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monarch - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-27 09:58

2018-01-26 Fri

#3196. 中英語期の主要な出来事の年表 [timeline][me][history][chronology][norman_conquest][reestablishment_of_english][monarch][hundred_years_war][black_death][wycliffe][chaucer][caxton]

 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) に引き続き,中英語期の主要な出来事の年表を,Algeo and Pyles (123--24) に拠って示したい,

1066The Normans conquered England, replacing the native English nobility with Anglo-Normans and introducing Norman French as the language of government in England.
1204King John lost Normandy to the French, beginning the loosening of ties between England and the Continent.
1258King Henry III was forced by his barons to accept the Provisions of Oxford, which established a Privy Council to oversee the administration of the government, beginning the growth of the English constitution and parliament.
1337The Hundred Years' War with France began and lasted until 1453, promoting English nationalism
1348--50The Black Death killed an estimated one-third of England's population, and continued to plague the country for much of the rest of the century
1362The Statute of Pleadings was enacted, requiring all court proceedings to be conducted in English.
1381The Peasants' Revolt led by Wat Tyler was the first rebellion of working-class people against their exploitation; although it failed in most of its immediate aims, it marks the beginning of popular protest.
1384John Wycliffe died, having promoted the first complete translation of scripture into the English language (the Wycliffite Bible).
1400Geoffrey Chaucer died, having produced a highly influential body of English poetry.
1476William Caxton, the first English printer, established his press at Westminster, thus beginning the widespread dissemination of English literature and the stabilization of the written standard.
1485Henry Tudor became king of England, ending thirty years of civil strife and initiating the Tudor dynasty.


 中英語の外面史は,まさに英語の社会的地位の没落とその後の復権に特徴づけられていることがよくわかる.

 ・ Algeo, John, and Thomas Pyles. The Origins and Development of the English Language. 5th ed. Thomson Wadsworth, 2005.

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2018-01-23 Tue

#3193. 古英語期の主要な出来事の年表 [timeline][oe][christianity][synod_of_whitby][history][chronology][monarch]

 Algeo and Pyles (86--87) より,古英語期の主要な出来事の年表を示そう.

449Angles, Saxons, Jutes, and Frisians began to occupy Great Britain, thus changing its major population to English speakers and separating the early English language from its Continental relatives.
597Saint Augustine of Canterbury arrived in England to begin the conversion of the English by baptizing King Ethelbert of Kent, thus introducing the influence of the Latin language.
664The Synod of Whitby aligned the English with Roman rather than Celtic Christianity, thus linking English culture with mainstream Europe.
730The Venerable Bede produced his Ecclesiastical History of the English People, recording the early history of the English people
787The Scandinavian invasion began with raids along the Northeast seacoast.
865The Scandinavians occupied northeastern Britain and began a campaign to conquer all of England.
871Alfred became king of Wessex and reigned until his death in 899, rallying the English against the Scandinavians, retaking the city of London, establishing the Danelaw, and securing the position of king of all England for himself and his successors.
991Olaf Tryggvason invaded England, and the English were defeated at the Battle of Maldon.
1000The manuscript of the Old English epic Beowulf was written about this time.
1016Canute became king of England, establishing a Danish dynasty in Britain.
1042The Danish dynasty ended with the death of King Hardicanute, and Edward the Confessor became king of England.
1066Edward the Confessor died and was succeeded by Harold, last of the Anglo-Saxon kings, who died at the Battle of Hastings fighting against the invading army of William, duke of Normandy, who was crowned king of England on December 25.


 年代と出来事に加えて,簡単な解説が添えられているのがよい.しかも,歴史的意義に関する的確なコメントが散見される.例えば,449年の出来事は,しばしばブリテン島における英語の開始という象徴的な意味合いをもって紹介されるが,ここでは英語が他のゲルマン諸語から袂を分かったことを主眼におくコメントが加えられている.ここには,社会(言語学)的というよりは言語学的な側面により強い関心をもつ Algeo and Pyles の英語史記述の方針が現われているように思われる.
 664年のホイットビー会議の歴史的意義にも注目したい.先立つ597年にイングランド人がキリスト教化する種は蒔かれていたといえるかもしれないが,当時のイングランドでは,ローマのキリスト教とともにアイルランドから入ったケルト化したキリスト教が拡大する可能性があった.しかし,この会議によりイングランドにおいてローマのキリスト教が優勢となったことで,後のイングランド史も英語史も,ラテン語を始めとする大陸的なものに大きく影響されていくことになった.島国でありながらも大陸的な要素との接触を常に保ち続けたその後の歴史を考えると,この会議の歴史的意義がおのずと知られる.

 ・ Algeo, John, and Thomas Pyles. The Origins and Development of the English Language. 5th ed. Thomson Wadsworth, 2005.

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2017-11-25 Sat

#3134. James VI 作の「主の祈り」 [monarch][scots_english][emode][bible]

 「#1803. Lord's Prayer」 ([2014-04-04-1]) で古英語から現代英語にかけての「主の祈り」のヴァージョンを比べたが,ここに初期近代のスコットランド方言のヴァージョンを加えよう.
 学者肌のスコットランド王 James VI (1566--1625) が,1580年代に韻文版「主の祈り」を自らの Scots 方言で作成していた.本人による手書きのものが London, British Library, MS Royal 18 B.xvi, f. 44 に確認される.James VI は English English ではなく Scots (English) で書くことにためらいを感じていた様子はなく,堂々たる出来映えだ.Crystal (125) より再現しよう.

THE LORDIS PRAYER

Ô michtie father that in heauin remainis
thy noble name be sanctifeit alwayes
thy kingdome come, in earth thy will & rainis
euen as in heauunis mot be obeyed with prayse
& giue us lorde oure dayly bread & foode
forgiuing us all oure trespassis aye
as we forgiue ilk other in lyke moode
lorde in temptation lead us not ue praye
but us from euill deliuer euer moire
for thyne is kingdome ue do all record
allmichtie pouer & euerlasting gloire
for nou & aye so mot it be ô lorde.


 このスコットランド王 James VI が,後の1603年にイングランドのスチュワート朝の開祖としてイングランド王 James I ともなるわけだが,そのときに臣下の者たちとともにこの Scots 方言をロンドンの宮廷に運ぶこととなった.はたしてイングランドの民衆は,この方言を権威ある変種として認めたのだろうか.新しい宮廷言語の発生に,少なくともある種のショックは感じたことだろう.逆にいえば,Scots のイングランド英語化が始まった瞬間ともいえるだろう.
 この君主に関係する話題として,「#491. Stuart 朝に衰退した肯定平叙文における迂言的 do」 ([2010-08-31-1]),「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]),「#1952. 「陛下」と Your Majesty にみられる敬意」 ([2014-08-31-1]),「#2128. "than" としての noror」 ([2015-02-23-1]),「#3095. Your Grace, Your Highness, Your Majesty」 ([2017-10-17-1]) も参照されたい.

 ・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.

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2017-10-19 Thu

#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか [reestablishment_of_english][monarch][history][norman_conquest][hundred_years_war]

 昨日の記事「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) に引き続き,英語の復権のスピードについての話題.
 William I が1066年のノルマン征服で開いたノルマン朝は,英語とフランス語の接触をもたらした.続いて,Henry I から Stephen の時代の政治的混乱を経た後に,1154年に Henry II が開いたプランタジネット朝は,イングランド全体とフランスの広大な部分からなるアンジュー帝国を出現させた.英仏海峡をまたいで両側に領土をもつという複雑な統治形態により,イングランドの言語を巡る状況も複雑化した.それ以降,英語は,フランス語と密接な関係を持ち続けずに存在することがもはやできなくなったといえるからだ.その後も14--15世紀の百年戦争に至るまで厄介な英仏関係が続いたが,関係の泥沼化がこのように進んでいなければ,英語とフランス語の関係も,そしてイングランドにおける英語の復権も,別のコースをたどっていた可能性が高い.
 このようなことを考えていたところに,Henry I と Stephen の息子 Eustace がヤツメウナギ (lamprey) を食して亡くなったという逸話を読んだ(石井,p. 41).歴史の if の妄想ということで,ツイッターで独りごちた.以下,ツイッター口調で(実際にツイートなので)再現してみたい.

同じ食用魚でもヤツメウナギ (lamprey) とウナギ (eel) は生物学的にはまったくの無関係.名前や姿形でだまされてはいけない.


ヤツメウナギ (lamprey) を食し,中毒でポックリ逝ったノルマン朝の King Henry I と,King Stephen の息子 Eustace の2人.ノルマン朝の王族って,そんなにヤツメウナギ好きだったの?


ヤツメウナギ (lamprey) で Eustace がやられなかったら,Henry II に王位が渡らず,プランタジネット朝が開かれなかったかも.すると,イングランドはフランスとさほど摩擦せず,国内の英語の復権はもっと早かったかも.その後の英語史はどうなっていたことか?


プランタジネット朝の開祖 Henry II のフランスの領土保有により,フランスとの泥沼の関係が持続したわけで,それで国内の英語の復権が遅くなった.後に,英語はその遅れの焦りによる「火事場の馬鹿力」的な瞬発力で国内での復権を一気になしとげ,さらに国外へ飛躍できたと考えられる.


結論として,ヤツメウナギがいなかったら,むしろ英語はもう少し長く停滞していたかも!? そして,後に世界語となる機会を逸していたかも!!?? 以上.


「ヤツメウナギが英語を世界語にした」張りの「ハッタリの英語史?歴史の if シリーズ(仮称)」より,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) もどうぞ.


 Henry II は医者の再三の注意を無視してヤツメウナギを大量に食べ続けたというから,相当の好物だったのだろう.歴史は,たやすく偶然に左右されるものかもしれない.
 こちらからツイッターもどうぞ.フォローは

 ・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.

Referrer (Inside): [2019-12-25-1] [2017-10-30-1]

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2017-10-17 Tue

#3095. Your Grace, Your Highness, Your Majesty [pragmatics][title][address_term][honorific][monarch][personal_pronoun][agreement]

 イギリス君主を呼称・指示するのに,Majesty という称号が用いられる.通常,所有格を伴い,Your Majesty, Her Majesty, His Majesty, Their Majesties, the Queen's Majesty, the King's Majesty などと使われる.Your Majesty は2人称代名詞で受けられるが,動詞に対しては3人称単数で一致するという特殊な用法を示す.
 英語における Your Majesty などの「所有格 + Majesty」という敬称の型は,ラテン語の対応表現にならって中英語期から用いられていたが,平行して Your GraceYour Highness なども同義で用いられていた.石井 (87) によれば,Your Majesty の使用が確立したのは,チューダー朝の開祖 Henry VII の治世下 (1485--1509) においてだったという.

チューダー王朝の開祖ヘンリー七世は,王家のしきたりをいくつか変えたり新設したりしたが,そのなかに王の尊称がある.それまでは,国王の尊称は Your Grace だったが,それを Your Majesty に改め,王権をいちだんと高める措置をとった.以来,君主には Your Majesty と呼びかけるのがルールになっている.


 しかし,実際にはチューダー朝の後続の君主たちも,一貫して Your Majesty と呼ばれていたわけではなく,従来からの Your Grace, Your Highness も用いられていた.さらにスチュアート朝でも,開祖 James I に対して Your Majesty と並んで Your Highness も無差別に用いられていた.OED の majesty, n. の語義2の説明によれば,Your Majesty の定着は17世紀のことだったという.James I の治世の後半には確立したようだ.

It was not until the 17th cent. that Your Majesty entirely superseded the other customary forms of address to the sovereign in English. Henry VIII and Queen Elizabeth I were often addressed as 'Your Grace' and 'Your Highness', and the latter alternates with 'Your Majesty' in the dedication of the Bible of 1611 to James I.


 チューダー朝からスチュアート朝にかけて,互いに重複しながらも,およそ Your GraceYour HighnessYour Majesty と移り変わってきたことになる.おりしも絶対王政が敷かれ,君主の権威がいよいよ高まってきた時代である.音節が1つずつ増え,より重く厳かになってきているようで興味深い.

 ・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.

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2017-01-07 Sat

#2812. バラ戦争の英語史上の意義 [history][standardisation][lme][monarch][sociolinguistics]

 イングランド史において中世の終焉を告げる1大事件といえば,バラ戦争 (the Wars of the Roses; 1455--85) だろう(この名付けは,後世の Sir Walter Scott (1829) のもの).国内の貴族が,赤バラの紋章をもつ Lancaster 家と白バラの York 家の2派に分かれて,王位継承を争った内乱である.30年にわたる戦いで両派閥ともに力尽き,結局は漁父の利を得るがごとく Lancaster 家の Henry Tudor が Henry VII として王位に就くことになった.この戦いでは貴族が軒並み没落したため,王権は強化されることになり,さらに商人階級が社会的に台頭する契機ともなった.
 バラ戦争は,イングランドが中世の封建制から脱皮して近代へと歩みを進めていく過渡期として,政治・経済・社会史上の意義を付されているが,英語史の観点からはどのように評価できるだろうか.Gramley (98--99) は次のように評価している.

. . . the series of wars that go under this name [= The Wars of the Roses] sped up the weakening of feudal power and strengthened the merchant classes since the wars further thinned the ranks of the feudal nobility and facilitated in this way the easier rise of ambitious and able people from the middle ranks of society. When the conflict was settled under Henry VII, a Lancastrian and a Tudor, power was essentially centralized. From the point of view of the language, this meant that the standard which had begun to emerge in the early fourteenth century would continue with a firm base in the usage which had been crystallizing in the London area at least since Henry IV (reign 1399--1413), the first king since the OE period who was a native speaker of English.


 この評によると,14世紀の前半に始まっていた英語の標準化 (standardisation) が,バラ戦争の結果として王権が強化され,中産階級が台頭したことにより,15世紀後半以降もロンドンを基盤としていっそう推し進められることになった,という.もとより英語の標準化は非常にゆっくりとしたプロセスであり,引用にあるとおりその開始は "the early fourteenth century" のロンドンにあったと考えることができる(「#1275. 標準英語の発生と社会・経済」 ([2012-10-23-1]) を参照).その後,バラ戦争までの1世紀半の間にも標準化は進んでいたが,あくまで緩慢な過程だった.そのように標準化が穏やかに進んでいたところに,バラ戦争という社会的な大騒動が起こり,標準化を利とみる王権と中産階級が大きな影響力をもつに及んで,その動きが促進された,ということだろう.
 その他の歴史的大事件の英語史上の意義については,以下の記事を参照.

 ・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
 ・ 「#208. 産業革命・農業革命と英語史」 ([2009-11-21-1])
 ・ 「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1])
 ・ 「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1])

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

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2016-09-02 Fri

#2685. イングランドとノルマンディの関係はノルマン征服以前から [norman_conquest][french][oe][monarch][history][family_tree]

 「#302. 古英語のフランス借用語」 ([2010-02-23-1]) で触れたように,イングランドとノルマンディの接触は,ノルマン人の征服 (norman_conquest) 以前にも存在したことはあまり知られていない.このことは,英語とフランス語の接触もそれ以前から少ないながらも存在したということであり,英語史上の意味がある.
 エゼルレッド無策王 (Ethelred the Unready) の妻はノルマンディ人のエマ (Emma) であり,彼女はヴァイキング系の初代ノルマンディ公ロロ (Rollo) の血を引く.エゼルレッドの義兄弟の孫が,実にギヨーム2世 (Guillaume II),後のウィリアム征服王 (William the Conqueror) その人である.別の観点からいうと,ウィリアム征服王は,エゼルレッドとエマから生まれた後のエドワード聖証王 (Edward the Confessor) にとって,従兄弟の息子という立場である.
 今一度ロロの時代にまで遡ろう.ロロ (860?--932?) は,後にノルマン人と呼ばれるようになったデーン人の首領であり,一族ともに9世紀末までに北フランスのセーヌ川河口付近に定住し,911年にはキリスト教化した.このときに,ロロは初代ノルマンディ公として西フランク王シャルル3世 (Charles III) に臣下として受けいれられた.それ以降,歴代ノルマンディ公は婚姻を通じてフランス,イングランドの王家と結びつき,一大勢力として台頭した.
 さて,その3代目リシャール1世 (Richard I) の娘エマは「ノルマンの宝石」と呼ばれるほどの美女であり,エゼルレッド無策王 (968--1016) と結婚することになった.2人から生まれたエドワードは,母エマの後の再婚相手カヌート (Canute) を嫌って母の郷里ノルマンディに引き下がり,そこで教育を受けたために,すっかりノルマン好みになっていた.そして,イングランドでデーン王朝が崩壊すると,このエドワードがノルマンディから戻ってきてエドワード聖証王として即位したのである.
 このような背景により,イングランドとノルマンディのつながりは,案外早く1000年前後から見られたのである.
 ロロに端を発するノルマン人の系統を中心に家系図を描いておこう.関連して,アングロサクソン王朝の系図については「#2620. アングロサクソン王朝の系図」 ([2016-06-29-1]) と「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) で確認できる.

                                   ロロ
                                    │
                                    │
                              ギヨームI世(長剣公)               
                                    │
                                    │
                            リシャールI世(豪胆公)
                                    │
                                    │
                ┌─────────┴──────────┐
                │                                        │
                │                                        │
 クヌート===エマ===エゼルレッド無策王          リシャールII世
                    │                                    │
                    │                                    │
          ┌────┴────┐                          │
          │                  │                          │
          │                  │                          │
  エドワード聖証王       アルフレッド                     │
                                                          │
                    ┌──────────────────┘
                    │
          ┌────┴────┐
          │                  │
          │                  │
    リシャールIII世     ロベールI世(悪魔公)===アルレヴァ
                                               │
                                               │
                                  ギヨームII世(ウィリアム征服王)

Referrer (Inside): [2020-04-05-1]

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2016-07-30 Sat

#2651. 英語を話せなかった George I と初代総理大臣 Sir Robert Walpole [history][monarch][prime_minister]

 George I について,「#2648. 17世紀後半からの言語的権威のブルジョワ化」 ([2016-07-27-1]),「#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧」 ([2016-07-28-1]) で触れた.今回は,George I の振る舞いとその背景,そして歴史的なインパクトについて述べたい.
 Stuart 家の最後の君主となった Anne が1714年に他界すると,王位はドイツの Hanover 家 (House of Hanover) の George I (1660--1727) に移ることになった.イギリスにドイツ人の国王を迎えるというのは驚くべきことのように思われるが,血縁的にみれば特異なことではなかった.Hanover 朝の最初の国王となった George I の祖母は James II の長女であったし,その娘で,Hanover 選帝侯の妃であった Sophia は George I の母である.本来であれば,Anne の後は,Stuart 王家の血を引く唯一のプロテスタントであった Sophia が王位に就く予定だったが,Anne よりも早くに亡くなったため,長男の George I が王位を継ぐことになったのである.
 George I は王位継承が決まっても,すぐにはロンドンへへ行きたがらなかった.歓迎される王ではないことを自覚していたし,ジャコバイトによる暗殺計画も取りざたされていたからだ.それでも少し遅れて無事にロンドン入りすると,内閣改造を行ない,ホイッグより Charles Townshend (1674--1738), James Stanhope (1673--1721), Sir Robert Walpole (1676--1745) を登用した.とりわけ Walpole には全幅の信頼を寄せ,1717--21年の期間を除いて,政務を任せきりにした.「#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧」 ([2016-07-28-1]) の記事で触れたとおり,これが Prime Minister 職の始まりである.
 George I がこのように政治的に無関心だったことは,イギリス国民が彼に対して反感を抱いていたことと関係するだろう.Stuart 家のもっていた知的な魅力とは対照的に,George I は詩的でなく,人付き合いも悪く,野戦向きというイメージを持たれていた.ドイツに生まれ育って,英語をまったく理解しなかったということも,やむを得ないことではあったが,イギリスでは不評だった.
 しかし,George I の政治的無関心に関する評価はおいておくとしても,イギリス人の反感に正面切って対抗することなく,むしろ自身はしばしば Hanover に引き下がって,イギリスの政務を有能な Walpole に任せきったことは,後のイギリスの内政と外交にとっては幸運な結果をもたらした.責任内閣制はいっそう強固となり,国王の「君臨すれども統治せず」の方針が顕著となっていったからだ.
 結果としてみれば,英語を話せなかった George I は,18世紀前半にイギリスの国力を増強させることになる一流の人事を仕切ったのである.後の大英帝国の発展と英語の世界的な普及との関係を考慮すると,George I が英語を話せなかった事実も,新たな角度から評価することができるように思われる.以上,森 (478--90) を参照して執筆した.

 ・ 森 護 『英国王室史話』16版 大修館,2000年.

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2016-07-27 Wed

#2648. 17世紀後半からの言語的権威のブルジョワ化 [sociolinguistics][history][monarch][dryden]

 近代英語において,言語的権威はどこにあると考えられていたか.この答えは,近代英語の初期とそれ以降の時代とで異なっていた.
 Knowles (120) によれば,Elizabeth 朝を含め,それ以降の1世紀のあいだ君主と結びつけられていた言語的権威が,17世紀後半から18世紀にかけて中産階級と結びつけられるようになり,現在にまで続くイギリスにおける階級と言語使用の密接な関係の歴史が始まったという.

In a hierarchical society, it must seem obvious that those at the top are in possession of the correct forms, while everybody else labours with the problems of corruption. The logical conclusion is that the highest authority is associated with the monarchy. In Elizabeth's time, the usage of the court was asserted as a model for the language as a whole. After the Restoration, Dryden gave credit for the improvement of English to Charles II and his court. It must be said that this became less and less credible after 1688. William III was a Dutchman. Queen Anne was not credited with any special relationship with the language, and Addison and Swift were rather less than explicit in defining the learned and polite persons, other than themselves, who had in their possession the perfect standard of English. Anne's successor was the German-speaking elector of Hanover, who became George I. After 1714, even the most skilled propagandist would have found it difficult to credit the king with any authority with regard to a language he did not speak. Nevertheless, the monarchy was once again associated with correct English when the popular image of the monarchy improved in the time of Victoria.
   After 1714 writers continued to appeal to the nobility for support and to act as patrons to their work on language. Some writers, such as Lord Chesterfield, were themselves of high social status. Robert Lowth became bishop of London. But ascertaining the standard language essentially became a middle-class activity. The social value of variation in language is that 'correct' forms can be used as social symbols, and distinguish middle class people from those they regard as common and vulgar. The long-term effect of this is the development of a close connection in England between language and social class.


 ここで説かれているのは,政治的権威と言語的権威の連動である.理想的な君主制においては,君主の指導者としての地位と,彼らが話す言語の地位とが連動しているはずである.絶対的な政治的権力をもっている国王の口から出る言葉が,その言語の典型であり,模範であり,理想であるはずである.しかし,18世紀末以降に君臨したイギリス君主は,オランダ人の William III だったり,ドイツ人の George I であったりと,ろくに英語を話せない外国人だったのである(関連して,「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1]) も参照).そこから推測されるように,イギリス君主は実際にイギリスの政治にそれほど関心がなかったのであり,イギリス国民によって「典型」「模範」「理想」とみなされるわけもなかった.ここから,国王の代理として政治を運営する "Prime Minister" 職(初代は Sir Robert Walpole)が作り出され,その職の重要性が増して現在に至るのだから,皮肉なものである.こうして,政治的権威は,国王から有力国民の代表者,実質的には富裕なブルジョワの代表者へと移行した.
 当然ながら,それと連動して,言語的権威の所在も国王からブルジョワの代表者へと,とりわけ言語に対して意識の高い文人墨客へと移行した.こうして,国王ではなく,身分の高い教養のある階級の代表者が英語の正しさを定め,保つ伝統が始まった.21世紀の言葉遣いにもの申す "pundit" たちも,この伝統の後継者に他ならない.

 ・ Knowles, Gerry. A Cultural History of the English Language. London: Arnold, 1997.

Referrer (Inside): [2016-07-30-1] [2016-07-28-1]

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2016-06-29 Wed

#2620. アングロサクソン王朝の系図 [family_tree][oe][monarch][history][anglo-saxon]

 「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) で挙げた一覧から,アングロサクソン王朝(古英語期)の系図,Egbert から William I (the Conqueror) までの系統図を参照用に掲げておきたい.

            Egbert (829--39) [King of Wessex (802--39)]
              │
              │
          Ethelwulf (839--56)
              │
              │
    ┌────┴──────┬──────────┬────────────┐
    │                      │                    │                        │
    │                      │                    │                        │
Ethelbald (856--60)   Ethelbert (860--66)   Ethelred I (866--71)   Alfred the Great (871--99)
                                                                            │
                                                                            │
                                                                   Edward the Elder (899--924)
                                                                            │
                                                                            │
                      ┌────────────┬─────────────┤
                      │                        │                          │
                      │                        │                          │                                    ┌────────┐
                  Athelstan (924--40)   Edmund I the Elder (945--46)   Edred (946--55)                            ???HOUSE OF DENMARK???
                      │                        │                                                                └────────┘
                      │                        │
                  Edwy (955--59)        Edgar (959--75)                                                        Sweyn Forkbeard (1013--14)
                                                │                                                                    │
                                                │                                                                    │
                      ┌────────────┤                                                                    │
                      │                        │                                                                    │
                      │                        │                                                                    │
           Edward the Martyr (975--79)   Ethelred II the Unready (979--1013, 1014--16) === Emma (--1052)  === Canute (1016--35)
                                                │                                       │                    │     │
                                                │                                       │                    │     │
                                                │                                       │                    │     └─────┐
                                                │                                       │                    │                 │
                                                │                                       │             Hardicanute (1040--42)    │
                                                │                                       │                                       │
                                                │                                       │                                       │
                                     Edmund II Ironside (1016. 4--11)      Edward the Confessor (1042--66)             Harold I Harefoot (1035--40)
                                                │
                                                │
                                                │                            ┌─────────┐                  ┌────────┐
                                       Edward Atheling (--1057)               ???HOUSE OF NORMANDY ???                  ???HOUSE OF GODWIN ???
                                                │                            └─────────┘                  └────────┘
                                                │
                                                │
                                     Edgar Atheling (1066. 10--12)          William the Conqueror (1066--87)          Harold II (1066. 1--10)

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2016-04-17 Sun

#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧 [timeline][history][monarch]

 英語史の外面史において欠かせない情報として,歴代イングランド(女)王とその統治年代を一覧しよう.2010 Compton's by Britannica の,Vol. 26 Fact-Index の p. 378 から取ったものである.

Saxon
802--839Egbert
839--858Ethelwulf
858--860Ethelbald
860--865Ethelbert
865--871Ethelred
871--899Alfred the Great
901--924Edward the Elder
924--939Athelstan
939--946Edmund I
946--955Edred
955--959Edwy
959--975Edgar
975--978Edward the Martyr
978--1016Ethelred "the Unready"
1016Edmund II, Ironside
Danish
1016--35Canute (Cnut)
1035--40Harold I
1040--42Harthacanute
Saxon
1042--66Edward the Confessor
1066Harold II
Norman
1066--87William I, the Conqueror
1087--1100William II
1100--35Henry I
1135--54Stephen
Plantagenet
1154--89Henry II
1189--99Richard I
1199--1216John
1216--72Henry III
1272--1307Edward I
1307--27Edward II
1327--77Edward III
1377--99Richard II
Lancaster
1399--1413Henry IV
1413--22Henry V
1422--61Henry VI
York
1461--83Edward IV
1483Edward V
1483--85Richard III
Tudor
1485--1509Henry VII
1509--47Henry VIII
1547--53Edward VI
1553--58Mary I
1558--1603Elizabeth I
Stuart
1603--25James I
1625--49Charles I
[1649--60Commonwealth]
1660--85Charles II
1685--88James II
1689--1702William III and Mary II (until her death in 1694)
1702--14*Anne*The United Kingdom was formed in 1707.
Hanover
1714--27George I
1727--60George II
1760--1820George III
1820--30George IV
1830--37William IV
1837--1901Victoria
Saxe-Coburg-Gotha (Windsor)
1901--10Edward VII
1910--36George V
1936Edward VIII
1936--52George VI
1952--Elizabeth II

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2013-04-27 Sat

#1461. William's writ [norman_conquest][monarch]

 英語史上の大きな問題の1つに,なぜノルマン・コンクェスト後のイングランドで,英語は上位のフランス語に置き換えらることがなかったのかという問いがある.6世紀前には,征服者のアングロサクソン人が先住民であるブリトン人の言語を置き換えたという事実がある.この2つの歴史的事実をみると,英語は,征服者側にあっても非征服者側にあっても結局は生き残って栄えたということになるが,両事件の言語交替の結末が逆方向であるのはどういうわけだろうか.
 様々な説明がありうるが,少なくとも1つ重要な点がある.被征服者側がすでに高度な書き言葉の文化をもっていたか否かである.5世紀のブリトン人はもっていなかった.しかし,11世紀のアングロサクソン人はもっていた.ノルマン・コンクェストの猛威をもってすら,数世紀のあいだ育まれてきた書き言葉の伝統をもつ英語を簡単に退けることはできなかったのではないか.
 このことを示す証拠が,William 征服王が征服の翌年1067年にロンドン市民に対して公布した令状 (William's writ) である.現在 The Corporation of London Records Office に所蔵されており,そのテキストは,Crystal (123) が句読点等を標準化した状態で与えている.以下に現代語訳とともに再掲しよう.

Willm kyng gret Willm bisceop and gosfregð portirefan and ealle þa burhwaru binnan londone frencisce and englisce freondlic· and ic kyðe eow þæt ic wylle þæt get beon eallre þæra laga weorðe þe gyt wæran on eadwerdes dæge kynges· and ic wylle þæt ælc cyld beo his fæder yrfnume æfter his fæder dæge· and ic nelle geþolian þæt ænig man eow ænig wrang beode· god eow gehealde·

King William greets Bishop William and Port-reeve Geoffrey and all the burgesses within London, French and English, in a friendly way. And I make know to you that I wish you to enjoy all the rights that you formerly had in the time of King Edward. And I want every child to be the heir of his father after his father's lifetime. And I will not permit any man to do you any wrong. God preserve you.


 重要なのは,内容よりも媒介言語が英語であるということだ.ロンドン市民に伝えるのだから英語でなければ理解されないから,といえばそうかもしれないが,公文書はラテン語で書くべきものという長い伝統があったことを考慮すると,英語での公布は決して普通のことではない.すでに英語に書き言葉の伝統が確立していたからこそ,英語で文章を作成するという選択肢が可能だったのであり,それを選択するのに障害も感じられなかったのだろう.
 なお,この英語文書は William 王自身が書いたわけではないし,おそらくは読めもしなかったろう.1130年代,年代記作家 Ordericus Vitalis は,William I が43歳のとき (c. 1071) に英語を学ぼうとしたことがあったと報告している.だが,征服後の激務を考えると,さして語学力は進歩しなかったのではないだろうか.ただ,英語を学ぼうとしたことが本当であるとすれば,それは William I の勤勉さなり好奇心なりの個人の美徳によるものだったかもしれないが,すでに長い書き言葉の伝統をもった言語への一種のリスペクトがあったかもしれない.リスペクトという表現が強すぎるのであれば,少なくとも,軽蔑はしていなかったとは言ってもよいかもしれない.
 冒頭に指摘した英語史上の重要問題については,「#577. 中英語の密かなる繁栄」 ([2010-11-25-1]) でも触れているので参照.また,王の英語力については「#1204. 12世紀のイングランド王たちの「英語力」」 ([2012-08-13-1]) を参照.

 ・ Crystal, David. The Stories of English. London: Penguin, 2005.

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2012-08-16 Thu

#1207. 英語の書き言葉の復権 [reestablishment_of_english][writing][monarch]

 [2009-09-05-1]の記事「#131. 英語の復権」の年表のなかで触れたにすぎないが,1414年,Henry V がイングランド王として初めて英語で手紙を書くという出来事が起こった.中世イングランドにおいて,手紙などの私的あるいは半私的な文書がフランス語ではなく英語で書かれるようになったのは,15世紀になってからである.
 14世紀半ばには,この用途で,フランス語の使用が最高潮に達していた.14世紀後半に最初の英語の手紙が現われるが,まとまったものとしては,世紀をまたぎ1420年代からの書簡集 The Paston Letters を待たなければならなかった.しかし,1450年以後には,英語での手紙が当たり前となる.
 遺言も同じ状況である.中世で最初の英語による遺言は,1383年に現われる.1400以前には稀だったが,15世紀に入り Henry IV, Henry V, Henry VI の遺言がすべて英語だったことは,この世紀中に書き言葉の英語化が一気に進行したことを示す.
 ギルドや市町の記録が英語で取られるようになったのも,手紙や遺言と時を同じくする.ロンドンの胡椒ギルドは1345年という早い時期にフランス語と並んで英語でも布告を出していた.類例は15世紀に目立ち出し,1450年以降は英語での記録が一般的となる.
 議会の記録の媒体も,1423年を境にフランス語から英語へと切り替わってゆく.1489年にはフランス語は完全に姿を消す.
 全体として,英語使用を奨励した Henry V の統治期間である1413--22年が,書き言葉における英語の使用の鍵を握っているといえるだろう.統治直後の1425年辺りを,英語の書き言葉の復権の転換点とみなしてもよいのではないか.
 以上,Baugh and Cable (153--55) を要約する形で記述した.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.

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2012-08-13 Mon

#1204. 12世紀のイングランド王たちの「英語力」 [french][me][monarch][norman_conquest][reestablishment_of_english][history]

 1066年のノルマン・コンクェストからおよそ1世紀半の時期は,ノルマン朝および後続のプランタジネット朝 (Plantagenet) の初期に当たる.この時期は,正体はフランス貴族であるイングランドの歴代の王が,イングランドの統治よりもむしろフランスの領土の保持と拡大に腐心した時代だった.この時期の歴代イングランド王と貴族たちの言語観と,その言語観を映し出す彼らの政治的行動は,英語史を考える際にも意義深い.英語はフランス語と比べて劣等であるという言語観は,英語の書き言葉の伝統の断絶(あるいは断続)を誘因したし,一方で自由闊達な言語変化を促すことになったからだ([2012-07-11-1]の記事「#1171. フランス語との言語接触と屈折の衰退」を参照).
 そこで,時の権力者たちが,いかにフランス(語)を重視し,相対的にイングランド(英語)を軽視していたかを示す証拠が欲しくなる.12世紀のイングランド王のフランス(語)への姿勢を直接,間接に示す事実を,Baugh and Cable (116--22) に従って,4点ほど列挙しよう.

 ・ Henry I は,1100--35年の統治期間のうち17年余をフランスで過ごした.このことから,フランス重視の姿勢が明らかである.ただし,彼は英語を理解する能力はあったとされる.
 ・ Henry II は,1154--89年の長い統治期間の3分の2をフランスで過ごした.なお,妻の Eleanor of Aquitaine は,(アングロ)フレンチ文学のパトロンであり,英語は解さなかった.
 ・ Richard I は,1189--99年の統治期間のうちほんの数ヶ月しかイングランドに滞在しなかった.英語を用いたことはないとみなしてよいだろう.
 ・ 1087--1100年に統治した William II,1135--54年に統治した Stephen,1199--1216年に統治した John については,英語を話す能力があったかはわからない.
 ・ Henry I を除き,15世紀後半の Edward IV に至るまでの歴代のイングランド王は,誰一人としてイングランドで妻を求めなかった.

 12世紀のイングランド王には,概して「英語力」はなかったと言えるだろう.ただし,当時の王家はイングランドにおいてもっとも非イングランド的な集団であったことに注意すべきである (Baugh and Cable 118, fn. 21) .位が低ければ低いほど,「英語力」は平均的に上昇したと考えられる.中英語期のイングランド君主の英語使用については,「#131. 英語の復権」の記事 ([2009-09-05-1]) でも触れているので,要参照.
 なお,13世紀になって,在位1216--72年の Henry III はおそらく英語を理解できたと思われ,その子 Edward I (在位1272--1307年)は通常的に英語を使っていたと見られる (Baugh and Cable 137) .Edward III や Richard II など14世紀の王も,英語を理解した (Baugh and Cable 148) .

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.

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2009-09-05 Sat

#131. 英語の復権 [me][history][reestablishment_of_english][timeline][monarch]

 ノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) 以降,中英語の前半は,イングランドはフランス語の支配に屈していた.庶民の言語である英語はいわば地下に潜っていたが,13世紀辺りから徐々に英語の復活劇が始まる.だが,フランス語支配の時代に蓄えられた多くの遺産をすべてひっくり返すには,相当な時間とエネルギーが必要だった.例えば,法的文書の英語義務化は18世紀になってようやく施行された.英語の復権は,実に長い道のりだったわけである.
 以下の年表は,英語の復権に関連する出来事に絞ってまとめた年表である.

1066年ノルマン人の征服
12--13世紀英語の文学作品などが現れ始める( Layamon's Brut, The Owl and the Nightingale, Ancrene Wisse, etc. )
1258年Simon de Monfort の反乱(政府機関へのフランス人の登用に対する抗議.英語の回復も強く要求される.その結果,Henry III は布行政改革の宣言書をラテン語,フランス語だけでなく英語でも出すこととなった.)
1272年Edward I がイングランド王として初めて英語を使用する
1337年Edward III,フランスの王位継承権を主張し百年戦争が始まる( ? 1453年 )
1348--50年最初のペストの流行( 1361--62, 1369, 1375年にも流行.黒死病については[2009-08-24-1]を参照.)
1350年代Higden's Polychronicon で,上流貴族の子弟にとってもすでに英語が母語となっていたことが示唆される
1356年地方裁判所の記録が英語になる
1362年議会の開会が英語で宣言される
1363年法廷での使用言語が英語となる (ただし、記録はラテン語)
1380年代ロンドンのギルドが記録に英語を使い始める
1381年Peasants' Revolt
1384年ロンドンのシティーが英語で布告を出す
1399年英語を母語とする最初の王 Henry IV 即位
1414年Henry V がイングランド王として初めて英語で手紙を書く(政府内でも英語の使用が奨励される)
1422年ロンドンの醸造業者が手続きをラテン語から英語にする
1453年百年戦争の終結
1488年英語が法的文書の書き言葉として認められる
1539年Great Bible が王により初めて公認される(保守的な宗教の世界でも英語の使用が認められるようになる)
1628年英語で書かれた最初の法典が編纂される
1731年法的文書が英語でなければならなくなる

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