敬愛する河西良治先生(中央大学文学部英語文学文化専攻教授)がこの3月でご退職されます.退職記念として,河西ゼミ門下生により編集された記念論文集『言語研究の扉を開く』が開拓社より出版されました.私自身も小論「英語の歴史にみられる3つの潮流」を寄稿させていただいたのですが,その拙論は別として,河西先生ご自身も含めた充実の執筆陣による多種多様な英語学の論文が集まっており,これからじっくり楽しんで読みたいと思っています.
以下,目次を掲げます.
[ 言語心理学・言語教育学 ]
・ 阿佐 宏一郎 「文字サイズと読み効率の言語心理学」
・ 歌代 崇史 「ティーチャートークの適切さの自動推定に向けた探求 --- 日本語教員養成課程において ---」
・ 木塚 雅貴 「英語科教員のための英語音声学」
・ Matthews, John 「Sounds of Language, Sounds of Speech: The Linguistics of Speaking in English but Hearing in Japanese」
[ 応用言語学 ]
・ 石崎 貴士 「Reconsidering the Input Hypothesis from a Connectionist Perspective: Cognitive Filtering and Incomprehensible Input」
・ 平川 眞規子 「日本人英語学習者によるテンスとアスペクトの意味解釈:単純形 -s vs. 現在進行形 -ing」
・ 穂刈 友洋 「誤り研究への招待」
・ 村野井 仁 「第二言語習得と意味」
・ 若林 茂則 「第二言語の解明:統率束縛理論に基づく研究の成果と今後の研究の方向性」
[ 英語学 ]
・ 靭江 静 「日本語の「できる」と英語の can の語用論上の相違と語用論に基づいた指導の必要性」
・ 久米 啓介 「英語学習者の冠詞体系」
・ 倉田 俊二 「英語の自由間接話法と自由直接話法について」
・ 堀田 隆一 「英語の歴史にみられる3つの潮流」
・ 手塚 順孝 「顎・舌・唇:身体的特徴を加味した英語母音の一般化の可能性」
[ 理論言語学 ]
・ 新井 洋一 「That 時制節を焦点として導く疑似分裂文の特性と諸問題」
・ 井筒 勝信 「見えるもの,見えないもの:ミクロ類型論から見えて来るもの」
・ 北原 賢一 「コーパスを用いた言語研究の盲点 --- 同族目的語表現を巡って ---」
・ 篠原 俊吾 「ずらして見る --- メトニミー的視点 ---」
・ 星 英仁 「概念・志向システムによる意味解釈のメカニズム」
・ 山田 祥一 「断言と疑問の混交文 --- ウェブ上の言葉遊びに見られる特殊表現 ---」
・ 河西良治先生経歴と業績一覧
・ 「私の言語研究:言語と人生」 河西 良治
・ 河西良治教授退職記念論文集刊行会(編) 『言語研究の扉を開く』 開拓社,2021年.
昨年出版された服部著『古代スラヴ語の世界史』を読んだ.学生時代にロシア語を少しかじった程度でスラヴ系の言語(史)には疎いので,本ブログでもスラヴ語派 (slavic) に関してはあまり記事を書いてきていない.そのような者にとって,たいへん読みやすく学ぶことの多い著書だった.
そもそも古代スラヴ語 (Old Slavic [Slavonic]) とは何か.服部 (114--16) を参照しつつ要約しよう.時代は9世紀半ばに遡る.当時のスラヴ世界には,多少の方言差はあったにせよ共通スラヴ語と呼べる口語が行なわれていたと考えられる.しかし,それは書き言葉に付されることはなかった.862年,ギリシア出身のコンスタンティノスとその兄メドティオスが,モラヴィア国(現在のチェコ東部)にスラヴ語でキリスト教を布教すべく,経典類のためのスラヴ文章語と,それを書き記すためのグラゴール文字を考案した(後者について「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1]) を参照).この新生スラヴ文章語こそが「古代スラヴ語」の正体である.
この文章語による布教は当初は順調に進んだが,国内外の政治情勢ゆえに,885年のメトディオスの死後,無に帰した.しかし,弟子たちがブルガリアへ避難し,そこで首長ボリスの庇護を受けるに及んで,古代スラヴ語の伝統は新天地にて延命,いな発展を遂げる.先のグラゴール文字の機能的な長所を保ちつつ,人々が使い慣れていたギリシア文字の字形を導入し,あらたにキリル文字が作られた.ところがブルガリアもやがて滅亡し,古代スラヴ語は再び衰退の危機にさらされた.危機に陥った古代スラヴ語は,しかし,3度目の滞在地を見つけた.キエフ・ルーシである.989年にキエフ公ウラジーミルがキリスト教を国教化すると,この地にて古代スラヴ語が受け継がれることになった.
しかし,10世紀末のこの段階までに,話し言葉としてのスラヴ語は相当の方言化を経ていた.キエフ・ルーシでも,人々の母方言と,共通文章語としての役割を果たしてきた古代スラヴ語との差が目立ってきていたのである.古代スラヴ語の経典類は,書写されていくにつれて母方言的な要素が多く混入し,いつしか純粋な古代スラヴ語と呼び得ないほどまでになった.この段階をもって,古代スラヴ語は「ロシア教会スラヴ語」や「古代ロシア文語」と呼ぶべきものに変化したと考えられている.古代スラヴ語は消滅したにはちがいないが,より正確には「ロシア教会スラヴ語」へ同化・吸収されていったといえる.
古代スラヴ語は,このように9世紀後半から1100年ほどまでスラヴ人が用いた文章語であった.言語史の1コマといえばそうだが,歴史的な意義として服部 (5) は2点を挙げている.
このような歴史の中で見ると,古代スラヴ語とはどのような重要性を持つのであろうか.まず古代スラヴ語によってスラヴ人は初めて文字を手に入れ,文章を書き記すことを始めた.つまり,スラヴ人自身の言葉によって文献を書き残せるようになった歴史的意味は無視し難いであろう.次に,スラヴ人は,自分たちの言葉を通してキリスト教世界と関わりを持つことにより,その存在感を徐々に高めてゆくことになる.とりわけ,東方教会の圏内において,今日に繋がるような大きな存在となってゆくことは重要である.
たいへん勉強になった.スラヴ語派,あるいはより広くバルト=スラヴ語派については,「#1469. バルト=スラブ語派(印欧語族)」 ([2013-05-05-1]) を参照.
・ 服部 文昭 『古代スラヴ語の世界史』 白水社,2020年.
言語学史上,類推作用 (analogy) については多くが論じられてきた.「音韻法則に例外なし」を謳い上げた19世紀の比較言語学者たちは analogy を言語変化の例外を集めたゴミ箱として扱った一方で,英語史を含め個別言語の言語史記述においては,analogy を引き合いに出さなければ諸問題を考察することすら不可能なほどに,概念・用語としては広く浸透した(cf. 「#555. 2種類の analogy」 ([2010-11-03-1]),「#1154. 言語変化のゴミ箱としての analogy」 ([2012-06-24-1])).analogy を巡る様々な立場の存在は,それが日常用語でもあり学術用語でもあるという点に関わっているように思われる.学術用語としても,言語学のみならず心理学や認知科学などで各々の定義が与えられており,比較するだけで頭が痛くなってくる.
ここ数日の記事で引用している Fertig (12) は,言語学における analogy という厄介な代物を本格的に再考し,改めて導入しようとしている.読みながら多くのインスピレーションを受けているが,とりわけ重要なのは Fertig なりの analogy の定義である.これが本書の序盤 (12) に提示されるので,こちらに引用しておきたい.
(3a) analogy1 [general sense] is the cognitive capacity to reason about relationships among elements in one domain based on knowledge or beliefs about another domain. Specifically, this includes the ability to make predictions/guesses about unknown properties of elements in one domain based on knowledge of one or more other elements in that domain and perceived parallels between those elements and sets of known elements in another domain.
(3b) analogy2 [specific sense] is the capacity of speakers to produce meaningful linguistic forms that they may have never before encountered, based on patterns they discern across other forms belonging to the same linguistic system.
(3c) an analogical formation is a form (word, phrase, clause, sentence, etc.) produced by a speaker on the basis of analogy2.
(3d) associative interference is an analogical formation and/or a product of associative interference that deviates from current norms of usage.
(3f) an analogical change is a difference over time in prevailing usage within (a significant portion of) a speech community that corresponds to an analogical innovation or a set of related innovations.
定義というのは,それだけ読んでもなぜそのようになっているのか,なぜそこまで精妙な言い回しをするのか分からないことも多いが,それはこの analogy についても当てはまる.Fertig の新機軸の1つは,従来の analogy 観に (3d) の項目を付け加えたことである.伝統的な「比例式」を用いた analogy の定義には当てはまらないが,別の観点からは analogy とみなせる事例を加えるために,新たに検討されたのが (3d) だった.
もちろん Fertig の定義とて1つの定義,1つの学説にすぎず,精査していく必要があるだろう.
・ Fertig, David. Analogy and Morphological Change. Edinburgh: Edinburgh UP, 2013.
國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読了した.「中動態」 (middle_voice) あるいは「中間態」とも呼ばれる,古くは印欧語族に広くみられた態 (voice) に関する哲学的考察である.
現代人の多くには馴染みの薄い態であるが,古代ギリシア語では一般的によくみられ,現代の印欧諸語にも何らかの形で残滓が残っている.また,日本語の「自発」を表わす動詞の表現なども,中動態の一種といえる.本ブログでは「#232. 英語史の時代区分の歴史 (1)」 ([2009-12-15-1]),「#2185. 再帰代名詞を用いた動詞表現の衰退」 ([2015-04-21-1]),「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) 等でその名称には触れたものの,まともに取り上げたことはなかった話題である.
本書を分かりやすく要約することは至難の業だが,著者の最大の主張は,私たちが当たり前のようにみなしている能動態と受動態の対立を疑ってみようという呼びかけである.能動態と受動態の対立に慣れきっていると,中動態は,文字通り中間的な,立ち位置のよく分からないどっちつかずの存在であるようにみえる.しかし,それは対立の軸がずれているからではないか.対立させるべきは,能動態と受動態を合わせた1つの態と,中動態というもう1つの態なのではないか.中動態は何かの中間なのではなく,むしろ能動態と鋭く対立する態なのではないか.本書では,前半からこのような目から鱗の落ちるような議論が展開される.pp. 82--83 より著者の主張を引用しよう(以下では原文の圏点は太字で示している).
中動態を定義するためには,われわれがそのなかに浸かってしまって能動対受動というパースペクティヴを一度括弧に入れたうえで,かつて中動態が置かれていたパースペクティヴを復元しなければならないのだった.より具体的に言えば,その作業は,中動態をそれ単独としてではなくて,能動態との対立において定義することを意味する.
するとここにもう一つ別の課題が現れる.
中動態が能動態との対立においてその意味を確定していたのならば,まったく同じように,能動態もまた中動態との対立においてその意味を確定していたはずである.だとしたら,中動態と対立していたときの能動態を,現在のパースペクティヴにおける能動態と同一視してはならないことになる.中動態を定義するためには,中動態と対立していた能動態も定義し直さなければならないはずだ.
われわれがそのなかに浸っているパースペクティヴを括弧に入れるとは,そのようなことを意味する.中動態を問うためには,われわれが無意識に採用している枠組み,われわれ自身を規定している諸条件を問わねばならないのだ.
このように従来の態の見方を転倒させるような洞察が本書の最後まで続く.そのなかには,印欧語では動詞構文より前に名詞構文があったのではないかという仮説もあれば,中動態こそが原初の態だったのではないかという仮説もある.あらためて言語における態とは何なのかを問わずにはいられなくなる論考である.
・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.
先日発売された『英語教育』9月号に,英語史の近著『英語史を学び英語を学ぶ --- 英語の現在と過去の対話』(高橋 英光(著),開拓社)に関する拙論書評が掲載されました.
書評内で本書を「読む英語史演習」と表現しましたが,実際,読んでみると大学の英語史演習の授粟に参加しているかのような錯覚に陥ります.前半の第I部は英語史通史の入門というべき趣旨で,ざっと読むことができます.その補章としてOED入門の解説が施されており,初めてOEDに触るという学習者には有用です.
後半の第II部は,現代英語の諸問題を歴史的にみるという趣旨の内容で,とりわけ17,18章は著者が強調する認知言語学の視点からの記述で,文法変化と意味変化の話題が取り上げられています.
各章末には要領よくまとめられた「要約」が付されているのもポイントです.この「要約」のみを横に読んでいくという学習法もありだと思います.
全体的に,易しい英語史入門書という位置づけの書です.巻末の参考文献にはよく選ばれた論著が並んでいるので,芋づる式に読書していくとよいと思います.
・ 高橋 英光 『英語史を学び英語を学ぶ --- 英語の現在と過去の対話』 開拓社,2020年.
・ 堀田 隆一 「書評:高橋 英光 『英語史を学び英語を学ぶ --- 英語の現在と過去の対話』(開拓社)」 『英語教育』(大修館) 2020年9月号,2020年.93--94頁.
本日から新年度です.新型コロナウィルスの影響で大学の授業もレギュラーには始まりませんが,本年度も前向きの姿勢で英語史に取り組んでいきましょう.
例年,私の英語史の授業では,Baugh and Cable による英語史の古典的名著 A History of the English Language を指定テキストとしています.現行のものは2013年に出た第6版で,和田 (2013) にレビューがあります.「#2182. Baugh and Cable の英語史第6版」 ([2015-04-18-1]) の記事もご覧ください.
私自身も忘れていたのですが,およそ1年ほど前の『週刊読書人』第3290号(2019年5月24日)に同著を推薦書として挙げていました.こちらのページをご覧ください.その最後に「今の時代だからこそ広く読まれるべき,英語に関する教養書であり,同時に専門書でもあります」と書きましたが,これは本当です.よくできた教養書でありながら,英語史を専攻する者として何度目かに読んでも必ず何らかの発見があるのです.著者は,平易な文章を目指しつつも,その表面に様々なレベルの問題についてヒントを散りばめるのが上手なのだろうと思います.
英語史に限らず「○○史」と銘打った歴史の教科書というのは,時系列での整理の仕方が命です.よくできた歴史の教科書は,章立てと目次が整理されています.もちろん通読は必要ですが,通読して流れを理解した上で,その目次をじっくり学習するというのがお薦めの学習法です.「#2089. Baugh and Cable の英語史概説書の目次」 ([2015-01-15-1]) をどうぞ.
英語史のお薦めの本はほかにもあります.昨年度版ですが「#3635. 英語史概説書等の書誌(2019年度版)」 ([2019-04-10-1]) をご覧ください.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
・ 和田 忍 「新刊紹介 Albert C. BAUGH & Thomas CABLE, A History of the English Language, Sixth edition, Upper Saddle River, NJ, Pearson, 2013, 446+xviii p., $174.07」『西洋中世研究』第5号,2013年,159頁.
数学に関する年表・図鑑・事典が一緒になったような,それでいて読み物として飽きない『ビジュアル数学全史』を通読した.2009年の原著 The Math Book の邦訳である.250の話題の各々について写真や図形が添えられており,雑学ネタにも事欠かない.ゾクゾクさせる数の魅力にはまってしまった.この本の公式HPはこちら.
原著で読んでいたら数学用語にも強くなっていたかもしれないと思ったが,250のキーワードについては英語版の目次から簡単に拾える.ということで,以下に日英両言語版の目次をまとめてみた.ただ挙げるのでは芸がないので,本ブログの過去の記事と引っかけられそうなキーワードについては,リンクを張っておいた.数学(を含む自然科学)に関連する言語学・英語学・英語史の話題については,たまに取り上げてきたので.
この2日間の記事 ([2019-12-26-1], [2019-12-27-1]) で「歴史の if」について考えてみた.反実仮想に基づいた歴史の呼び方の1つとして alternative history があるが,この表現を聞いて思い出すのは,著名な社会言語学者たちによって書かれた英語史の本 Alternative Histories of English である.
この本は,実際のところ,反実仮想に基づいたフィクションの英語史書というわけではない.むしろ,事実の記述に基づいた堅実な英語史記述である.ただし,現在広く流通している,いわゆる標準英語のメイキングに注目する「正統派」の英語史に対して,各種の非標準英語,すなわち "Englishes" の歴史に光を当てるという趣旨での「もう1つの歴史」というわけである.
しかし,本書は(過去ではないが)未来に関するある空想に支えられているという点で,反実仮想と近接する部分が確かにある.このことは,2人の編者 Watts and Trudgill が執筆した "In the year 2525" と題する序論にて確認できる.以下に引用しよう.
If the whole point of a history of English were, as it sometimes appears, to glorify the achievement of (standard) English in the present, then what will speakers in the year 2525 have to say about our current textbooks? We would like to suggest that orthodox histories of English have presented a kind of tunnel vision version of how and why the language achieved its present form with no consideration of the rich diversity and variety of the language or any appreciation of what might happen in the future. Just as we look back at the multivariate nature of Old English, which also included a written, somewhat standardised form, so too might the observer 525 years hence look back and see twentieth century Standard English English as being a variety of peculiarly little importance, just as we can now see that the English of King Alfred was a standard form that was in no way the forerunner of what we choose to call Standard English today.
There is no reason why we should not, in writing histories of English, begin to take this perspective now rather than wait until 2525. Indeed, we argue that most histories of English have not added at all to the sum of our knowledge about the history of non-standard varieties of English --- i.e. the majority --- since the late Middle English period. It is one of our intentions that this book should help to begin to put that balance right. (1--2)
正統派に属する伝統的な英語史の偏狭な見方を批判した,傾聴に値する文章である."alternative history" は,この2日間で論じてきたように,原因探求に効果を発揮するだけでなく,広く流通している歴史(観)を相対化するという点でも重要な役割を果たしてくれるだろう.
本書の出版は2002年だが,それ以降,英語の非標準的な変種や側面に注目する視点は着実に育ってきている.関連して「#1991. 歴史語用論の発展の背景にある言語学の "paradigm shift"」 ([2014-10-09-1]) の記事も参照されたい.なお,このような視点を英語史に適用する試みは,いまだ多くないのが現状である.
・ Watts, Richard and Peter Trudgill, eds. Alternative Histories of English. Abingdon: Routledge, 2002.
昨年出版された鈴木董(著)『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』は,文字の観点からみた世界史の通史である.一本の強力な筋の通った壮大な世界史である.文字,言語,宗教,そして統治組織という点にこだわって書かれており,言語史の立場からも刺激に富む好著である.
本書の世界史記述は,5つの文字世界の歴史的発展を基軸に秩序づけられている.その5つの文字世界とは何か.第1章より,重要な部分を抜き出そう (19--20) .
〔前略〕唯一のグローバル・システムが全世界を包摂する直前というべき一八〇〇年に立ち戻ってみると,「旧世界」のアジア・アフリカ・ヨーロッパの「三大陸」の中核部には,五つの大文字圏,文字世界としての文化世界が並存していた.
すなわち,西から東へ「ラテン文字世界」,「ギリシア・キリル文字世界」,「梵字世界」,「漢字世界」,そして上述の四つの文字世界の全てに接しつつ,アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがって広がる「アラビア文字世界」の五つである.「新世界」の南北アメリカの両大陸,そして六つ目の人の住む大陸というべきオーストラリア大陸は,その頃までには,いずれも西欧人の植民地となりラテン文字世界の一部と化していた.
ここで「旧世界」の「三大陸」中核部を占める文字世界は,文化世界としてとらえなおせば,ラテン文字世界は西欧キリスト教世界,ギリシア・キリル文字世界は東欧正教世界,梵字世界は南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界,漢字世界は東アジア儒教・仏教世界,そしてアラビア文字世界はイスラム世界としてとらええよう.そして,各々の文字世界の成立,各々の文化世界内における共通の古典語,そして文明と文化を語るときに強要される文明語・文化語の言語に用いられる文字が基礎を提供した.
すなわち西欧キリスト教世界ではラテン語,東欧正教世界ではギリシア語と教会スラヴ語,南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界では,ヒンドゥー圏におけるサンスクリットと仏教圏におけるパーリ語,東アジア儒教・仏教世界では漢文,そしてイスラム世界においてはアラビア語が,各々の文化世界で共有された古典語,文明語・文化語であった.
5つの文字世界の各々と地域・文化・宗教・言語の関係は密接である.改めてこれらの相互関係に気付かせてくれた点で,本書はすばらしい. *
本ブログでも,文字の歴史,拡大,系統などについて多くの記事で論じてきた.とりわけ以下の記事を参照されたい.
・ 「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1])
・ 「#422. 文字の種類」 ([2010-06-23-1])
・ 「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1])
・ 「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1])
・ 「#1822. 文字の系統」 ([2014-04-23-1])
・ 「#1853. 文字の系統 (2)」 ([2014-05-24-1])
・ 「#2398. 文字の系統 (3)」 ([2015-11-20-1])
・ 「#2416. 文字の系統 (4)」 ([2015-12-08-1])
・ 「#2399. 象形文字の年表」 ([2015-11-21-1])
・ 「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1])
・ 「#2414. 文字史年表(ロビンソン版)」 ([2015-12-06-1])
・ 「#2344. 表意文字,表語文字,表音文字」 ([2015-09-27-1])
・ 「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1])
・ 「#2387. 日本語の文字史(近代編)」 ([2015-11-09-1])
・ 「#2389. 文字体系の起源と発達 (1)」 ([2015-11-11-1])
・ 「#2390. 文字体系の起源と発達 (2)」 ([2015-11-12-1])
・ 「#2577. 文字体系の盛衰に関わる社会的要因」 ([2016-05-17-1])
・ 「#2494. 漢字とオリエント文字のつながりはあるか?」 ([2016-02-24-1])
・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.
「#3805. The Cambridge Encyclopedia of the English Language 第3版の Part I 「英語史」の目次」 ([2019-09-27-1]) で紹介した Crystal の The Cambridge Encyclopedia of the English Language (第3版)の第1章 (2--3) では,"Modelling English" と題して本書の構成原理に関する説明が施されている.これは著者が長年培ってきた言語観の表明であり,英語観のエッセンスでもある.さらにいえば,20世紀半ばまでの言語学の潮流と,それ以降のトレンドを別個に扱いつつも,両者を融合しようという試みともなっている.著者もヤーヌスに譬えているとおり,英語の「構造」 (Structure) と「用法」 (Use) という両側面を知ることは,ともに大事だろう.
Crystal の構成原理を具体的に示せば,次の通りである.
Modelling English
Structure
Event
Text
Core
Grammar
Lexicon
Transmission
Phonology
Graphology
Sign
Use
Temporal variation
Long term
Short term
Regional variation
Personal variation
Social variation
よく考えられた構成原理だが,手放しでは受け入れられないようにも思う.このモデルによると,英語の歴史は「英語の使用における時間軸上の変異」という見方になるが,これには違和感がある.英語史上の言語変化は,確かに共時的な概念である「構造」においてとらえるのは難しいかもしれないが,だからといって「使用」に含めるのは妥当とは思えない.「使用」に属するものとして「地域変異」「個人変異」「社会変異」と同列に「時間変異」を設けるというのは,理論的には分からないでもないのだが,相当に質の異なる変異である.話者個人の一生内で起こる言語変化を扱う "Short term" のもつ,半ば通時的で半ば共時的な性質をちらつかせることで,「使用」と「変異」に引きつけようとしたのだろうが,数世紀にわたる "Long term" という時間幅について「使用」や「変異」を考えるのは苦しい,というのが率直な印象だ.
これに続く第2章「英語史」をもって本書の展開が本格的に始まることを考えると,"Structure", "Use" と並んで,単純に "History" と置けばよいように思うのだが,いかがだろうか(英語史を専攻する者の欲目?).
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 3rd ed. Cambridge: CUP, 2019.
Crystal による英語百科事典 The Cambridge Encyclopedia of the English Language が16年振りに改版された.新しい第3版の序文で,この15年の間に英語に関して多くのことが起こったと述べられているとおり,百科事典として,質も量も膨らんでいる.特に本文の2章から7章を構成する Part I は,120ページ近くに及ぶ英語史の話題の宝庫となっている.その部分の目次を眺めるだけでも楽しめる.以下に掲載しよう.
PART I The History of English
2 The Origins of English
3 Old English
Early Borrowings
Runes
The Old English Corpus
Literary Texts
The Anglo-Saxon Chronicle
Spelling
Sounds
Grammar
Vocabulary
Late Borrowings
Dialects
4 Middle English
French and English
The Transition From Old English
The Middle English Corpus
Literary Texts
Chaucer
Spelling
Sounds
Grammar
Vocabulary
Latin borrowings
Dialects
Middle Scots
The Origins of Standard English
5 Early Modern English
Caxton
Transitional Texts
Renaissance English
The Inkhorn Controversy
Shakespeare
The King James Bible
Spelling and Regularization
Punctuation
Sounds
Original Pronunciation
Grammar
Vocabulary
The Academy Issue
Johnson
6 Modern English
Transition
Grammatical Trends
Prescriptivism
American English
Breaking the Rules
Variety Awareness
Scientific Language
Literary Voices
Dickens
Recent Trends
Current Trends
Linguistic Memes
7 World English
The New World
American Dialects
Canada
Black English Vernacular
Australia
New Zealand
South Africa
West Africa
East Africa
South-East Asia and the South Pacific
A World Language
Numbers of Speakers
Standard English
The Future of English
English Threatened and as Threat
Euro-Englishes
現代を扱う第7章の "World English" が充実している.たとえば英語話者の人口統計がアップデートされており,現時点での総計は23億人を少し超えているという (115) .ちなみに第2版での数字は20億だった.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 3rd ed. Cambridge: CUP, 2019.
今年3月に出版された朝尾 幸次郎(著)『英語の歴史から考える英文法の「なぜ」』が広く読まれているようだ.拙著の『英語史で解きほぐす英語の誤解 --- 納得して英語を学ぶために』(中央大学出版部,2011年)や『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』(研究社,2016年)と同趣旨の本ということもあり関心をもって手に取ってみたが,実に読みやすく,分かりやすい.
内容をどこまで掘り下げているかという観点からいえば,この新刊書は浅掘りである.しかし,「まえがき」 (iv) にあるように,著者は英語史の事前知識を想定しないという立場をとっており,その趣旨からすると,むしろ詳しすぎない程度に記述を抑えているセンスは素晴らしいと言ってよいだろう.本書が手に取ってもらいやすい理由である.
著者が実例を挙げることを重視したと述べているとおり,本文にも〈英文法こぼれ話〉にも,読者の興味を引く例が掲載されている.ところどころに,見事なキャッチフレーズやセンスの光る解説がみられる.「英語は歴史的かなづかい」のような言い方もその1つだ.
以下に目次を付そう.章節のタイトルがそのまま素朴な疑問になっているものが多い.本ブログでも扱ってきた話題が多く取り上げられているので,ブログ内をキーワード検索などして記事も眺めていただければと思うが,同じ問題でも,人が変われば眺め方も変わるものである.本書の解説を読んでみて,私自身の手持ちの解説とは異なり,ナルホドと思ったケースも多々あった.是非ご一読を.
Harris 著,ローマン・アルファベットの書体に関するイラスト本 The Art of Calligraphy は眺めていて飽きない.歴史上の様々な書体が,豊富な写本写真や筆による実例をもって紹介される.文字や筆記用具に関する蘊蓄も満載.
本書の目次がそのままローマン・アルファベットの書体の歴史となっているので,以下に再現しておこう.
Introduction
The Development of Western Script
Script Timeline
Getting Started
Roman & Late Roman Scripts
Rustic Capitals
Square Capitals
Uncial & Artificial Uncial
Insular & National Scripts
Insular Majuscule
Insular Minuscule
Caroline & Early Gothic Scripts
Caroline Minuscule
Foundational Hand
Early Gothic
Gothic Scripts
Textura Quadrata
Textura Prescisus
Gothic Capitals & Versals
Lombardic Capitals
Bastard Secretary
Bâtarde
Fraktur & Schwabacher
Bastard Capitals
Cadels
Italian & Humanist Scripts
Rotunda
Rotunda Capitals
Humanist Minuscule
Italic
Humanist & Italic Capitals
Italic Swash Capitals
Post-Renaissance Scripts
Copperplate
Copperplate Capitals
Roman & Late Roman Scripts
Imperial Capitals
Script Reference Chart
Glossary
Bibliography
Index & Acknowledgments
・ Harris, David. The Art of Calligraphy. London: Dorling Kindersley, 1995.
英語史の知見を詰め込んだ我が国における現代英文法書といえば,ほぼ唯一のものであり,古典的名著というべき細江逸記著の『英文法汎論』を挙げないわけにはいかない.国立国会図書館デジタルコレクションより,細江 逸記 『英文法汎論 第1巻』8版 泰文堂,1949年.がオンラインで閲覧できるようになっている.
英語史に精通した学者ならではの現代英文法の記述が特徴で,主として近代英語期からの豊富な例文とともに,注などで与えられる正確かつ独創的な歴史的解説が最大の魅力である.とりわけ統語論に強い.本ブログでも,すでに幾多の記事で同文法書(ただし手持ちの3版)を参照・引用してきた.
以下の記事を眺めるだけでも,細江英文法の深さを感じることができるはずです.英語史の研究者にとって必読であるばかりか,現代英文法の歴史的背景に関心のある方は是非ご一読を.
・ 「#740. 熟語における形容詞の名詞用法 --- go from bad to worse」 ([2011-05-07-1])
・ 「#752. 他動詞と自動詞の特殊な過去分詞形容詞」 ([2011-05-19-1])
・ 「#806. what with A and what with B」 ([2011-07-12-1])
・ 「#980. ethical dative」 ([2012-01-02-1])
・ 「#981. 副詞と形容詞の近似」 ([2012-01-03-1])
・ 「#984. flat adverb はラテン系の形容詞が道を開いたか?」 ([2012-01-06-1])
・ 「#988. Don't drink more pints of beer than you can help. (2)」 ([2012-01-10-1])
・ 「#1028. なぜ国名が女性とみなされてきたのか」 ([2012-02-19-1])
・ 「#1035. 列挙された人称代名詞の順序」 ([2012-02-26-1])
・ 「#1037. 前置詞 save」 ([2012-02-28-1])
・ 「#1054. singular they」 ([2012-03-16-1])
・ 「#1172. 初期近代英語期のラテン系単純副詞」 ([2012-07-12-1])
・ 「#1347. a lawyer turned teacher」 ([2013-01-03-1])
・ 「#1350. 受動態の動作主に用いられる of」 ([2013-01-06-1])
・ 「#1392. 与格の再帰代名詞」 ([2013-02-17-1])
・ 「#1541. Mind you の語順」 ([2013-07-16-1])
・ 「#1570. all over the world と all the world over」 ([2013-08-14-1])
・ 「#1682. Young as he is, he is rich. の構文」 ([2013-12-04-1])
・ 「#1691. than の代用としての as」 ([2013-12-13-1])
・ 「#1762. as it were」 ([2014-02-22-1])
・ 「#2128. "than" としての nor と or」 ([2015-02-23-1])
・ 「#2130. "I wonder," said John, "whether I can borrow your bicycle."」 ([2015-02-25-1])
・ 「#2315. 前出の接続詞が繰り返される際に代用される that」 ([2015-08-29-1])
・ 「#2442. 強調構文の発達 --- 統語的現象から語用的機能へ」 ([2016-01-03-1])
・ 「#2475. 命令にはなぜ動詞の原形が用いられるのか」 ([2016-02-05-1])
・ 「#2647. びっくり should」 ([2016-07-26-1])
・ 細江 逸記 『英文法汎論 第1巻』8版 泰文堂,1949年.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
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