父王 Henry II のアンジュー帝国を引き継いだ獅子心王 (Coeur de Lion or Lion-Heart) こと Richard I (1157--99,在位 1189--99) は,世間には人気の高い歴代イングランド王の1人である.第3回十字軍に参加してイェルサレムを目指し,善戦してサラディンとの和平を結ぶも,帰路に捕虜として捕えられ,莫大な身代金によりようやく釈放されて帰国し,戴冠した.この波瀾万丈なキャリアが,人々の関心を集めるのだろう.
しかし,イングランドの統治者としては,相当にひどいタイプである.何しろ在位10年ほどの間のほとんどを,遠征などのために大陸で費やしており,イングランドへの訪問は2回のみ,しかも総滞在期間はわずか6か月という始末である.当然ながら,「#1204. 12世紀のイングランド王たちの「英語力」」 ([2012-08-13-1]) で述べたように,英語には一切関心がなかった.ちなみに,王妃ベレンガリアに至っては,一度もイングランドの地を踏んでいないというから,さらに上手だ.
遠征にかかる費用や身代金のために借金地獄に陥った Richard I は,税収を確保するために国璽 (Great Seal) の改訂という驚くべき手段に訴えた.王家や王国の収支証明書は,国璽がないと無効になる.この国璽を改訂することによって,それまでに発行していた証明書を無効にする,つまり借金を反故にするという狙いである.おもしろいのは,図案の改訂の仕方である.改訂前の国璽に描かれている楯には,立ち上がったライオンが見え,おそらく見えない部分も合わせてライオン2頭が向かい合う図案だったと思われる.ところが,改訂後の国璽の楯には,歩き姿のライオン3頭が描かれている.この新図案は,後にイングランド王家に受け継がれていく紋章の図案であり,実際に現在でも用いられている(cf. 「#433. Law French と英国王の大紋章」 ([2010-07-04-1])).
この改訂について,森 (67--68) は次のように述べている.
ヨーロッパの紋章は,十字軍遠征に参加した騎士たちの間で,既に紋章を持ち始めたドイツ騎士たちのものに,各国の騎士が異常なほど関心を示して,これが一挙といえるほどに,各国への紋章の普及に貢献した.私見ではあるが,リチャード一世の最初の玉璽に見える楯のデザインは,決してスマートなものとは思えないし,リチャードも聖地で目にした他国の進んだ紋章デザインに刺激されて,二度目のシールにみるような楯に変えたのではなかろうか.
国璽の改訂は,いわば国王 Richard I の財政的愚行を象徴するできごとだったわけだが,それが現イギリス女王にまで引き継がれているというのが,なんとも皮肉である.なお,現行の大紋章の下部にある Dieu et mon droit (神とわが権利)というフランス語のモットーは,Richard I の戦場での雄叫びに由来するという.Richard I は,イギリスの紋章史においては絶大な影響力を誇った王といえるだろう.
英語史の観点からは,Richard I がそれほどまでにイングランド統治を無視してきたという事実に注目したい.これは英語に対する無関心ということでもあった.この言語的無関心により,英語は内外から締めつけられることなく,自由闊達に,ありのままの変化と変異を謳歌しつつ,豊かな言語へと成長していったのである.
・ 森 護 『英国王室史話』16版 大修館,2000年.
ウェセックスのアルフレッド大王の孫に当たるアゼルスタン(Athelstan; 在位 924--40年)は,ウェセックス王にとどまらず,事実上の最初のイングランド王と呼ぶべき存在である.彼は937年のブルナンブルフの戦いで軍功をあげたほか,アルフレッド大王が作った州制を発展させ,法典を編纂し,銀ペニー貨の鋳造権を獲得し,諸外国と同盟するなどの業績を重ねた.君塚 (20--21) によれば,
しかしアゼルスタンにとって最大の功績は,のちの国王評議会や議会の起源ともいうべき機関を設置したことであろう.アゼルスタン以降の国王は「立法」に深く携わるようになり,そのために定期的に有力者たちとの会議を開くようになった.王が司教や伯(エアルダーマン)らに相談して立法を行う慣習は,ノーサンブリアのエドウィン王の時代(六二〇年代)やウェセックスのイネ王の時代(六九〇年代)にも見られたが,アゼルスタンはこれをさらに大規模なものとし,キリスト教の重要な行事であるキリスト降誕祭(一二月),復活祭(四月頃),聖霊降臨祭(五月頃)に定期的に開催するようになった.
これが「賢人会議」(ウィテナイェモート)と呼ばれるものである.イングランド各地から代表者を集めた会議で,カンタベリーとヨークの大司教,多くの司教や大修道院長たち,伯(エアルダーマン)らの有力貴族,豪族(セイン)らが出席するようになり,地方的な問題よりも,イングランド全体に関わる外交や防衛問題,さらには律法や司法に関わる問題を主に協議した.そしてこの会議に集まるようになった有力者たちにとって大切な役割となったのが,先王の死から次王の継承までの間に問題が生じないよう調整するという,まさに王位継承規範に関わる事柄であった.
賢人会議は,前期のキリスト教行事とは関わりのない時期にも召集されたが,復活祭の会議では春の軍事遠征に関わる相談も頻繁に行なわれた.また時代が下るとともに,出席者の席次(序列)も徐々に形成されるようになっていった.
アゼルスタンの設置した「賢人会議」は,古英語では witenagemōt と言い表した.これは witena + gemōt の2語からなる複合語であり,前者 witena は「賢人;評議員」を意味する名詞 wita の複数属格形である.この名詞は,現代英語の名詞 wit (cf. 古英語動詞 witan 「知る」)や形容詞 wise と語源的に関連している.
後者 gemōt は「会議」を意味する名詞だが,これ自体は接頭辞 ge- と名詞 mōt に分解される.ge- は集合を表わす接頭辞で,中英語以降に弱化し消失していったが,yclept, yclad, alike, among, enough, either, handicraft, handiwork などの母音に痕跡を残す.mōt は,語源的に meet (会う)と関係しており,現代では moot という語形で「議論の余地のある」を意味する形容詞として用いられている.
したがって,witenagemōt の意味はまさに「賢人たちが集合する会議」である.なお,現代英語での歴史用語としての発音は /ˈwɪtnəgəˌmoʊt/ となる.
ノルマン征服以降の議会 (parliament) については,「#2334. 英語の復権と議会の発展」 ([2015-09-17-1]) と「#2335. parliament」 ([2015-09-18-1]) を参照.また,アングロサクソン王朝の系図と年表について,「#2620. アングロサクソン王朝の系図」 ([2016-06-29-1]) と「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) をどうぞ.
・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.
「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) でも似たような一覧を示したが,ウィリアム1世以降について,より詳しい「国王及び王妃(婿)一覧表」を森 (626--31) に見つけたので掲げておきたい.王妃(婿)の情報まで含まれているのが便利かつ興味深い.
王及び王妃(婿) | 生年 | 結婚 | 在位 | 没年 | 王妃(婿)の出身 | |
●ノルマン王家 | ||||||
ウィリアム1世 | 1027? | 1050? | 1066--1087 | 1087 | ||
マティルダ・オブ・フランダース | 1031 | 1050? | 1083 | フランドル | ||
ウィリアム2世 | 1060? | 1087--1100 | 1100 | |||
ヘンリー1世 | 1068 | 11000 | 1100--1135 | 1135 | ||
(1) マティルダ・オブ・スコットランド | 1080 | 1100 | 1118 | スコットランド | ||
(2) アデライザ・オブ・ルーヴァン | 1102 | 1121 | 1151 | フランス | ||
スティーヴン | 1097? | 1115 | 1135--1154 | 1154 | ||
マティルダ・オブ・ブーローニュ | 1103? | 1115 | 1152 | アングロ・ノルマン | ||
●プランタジニット王家 | ||||||
ヘンリー2世 | 1133 | 1152 | 1154--1189 | 1189 | ||
エリナー・オブ・アキテーヌ | 1122? | 1152 | 1204 | フランス | ||
リチャード1世 | 1157 | 1191 | 1189--1199 | 1199 | ||
ベレンガリア・オブ・ナヴァール | 1174 | 1191 | 1230? | スペイン | ||
ジョン | 1167 | 1189 | 1199--1216 | 1216 | ||
(1) イザベル・オブ・グロースター | ? | 1189 | 1217 | イングランド | ||
(2) イザベル・オブ・アングレーム | 1188 | 1200 | 1246 | フランス | ||
ヘンリー3世 | 1207 | 1236 | 1216--1272 | 1272 | ||
エリナー・オブ・プロヴァンス | 1226? | 1236 | 1291 | フランス | ||
エドワード1世 | 1239 | 1254 | 1272--1307 | 1307 | ||
(1) エリナー・オブ・カスティル | 1244 | 1254 | 1290 | スペイン | ||
(2) マーガレット・オブ・フランス | 1282? | 1299 | 1318 | フランス | ||
エドワード2世 | 1284 | 1308 | 1307--1327 | 1327 | ||
イザベル・オブ・フランス | 1292 | 1308 | 1358 | フランス | ||
エドワード3世 | 1312 | 1328 | 1327--1377 | 1377 | ||
フィリッパ・オブ・エノー | 1314? | 1328 | 1369 | フランドル | ||
リチャード2世 | 1367 | 1382 | 1377--1399 | 1400 | ||
(1) アン・オブ・ボヘミア | 1366 | 1382 | 1394 | ボヘミア | ||
(2) イザベル・オブ・ヴァロア | 1389 | 1396 | 1409 | フランス | ||
●ランカスター王家 | ||||||
ヘンリー4世 | 1367 | 1380 | 1399--1414 | 1413 | ||
(1) メアリー・ドゥ・ブーン | 1370 | 1381 | 1394 | イングランド | ||
(2) ジョアン・オブ・ナヴァール | 1370? | 1403 | 1437 | スペイン | ||
ヘンリー5世 | 1387 | 1420 | 1413--1422 | 1422 | ||
キャサリン・オブ・ヴァロア | 1401 | 1420 | 1437 | フランス | ||
ヘンリー6世 | 1421 | 1444 | 1422--1461, 1470--1471 | 1471 | ||
マーガレット・オブ・アーンジュ | 1429 | 1444 | 1482 | フランス | ||
●テューダー王家 | ||||||
ヘンリー7世 | 1457 | 1486 | 1485--1509 | 1509 | ||
エリザベス・オブ・ヨーク | 1465 | 1486 | 1503 | イングランド | ||
ヘンリー8世 | 1491 | 1509 | 1509--1547 | 1547 | ||
(1) キャサリン・オブ・アラゴン | 1485 | 1509 | 1536 | スペイン | ||
(2) アン・ブーリン | 1507? | 1533 | 1536 | イングランド | ||
(3) ジェイン・シーモア | 1509? | 1536 | 1537 | イングランド | ||
(4) アン・オブ・クレーヴズ | 1515 | 1540 | 1557 | フランドル | ||
(5) キャサリン・ハワード | 1521? | 1540 | 1542 | イングランド | ||
(6) キャサリン・パー | 1512? | 1543 | 1548 | イングランド | ||
エドワード6世 | 1537 | 1547--1553 | 1553 | |||
メアリー1世 | 1516 | 1554 | 1553--1558 | 1558 | ||
フェリペ・オブ・スペイン | 1527 | 1554 | (スペイン王)1556--1598 | 1598 | スペイン | |
エリザベス1世 | 1533 | 1558--1603 | 1603 | |||
●ステュアート王家 | ||||||
ジェイムズ1世 | 1566 | 1589 | 1603--1625 | 1625 | ||
アン・オブ・デンマーク | 1574 | 1589 | 1619 | デンマーク | ||
チャールズ1世 | 1600 | 1625 | 1625--1649 | 1649 | ||
ヘンリエッタ・マリア | 1609 | 1625 | 1669 | フランス | ||
●再興ステュアート王家 | ||||||
チャールズ2世 | 1630 | 1662 | 1660--1685 | 1685 | ||
キャサリン・オブ・ブラガンザ | 1638 | 1662 | 1705 | ポルトガル | ||
ジェイムズ2世 | 1633 | 1660 | 1685--1688 | 1701 | ||
(1) アン・ハイド | 1637 | 1660 | 1671 | イングランド | ||
(2) メアリー・オブ・モデナ | 1658 | 1673 | 1718 | イタリア | ||
メアリー2世(共同統治) | 1662 | 1677 | 1689--1694 | 1694 | ||
ウィリアム3世(共同統治) | 1650 | 1677 | 1689--1702 | 1702 | オランダ | |
アン | 1665 | 1683 | 1702--1714 | 1714 | ||
プリンス・ジョージ・オブ・デンマーク | 1653 | 1683 | 1708 | デンマーク | ||
●ハノーヴァー王家 | ||||||
ジョージ1世 | 1660 | 1682 | 1714--1727 | 1727 | ||
ゾフィア・ドロテア | 1666 | 1682 | 1726 | ドイツ | ||
ジョージ2世 | 1683 | 1705 | 1727--1760 | 1760 | ||
キャロライン・オブ・アーンズパック | 1683 | 1705 | 1737 | ドイツ | ||
ジョージ3世 | 1738 | 1761 | 1760--1820 | 1820 | ||
シャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツ | 1744 | 1761 | 1818 | ドイツ | ||
ジョージ4世 | 1762 | 1795 | 1820--1830 | 1830 | ||
キャロライン・オブ・ブルンスウィック | 1768 | 1795 | 1821 | ドイツ | ||
ウィリアム4世 | 1765 | 1818 | 1830--1837 | 1837 | ||
アデレイド・オブ・サクス・マイニンゲン | 1792 | 1818 | 1849 | ドイツ | ||
ヴィクトリア | 1819 | 1840 | 1837--1901 | |||
プリンス・アルバート | 1819 | 1840 | 1861 | ドイツ | ||
●サクズ・コバーグ・ゴータ王家 | ||||||
エドワード7世 | 1841 | 1863 | 1901--1910 | 1910 | ||
アレグザンドラ・オブ・デンマーク | 1841 | 1863 | 1925 | デンマーク | ||
●ウィンザー王家 | ||||||
ジョージ5世 | 1865 | 1893 | 1910--1936 | |||
メアリー・オブ・テック | 1867 | 1893 | 1953 | ドイツ | ||
エドワード8世 | 1894 | 1937 | 1936--1936 | 1972 | ||
(ウォーリス・シンプソン夫人) | 1896 | 1937 | 1986 | アメリカ | ||
ジョージ6世 | 1895 | 1923 | 1936--1952 | 1952 | ||
エリザベス・バウズ・ライアン | 1900 | 1923 | スコットランド | |||
エリザベス2世 | 1926 | 1947 | 1952-- | |||
プリンス・フィリップ・マウントバッテン | 1921 | 1947 | デンマーク |
[2018-02-24-1]の記事に引き続いての話題.昨日の記事「#3241. 1422年,ロンドン醸造組合の英語化」 ([2018-03-12-1]) で引用した Fisher は,ランカスター朝が15世紀初めに政策として英語の国語化と Chancery Standard の確立・普及に関与した可能性について,積極的な議論を展開している.確かにランカスター朝の王がそれを政策として明言した証拠はなく,Hoccleve や Lydgate にもその旨の直接的な言及はない.しかし,十分な説得力をもつ情況証拠はあると Fisher は論じる.その情況証拠とは,およそ Chancery Standard が成長してきたタイミングに関するものである.
Hoccleve, no more than Lydgate, ever articulated for the Lancastrian rulers a policy of encouraging the development of English as a national language or of citing Chaucer as the exemplar for such a policy. But we have the documentary and literary evidence of what happened. The linkage of praise for Prince Henry as a model ruler concerned about the use of English and for master Chaucer as the "firste fyndere of our faire langage"; the sudden appearance of manuscripts of The Canterbury Tales, Troylus and Criseyde, and other English writings composed earlier but never before published; the conversion to English of the Signet clerks of Henry V, the Chancery clerks, and eventually the guild clerks; and the burgeoning of composition in English and the patronage of literature in English by the Lancastrian court circle are all concurrent historical events. The only question is whether their concurrence was coincidental or deliberate. (34)
特に Chaucer の諸作品の写本が現われてくるのが14世紀中ではなく,15世紀に入ってからという点が興味深い.Chaucer は1400年に没したが,その後にようやく写本が現われてきたというのは偶然なのだろうか.あるいは,「初めて英語で偉大な作品を書いた作家」を持ち上げることによって,対外的にイングランドを誇示しようとした政治的なもくろみの結果としての出版ではなかったか.(関連して,Hoccleve による Chaucer の評価 ("firste fyndere of our faire langage") について「#298. Chaucer が英語史上に果たした役割とは? (2)」 ([2010-02-19-1]) を参照.)
Fisher は,このような言語政策は古今東西ありふれていることを述べつつ自説を補強している.
All linguistic changes of this sort for which we have documentation---in Norway, India, Canada, Finland, Israel, or elsewhere---have been the result of planning and official policy. There is no reason to suppose that the situation was different in England.
・ Fisher, John H. "A Language Policy for Lancastrian England." Chapter 2 of The Emergence of Standard English. John H. Fisher. Lexington: UP of Kentucky, 1996. 16--35.
「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1]),「#2562. Mugglestone (編)の英語史年表」 ([2016-05-02-1]),「#3214. 1410年代から30年代にかけての Chancery English の萌芽」 ([2018-02-13-1]) で触れた通り,1422年にロンドン醸造組合 (Brewers' Guild of London) が,議事録と経理文書における言語をラテン語から英語へと切り替えた.この決定自体はラテン語で記録されているが,趣旨は以下のようなものだった.Fisher (22--23) からの孫引きだが,Chambers and Daunt の英訳を引用する.
Whereas our mother-tongue, to wit the English tongue, hath in modern days begun to be honorably enlarged and adorned, for that our most excellent lord, King Henry V, hath in his letters missive and divers affairs touching his own person, more willingly chosen to declare the secrets of his will, for the better understanding of his people, hath with a diligent mind procured the common idiom (setting aside others) to be commended by the exercise of writing; and there are many of our craft of Brewers who have the knowledge of writing and reading in the said english idiom, but in others, to wit, the Latin and French, before these times used, they do not in any wise understand. For which causes with many others, it being considered how that the greater part of the Lords and trusty Commons have begun to make their matters to be noted down in our mother tongue, so we also in our craft, following in some manner their steps, have decreed to commit to memory the needful things which concern us [in English]. (Chambers and Daunt 139)
Henry V に言及していることからも推測される通り,この頃すでに,トップダウンで書き言葉の英語化路線がスタートしていたらしい.折しも国王のお膝元の Chancery において,後に "Chancery Standard" と名付けられることになる標準英語の書き言葉の萌芽のようなものも出現していたと思われる.書き言葉の英語化を巡って,王権による政治と庶民の生活とがどのような関係にあったのかは興味深い問題だが,いずれにせよ1422年は,15世紀前半の英語史上の転換期において象徴的な意味をもつ年といえるだろう.関連して,「#3225. ランカスター朝の英語国語化のもくろみと Chancery Standard」 ([2018-02-24-1]) も参照.
・ Fisher, John H. "A Language Policy for Lancastrian England." Chapter 2 of The Emergence of Standard English. John H. Fisher. Lexington: UP of Kentucky, 1996. 16--35.
・ Chambers, R. W. and Marjorie Daunt, eds. A Book of London English. Oxford: Clarendon-Oxford UP, 1931.
現代に連なる英語の書き言葉における標準化の動きは,1400年頃に始まると考えてよい.すでに14世紀からその前段階というべき動きが見られたが,15世紀に入った辺りから,おそらく政治的な動機づけも加わって顕在化してきた.政治的な動機づけとは,英仏百年戦争 (hundred_years_war) の最中にあって,ランカスター朝が「英語=イングランドの国語」の等式を意識しだしたことである.国語ともなれば,当然ながら変異を極めていたスペリングの標準化が目指されるべきだろう.そこで,前代から種の蒔かれていた標準化の動きに,体制側からの一押しが加えられることになった.ランカスター朝の開祖 Henry IV から王位を受け継いだ Henry V は,1415年,アジャンクールの戦いにおける勝利でおおいに国威を発揚し,その機会を捉えて英語の権威をも高めようと運動したのである.Chancery Standard は,このような経緯で生まれたものと考えられる
この一連の流れについて,Blake (11) は次のようにみている.
Some scholars believe that the Lancastrians actively promoted the cause of English in order to increase their appeal to merchants and commoners against the aristocrats who were the leaders of the rebellions against them. Even if this is true, it is not likely that the kings would actively promote a standard as such. At best they would encourage the use of English as the national language, but this in turn would enhance the prospects of a standardised variety of London English being adopted as the variety to be used nationally. In order to follow this policy, the kings would have to rely on the forms of language most accessible to them, and that meant using one of the standardised forms of English used in the Chancery or some other government agency. From 1400 onwards the idea that there should be a single form of 'English' based upon the language of London and its environs became predominant.
ここで展開されている議論は,ランカスター朝は,英語を標準化しようと努めたというよりは,あくまで国威発揚という政治的目的のために英語を国語としようと努めたにすぎないということだ.おそらく,その後に英語が標準化されていったのは,体制側の目的ではなく,むしろ結果とみるべきだろう.
関連して,「#3214. 1410年代から30年代にかけての Chancery English の萌芽」 ([2018-02-13-1]),「#1207. 英語の書き言葉の復権」 ([2012-08-16-1]) も参照.
・Blake, N. F. A History of the English Language. Basingstoke: Macmillan, 1996.
1410年代から30年代にかけて,標準英語に直接つながっていくとされる Chancery English の萌芽が見出される.標準英語の形成を考える上で,無視することのできない重要な時期である.
英語の完全な復権と新しい標準変種の形成の潮流は,1413年に Henry IV がイングランド君主として初めて英語で遺書を残したことから始まる.1417年には玉璽局 (Signet Office) が Henry V の手紙を英語で発行し始めた.一方,1422年に,巷ではロンドンの醸造組合が会計上の言語として英語を採用するようになった.国会の議事録が英語で書かれるようになるのも,ほぼ同時期の1423年である.そして,1430年に,大法官庁が玉璽局の英語変種の流れを汲んで,East Midland 方言に基盤をもつコイネー (koine) を公的な書き言葉に採用したのである(Lancaster 朝の君主の英語使用については,「#1207. 英語の書き言葉の復権」 ([2012-08-16-1]) も参照).
この時代の潮流において,後に Chancery Standard と呼ばれることになる変種(の卵)を採用したのが,社会的影響力をもつ君主自身やその周辺であった点が大きい.Nevalainen and Tieken-Boon van Ostade (274) も次のように述べている.
Chancery English has a precursor in the form of English used by Henry V's Signet Office, the king's private secretariat which travelled with him on his foreign campaigns. It is significant that the selection of the variety which was to develop into what is generally referred to as the Chancery Standard originated with the king and his secretariat: the implementation of a standard variety can only be successful when it has institutional support.
もう1つ,Henry V が積極的に英語を使用した背景に,政治的な目論見があったのではないかという見解に注目すべきである (Nevalainen and Tieken-Boon van Ostade 274) .
. . . the case of Henry V possibly reflects not so much a decision made by an enlightened monarch and his council as political and practical motives: by writing in English, Henry first and foremost identified himself as an Englishman at war with France, while at the same time seeking to curry favour with the the English-speaking merchants, who might be prevailed upon to finance his campaigns.
1410年代から1430年代にかけての英語の公用化,さらには標準英語形成の背景には,社会的な力を巡る動きがおそらく関与していたと思われる.後の時代に標準的なものとして採用されていくことになる多くの綴字や形態が,上記のような政治性に彩られていた可能性があるということは知っておく必要があるだろう.
綴字からの例を挙げれば,light や knight にみられる <gh> の2重字 (digraph),過去(分詞)形の語尾として <t> ではなく <d> を用いる習慣,1人称単数代名詞にみられる I の大文字使用,その他 which, should, such, much, but, ask などは Chancery English の特徴を保持している.形態については,2人称単数代名詞としての ye/you,3人称複数代名詞としての they, them, their,再帰代名詞語尾としての self/selves,指示代名詞の複数形 those(tho の代わりに),副詞語尾の -ly(-liche の代わりに),過去分詞語尾の -n の使用や,動詞の現在複数の無語尾(-n 語尾の代わりに)など,多数挙げることができる.
・ Nevalainen, Terttu and Ingrid Tieken-Boon van Ostade. "Standardisation." Chapter 5 of A History of the English Language. Ed. Richard Hogg and David Denison. Cambridge: CUP, 2006. 271--311.
Algeo and Pyles の英語史年表シリーズの第3弾は初期近代英語期 (153--55) .著者らは初期近代英語期を1500--1800年として区切っていることに注意.「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) と「#3196. 中英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-26-1]) も参照.
1476 | William Caxton brought printing to England, thus both serving and promoting a growing body of literate persons. Before that time, literacy was confined to the clergy and a handful of others. Within the next two centuries, most of the gentry and merchants became literate, as well as half the yeomen and some of the husbandmen. |
1485 | Henry Tudor ascended the throne, ending the civil strife called the War of the Roses and introducing 118 years of the Tudor dynasty, which oversaw vast changes in England. |
1497 | John Cabot went on a voyage of exploration for a Northwest Passage to China, in which he discovered Nova Scotia and so foreshadowed English territorial expansion overseas. |
1534 | The Act of Supremacy established Henry VIII as "Supreme Head of the Church of England," and thus officially put civil authority above Church authority in England. |
1549 | The first Book of Common Prayer was adopted and became an influence on English literary style. |
1558 | At the age of 25, Elizabeth I became queen of England and, as a woman with a Renaissance education and a skill for leadership, began a forty-five-year reign that promoted statecraft, literature, science, exploration, and commerce. |
1577--80 | Sir Francis Drake circumnavigated the globe, the first Englishman to do so, and participated in the defeat of the Spanish Armada in 1588, removing an obstacle to English expansion overseas. |
1590--1611 | William Shakespeare wrote the bulk of his plays, from Henry VI to The Tempest. |
1600 | The East India Company was chartered to promote trade with Asia, leading eventually to the establishment of the British Raj in India. |
1604 | Robert Cawdrey published the first English dictionary, A Table Alphabeticall. |
1607 | Jamestown, Virginia, was established as the first permanent English settlement in America. |
1611 | The Authorized or King James Version of the Bible was produced by a committee of scholars and became, with the Prayer Book and the works of Shakespeare, one of the major examples of and influences on English literary style. |
1619 | The first African slaves in North America arrived in Virginia. |
1642--48 | The English Civil War or Puritan Revolution overthrew the monarchy and resulted in the beheading of King Charles I in 1649 and the establishment of a military dictatorship called the Commonwealth and (under Oliver Cromwell) the Protectorate, which lasted until the Restoration of King Charles II in 1660. |
1660 | The Royal Society was founded as the first English organization devoted to the promotion of scientific knowledge and research. |
1670 | The Hudson's Bay Company was chartered for promoting trade and settlement in Canada. |
ca. 1680 | The political parties---Whigs (named perhaps from a Scots term for 'horse drivers' but used for supporters of reform and parliamentary power) and Tories (named from an Irish term for 'outlaws' but used for supporters of conservatism and royal authority), both terms being originally contemptuous---became political forces, thus introducing party politics as a central factor in government. |
1688 | The Glorious Revolution was a bloodless coup in which members of Parliament invited the Dutch prince William of Orange and his wife, Mary (daughter of the reigning English king, James II), to assume the English throne, resulting in the establishment of Parliament's power over that of the monarchy. |
1702 | The first daily newspaper was published in London, followed by an extension of such publications throughout England and the expansion of the influence of the press in disseminating information and forming public opinion. |
1719 | Daniel Defoe published Robinson Crusoe, sometimes identified as the first modern novel in English, although the evolution of the genre was gradual and other works have a claim to that title. |
1755 | Samuels Johnson published his Dictionary of the English Language, a model of comprehensive dictionaries of English |
1775--83 | The American Revolution resulted in the foundation of the first independent nation of English speakers outside the British Isles. Large numbers of British loyalists left the former American colonies for Canada and Nova Scotia, introducing a large number of new English speakers there. |
1788 | The English first settled Australia near modern Sydney. |
「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) に引き続き,中英語期の主要な出来事の年表を,Algeo and Pyles (123--24) に拠って示したい,
1066 | The Normans conquered England, replacing the native English nobility with Anglo-Normans and introducing Norman French as the language of government in England. |
1204 | King John lost Normandy to the French, beginning the loosening of ties between England and the Continent. |
1258 | King Henry III was forced by his barons to accept the Provisions of Oxford, which established a Privy Council to oversee the administration of the government, beginning the growth of the English constitution and parliament. |
1337 | The Hundred Years' War with France began and lasted until 1453, promoting English nationalism |
1348--50 | The Black Death killed an estimated one-third of England's population, and continued to plague the country for much of the rest of the century |
1362 | The Statute of Pleadings was enacted, requiring all court proceedings to be conducted in English. |
1381 | The Peasants' Revolt led by Wat Tyler was the first rebellion of working-class people against their exploitation; although it failed in most of its immediate aims, it marks the beginning of popular protest. |
1384 | John Wycliffe died, having promoted the first complete translation of scripture into the English language (the Wycliffite Bible). |
1400 | Geoffrey Chaucer died, having produced a highly influential body of English poetry. |
1476 | William Caxton, the first English printer, established his press at Westminster, thus beginning the widespread dissemination of English literature and the stabilization of the written standard. |
1485 | Henry Tudor became king of England, ending thirty years of civil strife and initiating the Tudor dynasty. |
Algeo and Pyles (86--87) より,古英語期の主要な出来事の年表を示そう.
449 | Angles, Saxons, Jutes, and Frisians began to occupy Great Britain, thus changing its major population to English speakers and separating the early English language from its Continental relatives. |
597 | Saint Augustine of Canterbury arrived in England to begin the conversion of the English by baptizing King Ethelbert of Kent, thus introducing the influence of the Latin language. |
664 | The Synod of Whitby aligned the English with Roman rather than Celtic Christianity, thus linking English culture with mainstream Europe. |
730 | The Venerable Bede produced his Ecclesiastical History of the English People, recording the early history of the English people |
787 | The Scandinavian invasion began with raids along the Northeast seacoast. |
865 | The Scandinavians occupied northeastern Britain and began a campaign to conquer all of England. |
871 | Alfred became king of Wessex and reigned until his death in 899, rallying the English against the Scandinavians, retaking the city of London, establishing the Danelaw, and securing the position of king of all England for himself and his successors. |
991 | Olaf Tryggvason invaded England, and the English were defeated at the Battle of Maldon. |
1000 | The manuscript of the Old English epic Beowulf was written about this time. |
1016 | Canute became king of England, establishing a Danish dynasty in Britain. |
1042 | The Danish dynasty ended with the death of King Hardicanute, and Edward the Confessor became king of England. |
1066 | Edward the Confessor died and was succeeded by Harold, last of the Anglo-Saxon kings, who died at the Battle of Hastings fighting against the invading army of William, duke of Normandy, who was crowned king of England on December 25. |
「#1803. Lord's Prayer」 ([2014-04-04-1]) で古英語から現代英語にかけての「主の祈り」のヴァージョンを比べたが,ここに初期近代のスコットランド方言のヴァージョンを加えよう.
学者肌のスコットランド王 James VI (1566--1625) が,1580年代に韻文版「主の祈り」を自らの Scots 方言で作成していた.本人による手書きのものが London, British Library, MS Royal 18 B.xvi, f. 44 に確認される.James VI は English English ではなく Scots (English) で書くことにためらいを感じていた様子はなく,堂々たる出来映えだ.Crystal (125) より再現しよう.
THE LORDIS PRAYER
Ô michtie father that in heauin remainis
thy noble name be sanctifeit alwayes
thy kingdome come, in earth thy will & rainis
euen as in heauunis mot be obeyed with prayse
& giue us lorde oure dayly bread & foode
forgiuing us all oure trespassis aye
as we forgiue ilk other in lyke moode
lorde in temptation lead us not ue praye
but us from euill deliuer euer moire
for thyne is kingdome ue do all record
allmichtie pouer & euerlasting gloire
for nou & aye so mot it be ô lorde.
このスコットランド王 James VI が,後の1603年にイングランドのスチュワート朝の開祖としてイングランド王 James I ともなるわけだが,そのときに臣下の者たちとともにこの Scots 方言をロンドンの宮廷に運ぶこととなった.はたしてイングランドの民衆は,この方言を権威ある変種として認めたのだろうか.新しい宮廷言語の発生に,少なくともある種のショックは感じたことだろう.逆にいえば,Scots のイングランド英語化が始まった瞬間ともいえるだろう.
この君主に関係する話題として,「#491. Stuart 朝に衰退した肯定平叙文における迂言的 do」 ([2010-08-31-1]),「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]),「#1952. 「陛下」と Your Majesty にみられる敬意」 ([2014-08-31-1]),「#2128. "than" としての nor と or」 ([2015-02-23-1]),「#3095. Your Grace, Your Highness, Your Majesty」 ([2017-10-17-1]) も参照されたい.
・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.
昨日の記事「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) に引き続き,英語の復権のスピードについての話題.
William I が1066年のノルマン征服で開いたノルマン朝は,英語とフランス語の接触をもたらした.続いて,Henry I から Stephen の時代の政治的混乱を経た後に,1154年に Henry II が開いたプランタジネット朝は,イングランド全体とフランスの広大な部分からなるアンジュー帝国を出現させた.英仏海峡をまたいで両側に領土をもつという複雑な統治形態により,イングランドの言語を巡る状況も複雑化した.それ以降,英語は,フランス語と密接な関係を持ち続けずに存在することがもはやできなくなったといえるからだ.その後も14--15世紀の百年戦争に至るまで厄介な英仏関係が続いたが,関係の泥沼化がこのように進んでいなければ,英語とフランス語の関係も,そしてイングランドにおける英語の復権も,別のコースをたどっていた可能性が高い.
このようなことを考えていたところに,Henry I と Stephen の息子 Eustace がヤツメウナギ (lamprey) を食して亡くなったという逸話を読んだ(石井,p. 41).歴史の if の妄想ということで,ツイッターで独りごちた.以下,ツイッター口調で(実際にツイートなので)再現してみたい.
同じ食用魚でもヤツメウナギ (lamprey) とウナギ (eel) は生物学的にはまったくの無関係.名前や姿形でだまされてはいけない.
ヤツメウナギ (lamprey) を食し,中毒でポックリ逝ったノルマン朝の King Henry I と,King Stephen の息子 Eustace の2人.ノルマン朝の王族って,そんなにヤツメウナギ好きだったの?
ヤツメウナギ (lamprey) で Eustace がやられなかったら,Henry II に王位が渡らず,プランタジネット朝が開かれなかったかも.すると,イングランドはフランスとさほど摩擦せず,国内の英語の復権はもっと早かったかも.その後の英語史はどうなっていたことか?
プランタジネット朝の開祖 Henry II のフランスの領土保有により,フランスとの泥沼の関係が持続したわけで,それで国内の英語の復権が遅くなった.後に,英語はその遅れの焦りによる「火事場の馬鹿力」的な瞬発力で国内での復権を一気になしとげ,さらに国外へ飛躍できたと考えられる.
結論として,ヤツメウナギがいなかったら,むしろ英語はもう少し長く停滞していたかも!? そして,後に世界語となる機会を逸していたかも!!?? 以上.
「ヤツメウナギが英語を世界語にした」張りの「ハッタリの英語史?歴史の if シリーズ(仮称)」より,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) もどうぞ.
Henry II は医者の再三の注意を無視してヤツメウナギを大量に食べ続けたというから,相当の好物だったのだろう.歴史は,たやすく偶然に左右されるものかもしれない.
こちらからツイッターもどうぞ.フォローは\@chariderryu のツイッターをフォロー.
・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.
イギリス君主を呼称・指示するのに,Majesty という称号が用いられる.通常,所有格を伴い,Your Majesty, Her Majesty, His Majesty, Their Majesties, the Queen's Majesty, the King's Majesty などと使われる.Your Majesty は2人称代名詞で受けられるが,動詞に対しては3人称単数で一致するという特殊な用法を示す.
英語における Your Majesty などの「所有格 + Majesty」という敬称の型は,ラテン語の対応表現にならって中英語期から用いられていたが,平行して Your Grace や Your Highness なども同義で用いられていた.石井 (87) によれば,Your Majesty の使用が確立したのは,チューダー朝の開祖 Henry VII の治世下 (1485--1509) においてだったという.
チューダー王朝の開祖ヘンリー七世は,王家のしきたりをいくつか変えたり新設したりしたが,そのなかに王の尊称がある.それまでは,国王の尊称は Your Grace だったが,それを Your Majesty に改め,王権をいちだんと高める措置をとった.以来,君主には Your Majesty と呼びかけるのがルールになっている.
しかし,実際にはチューダー朝の後続の君主たちも,一貫して Your Majesty と呼ばれていたわけではなく,従来からの Your Grace, Your Highness も用いられていた.さらにスチュアート朝でも,開祖 James I に対して Your Majesty と並んで Your Highness も無差別に用いられていた.OED の majesty, n. の語義2の説明によれば,Your Majesty の定着は17世紀のことだったという.James I の治世の後半には確立したようだ.
It was not until the 17th cent. that Your Majesty entirely superseded the other customary forms of address to the sovereign in English. Henry VIII and Queen Elizabeth I were often addressed as 'Your Grace' and 'Your Highness', and the latter alternates with 'Your Majesty' in the dedication of the Bible of 1611 to James I.
チューダー朝からスチュアート朝にかけて,互いに重複しながらも,およそ Your Grace → Your Highness → Your Majesty と移り変わってきたことになる.おりしも絶対王政が敷かれ,君主の権威がいよいよ高まってきた時代である.音節が1つずつ増え,より重く厳かになってきているようで興味深い.
・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.
イングランド史において中世の終焉を告げる1大事件といえば,バラ戦争 (the Wars of the Roses; 1455--85) だろう(この名付けは,後世の Sir Walter Scott (1829) のもの).国内の貴族が,赤バラの紋章をもつ Lancaster 家と白バラの York 家の2派に分かれて,王位継承を争った内乱である.30年にわたる戦いで両派閥ともに力尽き,結局は漁父の利を得るがごとく Lancaster 家の Henry Tudor が Henry VII として王位に就くことになった.この戦いでは貴族が軒並み没落したため,王権は強化されることになり,さらに商人階級が社会的に台頭する契機ともなった.
バラ戦争は,イングランドが中世の封建制から脱皮して近代へと歩みを進めていく過渡期として,政治・経済・社会史上の意義を付されているが,英語史の観点からはどのように評価できるだろうか.Gramley (98--99) は次のように評価している.
. . . the series of wars that go under this name [= The Wars of the Roses] sped up the weakening of feudal power and strengthened the merchant classes since the wars further thinned the ranks of the feudal nobility and facilitated in this way the easier rise of ambitious and able people from the middle ranks of society. When the conflict was settled under Henry VII, a Lancastrian and a Tudor, power was essentially centralized. From the point of view of the language, this meant that the standard which had begun to emerge in the early fourteenth century would continue with a firm base in the usage which had been crystallizing in the London area at least since Henry IV (reign 1399--1413), the first king since the OE period who was a native speaker of English.
この評によると,14世紀の前半に始まっていた英語の標準化 (standardisation) が,バラ戦争の結果として王権が強化され,中産階級が台頭したことにより,15世紀後半以降もロンドンを基盤としていっそう推し進められることになった,という.もとより英語の標準化は非常にゆっくりとしたプロセスであり,引用にあるとおりその開始は "the early fourteenth century" のロンドンにあったと考えることができる(「#1275. 標準英語の発生と社会・経済」 ([2012-10-23-1]) を参照).その後,バラ戦争までの1世紀半の間にも標準化は進んでいたが,あくまで緩慢な過程だった.そのように標準化が穏やかに進んでいたところに,バラ戦争という社会的な大騒動が起こり,標準化を利とみる王権と中産階級が大きな影響力をもつに及んで,その動きが促進された,ということだろう.
その他の歴史的大事件の英語史上の意義については,以下の記事を参照.
・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
・ 「#208. 産業革命・農業革命と英語史」 ([2009-11-21-1])
・ 「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1])
・ 「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1])
・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.
「#302. 古英語のフランス借用語」 ([2010-02-23-1]) で触れたように,イングランドとノルマンディの接触は,ノルマン人の征服 (norman_conquest) 以前にも存在したことはあまり知られていない.このことは,英語とフランス語の接触もそれ以前から少ないながらも存在したということであり,英語史上の意味がある.
エゼルレッド無策王 (Ethelred the Unready) の妻はノルマンディ人のエマ (Emma) であり,彼女はヴァイキング系の初代ノルマンディ公ロロ (Rollo) の血を引く.エゼルレッドの義兄弟の孫が,実にギヨーム2世 (Guillaume II),後のウィリアム征服王 (William the Conqueror) その人である.別の観点からいうと,ウィリアム征服王は,エゼルレッドとエマから生まれた後のエドワード聖証王 (Edward the Confessor) にとって,従兄弟の息子という立場である.
今一度ロロの時代にまで遡ろう.ロロ (860?--932?) は,後にノルマン人と呼ばれるようになったデーン人の首領であり,一族ともに9世紀末までに北フランスのセーヌ川河口付近に定住し,911年にはキリスト教化した.このときに,ロロは初代ノルマンディ公として西フランク王シャルル3世 (Charles III) に臣下として受けいれられた.それ以降,歴代ノルマンディ公は婚姻を通じてフランス,イングランドの王家と結びつき,一大勢力として台頭した.
さて,その3代目リシャール1世 (Richard I) の娘エマは「ノルマンの宝石」と呼ばれるほどの美女であり,エゼルレッド無策王 (968--1016) と結婚することになった.2人から生まれたエドワードは,母エマの後の再婚相手カヌート (Canute) を嫌って母の郷里ノルマンディに引き下がり,そこで教育を受けたために,すっかりノルマン好みになっていた.そして,イングランドでデーン王朝が崩壊すると,このエドワードがノルマンディから戻ってきてエドワード聖証王として即位したのである.
このような背景により,イングランドとノルマンディのつながりは,案外早く1000年前後から見られたのである.
ロロに端を発するノルマン人の系統を中心に家系図を描いておこう.関連して,アングロサクソン王朝の系図については「#2620. アングロサクソン王朝の系図」 ([2016-06-29-1]) と「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) で確認できる.
ロロ │ │ ギヨームI世(長剣公) │ │ リシャールI世(豪胆公) │ │ ┌─────────┴──────────┐ │ │ │ │ クヌート===エマ===エゼルレッド無策王 リシャールII世 │ │ │ │ ┌────┴────┐ │ │ │ │ │ │ │ エドワード聖証王 アルフレッド │ │ ┌──────────────────┘ │ ┌────┴────┐ │ │ │ │ リシャールIII世 ロベールI世(悪魔公)===アルレヴァ │ │ ギヨームII世(ウィリアム征服王)
George I について,「#2648. 17世紀後半からの言語的権威のブルジョワ化」 ([2016-07-27-1]),「#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧」 ([2016-07-28-1]) で触れた.今回は,George I の振る舞いとその背景,そして歴史的なインパクトについて述べたい.
Stuart 家の最後の君主となった Anne が1714年に他界すると,王位はドイツの Hanover 家 (House of Hanover) の George I (1660--1727) に移ることになった.イギリスにドイツ人の国王を迎えるというのは驚くべきことのように思われるが,血縁的にみれば特異なことではなかった.Hanover 朝の最初の国王となった George I の祖母は James II の長女であったし,その娘で,Hanover 選帝侯の妃であった Sophia は George I の母である.本来であれば,Anne の後は,Stuart 王家の血を引く唯一のプロテスタントであった Sophia が王位に就く予定だったが,Anne よりも早くに亡くなったため,長男の George I が王位を継ぐことになったのである.
George I は王位継承が決まっても,すぐにはロンドンへへ行きたがらなかった.歓迎される王ではないことを自覚していたし,ジャコバイトによる暗殺計画も取りざたされていたからだ.それでも少し遅れて無事にロンドン入りすると,内閣改造を行ない,ホイッグより Charles Townshend (1674--1738), James Stanhope (1673--1721), Sir Robert Walpole (1676--1745) を登用した.とりわけ Walpole には全幅の信頼を寄せ,1717--21年の期間を除いて,政務を任せきりにした.「#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧」 ([2016-07-28-1]) の記事で触れたとおり,これが Prime Minister 職の始まりである.
George I がこのように政治的に無関心だったことは,イギリス国民が彼に対して反感を抱いていたことと関係するだろう.Stuart 家のもっていた知的な魅力とは対照的に,George I は詩的でなく,人付き合いも悪く,野戦向きというイメージを持たれていた.ドイツに生まれ育って,英語をまったく理解しなかったということも,やむを得ないことではあったが,イギリスでは不評だった.
しかし,George I の政治的無関心に関する評価はおいておくとしても,イギリス人の反感に正面切って対抗することなく,むしろ自身はしばしば Hanover に引き下がって,イギリスの政務を有能な Walpole に任せきったことは,後のイギリスの内政と外交にとっては幸運な結果をもたらした.責任内閣制はいっそう強固となり,国王の「君臨すれども統治せず」の方針が顕著となっていったからだ.
結果としてみれば,英語を話せなかった George I は,18世紀前半にイギリスの国力を増強させることになる一流の人事を仕切ったのである.後の大英帝国の発展と英語の世界的な普及との関係を考慮すると,George I が英語を話せなかった事実も,新たな角度から評価することができるように思われる.以上,森 (478--90) を参照して執筆した.
・ 森 護 『英国王室史話』16版 大修館,2000年.
近代英語において,言語的権威はどこにあると考えられていたか.この答えは,近代英語の初期とそれ以降の時代とで異なっていた.
Knowles (120) によれば,Elizabeth 朝を含め,それ以降の1世紀のあいだ君主と結びつけられていた言語的権威が,17世紀後半から18世紀にかけて中産階級と結びつけられるようになり,現在にまで続くイギリスにおける階級と言語使用の密接な関係の歴史が始まったという.
In a hierarchical society, it must seem obvious that those at the top are in possession of the correct forms, while everybody else labours with the problems of corruption. The logical conclusion is that the highest authority is associated with the monarchy. In Elizabeth's time, the usage of the court was asserted as a model for the language as a whole. After the Restoration, Dryden gave credit for the improvement of English to Charles II and his court. It must be said that this became less and less credible after 1688. William III was a Dutchman. Queen Anne was not credited with any special relationship with the language, and Addison and Swift were rather less than explicit in defining the learned and polite persons, other than themselves, who had in their possession the perfect standard of English. Anne's successor was the German-speaking elector of Hanover, who became George I. After 1714, even the most skilled propagandist would have found it difficult to credit the king with any authority with regard to a language he did not speak. Nevertheless, the monarchy was once again associated with correct English when the popular image of the monarchy improved in the time of Victoria.
After 1714 writers continued to appeal to the nobility for support and to act as patrons to their work on language. Some writers, such as Lord Chesterfield, were themselves of high social status. Robert Lowth became bishop of London. But ascertaining the standard language essentially became a middle-class activity. The social value of variation in language is that 'correct' forms can be used as social symbols, and distinguish middle class people from those they regard as common and vulgar. The long-term effect of this is the development of a close connection in England between language and social class.
ここで説かれているのは,政治的権威と言語的権威の連動である.理想的な君主制においては,君主の指導者としての地位と,彼らが話す言語の地位とが連動しているはずである.絶対的な政治的権力をもっている国王の口から出る言葉が,その言語の典型であり,模範であり,理想であるはずである.しかし,18世紀末以降に君臨したイギリス君主は,オランダ人の William III だったり,ドイツ人の George I であったりと,ろくに英語を話せない外国人だったのである(関連して,「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1]) も参照).そこから推測されるように,イギリス君主は実際にイギリスの政治にそれほど関心がなかったのであり,イギリス国民によって「典型」「模範」「理想」とみなされるわけもなかった.ここから,国王の代理として政治を運営する "Prime Minister" 職(初代は Sir Robert Walpole)が作り出され,その職の重要性が増して現在に至るのだから,皮肉なものである.こうして,政治的権威は,国王から有力国民の代表者,実質的には富裕なブルジョワの代表者へと移行した.
当然ながら,それと連動して,言語的権威の所在も国王からブルジョワの代表者へと,とりわけ言語に対して意識の高い文人墨客へと移行した.こうして,国王ではなく,身分の高い教養のある階級の代表者が英語の正しさを定め,保つ伝統が始まった.21世紀の言葉遣いにもの申す "pundit" たちも,この伝統の後継者に他ならない.
・ Knowles, Gerry. A Cultural History of the English Language. London: Arnold, 1997.
「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) で挙げた一覧から,アングロサクソン王朝(古英語期)の系図,Egbert から William I (the Conqueror) までの系統図を参照用に掲げておきたい.
Egbert (829--39) [King of Wessex (802--39)] │ │ Ethelwulf (839--56) │ │ ┌────┴──────┬──────────┬────────────┐ │ │ │ │ │ │ │ │ Ethelbald (856--60) Ethelbert (860--66) Ethelred I (866--71) Alfred the Great (871--99) │ │ Edward the Elder (899--924) │ │ ┌────────────┬─────────────┤ │ │ │ │ │ │ ┌────────┐ Athelstan (924--40) Edmund I the Elder (945--46) Edred (946--55) ???HOUSE OF DENMARK??? │ │ └────────┘ │ │ Edwy (955--59) Edgar (959--75) Sweyn Forkbeard (1013--14) │ │ │ │ ┌────────────┤ │ │ │ │ │ │ │ Edward the Martyr (975--79) Ethelred II the Unready (979--1013, 1014--16) === Emma (--1052) === Canute (1016--35) │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ └─────┐ │ │ │ │ │ │ Hardicanute (1040--42) │ │ │ │ │ │ │ Edmund II Ironside (1016. 4--11) Edward the Confessor (1042--66) Harold I Harefoot (1035--40) │ │ │ ┌─────────┐ ┌────────┐ Edward Atheling (--1057) ???HOUSE OF NORMANDY ??? ???HOUSE OF GODWIN ??? │ └─────────┘ └────────┘ │ │ Edgar Atheling (1066. 10--12) William the Conqueror (1066--87) Harold II (1066. 1--10)
英語史の外面史において欠かせない情報として,歴代イングランド(女)王とその統治年代を一覧しよう.2010 Compton's by Britannica の,Vol. 26 Fact-Index の p. 378 から取ったものである.
Saxon 802--839 Egbert 839--858 Ethelwulf 858--860 Ethelbald 860--865 Ethelbert 865--871 Ethelred 871--899 Alfred the Great 901--924 Edward the Elder 924--939 Athelstan 939--946 Edmund I 946--955 Edred 955--959 Edwy 959--975 Edgar 975--978 Edward the Martyr 978--1016 Ethelred "the Unready" 1016 Edmund II, Ironside Danish 1016--35 Canute (Cnut) 1035--40 Harold I 1040--42 Harthacanute Saxon 1042--66 Edward the Confessor 1066 Harold II Norman 1066--87 William I, the Conqueror 1087--1100 William II 1100--35 Henry I 1135--54 Stephen Plantagenet 1154--89 Henry II 1189--99 Richard I 1199--1216 John 1216--72 Henry III 1272--1307 Edward I 1307--27 Edward II 1327--77 Edward III 1377--99 Richard II Lancaster 1399--1413 Henry IV 1413--22 Henry V 1422--61 Henry VI York 1461--83 Edward IV 1483 Edward V 1483--85 Richard III Tudor 1485--1509 Henry VII 1509--47 Henry VIII 1547--53 Edward VI 1553--58 Mary I 1558--1603 Elizabeth I Stuart 1603--25 James I 1625--49 Charles I [1649--60 Commonwealth] 1660--85 Charles II 1685--88 James II 1689--1702 William III and Mary II (until her death in 1694) 1702--14* Anne *The United Kingdom was formed in 1707. Hanover 1714--27 George I 1727--60 George II 1760--1820 George III 1820--30 George IV 1830--37 William IV 1837--1901 Victoria Saxe-Coburg-Gotha (Windsor) 1901--10 Edward VII 1910--36 George V 1936 Edward VIII 1936--52 George VI 1952-- Elizabeth II
英語史上の大きな問題の1つに,なぜノルマン・コンクェスト後のイングランドで,英語は上位のフランス語に置き換えらることがなかったのかという問いがある.6世紀前には,征服者のアングロサクソン人が先住民であるブリトン人の言語を置き換えたという事実がある.この2つの歴史的事実をみると,英語は,征服者側にあっても非征服者側にあっても結局は生き残って栄えたということになるが,両事件の言語交替の結末が逆方向であるのはどういうわけだろうか.
様々な説明がありうるが,少なくとも1つ重要な点がある.被征服者側がすでに高度な書き言葉の文化をもっていたか否かである.5世紀のブリトン人はもっていなかった.しかし,11世紀のアングロサクソン人はもっていた.ノルマン・コンクェストの猛威をもってすら,数世紀のあいだ育まれてきた書き言葉の伝統をもつ英語を簡単に退けることはできなかったのではないか.
このことを示す証拠が,William 征服王が征服の翌年1067年にロンドン市民に対して公布した令状 (William's writ) である.現在 The Corporation of London Records Office に所蔵されており,そのテキストは,Crystal (123) が句読点等を標準化した状態で与えている.以下に現代語訳とともに再掲しよう.
Willm kyng gret Willm bisceop and gosfregð portirefan and ealle þa burhwaru binnan londone frencisce and englisce freondlic· and ic kyðe eow þæt ic wylle þæt get beon eallre þæra laga weorðe þe gyt wæran on eadwerdes dæge kynges· and ic wylle þæt ælc cyld beo his fæder yrfnume æfter his fæder dæge· and ic nelle geþolian þæt ænig man eow ænig wrang beode· god eow gehealde·
King William greets Bishop William and Port-reeve Geoffrey and all the burgesses within London, French and English, in a friendly way. And I make know to you that I wish you to enjoy all the rights that you formerly had in the time of King Edward. And I want every child to be the heir of his father after his father's lifetime. And I will not permit any man to do you any wrong. God preserve you.
重要なのは,内容よりも媒介言語が英語であるということだ.ロンドン市民に伝えるのだから英語でなければ理解されないから,といえばそうかもしれないが,公文書はラテン語で書くべきものという長い伝統があったことを考慮すると,英語での公布は決して普通のことではない.すでに英語に書き言葉の伝統が確立していたからこそ,英語で文章を作成するという選択肢が可能だったのであり,それを選択するのに障害も感じられなかったのだろう.
なお,この英語文書は William 王自身が書いたわけではないし,おそらくは読めもしなかったろう.1130年代,年代記作家 Ordericus Vitalis は,William I が43歳のとき (c. 1071) に英語を学ぼうとしたことがあったと報告している.だが,征服後の激務を考えると,さして語学力は進歩しなかったのではないだろうか.ただ,英語を学ぼうとしたことが本当であるとすれば,それは William I の勤勉さなり好奇心なりの個人の美徳によるものだったかもしれないが,すでに長い書き言葉の伝統をもった言語への一種のリスペクトがあったかもしれない.リスペクトという表現が強すぎるのであれば,少なくとも,軽蔑はしていなかったとは言ってもよいかもしれない.
冒頭に指摘した英語史上の重要問題については,「#577. 中英語の密かなる繁栄」 ([2010-11-25-1]) でも触れているので参照.また,王の英語力については「#1204. 12世紀のイングランド王たちの「英語力」」 ([2012-08-13-1]) を参照.
・ Crystal, David. The Stories of English. London: Penguin, 2005.
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