っています.
以下,目次を掲げます.
[ 言語心理学・言語教育学 ]
・ 阿佐 宏一郎 「文字サイズと読み効率の言語心理学」
・ 歌代 崇史 「ティーチャートークの適切さの自動推定に向けた探求 --- 日本語教員養成課程において ---」
・ 木塚 雅貴 「英語科教員のための英語音声学」
・ Matthews, John 「Sounds of Language, Sounds of Speech: The Linguistics of Speaking in English but Hearing in Japanese」
[ 応用言語学 ]
・ 石崎 貴士 「Reconsidering the Input Hypothesis from a Connectionist Perspective: Cognitive Filtering and Incomprehensible Input」
・ 平川 眞規子 「日本人英語学習者によるテンスとアスペクトの意味解釈:単純形 -s vs. 現在進行形 -ing」
・ 穂刈 友洋 「誤り研究への招待」
・ 村野井 仁 「第二言語習得と意味」
・ 若林 茂則 「第二言語の解明:統率束縛理論に基づく研究の成果と今後の研究の方向性」
[ 英語学 ]
・ 靭江 静 「日本語の「できる」と英語の can の語用論上の相違と語用論に基づいた指導の必要性」
・ 久米 啓介 「英語学習者の冠詞体系」
・ 倉田 俊二 「英語の自由間接話法と自由直接話法について」
・ 堀田 隆一 「英語の歴史にみられる3つの潮流」
・ 手塚 順孝 「顎・舌・唇:身体的特徴を加味した英語母音の一般化の可能性」
[ 理論言語学 ]
・ 新井 洋一 「That 時制節を焦点として導く疑似分裂文の特性と諸問題」
・ 井筒 勝信 「見えるもの,見えないもの:ミクロ類型論から見えて来るもの」
・ 北原 賢一 「コーパスを用いた言語研究の盲点 --- 同族目的語表現を巡って ---」
・ 篠原 俊吾 「ずらして見る --- メトニミー的視点 ---」
・ 星 英仁 「概念・志向システムによる意味解釈のメカニズム」
・ 山田 祥一 「断言と疑問の混交文 --- ウェブ上の言葉遊びに見られる特殊表現 ---」
・ 河西良治先生経歴と業績一覧
・ 「私の言語研究:言語と人生」 河西 良治
・ 河西良治教授退職記念論文集刊行会(編) 『言語研究の扉を開く』 開拓社,2021年.
昨年出版された服部著『古代スラヴ語の世界史』を読んだ.学生時代にロシア語を少しかじった程度でスラヴ系の言語(史)には疎いので,本ブログでもスラヴ語派 (slavic) に関してはあまり記事を書いてきていない.そのような者にとって,たいへん読みやすく学ぶことの多い著書だった.
そもそも古代スラヴ語 (Old Slavic [Slavonic]) とは何か.服部 (114--16) を参照しつつ要約しよう.時代は9世紀半ばに遡る.当時のスラヴ世界には,多少の方言差はあったにせよ共通スラヴ語と呼べる口語が行なわれていたと考えられる.しかし,それは書き言葉に付されることはなかった.862年,ギリシア出身のコンスタンティノスとその兄メドティオスが,モラヴィア国(現在のチェコ東部)にスラヴ語でキリスト教を布教すべく,経典類のためのスラヴ文章語と,それを書き記すためのグラゴール文字を考案した(後者について「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1]) を参照).この新生スラヴ文章語こそが「古代スラヴ語」の正体である.
この文章語による布教は当初は順調に進んだが,国内外の政治情勢ゆえに,885年のメトディオスの死後,無に帰した.しかし,弟子たちがブルガリアへ避難し,そこで首長ボリスの庇護を受けるに及んで,古代スラヴ語の伝統は新天地にて延命,いな発展を遂げる.先のグラゴール文字の機能的な長所を保ちつつ,人々が使い慣れていたギリシア文字の字形を導入し,あらたにキリル文字が作られた.ところがブルガリアもやがて滅亡し,古代スラヴ語は再び衰退の危機にさらされた.危機に陥った古代スラヴ語は,しかし,3度目の滞在地を見つけた.キエフ・ルーシである.989年にキエフ公ウラジーミルがキリスト教を国教化すると,この地にて古代スラヴ語が受け継がれることになった.
しかし,10世紀末のこの段階までに,話し言葉としてのスラヴ語は相当の方言化を経ていた.キエフ・ルーシでも,人々の母方言と,共通文章語としての役割を果たしてきた古代スラヴ語との差が目立ってきていたのである.古代スラヴ語の経典類は,書写されていくにつれて母方言的な要素が多く混入し,いつしか純粋な古代スラヴ語と呼び得ないほどまでになった.この段階をもって,古代スラヴ語は「ロシア教会スラヴ語」や「古代ロシア文語」と呼ぶべきものに変化したと考えられている.古代スラヴ語は消滅したにはちがいないが,より正確には「ロシア教会スラヴ語」へ同化・吸収されていったといえる.
古代スラヴ語は,このように9世紀後半から1100年ほどまでスラヴ人が用いた文章語であった.言語史の1コマといえばそうだが,歴史的な意義として服部 (5) は2点を挙げている.
このような歴史の中で見ると,古代スラヴ語とはどのような重要性を持つのであろうか.まず古代スラヴ語によってスラヴ人は初めて文字を手に入れ,文章を書き記すことを始めた.つまり,スラヴ人自身の言葉によって文献を書き残せるようになった歴史的意味は無視し難いであろう.次に,スラヴ人は,自分たちの言葉を通してキリスト教世界と関わりを持つことにより,その存在感を徐々に高めてゆくことになる.とりわけ,東方教会の圏内において,今日に繋がるような大きな存在となってゆくことは重要である.
たいへん勉強になった.スラヴ語派,あるいはより広くバルト=スラヴ語派については,「#1469. バルト=スラブ語派(印欧語族)」 ([2013-05-05-1]) を参照.
・ 服部 文昭 『古代スラヴ語の世界史』 白水社,2020年.
言語学史上,類推作用 (analogy) については多くが論じられてきた.「音韻法則に例外なし」を謳い上げた19世紀の比較言語学者たちは analogy を言語変化の例外を集めたゴミ箱として扱った一方で,英語史を含め個別言語の言語史記述においては,analogy を引き合いに出さなければ諸問題を考察することすら不可能なほどに,概念・用語としては広く浸透した(cf. 「#555. 2種類の analogy」 ([2010-11-03-1]),「#1154. 言語変化のゴミ箱としての analogy」 ([2012-06-24-1])).analogy を巡る様々な立場の存在は,それが日常用語でもあり学術用語でもあるという点に関わっているように思われる.学術用語としても,言語学のみならず心理学や認知科学などで各々の定義が与えられており,比較するだけで頭が痛くなってくる.
ここ数日の記事で引用している Fertig (12) は,言語学における analogy という厄介な代物を本格的に再考し,改めて導入しようとしている.読みながら多くのインスピレーションを受けているが,とりわけ重要なのは Fertig なりの analogy の定義である.これが本書の序盤 (12) に提示されるので,こちらに引用しておきたい.
(3a) analogy1 [general sense] is the cognitive capacity to reason about relationships among elements in one domain based on knowledge or beliefs about another domain. Specifically, this includes the ability to make predictions/guesses about unknown properties of elements in one domain based on knowledge of one or more other elements in that domain and perceived parallels between those elements and sets of known elements in another domain.
(3b) analogy2 [specific sense] is the capacity of speakers to produce meaningful linguistic forms that they may have never before encountered, based on patterns they discern across other forms belonging to the same linguistic system.
(3c) an analogical formation is a form (word, phrase, clause, sentence, etc.) produced by a speaker on the basis of analogy2.
(3d) associative interference is an analogical formation and/or a product of associative interference that deviates from current norms of usage.
(3f) an analogical change is a difference over time in prevailing usage within (a significant portion of) a speech community that corresponds to an analogical innovation or a set of related innovations.
定義というのは,それだけ読んでもなぜそのようになっているのか,なぜそこまで精妙な言い回しをするのか分からないことも多いが,それはこの analogy についても当てはまる.Fertig の新機軸の1つは,従来の analogy 観に (3d) の項目を付け加えたことである.伝統的な「比例式」を用いた analogy の定義には当てはまらないが,別の観点からは analogy とみなせる事例を加えるために,新たに検討されたのが (3d) だった.
もちろん Fertig の定義とて1つの定義,1つの学説にすぎず,精査していく必要があるだろう.
・ Fertig, David. Analogy and Morphological Change. Edinburgh: Edinburgh UP, 2013.
國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読了した.「中動態」 (middle_voice) あるいは「中間態」とも呼ばれる,古くは印欧語族に広くみられた態 (voice) に関する哲学的考察である.
現代人の多くには馴染みの薄い態であるが,古代ギリシア語では一般的によくみられ,現代の印欧諸語にも何らかの形で残滓が残っている.また,日本語の「自発」を表わす動詞の表現なども,中動態の一種といえる.本ブログでは「#232. 英語史の時代区分の歴史 (1)」 ([2009-12-15-1]),「#2185. 再帰代名詞を用いた動詞表現の衰退」 ([2015-04-21-1]),「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) 等でその名称には触れたものの,まともに取り上げたことはなかった話題である.
本書を分かりやすく要約することは至難の業だが,著者の最大の主張は,私たちが当たり前のようにみなしている能動態と受動態の対立を疑ってみようという呼びかけである.能動態と受動態の対立に慣れきっていると,中動態は,文字通り中間的な,立ち位置のよく分からないどっちつかずの存在であるようにみえる.しかし,それは対立の軸がずれているからではないか.対立させるべきは,能動態と受動態を合わせた1つの態と,中動態というもう1つの態なのではないか.中動態は何かの中間なのではなく,むしろ能動態と鋭く対立する態なのではないか.本書では,前半からこのような目から鱗の落ちるような議論が展開される.pp. 82--83 より著者の主張を引用しよう(以下では原文の圏点は太字で示している).
中動態を定義するためには,われわれがそのなかに浸かってしまって能動対受動というパースペクティヴを一度括弧に入れたうえで,かつて中動態が置かれていたパースペクティヴを復元しなければならないのだった.より具体的に言えば,その作業は,中動態をそれ単独としてではなくて,能動態との対立において定義することを意味する.
するとここにもう一つ別の課題が現れる.
中動態が能動態との対立においてその意味を確定していたのならば,まったく同じように,能動態もまた中動態との対立においてその意味を確定していたはずである.だとしたら,中動態と対立していたときの能動態を,現在のパースペクティヴにおける能動態と同一視してはならないことになる.中動態を定義するためには,中動態と対立していた能動態も定義し直さなければならないはずだ.
われわれがそのなかに浸っているパースペクティヴを括弧に入れるとは,そのようなことを意味する.中動態を問うためには,われわれが無意識に採用している枠組み,われわれ自身を規定している諸条件を問わねばならないのだ.
このように従来の態の見方を転倒させるような洞察が本書の最後まで続く.そのなかには,印欧語では動詞構文より前に名詞構文があったのではないかという仮説もあれば,中動態こそが原初の態だったのではないかという仮説もある.あらためて言語における態とは何なのかを問わずにはいられなくなる論考である.
・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.
先日発売された『英語教育』9月号に,英語史の近著『英語史を学び英語を学ぶ --- 英語の現在と過去の対話』(高橋 英光(著),開拓社)に関する拙論書評が掲載されました.
書評内で本書を「読む英語史演習」と表現しましたが,実際,読んでみると大学の英語史演習の授粟に参加しているかのような錯覚に陥ります.前半の第I部は英語史通史の入門というべき趣旨で,ざっと読むことができます.その補章としてOED入門の解説が施されており,初めてOEDに触るという学習者には有用です.
後半の第II部は,現代英語の諸問題を歴史的にみるという趣旨の内容で,とりわけ17,18章は著者が強調する認知言語学の視点からの記述で,文法変化と意味変化の話題が取り上げられています.
各章末には要領よくまとめられた「要約」が付されているのもポイントです.この「要約」のみを横に読んでいくという学習法もありだと思います.
全体的に,易しい英語史入門書という位置づけの書です.巻末の参考文献にはよく選ばれた論著が並んでいるので,芋づる式に読書していくとよいと思います.
・ 高橋 英光 『英語史を学び英語を学ぶ --- 英語の現在と過去の対話』 開拓社,2020年.
・ 堀田 隆一 「書評:高橋 英光 『英語史を学び英語を学ぶ --- 英語の現在と過去の対話』(開拓社)」 『英語教育』(大修館) 2020年9月号,2020年.93--94頁.
本日から新年度です.新型コロナウィルスの影響で大学の授業もレギュラーには始まりませんが,本年度も前向きの姿勢で英語史に取り組んでいきましょう.
例年,私の英語史の授業では,Baugh and Cable による英語史の古典的名著 A History of the English Language を指定テキストとしています.現行のものは2013年に出た第6版で,和田 (2013) にレビューがあります.「#2182. Baugh and Cable の英語史第6版」 ([2015-04-18-1]) の記事もご覧ください.
私自身も忘れていたのですが,およそ1年ほど前の『週刊読書人』第3290号(2019年5月24日)に同著を推薦書として挙げていました.こちらのページをご覧ください.その最後に「今の時代だからこそ広く読まれるべき,英語に関する教養書であり,同時に専門書でもあります」と書きましたが,これは本当です.よくできた教養書でありながら,英語史を専攻する者として何度目かに読んでも必ず何らかの発見があるのです.著者は,平易な文章を目指しつつも,その表面に様々なレベルの問題についてヒントを散りばめるのが上手なのだろうと思います.
英語史に限らず「○○史」と銘打った歴史の教科書というのは,時系列での整理の仕方が命です.よくできた歴史の教科書は,章立てと目次が整理されています.もちろん通読は必要ですが,通読して流れを理解した上で,その目次をじっくり学習するというのがお薦めの学習法です.「#2089. Baugh and Cable の英語史概説書の目次」 ([2015-01-15-1]) をどうぞ.
英語史のお薦めの本はほかにもあります.昨年度版ですが「#3635. 英語史概説書等の書誌(2019年度版)」 ([2019-04-10-1]) をご覧ください.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
・ 和田 忍 「新刊紹介 Albert C. BAUGH & Thomas CABLE, A History of the English Language, Sixth edition, Upper Saddle River, NJ, Pearson, 2013, 446+xviii p., $174.07」『西洋中世研究』第5号,2013年,159頁.
数学に関する年表・図鑑・事典が一緒になったような,それでいて読み物として飽きない『ビジュアル数学全史』を通読した.2009年の原著 The Math Book の邦訳である.250の話題の各々について写真や図形が添えられており,雑学ネタにも事欠かない.ゾクゾクさせる数の魅力にはまってしまった.この本の公式HPはこちら.
原著で読んでいたら数学用語にも強くなっていたかもしれないと思ったが,250のキーワードについては英語版の目次から簡単に拾える.ということで,以下に日英両言語版の目次をまとめてみた.ただ挙げるのでは芸がないので,本ブログの過去の記事と引っかけられそうなキーワードについては,リンクを張っておいた.数学(を含む自然科学)に関連する言語学・英語学・英語史の話題については,たまに取り上げてきたので.
この2日間の記事 ([2019-12-26-1], [2019-12-27-1]) で「歴史の if」について考えてみた.反実仮想に基づいた歴史の呼び方の1つとして alternative history があるが,この表現を聞いて思い出すのは,著名な社会言語学者たちによって書かれた英語史の本 Alternative Histories of English である.
この本は,実際のところ,反実仮想に基づいたフィクションの英語史書というわけではない.むしろ,事実の記述に基づいた堅実な英語史記述である.ただし,現在広く流通している,いわゆる標準英語のメイキングに注目する「正統派」の英語史に対して,各種の非標準英語,すなわち "Englishes" の歴史に光を当てるという趣旨での「もう1つの歴史」というわけである.
しかし,本書は(過去ではないが)未来に関するある空想に支えられているという点で,反実仮想と近接する部分が確かにある.このことは,2人の編者 Watts and Trudgill が執筆した "In the year 2525" と題する序論にて確認できる.以下に引用しよう.
If the whole point of a history of English were, as it sometimes appears, to glorify the achievement of (standard) English in the present, then what will speakers in the year 2525 have to say about our current textbooks? We would like to suggest that orthodox histories of English have presented a kind of tunnel vision version of how and why the language achieved its present form with no consideration of the rich diversity and variety of the language or any appreciation of what might happen in the future. Just as we look back at the multivariate nature of Old English, which also included a written, somewhat standardised form, so too might the observer 525 years hence look back and see twentieth century Standard English English as being a variety of peculiarly little importance, just as we can now see that the English of King Alfred was a standard form that was in no way the forerunner of what we choose to call Standard English today.
There is no reason why we should not, in writing histories of English, begin to take this perspective now rather than wait until 2525. Indeed, we argue that most histories of English have not added at all to the sum of our knowledge about the history of non-standard varieties of English --- i.e. the majority --- since the late Middle English period. It is one of our intentions that this book should help to begin to put that balance right. (1--2)
正統派に属する伝統的な英語史の偏狭な見方を批判した,傾聴に値する文章である."alternative history" は,この2日間で論じてきたように,原因探求に効果を発揮するだけでなく,広く流通している歴史(観)を相対化するという点でも重要な役割を果たしてくれるだろう.
本書の出版は2002年だが,それ以降,英語の非標準的な変種や側面に注目する視点は着実に育ってきている.関連して「#1991. 歴史語用論の発展の背景にある言語学の "paradigm shift"」 ([2014-10-09-1]) の記事も参照されたい.なお,このような視点を英語史に適用する試みは,いまだ多くないのが現状である.
・ Watts, Richard and Peter Trudgill, eds. Alternative Histories of English. Abingdon: Routledge, 2002.
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