20世紀後半までの近代言語学の歴史は,抽象化の歴史といってもよい.言語という雑多で切り込みにくい対象を科学するためには,数多くの上皮をはぎ取り,裸にしてかかる必要があった.言語それ自体を取り出すために,文字をはぎ取り,民族や国家を捨象し,最後には話者を追放した.そのようにしてまな板に載せられた裸の言語を相手に,理論化を進めていったのである.それにより理論言語学は大いに発展したのであり,言語学の進歩にとって必要だったことは間違いない.それを踏まえて,20世紀後半からは,言語学は理論から実践へと関心を戻してきたようにみえる.社会言語学や語用論などの興隆は,社会や話者を言語学へ甦らせようとする欲求の結果だろう.
この視点は重要である.音声変化の代表例としてグリムの法則 (Grimm's Law) を例に取ろう ([2009-08-08-1]の記事「グリムの法則とは何か」を参照).そこでは印欧祖語の *p がゲルマン語では *f へ変化したとされるが,「法則」と呼ばれることの意味は何であるかを考えてみたい.この音声変化は原則として例外なくすべての語において生じたとされ,その意味で法則と呼ぶにふさわしい性格があることは確かだ.しかし,これは自然科学的な意味での法則ではあり得ない.なぜならば,話者という人間が介在しなければこの変化は起こりようがなかったし,歴史的に一回限りの出来事であるために再現可能性がないからである.特定の時期の特定の話者(集団)に依存していた変化であるから,熱力学の第2法則のようなものとは本質的に異なる.音声変化の主である話者は,受動的に変化を受けていたわけではなく,能動的に変化を起こしていたと考えなければならない.そこには話者による採用という積極的な行動があったと仮定せざるを得ない.田中 (153--54) のことばで,この主張を聞いてみよう.
人間という動物は,無意識に,なにか人間を超えた法則にしたがって,自分でも気づかずに p を f と発音するほどに法則に従順でなければならないのだろうか.そんなことがあるはずはないし,またあってはならない.人間は法則のために存在するものではないからである.およそ人間に関するできごとのなかに,無意識の法則的変化はあり得ない.p から f への変化は,一団の言語の話し手のなかで各個人の上に一斉に起きたのではなく,ある個人の上に生じた変化が拡散し,社会的に採用されたのだということを,じつによくわかるように説明したのはエウジェニオ・コセリウだった.かれは,あらゆる変化は採用であり,採用は人間の意志の行為であること,ちょうどタイプライターの p の文字を一たび f でとりかえたならば,あとは何度たたいても f が出てくるのは少しもふしぎでないのと同様,それは自然の法則とは無縁なものだと説明してみせた.こうして,音韻法則は,超人間法則の神秘の世界から,やっと人間世界にひきもどされたのである.(引用者注:太字で示した採用は,原文では傍点)
コセリウのように,言語を人間世界にひきもどそうとした日本の学者がある.方言周圏論を提唱した柳田国男である([2012-03-07-1]の記事「#1045. 柳田国男の方言周圏論」を参照).柳田は,蝸牛を表わす種々の語の地理的な伝播を念頭におきながら,新語の拡大は,人々の新語の「採択」に他ならないと論じている.その採択とは,文芸の評価と異なるところのない,好みの反映された積極的な承認であると断じている.やや長い引用だが,「話者集団による積極的な承認」という強い主張を味わうために,1段落をすべて記そう (39--40) .
あるいはこの新陳代謝の状態をもって,簡単に流行と言ってしまえばよいと思う人もあるか知らぬが,それには二つの理由があって,自分たちは従うことが出来ない.「流行」は社会学上の用語として今なおあまりに不精確な内容しか有たぬこと是が一つ,二つには新語の採択には単にそれが新しいからという以上に,遥かに具体的なる理由が,幾つでも想像し得られるからである.たとえば語音が当節の若き人々に,特に愛好せられるものであり,もしくは鮮明なる聯想があって,記憶通意に便であることなども一つの場合であるが,更に命名の動機に意匠があり,聴く者をして容易に観察の奇抜と,表現の技巧を承認せしめるものに至っては,その効果はちょうど他の複雑なる諸種の文芸の,世に行なわるると異なるところがない.一方にはまたその第一次の使用者らが,しばしば試みてただ稀にしか成功しなかった点も,頗る近世の詩歌・俳諧・秀句・謎々などとよく似ていて,今でもその作品から溯って,それが人を動かし得た理由を察し得るのであるが,しかもただ一つの相異はその作者の個人でなく,最初から一つの群であったことである.かつて民間文芸の成長した経路を考えてみた人ならば,この点は決して諒解に難くないであろう.独り方言の発明のみと言わず,歌でも唱え言でもはた諺でも,仮令始めて口にする者は或る一人であろうとも,それ以前に既にそう言わなければならぬ気運は,群の中に醸されていたので,ただその中の最も鋭敏なる者が,衆意を代表して出口の役を勤めたまでであった.それ故にいつも確かなる起りは不明であり,また出来るや否やとにかく直ぐに一部の用語となるのであった.隠語や綽名は常にかくのごとくして現われた.各地の新方言の取捨選択も,恐らくはまた是と同様なる支持者を持っていたことであろう.この群衆の承認は積極的のものである.単に癖とか惰性とかいうような,見のがし聞きのがしとは一つではない.それを自分が差別して,此方を新語の成長力などと名づけんとしているのである.
音声と語彙とでは,変化に際する意識の関与の度合いに差があるだろうが,それは質の差ではなく程度の差ということになろうか.
・ 田中 克彦 『ことばと国家』 岩波書店,1981年.
・ 柳田 国男 『蝸牛考』 岩波書店,1980年.
言語学における基本的な対立概念の1つに,syntagmatic relation と paradigmatic relation がある.
言語表現において A--B--C と並んだ要素が互いにどのような関係にあるかを記述するとき,これを統合的関係 (syntagmatic relation) という.したがって,syntax と呼ばれる統語論とは,語の並び順の研究のことである.一方,A--B--C と並んだ要素で,例えば A の代わりに A' や A'' や A''' が現われることも可能だったし,B の代わりに B' や B'' や B''' が現われることも可能だったが,ここでは A と B がそれぞれ選択されたと考えられる.このとき,A, A', A'', A''', etc. や B, B', B'', B''', etc. の各要素間は系列的関係 (paradigmatic relation) にあるといわれる.(代)名詞や動詞の語形変化表などは paradigm と呼ばれるが,これは,表として整理されるている項目のいずれかが,言語表現上に実現されるからである.
Martinet (49--50) の説明を拙訳つきで示そう.
. . . on a, d'une part, les rapports dans l'énoncé qui sont dits syntagmatiques et sont directement observables : ce sont, par exemple, les rapports de /bòn/ avec ses voisins /ün/ et /bier/ et ceux de /n/ avec le /ò/ qui le précède dans /bòn/ et le /ü/ qu'il suit dans /ün/. On a intérêt à réserver, pour désigner ces rapports, le terme de contrastes. On a, d'autre part, les rapports que l'on conçoit entre des unités qui peuvent figurer dans un même contexte et qui, au moins dans ce contexte, s'excluent mutuellement ; ces rapports sont dits paradigmatiques et on les désigne comme des oppositions : bonne, excellente, mauvaise, qui peuvent figurer dans les mêmes contextes, sont en rapport d'opposition : il en va de même des adjectifs désignant des couleurs qui peuvent tous figurer entre le livre... et... a disparu. Il y a opposition entre /n/, /t/, /s/, /l/ qui peuvent figurer à la finale après /bò-/.
一方では,発話には「統合的」と呼ばれる関係,直接に観察可能な関係がある.これは,例えば,/bòn/ が隣り合う /ün/ と /bier/ に対してもつ関係であり,/bòn/ や /ün/ のなかで /n/ が先行する /ò/ や /ü/ に対してもつ関係である.この関係を示すのに「対比」という用語を取っておくのがよいだろう.他方では,同じ文脈に現われうるが,少なくともその文脈では互いに排他的である要素間にみられる関係がある.この関係は「系列的」と呼ばれ,「対立」として示される.bonne, excellente, mauvaise は同じ文脈に現われうるので,対立の関係にあるといえる.le livre... と ... a disparu の間に現われうる色の形容詞についても事情は同じだ./bò-/ の後に最終音として現われうる /n/, /t/, /s/, /l/ の間にも対立がみられる.
syntagmatic relation と paradigmatic relation は言語において極めて基本的な着眼点の差であり,その発想の源流は,ソシュール (Ferdinand de Saussure; 1857--1913) の統合関係 (rapport syntagmatique) と連合関係 (rapport associatif) にある.しかし,その後,異なる学派が異なる術語をもって論じているので,terminology には注意を要する.
syntagmatic relation については,統合的関係のほか,連辞的関係,連項的関係,連鎖関係 (chain relation),両立の関係 (both-and),接合の関係 (conjunction),連関 (relation),構造 (structure) という術語が,paradigmatic relation については系列的関係のほか,範列的関係,選項的関係,選択関係 (choice relation),分立の関係 (either-or),離接の関係 (disjunction),相関 (correlation),体系 (system) という術語が認められる.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
目下 Martinet の Éléments de linguistique générale (邦題『一般言語学要理』)を少しずつ読み,一般言語学の諸概念について勉強し直している([2011-05-14-1], [2011-05-15-1], [2011-06-02-1], [2011-06-03-1]の各記事で Martinet の言葉を引用してきた).ようやくイントロ部のピークにさしかかったところだが,Martinet にとっての「言語 (langue) とは何か」 (43--44) を紹介しないわけにはいかない.拙訳つきで引用する.
1-14. Qu'est-ce qu'une langue?
Nous pouvons maintenant tenter de formuler ce que nous entendons par «langue». Une langue est un instrument de communication selon lequel l'expérience humaine s'analyse, différemment dans chaque communauté, en unités douées d'un contenu sémantique et d'une expression phonique, les monèmes : cette expression phonique s'articule à son tour en unités distinctives et successives, les phonèmes, en nombre déterminé dans chaque langue, dont la nature et les rapports mutuels diffèrent eux aussi d'une langue à une autre. Ceci implique 1o que nous réservons le terme de langue pour désigner un instrument de communication doublement articulé et de manifestation vocale, 2o que, hors cette base commune, comme le marquent les termes «différemment» et «diffèrent» dans la formulation ci-dessus, rien n'est proprement linguistique qui ne puisse différer d'une langue à une autre : c'est dans ce sens qu'il faut comprendre l'affirmation que les faits de langue sont «arbitraires» ou «conventionnels».
1-14. 言語 (langue) とは何か
我々はいま,「言語」で理解しているところのものを定義づけようと試みることができる.言語とは,人間の経験が,各共同体において異なるやり方で,意味内容と音声表現の付与された単位 (monème) へと分析される方法を表わすコミュニケーション手段である.この音声表現は,今度は弁別的で連続的な単位 (phonème) へと分節され,その数は各言語で決まっており,その性質と相互関係はそれ自身が言語ごとに異なっている.このことは二つのことを含意する.(1) 「言語」という用語は,二重に分節された,音声によって表現されるコミュニケーション手段を指すためにとっておくということ.(2) この共通基盤の枠外では,「異なるやり方で」や「異なっている」という語が示している通り,言語ごとに異なり得ない如何なるものも厳密には言語的ではない.言語の事実が「恣意的」あるいは「慣習的」であるという主張は,この意味において理解すべきである.
これほど明確に言語を相対化する視点はないだろう.人間は,母語や学んだことのある言語に自然と適応し,肩入れするものである.しかし,世界に約7000個あるとされる言語のそれぞれが恣意的で慣習的に定められた体系を体現しており,また限られた共同体で使用されているにすぎないことを知るとき,自らの知っている言語の存在の小ささに気付く.一方で,各言語は,慣習的な道具にすぎないといえども,信じられないほどに複雑な体系を表わしている.言語の不思議さを感じざるを得ない.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
昨日の記事「言語の線状性」[2011-06-02-1]に引き続き,ヒトの言語の特徴について.すべての言語は二重に分節されている.言語のこの重要な特性は二重分節 ( double articulation ) と呼ばれる.
第一の分節は,言語化して伝達すべき物事を,Martinet が monème と呼ぶところの音形と意味がペアでカプセル化された記号(典型的には語)へ分節する過程である.拙訳とともに Martinet から引用する.
La première articulation du langage est celle selon laquelle tout fait d'expérience à transmettre, tout besoin qu'on désire faire connaître à autrui s'analysent en une suite d'unités douées chacune d'une forme vocale et d'un sens. (Martinet 37)
言語の第一分節は,伝達すべきすべての経験的事実や他人に知らせたいと望むすべての要求が,それぞれ音形と意味を付与された単位の連続へと分析される過程である.
La première articulation est la façon dont s'ordonne l'expérience commune à tous les membres d'une communauté linguistique déterminée. Ce n'est que dans le cadre de cette expérience, nécessairement limitée à ce quie est commun à un nombre considérable d'individus, qu'on communique linguistiquement. (Martinet 38)
第一分節は,規定の言語共同体の全成員に共通する経験を秩序づける方法である.数多くの個人にとって共通の物事に必然的に限られるこの経験の範囲内においてのみ,人は言語的にコミュニケーションをとることができるのである.
この第一分節により幾多の monème が切り出されるが,あくまで人間の記憶に耐えられるほどの有限個に抑えられる.monème は有限個だが,その組み合わせにより無限の表現を産することが可能であり,言語の経済性と効率性が確保される.ただし,上にも述べられているとおり,この経済性と効率性はあくまで分節の仕方を共有している限られた共同体内でのみ確保される点に注意すべきである.
第一分節により音形と意味からなる単位 monème が数多く切り出されるが,音形に関してはさらに小さな単位,弁別的な単位へと分析することができる.この第二分節によって,phonème 「音素」と呼ばれる単位が切り出される.例えば,フランス語の tête /tet/ は,/t/, /e/, /t/ の3つの分節音の結合として捉えられる.
Chacune de ces unités de première articulation présente, nous l'avons vu, un sens et une forme vocale (ou phonique). Elle ne saurait être analysée en unités successives plus petites douées de sens : l'ensemble tête veut dire «tête» et l'on ne peut attribuer à tê- et à-te des sens distincts dont la somme serait équivalence à «tête». Mais la forme vocale est, elle, analysable en une succession d'unités dont chacune contribue à distinguer tête, par exemple, d'autres unités comme bête, tante ou terre. C'est ce qu'on désignera comme la deuxième articulation du langage. (Martine 38--39)
上で見たように,第一分節による単位のそれぞれは,意味と音形を表わしている.その単位は,意味を付与されたより小さな連続する単位へと分析することはできない.tête 全体として「頭」を意味するのであり,tê- と -te に,合わせて「頭」を表わすことになるような区別された意味を付与することはできない.しかし,音形のほうは,一連の単位へと,すなわちそのそれぞれが例えば tête を bête, tante, terre のような他の単位と区別するのに貢献するような単位へと分析することができる.これが,言語の第二分節といわれるものである.
第二分節によって切り出された各音素はそれより小さい単位へは分解できないので,ここで分節の作業は終了する.この二つ目にして最後の分節により,せいぜい数十個に納まる数少ない phonème 音素を活用することによって,無数ともいえる monème を生み出すことができるのである.
言語における両分節の経済性と効率性ははかりしれない.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
ヒトの言語の顕著な特徴の1つに線状性 ( linearity ) がある.発話において自然界における重力のように重くのしかかる根本的な条件であり,これによって言語の構造が大きく制約されている.
言語の線状性とは,発話は時間に沿って継起するという原則である.発音器官の制限上,ヒトは同じ瞬間に異なる複数の音を発することができない.複数の音を出すには,時間に沿って順番につなぎ合わせるしかない.聞き手にとっても同様で,複数の言語音を同時に聞き分けるというのは,特殊な能力をもっていない限り不可能とはいわずとも難しい.ここから,各音の並び順が重要性を帯びることになる.例えば,英語で /t/, /ɒ/, /p/ はそれぞれ区別される音素だが,並び順によっては top, pot, opt などと異なる語が形成される.線状性は意味を違える機能を含んでいると言える.
線状性は音素の並びだけに適用されるわけではない.形態素,語,句,節,文といったより大きな単位も,線状に並べることでしか発話され得ない.現代英語のような語順重視の言語においては,Dog bites man. と Man bites dog. は大きな意味の差を示すが,これは線状性が論理的意味の弁別に大きく作用している例である.一方,格標示の発達した言語では,語句の並び順は必ずしも論理的な意味の差を生じさせない.日本語では「犬が人をかむ」の語順を変えて「人を犬がかむ」と表現することができる.ここから,音素より大きなレベルにおいては,線状性は意味を違える機能を含んでいることもあれば,必ずしもそうでないこともある,ということが分かる.しかし,上掲の日本語の例のように,語順の違いは強調や対比といった情緒的・文体的効果として現われることが多く,このレベルにも線状性が部分的に作用しているらしいことが分かる.
言語は,特に音素レベルにおいて,線状性という重力に制限されて存在する体系だといえるだろう.言語の線状性について,Martinet (40--41) の原文を拙訳つきで引用する.
1-10. Forme linéaire et caractère vocal
Toute langue se manifeste donc sous la forme linéaire d'énoncés qui représentent ce qu'on appelle souvent la chaîne parlée. Cette forme linéaire du langage humain dérive en dernière analyse de son caractère vocal : les énoncés vocaux se déroulent nécessairement dans le temps et sont nécessairement perçus par l'ouïe comme une succession.
1-10. 線状的形式と発声の特徴
すべての言語は,発話の連鎖としばしば呼ばれるものに相当する表現の線状的形式のもとで表出する.ヒトの言語のこの線状的形式は,結局のところ,ヒトの発声の特徴に由来する.音声表現は必ず時間に沿って展開するのであり,聴覚によって必ず一続きのものとして認識されるのである.
関連して,[2009-08-18-1]の記事「言語は世界を写し出す --- iconicity」の (3) も参照.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
大学の授業で英語史における具体的な言語変化を論じるにあたって,しばしば言語変化理論を概説する必要が生じるのだが,この学際的な分野を一望できる適切な資料がない.言語変化を扱う研究書の目次などが使えるのではないかと思っているが,探すよりも自分でまとめたほうが手っ取り早いと考えた.Bussmann の言語学辞典の "language change" の項を参照し,マインドマップを作成してみた.ノードを開閉できるFlash版もどうぞ.
作成に当たっては,ほかに[2010-07-13-1]の記事「言語変化の原因」などを参照した.ゆくゆくは language_change の各記事をまとめて,マインドマップの改訂版を作りたいと思っている.ある意味で,このブログ全体を通じて言語変化に関する考察の目録を作ろうとしているとも言えるので,日々の書きためが肝心.
英語の言語変化理論に関するウェブ上の資料としては,Raymond Hickey's Studying the History of English の Language change が充実している.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
文学 ( literature ) と言語学 ( linguistics ) のあいだの距離が開いてきたということは,すでに言われるようになって久しい.また,文献学 ( philology ) が20世紀後半より衰退してきていることも,随所で聞かれる.この2点は,広く世界的にも英語の領域に限っても等しく認められるのではないか.もちろん両者は互いに深く関係している.
Fitzmaurice (267--70) がこの状況を簡潔に記しているので,まとめておきたい.
(1) 20世紀後半より,言語学は文学テクストを不自然な言葉として避けるようになった.
(2) 一方で文学は理論的な方法論を追究し,言葉そのものへの関心からは離れる傾向にあった.例えば現在の英文学の主流に新歴史主義 ( new historicism ) があるが,その基礎は英語史の知見にあるというよりは人類学の発展にある.
(3) 言語学は,逸話よりも数値を重視する方向で進んできた.
(4) 一方で文学は,数値よりも逸話を重視する方向で進んできた.
このように文学と言語学が両極化の道を歩んできたことは,当然その間に位置づけられる文献学の衰退にもつながってくる.文学と言語学の方法論をバランスよく取り入れた文献学的な研究というものが一つの目指すべき理想なのだろうが,それが難しくなってきている.もっとも,この10年くらいは上記の認識が各所で危惧をもって表明されるようになり,文学と言語学を近づけ,文献学に新たな息を吹き込むような新たな試みが出始めてきている.近年の歴史語用論 ( historical pragmatics ) の盛り上がりも,その新たな試みの一つの現われと考えられるだろう.
・ Fitzmaurice, James. "Historical Linguistics, Literary Interpretation, and the Romances of Margaret Cavendish." Methods in Historical Pragmatics. Ed. Susan Fitzmaurice and Irma Taavitsainen. Berlin: Mouton de Gruyter, 2007. 267--84.
昨日の記事[2010-05-09-1]で,言語理論の基本構成部門 ( the core components ) として,音声学,音韻論,形態論,統語論,意味論の5分野を挙げた.語用論 ( pragmatics ) はこのリストの外に位置づけたが,これには議論の余地があるかもしれない.理論言語学における語用論の位置づけについては,語用論を the core components の一つとして含めるか否かで異なる立場がある.
・ 音声学 ( phonetics )
・ 音韻論 ( phonology )
・ 形態論 ( morphology )
・ 統語論 ( syntax )
・ 意味論 ( semantics )
・ 語用論 ( pragmatics )
Huang (4-5) は,語用論を5分野と同列に基本構成部門の一つとして認める考え方を "the (Anglo-American) component view" と呼んでいる.これに対して,語用論は部門 ( component ) というよりも観点 ( perspective ) であり,部門とは異次元のものであるという考え方を "the (European Continental) perspective view" と呼んでいる.この考え方の違いは語用論という分野が発達してきた複数の歴史的過程の差異によるものである.自らは "the component view" を採用している Huang の言い分の一つとして,言語には linguistic underdeterminacy という性質があることが挙げられている (5-6).
linguistic underdeterminacy thesis は,文の意味とそれが実際に伝える伝達内容との間には大きなギャップがあることを前提としている.例えば,次の英文はいずれも文意は理解できたとしても,文脈がない限り伝達内容は多義的である.
(1) You and you, but not you, stand up!
(2a) The authorities barred the anti-globalization demostrators because they advocated violence.
(2b) The authorities barred the anti-globalization demostrators because they feared violence.
(3a) John is looking for his glasses. (「眼鏡」の意)
(3b) John is looking for his glasses. (「グラス」の意)
(4a) They are cooking apples. (「リンゴを料理している」の意)
(4a) They are cooking apples. (「料理用のリンゴ」の意)
(1) は物理的な文脈が与えられていない限り,代名詞 you の指示対象を把握することができない.これは,語用論の主要な話題である直示性 ( deixis ) の問題である.(2) では,they が誰を指すかを正確に読み取るには,背景となる前提を知っていなければならない.(3) は語彙の多義性,(4) は統語の多義性に基づくものである.いずれも正しく理解するには,文脈,現実世界の知識,推論といった語用論的な要素に頼らなければならない.linguistic underdeterminacy thesis の前提を持ち出して語用論を基本構成部門に含めることを是とする Huang の主旨は「文の意味とそれが実際に伝える伝達内容との間には大きなギャップがあり,それを埋める機構の記述がなされなければ言語理論は完成しない.そして,その機構を記述するものがほかならぬ語用論である」ということになろう.
・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.
言語学や英語学は専門化が進み,分野も細分化されている.英語史や歴史英語学という分野は時間軸を中心にして英語を観察するという点で通時的 ( diachronic ) であり,現代英語なら現代英語で時間を止めてその断面を観察する共時的 ( synchronic ) な研究とは区別される.しかし,通時的に言語変化を見る場合にも,言語のどの側面 ( component ) に注目するかというポイントを限らなければないことが多く,共時的な言語研究で慣習的に区分されてきた言語の側面・分野に従うことになる.一口に言語あるいは英語を観察するといっても,丸ごと観察することはできず,その構成要素に分解した上で観察するのが常道である.
理論言語学で基本構成部門 ( the core components ) として区別されている主なものは,以下の5分野だろうか.
・ 音声学 ( phonetics )
・ 音韻論 ( phonology )
・ 形態論 ( morphology )
・ 統語論 ( syntax )
・ 意味論 ( semantics )
言語能力を構成する部門としては確かにこの辺りが基本だが,英語史研究を考える場合,特に近年の言語学・英語学の視点の広がりを反映させる場合,扱われる話題はこの5分野内には収まらない.例えば以下の構成要素を追加する必要があるだろう.
・ 語彙論 ( lexicology )
・ 語用論 ( pragmatics )
・ 筆跡・アルファベット・綴字 ( handwriting, alphabet, and spelling )
・ 書記素論 ( graphemics )
・ 方言学 ( dialectology )
・ 韻律論 ( metrics )
・ 文体論 ( stylistics )
さらに英語史の周辺分野を含めるとなると,控えめにいっても[2009-12-08-1]の関係図にあるような諸分野がかかわってくる.分野の呼称だけであれば,○○学や○○論などと挙げ始めるときりがないだろう.今回,分野の呼称をいくつか列挙してみたのは,いずれの分野においても通時的な変化は観察されるのであり,したがって英語史や歴史英語学においては話題が尽きることはないということを示したかったためである.2年目に突入した本ブログでは,引き続き英語史に関する話題を広く提供してゆきたい.
私見だが,言語に関心のない人はまずいない.日本語でも英語でも,新聞等の記事や投書は,言葉に関する話題に事欠かない.敬語の使い方,漢字の間違い,横文字の氾濫,誤用の指摘,日英語比較,語源豆知識,お国訛り,なんでも話題になる.言語の話題は,概して人々の関心を惹くものだと思っている.
ところが,言語「学」となると不釣り合いに関心の度合いが急落する.文法と聞くとへどが出る,という人も少なくない.言語への関心はあっても言語学への関心は薄いというのが世間の現実である.ここ数日間の記事で Crystal を引用しながら言語の死 ( language death ) にまつわる話題を取り上げてきたが,Crystal は言語の死に対する世間の無関心は,つまるところ世間の言語意識の低さに起因すると指摘している.(特に英語についての)この状況を,次のように分析している.
All language professionals have suffered the consequences of a general malaise about language study which has long been present among the general public --- an inevitable consequence (in my view) of two centuries of language teaching in which prescriptivism and purism produced a mentality suspicious of diversity, variation, and change, and a terminology whose Latinate origins crushed the spontaneous interest in language of most of those who came into contact with it. (Crystal 96)
およそ同じことが日本語あるいは日本人についても言える.規範的な語法,発音,漢字が教育でも社会でも促され,そうでないものは誤りとしてレッテルを貼られる.また,日本語文法でも英文法でも,小難しい文法用語の洪水によって,言語学的な関心がそがれてしまうということは確かにあるだろう.
二つ目のポイントである専門用語については,ある程度は致し方がない.言語学に限らずどの分野でも専門用語は大量に存在するものである.むしろ,言語学では,語学教育を通して他分野よりもその専門用語が一般に広く知られているという事情がある.疎まれるくらいに認知されているというのは,考えようによっては希望がもてる.
だが,一つ目のポイントである規範主義 ( prescriptivism ) と純粋主義 ( purism ) は根が深い.このことを頭では理解している言語学者でも,実際的には prescriptivist であったり purist であったりすることもしばしばである.確かに,慣用上,正しい言葉遣いと誤った言葉遣いの区別はある.だからこそ,世間が話題にする.しかし,正しい言葉遣いがいつでもどこでも正しい言葉遣いであり続けるかどうかは別問題である.言葉に限らずあらゆる慣習において,何が正しくて何が誤っているかの基準は,時と場所に応じて変化する.言語の本質として "diversity, variation, and change" があるにもかかわらず,それがないかのような前提で言語を論じ始めれば,どうしても無理が生じ,議論はつまらないものになるだろう.
難しいのは,多くの場合,言語学への入り口が語学教育にあることだ.語学教育では,"diversity, variation, and change" などと呑気なことをいっていられないのが現実である.学習者は,学ぶべき規準を明確に提示されないと混乱するからだ.だが,例えば英語学習者であれば,スパイスとして英語史の話題をふりかけてみるとよいと思う.英語史は,英語の "diversity, variation, and change" を体系的に一覧にしたものだからである.
私も英語史という一分野を通じて,世の中に遍在する言語への関心を,もう一歩踏み込んで言語学への関心へと引き込むことがでれきばいいなと常々思っている.
今回 Language Death を読み,Crystal は応用言語学者として言語学の実際的な応用を考えるのが本職とは言いつつも,彼の他書にも通底する議論の熱さと啓蒙的な筆致はさすがだなと再評価した.
・Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.
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