Geeraerts による,英語史と認知言語学 (cognitive_linguistics) のコラボを説く論考より.本来語 sore の歴史的な意味変化 (semantic_change) を題材にして,metaphor, metonymy, prototype などの認知言語学的な用語・概念と具体例が簡潔に導入されている.
現代英語 sore の古英語形である sār は,当時よりすでに多義だった.しかし,古英語における同語の prototypical な語義は,頻度の上からも明らかに "bodily suffering" (肉体的苦しみ)だった.この語義を中心として,それをもたらす原因としての外科的な "bodily injury, wound" (傷)や内科的な "illness" (病気)の語義が,メトニミーにより発達していた.一方,"emotional suffering" (精神的苦しみ)の語義も,肉体から精神へのメタファーを通じて発達していた.このメタファーの背景には,語源的には無関係であるが形態的に類似する sorrow (古英語 sorg)との連想も作用していただろう.
古英語 sār が示す上記の多義性は,以下の各々の語義での例文により示される (Geeraerts 622) .
(1) "bodily suffering"
þisse sylfan wyrte syde to þa sar geliðigað (ca. 1000: Sax.Leechd. I.280)
'With this same herb, the sore [of the teeth] calms widely'
(2) "bodily injury, wound"
Wið wunda & wið cancor genim þas ilcan wyrte, lege to þam sare. Ne geþafað heo þæt sar furður wexe (ca. 1000: Sax.Leechd. I.134)
'For wounds and cancer take the same herb, put it on to the sore. Do not allow the sore to increaase'
(3) "illness"
þa þe on sare seoce lagun (ca. 900: Cynewulf Crist 1356)
'Those who lay sick in sore'
(4) "emotional suffering"
Mið ðæm mæstam sare his modes (ca. 888: K. Ælfred Boeth. vii. 則2)
'With the greatest sore of his spirit
このように,古英語 sār'' は,あくまで (1) "bodily suffering" の語義を prototype としつつ,メトニミーやメタファーによって派生した (2) -- (4) の語義も周辺的に用いられていたという状況だった.ところが,続く初期中英語期の1297年に,まさに "bodily suffering" を意味する pain というフランス単語が借用されてくる.長らく同語義を担当していた本来語の sore は,この新参の pain によって守備範囲を奪われることになった.しかし,死語に追いやられたわけではない.prototypical な語義を (1) "bodily suffering" から (2) "bodily injury, would" へとシフトさせることにより延命したのである.そして,後者の語義こそが,現代英語 sore の prototype となった(他の語義が衰退し,この現代的な状況が明確に確立したのは近代英語期).
・ Geeraerts, Dirk. "Cognitive Linguistics." Chapter 59 of A Companion to the History of the English Language. Ed. Haruko Momma and Michael Matto. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2008. 618--29.
昨日の記事「#3999. want の英語史 --- 語源と意味変化」 ([2020-04-08-1]) で,want が「欠いている」→「必要である」→「欲する」という意味変化を経てきたことを説明した.意味変化といっても様々なタイプがある.古い意味 A が新しい意味 B に完全に取って代わられることもあれば,新しい意味 B が派生した後も古い意味 A が相変わらず残り,結果として両方の意味が並び立っているというケースもある.後者の場合,通時的にみれば複数の語義が蓄積してきたと表現できるし,共時的にみればその語に多義性 (polysemy) があると表現できることになる.want はまさにこの後者の例であり,新参の「欲する」という語義が圧倒的に優勢には違いないが,最も古い「欠いている」の語義も,次に古い「必要である」の語義も一応生き残っている.
以下,やや古めかしい響きをもつ例文もあるが,(1)--(3) では「欠いている」の語義が,(4)--(6) では「必要である」の語義が認められる.
(1) She wants courage. (彼女には勇気がない.)
(2) The time wants ten minutes to four. (4時10分前だ.)
(3) The sum wanted two dollars of the desired amount. (その金額は希望額に2ドル足りなかった.)
(4) This dirty floor wants a scrub. (この汚れた床はごしごし磨く必要がある.)
(5) This CD player wants repairing. (このCDプレーヤーは修理の必要がある.)
(6) Your hair wants to be cut. (君の髪の毛は刈る必要がある.)
(5) のように動名詞が続く構文は,意味的には受け身となる点で need の用法と同じである(cf. 「#3605. This needs explaining. --- 「need +動名詞」の構文」 ([2019-03-11-1])).
名詞 want も同様で,古い「必要」の語義も周辺的ながら残っている.The homeless are in want of shelter. (ホームレスは雨露をしのげる場所を求めている.)では,want を need に置き換えても通用する.また「欠乏,不足」の語義も for want of . . . (?不足のために)という句に残っている.これも for lack of . . . と言い換えることができる.Mother Goose の伝承童謡 (nursery rhyme) に,この句を繰り返す教訓詩として有名なものがある.
For want of a nail the shoe was lost. 釘がないので蹄鉄が打てない For want of a shoe the horse was lost. 蹄鉄が打てないので馬が走れない For want of a horse the rider was lost. 馬が走れないので騎士が乗れない For want of a rider the battle was lost. 騎士が乗れないので戦いが出来ない For want of a battle the kingdom was lost. 戦いが出来ないので国が滅びた And all for the want of a horseshoe nail. すべては蹄鉄の釘がなかったせい
多義語の学習はしばしば難しいが,なぜその語が多義なのかを考えてみるとおもしろい.過去に意味変化を経てきた過程で,古い語義の上に新しい語義が蓄積されてきた可能性が高いからだ.とりわけ意味変化に強い次の辞典をそばに置いておくと便利である.
・ ジョーゼフ T. シップリー 著,梅田 修・眞方 忠道・穴吹 章子 訳 『シップリー英語語源辞典』 大修館,2009年.
・ Room, Adrian, ed. NTC's Dictionary of Changes in Meanings. Lincolnwood: NTC, 1991.
構文文法では構文的多義性 (constructional polysemy) という考え方がある.同一の構文形式が,異なるけれども関係する複数の意味と結びついている状況を指す.中心的な意味から体系的に派生した意味が,いわば群をなして多義 (polysemy) を構成しているという捉え方だ.構文文法におけるプロトタイプ (prototype) 理論にほかならない.
S V O1 O2 をとる二重目的語構文の多義性を例にとろう.その中心的意味は,give の構文に代表されるように,S (= agent) が O1 (= recipient) に O2 (= patient) を能動的に首尾よく移動させることである.この中心的意味としては,patient に具体的な物が想定されているが,抽象的な方向へ拡がれば teach のような動詞がここに加えられるだろう.以下,中心的意味からの派生を Goldberg (38) の図により示す.
中心的意味に多少の制限をかけ,移動が成立するのに話者の義務が関与する方向で派生したのが,「保証」「約束」などを意味する左下のB群である.一方,むしろ移動を成立させないという否定の方向へ派生すると,「拒否」を意味する右下のC群となる.移動が未来の時点で起こることが前提とされる場合には,右上のD群が派生する.また,移動を「起こさせる」のではなく「可能にさせる」と若干弱めると,「許可」を表わす上部のE群が派生する.最後に,移動の意図が含意される場合には,左側のF群のような動詞も当該の構文を取ることができるようになる.
このように語の意味だけでなく構文の意味も,プロトタイプ理論にしたがって中心的なものから周辺的なものへと派生していき,結果として共時的に多義性を帯びるようになるというのが,constructional polysemy のポイントである.
・ Goldberg, Adele E. Constructions: A Construction Grammar Approach to Argument Structure. Chicago: U of Chicago P, 1995.
同音異義語 (homonymy),多義性 (polysemy),同音異義衝突 (homonymic_clash) の関係を巡る問題について,「#286. homonymy, homophony, homography, polysemy」 ([2010-02-07-1]),「#815. polysemic clash?」 ([2011-07-21-1]),「#1801. homonymy と polysemy の境」 ([2014-04-02-1]),「#2823. homonymy と polysemy の境 (2)」 ([2017-01-18-1]) などの記事で見てきた.とりわけ,同音異義衝突を回避しようとする話者の言語行動が言語変化を引き起こす要因であるとする主張について,理論的な立場からの反論は少なくないことに触れた(例えば,「#714. 言語変化における同音異義衝突の役割をどう評価するか」 ([2011-04-11-1]),「#717. 同音異義衝突に関するメモ」 ([2011-04-14-1]),「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]) を参照).
同音異義衝突の回避が話題になるのは,ほとんどの場合,単語レベル,主として内容語レベルである.しかし,機能語や形態素というレベルで考えてみると,同音異義衝突について新たな見方ができるように思われる.例えば,現代英語で形態素 -s は,名詞の複数を標示するのみならず,名詞(句)の所有格をも標示するし,動詞の3単現をも標示する.その意味で -s はその文法機能において多義的・同音異義的といってよく,ある意味で衝突が起こっているといえるわけだが,それを回避しようとする傾向は特に見当たらないように思われる.Hopper and Traugott の議論に耳を傾けよう.
. . . grammatical items are characteristically polysemous, and so avoidance of homonymic clash would not be expected to have any systematic effect on the development of grammatical markers, especially in their later stages. This is particularly true of inflections. We need only think of the English -s inflections: nominal plural, third-person-singular verbal marker; or the -d inflections: past tense, past participle. Indeed, it is difficult to predict what grammatical properties will or will not be distinguished in any one language. Although English contrasts he, she, it, Chinese does not. Although OE contrasted past singular and past plural forms of the verb (e.g., he rad 'he rode,', hie ridon 'they rode'), PDE does not except in the verb be, where we find she was/they were. (Hopper and Traugott 103)
機能語や形態素には内容語とは異なるメカニズムが作用しており,同音異義衝突に対する反応も異なっているのだと議論することは,ひょっとしたらできるかもしれないが,このような観点から改めて言語変化の要因としての同音異義衝突の回避を批判的に考察してみるのもおもしろいだろう.文法的な多義性・同音異義性という話題は奥が深そうだ.
・ Hopper, Paul J. and Elizabeth Closs Traugott. Grammaticalization. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
昨日の記事に引き続き,industry の多義性と意味変化について.industry という語について,「器用さ」から「勤勉」の語義が発展し,さらに「産業」へと展開した経緯は,労働観が中世的な「個人の能力」から近代的な「集団的な効率」へとシフトしていった時代の流れのなかでとらえられる.
西洋においても日本においても,中世の時代には,領主から独立して農業をうまく経営する「器用な」農民は自分の時間を管理する達人であり,その意味で「勤勉」であった.しかし,近代に入ると,分業と協業を旨とする工場で働く労働者にとって,「勤勉」とは,むしろ他の皆に合わせて時間内に決まった仕事をこなす能力を指すようになった.つまり,いまや「勤勉な」労働者とは,個人的に才覚のある人間ではなく,むしろ没個性的に振る舞い,集団のなかでうまく協働できる人間を指すようになったのである.これは,18世紀後期に industry の後発の語義(=産業)が本格的に到来したことにより,元からある語義(=勤勉)の社会的な定義が変わったことを意味する.「勤勉」の語義そのものは,英語に借用された15世紀後期から断絶せずに,ずっと継続しているが,その指し示す範囲や内容,もっといえば社会的に「勤勉」とは何を意味するのかという価値観自体は変容してきたのである.現在「勤勉」といって喚起されるイメージは,およそ近代にできあがったものであり,それ以前の時代の「勤勉」とは別物だったと考えてよい.
industry の「勤勉」を巡る近代的な価値観の変化は,industry の意味の変化そのものというよりは,それに対する社会の態度の変化というべきものである.しかし,これを意味変化の一種と緩くとらえるのならば,「#1953. Stern による意味変化の7分類 (2)」 ([2014-09-01-1]) でいうところの,「A 外的要因」の「i 代用」のうちで「(c) 指示対象に対する態度の変化」に属するものといえるだろう.社会史的な関心からみれば,industry の「勤勉」の語義も,中世から近代にかけてある種の意味変化を起こしてきたといえるのである.このような意味変化は語源辞典からも容易に読み取れない類いのものだが,社会史的にはすこぶる重要な価値をもつ意味変化である.
多くの辞書で industry という語の第1語義は「産業;工業」である.heavy industry (重工業),the steel industry (鉄鋼業)の如くだ.そして,第2語義として「勤勉」がくる.a man of great industry (非常な勤勉家)という表現や,Poverty is a stranger to industry. 「稼ぐに追い付く貧乏なし」という諺もある.2つの語義は「勤労,労働」という概念で結びつけられそうだということはわかるが,明らかに独立した語義であり,industry は典型的な多義語ということになる.実際,形容詞は分かれており,「産業の」は industrial,「勤勉な」は industrious である.
語源を遡ると,ラテン語 industria (勤勉)に行き着く.これは indu- (in) + struere (to build) という語形成であり,「内部で造る」こと,すなわち個人的な自己研鑽や知識・技能の修養という意味合いがあった.原義は職人に求められる「器用さ」や「腕の達者」だったのである.この単語がこの原義を携えて,フランス語経由で15世紀後半の英語に入ってきた.そして,すでに15世紀末までには,原義から「勤勉」の語義も発達していた.
16世紀になると,これまでの個人的な職業と結びつけられていた語義が,より集合的な含意を得て「産業」の新語義が生じる.しかし,この新語義が本格的に用いられるようになったのは18世紀後期のことである.1771年にフランス語 industrie がこの語義で用いられたのに倣って,英語での使用が促進されたという.この年代は,後に Industrial Revolution (産業革命)と命名された社会の一大潮流の開始時期とおよそ符合する.
対応する形容詞の歴史を追っていくと,原義に近い「達者な,器用な」「勤勉な」の意味で industrious がすでに15世紀後期に現われている.実は「産業の」を意味する industrial も同じ15世紀後期には現われており,その点ではさして時間差はない.しかし,industrial (産業の)が本格的に用いられるようになったのは,18世紀に対応するフランス語 industriel の影響を受けてからであり,主として19世紀以降である.
名詞形も形容詞形も,18世紀後期が用法の点でのターニングポイントとなっているが,これは上でも触れたとおり Industrial Revolution の社会的・言語的な影響力に負っている.なお,Industrial Revolution という用語は,1840年に初出するが,1848年に John Stuart Mill (1806--73) によって導入されたといってよく,それが歴史学者 Arnold Toynbee (1852--83) によって広められたという経緯をもつ.
state には,原義としての「状態」のほか「国家」という語義がある.この語は,古フランス語 estat が初期中英語に入ったものであり,それ自体はラテン語 status からの借用語である.これはラテン語の動詞 stāre "to stand" の名詞形なので,本来的な意味は「立場,姿勢」ほどである.
その後,ラテン語でもフランス語でも様々な意味変化を経て多義語となったが,英語もその経路をなぞるようにして語義を発展させていった.「状態,形勢」から「地位,身分」へと発展し,さらに「威厳」や「階級」へも展開した.意味を限定して「支配階級」となると,その後「為政者集団」,そして集合的に「国家」にたどり着くまでの道のりは遠くなかった.このようにして,英語における state =「国家」の語義は,まさに近代国家の現われる16世紀前半に初出する.
さて,「国家」の語義を発展させた state と,「統計学」を意味する statistics の関わりは思いのほか深い.statistics の英語での初出は1787年と案外遅く,ドイツ語で造語された Statistik を借りたものだが,当時の意味は「国家の政治的事実の研究」ほどだった.つまり,statistics とは政治学の1分野として発展してきたものなのである.「国家の政治的事実」の最たるものは人口統計であり,国家,政治,人口,統計というキーワードは互いに結び付きが強かったのである.
日本語では,英語の population census を単なる「人口調査」ではなく,ものものしく「国勢調査」と訳している.これは,幕末から明治にかけての日本人が,西洋の思想と学問に触れ,statistics の訳語を検討した際に,現在に続く「統計学」のほか「国勢学」「形勢学」「政表」などの訳語を試用したことと無縁ではない.
最近は,言語学でも少し数字を駆使すれば "stats" として提示できるような,ある種の「軽さ」も禁じ得ない雰囲気があるが,本来 statistics は「国家」の影のちらつく,ものものしく重々しい語感を備えていたもののようだ.
1月9日の読売新聞朝刊の「翻訳語事情」に,population census = 「国勢調査」に関する記事があったので参考まで.
2月6日の読売新聞朝刊のコーナー「翻訳語事情」に,generation の訳語としての「世代」について,解説があった.本来,「世代」という漢語は「年代」「時代」「代々」「世々代々」ほどの意味で使われていたが,明治後半の教科書などで生物学用語として遺伝的な意味での「世代」が広まっていったという.さらに,19--20世紀にドイツ人文学から「歴史的体験を共有する同年齢層の集団」を意味する用法が哲学,社会学,芸術,文学などにおいて広がった.とりわけカール・マンハイム (1893--1947) が社会学的見地から「世代」を考察したことで,その潮流を受けた日本においても,現代的な意味での「世代」が定着するようになった.
生物学的な「世代」と社会学的な「世代」とでは,形としては同じ単語であっても,大きな意味の差がある.前者は順に交替していくという意味での段階性を表わすのに対して,後者は同年齢層集団としての継続性が含意される.例えば「団塊の世代」の価値観は,時とともに構成員の年齢は上がっていくものの,それ自体は変化しないという点で継続性があるといえる.
しかし,解説者の斎藤希史氏によれば,両方の意味において共通しているのは,「世代という語には,世の中を輪切りにして,断絶を意識させる傾向がある」ということだ.だが,冒頭に述べた原義にたち帰れば,「世々代々」とは「世を重ねて未来へ続いていくイメージ」があった.つまり,「世代」と聞いて喚起するイメージは,「世代交替」よりは「世代間交流」のほうに近かった可能性がある.
「世代」に対する2つのイメージの差は,言語変化を考察するに当たっても示唆的である,生成文法の立場からは,言語変化とは文法変化のことであり,そこでは「世代交代」の発想が原則である.しかし,社会言語学的な立場から見れば,言語変化のイメージは「世代間交流」のほうに近いだろう.年上話者層と年下話者層では,確かに言葉遣いの平均値は異なっているだろうが,個々の話者を見れば,年下の言葉遣いの影響を受ける年上の人もいれば,その逆のケースもある.両話者層は,生まれた年代は異なるものの,現在を含むある幅の期間,(言語)生活を共有しているのだから,その共有の程度に応じて,多少なりとも存在している言語上の格差は薄められるだろう.言語変化は,世代交替によりカクカクと進んでいく側面もあるかもしれないが,世代間交流によりあくまで緩やかに進んでいくという部分が大きいのではないか.
Bloomfield の言語変化における「世代」の認識も,「#1352. コミュニケーション密度と通時態」 ([2013-01-08-1]) で見たように,「世代間交流」の発想に近かったように思われる.
標題について「#286. homonymy, homophony, homography, polysemy」 ([2010-02-07-1]),「#815. polysemic clash?」 ([2011-07-21-1]),「#1801. homonymy と polysemy の境」 ([2014-04-02-1]),「#2174. 民間語源と意味変化」 ([2015-04-10-1]) などで扱ってきた.今回はもう2つの例を挙げ,同音異義 (homonymy) と多義 (polysemy) の境界の曖昧性について改めて考えてみたい.
意味論の概説書を著わした Saeed (65) が,英語から sole と gay の語を挙げている.sole には,名詞として "bottom of the foot" (足の裏)と "flatfish" (カレイの仲間)の2つの語義がある.両語義は多くの母語話者にとって互いに関係のないものとして理解されており,したがって同音異義語と認識されている.しかし,歴史的にはラテン語 solea "sandal" がフランス語経由で英語に入ったものであり,同根である.確かに,言われてみれば,ともに平べったい「サンダル」である.辞書での扱いもまちまちであり,2つの見出し語を立てているものもあれば,1つの見出し語のもとに2つの語義を分けているものもある.とすると,公正な立場を取るのであれば,歯切れは悪いが,両者の関係は homonymy でもあり polysemy でもあると結論せざるを得ない.
もう1つの例は,形容詞 gay である.この語には "homosexual" (同性愛の)と "lively, light-hearted, bright" (陽気な)という,2つの主たる意味がある.特に若い世代にとって,両語義の関連は,あったとしても薄いものに感じられるようで,その点では homonymy の関係にあると把握されているのではないか.しかし,なかには両語義は相互に関係するととらえている人もいるかもしれないし,実際,通時的には「陽気な」から「同性愛の」への意味変化が生じたものとされている.ここでも,ある人にとっては homonymy,別の人にとっては polysemy という状況が見られる.ある見方をすれば homonymy,別の見方をすれば polysemy と言い換えてもよい.
客観的な意味論の観点から,いずれの関係かを決めることは極めて難しい.homonymy と polysemy の境について,言語学的に理論化するのが困難な理由が分かるだろう.
gay の用法については,American Heritage Dictionary の Usage Note より gay も参照.
・ Saeed, John I. Semantics. 3rd ed. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2009.
現代英語で「悲しい」を意味する sad は,古英語の sæd に対応するが,後者には「悲しい」の語義はなく,当時の意味は「満足した,十分な;飽きた」だった.ゲルマン祖語の形態は *saðaz と再建されており,ゲルマン諸語の同根語はオランダ語 zat, ドイツ語 satt, 古ノルド語 saðr, ゴート語 saþs となる.さらに印欧祖語に遡ると *sā "to satisfy" にたどりつき,ここからはラテン語 satis "enough" も生まれている.したがって,ラテン語から英語に入った satis, satisfaction, satisfy は,sad と同じ語根をもっていることになる.
古英語の語義「満足した」はその後15世紀半ばまで存続したが,一方で「悲しい」の語義が1300年までに生じていた.14世紀中には「確固たる」「真剣な,まじめな」などの語義も生じている.したがって,中英語には,上記の様々な語義が共存していた.例えば,Cursor Mundi では,原義の「満足した」が Thof that thou euer vpon him se, / Of him sadd sal thou neuer be. として観察されるし,Chaucer の "The Man of Law's Tale" からは In Surrye whilom dwelte a compaignye / Of chapmen riche and therto sadde and trewe. では「まじめな」の語義が認められる.同じく Chaucer の The Romaunt of the Rose では,現代的な語義が She was cleped Avarice. . . Full sad and caytif was she. において見られる.
このように,複数の語義が,初出年代は多少前後するものの14世紀前半辺りに立て続けに現われていることから,いずれかの語義がつなぎ役となって,原点「満足した」から仕舞いには「悲しい」へと到着したものと想像される.しかし,いかなる「つなぎ」により,「満足した」から「悲しい」へ至ったのかという問題については,確かなことはわかっていない.シップリーの語源辞典では「十分に満たされると飽きた (sated) 気持ちになり,少しもの悲しく (sad) なるものである」と述べられているが,別の可能性もある.例えば,食べ過ぎて「満足した」状態になると,人間は動きたくなくなり,実際に動けなくなる.動けずに居座っていると「腰を据えた,落ち着いた,安定した」あるいは「重々しい」状態となる.ここから「真剣な,まじめな」が生じ,これが度を超すと「悲しい,悲壮な」状態に至る,という道筋はどうだろうか.『英語語義語源辞典』はこの道筋を取っているようだ.
sad については,「#1954. 意味変化によって意味不明となった英文」 ([2014-09-02-1]) でも少し触れているので,要参照.
・ ジョーゼフ T. シップリー 著,梅田 修・眞方 忠道・穴吹 章子 訳 『シップリー英語語源辞典』 大修館,2009年.
・ 小島 義郎,岸 暁,増田 秀夫・高野 嘉明(編) 『英語語義語源辞典』 三省堂,2007年.
10月6日付の朝日新聞に,JICA がミャンマー農業支援のために「除湿機」 を購入すべきところ「加湿機」を購入してしまい,検査院に指摘されたという記事があった.英語表記で,加湿機は humidifier,除湿機は dehumidifier なので,de- の有無が明暗を分けたという事の次第だ.日本語でも,1漢字あるいは1モーラで大違いの状況である.同情の余地もないではないが,そこには260万円という金額が関わっている.
接頭辞 de- は,典型的に動詞の基体に付加して,その意味を反転させたり,除去の含意を加えたりする.もともとはラテン語で "off" ほどに相当する副詞・前置詞 de- に由来し,フランス語を経て英語に入ってきた語もあれば,直接ラテン語から入ってきた語,さらに英語内部で造語されたものも少なくない.起源は外来だが,次第に英語の接頭辞として成長してきたのである.de- の語義は,細分化すれば以下の通りになる (Web3 より).
1. 行為の反転 (ex. decentralize, decode; decalescence)
2. 除去 (ex. dehorn, delouse; dethrone)
3. 減少 (ex. derate)
4. 派生の起源(特に文法用語などに) (ex. decompound, deadjectival, deverbal)
5. 降車 (ex. debus, detrain)
6. 原子の欠如 (ex. dehydro-, deoxy-)
7. 中止 (ex. de-emanate)
ここには挙げられていないが,「#2638. 接頭辞 dis- 」 ([2016-07-17-1]) で触れたように,de- は dis- と混同され,意味的な影響を受けたとも言われている.また,その記事でも触れたが,基体がもともと否定的な意味を含んでいる場合には,de- のような否定的な接頭辞がつくと,その否定性が強調される効果を生むため,「強調」の用法ラベルがふさわしくなることもある.例えば,decline では,cline がもともと「曲がる,折れる」と下向きのややネガティヴな含意をもっているので,de- の用法は「減少」であるというよりは「強調」といえなくもない.denude や derelict の de- も基体の含意がガン愛ネガティヴなので,de- が結果として「強調」用法と解されている例だろう.
問題の dehumidifier の de- を「強調」用法としてかばうことはできそうにないが,接頭辞の多義性には注意しておきたい.
接頭辞 dis- について,次の趣旨の質問が寄せられた.動詞に付加された disable や形容詞に付加された dishonest などにみられるように,dis- は反転や否定を意味することが多いが,solve に対して接頭辞が付加された dissolve にはそのような含意が感じられないのはなぜなのか.確かに,基体の原義は語源をひもとけばそれ自体が「溶解する」だったのであり,dis- を付加した語の意味には反転や否定の含意はない.
まず,接辞の意味の問題について前提とすべきことは,通常の単語と同様に多くのものが多義性 (polysemy) を有しているということだ.そして,たいていその多義性は1つの原義から意味が派生・展開した結果である.接頭辞 dis- についていえば,確かに主要な意味は「反転」「否定」ほどと思われるが,ソースであるラテン語(およびギリシア語)での同接頭辞の原義は「2つの方向へ」ほどである.語源的にはラテン語 duo (two) と関連し,その古い形は *dvis だったと想定される.つまり,原義は2つへの「分離」である.discern, disrupt, dissent, divide などにその意味を見て取ることができる(接頭辞語尾の子音は,基体との接続により消失したり変形したりすることがある).そこから「選択」「別々」の意味が発展し,dijudicate, dinumerate などが生じた.「分離」から「剥奪」「欠如」が生じるのは自然であり,さらにそこから「否定」「反対」の意味が発展したことも,大きな飛躍ではないだろう.こうして disjoin, displease, dissociate, dissuade などが形成された.
次に考えるべきは,上述の接頭辞の意味は,基体の意味との関係において定まることがあるということだ.もともと基体に「分離」「否定」などの意味が含まれている場合には,接頭辞は事実上その「強調」を表わすものとして機能する.dissolve はこの例であり,類例は少ないが disannul, disembowel などもある.基体の意味と調和すれば,接頭辞の意味が「強調」となるのは,dis- に限らない.
最後に,この接頭辞の形態と綴字について述べておく.英語語彙における dis- は,音環境に応じて子音語尾が消えて di- となって現われることもあれば,ラテン語の別の接頭辞 de- と合流して de- で現われることもある.また,フランス語を経由したものは des- となっているものもある (cf. 「#2071. <dispatch> vs <despatch>」 ([2014-12-28-1])) .関連して,語源的には別の接頭辞だが,ラテン語やギリシア語の学術的な雰囲気をかもす dys- がある(ときに dis- と綴られる).こちらは「病気」「不良」「異常」を含意し,例として dysfunction, dysphemism などが挙げられる.
以下に,Web3 から接頭辞 dis- の記述を挙げておこう.
1dis- prefix [ME dis-, des-, fr. OF & L; OF des-, dis-, fr. L dis-, lit., apart, to pieces; akin to OE te- apart, to pieces, OHG zi-, ze-, Goth dis- apart, Gk dia through, Alb tsh- apart, L duo two] 1 a : do the opposite of : reverse <a specified action) <disjoin> <disestablish> <disown> <disqualify> b : deprive of (a specified character, quality, or rank) <disable> <disprince> : deprive of (a specified object) <disfrock> c : exclude or expel from <disbar> <discastle> 2 : opposite of : contrary of : absence of <disunion> <disaffection> 3 : not <dishonest> <disloyal> 4 : completely <disannul> 5 [by folk etymology]: DYS- <disfunction> <distrophy>
昨日の記事「#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論」 ([2015-12-23-1]) で,Bolinger の視覚的形態素 (visual morpheme) という用語を出した.それによると,書記言語の一部には,音声言語を媒介しない直接的な表形態素性を示す事例があるという.Bolinger (335--38) は現代英語の正書法の綴字を題材として,いくつかの種類に分けて事例を紹介している.説明や例を,他からも補いながら解説しよう.
(1) 同音異綴語 (homonyms) .例えば,"Sea is an ocean and si is a tone, as you can readily see." という言葉遊びに見られるような例だ.ここでは文脈のヒントが与えられているが,3語が単体で発音されれば区別がつかない.しかし,書記言語においては3者は明確に区別される.したがって,これらは目に見える形で区別される形態素と呼んでよい.おもしろいところでは,"The big clock tolled (told) the hour." や "The danger is safely passed (past)." のように,単語対の使い分けがほとんど意味の違いに結びつかないような例もある.
(2) 綴字の意味発達 (semantic evolution of spellings) .本来的には同一の単語だが,綴字を異ならせることにより,意味・機能を若干違えるケースがある.let us と let's,good and と good などがその例である.gray と grey では,前者が She has lovely gray eyes. などのように肯定的に用いられる傾向があるのに対して,後者は It was a grey, gloomy day. などのように否定的に用いられるとも言われる.check/cheque, controller/comptroller, compliment/complement なども類例ととらえられるかもしれない.なお,Hall (17) は,この (2) の種類を綴字の "semantic representation" と呼んでおり,文学ジャンルとしての fantasy と幻想としての phantasy の違いや,Ye Olde Gifte Shoppe などにおける余剰的な final_e の効果に注目している (cf. 「#13. 英国のパブから ye が消えていくゆゆしき問題」 ([2009-05-11-2]),「#1428. ye = the」 ([2013-03-25-1])) .(1) と (2) の違いは,前者が homonymy で,後者が polysemy に対応すると考えればよいだろうか.
(3) 群集 (constellations) .ある一定の綴字をもつ語群が,偶然に共有する意味をもつとき,その綴字と意味が結びつけられるような場合に生じる.例えば,行為者接尾辞 (agentive suffix, subject suffix) の -or は,adjustor, auditor, chancellor, editor, mortgagor, sailor, settlor, tailor などに示唆されるように,-er に比べて専門性や威信の高さを含意するようである (see 「#1748. -er or -or」 ([2014-02-08-1])) .また,接尾辞 -y と -ie では,後者のほうが指小辞 (diminutive) としての性格が強いように感じられる.このような事例から,音声言語における phonaesthesia の書記言語版として "graphaesthesia" なる術語を作ってもよいのではないか.
(4) 視覚的な掛詞 (visual paronomasia) .視覚的な地口として,収税吏に宛てた手紙で City Haul であるとか,意図的な誤綴字として古めかしさを醸す The Compleat Military Expert など.「海賊複数の <z>」 ([2011-07-05-1]) や「#825. "pronunciation spelling"」 ([2011-07-31-1]) の例も参照.
(5) 綴字ではなく句読点 (punctuation) を利用するものもある.the dog's masters と the dogs' masters は互いに異なる意味を表わすし,the longest undiscovered vein と the longest-undiscovered vein も異なる.「#1772. greengrocer's apostrophe」 ([2014-03-04-1]) も,この種類に数えられるだろう.
以上の "visual morpheme" は,いずれも書記言語にのみ与えられている機能である.
・ Bolinger. "Visual Morphemes." Language 22 (1946): 333--40.
・ Hall, Robert A., Jr. "A Theory of Graphemics." Acta Linguistica 8 (1960): 13--20.
意味の曖昧性 (semantic vagueness) は,意味変化において重要な意味をもつ.曖昧さとは「漠然とした,はっきりしない」という点で,伝統的な言語論では否定的に扱われてきたが,Wittgenstein (1889--1951) が語彙と意味におけるファジーでアナログな家族的類似 (family resemblance) を指摘して以来,むしろ言語における重要で有用な要素であると考えられるようになった (cf. 「#1964. プロトタイプ」 ([2014-09-12-1])) .しかし,曖昧性といってもいくつかの種類がある.Waldron (146--48) に従って4つに分類しよう.
(1) ambiguity. 意味解釈に2つ以上の選択肢があり,そのいずれが意図されているかを特定できない場合.これは,言語項が必然的にもつ多義性 (polysemy) の結果といえる.He gave me a ring. における ring など語彙的な ambiguity もあれば,Flying planes can be dangerous. のような統語的な ambiguity もある.
(2) generality. 一般的あるいは抽象的な語が用いられるとき,実際にどの程度の一般性あるいは抽象性が意図されているのか不明な場合がある.例えば,some, often, likely, soon, huge といった場合,具体的には各々どれほどの程度なのか.また,thing, act, case, fact, way, matter などの抽象的な語では,実際に何が指示されているのか判断できないことがある.この意味での曖昧性は,「#1962. 概念階層」 ([2014-09-10-1]) でみた概念階層 (conceptual hierarchy) あるいは包摂関係 (hyponymy) の上下関係の問題と関連する.
(3) variation. ある語の厳密な定義が,話者の間で揺れている場合.例えば,honour とは何か,justice, wicked, fair, culture, education, conservative, democratic とは何であるかについては,個人によって意見が異なる.抽象語に広く見られる現象.
(4) indeterminacy. 指示対象の境目がはっきりしない場合.例えば,shoulder, neck, lip など体の部位の範囲は各々どこからどこまでなのか,morning, afternoon, evening のあいだの区別は何時なのか等々,指示対象自体の物理的な範囲が明確に定められていない,あるいは明確に定める必要も特に感じられない場合である.
(1) は意味変化の結果としての多義性に基づくが,(2), (3), (4) は多義性を生み出す意味変化の種ともなりうることに注意したい.曖昧さ,多義性,意味変化の相互関係は複雑である.
・ Waldron, R. A. Sense and Sense Development. New York: OUP, 1967.
昨日の記事「#2173. gospel から d が脱落した時期」 ([2015-04-09-1]) で,gospel が "good + spell" ではなく "God + spell" と「誤って」解釈されたとする説を紹介した.民間語源の一種である.民間語源については,これまでも folk_etymology の各記事で sand-blind, bikini/monokini, wedlock, bridegroom, bonfire などの例を挙げてきた.
民間語源では,同じあるいは類似した音形をもつ2つの形態素の間に意味的結びつきが生じることによって起こる.上の例でいえば,それぞれ sam- (半分の)と sand (砂),bi- (それ自身は無意味な非形態素)と bi- (2つの),-lāc (動作名詞の接尾辞)と lock (錠前),guma (人間)と groom (若者),bone (骨)と bon (良い)とが結びつき,結果として元来の前者の表す意味よりも後者の表わす意味が前面に出てきて,現在はその意味で理解されることが多い.ここで生じていることは,やや雑ぱくながらも別の言い方をすれば,2つの同音異義形態素 (homonymic morphemes) が,意味的につながりのあるもの,すなわち1つの多義形態素 (polysemic morpheme) として再解釈される過程である.つまり,多義化の一種といえるが,元来の語義が忘れ去られ,消失してしまえば,古い意味から新しい意味への意味変化が生じたことにもなる.この点で,民間語源は意味変化と密接な関係にある.
ただし注意したいのは,民間語源は,2つの形態素が厳密に同じ音形でなくとも,ある程度類似さえしていれば生じることができるという点である.実際,上に挙げた例の多くに見られるのは,同一ではなく類似した音形の対にすぎない.一方で,意味変化とは,同一の音形 (signifiant) に対応する意味 (signifié) が,あるものから他のものへと置き換わることである.したがって,民間語源と意味変化の関係はやや複雑だ.民間語源の生じる過程は,厳密に同じではないが類似する2つの音形という緩いつながりのもとに,意味の連関,多義化,意味変化が生じる過程である.民間語源が意味変化の例と呼びうるのは,このような間接的な意味においてのみだろう.
民間語源と意味変化の込み入った関係について,Luján (292) は次のように述べている.
Folk etymology plays an important role in morphological reshaping and in lexical modification, and it must be mentioned here in connection with semantic change---a synchronically unanalyzable word or expression is restructured, so that its form allows for a semantic connection with other lexical items in the same language. This is what has happened in well-known cases as English asparagus → sparrow-grass or chaise lounge (from chaise longue 'long chair').
この関係には,homonymy (同義)と polysemy (多義)の区別の問題も関わってくるに違いない.両者の区別の曖昧さについては,「#286. homonymy, homophony, homography, polysemy」 ([2010-02-07-1]),「#815. polysemic clash?」 ([2011-07-21-1]),「#1801. homonymy と polysemy の境」 ([2014-04-02-1]) を参照されたい.
・ Luján, Eugenio R. "Semantic Change." Chapter 16 of Continuum Companion to Historical Linguistics. Ed. Silvia Luraghi and Vit Bubenik. London: Continuum International, 2010. 286--310.
「#1976. 会話的含意とその他の様々な含意」 ([2014-09-24-1]) で,異なる種類の含意 (implicature) を整理した.このなかでも特に相互の区別が問題となるのは,Grice の particularized conversational implicature, generalized conversational implicature, conventional implicature の3種である.これらの含意は,この順序で形態との結びつきが強くなり,慣習化あるいはコード化の度合いが高くなる.
ところで,これらの語用論的な含意と意味変化や多義化とは密接に結びついている.意味変化や多義化は,ある形態(ここでは語を例にとる)と結びつけられている既存の語義に,新しい語義が付け加わったり,古い語義が消失していく過程である.意味変化を構成する基本的な過程には2つある (Kearns 123) .
(1) Fa > Fab: Form F with sense a acquires an additional sense b
(2) Fab > Fb: Form F with senses a and b loses sense a
(1) はある形態 F に結びつけられた語義 a に,新語義 b が加えられる過程,(2) はある形態 F に結びつけられた語義 a と b から語義 a が失われる過程だ.(1) と (2) が継起すれば,結果として Fa から Fb へと語義が推移したことになる.特に重要なのは,新らしい語義が加わる (1) の過程である.いかにして,F と関連づけられた a の上に b が加わるのだろうか.
ここで上記の種々の含意に参加してもらおう.particularized conversational implicature では,文字通りの意味 a をもとに,推論・計算によって含意,すなわち a とは異なる意味 b が導き出される.しかし,それは会話における単発の含意にすぎず,形態との結びつきは弱いため,定式化すれば F を伴わない「a > ab」という過程だろう.一方,conventional implicature は,形態と強く結びついた含意,もっといえば語にコード化された意味であるから,意味変化の観点からは,変化が完了した後の安定した状態,ここでは Fab という状態に対応する.では,この2つの間を取り持ち,意味変化の動的な過程,すなわち (1) で定式化された「Fa > Fab」の過程に対応するものは何だろうか.それは generalized conversational implicature である.generalized conversational implicature は,意味変化の過程の第1段階に関わる重要な種類の含意ということになる.
会話的含意と意味変化の接点はほかにもある.例えば,意味変化の典型的なパターンである一般化 (generalisation) と特殊化 (specialisation) (cf. 「#473. 意味変化の典型的なパターン」 ([2010-08-13-1])) は,協調の原則 (cooperative principle) に基づく含意という観点から論じることができる.Grice を受けて協調の原則を発展させた新 Grice 派 (neo-Gricean) の Horn は,一般化は例外なく,そして特殊化も主として R[elation]-principle ("Make your contribution necessary.") によって説明されるという (Kearns 129--31) .
Kearns は,implicature と metonymy や metaphor との関係についても論じている.そして,意味変化における implicature の役割の普遍性について,次のように締めくくっている.
. . . if implicature is construed broadly to subsume all the inferential processes available in language use, then most, perhaps all of the major types of semantic change can be attributed to implicature. Differentiating more finely, metaphor and metonymy (which are themselves not always readily distinguishable) produce the ambiguity or polysemy pattern of added meaning, in contrast to the merger pattern, which is commonly attributed to information-strengthening generalized conversational implicature . . . . On an alternative view, implicature (narrowly construed) and metonymy are grouped together in contrast to metaphor, on the grounds that the two former mechanisms are based on sense contiguity, while metaphor is based on sense comparison or analogy. (139)
・ Kearns, Kate. "Implicature and Language Change" Variation and Change. Ed. Mirjam Fried et al. Amsterdam: Benjamins, 2010. 123--40.
基本語彙と呼ばれるものの多面的な性質について「#1960. 英語語彙のピラミッド構造」 ([2014-09-08-1]) で触れた.基本語彙とは,日常的で頻度が高く,早期に習得され,変化しにくく,意味・用法が多岐にわたるなどの特徴をもつ.関連する話題は,「#308. 現代英語の最頻英単語リスト」 ([2010-03-01-1]),「#1089. 情報理論と言語の余剰性」 ([2012-04-20-1]),「#1091. 言語の余剰性,頻度,費用」 ([2012-04-22-1]),「#1101. Zipf's law」 ([2012-05-02-1]),「#1874. 高頻度語の語義の保守性」 ([2014-06-14-1]),「#1961. 基本レベル範疇」 ([2014-09-09-1]),「#1965. 普遍的な語彙素」 ([2014-09-13-1]) その他の記事でいろいろと扱ってきた.
今回は,この問題と関連して,高頻度語は多義的であるという命題について考えてみたい.頻度の高い語ほど語義を多くもち,頻度の低い語は語義を多くもたないということは言語使用の事実に照らして実証されるだろうか.また,理論的にいかに説明されるだろうか.Zipf's law で知られる Zipf は,情報理論の立場からこの課題に挑んだ.
Zipf は,E. L. Thorndike の英語最頻20,000語と Thorndike-Century Senior Dictionary に基づき,語の頻度と語義数の相関関係を探った.この辞書は,古語や廃語などの特殊な register をもつ語義は掲載しておらず,一般的に用いられる語義のみを掲載している.丹念に調査した結果,ある頻度域と,そこに属する語が示す平均語義数との間に,明らかな相関関係が見いだされた.以下は,Zipf (253) に示されているグラフを再現したものである.両軸ともに対数軸であり,X軸は頻度順位を,Y軸は頻度域の平均語義数を表わす.
傾きはほぼ0.5に等しく,これは話者の発話と聴者の聴解にかかる費用に関する理論の予測と符合するという.その理論の数学的裏付けは私の理解を超えるので解説できないが,Zipf は結論として語の語義数と頻度(順位)の関係について次のように定式化した (Zipf 255) .
. . . different meanings of a word will tend to be equal to the square root of its relative frequencies (with the possible exception of the few dozen most frequent words)
背景には,多義の定義やある語の語義をいかに区分するかといった意味論の側で問うべき問題もおおいにあるが,示唆に富んだ結論である.関連して,「#1091. 言語の余剰性,頻度,費用」 ([2012-04-22-1]) や zipfs_law の各記事も参照されたい.
・ Zipf, G. K. "The Meaning-Frequency Relationship of Words." Journal of General Psychology 33 (1945): 251--66.
英語語彙に特徴的な三層構造について,「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1]),「#335. 日本語語彙の三層構造」 ([2010-03-28-1]),「#1296. 三層構造の例を追加」 ([2012-11-13-1]) などの記事でみてきた.三層構造という表現が喚起するのは,上下関係と階層のあるビルのような建物のイメージかもしれないが,ビルというよりは,裾野が広く頂点が狭いピラミッドのような形を想像するほうが妥当である.つまり,下から,裾野の広い低階層の本来語彙,やや狭まった中階層のフランス語彙,そして著しく狭い高階層のラテン・ギリシア語彙というイメージだ.
ピラミッドの比喩が適切なのは,1つには,高階層のラテン・ギリシア語彙のもつ特権的な地位と威信がよく示されているからだ.社会言語学的,文体的に他を圧倒するポジションについていることは,ビル型よりもピラミッド型のほうがよく表現できる.
2つ目として,それぞれの語彙の頻度が,ピラミッドにおける各階層の面積として表現できるからである.昨日の記事「#1959. 英文学史と日本文学史における主要な著書・著者の用いた語彙における本来語の割合」 ([2014-09-07-1]) でみたように,話し言葉のみならず書き言葉においても,本来語彙の頻度は他を圧倒している(なお,この分布は,「#1645. 現代日本語の語種分布」 ([2013-10-28-1]) でみたように,現代日本語においても同様だった).対照的に,高階層の語彙は頻度が低い.個々の語については反例もあるだろうが,全体的な傾向としては,各階層の頻度と面積とは対応する.もっとも,各階層の語彙量(異なり語数)ということでいえば,必ずしもそれがピラミッドの面積に対応するわけでない.最頻100語(cf. 「#309. 現代英語の基本語彙100語の起源と割合」 ([2010-03-02-1]) と最頻600語(cf. 「#202. 現代英語の基本語彙600語の起源と割合」 ([2009-11-15-1]))で見る限り,語彙量と面積はおよそ対応しているが,10000語というレベルで調査すると,「#429. 現代英語の最頻語彙10000語の起源と割合」 ([2010-06-30-1]) でみたように,上で前提としてきた3階層の上下関係は崩れる.
ピラミッドの比喩が有効と考えられる3つ目の理由は,ピラミッドにおける各階層の面積が,頻度のみならず,構成語のもつ意味と用法の広さにも対応しているからだ.本来語は相対的に卑近であり頻度も高いが,そればかりでなく,多義であり,用法が多岐にわたる.基本的な語義が同じ「与える」でも,本来語 give は派生的な語義も多く極めて多義だが,ラテン借用語 donate は語義が限定されている.また,give は文型として SVOiOd も SVOd to Oi も取ることができる(すなわち dative shift が可能だ)が,donate は後者の文型しか許容しない.ほかには「#112. フランス・ラテン借用語と仮定法現在」 ([2009-08-17-1]) で示唆したように,語彙階層が統語的な振る舞いに関与していると疑われるケースがある.
この第3の観点から,Hughes (43) は,次のようなピラミッド構造を描いた.
上記の3点のほかにも,各階層の面積と語の理解しやすさ (comprehensibility) が関係しているという見方もある.結局のところ,語彙階層は,基本性,日常性,文体的威信の低さ,頻度,意味・用法の広さといった諸相と相関関係にあるということだろう.ピラミッドの比喩は巧みである.
・ Hughes, G. A History of English Words. Oxford: Blackwell, 2000.
homonymy (同義)と polysemy (多義)の区別が難しいことについては,「#286. homonymy, homophony, homography, polysemy」 ([2010-02-07-1]) や「#815. polysemic clash?」 ([2011-07-21-1]) の記事で話題にした.同形態の2つの語彙素が2つの同義語であるのか,あるいは1つの多義語であるのかは,一方は通時的な意味の変遷を参考にして,他方では話者の共時的な直感を参考にして判断するというのが通常の態度だろう.しかし,2つの視点が食い違うこともある.
例えば,(トランプの)組札,(衣服の)スーツ,訴訟の3つの語義をもつ suit という語を考えよう.3者は語源的には関連があり,核となる意味として "a following or natural sequence of things or events" ほどをもつ.「組札」と「スーツ」は一組・一続きという共通項でくくられそうだが,「訴訟」は原義からが逸脱しているように思われる.「訴訟」は「不正をただす目的で自然な流れとして法廷に訴える」に由来し,本来的には原義とつながりは保っているのだが,共時的な感覚としては逸脱としているといってよいだろう.Voyles (121--22) は,生成意味論の立場から,3つの語義が1つの語として共存しえた段階の意味規則を (1) として,2つの語に分かれたというに近い現代の段階の意味規則を (2) として定式化した.
(1) が polysemous,(2) が homonymous ということになるが,(2) も全体をひとくくりにしているという点では,必ずしも2つの別の語とみなしているわけではないのかもしれない.ポイントは,homonymy か polysemy かの区別は程度の問題ということである.Voyles (122) 曰く,
We are suggesting that for most contemporary speakers the meaning of suit as a set of cards or a set of clothes is an instance of polysemy: these two meanings share certain semantic markers in common. The other meaning of 'legal action' has become completely divorced from the meaning of 'collection' in that it has virtually no features in common with this meaning. This is then an instance of homonymy. The question of whether two or more different sense of a word should be considered the same or separate lexical items is, we believe, a function of the number of semantic features shared by the two (or more) senses. Often such a question does not admit of a simple yes or no; rather, the answer is one of degree.
生成意味論での意味変化の考え方について,一言述べておこう.Voyles によれば,意味素性の束から成る語の意味表示に対して,ある意味素性を加えたり,脱落させたりする規則を適用することによって,その語の意味が変化すると考えた.生成文法が意味を扱う際に常にアキレス腱となるのは,どの意味素性を普遍的な意味素性として設定するかという問題である.Voyles (122) も,結局,同じ問題にぶつかっているようだ.Williams (462) による Voyles の論文に対する評は,否定的だ.
A formal system for representing semantic structure is no less a prerequisite to describing most patterns in change of meaning. Voyles 1973 has attempted to represent change of meaning, building on the formal semantic theory of features and markers first proposed by Katz & Fodor 1963. He tries to demonstrate that semantic change can be systematically explained by changes in rules that generate semantic representations, much as phonological change can be represented as rule change. But a great deal of investigation is still necessary before we understand what should go into a semantic representation, much less what one should look like and how it might change.
生成意味論は理論的には過去のものといってよいだろう.しかし,homonymy と polysemy のような個別の問題については,どんな理論も何らかのヒントは与えてくれるものである.
・ Voyles, Joseph. "Accounting for Semantic Change." Lingua 31 (1973): 95--124.
・ Williams, Joseph M. "Synaesthetic Adjectives: A Possible Law of Semantic Change." Language 52 (1976): 461--78.
記号の恣意性については,arbitrariness の記事を中心に,とりわけ「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]) で議論した.そこでは,恣意性,規約性,有縁性・無縁性を区別する必要があることに触れた.signifié と signifiant との関係,平たくいえば意味と形態との関係についてを真剣に考察するのがソシュール以来の(特にフランス)言語学の伝統といえるが,意味論学者であればなおのこと,この問題に並々ならぬ関心を示す.
タンバの第2章は,ほとんど意味と形態の関係の考察に費やされている.タンバは,言語の二重分節性について「#767. 言語の二重分節」 ([2011-06-03-1]) で紹介した Martinet の用語を引き合いに出して説明しながら,記号における signifié と signifiant の関係の問題へ迫っていく.タンバの示唆的な評言をいくつか引用しよう.
意味は一方では,それを示す形態から分離できないが,言語の意味と形態の不分離の結合は1対1の対応をなしておらず,形態の特定は意味を特定するのに充分ではない.このパラドックスによって,言語の意味と形態の関係を明らかにする必要が生じる.(54)
記号内容は,定義によると,第1次分節の単位であるから,音素にならって作られた意味素やノエームなどの意味の原子である第2次分節の有限の要素には還元できない.(56)
共時的,通時的という2重の観点は,記号表現のレベルよりも記号内容のレベルでの方が不鮮明だということが明らかになる.確かに,一定の言語態の中で語の意味を定めることと,その歴史的進化を研究することとは明らかに異なる2つのアプローチである.〔中略〕さまざまな時期に現れたいくつかの意味も,多様性という風に考えれば,同時代のものだということにもならないだろうか.そして,新しいものは,しばしば既存のパターンを用いるので――ソシュールは,「言語は共ぎれでつぎはぎをした衣である」とのべている.」(『講義』,235頁).一定の意味関係は1つの共時態から他の共時態へと生き続け,1種の無意識的記号論が作り出されることもある.無意識的記号論は,超時的原型にならって1つの言語の意味形態を形成するのである.(61)
記号意味の対立は,閉じられた音韻体系の中で生じるものではなく,開かれた語彙体系の中で生じるものである.故に,音韻的相違にならって意味の相違を把握することはできない.(62)
歴史的言語学的な関心からは,とりわけ3番目の引用で触れられている,共時的な多義性と通時的な意味変化との関係についての考察が目を引く.意味変化は時間とともに徐々に進行し,新しい意味は必ずしも古い意味を置き換えず,むしろ両方の意味が累積していくことも多い.累積した結果は,共時的には多義となる.この共時的多義性は,1人の話者が作り出したものではなく,集団的に数世代を経て作り出されたものであるという点で,無意識的記号論と呼びうるし,共時態と通時態とを超越した超時間的記号論とも呼びうるだろう.
上記のように意味は累積しうるが,形態には累積という概念はそれほどうまく当てはまらないように思われる.すると,形態における無意識的,超時間的な次元というものは,より考えにくいということになるだろう.この辺りに,意味と形態の特徴の大きな差があるのではないか.
・ イレーヌ・タンバ 著,大島 弘子 訳 『[新版]意味論』 白水社〈文庫クセジュ〉,2013年.
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