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cognitive_linguistics - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-03-29 09:30

2020-05-18 Mon

#4039. 言語における性とはフェチである [fetishism][gender][category][sobokunagimon][cognate][sociolinguistics][cognitive_linguistics][sapir-whorf_hypothesis][hellog_entry_set]

 言語における文法上の性 (grammatical gender) は,それをもたない日本語や英語の話者にとっては実に不可解な現象に映る.しかし,印欧語族ではフランス語,スペイン語,ドイツ語,ロシア語,ラテン語などには当たり前のように見られるし,英語についても古英語までは文法性が機能していた.世界を見渡しても,性をもつ言語は多々あり,4つ以上の性をもつ言語も少なくない.
 古英語の例で考えてみよう.古英語では個々の名詞が原則として男性 (masculine),女性 (feminine),中性 (neuter) のいずれかに振り分けられているが,その区分は必ずしも生物学的な性,すなわち自然性 (natural gender) とは一致しない.女性を意味する wīf (形態的には現代の wife に連なる)は中性名詞ということになっているし,同じく「女性」を意味する wīfmann (現代の woman に連なる)はなんと男性名詞である.「女主人」を意味する hlǣfdiġe (現代の lady に連なる)は女性名詞なので安堵するが,無生物であるはずの stān (現代の stone)は男性名詞であり,lufu (現代の love)は女性名詞である.分類基準がよく分からない(cf. 「#3293. 古英語の名詞の性の例」 ([2018-05-03-1])).
 古英語の話者を捕まえて,いったいなぜなのかと尋ねることができたとしても,返ってくる答えは「わからない,そういうことになっているから」にとどまるだろう.現代のフランス語話者にも尋ねてみるとよい.なぜ太陽 soleil は男性名詞で,月 lune は女性名詞なのかと.そして,ドイツ語話者にも尋ねてみよう.なぜ逆に太陽 Sonne が女性名詞で,月 Mund が男性名詞なのかと.いずれの話者も納得のいく答えを返せないだろうし,言語学者にも答えられない.
 言語の性とは何なのか.私は常々標題のように考えてきた.言語における性とはフェチなのである.もう少し正確にいえば,言語における性とは人間の分類フェチが言語上に表わされた1形態である.
 人間には物事を分類したがる習性がある.しかし,その分類の仕方については個人ごとに異なるし,典型的には集団ごとに,とりわけ言語共同体ごとに異なるものである.それぞれの分類の原理はその個人や集団が抱いていた世界観,宗教観,人生観などに基づくものと推測されるが,それらの当初の原理を現在になってから復元することはきわめて困難である.現在にまで文法性が受け継がれてきたとしても,かつての分類原理それ自体はすでに忘れ去られており,あくまで形骸化した形で,この語は男性名詞,あの語は女性名詞といった文法的な決まりとして存続しているにすぎないからだ.
 世界観,宗教観,人生観というと何やら深遠なものを想起させるが,そのような真面目な分類だけでなく,ユーモアやダジャレなどに基づくお遊びの分類も相当に混じっていただろう.そのような可能性を勘案すれば,性とはフェティシズム (fetishism),すなわちその言語集団がもっていた物の見方の癖くらいに理解しておくのが妥当だろう.いずれにせよ現在では真には理解できず,復元もできないような代物なのだ.自分のフェチを他人が理解しにくく,他人のフェチを自分が理解しにくいのと同じようなものだ.
 言語学用語としての gender を「性」と訳してきたことは,ある意味で不幸だった.英単語 gender は,ラテン語 genus が古フランス語 gendre を経て中英語期にまさに文法用語として入ってきた単語である.genus の原義は「種族,種類」ほどであり,現代フランス語で対応する genre は「ジャンル,様式」である.英語本来語である kind 「種類」も,実はこれらと同根である.確かに人類にとって決して無関心ではいられない人類自身の2分法は男女の区別だろう.最たる gender がとりわけ男女という sex の区別に適用されたこと自体は自然である.しかし,こと言語の議論について,これを「性」と解釈し翻訳してしまったのは問題だった.gender, genre, kind は,もともと男女の区別に限らず,あらゆる観点からの物事の区別に用いられるはずであり,いってみれば単なる「種類」を意味する普通名詞なのである.これを男性と女性(およびそのいずれでもない中性)という sex に基づく種類に限ってしまったために,なぜ「石」が男性名詞なのか,なぜ「愛」が女性名詞なのか,なぜ「女性」が中性名詞や男性名詞なのかという混乱した疑問が噴出することになってしまった.
 この問題への解決法は「gender = 男女(中)性の区別」というとらえ方から解放され,A, B, C でもよいし,イ,ロ,ハでもよいし,甲,乙,丙でも何でもよいので,さして意味もない単なる種類としてとらえることだ.古英語では「石」はAの箱に入っている,「愛」はBの箱に入っている等々.なまじ意味のある「男」や「女」などのラベルを各々の箱に貼り付けてしまうから,話しがややこしくなる.
 このとらえ方には異論もあろう.上では極端な例外を挙げたものの,多くの文法性をもつ言語で,男性(的なもの)を指示する名詞は男性名詞に,女性(的なもの)を指示する名詞は女性名詞に属することが多いことは明らかだからだ.だからこそ「gender = 男女(中)性の区別」の解釈が助長されてきたのだろう.しかし,それではすべてを説明できないからこそ,一度「gender = 男女(中)性の区別」の見方から解放されてみようと主張しているのである.男女の違いは確かに人間にとって関心のある区別だろう.しかし,過去に生きてきた無数の人間集団は,それ以外にも現在では推し量ることもできないような変わった関心,独自のフェティシズムをもって物事を分類してきたのではないか.それが形骸化したなれの果てが,フランス語,ドイツ語,あるいは古英語に残っている gender ということではないか.
 私は gender に限らず言語における文法カテゴリー (category) というものは,基本的にはフェティシズムの産物だと考えている.人類言語学 (anthropological linguistics),社会言語学 (sociolinguistics),認知言語学 (cognitive_linguistics),「サピア=ウォーフの仮説」 (sapir-whorf_hypothesis) などの領域にまたがる,きわめて広大な言語学上のトピックである.
 gender の話題ついては,gender の記事群のほか,改めて「言語における性の問題」の記事セットも作ってみた.こちらも合わせてどうぞ.

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2020-03-10 Tue

#3970. 言語学理論の2つの学派 --- 言語運用と言語能力のいずれを軸におくか [generative_grammar][cognitive_linguistics][grammaticalisation][construction_grammar][linguistics][language_change]

 現代の言語学理論を大きく2つに分けるとすれば,言語運用 (linguistic performance) を重視する学派と言語能力 (linguistic competence) を重視する学派の2つとなろう.言語運用と言語能力の対立は,パロール (parole) とラング (langue) の対立といってもよいし,E-Language と I-Language の対立といってもよい.学派に応じて用語使いが異なるが,およそ似たようなものである.
 言語運用を重視する学派は,文法化理論 (grammaticalisation theory) や構文文法 (construction_grammar) に代表される認知言語学 (cognitive_linguistics) である.一方,言語能力に重きをおく側の代表は生成文法 (generative_grammar) である.両学派の言語観は様々な側面で180度異なり,鋭く対立しているといってよい.Fischer et al. (32) の表を引用し,対立項を浮かび上がらせてみよう.

 EMPHASIS ON PERFORMANCE/LANGUAGE OUTPUTEMPHASIS ON COMPETENCE/LANGUAGE SYSTEM
(a)product-orientedprocess-oriented
(b)emphasis on function (in CxG also form)emphasis on form
(c)locus of change: language uselocus of change: language acquisition
(d)equality of levelscentrality (autonomy) of syntax
(e)gradual changeradical change
(f)heuristic tendenciesfixed principles
(g)fuzzy categories/schemasdiscrete categories/rules
(h)contiguity with cognitioninnateness of grammar


 言語変化 (language_change) に直接的に関わる側面 (c), (e) のみに注目しても,両学派の間に明確な対立があることがわかる.
 印象的にいえば言語運用学派は動的,言語能力学派は静的ということになり,言語変化という動態を扱うには前者のほうが相性がよさそうにはみえる.

 ・ Fischer, Olga, Hendrik De Smet, and Wim van der Wurff. A Brief History of English Syntax. Cambridge: CUP, 2017.

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2018-12-28 Fri

#3532. 認知言語学成立の系譜 [cognitive_linguistics][history_of_linguistics][generative_grammar][typology][anthropology]

 1980年代以降,勢いのある認知言語学.この新しい言語学が成立した背景には,様々な学問的発展と関与があった.大堀 (8) の分かりやすい図を再現しよう.

Birth of Cognitive Linguistics

 元祖ともいえるインプットは,Franz Boaz や Edward Sapir に代表される人類学の影響を受けた言語学である.文化と言語の関係に光を当てた言語相対論の思想は,認知言語学の言語観と調和するところが多い.
 その人類学の影響下で生まれたのがアメリカ構造主義言語学である.意味を捨象し,形式の分析を第1の課題として置いた.そこでは言語は自律的なものとしてとらえられ,人の知識や能力から独立したものとして把握された.
 1950年代末,アメリカ構造主義言語学を置き換えたのは,Noam Chomsky の生成文法だった.言語を人の知識としてとらえなおし,統語論を数理モデルにより体系化することに功績があった.しかし,意味を軽視し,言語知識を他の知識とは関与しない自律的なものとしてとらえているという点では,構造言語学と異なるところがなかった.
 言語知識の自律性に疑問を抱いた派閥が生成意味論を唱え「言語学戦争」が生じたが,この派閥こそが後の認知言語学の立ち上げメンバーとなる.1980年代後半,理論上の指導者として,George Lakoff と Ronald W. Langacker が重要な成果を出し,1990年には国際学会を形成した.
 認知言語学のもう1つの影響源は,1970年代後半からの言語類型論の興隆である.諸言語の比較・対照を通じて,言語の法則性の背後にある動機づけについての関心が高まり,認知言語学に刺激を与えた.
 現在,認知言語学は広い認知科学のなかに包摂される1領域という位置づけである.また,その領域内部にも様々な立場があり,1つの名前でくくってよいものかという見方もある.しかし,歴史言語学や言語変化論などにも少なからぬインパクトを与えるようになってきており,1つの潮流を形成していることは間違いない
 関連して「#2835. 構造主義,生成文法,認知言語学の3角形」 ([2017-01-30-1]) も参照.

 ・ 大堀 壽夫 『認知言語学』 東京大学出版会,2002年.

Referrer (Inside): [2022-08-24-1]

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2017-12-24 Sun

#3163. metonymy と metaphor のどちらがより基本的か? [metonymy][metaphor][cognitive_linguistics][synaesthesia]

 構造言語学のタームとして,syntagm と paradigm の対立がある.この対立は,修辞学や認知言語学でいうところの metonymymetaphor の対立になぞらえることができる.Niemier (196) は,言語における metonymy と metaphor の役割を論じながら,次のように述べている.

. . . metaphors represent the paradigmatic pole because they replace an expression by another expression, and metonymies represent the syntagmatic pole which in a given syntagm, for example the regalia of a monarch, selects an outstanding element, such as the crown, which then evokes the whole syntagm.


 ところで,Niemeier は認知言語学の観点から,metonymy のほうが metaphor よりも基本的であると考えている.両者の関係を巡る問題には様々な議論があるが,1つの立場として傾聴に値する.Niemeier によれば,metaphor は metonymy の連続体として理解できるという.しかし,metaphor が metonymy の連鎖であるにせよ,連鎖の始点と終点が離れれば離れるほど,両端どうしの関係は metonymy 的というよりも metaphor 的に理解されるほうが自然となってくる.つまり,原理としては metonymy (の連鎖)の関係というべきなのだが,直接的にはむしろ一飛びに metaphor ととらえられることのほうが多いということである.このように metonymy でもありながら metaphor でもあるように見えるものは "metaphtonomy" と称される.
 具体例として,I am boiling with anger. を挙げよう.この表現は,一見すると水と人間という2つのドメイン間の metaphor のようにも思われるが,我々が怒っているときに内的に感じる煮え立つような熱い感覚は共起現象というべきものであり,その意味ではむしろ metonymy といえる.しかし,この表現がさらに metonymic に発展して I blew up my top. (怒り心頭に発す)という表現になれば,より metaphoric に感じられるだろう.発展の諸段階は metonymy の連鎖として説明できるかもしれないが,終点だけを示されると metaphor に見えるという例だ.Niemeier (210) 曰く,

. . . the broader and the more general the perspective gets, the less metonymies and the more metaphors seem to be involved (and vice versa), although the metonymic basis seems to be kept intact for the metaphors as well.


. . . I want to propose a functional view of metaphor and metonymy instead of regarding them as fixed concepts. The fact whether the metonymic basis of a metaphor is obvious to a language user or not determines this language user's notion of whether s/he is using or perceiving a metaphor or a metonymy. Scanning the different steps in the development of a metaphorical construction may reveal that all the single steps involve metonymy and that therefore the whole expression may be considered to be a metonymy, but summarizing the development of such an expression by focusing only on the starting-point and the output may lead us to conciser it to be a metaphor.


 Niemeyer (210) は,ここから metonymy と metaphor が程度の問題であること,そして metonymy のほうがより基本的な認知プロセスである可能性があることを示唆している.

. . . metaphors may indeed have a metonymic basis . . . .


 metaphor と metonymy は,認知意味論でもその他の様々な領域においても重要な概念であり,通常対置されるが,その関係をどうとらえるべきかは難しい問題である.

 ・ Niemeier, Susanne. "Straight from the Heart --- Metonymic and Metaphorical Explorations." Metaphor and Metonymy at the Crossroads: A Cognitive Perspective. Ed. Antonio Barcelona. Berlin: Mouton de Gruyter, 2000.

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2017-02-16 Thu

#2852. ことばの分析における「説明」とは? [linguistics][methodology][generative_grammar][cognitive_linguistics]

 標記の言語学の方法論上の問題について,大堀 (58) が,ことばの分析における「説明」は複合的であってよいという趣旨のことを述べている.以下は,しばしば対置させられる生成文法と認知言語学という2つの言語理論を念頭に置きつつ述べられている見解である.

言わずもがなではあるが,ことばの分析における「説明」の何たるかについて,少しく述べる。私の見解は,「何が説明的理論か」という問いに画一的な答えを与えることは不毛であるというものである。在来のパラダイムについて比較検討をすることは分量的に無理なので(かつまた宗教戦争をいざなうつもりもない),一点だけおさえておく。ある現象について一般化が得られた場合,内的な解釈と外的な解釈とが可能と思われるが,両者が排他的である必要は全くない。大切なのは両者が共存できる準備があるということである。例えば「文法規則の適用は構造依存である」との一般化に対し,それは文法についての生得的な制約である,とすることに異存はないが,同時に,認知機構は対象を構造的に把握して操作する,という一般化もOKなのである。要は認知論的な角度から言語が説明されることをこばまず,言語構造はさまざまの面で動機づけられているという事実を自然に受けいれればよいのではあるまいか。


 ここで語られている「内的・外的な解釈」の非排他性は言語理論についての謂いだが,これは言語変化の原因論について語る場合にも当てはまりそうだ.例えば,内的な原因論と外的な原因論は互いに排他的なものではない.また,同じことは,言語を観察する2つの態度,共時態と通時態について語る場合にも当てはまるのではないか.共時態も通時態も互いに排他的とみる必要は必ずしもない.
 私も基本的に上記と同じ立場で言語の「説明」というものを理解している.言語という複雑怪奇な対象を1つの理論で完璧に説明しきれるはずもない.むしろあれこれと異なる角度から考察することによって,少しずつ謎が解かれていくというくらいの難物なのではないか.さらに,その様々な角度が最終的に1つの原理に集約されるという可能性もないではないが,それすらも望みは薄いのではないかと疑っている.その意味では,言語学とは,ことばをどのように見るか,その様々な角度の集成にほかならないと考えている.

 ・ 大堀 壽夫 「イメージの言語学――ことばの構成原理をもとめて」 『『言語』セレクション』第1巻,月刊『言語』編集部(編),大修館書店,2012年.51--58頁.(1992年11月号より再録.)

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2017-01-30 Mon

#2835. 構造主義,生成文法,認知言語学の3角形 [history_of_linguistics][generative_grammar][cognitive_linguistics][linguistics]

 20世紀の近代英語学の主流を形成したのは,構造主義言語学 (structural linguistics),生成文法 (generative_grammar),認知言語学 (cognitive_linguistics) の3本柱である.言語史上,この順序で現われ,台頭してきた.それぞれを支えている土台には互いに共通部分もあるが,著しく対立する部分もある.全体としてみれば,互いに異なる言語観をもっていると理解しておいてよい.
 井上 (60) は「20世紀の言語学大三角形」と称して,3つの関係を分かりやすく図示している.およそ次のような構図だ.

                        ┌────────────┐
                        │        構造主義        │
                        │ 「恣意的」 = arbitrary │
              ┌───→│   「社会的  ラング」   │←───┐
              │        │          帰納          │        │
              │        └────────────┘        │
              │                                            │
              │                                            │
              ↓                                            ↓
┌────────────┐                    ┌────────────┐
│        生成文法        │                    │      認知言語学        │
│「自律的」 = autonomous │←────────→│                        │
│  「生得的  言語能力」  │                    │ 「有契的」 = motivated │
│          演繹          │                    │                        │
└────────────┘                    └────────────┘

 まず,構造主義と生成文法の関係について考えよう.前者でいうラング (langue) とパロール (parole) の対立は,後者でいう言語能力 (linguistic competence) と言語運用 (linguistic performance) の対立にしばしば比較されるが,両ペアの間には社会性の有無という大きな差異がある.構造主義は社会を想定するが,生成文法は社会を想定せず,究極の個人の生得的な能力のみを問題にしている.また,特にアメリカ構造主義の帰納的で行動主義的な方法論と,生成文法の演繹的な立場も鋭く対置される
 次に,生成文法と認知言語学について.前者が自律的であるのに対して,後者は人間の一般的な認知能力と関連しているという点で,非自律的であるという点が重要である.ここから,言語の発生についても,生成文法では突如として発現したことが前提とされやすいが,一方,認知言語学では累進的進化という立場が採られやすい.
 最後に,構造主義と認知言語学については,前者が恣意性を押し出すのに対して,後者はむしろ有契性を主張する.有契性とは「動機づけ」と言い換えてもよく,言語のあり方が認知や経験に「動機づけられている」ことを指す.
 つまり,3角形の各辺を構成する対立の矢印に端的に説明を付すのであれば,左上から反時計回りに「社会性の有無」「自律性の有無」「動機づけの有無」とラベルを貼れそうだ.詳しくは,井上 (60--61) を参照されたい.

 ・ 井上 逸兵 『グローバルコミュニケーションのための英語学概論』 慶應義塾大学出版会,2015年.

Referrer (Inside): [2018-12-28-1]

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2016-10-05 Wed

#2718. 認知言語学の3つの前提 [linguistics][semantics][cognitive_linguistics][history_of_linguistics]

 認知言語学 (cognitive_linguistics) は,主として1980年代より発達してきた言語構造と言語行動の研究法である.Cruse の用語集の cognitive linguistics の項によると,この研究法の背景には,いくつかの基本的な前提がある.

 (1) 言語は意味を伝達する目的で発展してきたのであり,意味,統語,音韻の別にかかわらず,すべての言語構造はこの機能と関連しているはずである.
 (2) 言語能力は,一般的な認知能力に埋め込まれており,それと分かつことはできない.したがって,言語に特化した脳の自律的部位なるものは存在しない.このことが意味論にとってもつ意義は,言語的意味と一般的知識のあいだに,規則的な区別を認めることができないということである.
 (3) 意味は本来概念的なものであり,特定の方法で認知的・知覚的な原料を形成し,それに形態を付すことに関与する.

 認知言語学者は,真理条件に基づく意味論の方法は意味を適切に説明することができないと主張する.認知言語学は,認知心理学と密接な関係をもっており,とりわけ概念の構造と性質に関する研究に依拠している.認知言語学の発展に特に影響力のある学者を2人挙げるとすれば,Lakoff と Langacker だろう.
 認知言語学の前提については,「#1957. 伝統的意味論と認知意味論における概念」 ([2014-09-05-1]) も参照.

 ・ Cruse, Alan. A Glossary of Semantics and Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.

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2016-08-30 Tue

#2682. 3人称代名詞を欠く言語 [japanese][personal_pronoun][person][deixis][category][cognitive_linguistics][pragmatics]

 「#2680. deixis」 ([2016-08-28-1]) に関わる文法範疇 (category) の1つに,人称 (person) がある.ただし,直接 deixis に関係するのは,1人称(話し手)と2人称(聞き手)のみであり,いわゆる3人称とはそれ以外の一切の事物として否定的に定義されるものである.「私」と「あなた」の指示対象は,会話の参与者が変わればそれに応じて当然変わるものであり,コミュニケーションにとって,このように相対的な指示機能を果たす1・2人称代名詞が是非とも必要だが,3人称については,絶対的にそれを指し示す名詞(句)だけを使っても用を足すことはできる.例えば代名詞「彼」や「彼女」を用いる代わりに,「鈴木」や「山田」と名前を繰り返し用いて済ませることも可能である.したがって,諸言語の人称代名詞体系において最も本質的なものは1,2人称であり,3人称は場合によってなしでも可である.
 Huang (137) は,3人称代名詞を欠く言語がありうる理由について,次のように述べている.

Third person is the grammaticalization of reference to persons or entities which are neither speakers nor addressees in the situation of utterance, that is, the 'participant-role' with speaker and addressee exclusion [-S, -A] . . . . Notice that third person is unlike first or second person in that it does not necessarily refer to any specific participant-role in the speech event . . . . Therefore, it can be regarded as the grammatical form of a residual non-deictic category, given that it is closer to non-person than either first or second person . . . . This is why all of the world's languages seem to have first- and second-person pronouns, but some appear to have no third-person pronouns.


 具体的に Huang が3人称代名詞を欠く言語として言及しているのは,Dyirbal, Hopi, Yéli Dnye, Yidiɲ, 及びコーカサス諸語である.
 実は,日本語にしても,人称代名詞をどのように考えるかという議論はあるが,3人称代名詞については古来指示代名詞の転用が一般的であり,独自のものはなかったといってよい.1人称はア・アレ,ワ・ワレ,2人称ではナ・ナレが固有の語幹としてあったのに対し,3人称は少なくとも独自の語幹をもつほどには発達していなかったからだ.
 ところで,日本語でも英語でも小さい子供が自分のことを1人称代名詞ではなく固有名詞で呼ぶ現象があるが,あれは相対的なものの見方や自我の発達と関係があるのだろうか.deixis は,その時々の立ち位置を定めた上での相対的な指示機能であるから,認知能力の発達と関係しそうではある.これは絶対敬語の問題とも関係し,広い意味で語用論の話題,deixis の話題といえる.

 ・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.

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2016-07-18 Mon

#2639. 「死神」のメタファーとメトニミー [metaphor][metonymy][mythology][cognitive_linguistics]

 「#2496. metaphor と metonymy」 ([2016-02-26-1]),「#2632. metaphor と metonymy (2)」 ([2016-07-11-1]) で2つの過程の異同について考えた.「#2196. マグリットの絵画における metaphor と metonymy の同居」 ([2015-05-02-1]) では両手段が効果的に用いられている芸術作品を解釈したが,今回は同じく両手段が同居しているイメージの例として西洋の「死神」 (Grim Reaper) を挙げよう.いわずとしれた,マントを羽織り,大鎌を手にした骸骨のイメージである.

Grim Reaper

 Lakoff and Johnson (251) は,「死神」を,メタファーとメトニミーが複雑に埋め込まれた合成物 (composition) の例として挙げている.

In the classic figure of the Grim Reaper, there is such a composition. The term "reaper" is based on the metaphor of People as Plants: just as a reaper cuts down wheat with a scythe before it has gone through its life cycle, so the Grim Reaper comes with his scythe indicating a premature death. The metaphor of Death as Departure is also part of the myth of the Grim Reaper. In the myth, the Reaper comes to the door and the deceased departs with him.
   The figure of the Reaper is also based on two conceptual metonymies. The Reaper takes the form of a skeleton---the form of the body after it has decayed, a form which metonymically symbolizes death. The Reaper also wears a cowl, the clothing of monks who presided over funerals at the time the figure of the Reaper became popular. Further, in the myth the Reaper is in control, presiding over the departure of the deceased from this life. Thus, the myth of the Grim Reaper is the result of two metaphors and two metonymies having been put together with precision.


 複数の概念メタファーと概念メトニミーが精密に合致して,1つの複雑な要素からなる合成物としての「死神」が成立しているという.ことば以前の認識というレベルにおいて,あの典型的なイメージの根底には,精巧に絡み合ったレトリックが存在していたのである.

 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.

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2016-07-11 Mon

#2632. metaphor と metonymy (2) [metaphor][metonymy][rhetoric][cognitive_linguistics]

 metaphormetonymy について,「#2187. あらゆる語の意味がメタファーである」 ([2015-04-23-1]),「#2406. metonymy」 ([2015-11-28-1]),「#2196. マグリットの絵画における metaphor と metonymy の同居」 ([2015-05-02-1]),「#2496. metaphor と metonymy」 ([2016-02-26-1]) で話題にしてきた.今回も,両者の関係について考えてみたい.
 次の2つの文を考えよう.

 (1) Metonymy: San Francisco is a half hour from Berkeley.
 (2) Metaphor: Chanukah is close to Christmas.


 (1) の a half hour は,時間的な隔たりを意味していながら,同時にその時間に相当する空間上の距離を表わしている.30分間の旅で進むことのできる距離を表わしているという点で,因果関係の隣接性を利用したメトニミーといえるだろう.一見すると時間と空間の2つのドメインが関わっているようにみえるが,旅という1つのドメインのなかに包摂されると考えられる.この文の主題は,時間と空間の関係そのものである.
 一方,(2) の close to は,時間的に間近であることが,空間的な近さに喩えられている.ここでは時間と空間という異なる2つのドメインが関与しており,メタファーが利用されている.この文の主題は,あくまで時間である.空間は,主題である時間について語る手段にすぎない.
 Lakoff and Johnson (266--67) は,この2つの文について考察し,メタファーとメトニミーの特徴の差を的確に説明している.

When distinguishing metaphor and metonymy, one must not look only at the meanings of a single linguistic expression and whether there are two domains involved. Instead, one must determine how the expression is used. Do the two domains from a single, complex subject matter in use with a single mapping? If so, you have metonymy. Or, can the domains be separate in use, with a number of mappings and with one of the domains forming the subject matter (the target domain), while the other domain (the source) is the basis of significant inference and a number of linguistic expressions? If this is the case, then you have metaphor.


 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.

Referrer (Inside): [2016-07-18-1]

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2016-06-25 Sat

#2616. 政治的な意味合いをもちうる概念メタファー [metaphor][cognitive_linguistics][sapir-whorf_hypothesis][rhetoric][conceptual_metaphor]

 「#2593. 言語,思考,現実,文化をつなぐものとしてのメタファー」 ([2016-06-02-1]) で示唆したように,認知言語学的な見方によれば,概念メタファー (conceptual_metaphor) は思考に影響を及ぼすだけでなく,行動の基盤ともなる.すなわち,概念メタファーは,人々に特定の行動を促す原動力となりうるという点で,政治的に利用されることがあるということだ.
 Lakoff and Johnson の古典的著作 Metaphors We Live By の最終章の最終節に,"Politics" と題する文章が置かれているのは示唆的である.政治ではしばしば「人間性を奪うような」 (dehumanizing) メタファーが用いられ,それによって実際に「人間性の堕落」 (human degradation) が生まれていると,著者らは指摘する.同著の最後の2段落を抜き出そう.

   Political and economic ideologies are framed in metaphorical terms. Like all other metaphors, political and economic metaphors can hide aspects of reality. But in the area of politics and economics, metaphors matter more, because they constrain our lives. A metaphor in a political or economic system, by virtue of what it hides, can lead to human degradation.
   Consider just one example: LABOR IS A RESOURCE. Most contemporary economic theories, whether capitalist or socialist, treat labor as a natural resource or commodity, on a par with raw materials, and speak in the same terms of its cost and supply. What is hidden by the metaphor is the nature of the labor. No distinction is made between meaningful labor and dehumanizing labor. For all of the labor statistics, there is none on meaningful labor. When we accept the LABOR IS A RESOURCE metaphor and assume that the cost of resources defined in this way should be kept down, then cheap labor becomes a good thing, on a par with cheap oil. The exploitation of human beings through this metaphor is most obvious in countries that boast of "a virtually inexhaustible supply of cheap labor"---a neutral-sounding economic statement that hides the reality of human degradation. But virtually all major industrialized nations, whether capitalist or socialist, use the same metaphor in their economic theories and policies. The blind acceptance of the metaphor can hide degrading realities, whether meaningless blue-collar and white-collar industrial jobs in "advanced" societies or virtual slavery around the world.


 "LABOUR IS A RESOURCE" という概念メタファーにどっぷり浸かった社会に生き,どっぷり浸かった生活を送っている個人として,この議論には反省させられるばかりである.一方で,(反省しようと決意した上で)実際に反省することができるということは,当該の概念メタファーによって,人間の思考や行動が完全に拘束されるわけではないということにもなる.概念メタファーと思考・行動の関係に関する議論は,サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) を巡る議論とも接点が多い.

 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.

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2016-06-02 Thu

#2593. 言語,思考,現実,文化をつなぐものとしてのメタファー [metaphor][cognitive_linguistics][sapir-whorf_hypothesis][rhetoric][conceptual_metaphor]

 Lakoff and Johnson は,メタファー (metaphor) を,単に言語上の技巧としてではなく,人間の認識,思考,行動の基本にあって現実を把握する方法を与えてくれるものととしてとらえている.今や古典と呼ぶべき Metaphors We Live By では一貫してその趣旨で主張がなされているが,そのなかでもとりわけ主張の力強い箇所として,"New Meaning" と題する章の末尾より以下の文章をあげよう (145--46) .

   Many of our activities (arguing, solving problems, budgeting time, etc.) are metaphorical in nature. The metaphorical concepts that characterize those activities structure our present reality. New metaphors have the power to create a new reality. This can begin to happen when we start to comprehend our experience in terms of a metaphor, and it becomes a deeper reality when we begin to act in terms of it. If a new metaphor enters the conceptual system that we base our actions on, it will alter that conceptual system and the perceptions and actions that the system gives rise to. Much of cultural change arises from the introduction of new metaphorical concepts and the loss of old ones. For example, the Westernization of cultures throughout the world is partly a matter of introducing the TIME IS MONEY metaphor into those cultures.
   The idea that metaphors can create realities goes against most traditional views of metaphor. The reason is that metaphor has traditionally been viewed as a matter of mere language rather than primarily as a means of structuring our conceptual system and the kinds of everyday activities we perform. It is reasonable enough to assume that words alone don't change reality. But changes in our conceptual system do change what is real for us and affect how we perceive the world and act upon those perceptions.
   The idea that metaphor is just a matter of language and can at best only describe reality stems from the view that what is real is wholly external to, and independent of, how human beings conceptualize the world---as if the study of reality were just the study of the physical world. Such a view of reality---so-called objective reality---leaves out human aspects of reality, in particular the real perceptions, conceptualizations, motivations, and actions that constitute most of what we experience. But the human aspects of reality are most of what matters to us, and these vary from culture to culture, since different cultures have different conceptual systems. Cultures also exist within physical environments, some of them radically different---jungles, deserts, islands, tundra, mountains, cities, etc. In each case there is a physical environment that we interact with, more or less successfully. The conceptual systems of various cultures partly depend on the physical environments they have developed in.
   Each culture must provide a more or less successful way of dealing with its environment, both adapting to it and changing it. Moreover, each culture must define a social reality within which people have roles that make sense to them and in terms of which they can function socially. Not surprisingly, the social reality defined by a culture affects its conception of physical reality. What is real for an individual as a member of a culture is a product both of his social reality and of the way in which that shapes his experience of the physical world. Since much of our social reality is understood in metaphorical terms, and since our conception of the physical world is partly metaphorical, metaphor plays a very significant role in determining what is real for us.


 この引用中には,本書で繰り返し唱えられている主張がよく要約されている.概念メタファーは,認知,行動,生活の仕方を方向づけるものとして,個人の中に,そして社会の中に深く根を張っており,それ自身は個人や社会の経験的基盤の上に成立している.言語表現はそのような盤石な基礎の上に発するものであり,ある意味では皮相的とすらいえる.メタファーとは,言語上の技巧ではなく,むしろその基盤のさらに基盤となるくらい認知過程の深いところに埋め込まれているものである.
 Lakoff and Johnson にとっては,言語を研究しようと思うのであれば,人間の認知過程そのものから始めなければならないということだろう.この前提が,認知言語学の出発点といえる.

 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.

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2016-05-27 Fri

#2587. 未来は前方にあるのか後方にあるのか [cognitive_linguistics][conceptual_metaphor]

 英語で未来の時間を指す表現として,一見相反するような例が挙げられる."in the weeks ahead of us" では未来が物理的に前方にあるかのような表現だが,"in the following weeks" ではむしろ表現としては後方にあるかのようである.過去についても同様に,"That's all behind us now." という文では過去の時間が後方にあるかのようだが,"in the preceding weeks" では過去はむしろ前方にあるものとして表現されている.この矛盾はどのように説明されるのだろうか.
 Lakoff and Johnson (41) は,このような表現は矛盾に見えるだけであり,認知的には首尾一貫 (coherent) していると説く.英語では,時間は "TIME IS A MOVING OBJECT" という概念メタファー (conceptual_metaphor) によってとらえられる.例えば,時間は前方から私たちの方にやってきて,私たちの後方へと過ぎ去ってゆくものととらえることができるだろう.

 ・ The time will come when . . .
 ・ The time has long since gone when . . .
 ・ The time for action has arrived . . .


 未来は私たちの前方にあることを示す例を追加すると,

 ・ Coming up in the weeks ahead . . .
 ・ I look forward to the arrival of Christmas.
 ・ Before us is a great opportunity, and don't want it to pass us by.


 さらに,時間は前方の未来から顔を私たちの方に向けて近づいてくるというとらえかたを示す例を挙げる.

 ・ I can't face the future.
 ・ The face of things to come . . .
 ・ Let's meet the future head-on.


 以上は,私たち人間の立場からみて未来が前方にあるという例である.しかし,私たちの方に顔を向けて進んでくる時間の立場からすれば,自分の後ろからついてくるものは,さらに遠い未来である.したがって,"next week and the week following it" のような言い方が可能になる.さらに,未来を表わすのに両観点の混じった "We're looking ahead to the following weeks." なる表現も自然に理解される.
 以上をまとめれば,未来は,私たちの立場からみれば前方にあるが,時間の立場からみれば後方にある.相反するようでいて実のところ共通しているのは,私たちと時間が対向しているという構図である.いずれかの観点に立つと,他の観点と相容れない (inconsistent) ように見えるが,一歩引いて構図全体として理解すれば,時間に関するとらえ方,あるいはメタファー的概念は首尾一貫している (coherent) のである.

 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.

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2016-05-15 Sun

#2575. 言語変化の一方向性 [unidirectionality][language_change][grammaticalisation][bleaching][semantic_change][cognitive_linguistics][conversion][clitic]

 標題については,主として文法化 (grammaticalisation) や駆流 (drift) との関係において unidirectionality の各記事で扱ってきた.今回は,辻(編) (227) を参照して,文法化と関連して議論されている言語変化の単一方向性について,基本的な点をおさらいしたい.辻によれば,次のようにある.

文法化 とは,語彙的要素が特定の環境で繰り返し使われ,文法的な機能を果たす要素へと変化し,その文法的な機能が統語論的なもの(例:後置詞)からさらに形態論的なもの(例:接辞)へ進むことを指す。この文法化のプロセスの方向(すなわち,語彙的要素 > 統語論的要素 > 形態論的要素)が逆へは進まないことを「単方向性」の仮説と言う。


 例えば,means という名詞を含む by means of が手段を表わす文法的要素になることはあっても,すでに文法的要素である with が例えば "tool" の意の名詞に発展することはあり得ないことになる.しかし,ifs, ands, buts などは本来の接続詞が名詞化しているし,「飲み干す」の意味の動詞 down も前置詞由来であり,反例らしきもの,つまり脱文法化 (degrammaticalisation) の例も見られる.
 一方向性を擁護する立場からの,このような「逆方向」の例に対する反論として,文法化とは特定の構文の中で考えられるべきものであるという主張がある.例えば,未来を表わす be going to は,go が単独で文法化したわけではなく,beto を伴った,この特定の構文のなかで文法化したのだと考える.ifs, down などの例は,単発の品詞転換 (conversion) にすぎず,このような例をもって一方向性への反例とみなすことはできない,と論じる.また,変化のプロセスが漸次的であるか否かという点でも be going toifs は異なっており,同じ土俵では論じられないのだとも.
 それでも,真正な反例と呼べそうな例は稀に存在する.属格を表わす屈折語尾だった -es が,-'s という接語 (clitic) へ変化した事例は,より形態論的な要素からより統語論的な要素への変化であり,一方向性仮説への反例となる (cf. 「#819. his 属格」 ([2011-07-25-1]),「#1417. 群属格の発達」 ([2013-03-14-1]),「#1479. his 属格の衰退」 ([2013-05-15-1])) .
 一方向性の仮説は,言語変化理論のみならず,古い言語の再建を目指す比較言語学や,言語の原初の姿を明らかにしようとする言語起源の研究においても重大な含蓄をもつ.そのため,反例たる脱文法化の現象と合わせて,熱い議論が繰り広げられている.

 ・ 辻 幸夫(編) 『新編 認知言語学キーワード事典』 研究社.2013年.

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2016-05-09 Mon

#2569. dead metaphor (2) [metaphor][conceptual_metaphor][rhetoric][cognitive_linguistics][terminology]

 昨日の記事 ([2016-05-08-1]) に引き続き,dead metaphor について.dead metaphor とは,かつては metaphor だったものが,やがて使い古されて比喩力・暗示力を失ってしまった表現を指すものであると説明した.しかし,メタファーと認知の密接な関係を論じた Lakoff and Johnson (55) は,dead metaphor をもう少し広い枠組みのなかでとらえている.the foot of the mountain の例を引きながら,なぜこの表現が "dead" metaphor なのかを丁寧に説明している.

Examples like the foot of the mountain are idiosyncratic, unsystematic, and isolated. They do not interact with other metaphors, play no particularly interesting role in our conceptual system, and hence are not metaphors that we live by. . . . If any metaphorical expressions deserve to be called "dead," it is these, though they do have a bare spark of life, in that they are understood partly in terms of marginal metaphorical concepts like A MOUNTAIN IS A PERSON.
   It is important to distinguish these isolated and unsystematic cases from the systematic metaphorical expressions we have been discussing. Expressions like wasting time, attacking positions, going our separate ways, etc., are reflections of systematic metaphorical concepts that structure our actions and thoughts. They are "alive" in the most fundamental sense: they are metaphors we live by. The fact that they are conventionally fixed within the lexicon of English makes them no less alive.


 「死んでいる」のは,the foot of the mountain という句のメタファーや,そのなかの foot という語義におけるメタファーにとどまらない.むしろ,表現の背後にある "A MOUNTAIN IS A PERSON" という概念メタファー (conceptual metaphor) そのものが「死んでいる」のであり,だからこそ,これを拡張して *the shoulder of the mountain や *the head of the mountain などとは一般的に言えないのだ.Metaphors We Live By という題の本を著わし,比喩が生きているか死んでいるか,話者の認識において活性化されているか否かを追究した Lakoff and Johnson にとって,the foot of the mountain が「死んでいる」というのは,共時的にこの表現のなかに比喩性が感じられないという局所的な事実を指しているのではなく,話者の認知や行動の基盤として "A MOUNTAIN IS A PERSON" という概念メタファーがほとんど機能していないことを指しているのである.引用の最後で述べられている通り,表現が慣習的に固定化しているかどうか,つまり常套句であるかどうかは,必ずしもそれが「死んでいる」ことを意味しないという点を理解しておくことは重要である.

 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.

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2016-05-08 Sun

#2568. dead metaphor (1) [metaphor][rhetoric][cognitive_linguistics][terminology][semantics][semantic_change][etymology]

 metaphor として始まったが,後に使い古されて常套語句となり,もはや metaphor として感じられなくなったような表現は,"dead metaphor" (死んだメタファー)と呼ばれる.「机の脚」や「台風の目」というときの「脚」や「目」は,本来の人間(あるいは動物)の体の部位を指すものからの転用であるという感覚は希薄である.共時的には,本来的な語義からほぼ独立した別の語義として理解されていると思われる.英語の the legs of a tablethe foot of the mountain も同様だ.かつては生き生きとした metaphor として機能していたものが,時とともに衰退 (fading) あるいは脱メタファー化 (demetaphorization) を経て,化石化したものといえる(前田,p. 127).
 しかし,上のメタファーの例は完全に「死んでいる」わけではない.後付けかもしれないが,机の脚と人間の脚とはイメージとして容易につなげることはできるからだ.もっと「死んでいる」例として,pupil の派生語義がある.この語の元来の語義は「生徒,学童」だが,相手の瞳に映る自分の像が小さい子供のように見えるところから転じて「瞳」の語義を得た.しかし,この意味的なつながりは現在では語源学者でない限り,意識にはのぼらず,共時的には別の単語として理解されている.件の比喩は,すでにほぼ「死んでいる」といってよい.
 「死んでいる」程度の差はあれ,この種の dead metaphor は言語に満ちている.「#2187. あらゆる語の意味がメタファーである」 ([2015-04-23-1]) で列挙したように,語という単位で考えても,その語源をひもとけば,非常に多数の語の意味が dead metaphor として存在していることがわかる.advert, comprehend など,そこであげた多くのラテン語由来の語は,英語への借用がなされた時点で,すでに共時的に dead metaphor であり,「死んだメタファーの輸入品」(前田,p. 127)と呼ぶべきものである.

 ・ 前田 満 「意味変化」『意味論』(中野弘三(編)) 朝倉書店,2012年,106--33頁.
 ・ 谷口 一美 『学びのエクササイズ 認知言語学』 ひつじ書房,2006年.

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2016-04-23 Sat

#2553. 構造的メタファーと方向的メタファーの違い (2) [conceptual_metaphor][metaphor][metonymy][synaesthesia][cognitive_linguistics][terminology]

 昨日の記事 ([2016-04-22-1]) の続き.構造的メタファーはあるドメインの構造を類似的に別のドメインに移すものと理解してよいが,方向的メタファーは単純に類似性 (similarity) に基づいたドメインからドメインへの移転として捉えてよいだろうか.例えば,

 ・ MORE IS UP
 ・ HEALTH IS UP
 ・ CONTROL or POWER IS UP


という一連の方向的メタファーは,互いに「上(下)」に関する類似性に基づいて成り立っているというよりは,「多いこと」「健康であること」「支配・権力をもっていること」が物理的・身体的な「上」と共起することにより成り立っていると考えることもできないだろうか.共起性とは隣接性 (contiguity) とも言い換えられるから,結局のところ方向的メタファーは「メタファー」 (metaphor) といいながらも,実は「メトニミー」 (metonymy) なのではないかという疑問がわく.この2つの修辞法は,「#2496. metaphor と metonymy」 ([2016-02-26-1]) や 「#2406. metonymy」 ([2015-11-28-1]) で解説した通り,しばしば対置されてきたが,「#2196. マグリットの絵画における metaphor と metonymy の同居」 ([2015-05-02-1]) でも見たように,対立ではなく融和することがある.この観点から概念「メタファー」 (conceptual_metaphor) を,谷口 (79) を参照して改めて定義づけると,以下のようになる.

 ・ 概念メタファーは,2つの異なる概念 A, B の間を,「類似性」または「共起性」によって "A is B" と結びつけ,
 ・ 具体的な概念で抽象的な概念を特徴づけ理解するはたらきをもつ


 概念メタファーとは,共起性や隣接性に基づくメトニミーをも含み込んでいるものとも解釈できるのだ.概念「メタファー」の議論として始まったにもかかわらず「メトニミー」が関与してくるあたり,両者の関係は一般に言われるほど相対するものではなく,相補うものととらえたほうがよいのかもしれない.
 なお,このように2つの概念を類似性や共起性によって結びつけることをメタファー写像 (metaphorical mapping) と呼ぶ.共感覚表現 (synaesthesia) などは,共起性を利用したメタファー写像の適用である.

 ・ 谷口 一美 『学びのエクササイズ 認知言語学』 ひつじ書房,2006年.

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2016-04-22 Fri

#2552. 構造的メタファーと方向的メタファーの違い (1) [conceptual_metaphor][metaphor][cognitive_linguistics][terminology]

 昨日の記事「#2551. 概念メタファーの例をいくつか追加」 ([2016-04-21-1]) で,構造的メタファー (structural metaphor) と方向的メタファー (orientational metaphor) に触れた.両者の違いは,体系性の次元にある.前者は,ある概念をとりまく体系から別のものへの一方向の写像にすぎないが,後者はそのような内的な体系性をもった写像が,複数,互いに結び付き合っているという多次元なものだ.
 例えば,"TIME IS MONEY" の概念メタファーは,英語文化において,時間を金銭になぞらえる認知の様式が根付いており,その認知を反映した言語表現も多く観察されることを物語っている.時間に関する種々の属性や秩序は,金銭にもおよそそのまま当てはまることが多い.その方向性は,基本的に「時間→金」の一方向であり,その反対ではないという感覚がある.この関係を,一方向の内的体系性 (internal systematicity) と呼んでおこう.
 一方,"HAPPY IS UP; SAD IS DOWN" の概念メタファーは,"TIME IS MONEY" とは異質のように思われる.まず,それは対応する2つの命題,つまり "HAPPY IS UP" と "SAD IS DOWN" から成っているという点で異なる.一方向というよりは,双方向で互いに補完し合う関係だ.双方向の内的体系性と呼んでおきたい.さらに,このようなペアを相似的,並行的に複数挙げることができるという点がおもしろい.例えば,昨日の記事で挙げたように,"HAPPY IS UP; SAD IS DOWN", "CONSCIOUS IS UP; UNCONSCIOUS IS DOWN", "HEALTH AND LIFE ARE UP; SICKNESS AND DEATH ARE DOWN", "HAVING CONTROL or FORCE IS UP; BEING SUBJECT TO CONTROL or FORCE IS DOWN", "MORE IS UP; LESS IS DOWN", "FORESEEABLE FUTURE EVENTS ARE UP (and AHEAD)", "HIGH STATUS IS UP; LOW STATUS IS DOWN", "GOOD IS UP; BAD IS DOWN", "VIRTUE IS UP; DEPRAVITY IS DOWN", "RATIONAL IS UP; EMOTIONAL IS DOWN" などがそれに当たる.これらのペアは相互に関係していると思われ,全体として関係の小宇宙を形成している.換言すれば,「双方向の内的体系性」という塊が複数あり,互いに線で結ばれているというイメージだ.方向的メタファーが,構造的メタファーと次元が違うというのはこのことである.後者は前者よりも圧倒的に高次で複雑だが,体系的である.
 Lakoff and Johnson (14) の表現で両者の違いを表現すれば,structural metaphors とは "one concept is metaphorically structured in terms of another" であり,oritentational metaphors は "organizes a whole system of concepts with respect to one another" である.

 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.

Referrer (Inside): [2016-04-23-1]

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2016-04-18 Mon

#2548. 概念メタファー [metaphor][conceptual_metaphor][cognitive_linguistics][terminology]

 今や古典となった Lakoff and Johnson の著書により,概念メタファー (conceptual_metaphor) という用語が(認知)言語学では広く知られるようになった.すでに「#2471. なぜ言語系統図は逆茂木型なのか」 ([2016-02-01-1]) でこの用語を用いたが,認知言語学上の基本事項として,改めて本記事で概念メタファーを紹介しよう.
 Lakoff and Johnson の提起した概念メタファーの考え方は,一言でいえば,メタファーとは単にことばの問題にとどまらず,それ以前に認識の問題,とらえ方のレベルの問題であるということだ.通常,メタファーとは "You are my sunshine." のように,"A is B." のような構文で明示的に表わされると信じられているが,実はそのような形式をとらない数々の表現のうちに,暗黙の前提として含まれていることが多いという(辻, p. 33).
 Lakoff and Johnson が挙げた典型例に,"ARGUMENT IS WAR" がある.英語には,議論を戦争と見立てる発想が根付いており,この見立てが数々の表現に滲出している.Lakoff and Johnson (4) より,例文を挙げよう.

 ・ Your claims are indefensible.
 ・ He attacked every weak point in my argument.
 ・ His criticisms were right on target.
 ・ I demolished his argument.
 ・ I've never won an argument with him.
 ・ You disagree? Okay, shoot!
 ・ If you use that strategy, he'll wipe you out.
 ・ He shot down all of my arguments.


 ここでは,直接的には戦争に関する用語や縁語とみなしうる語句が使われていながら,実際にはそれが議論に関わることばとして応用されている.これら個々の表現は,"ARGUMENT IS WAR" という概念メタファーが言語化されたものと解釈できるだろう.議論とは戦争であるという見立てが,単発の表現においてではなく,一連の表現において等しくみられる.
 メタファーは,従来,文学的な言語表現として非日常的な技巧とらえられる傾向があったが,実際にはこのように日常の言語使用や,さらに言語化される以前の認識レベルにおいて,非常にありふれたものであるということを,Lakoff and Johnson は指摘したのである.

 ・ Lakoff, George, and Mark Johnson. Metaphors We Live By. Chicago and London: U of Chicago P, 1980.
 ・ 辻 幸夫(編) 『新編 認知言語学キーワード事典』 研究社.2013年.

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2016-04-03 Sun

#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2) [terminology][pidgin][creole][language_change][terminology][tok_pisin][cognitive_linguistics][communication][teleology][causation][origin_of_language][evolution][prediction_of_language_change][invisible_hand]

 一昨日の記事 ([2016-04-01-1]) に引き続き,"spaghetti junction" について.今回は,この現象に関する Aitchison の1989年の論文を読んだので,要点をレポートする.
 Aitchison は,パプアニューギニアで広く話される Tok Pisin の時制・相・法の体系が,当初は様々な手段の混成からなっていたが,時とともに一貫したものになってきた様子を観察し,これを "spaghetti junction" の効果によるものと論じた.Tok Pisin に見られるこのような体系の変化は,関連しない他のピジン語やクレオール語でも観察されており,この類似性を説明するのに2つの対立する考え方が提起されているという.1つは Bickerton などの理論言語学者が主張するように,文法に共時的な制約が働いており,言語変化は必然的にある種の体系に終結する,というものだ.この立場は,言語的制約がヒトの遺伝子に組み込まれていると想定するため,"bioprogram" 説と呼ばれる.もう1つの考え方は,言語,認知,コミュニケーションに関する様々な異なる過程が相互に作用した結果,最終的に似たような解決策が選ばれるというものだ.この立場が "spaghetti junction" である.Aitchison (152) は,この2つ目の見方を以下のように説明し,支持している.

This second approach regards a language at any particular point in time as if it were a spaghetti junction which allows a number of possible exit routes. Given certain recurring communicative requirements, and some fairly general assumptions about language, one can sometimes see why particular options are preferred, and others passed over. In this way, one can not only map out a number of preferred pathways for language, but might also find out that some apparent 'constraints' are simply low probability outcomes. 'No way out' signs on a spaghetti junction may be rare, but only a small proportion of possible exit routes might be selected.


 Aitchison (169) は,この2つの立場の違いを様々な言い方で表現している."innate programming" に対する "probable rediscovery" であるとか,言語の変化の "prophylaxis" (予防)に対する "therapy" (治療)である等々(「予防」と「治療」については,「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]) を参照).ただし,Aitchison は,両立場は相反するものというよりは,相補的かもしれないと考えているようだ.
 "spaghetti junction" 説に立つのであれば,今後の言語変化研究の課題は,「選ばれやすい道筋」をいかに予測し,説明するかということになるだろう.Aitchison (170) は,論文を次のように締めくくっている.

A number of principles combined to account for the pathways taken, principles based jointly on general linguistic capabilities, cognitive abilities, and communicative needs. The route taken is therefore the result of the rediscovery of viable options, rather than the effect of an inevitable bioprogram. At the spaghetti junctions of language, few exits are truly closed. However, a number of converging factors lead speakers to take certain recurrent routes. An overall aim in future research, then, must be to predict and explain the preferred pathways of language evolution.


 このような研究の成果は言語の発生と初期の発達にも新たな光を当ててくれるかもしれない.当初は様々な選択肢があったが,後に諸要因により「選ばれやすい道筋」が採用され,現代につながる言語の型ができたのではないかと.

 ・ Aitchison, Jean. "Spaghetti Junctions and Recurrent Routes: Some Preferred Pathways in Language Evolution." Lingua 77 (1989): 151--71.

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