日本語で「火鉢」といえば,歴史文化的な用語なりつつあるものの「灰を入れ,炭火をいけて使う暖房具」(『岩波国語辞典第六版』)であることは本ブログ読者には了解されよう.しかし,この日本語単語をソースとして英語に借用された hibachi は,なんとワビもサビもないバーベキュー道具を指す用語となり下がっていたことをご存じだろうか.LDOCE 第2版2によれば,"a small piece of equipment for cooking food outdoors, over burning charcoal" とある通りである.
暖を取るはずの「火鉢」が料理用具の hibachi として英語で用いられているというのは驚くべきことだが,このような食い違いは,実際には言語間の語の借用においてしばしばみられることである.ある文化に特有の単語が,別の文化に誤解されて吸収されていくというのはまったくの日常茶飯事である.「火鉢」と hibachi のような関係を表わすのに "false friends" (Fr. "faux amis") という名前がつけられているほどだ.このような事態に対して借用元の言語の母語話者が抗議する気持ちは分からないでもないが,借用先の言語にいったん取り込まれてしまえば,もう手遅れというのが言語における借用のならいである.この問題については,お互い様というほかない.
現在進行中とおぼしき類例として,senpai 「先輩」を挙げられるかもしれない.「英語史導入企画2021」のために昨日学部生よりアップされたコンテンツ「『先輩』が英語になったらどういう意味だと思いますか」では,この日本語発の英単語が取り上げられている.
同コンテンツにあるように,senpai 「先輩」は,借用の最初期においては,本来の日本語の語義に忠実に「学校や会社などの社会集団において自分よりも年上の人や,自分よりも早くからその環境に身を置いている人」を意味するものとして借用されていたようだ.しかし,今や新しい語義「(典型的な学園ものの少女マンガにおける男子の先輩のように)自分の気持ちに気づいてくれない人」が発達しつつあるという.下級生の女子生徒が,思いを寄せる先輩男子生徒を senpai 「先輩」と呼ぶ,あの特有の雰囲気から生じてきたものらしい.英単語 senpai は,今やアニメファンの界隈において新しいコノテーションを獲得しつつ,独特な用法をも発達させているようなのだ.
もっとも,senpai という語やその新語義が狭い界隈から抜け出して,より広く用いられることになるかどうかは分からない.いまだ主要な英語辞書にも登録されておらず,日本語からの借用語の最先端の事例といえそうだ.hibachi と似たような語義展開をたどっていくのだろうか.今後の展開が楽しみである.
関連して「#142. 英語に借用された日本語の分布」 ([2009-09-16-1]) も参照.
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