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minimal_pair - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-19 09:34

2020-03-04 Wed

#3964. 古英語の "digraph controversy" (2) [digraph][oe][spelling][phonetics][phonology][vowel][diphthong][typography][reconstruction][minimal_pair]

 [2020-02-24-1] の記事で取り上げた論争について続編をお届けする.
 古英語で <ea>, <eo>, <ie> と綴られる3種の2重字 (digraph) は,それぞれ歴史的には短い音素と長い音素のいずれをも表わしているとされる.つまり,古英語では同じ2重字で綴られていながらも,音韻的には「短い2重母音」と「長い2重母音」(現代の文献ではしばしば第1母音字に長音記号 (macron) を付して表記される)が区別されていたということだ.素直に解釈すれば,<ea> ≡ [ɛɑ], <ēa> ≡ [ɛːɑ], <eo> ≡ [eo], <ēo> ≡ [eːo], <ie> ≡ [ie], <īe> ≡ [iːe] のような対応関係と解してよさそうだが,これが論争の的になっているのだ.それもただの論争ではない.古英語文献学において最も複雑かつ辛辣な論争である.
 実のところ,これら長短の2重母音のいずれも古英語の終わりには滑化し,2重母音ではなくなってしまう.その点では後の英語音韻史にほとんど影響を与えていないわけであり,一見するとなぜそれほど大きな論争になるのか分かりにくいだろう.しかし,これは古英語の音韻体系に関する問題にとどまらず,類型論的な意義をもつ問題であり,だからこそ論争がヒートアップしているのだ.以下,Minkova (178--79) に従って,2重母音に長短の区別があったとする説に反対する論拠を挙げてみよう.
 まず,先の記事にも述べたように,類型論的にいって2重母音に長短の区別がある言語はまれである.そのようなまれな母音体系を,古英語のために再建してもよいのかという問題がある.そのような母音体系があり得ないとまではいえないものの,非常にまれだとすれば,そもそも仮説的な再建の候補として挙げてよいものだろうか.これは,なかなか反駁しにくい反対論の論拠である.
 もう1つの議論は,上の3種の2重母音とは別の2重母音 [ej] は,特に長短の区別を示していないということに依拠する.語源的にはこの2重母音は長短の区別を示していたが,古英語では語源的には長いはずの hēȝ (hay) と短いはずの weȝ (way) が特に対立をなしていない.とすれば,問題の3種の2重母音についても長短の区別はなかったという可能性が高いのではないか.
 3つめに,後の音韻史を参照してみると,「短い2重母音」はやがて短母音と融合していくことになる.つまり,「短い2重母音」は2重字で綴られているので勘違いされやすいが,実はもともと1モーラの母音だったのではないか.そこから対比的に考えると,「長い2重母音」は実は2モーラの普通の2重母音にすぎないのではないか.
 最後に,そもそも2重母音の長短の区別を実証する最小対 (minimal_pair) が限られていることだ.限られている例を観察すると,音素として異なるとする解釈によらずとも,別の解釈により説明し得る.
 今回は一方の側の論拠を紹介したにすぎないが,両陣営が各々の論拠を立てて激しい論争を繰り広げている.たかが2重母音,されど2重母音.恐るべし.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.

Referrer (Inside): [2021-06-21-1]

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2013-06-13 Thu

#1508. 英語における軟口蓋鼻音の音素化 [consonant][phoneme][phonology][diachrony][methodology][variation][phonemicisation][suffix][rp][minimal_pair][spelling_pronunciation]

 現代英語で,fingersinger において ng 部分の発音は異なる.前者は [fɪŋgə],後者は [sɪŋə] である.後者のように,-ing で終わる語幹に派生・屈折接尾辞が付加される場合には [ŋ] のみとなる点に注意したい.ただし,形容詞の比較変化は別で long の比較級 longer は [lɔŋgə] である.したがって,「より長い」と「切望する人」とでは,同じ longer でも [lɔŋgə] と [lɔŋə] で発音が異なることになる.
 古くは語末の -ng は常に [ŋg] だった.弱音節では方言にもよるが14世紀前半から,強音節では標準英語で17世紀から,[ŋŋ] を経由して [ŋ] へと音韻変化を遂げた.だが,West Midlands 方言,Birmingham, Manchester, Liverpool などではこの音韻変化は起こらず,[ŋg] が保たれた.
 このように多くの方言で語末の -ng が [ŋg] から [ŋ] へ変化することによって,sing [sɪŋ] と sin [sɪn] などが最小対 (minimal pair) を形成することになり,/ŋ/ が音素化 (phonemicisation) した.
 なお,動詞の派生接尾辞としての -ing は,本来の [ɪŋg] から [ɪŋ] へ変化したほかに,さらに [ɪn] へと発展した変異形もあった.現代英語ではしばしば -in' と表記される語尾で,非標準的とされている([2013-01-26-1]の記事「#1370. Norwich における -in(g) の文体的変異の調査」を参照)が,歴史的には広く行なわれてきた.19世紀中には保守的な RP でも用いられており,むしろ権威ある発音とすらみなされていた.その後,相対的に威信が失われていったのは,綴字発音 (spelling pronunciation) の影響と考えられる.

 ・ 中尾 俊夫 『音韻史』 英語学大系第11巻,大修館書店,1985年.

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2012-09-08 Sat

#1230. overoffer は最小対ではない? [phoneme][phonemicisation][minimal_pair][meosl][degemination][language_myth]

 [2012-08-31-1]の記事「#1222. フランス語が英語の音素に与えた小さな影響」の (1)(c) で触れたが,[f] に対する [v] の音素化は,中英語における音韻体系変化の例として,英語史ではよく話題にのぼる.フランス語借用により offer のような語が英語語彙に加わり,かつ非重子音化 (degemination) という音韻変化が生じたために,over : offer などの最小対が現われ,音素 /v/ が確立したという議論である.
 Britton (233) によれば,この議論は古く Kurath (1956) に端を発し,現在でも概説書等で根強く繰り返されているが,Sledd (1958) によって正当に反論されている.つまり,一種の神話であるという見解だ.実際に二人の論争を読むと,確かに Sledd に軍配が上がる.Kurath の議論とその神話たる所以を解説すると,次のようになる (Britton 233) .
 Kurath によれば,中英語期に,[VCV] (太字はアクセント) という環境で,最初の母音が長音化し,[VVCV] となった.いわゆる Middle English Open Syllable Lengthening (MEOSL) と呼ばれる音韻変化である.一方,[VCCV] の環境では非重子音化が生じ,[VCV] となった.問題の [C] が,摩擦音 [f, s, θ] の場合には,歴史的な [VCV] の環境(新しい [VVCV])ではその有声音が,歴史的な [VCCV] の環境(新しい [VCV])では無声音が現われており,その分布は新しい環境でも保たれたため,今や /v/ : /f/, /z/ : /s/, /ð/ : /θ/ がそれぞれ別々の音素として対立するようになったという.
 しかし,よく考えてみると,問題の子音の声の有無は,音韻変化を経て生まれ変わった後でも,環境によって自動的に決まる性質のものである.[VVCV] と [VCV] を比べてみれば,前者は長母音が先行しており,後者は短母音が先行している.後続する [C] の声の有無は,直前の母音の長さを参照して決まるのであり,この意味で相補分布 (complementary distribution) をなしていると解釈できる.したがって,[v, z, θ] を独立した音素としてみなすことはできないということになる.
 Kurath の [f] などの音素化の議論は破綻するように見えるが,議論以前に,そもそも問題の音素化はすでに確立していたという主張もある.広く受け入れられているように,MEOSL が語末の schwa の消失の後に起こったと想定するのであれば,schwa の消失から MEOSL までの隙間期間に,[V + voiced C] と [V + voiceless C] の対立はすでに成立していたことになるからだ.ただし,この辺りは込み入った議論があるようなので,これ以上の深入りはせずに止めておく.

 ・ Britton, Derek. "Degemination in English, with Special Reference to the Middle English Period." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 232--43.
 ・ Kurath, Hans. "The Loss of Long Consonants and the Rise of Voiced Fricatives in Middle English." Language 32 (1956): 435--45. Rpt. in Approaches in English Historical Linguistics: An Anthology. Ed. Roger Lass. New York: Holt, Rinehart and Winston, 1969.
 ・ Sledd, James. Some Questions of English Phonology. Language 34 (1958): 252--58.

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2012-02-12 Sun

#1021. 英語と日本語の音素の種類と数 [phonology][phonetics][phoneme][vowel][consonant][ipa][pde][japanese][minimal_pair][rp]

 ある言語の音素一覧は,構造言語学の手法にのっとり,最小対語 (minimal pair) を取り出してゆくことによって作成できることになっている.しかし,その言語のどの変種を対象にするか(英語であれば BrE か AmE かなど),どの音韻理論に基づくかなどによって,様々な音素一覧がある.ただし,ほとんどが細部の違いなので,標題のように英語と日本語を比較する目的には,どの一覧を用いても大きな差はない.以下では,英語の音素一覧には,Gimson (Gimson, A. C. An Introduction to the Pronunciation of English. 1st ed. London: Edward Arnold, 1962.) に基づいた Crystal (237, 242) を参照し,日本語には金田一 (96) を参照した.英語はイギリス英語の容認発音 (RP) を,日本語は全国共通語を対象としている.

英語の音素一覧(20母音+24子音=44音素):
 /iː/, /ɪ/, /e/, /æ/, /ʌ/, /ɑː/, /ɒ/, /ɔː/, /ʊ/, /uː/, /ɜː/, /ə/, /eɪ/, /aɪ/, /ɔɪ/, /əʊ/, /aʊ, ɑʊ/, /ɪə/, /eə/, /ʊə/; /p/, /b/, /t/, /d/, /k/, /g/, /ʧ/, /ʤ/, /f/, /v/, /θ/, /ð/, /s/, /z/, /ʃ/, /ʒ/, /h/, /m/, /n/, /ŋ/, /l/, /r/, /w/, /j/

日本語の音素一覧(5母音+16子音+3特殊音素=24音素):
 /a/, /i/, /u/, /e/, /o/; /j/, /w/; /k/, /s/, /c/, /t/, /n/, /h/, /m/, /r/, /g/, /ŋ/, /z/, /d/, /b/, /p/; /N/, /T/, /R/


 実際には多くの言語の音素一覧を比較すべきだろうが,この音素一覧からだけでもそれぞれの言語音の特徴をある程度は読み取ることができる.以下に情報を付け加えながらコメントする.

 ・ 母音について,英語は20音素,日本語は5音素と開きがあるが,5母音体系は世界でもっとも普通である.もっと少ないものでは,アラビア語,タガログ語,日本語の琉球方言の3母音,黒海東岸で話されていたウビフ語の2母音という体系がある.日本語では,古代は4母音,上代は8母音と通時的に変化してきた.
 ・ 子音について,英語は24音素,日本語は16音素で,日本語が比較的少ない.少ないものでは,ハワイ語の8子音,ブーゲンビル島の中部のロトカス語の6子音,多いものでは先に挙げたウビフ語の80子音という驚くべき体系がある.
 ・ 日本語には摩擦音が少ない./z/ は現代共通語では [dz] と破擦音で実現されるのが普通.また,上代では /h/, /s/ はそれぞれ /p/, /ts/ だったと思われ,摩擦音がまったくなかった可能性がある.一方,英語では摩擦音が充実している.
 ・ 日本語では,通時的な唇音退化 (delabialisation) を経て,唇音が少ない.後舌高母音も非円唇の [ɯ] で実現される(ただし近年は円唇の調音もおこなわれる).

 日本語母語話者にとって英語の発音が難しく感じられる点については,「#268. 現代英語の Liabilities 再訪」 ([2010-01-20-1]) と「#293. 言語の難易度は測れるか」 ([2010-02-14-1]) で簡単に触れた.
 (英語)音声学の基礎に関する図表には,以下を参照.

 ・ 「#19. 母音四辺形」: [2009-05-17-1]
 ・ 「#118. 母音四辺形ならぬ母音六面体」: [2009-08-23-1]
 ・ 「#31. 現代英語の子音の音素」: [2009-05-29-1]

 ・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
 ・ 金田一 春彦 『日本語 新版(上)』 岩波書店,1988年.

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2011-08-12 Fri

#837. 言語変化における therapy or pathogeny [functionalism][language_change][systemic_regulation][phoneme][phonemicisation][minimal_pair][functional_load][teleology]

 過去2日間の記事「機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]) と「機能負担量と言語変化」 ([2011-08-11-1]) で,Schendl を引き合いに出しながら,機能主義 (functionalism) ,自己調整機能 (systemic regulation) ,治癒力 (therapeutic power) ,機能負担量 (functional load) などの用語を用いてきた.昨日これに関連して次のような質問が寄せられた.

Schendl (69)からの引用についてひとつ質問をさせてください。
'therapeutic changes in one part of the grammar may create imbalance in another part'
とありますが、どのような例があるのか思い浮かびません。治癒力のせいで生じてしまう不均衡とはどのようなものなのか、とても気になりますので御回答お願いします。


 Schendl は同著で具体的に例を挙げているわけではないので,読者としては該当しうる例を考えてみるしかない.ある部門(例えば音韻論)に生じた言語変化が,他の部門(例えば形態論や統語論)に別の言語変化を連鎖的に引き起こすというような例や議論は英語史でも多く見られるが,より限定的に,ある治癒的な (therapeutic) 言語変化が別のところでは病因となるような (pathogenic) 言語変化の連鎖の例というのはあったろうかと,確かに考えさせられた.
 なぜすぐに例が思い浮かばないのだろうかと考えてみると,"therapeutic" という用語が具体的に何を指すか,客観的に決めがたいという背景があるからではないかと思い当たった.一般の用語では「治癒」の目指す最終目標は「全快」状態だが,言語体系において「全快」とはいかなる状態を指すのか.機能主義の立場に立った一般的な理解としては,治癒とは "a symmetrical, balanced, simple, economical system" を指向しているとみなすことができるだろう(いずれの形容詞も Schendl の説明に現われる).しかし,言語体系は複数の下位体系の複雑な組み合わせによって成る有機体であり,その一部に生じる言語変化が,ある下位体系の観点から見れば therapeutic だとしても,別の下位体系の観点から見れば pathogenic であることもあり得る.では,言語体系全体の観点からすると,この言語変化はどの程度 therapeutic なのか,あるいは pathogenic なのか.これを決定することは非常に難しい.
 具体例として思いついたのは,昨日の記事でも取り上げた /θ/ と /ð/ の対立の発生,別の言い方をすれば /ð/ の音素化 (phonemicisation) という言語変化である.古英語では,
[θ] と [ð] は1つの音素 (phoneme) の2つの異音 (allomorphs) という位置づけにすぎなかった.しかし,後に主として機能語において専ら有声音 [ð] が行なわれるようになり (ex. that, the, then, there, they, thou, though, with; cf. verners_law) ,thy vs. thigh のような最小対 (minimal pair) が生じた.こうして /θ/ と /ð/ は別々の音素へと分裂していった.
 この /ð/ の音素化の動機づけを機能主義的な観点から説明すると,昨日も述べたように次のようになる.英語の阻害音 (obstruent) 系列では有声と無声の対立が大きな機能負担量を担っており,歯摩擦音での声の対立の欠如は阻害音系列の対称性を損なう「病因」と考えられる./θ/ と /ð/ の音素化はこの非対称性を減じる方向で作用し,問題の病因を「治癒」していると解釈される.実際には thy vs. thigh 型の最小対の例は少ないので,声の有無の対立はたいして利用されているわけではないのだが,それでも /θ/ と /ð/ の音素的な対立が堅持されているのは,英語音韻論全体として声の有無という対立が極めて機能的だからである.以上の説明が受け入れられるとすれば,この議論はまさに therapeutic な考え方を代表していると言えるだろう.
 しかし,同じ言語変化を書記素論 (graphemics) の立場から見ると,むしろ体系的な非対称性が増しているとも考えられる.言語において,1音素に1文字が対応しているのが最も対称的で,均衡が取れており,単純で,経済的であることは疑いを容れない.現代英語はこの点で非常に悪名高いことはよく知られている.さて,より対称的で,均衡が取れており,単純で,経済的な音素と書記素の関係を追求するような言語変化が生じたとすれば,それは書記素論の観点からは therapeutic な変化ということができるだろう.ところが,上述の /ð/ の音素化に合わせて書記素体系も同様に変化したわけではないので,結果として <th> という二重字 (digraph) で表わされる1つの書記素が2つの異なる音素に対応することになってしまった.これは,書記素論の立場からすると,therapeutic ではなく,むしろ pathogenic な変化と言える.
 まとめると,/ð/ の音素化という言語変化は,音韻論の観点からは therapeutic な変化だったが,書記素論の観点からは pathogenic な変化だったということになる.では,音韻論や書記素論やその他の部門をすべて考え合わせて,英語という言語体系全体への影響という視点で見ると,この変化ははたしてプラスだったのかマイナスだったのか.影響の質も量も客観的に計測することが難しいので,この判断はおぼつかないことになる(その意味では,機能負担量とは影響を客観的に計測しようとする営みの現われであり,その方法の1つなのかもしれないが).
 言語において,何をもって「治癒」とし,何をもって「罹病」とするかはよくわからない.動物の場合ですら,敢えて軽く罹病させて予防・治癒効果を狙う予防接種の考え方がある.ちなみに,上で用いてきた pathogenic (発病させる)という形容詞は therapeutic の対義語として今回便宜的に用いたまでで,用語として定着しているわけではない.

 ・ Schendl, Herbert. Historical Linguistics. Oxford: OUP, 2001.

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2011-08-11 Thu

#836. 機能負担量と言語変化 [functionalism][language_change][systemic_regulation][terminology][phonology][drift][minimal_pair][functional_load]

 昨日の記事「機能主義的な言語変化観への批判」([2011-08-10-1]) で触れた,機能負担量 (functional load or functional yield) について.機能負担量とはある音韻特徴がもつ弁別機能の高さのことで,多くの弁別に役立っているほど機能負担量が高いとみなされる.
 例えば,英語では音素 /p/ と /b/ の対立は,非常に多くの語の弁別に用いられる.別の言い方をすれば,多くの最小対 (minimal pair) を産する (ex. pay--bay, rip--rib ) .したがって,/p/ と /b/ の対立の機能負担量は大きい.しかし,/ʃ/ と /ʒ/ の対立は,mesher--measure などの最小対を生み出してはいるが,それほど多くの語の弁別には役立っていない.同様に,/θ/ と /ð/ の対立も,thigh--thy などの最小対を説明するが,機能負担量は小さいと考えられる.
 機能負担量という概念は,上記のような個別音素の対立ばかりではなく,より抽象的な弁別特徴の有無の対立についても考えることができる.例えば,英語において声の有無 (voicing) という対立は,すべての破裂音と /h/ 以外の摩擦音について見られる対立であり,頻繁に使い回されているので,その機能負担量は大きい.
 では,機能負担量と言語変化がどのように結び着くというのだろうか.機能主義的な考え方によると,多くの語の弁別に貢献している声の有無のような機能負担量の大きい対立が,もし解消されてしまうとすると,体系に及ぼす影響が大きい.したがって,機能負担量の大きい対立は変化しにくい,という議論が成り立つ.反対に,機能負担量の小さい対立は,他の要因によって変化を迫られれば,それほどの抵抗を示さない.この論でゆくと,/θ/ と /ð/ の対立は,機能負担量が小さいため,ややもすれば失われないとも限らない不安定な対立ではあるが,一方でより抽象的な次元で声の有無という盤石な,機能負担量の大きい対立によって支えられているために,それほど容易には解消されないということになろうか.機能主義論者の主張する,言語体系に内在するとされる「対称性 (symmetry) の指向」とも密接に関わることが分かるだろう.
 体系的な対立を守るために,あるいは対立の解消を避けるために変化が抑制されるという「予防」の考え方は,すぐれて機能主義的な視点である.しかし,話者(集団)は体系の崩壊を避ける「予防」についてどのように意識しうるのか.話者(集団)は日常の言語行動で無意識に「予防」行為を行なっていると考えるべきなのか.これは,[2011-03-13-1]の記事「なぜ言語変化には drift があるのか (1)」で見たものと同類の議論である.

 ・ Schendl, Herbert. Historical Linguistics. Oxford: OUP, 2001.

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2010-07-17 Sat

#446. しぶとく生き残ってきた <z> [alphabet][phoneme][phonemicisation][minimal_pair][mulcaster][z]

 [2010-05-05-1], [2010-05-06-1]でアルファベットの <u> と <v> について述べたが,今日は英語で最も出番の少ない存在感の薄い文字 <z> を話題にする.
 <z> が最低頻度の文字であることは,[2010-03-01-1]で軽く触れた.BNC Word Frequency Listslemma.num による最頻6318語の単語リストから <z> を含む単語を抜き出してみると,以下の36語のみである.この文字のマイナーさがよくわかる.(順位表はこのページのHTMLソースを参照.)

size, organization, recognize, realize, magazine, citizen, prize, organize, zone, seize, gaze, freeze, emphasize, squeeze, gaze, amazing, crazy, criticize, horizon, hazard, breeze, characterize, ozone, horizontal, enzyme, bronze, jazz, bizarre, frozen, organizational, citizenship, dozen, privatization, puzzle, civilization, lazy



 <z> をもつ語のうちで最頻の size ですら総合716位という低さで,上位1000位以内に入っているのはこの語だけである.健闘しているのが,<z> を二つもっている jazzpuzzle である.
 <z> の分布について気づくことは,ギリシャ語由来の借用語が多いこと,-ize / -ization(al) がいくつか見られること ([2010-02-26-1], [2010-03-07-1]) ,単音節語に見られることが挙げられるだろうか.<z> が借用語,特にギリシャ語からの借用語と関連づけられているということは,この文字の固い learned なイメージを想起させる.<z> のもつ近寄りがたさや,それを含む語の頻度の低さとも関係しているだろう,一方で,今回の順位表には数例しか現れていないが,単音節語に <z> がよく出現することは craze, daze, laze, maze, doze, assize, freeze, wheeze などで例証される.心理や状態を表す語が多いようである.
 <z> は古英語にもあるにはあったが,Elizabeth などの固有名詞などに限られ,やはりマイナーだった.古英語では /z/ は音素としては存在していず,/s/ の異音として存在していたに過ぎないので,対応する文字 <z> を用いる必要がなかったということが理由の一つである.中英語になり <z> を多用するフランス語から大量の借用語が流入するにつれて <z> を用いる機会が増えたが,<v> の場合と異なり,それほど一般化しなかった.それでも priceprize などの minimal pair を綴字上でも区別できるようになったのは,<z> の小さな貢献だろう.しかし,このような例はまれで,現代でも <s> が /s/ と /z/ の両音を表す文字として活躍しており,例えば名詞としての house と動詞としての house が綴字上区別をつけることができないなどという不便があるにもかかわらず,<z> が出しゃばることはない.<z> の不人気は,Shakespeare でも言及されている ( Scragg, p. 8 ).

Thou whoreson zed! thou unnecessary letter! ( Shakespeare, King Lear, Act II, Scene 2 )


 Shakespeare と同時代人で綴字問題に関心を抱いた Richard Mulcaster ([2010-07-12-1]) は,<z> の不人気は字体が書きにくいことによると述べている.

Z, is a consonant much heard amongst vs, and seldom sene. I think by reason it is not so redie to the pen as s, is, which is becom lieutenant generall to z, as gase, amase, rasur, where z, is heard, but s, sene. It is not lightlie expressed in English, sauing in foren enfranchisments, as azur, treasur. ( The First Part of the Elementarie, p. 123 )


 英語史を通じて,<z> が脚光を浴びたことはない.しかし,存在意義が稀薄でありながら,しぶとくアルファベットから脱落せずに生き残ってきたのが逞しい.ギリシャ語借用語,特に -ize / -ization,そして一握りの単音節語という限られたエリアに支持基盤をもつ小政党のような存在感だ.

 ・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
 ・ Mulcaster, Richard. The First Part of the Elementarie. Menston: Scolar Reprint 219, 1582. (downloadable here from OTA)

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