昨日の記事[2010-05-09-1]で,言語理論の基本構成部門 ( the core components ) として,音声学,音韻論,形態論,統語論,意味論の5分野を挙げた.語用論 ( pragmatics ) はこのリストの外に位置づけたが,これには議論の余地があるかもしれない.理論言語学における語用論の位置づけについては,語用論を the core components の一つとして含めるか否かで異なる立場がある.
・ 音声学 ( phonetics )
・ 音韻論 ( phonology )
・ 形態論 ( morphology )
・ 統語論 ( syntax )
・ 意味論 ( semantics )
・ 語用論 ( pragmatics )
Huang (4-5) は,語用論を5分野と同列に基本構成部門の一つとして認める考え方を "the (Anglo-American) component view" と呼んでいる.これに対して,語用論は部門 ( component ) というよりも観点 ( perspective ) であり,部門とは異次元のものであるという考え方を "the (European Continental) perspective view" と呼んでいる.この考え方の違いは語用論という分野が発達してきた複数の歴史的過程の差異によるものである.自らは "the component view" を採用している Huang の言い分の一つとして,言語には linguistic underdeterminacy という性質があることが挙げられている (5-6).
linguistic underdeterminacy thesis は,文の意味とそれが実際に伝える伝達内容との間には大きなギャップがあることを前提としている.例えば,次の英文はいずれも文意は理解できたとしても,文脈がない限り伝達内容は多義的である.
(1) You and you, but not you, stand up!
(2a) The authorities barred the anti-globalization demostrators because they advocated violence.
(2b) The authorities barred the anti-globalization demostrators because they feared violence.
(3a) John is looking for his glasses. (「眼鏡」の意)
(3b) John is looking for his glasses. (「グラス」の意)
(4a) They are cooking apples. (「リンゴを料理している」の意)
(4a) They are cooking apples. (「料理用のリンゴ」の意)
(1) は物理的な文脈が与えられていない限り,代名詞 you の指示対象を把握することができない.これは,語用論の主要な話題である直示性 ( deixis ) の問題である.(2) では,they が誰を指すかを正確に読み取るには,背景となる前提を知っていなければならない.(3) は語彙の多義性,(4) は統語の多義性に基づくものである.いずれも正しく理解するには,文脈,現実世界の知識,推論といった語用論的な要素に頼らなければならない.linguistic underdeterminacy thesis の前提を持ち出して語用論を基本構成部門に含めることを是とする Huang の主旨は「文の意味とそれが実際に伝える伝達内容との間には大きなギャップがあり,それを埋める機構の記述がなされなければ言語理論は完成しない.そして,その機構を記述するものがほかならぬ語用論である」ということになろう.
・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.
言語学や英語学は専門化が進み,分野も細分化されている.英語史や歴史英語学という分野は時間軸を中心にして英語を観察するという点で通時的 ( diachronic ) であり,現代英語なら現代英語で時間を止めてその断面を観察する共時的 ( synchronic ) な研究とは区別される.しかし,通時的に言語変化を見る場合にも,言語のどの側面 ( component ) に注目するかというポイントを限らなければないことが多く,共時的な言語研究で慣習的に区分されてきた言語の側面・分野に従うことになる.一口に言語あるいは英語を観察するといっても,丸ごと観察することはできず,その構成要素に分解した上で観察するのが常道である.
理論言語学で基本構成部門 ( the core components ) として区別されている主なものは,以下の5分野だろうか.
・ 音声学 ( phonetics )
・ 音韻論 ( phonology )
・ 形態論 ( morphology )
・ 統語論 ( syntax )
・ 意味論 ( semantics )
言語能力を構成する部門としては確かにこの辺りが基本だが,英語史研究を考える場合,特に近年の言語学・英語学の視点の広がりを反映させる場合,扱われる話題はこの5分野内には収まらない.例えば以下の構成要素を追加する必要があるだろう.
・ 語彙論 ( lexicology )
・ 語用論 ( pragmatics )
・ 筆跡・アルファベット・綴字 ( handwriting, alphabet, and spelling )
・ 書記素論 ( graphemics )
・ 方言学 ( dialectology )
・ 韻律論 ( metrics )
・ 文体論 ( stylistics )
さらに英語史の周辺分野を含めるとなると,控えめにいっても[2009-12-08-1]の関係図にあるような諸分野がかかわってくる.分野の呼称だけであれば,○○学や○○論などと挙げ始めるときりがないだろう.今回,分野の呼称をいくつか列挙してみたのは,いずれの分野においても通時的な変化は観察されるのであり,したがって英語史や歴史英語学においては話題が尽きることはないということを示したかったためである.2年目に突入した本ブログでは,引き続き英語史に関する話題を広く提供してゆきたい.
私見だが,言語に関心のない人はまずいない.日本語でも英語でも,新聞等の記事や投書は,言葉に関する話題に事欠かない.敬語の使い方,漢字の間違い,横文字の氾濫,誤用の指摘,日英語比較,語源豆知識,お国訛り,なんでも話題になる.言語の話題は,概して人々の関心を惹くものだと思っている.
ところが,言語「学」となると不釣り合いに関心の度合いが急落する.文法と聞くとへどが出る,という人も少なくない.言語への関心はあっても言語学への関心は薄いというのが世間の現実である.ここ数日間の記事で Crystal を引用しながら言語の死 ( language death ) にまつわる話題を取り上げてきたが,Crystal は言語の死に対する世間の無関心は,つまるところ世間の言語意識の低さに起因すると指摘している.(特に英語についての)この状況を,次のように分析している.
All language professionals have suffered the consequences of a general malaise about language study which has long been present among the general public --- an inevitable consequence (in my view) of two centuries of language teaching in which prescriptivism and purism produced a mentality suspicious of diversity, variation, and change, and a terminology whose Latinate origins crushed the spontaneous interest in language of most of those who came into contact with it. (Crystal 96)
およそ同じことが日本語あるいは日本人についても言える.規範的な語法,発音,漢字が教育でも社会でも促され,そうでないものは誤りとしてレッテルを貼られる.また,日本語文法でも英文法でも,小難しい文法用語の洪水によって,言語学的な関心がそがれてしまうということは確かにあるだろう.
二つ目のポイントである専門用語については,ある程度は致し方がない.言語学に限らずどの分野でも専門用語は大量に存在するものである.むしろ,言語学では,語学教育を通して他分野よりもその専門用語が一般に広く知られているという事情がある.疎まれるくらいに認知されているというのは,考えようによっては希望がもてる.
だが,一つ目のポイントである規範主義 ( prescriptivism ) と純粋主義 ( purism ) は根が深い.このことを頭では理解している言語学者でも,実際的には prescriptivist であったり purist であったりすることもしばしばである.確かに,慣用上,正しい言葉遣いと誤った言葉遣いの区別はある.だからこそ,世間が話題にする.しかし,正しい言葉遣いがいつでもどこでも正しい言葉遣いであり続けるかどうかは別問題である.言葉に限らずあらゆる慣習において,何が正しくて何が誤っているかの基準は,時と場所に応じて変化する.言語の本質として "diversity, variation, and change" があるにもかかわらず,それがないかのような前提で言語を論じ始めれば,どうしても無理が生じ,議論はつまらないものになるだろう.
難しいのは,多くの場合,言語学への入り口が語学教育にあることだ.語学教育では,"diversity, variation, and change" などと呑気なことをいっていられないのが現実である.学習者は,学ぶべき規準を明確に提示されないと混乱するからだ.だが,例えば英語学習者であれば,スパイスとして英語史の話題をふりかけてみるとよいと思う.英語史は,英語の "diversity, variation, and change" を体系的に一覧にしたものだからである.
私も英語史という一分野を通じて,世の中に遍在する言語への関心を,もう一歩踏み込んで言語学への関心へと引き込むことがでれきばいいなと常々思っている.
今回 Language Death を読み,Crystal は応用言語学者として言語学の実際的な応用を考えるのが本職とは言いつつも,彼の他書にも通底する議論の熱さと啓蒙的な筆致はさすがだなと再評価した.
・Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.
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