昨日の記事「#2438. 大母音推移は,発音と綴字の乖離の最大の元凶か (2)」 ([2015-12-30-1]) で,大母音推移の英語綴字史における意義について考察し,その再評価を試みた.では,大母音推移の英語音韻史上の意義は何だろうか.大母音推移は,当然ながら第1義的に音韻変化であるから,その観点からの意義と評価が最重要である.
昨日も引用した Brinton and Arnovick (313) が,大母音推移の音韻史上の意義について詳しく正確に論じている.
[The Great Vowel Shift] eliminated the distinction between long and short vowels that had characterized both the Old and Middle English phonological systems. The long vowels were replaced by either diphthongs or tense vowels, which contrasted with the lax short vowels. Thus, the vowel system underwent a significant change from one based on distinctions of quantity (e.g. OE god 'deity' vs gōd ('good') to one based on distinctions of quality. While modern English does have long and short vowels (e.g. sea vs ceased), this distinction is now merely an allophonic difference, completely predictable by the voicing qualities or number of consonants that follow the vowel.
大母音推移を契機として,英語の母音体系が量に基づくものから質に基づくものへと変容を遂げたというの指摘は,大局的かつ重要な洞察である.大袈裟にいえば,社会の革命や人生の方向転換に相当するような変身ぶりではないだろうか.母音の量の区別を重視する日本語のような言語の母語話者にとって,現代英語の音声の学習は易しくないが,これも大母音推移に責任の一端があるということになる.日本語母語話者にとっては,大母音推移以前の母音体系のほうが馴染みやすかったに違いない.
ある音韻変化をその言語の音韻史上に位置づけ,大局的に評価するという試みは,これまでも行われてきた.例えば,母音変化に関しては「#1402. 英語が千年間,母音を強化し子音を弱化してきた理由」 ([2013-02-27-1]),「#2052. 英語史における母音の主要な質的・量的変化」 ([2014-12-09-1]),「#2063. 長母音に対する制限強化の歴史」 ([2014-12-20-1]),「#2081. 依存音韻論による大母音推移の分析」 ([2015-01-07-1]) で論じてきたとおりである.
しかし,このような大局的な評価それ自体は,いったい歴史言語学において何を意味するものなのだろうか.そのような評価の背景には,偏流 (drift) や目的論 (teleology) といった言語変化観の気味も見え隠れする.大母音推移を通じて,言語の歴史記述 (historiography) という営みについて再考させられる機会となった.
2015年も hellog 講読,ありがとうございました.2016年もよろしくお願いします.
・ Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006.
昨日の記事「#2379. 再帰代名詞の外適応」 ([2015-11-01-1]) でも取り上げた外適応 (exaptation) は,本来,生物進化の用語である.「#2152. Lass による外適応」 ([2015-03-19-1]) で触れたように,Gould and Vrba による生物進化論の外適応を,生物学にもよく通じた言語学者 Lass が,言語変化に当てはめたのだった.
Gould and Vrba の論文は,それほど長い論文ではないが,啓発的である.生物学の門外漢でも読めるほどの一般性を備えており,だからこそ言語学へも適用する余地があったのだろう.進化論における術語の整理を通じて,対応する概念の相互関係を明らかにしようとした論文であり,それらの術語や概念は,確かに工夫すれば言語変化にも当てはめることができるように思われる.論文冒頭の要旨 (4) が,素晴らしく的を射ているので,そのまま引用したい.
Adaptation has been defined and recognized by two different criteria: historical genesis (features built by natural selection for their present role) and current utility (features now enhancing fitness no matter how they arose). Biologists have often failed to recognize the potential confusion between these different definitions because we have tended to view natural selection as so dominant among evolutionary mechanisms that historical process and current product become one. Yet if many features of organisms are non-adapted, but available for useful cooptation in descendants, then an important concept has no name in our lexicon (and unnamed ideas generally remain unconsidered): features that now enhance fitness but were not built by natural selection for their current role. We propose that such features be called exaptations and that adaptation be restricted, as Darwin suggested, to features built by selection for their current role. We present several examples of exaptation, indicating where a failure to conceptualize such an idea limited the range of hypotheses previously available. We explore several consequences of exaptation and propose a terminological solution to the problem of preadaptation.
通時的な発生と共時的な有用性の混同という問題,そしてそれを是正するための新用語としての exaptation は,言語論においても役立つはずである.コミュニケーションに役に立つべく通時的に発生してきた言語項 (adaptation) と,偶然に発達して結果的に役立つ機能を得た言語項 (exaptation) を区別しておくことは,確かに必要だろう.また,exaptation は,目的論 (teleology) 的な言語変化観に対抗する用語と概念を与えてくれるようにも思える.
Gould and Vrba (5) は,"A taxonomy of fitness" と題する表で,以下のように関連する術語を整理している.
Process | Character | Usage | |
---|---|---|---|
Natural selection shapes the character for a current use --- adaptation | adaptation | aptation | function |
A character, previously shaped by natural selection for a particular function (an adaptation), is coopted for a new use --- cooptation | exaptation | effect | |
A character whose origin cannot be ascribed to the direct action of natural selection (a nonaptation), is coopted for a current use --- cooptation |
「#2140. 音変化のライフサイクル」 ([2015-03-07-1]) の記事で,近年の音変化(および言語変化一般)の研究において,話し手よりも聞き手の役割が重要視されるようになってきていることに触れた.そのような論者の1人に Ohala がいる.Ohala (676) は,話し手の関与を否定し,原則として音変化は聞き手によって主導されるという立場を取っている.それぞれ関連する部分を抜き出そう.
. . . variation in the production domain does not by itself constitute sound change since there is no change in the pronunciation norm; the listener is able (somehow) to reconstruct the speaker's intended pronunciation.
Misperceptions are potential sound changes because they may result in a changed pronunciation norm on the part of listeners if their misperceptions are guides to their own pronunciation.
発音の規範 ("pronunciation norm") の変化のことを音変化と呼ぶのであれば,それが生じ,定着する場は聞き手のなかであると想定せざるを得ない.もちろん聞き手は次の瞬間に話し手にもなるという意味においては,その音変化が音声的に実現されるのは話し手としての発話行為においてではあろう.しかし,音変化が生じるのは,聞き手としての役割を担っているときである.聞き手は,通常,話し手による規範から逸脱した変異的な発音を適切に「修正」することができるため,規範そのものを維持するのに貢献する.しかし,ときに聞き手が適切に「修正」することに失敗すると,聞き手の規範そのものが変化する可能性が生じる.この立場によれば,音変化の典型である同化 (assimilation) は聞き手による修正のしなさすぎ (hypocorrection) として,また異化 (dissimilation) は聞き手による修正のしすぎ (hypercorrection) として捉えることができる (Ohala 678) .
Ohala (683) は,持論の終わりのほうで,音変化の無目的性,話し手の無関与,聞き手の役割の重視の3点を合わせて強く主張している.従来の音変化理論における目的論的な見方と,話し手(産出)重視の伝統に真っ向から反対する刺激的な論である.
. . . sound change, at least at its very initiation, is not teleological. It does not serve any purpose at all. It does not improve speech in any way. It does not make speech easier to pronounce, easier to hear, or easier to process or store in the speaker's brain. It is simply the result of an inadvertent error on the part of the listener. Sound change thus is similar to manuscript copyists' errors and presumably entirely unintended.
写字生の写し誤りの比喩はおもしろい.しかし,比喩を文字通りに受け取ってあら探しをするという趣味のよくないことをあえてすれば,嘘から出た誠よろしく写字生による誤写が正しいのものと取り違えられて定着したという書き言葉上の言語変化は,皆無ではないかもしれないが,少なくとも音変化に比して滅多にないとは述べてよいだろう.この比喩の理解には,"at its very initiation" (その当初においては)の但し書きを重視したい.
だが,Ohala の主張を聞いていると,言語変化一般において聞き手の役割を再考する必要があるのでないかと思えてくるのは確かだ.
・ Ohala, John J. "Phonetics and Historical Phonology." The Handbook of Historical Linguistics. Ed. Brian D. Joseph and Richard D. Janda. Malden, MA: Blackwell, 2003. 669--86.
「#2144. 冠詞の発達と機能範疇の創発」 ([2015-03-11-1]) でみたように,英語史で生じてきた主要な統語変化はいずれも「機能範疇の創発」として捉えることができるが,これは「機能投射構造の外適応」と換言することもできる.古英語以来,屈折語尾の衰退に伴って語彙投射構造 (Lexical Projection) が機能投射構造 (Functional Projection) へと再分析されるにしたがい,語彙範疇を中心とする構造が機能範疇を中心とする構造へと外適応されていった,というものだ.
文法化の議論では,生物進化の分野で専門的に用いられる外適応 (exaptation) という概念が応用されるようになってきた.保坂 (151) のわかりやすい説明を引こう.
外適応とは,たとえば,生物進化の側面では,もともと体温保持のために存在していた羽毛が滑空の役に立ち,それが生存の適応価を上げる効果となり,鳥類への進化につながったという考え方です〔中略〕.Lass (1990) はこの概念を言語変化に応用し,助動詞 DO の発達も一種の外適応(もともと使役の動詞だったものが,意味を無くした存在となり,別の用途に活用された)と説明しています.本書では,その考えを一歩進め,構造もまた外適応したと主張したいと思います.〔中略〕機能範疇はもともと一つの FP (Functional Projection) と考えられ,外適応の結果,さまざまな構造として具現化するというわけです.英語はその通時的変化の過程の中で,名詞や動詞の屈折形態の消失と共に,語彙範疇中心の構造から機能範疇中心の構造へと移行してきたと考えられ,その結果,冠詞,助動詞,受動態,完了形,進行形等の多様な分布を獲得したと言えるわけです.
このような言語変化観は,畢竟,言語の進化という考え方につながる.ヒトに特有の言語の発生と進化を「言語の大進化」と呼ぶとすれば,上記のような言語の変化は「言語の小進化」とみることができ,ともに歩調を合わせながら「進化」の枠組みで研究がなされている.
保坂 (158) は,言語の自己組織化の作用に触れながら,著書の最後を次のように締めくくっている.
こうした言語自体が生き残る道を探る姿は,いわゆる自己組織化(自発的秩序形成とも言われます)と見なすことが可能です.自己組織化とは雪の結晶やシマウマのゼブラ模様等が有名ですが,物理的および生物的側面ばかりでなく,たとえば,渡り鳥が作り出す飛行形態(一定の間隔で飛ぶ姿),気象現象,経済システムや社会秩序の成立などにも及びます.言語の小進化もまさにこの一例として考えられ,言語を常に動的に適応変化するメカニズムを内在する存在として説明でき,それこそ,ことばの進化を導く「見えざる手」と言えるのではないでしょうか.英語における文法化の現象はまさにその好例であり,言語変化の研究がそうした複雑な体系を科学する一つの手段になり得ることを示してくれているのです.
言語変化の大きな1つの仮説である.
・ 保坂 道雄 『文法化する英語』 開拓社,2014年.
コセリウは,言語変化に「原因」はないと述べている.この一見不可解な謂いを理解するには,コセリウが「原因」という言葉で何を指しているかを正しくとらえる必要がある.基底にある考え方は,「#1056. 言語変化は人間による積極的な採用である」 ([2012-03-18-1]) と「#2139. 言語変化は人間による積極的な採用である (2)」 ([2015-03-06-1]) の標題の通りである.以下,「原因による説明と結果による説明.言語変化に対する通時的構造主義のたちば.「目的論」的解釈の意味」と題するコセリウの第6章 (259--343) より,3箇所を引用する(以下,原文の圏点は太字に置き換えてある).
言語の中には,したがって,変化をひき起こす「原因」なるものは存在せず(唯一の作用原因は話し手の自由だから),またその理由も存在せず(それは常に目的の序列のものだから),あるのは,話し手の言語的自由にゆだねられ,使用されながら同時にその表現の欲求に応じて変化をとげるところの「道具的」(技術的)な条件,状況である.体系のまさに「弱点」――新しい表現要求から見て,伝統的な手段にやどる技術的な欠陥――すらも変化の「原因」ではなく,言語的自由がとり組んで,「道具」それ自体の創造過程の中で解決すべき問題である.したがって,なし得る,そしてなさなければならないものは,自然の,あるいは自由の外にある「原因」をあれこれと探し求めることではなく,個々の歴史条件のもとで自由によって実現されたものを目的の点から正当づけることであり,新しく現われた形が変化に先行する言語の欠陥と可能性とによって,どのようなしかたで必然性もしくは可能性として決定(限定)されるのかをつきとめることである. (286)
結局,目的性とは動機づけの一類型である.これは,「原因」が「それによって何かが生じ(存在するようになり),変化し,あるいは消失する(存在をやめる)すべてのものである」かぎり,「原因」の一般的概念の中にそれとして含まれる.アリストテレスは周知のように四種類の「原因」を区別している.何かを作り出し,あるいは生み出すもの(作動者,すなわち第一始動因もしくは作用因),それを用いて何かが作り出される素材(材質もしくは材質因〔質量因〕),それから何かが作られる概念(本質もしくは形式因〔形相因〕),それをめざして何かが作られるところのもの(目的因)(『自然学』II,3およびII,7).したがって,目的性(目的因)とは,一つの原因であるから,「作用因」が自由と意図性とをそなえた実体であるときに,はじめて生じ得る原因である.そして,たしかにこの意味では,言語変化とは,実際にアリストテレスの言う四つの動機づけをそなえているがゆえに,「原因」をもつと言ってもまったく矛盾はない.つまり,新しい言語事実は,誰かによって(作用因),何かをもって(材質因),作られるものの観念をもって(形式因),何かのために(目的因)作られるものだからである.われわれが言語変化には「原因がない」と言うのは,自然科学的な意味での原因がないというだけのことであって,言いかえれば,――物質的なもののばあいを除いて――自由の外にあって,「客観的」で自然物のような原因はないという意味においてのみ,そう言っているのである.われわれはそれ自体としては正当な「原因」という用語の使用に反対しているのではなく,そこに付与されている意味と,じつは原因でも何でもない諸状況を決定的な原因と見る主張に反対しているのである. (290--91)
言語変化は,ある条件のもとに生じるものではあるが,条件そのものからは生じない.言語事実は,話し手が何かのために創造するから存在するのであって,話し手自身にとって外的な,物理的必然の「産物」でもなければ,それ以前の言語状態の「必然的かつ不可避的な帰結」でもない.何か新しい言語事実の,本当の意味で「原因的」な唯一の説明とは,自由がある目的をもって,それを創造したのだとするものだけである.それ以外の説明は,物質的な起源の説明であり,また改新者や採用者としての個人の言語的自由が活動を行ったその条件の説明である.
一般に言語変化の「原因」と呼ばれてきたものは,実は「原因」というよりは「条件」とみなすべきものだという議論である.真の原因とは,諸者の条件のもとにおける自由意志による採用である.この観点から,今後も改めて言語変化の原因と諸条件について考えていきたい.
・ E. コセリウ(著),田中 克彦(訳) 『言語変化という問題――共時態,通時態,歴史』 岩波書店,2014年.
「#2063. 長母音に対する制限強化の歴史」 ([2014-12-20-1]) と「#2080. /sp/, /st/, /sk/ 子音群の特異性」 ([2015-01-06-1]) で引用・参照した池頭 (Ikegashira) は,"A Dependency Approach to Great Vowel Shift" と題する論文で,依存音韻論 (dependency phonology; DP) の枠組みで大母音推移 (gvs) を分析している.私は依存音韻論については無知に等しいが,その分析によれば大母音推移を含めた英語の主要な音韻変化には一貫した方向性を見いだすことができると議論されており,関心をもったので論文を読んでみた.案の定,理論の素人には難しかったが,要点は呑み込めたと思う.
依存音韻論に立脚した分析によると,大母音推移の音韻変化は,一貫して音節構造を軽くする ("lightening") 方向で作用したという.依存音韻論による「軽さ」の定義は高度に専門的であり私には的確に説明することはできないが,ポイントは大母音推移を構成する各音韻変化がいずれも一貫した方向性をもっており,したがって一貫して記述することができるという主張である.そのような主張がなされるからには,偏流 (drift) や言語変化の目的論 (teleology) という主題も無関係ではあり得ない.実際,Ikegashira (42) は英語史における一貫した "lightening" の偏流に言い及んでいる.それから,大母音推移を構成する各音韻変化の同時性をも主張している.
GVS is a change which is caused by that 'drift' (or tendency) of English to make the total weight of words lighter. To make all the 'long' vowels lighter, the phonological element |a| is made less powerful either by lowered (sic) to the the dependent position from the governing position or by deletion. In the cases of the vowels where there is no |a|, [i:] and [u:], the only way to make them lighter is to change the 'middle weight' phonological elements [i] and [u] with the lightest one |ə|. / . . . . As a result of lightening, the vowels have been raised or made into diphthongs. The problem of the starting point of this change thus has no meaning. It was 'simultaneous'. It is quite natural to suppose that GVS occurred at the same time as a result of the long and continuous 'trend' of English to lighten words in some way.
理論的には,複合的な音韻変化を一貫して説明できるのは確かに魅力である.同じような動機から,Ritt の「#1402. 英語が千年間,母音を強化し子音を弱化してきた理由」 ([2013-02-27-1]) も,drift という古い言語学上の問題に迫ったのだろうと思う.だが,素朴な疑問として,一貫した理論的な説明と各母音の変化の同時性とがどのように直接に結びつくのだろうか.大母音推移が一貫して "lightening" の方向を目指しているという仮説を受け入れたとしても,それは各音韻変化が同時に起こったことを自動的に含意するのだろうか.押し上げ説 (push chain) でも引き上げ説 (drag chain) でもないという意味では,「#1404. Optimality Theory からみる大母音推移」 ([2013-03-01-1]) とも通じる一種のバラバラ説と言ってもよさそうだが,理論的な普遍説とも呼べそうだ.
なお,同じ依存音韻論の分析によれば,大母音推移に先立つ中英語の開音節長化 (meosl) は,入力の短母音の各々に音韻要素 |a| が付加されたものとして一貫して記述されるという (Ikegashira 35) .理論の魅力と課題を再確認できる話題である.
・ Ikegashira (Kadota), Atsuko. "A Dependency Approach to Great Vowel Shift." 『津田塾大学言語文化研究所報』22号,2007年,31--43頁.
昨日の記事で引用した Luraghi が,同じ論文で言語変化の目的論 (teleology) について論じている.teleology については本ブログでもたびたび話題にしてきたが,論じるに当たって関連する諸概念について整理しておく必要がある.
まず,言語変化は therapy (治療)か prophylaxis (予防)かという議論がある.「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]) や「言語変化における therapy or pathogeny」 ([2011-08-12-1]) で取り上げた問題だが,いずれにしても前提として機能主義的な言語変化観 (functionalism) がある.Kiparsky は "language practices therapy rather than prophylaxis" (Luraghi 364) との謂いを残しているが,Lass などはどちらでもないとしている.
では,functionalism と teleology は同じものなのか,異なるものなのか.これについても,諸家の間で意見は一致していない.Lass は同一視しているようだが,Croft などの論客は前者は "functional proper",後者は "systemic functional" として区別している."systemic functional" は言語の teleology を示すが,"functional proper" は話者の意図にかかわるメカニズムを指す.あくまで話者の意図にかかわるメカニズムとしての "functional" という表現が,変異や変化を示す言語項についても応用される限りにおいて,(話者のではなく)言語の "functionalism" を語ってもよいかもしれないが,それが言語の属性を指すのか話者の属性を指すのかを区別しておくことが重要だろう.
Teleological explanations of language change are sometimes considered the same as functional explanations . . . . Croft . . . distinguishes between 'systemic functional,' that is teleological, explanations, and 'functional proper,' which refer to intentional mechanisms. Keller . . . argues that 'functional' must not be confused with 'teleological,' and should be used in reference to speakers, rather than to language: '[t]he claim that speakers have goals is correct, while the claim that language has a goal is wrong' . . . . Thus, to the extent that individual variants may be said to be functional to the achievement of certain goals, they are more likely to generate language change through invisible hand processes: in this sense, explanations of language change may also be said to be functional. (Luraghi 365--66)
上の引用にもあるように,重要なことは「言語が変化する」と「話者が言語を刷新する」とを概念上区別しておくことである.「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1]) で述べたように,この区別自体にもある種の問題が含まれているが,あくまで話者(集団)あっての言語であり,言語変化である.話者主体の言語変化論においては teleology の占める位置はないといえるだろう.Luraghi (365) 曰く,
Croft . . . warns against the 'reification or hypostatization of languages . . . Languages don't change; people change language through their actions.' Indeed, it seems better to avoid assuming any immanent principles inherent in language, which seem to imply that language has an existence outside the speech community. This does not necessarily mean that language change does not proceed in a certain direction. Croft rejects the idea that 'drift,' as defined by Sapir . . ., may exist at all. Similarly, Lass . . . wonders how one can positively demonstrate that the unconscious selection assumed by Sapir on the side of speakers actually exists. From an opposite angle, Andersen . . . writes: 'One of the most remarkable facts about linguistic change is its determinate direction. Changes that we can observe in real time---for instance, as they are attested in the textual record---typically progress consistently in a single direction, sometimes over long periods of time.' Keller . . . suggests that, while no drift in the Sapirian sense can be assumed as 'the reason why a certain event happens,' i.e., it cannot be considered innate in language, invisible hand processes may result in a drift. In other words, the perspective is reversed in Keller's understanding of drift: a drift is not the pre-existing reason which leads the directionality of change, but rather the a posteriori observation of a change brought about by the unconsciously converging activity of speakers who conform to certain principles, such as the principle of economy and so on . . . .
関連して drift, functionalism, invisible_hand, unidirectionality の各記事も参考にされたい.
・ Luraghi, Silvia. "Causes of Language Change." Chapter 20 of Continuum Companion to Historical Linguistics. Ed. Silvia Luraghi and Vit Bubenik. London: Continuum, 2010. 358--70.
昨日の記事「#1974. 文法化研究の発展と拡大 (1)」 ([2014-09-22-1]) を受けて,文法化 (grammaticalisation) 研究の守備範囲の広さについて補足する.Bussmann (196--97) によると,文法化がとりわけ関心をもつ疑問には次のようなものがある.
(a) Is the change of meaning that is inherent to grammaticalization a process of desemanticization, or is it rather a case (at least in the early stages of grammaticalization) of a semantic and pragmatic concentration?
(b) What productive parts do metaphors and metonyms play in grammaticalization?
(c) What role does pragmatics play in grammaticalization?
(d) Are there any universal principles for the direction of grammaticalization, and, if so, what are they? Suggestions for such 'directed' principles include: (i) increasing schematicization; (ii) increasing generalization; (iii) increasing speaker-related meaning; and (iv) increasing conceptual subjectivity.
昨日記した守備範囲と合わせて,文法化研究の潜在的なカバレッジの広さと波及効果の大きさを感じることができる.また,秋元 (vii) の目次より文法化理論に関連する用語を拾い出すだけでも,この分野が言語研究の根幹に関わる諸問題を含む大項目であることがわかるだろう.
第1章 文法化
1.1 序
1.2 文法化とそのメカニズム
1.2.1 語用論的推論 (Pragmatic inferencing)
1.2.2 漂白化 (Bleaching)
1.3 一方向性 (Unidirectionality)
1.3.1 一般化 (Generalization)
1.3.2 脱範疇化 (Decategorialization)
1.3.3 重層化 (Layering)
1.3.4 保持化 (Persistence)
1.3.5 分岐化 (Divergence)
1.3.6 特殊化 (Specialization)
1.3.7 再新化 (Renewal)
1.4 主観化 (Subjectification)
1.5 再分析 (Reanalysis)
1.6 クラインと文法化連鎖 (Grammaticalization chains)
1.7 文法化とアイコン性 (Iconicity)
1.8 文法化と外適応 (Exaptation)
1.9 文法化と「見えざる手」 (Invisible hand) 理論
1.10 文法化と「偏流」 (Drift) 論
文法化は,主として言語の通時態に焦点を当てているが,一方で主として共時的な認知文法 (cognitive grammar) や機能文法 (functional grammar) とも親和性があり,通時態と共時態の交差点に立っている.そこが,何よりも魅力である.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
・ 秋元 実治 『増補 文法化とイディオム化』 ひつじ書房,2014年.
「#1971. 文法化は歴史の付帯現象か?」 ([2014-09-19-1]) の最後で何気なく提起したつもりだった問題に,「文法化を歴史的な流れ,drift の一種としてではなく,言語変化を駆動する共時的な力としてみることはできないのだろうか」というものがあった.少し調べてみると,文法化は付帯現象なのか,あるいはそれ自身が動力源なのかというこの問題は,実際,文法化の研究者の間でよく論じられている話題であることがわかった.今回は関連して文法化の研究を巡る動き,特にその扱う領域の発展と拡大について,Traugott の記述に依拠して概説したい.
文法化は,この30余年ほどをかけて言語学の大きなキーワードとして成長してきた.大きく考え方は2つある.1つは "reduction and increased dependency" とみる見方であり,もう1つはむしろ "the expansion of various kinds" とみる見方である.両者ともに,意味と音の変化が文法の変化と独立しつつも何らかの形で関わっているとみている,特に形態統語的な変化との関係をどうとらえるかによって立場が分かれている.
伝統的には,文法化は "reduction and increased dependency" とみられてきた.意味の漂白 (semantic bleaching) と音の減少 (reduction) がセットになって生じるという見方で,"unidirectionality from more to less complex structure, from more to less lexical, contentful status" (Traugott 273) という一方向性の原理を主張する.一方向性の原理は Givón の "Today's morphology is yesterday's syntax." の謂いに典型的に縮約されているが,さらに一般化した形で,次のような一方向性のモデルも提案されている.ここでは,自律性 (autonomy) を失い,他の要素への従属 (dependency) の度合いを増しながら,ついには消えてしまうという文法化のライフサイクルが表現されている.
discourse > syntax > morphology > morphphonemics > zero
ただし,一方向性の原理は,1990年代半ば以降,多くの批判にさらされることになった.原理ではなくあくまで付帯現象だとみる見方や確率論的な傾向にすぎないとする見方が提出され,それとともに「脱文法化」 (degrammaticalisation) や「語彙化」 (lexicalisation) などの対立概念も指摘されるようになった.しかし,再反論の一環として脱文法化とは何か,語彙化とは何かという問題も追究されるようになり,文法化をとりまく研究のフィールドは拡大していった.
文法化のもう1つの見方は,reduction ではなくむしろ expansion であるというものだ.初期の文法化研究で注目された事例は,たいてい屈折によって表現された時制,相,法性,格,数などに関するものだった.しかし,そこから目を移し,接続語や談話標識などに注目すると,文法化とはむしろ構造的な拡張であり適用範囲の拡大ではないかとも思われてくる.例えば,指示詞が定冠詞へと文法化することにより,固有名詞にも接続するようになり,適用範囲も増す結果となった.文法化が意味の一般化・抽象化であることを考えれば,その適用範囲が増すことは自然である.生産性 (productivity) の拡大と言い換えてもよいだろう.日本語の「ところで」の場所表現から談話標識への発達なども "reduction and increased dependency" とは捉えられず,むしろ autonomy を有しているとすら考えられる.ここにおいて,文法化は語用化 (pragmaticalisation) の過程とも結びつけられるようになった.
文法化の2つの見方を紹介したが,近年では文法化研究は新しい視点を加えて,さらなる発展と拡大を遂げている.例えば,1990年代の構文文法 (construction_grammar) の登場により,文法化の研究でも意味と形態のペアリングを意識した分析が施されるようになった.例えば,単数一致の A lot of fans is for sale. が複数一致の A lot of fans are for sale. へと変化し,さらに A lot of our problems are psychological. のような表現が現われてきたのをみると,文法化とともに統語上の異分析が生じたことがわかる.ほかに,give an answer や make a promise などの「軽い動詞+不定冠詞+行為名詞」の複合述部も,構文文法と文法化の観点から迫ることができるだろう.
文法化の引き金についても議論が盛んになってきた.語用論の方面からは,引き金として誘導推論 (invited inference) が指摘されている.また,類推 (analogy) や再分析 (reanalysis) のような古い概念に対しても,文法化の引き金,動機づけ,メカニズムという観点から,再解釈の試みがなされてきている.というのは,文法化とは異分析であるとも考えられ,異分析とは既存の構造との類推という支えなくしては生じ得ないものと考えられるからだ.ここで,類推のモデルとして普遍文法制約を仮定すると,最適性理論 (Optimality Theory) による分析とも親和性が生じてくる.言語接触の分野からは,文法化の借用という話題も扱われるようになってきた.
文法化の扱う問題の幅は限りなく拡がってきている.
・ Traugott, Elizabeth Closs. "Grammaticalization." Chapter 15 of Continuum Companion to Historical Linguistics. Ed. Silvia Luraghi and Vit Bubenik. London: Continuum, 2010. 271--85.
Lightfoot は,言語の歴史における 文法化 (grammaticalisation) は言語変化の原理あるいは説明でなく,結果の記述にすぎないとみている."Grammaticalisation, challenging as a phenomenon, is not an explanatory force" (106) と,にべもなく一蹴だ.文法化の一方向性を,"mystical" な drift (駆流)の方向性になぞらえて,その目的論 (teleology) 的な言語変化観を批判している.
Lightfoot は,一見したところ文法化とみられる言語変化も,共時的な "local cause" によって説明できるとし,その例として彼お得意の法助動詞化 (auxiliary_verb) の問題を取り上げている.本ブログでも「#1670. 法助動詞の発達と V-to-I movement」 ([2013-11-22-1]) や「#1406. 束となって急速に生じる文法変化」 ([2013-03-03-1]) で紹介した通り,Lightfoot は生成文法の枠組みで,子供の言語習得,UG (Universal Grammar),PLD (Primary Linguistic Data) の関数として,can や may など歴史的な動詞の法助動詞化を説明する.この「文法化」とみられる変化のそれぞれの段階において変化を駆動する local cause が存在することを指摘し,この変化が全体として mystical でもなければ teleological でもないことを示そうとした.非歴史的な立場から local cause を究明しようという Lightfoot の共時的な態度は,その口から発せられる主張を聞けば,Saussure よりも Chomsky よりも苛烈なもののように思える.そこには共時態至上主義の極致がある.
Time plays no role. St Augustine held that time comes from the future, which doesn't exist; the present has no duration and moves on to the past which no longer exists. Therefore there is no time, only eternity. Physicists take time to be 'quantum foam' and the orderly flow of events may really be as illusory as the flickering frames of a movie. Julian Barbour (2000) has argued that even the apparent sequence of the flickers is an illusion and that time is nothing more than a sort of cosmic parlor trick. So perhaps linguists are better off without time. (107)
So we take a synchronic approach to history. Historical change is a kind of finite-state Markov process: changes have only local causes and, if there is no local cause, there is no change, regardless of the state of the grammar or the language some time previously. . . . Under this synchronic approach to change, there are no principles of history; history is an epiphenomenon and time is immaterial. (121)
Lightfoot の方法論としての共時態至上主義の立場はわかる.また,local cause の究明が必要だという主張にも同意する.drift (駆流)と同様に,文法化も "mystical" な現象にとどまらせておくわけにはいかない以上,共時的な説明は是非とも必要である.しかし,Lightfoot の非歴史的な説明の提案は,例外はあるにせよ文法化の著しい傾向が多くの言語の歴史においてみられるという事実,そしてその理由については何も語ってくれない.もちろん Lightfoot は文法化は歴史の付帯現象にすぎないという立場であるから,語る必要もないと考えているのだろう.だが,文法化を歴史的な流れ,drift の一種としてではなく,言語変化を駆動する共時的な力としてみることはできないのだろうか.
・ Lightfoot, David. "Grammaticalisation: Cause or Effect." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 99--123.
英語史の授業で英語が経てきた言語変化を概説すると,「言語はどんどん便利な方向へ変化してきている」という反応を示す学生がことのほか多い.これは,「#432. 言語変化に対する三つの考え方」 ([2010-07-03-1]) の (2) に挙げた「言語変化はより効率的な状態への緩慢な進歩である」と同じものであり,言語進歩観とでも呼ぶべきものかもしれない.しかし,その記事でも述べたとおり,言語変化は進歩でも堕落でもないというのが現代の言語学者の大方の見解である.ところが,かつては,著名な言語学者のなかにも,言語進歩観を公然と唱える者がいた.デンマークの英語学者 Otto Jespersen (1860--1943) もその1人である.
. . . in all those instances in which we are able to examine the history of any language for a sufficient length of time, we find that languages have a progressive tendency. But if languages progress towards greater perfection, it is not in a bee-line, nor are all the changes we witness to be considered steps in the right direction. The only thing I maintain is that the sum total of these changes, when we compare a remote period with the present time, shows a surplus of progressive over retrogressive or indifferent changes, so that the structure of modern languages is nearer perfection than that of ancient languages, if we take them as wholes instead of picking out at random some one or other more or less significant detail. And of course it must not be imagined that progress has been achieved through deliberate acts of men conscious that they were improving their mother-tongue. On the contrary, many a step in advance has at first been a slip or even a blunder, and, as in other fields of human activity, good results have only been won after a good deal of bungling and 'muddling along.' (326)
. . . we cannot be blind to the fact that modern languages as wholes are more practical than ancient ones, and that the latter present so many more anomalies and irregularities than our present-day languages that we may feel inclined, if not to apply to them Shakespeare's line, "Misshapen chaos of well-seeming forms," yet to think that the development has been from something nearer chaos to something nearer kosmos. (366)
Jespersen がどのようにして言語進歩観をもつに至ったのか.ムーナン (84--85) は,Jespersen が1928年に Novial という補助言語を作り出した背景を分析し,次のように評している(Novial については「#958. 19世紀後半から続々と出現した人工言語」 ([2011-12-11-1]) を参照).
彼がそこへたどり着いたのはほかの人の場合よりもいっそう,彼の論理好みのせいであり,また,彼のなかにもっとも古くから,もっとも深く根をおろしていた理論の一つのせいであった.その理論というのは,相互理解の効率を形態の経済性と比較してみればよい,という考えかたである.それにつづくのは,平均的には,任意の一言語についてみてもありとあらゆる言語についてみても,この点から見ると,正の向きの変化の総和が不の向きの総和より勝っているものだ,という考えかたである――そして彼は,もっとも普遍的に確認されていると称するそのような「進歩」の例として次のようなものを列挙している.すなわち,音楽的アクセントが次第に単純化すること,記号表現部〔能記〕の短縮,分析的つまり非屈折的構造の発達,統辞の自由化,アナロジーによる形態の規則化,語の具体的な色彩感を犠牲にした正確性と抽象性の増大である.(『言語の進歩,特に英語を照合して』) マルティネがみごとに見てとったことだが,今日のわれわれにはこの著者のなかにあるユートピア志向のしるしとも見えそうなこの特徴が,実は反対に,ドイツの比較文法によって広められていた神話に対する当時としては力いっぱいの戦いだったのだと考えて見ると,実に具体的に納得がいく.戦いの相手というのは,諸言語の完全な黄金時期はきまってそれらの前史時代の頂点に位置しており,それらの歴史はつねに形態と構造の頽廃史である,という神話だ.(「語の研究」)
つまり,Jespersen は,当時(そして少なからず現在も)はやっていた「言語変化は完全な状態からの緩慢な堕落である」とする言語堕落観に対抗して,言語進歩観を打ち出したということになる.言語学史的にも非常に明快な Jespersen 評ではないだろうか.
先にも述べたように,Jespersen 流の言語進歩観は,現在の言語学では一般的に受け入れられていない.これについて,「#448. Vendryes 曰く「言語変化は進歩ではない」」 ([2010-07-19-1]) 及び「#1382. 「言語変化はただ変化である」」 ([2013-02-07-1]) を参照.
・ Jespersen, Otto. Language: Its Nature, Development, and Origin. 1922. London: Routledge, 2007.
・ ジョルジュ・ムーナン著,佐藤 信夫訳 『二十世紀の言語学』 白水社,2001年.
「なぜ言語は変化するのか」と「なぜ話者は言語を変化させるのか」とは,おおいに異なる問いである.発問に先立つ前提が異なっている.
Why does language change? という問いでは,言語が主語(主体)となってあたかも生物のように自らが発展してゆくといった言語有機体説 (organicism) や言語発達説 (ontogenesis) の前提が示唆されている.言語の変化が必然で不可避 (necessity) であることをも前提としている.一方,Why do speakers change their language? という問いでは,話者が主語(主体)であり,話者が自由意志 (free will) によって言語を変化させるのだという機械主義 (mechanism) や技巧 (artisanship) の前提が示唆される.
どちらが正しい発問かといえば,Keller (8--9) に語らせれば,どちらも言語変化を正しく問うていない.というのは,言語変化は集合的な現象 (collective phenomena) だからである.この集団的な現象を統御しているのは目的論 (teleology) ではなく,「見えざる手」 (invisible_hand) の原理である,と Keller は主張する.
見えざる手については「#10. 言語は人工か自然か?」 ([2009-05-09-1]) で話題にしたが,この理論の源泉は Bernard de Mandeville (1670--1733) による The Fable of the Bees: Private Vices, Public Benefits (1714) に求めることができる.要点として,Keller から3点を引用しよう.
・ the insight that there are social phenomena which result from individuals' actions without being intended by them (35)
・ An invisible-hand explanation is a conjectural story of a phenomenon which is the result of human actions, but not the execution of any human design (38)
・ a language is the unintentional collective result of intentional actions by individuals (53)
これを言語変化に当てはめると,個々の話者の言語活動における選択は意図的だが,その結果として起こる言語変化は最初から意図されていたものではないということになる.入力は意図的だが出力は非意図的となると,その間にどのようなブラックボックスがはさまっているのかが問題となるが,このブラックボックスのことを見えざる手と呼んでいるのである.個々の話者の意図的な言語行動が無数に集まって,見えざる手というブラックボックスに入ってゆくと,当初個々の話者には思いもよらなかった結果が出てくる.この結果が,言語変化ということになる.ここから,Keller (89) は言語変化の長期的な機能主義性を指摘している.
As an invisible-hand explanation of a linguistic phenomenon always starts with the motives of the speakers and 'projects' the phenomenon itself as the macro-structural effect of the choices made, it is necessarily functionalistic, although in a 'refracted' way.
言語変化に至る過程のスタート地点では話者が主体となっているが,途中で見えざる手のトンネルをくぐり抜けると,いつのまにか主体が言語に切り替わっている.このような言語変化観をもつ者からみれば,Why does language change? も Why do speakers change their language? も適切な質問でないことは明らかだろう.どちらも違っているともいえるし,どちらも当たっているともいえる.見えざる手の前提が欠落している,ということになろう.
・ Keller, Rudi. On Language Change: The Invisible Hand in Language. Trans. Brigitte Nerlich. London and New York: Routledge, 1994.
昨日の記事「#1402. 英語が千年間,母音を強化し子音を弱化してきた理由」 ([2013-02-27-1]) で取り上げた論文で,Ritt は歴史言語学上の重要な問題である drift (駆流)にまとわりつく謎めいたオーラを取り除こうとしている.drift の問題は「#685. なぜ言語変化には drift があるのか (1)」 ([2011-03-13-1]) と「#686. なぜ言語変化には drift があるのか (2)」 ([2011-03-14-1]) でも取り上げたが,次のように提示することができる.話者個人は自らの人生の期間を超えて言語変化を継続させようとする動機づけなどもっていないはずなのに,なぜ世代を超えて伝承されているとしか思えない言語変化があるのか.あたかも言語そのものが話者を超越したところで生命をもっているかのような振る舞いを見せるのはなぜか.この問題を Ritt (215) のことばで示すと,次のようになる.
[S]ince individual speakers are normally not aware of the long-term histories of their languages and have no reason to be interested in them at all, it is difficult to see why they should be motivated to adjust their behaviour in communication or language acquisition to make the development of their language conform to any long-term trend.
この謎に対し,Ritt (215) は言語と話者についての3つの前提を理解することで解決できると述べる.
First, . . . the case can be made that even though whole language systems do not represent historical objects, their constituents do, because they are transmitted faithfully enough among speakers and thereby establish populations and lineages of constituent types which persist in time. Secondly, when speakers make choices among different variants of a linguistic constituent, they are not completely free. Instead their choice is always limited (a) by universal constraints on human physiology and (b) by socio-historical contingencies such as the relative prestige of different constituent variants. Since it would be against the self-interests of individual speakers to resist them, their choices can be expected to reflect physiological and social constraints more or less automatically. Thirdly, a speaker never chooses among isolated pairs of constituent variants. Instead constituent choice always occurs in the context of actual discourse, where any constituent of a linguistic system is always used and expressed in combination with others.
そして驚くべきことに,話者は上記の前提に基づく言語行動において,生理的,社会的な機械として機能しているにすぎないという見解が示される (215--16) .
In such interactions between constituents the role of speakers will be restricted to responding --- unconsciously and more or less automatically --- to physiological and social constraints on their communicative behaviour. In other words, speakers will not figure as autonomous, active and whimsical agents of change, but merely provide the mechanics through which linguistic constituents interact with each other.
このモデルによれば,話者は,個々の言語項目が相互に組み立てているネットワークのなかを動き回る,生理的よび社会的な機能を付与された媒質ということになる.話者が言語変化の主体ではなく媒介であるという提言は,きわめて controversial だろう.
・ Ritt, Nikolaus. "How to Weaken one's Consonants, Strengthen one's Vowels and Remain English at the Same Time." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 213--31.
言語変化をどのようにとらえるかという問題については,言語変化観の各記事で扱ってきた.著名な言語(英語)学者 David Crystal (2) の言語変化観をのぞいてみよう.
[L]anguage is changing around you in thousands of tiny different ways. Some sounds are slowly shifting; some words are changing their senses; some grammatical constructions are being used with greater or less frequency; new styles and varieties are constantly being formed and shaped. And everything is happening at different speeds and moving in different directions. The language is in a constant state of multidimensional flux. There is no predictable direction for the changes that are taking place. They are just that: changes. Not changes for the better; nor changes for the worse; just changes, sometimes going one way, sometimes another.
英語にせよ日本語にせよ,この瞬間にも,多くの言語項目が異なる速度で異なる方向へ変化している."multidimensional flux" とは言い得て妙である.また,言語変化に目的論的に定められた方向性 (teleology) はないという見解にも賛成する.一時的にはある方向をもっているに違いないが,恒久的に一定の方向を保ち続けることはないだろう(関連して unidirectionality の各記事を参照).ただし,一時的な方向とはいっても,drift として言及される印欧語族における屈折の衰退のように,数千年という長期にわたる「一時的な」方向もあるにはある.このように何らかの方向があるにせよ,それが良い方向であるとか悪い方向であるとか,価値観を含んだ方向ではないということは認めてよい.Crystal のいうように,"just changes" なのだろう.
「#432. 言語変化に対する三つの考え方」 ([2010-07-03-1]) および「#448. Vendryes 曰く「言語変化は進歩ではない」」 ([2010-07-19-1]) でも同じような議論をしたので,ご参照を.
・ Crystal, David. "Swimming with the Tide in a Sea of Language Change." IATEFL Issues 149 (1999): 2--4.
昨日の記事「#1339. インドヨーロッパ語族の系統図(上下反転版)」 ([2012-12-26-1]) および「#253. 英語史記述の二つの方法」 ([2010-01-05-1]) で,Strang による英語史の名著とそこで採用されている「遡行的記述」について簡単に触れた.私見によれば,歴史を現在から過去へ遡って記述する方法の利点の一つとして,「現代的な視点に基づく好奇心をくすぐる」ことができる点を指摘したが,本家 Strang の主張を聞いてみよう.少々長いが,Strang (20--21) を引用する.
The principle of chronological sequence once adopted still leaves a choice --- to move forward from the earliest records to the present day, or back from the present day to the earliest records. Most historians have preferred to move towards the present day. Yet this is an enterprise in which it is doubtfully wise to 'Begin at the beginning and go on till you come to the end: then stop.' The most important reasons for this are clear in the very formulation of the King's directive to the White Rabbit, in the implication that there is a beginning and an end. Something begins, of course; the documentation of the language. But, however carefully one hedges the early chapters about, it is difficult to avoid giving the impression that there is a beginning to the English language. At every point in history, each generation has been initiated into the language-community of its seniors; the form of the language is different every time, but process and situation are the same, wherever we make an incision into history. The English language does not have a beginning in the sense commonly understood --- a sense tied to the false belief that some languages are older than others. / At the other terminal it is almost impossible to free oneself from the teleological force of words like 'end'. The chronological narrative comes to an end because we do not know how to continue it beyond the present day; but the story is always 'to be continued'. Knowing this perfectly well, one is yet liable to bias the narrative in such a way as to subordinate the question 'How was it in such a period'? to the question 'How does the past explain the present?' Both are important question, but the first is more centrally historical. / In addition, the adoption of reverse chronological order imposes on us the discipline of asking the same questions of every period; this is salutary even where it does no more than force us to acknowledge our ignorance.
要約すれば,英語史を遡及的に記述する利点は3つある.
(1) 英語に "beginning" 「始まり」がないという事実を強調することができる.
(2) 英語に "end" 「終わり」(あるいは「目的」)がないという事実を強調することができる.
(3) 同じ質問を各時代の記述において繰り返すことを余儀なくさせ,現在の時点における我々の限界(無知)を思い起こさせてくれる.
これは,言語史記述の1つの方法論であるという以上に歴史哲学の世界へと一歩踏み込んだ議論だろう.遡及的記述のほうが "more centrally historical" であるという認識は,Strang が説明 (why の探究)よりも記述(how の探究)を重視した英語史家であることを物語っている.著書の英語史記述そのものは構造言語学に基づいた硬派路線なのだが,遡及的記述の採用によって,独特の歴史観が漂っていることは確かである.
・ Strang, Barbara M. H. A History of English. London: Methuen, 1970.
過去2日間の記事「機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]) と「機能負担量と言語変化」 ([2011-08-11-1]) で,Schendl を引き合いに出しながら,機能主義 (functionalism) ,自己調整機能 (systemic regulation) ,治癒力 (therapeutic power) ,機能負担量 (functional load) などの用語を用いてきた.昨日これに関連して次のような質問が寄せられた.
Schendl (69)からの引用についてひとつ質問をさせてください.
'therapeutic changes in one part of the grammar may create imbalance in another part'
とありますが,どのような例があるのか思い浮かびません.治癒力のせいで生じてしまう不均衡とはどのようなものなのか,とても気になりますので御回答お願いします.
Schendl は同著で具体的に例を挙げているわけではないので,読者としては該当しうる例を考えてみるしかない.ある部門(例えば音韻論)に生じた言語変化が,他の部門(例えば形態論や統語論)に別の言語変化を連鎖的に引き起こすというような例や議論は英語史でも多く見られるが,より限定的に,ある治癒的な (therapeutic) 言語変化が別のところでは病因となるような (pathogenic) 言語変化の連鎖の例というのはあったろうかと,確かに考えさせられた.
なぜすぐに例が思い浮かばないのだろうかと考えてみると,"therapeutic" という用語が具体的に何を指すか,客観的に決めがたいという背景があるからではないかと思い当たった.一般の用語では「治癒」の目指す最終目標は「全快」状態だが,言語体系において「全快」とはいかなる状態を指すのか.機能主義の立場に立った一般的な理解としては,治癒とは "a symmetrical, balanced, simple, economical system" を指向しているとみなすことができるだろう(いずれの形容詞も Schendl の説明に現われる).しかし,言語体系は複数の下位体系の複雑な組み合わせによって成る有機体であり,その一部に生じる言語変化が,ある下位体系の観点から見れば therapeutic だとしても,別の下位体系の観点から見れば pathogenic であることもあり得る.では,言語体系全体の観点からすると,この言語変化はどの程度 therapeutic なのか,あるいは pathogenic なのか.これを決定することは非常に難しい.
具体例として思いついたのは,昨日の記事でも取り上げた /θ/ と /ð/ の対立の発生,別の言い方をすれば /ð/ の音素化 (phonemicisation) という言語変化である.古英語では,
[θ] と [ð] は1つの音素 (phoneme) の2つの異音 (allomorphs) という位置づけにすぎなかった.しかし,後に主として機能語において専ら有声音 [ð] が行なわれるようになり (ex. that, the, then, there, they, thou, though, with; cf. verners_law) ,thy vs. thigh のような最小対 (minimal pair) が生じた.こうして /θ/ と /ð/ は別々の音素へと分裂していった.
この /ð/ の音素化の動機づけを機能主義的な観点から説明すると,昨日も述べたように次のようになる.英語の阻害音 (obstruent) 系列では有声と無声の対立が大きな機能負担量を担っており,歯摩擦音での声の対立の欠如は阻害音系列の対称性を損なう「病因」と考えられる./θ/ と /ð/ の音素化はこの非対称性を減じる方向で作用し,問題の病因を「治癒」していると解釈される.実際には thy vs. thigh 型の最小対の例は少ないので,声の有無の対立はたいして利用されているわけではないのだが,それでも /θ/ と /ð/ の音素的な対立が堅持されているのは,英語音韻論全体として声の有無という対立が極めて機能的だからである.以上の説明が受け入れられるとすれば,この議論はまさに therapeutic な考え方を代表していると言えるだろう.
しかし,同じ言語変化を書記素論 (graphemics) の立場から見ると,むしろ体系的な非対称性が増しているとも考えられる.言語において,1音素に1文字が対応しているのが最も対称的で,均衡が取れており,単純で,経済的であることは疑いを容れない.現代英語はこの点で非常に悪名高いことはよく知られている.さて,より対称的で,均衡が取れており,単純で,経済的な音素と書記素の関係を追求するような言語変化が生じたとすれば,それは書記素論の観点からは therapeutic な変化ということができるだろう.ところが,上述の /ð/ の音素化に合わせて書記素体系も同様に変化したわけではないので,結果として <th> という二重字 (digraph) で表わされる1つの書記素が2つの異なる音素に対応することになってしまった.これは,書記素論の立場からすると,therapeutic ではなく,むしろ pathogenic な変化と言える.
まとめると,/ð/ の音素化という言語変化は,音韻論の観点からは therapeutic な変化だったが,書記素論の観点からは pathogenic な変化だったということになる.では,音韻論や書記素論やその他の部門をすべて考え合わせて,英語という言語体系全体への影響という視点で見ると,この変化ははたしてプラスだったのかマイナスだったのか.影響の質も量も客観的に計測することが難しいので,この判断はおぼつかないことになる(その意味では,機能負担量とは影響を客観的に計測しようとする営みの現われであり,その方法の1つなのかもしれないが).
言語において,何をもって「治癒」とし,何をもって「罹病」とするかはよくわからない.動物の場合ですら,敢えて軽く罹病させて予防・治癒効果を狙う予防接種の考え方がある.ちなみに,上で用いてきた pathogenic (発病させる)という形容詞は therapeutic の対義語として今回便宜的に用いたまでで,用語として定着しているわけではない.
・ Schendl, Herbert. Historical Linguistics. Oxford: OUP, 2001.
言語変化の drift 「ドリフト,駆流,偏流,定向変化」について,本ブログの数カ所で取り上げてきた (see drift) .英語の drift はゲルマン語派の drift を継承しており,後者は印欧語族の drift を継承している.英語史と関連して指摘される最も顕著な drift は,analysis から synthesis への言語類型の変化だろう.これについては,Meillet を参照して[2011-02-12-1], [2011-02-13-1]などで取り上げた.
なぜ言語に drift というものがあるのか.これは長らく議論されてきているが,いまだに未解決の問題である.言語変化における drift はランダムな方向の流れではなく,一定の方向の流れを指す.しかも,短期間の流れではなく,何世代にもわたって持続する流れである.不思議なのは,言語変化の主体である話者は,言語を用いる際に過去からの言語変化の流れなど意識も理解もしていないはずにもかかわらず,一定方向の言語変化の流れを次の世代へ継いでゆくことである.言語変化の drift とは,話者の意識を超えたところで作用している言語に内在する力なのだろうか.もしそうだとすると,言語は話者から独立した有機体ということになる.論争が巻き起こるのは必至だ.
drift という用語は,アメリカの言語学者 Edward Sapir (1884--1939) が最初に使ったものである."Language moves down time in a current of its own making. It has a drift." (150) と言っており,あたかも言語それ自体が原動力となって流れを生み出しているかのような記述である.しかし,この言語有機体論に対して Sapir 自身が疑問を呈している箇所がある.
Are we not giving language a power to change of its own accord over and above the involuntary tendency of individuals to vary the norm? And if this drift of language is not merely the familiar set of individual variations seen in vertical perspective, that is historically, instead of horizontally, that is in daily experience, what is it? (154)
もちろん Sapir は,言語変化がそれ自身の力によってではなく,話者による言語的変異の無意識的な選択によって生じるということを認識してはいる.
The drift of a language is constituted by the unconscious selection on the part of its speakers of those individual variations that are cumulative in some special direction. (155)
しかし,話者がなぜ後に drift と分かるような具合に,世代をまたいである方向へ言語変化を推し進めてゆくのかは,相変わらず未知のままである.結局のところ,Sapir は drift とは mystical で impressive な現象であるという結論のようである.
Our very uncertainty as to the impending details of change makes the eventual consistency of their direction all the more impressive. (155)
付け加えれば,Sapir は英語が語彙を他言語から借用する傾向も drift であると考えている.
I do not think it likely, however, that the borrowings in English have been as mechanical and external a process as they are generally represented to have been. There was something about the English drift as early as the period following the Norman Conquest that welcomed the new words. They were a compensation for something that was weakening within. (170)
最後の "something" とは何なのか.
言語変化の方向の一定性という問題は,ここ30年の間に grammaticalisation の研究が進んだことによって新たな生命を吹き込まれた.grammaticalisation は言語変化の unidirectionality に焦点を当てているからである.Lightfoot は,これに激しく異を唱えている.もし言語に一定方向の drift が見られると仮定すると,一般に言語史にアクセスできないはずの話者にその原動力を帰すことはできない.とすると,何の力なのか.mystery 以外のなにものでもないではないか,と (International Encyclopedia of Linguistics, p. 399) .
Sapir 以来,drift の謎はいまだに解かれていない.
・ Sapir, Edward. Language. New York: Hartcourt, 1921.
・ Frawley, William J., ed. International Encyclopedia of Linguistics. 2nd ed. 2nd Vol. Oxford: Oxford UP, 2003.
10月は運動会やイベントの月である.公的なイベントが雨で流れたりすると,我が家の付近では案内アナウンスが町中にこだまする.先日の朝も「本日はコウテンのため○○祭りは中止となります」と流れた.ここですかさず突っ込んだのは「荒天」か「好天」かどっちだ? 文脈と語用論的な判断から実際には誤解が生じることはないが,口頭のアナウンスには適さない漢熟語だなと思った.かつては「好天」がカウテン,「荒天」がクワウテンと仮名遣いの上では異なっていたが,発音上は同じなので同音反意語といえる.
ところが数分後に,なんと修正版アナウンスが流れたのである.「本日は悪天候のため○○祭りは中止となります.」そして,さらに数分後には「本日は長雨による悪天候のため○○祭りは中止となります」と再び変化した.おお,どんどん分かりやすくなっているではないか! 役所に苦情の電話が入ったか,あるいは原稿を読み上げていて我ながら分かりにくいと思ったのか.いずれにせよ,これで祭りに参加する予定だった小学生にもよく分かるメッセージとなった.
さて,他に誤解を招きやすい同音の漢熟語としては「偏在」と「遍在」を思いついた.漢字変換の際に注意を要する熟語だ.『明鏡国語辞典』によると,
へん‐ざい【偏在】名・自サ変 ある所にかたよって存在すること.「都市部に―する人口」「富の―」
へん‐ざい【遍在】名・自サ変 広くゆきわたって存在すること.「日本各地に―する伝説」
日本語は難しいなと思わせるが,同音異義衝突 ( homonymic clash ) と呼ばれる現象は英語にも見られる.英語史からの著名な例は,queen 「女王」 ( < OE cwēn ) と quean 「あばずれ女,淫売婦」 ( < OE cwene ) である.両者は本来は形態的にも意味的にも区別されていたが,近代英語期に母音が融合した結果,形態的に区別がつかなくなった.意味的には反意語とも考えられ誤解を招く可能性が高いからだろう,結局,後者は18世紀半ばに衰退した.
gate 「門扉」 ( < OE geat ) と gait 「道」 ( < ME gate < ON gata ) も同様で,反意語とまでは言わないが文脈によっては誤解を招く可能性が十分にあるペアなので,後者の「道路」の語義は衰退した.しかし,この場合には gait という語自体が消えてしまうことはなく「歩き方」という語義に特化することによって生き残った.
日本語でも英語でも同音異義語が共存する例が認められるとはいえ,多くはない.ある程度の時間はかかるが,最終的にペアのどちらかが「折れる」方向で言語変化が進むということが多いからだろう.同音異義衝突の回避を言語変化の原動力と考える機能主義的な見方 ( functionalism ) は,時に目的論的 ( teleological ) であると非難されることはあるが,今回の「荒天」のアナウンスを聞いていると,さもありなんと同意したくなる.
「荒天」が避けられるようになってゆくことを,日本語の堕落や表現力の貧弱化と考える向きもあれば,コミュニケーション上の改善だとみる向きもあるだろう.ただし,言語史(といっても私は英語史しか参照できないのだが)上の事例から判断すると,長い目で見れば,少なくとも話し言葉において「荒天」か「好天」のどちらかが徐々に用いられなくなってゆく可能性が高いのではないか.
[2010-07-03-1]の記事で,言語変化それ自体は進歩でも堕落でもなく,ただ移り変わってゆくということ以外の何ものでもないということを示唆した.英語史などの言語史を通覧すると,言語変化に一定の方向,大きな流れ,漂流 ( drift ) があるように見えることは確かだが,それは一時の傾向であり,目的論的な ( teleological ) 意味をもつ絶対的な方向ではない.言語については,鴨長明『方丈記』の冒頭の如く「ゆく河の流れは絶えずして,しかも,もとの水にあらず.淀みに浮ぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたる例なし.」
Vendryes の名著の最後を飾る以下の一節も,言語変化に定まった方向があるという見方を否定している.言語は現在の社会的な諸要因と過去からの言語的な遺産とが掛け合わさることによって,日々流れるように変化しているのだという無常観が読み取れる.力強く印象深い一節だ.
We can now see how the hypothesis of progress in language must be understood. Progress in the absolute sense is impossible, just as it is in morality or politics. It is simply that different states exist, succeeding each other, each dominated by certain general laws imposed by the equilibrium of the forces with which they are confronted. So is it with language. In the history of languages a certain relative progress can be observed. Languages may be adapted in a greater or lesser degree to certain states of civilization. Progress consists in the best possible adaptation of a language to the needs of the people using it. But, however real this progress may be, it is never definitive. The characteristics of a language are maintained just so long as the people speaking it preserve the same habits of thought; and they are liable to modification and degeneration, or to complete disappearance. It is quite wrong to think of language as an ideal entity evolving independently of men and pursuing its own ends. Language does not exist apart from the people who think and speak it; its roots go deep into the consciousness of each one of us; thence it is that it draws the sustenance enabling it to blossom in speech. But personal consciousness is only one of the elements of the collective consciousness whose laws are imposed upon every individual. The evolution of language thus constitutes only one aspect of the evolution of society: we should not see in it anything in the nature of direct advance toward a definite goal. The task of the philologist comes to an end when he has recognized in language the play of social forces and the influence of history. (359)
・ Vendryes, J. Language: A Linguistic Introduction to History. Trans. Paul Radin. New York: Alfred A. Knopf, 1925.
Aitchison (6--7) によると,言語変化に対する人々の態度は三種類に分けられる.
(1) 言語変化は完全な状態からの緩慢な堕落である
(2) 言語変化はより効率的な状態への緩慢な進歩である
(3) 言語変化は進歩でも堕落でもない
言語変化を扱う通時言語学では (3) が常識である.言語変化は単に言語の現状を表しているだけであり,堕落でも進歩でもなく,単純化でも複雑化でもない.ある側面で単純化が起こっているように見えても他の側面では複雑化が起こっているものであり,言語としての効率はそれほど変わらない ( see [2010-02-14-1] ) .
しかし,(1) や (2) の意見はいまだに人口に膾炙している.(1) の論者は,言語がかつての理想的な状態から落ちぶれてきており,現代に起こっている言語変化はおよそ悪であると考える.日本でも,若者の言葉の乱れ,横文字の氾濫がしばしば新聞などで話題にのぼるが,これは (1) の考え方と関係している.イギリスでは,Shakespeare に代表される偉大な文人が現れた16世紀後半の Elizabeth 朝辺りが英語の黄金時代であり,それ以降は理想の姿からゆっくりと堕落してきているのだという考えがあった.往時を偉大とみなすのは人々の常なのかもしれない.
主に英語について,Brinton and Arnovick は,(1) の考え方がいまだに広く行き渡っているのは次のような理由があるからであると述べている (20--21).
・ 往時を偲ぶ郷愁の想い(裏返せば,現世への嘆き)
・ 純粋な言語への憧れ(外国語の影響の排除,英語の Americanisation への危惧など)
・ 社会的な偏見(ある方言の訛りの蔑視,教養階級の発音への憧れなど)
・ ラテン語やギリシャ語などの高度に屈折的な言語のほうが優れているという意識(特に英語は屈折的でない方向へ顕著に変化を遂げてきているので)
・ 書き言葉の重視(書き言葉は話し言葉に比べてあまり変化しないので,より優れているという発想につながる)
(2) については,19世紀の比較言語学者が抱いていた進化論的な言語観を反映している.生物が単純から複雑へと進化してきたように,人類が未開から文明へ進化してきたように,言語も原始の非効率的な形態から現代の効率的な形態へと進化してきたという発想である.私の英語史を受講している学生からのリアクションペーパーでも,英語史における屈折の単純化の過程などを指して「英語は効率的に,使いやすい方向に進化してきたことがわかった」という所感が少なくない.進化論的な言語観が蔓延している証拠だろう.
・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 3rd ed. Cambridge: CUP, 2001.
・ Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006.
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