英語史研究において,しばしば見過ごされるが,きわめて基本的な事実として,現存する文献資料のムラの問題がある.時代によって文献資料の量や種類に大きな差があるという事実だ.
種類の差といっても,それ自体にも様々なタイプがある.時代によって,文献が書かれている方言が異なる場合もあれば,主立った書き手たちの階級や性など,社会的属性が異なる場合もある.時代によって,媒体も発展してきたし,文章のジャンルも広がってきた.書き表される位相の種類にも,時代によって違いがみられる.
現存する文献資料の言語が,時代によって多種多様であるということは,その言語の歴史を通じての「定点観測」が難しいということである.地域方言に限定して考えても,主たる方言,すなわち「中央語」の方処は,後期古英語期ではウェストサクソンであり,初期中英語期では存在せず,後期中英語期以降はロンドンである.つまり,1つの方処に立脚して一貫した英語史を描くことはできない.
時代ごとに書き言葉の担い手も変わってきた.中世ではものを書くのは,ほぼ聖職者や王侯貴族に限られていたが,中世後期からは,より広く世俗の人々にものを書き記す機会が訪れるようになり,近現代にかけては教育の発展とともに書き言葉は庶民に開かれていった.書き言葉の担い手という側面においても,定点観測の英語史を描くことは難しい.
では,普段当たり前のように使う「英語の歴史」とは何を指すのだろうか.「英語」そのものと同じように「英語の歴史」も,かなりの程度,フィクションなのだろうと思う.英語史は,単なる英語という言語に関する事実の時系列的な記述ではなく,本来は互いに結びつけるには無理のある時空間内の無数の点を,ある程度の見栄えのする図形へと何とか結びつける営為なのではないか.ただし,ポイントはそれらの点をランダムに結ぶわけではないということだ.そこには,自然に見えるための工夫がほしい.自然に見えるということは,おそらく真実の何某かを反映しているはずだ,という希望をもちながら.
本ブログでは,文字の分類について「#422. 文字の種類」 ([2010-06-23-1]),「#2341. 表意文字と表語文字」 ([2015-09-24-1]),「#2344. 表意文字,表語文字,表音文字」 ([2015-09-27-1]) などで,様々な角度から考えてきた.一般的には alphabet は表音文字で,漢字は表意文字(あるいは表語文字とも表形態素文字とも考えられる)と言われるが,アルファベットを1個以上つなぎ合わせてまとまりをなす綴字 (spelling) という単位で考えるならば,それは漢字1文字に相当すると考えられるし,逆に漢字の多くが部首を含めた小さい要素へ分解できるのだから,それらの要素をアルファベットの1文字に相当するものとして見ることも可能である.この点についても,直接・間接に「#284. 英語の綴字と漢字の共通点」 ([2010-02-05-1]),「#285. 英語の綴字と漢字の共通点 (2)」 ([2010-02-06-1]),「#2913. 漢字は Chinese character ではなく Chinese spelling と呼ぶべき?」 ([2017-04-18-1]),「#2043. 英語綴字の表「形態素」性」 ([2014-11-30-1]) などの記事で扱ってきた.
上記は,要するに,表音文字や表意文字というような文字の分類がどこまで妥当なのかという議論である.この問題について,清水 (3) が次のように明快に述べている.
文字はその性質から表音文字 (phonogram) と表意文字 (ideogram) に分けるのが広く一般的に行われている分類法であるが,それは理に適った分類とはいえない.文字は音と意味の結びついた言語記号を表記するものであるから,その一方だけを表すものは定義上文字とはいえない.
表音文字と呼ばれるローマ字や仮名もその文字体系を構成している字の連続によって語を表しているのであり,一方,表意文字の代表とされる漢字もやはりその表す語の音をまた表記していることに変わりはない.したがって,文字体系を分類するならば,その体系を構成する各々の文字が語をどのような単位にまで分析して表記しようとするのかという観点から分類がなされなければならない.たとえば,梵字は音素文字的性質を持つ音節文字であり,ハングルは音節文字的性質を有する音素文字であるというように.
ローマ字のような音素文字の場合でも,その連結によって表そうとするのは音と意味の結合した記号であるから,その綴字と音との間にズレが生じてもその文字としての役割を依然として果たすことができる.すなわち,一音一字という関係が常に保たれるわけではない.
伝統的な文字論における概念や用語は,今後整理していく必要があるだろう.
・ 清水 史 「第1章 日本語史概観」服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.1--21頁.
「#1879. 日本語におけるローマ字の歴史」 ([2014-06-19-1]),「#1892. 「ローマ字のつづり方」」 ([2014-07-02-1]) で見たとおり,日本語のローマ字表記は「現行の方式」「ヘボン式」「標準式」「日本式」「訓令式」などのいくつかのつづり方の間で揺れている.
「現行の方式」は,1954年(昭和29年)12月9日に政府が「ローマ字のつづり方」として告示した「第1表」と「第2表」の二本立てである.この第1表とは次に示す「訓令式」と同一であり,第2表とは後に述べる「標準式」と,訓令式から漏れた部分を「日本式」から補ったものとから成っている.
「ヘボン式」は,1885年(明治18年)に,チェンバレン,外山正一などによって組織された『羅馬字会』が発表した方式で,子音字を英語風に,母音字をイタリア語風に書き表す方法である.ヘボンの『和英語林集成』第3版(1886年)に採用されたため,その名がついた.
「標準式」は,別名「改正ヘボン式」とも呼ばれるように,1908年(明治41年)に,ヘボン式から kwa, gwa, ye, wo を削除したものである.旧国鉄駅名や人名などに広く用いられている.一部が第2表に取り込まれている.
「日本式」は,1886年(明治19年)に田中館愛橘らが羅馬字会に対抗して発表した方式で,日本語の五十音図に基づいている.一部が第2表に取り込まれている.
「訓令式」は,1937年(昭和12年)9月21日に「国語ローマ字綴リ方ニ関スル件」の訓令で示された日本式の変種であり,そのまま第1表となっている.
以下に,訓令式を基準とした訓令式・日本式・ヘボン式の対照表を示そう.日本式は青字 [ ] (特定の語に用いられるものには * を付す),ヘボン式は赤字イタリック体で示した.
ア行 | a | i | u | e | o | |||||
カ行 | ka | ki | ku | ke | ko | kya | kyu | kyo | ||
[kwa]* | ||||||||||
サ行 | sa | si | su | se | so | sya | syu | syo | ||
shi | sha | shu | sho | |||||||
タ行 | ta | ti | tu | te | to | tya | tyu | tyo | ||
chi | tsu | cha | chu | cho | ||||||
ナ行 | na | ni | nu | ne | no | nya | nyu | nyo | ||
ハ行 | ha | hi | hu | he | ho | hya | hyu | hyo | ||
fu | ||||||||||
マ行 | ma | mi | mu | me | mo | mya | myu | myo | ||
ヤ行 | ya | yu | yo | |||||||
ラ行 | ra | ri | ru | re | ro | rya | ryu | ryo | ||
ワ行 | wa | [wo]* | ||||||||
ガ行 | ga | gi | gu | ge | go | gya | gyu | gyo | ||
[gwa]* | ||||||||||
ザ行 | za | zi | zu | ze | zo | zya | zyu | zyo | ||
ji | ja | ju | jo | |||||||
ダ行 | da | zi | zu | de | do | zya | zyu | zyo | ||
[di] | [du] | [dya] | [dyu] | [dyo] | ||||||
ji | ja | ju | jo | |||||||
バ行 | ba | bi | bu | be | bo | bya | byu | byo | ||
パ行 | pa | pi | pu | pe | po | pya | pyu | pyo |
標題は,意外と混乱を招きやすい用語群である.すでに,野村に基づいて「#3314. 英語史における「言文一致運動」」 ([2018-05-24-1]) でも取り上げたが,改めて整理しておきたい.
まず,「話し言葉」と「書き言葉」の対立について.これについては多言を要しないだろう.ことばを表わす手段,すなわち媒体 (medium) の違いに注目している用語であり,音声を用いて口頭でなされるのが「話し言葉」であり,文字を用いて書記でなされるのが「書き言葉」である.それぞれの媒体に特有の事情があり,これについては,以下の各記事で扱ってきた.
・ 「#230. 話しことばと書きことばの対立は絶対的か?」 ([2009-12-13-1])
・ 「#748. 話し言葉と書き言葉」 ([2011-05-15-1])
・ 「#849. 話し言葉と書き言葉 (2)」 ([2011-08-24-1])
・ 「#1001. 話しことばと書きことば (3)」 ([2012-01-23-1])
・ 「#1665. 話しことばと書きことば (4)」 ([2013-11-17-1])
・ 「#1829. 書き言葉テクストの3つの機能」 ([2014-04-30-1])
・ 「#2301. 話し言葉と書き言葉をつなぐスペクトル」 ([2015-08-15-1])
・ 「#3274. 話し言葉と書き言葉 (5)」 ([2018-04-14-1])
誤解を招きやすいのは「口語体」と「文語体」の対立である.それぞれ「体」を省略して「口語」「文語」と言われることも多く,これもまた誤解の種となりうる.「口語」=「話し言葉」とする用法もないではないが,基本的には「口語(体)」も「文語(体)」も書き言葉に属する概念である.書き言葉において採用される2つの異なる文体と理解するのがよい.「口語(体)」は「口語的文体の書き言葉」,「文語(体)」は「文語的文体の書き言葉」ということである.
では,「口語的文体の書き言葉」「文語的文体の書き言葉」とは何か.前者は,文法,音韻,基礎語彙からなる言語の基層について,現在日常的に話し言葉で用いられているものに基づいて書かれた言葉である(基層については「#3312. 言語における基層と表層」 ([2018-05-22-1]) を参照).私たちは現在,日常的に現代日本語の文法,音韻,基礎語彙に基づいて話している.この同じ文法,音韻,基礎語彙に基づいて日本語を表記すれば,それは「口語的文体の書き言葉」となる.それは当然のことながら「話し言葉」とそれなりに近いものにはなるが,完全に同じものではない.「話し言葉」と「書き言葉」は根本的に性質が異なるものであり,同じ基層に乗っているとはいえ,同一の出力とはならない.「話すように書く」や「書くように話す」などというが,これはあくまで比喩的な言い方であり,両者の間にはそれなりのギャップがあるものである.
一方,「文語的文体の書き言葉」とは,文法,音韻,基礎語彙などの基層として,現在常用されている言語のそれではなく,かつて常用されていた言語であるとか,威信のある他言語であるとかのそれを採用して書かれたものである.日本語の書き手は,中世以降,近代に至るまで,平安時代の日本語の基層に基づいて文章を書いてきたが,これが「文語的文体の書き言葉」である.中世の西洋諸国では,書き手の多くは,威信ある,しかし非母語であるラテン語で文章を書いた.これが西洋中世でいうところの「文語的文体の書き言葉」である.
以上をまとめれば次のようになる.
┌── (1) 話し言葉 言葉 ──┤ │ ┌── (3) 口語(体) └── (2) 書き言葉 ──┤ └── (4) 文語(体)
言葉は,媒体の観点から大きく「話し言葉」と「書き言葉」に分かれる.書き言葉はさらに,フォーマリティの観点から「口語体」と「文語体」に分かれる.野村 (5) を参照して図示すると次の通り.
┌── 話し言葉 言葉 ──┤ ┌── 口語体 └── 書き言葉 ──┤ └── 文語体
標題は生成文法を語ろうとしているわけではない.言語を構成する諸部門を大きく2つの層に分けると,それぞれを「基層」「表層」と名付けられるだろうというほどのものだ.しかし,言語学上,この2区分の波及効果は大きい.野村 (12) の説明が明快である.
ある言語(方言で考えてもらってもよい)のさまざまな要素は,おおむねその言語の基層と表層に振り分けられる.文法や音声・音韻や基礎的な語彙は,基層に属する.文化的な(「高級な」)語彙,言い回し・表現法(広義のレトリック),文体などは,表層に属する.ある言語の使い手は,基層に属する部分を子供時代に無意識的に習得してしまう.表層に属する部分は,教育と学習によって徐々に身につける.独創ともなれば,なおさらの努力が必要である.
基層と表層の区別が,言語習得における段階と連動していることはいうまでもない.また,この区別は,話し言葉と書き言葉の区別,あるいは書き言葉のなかでの口語体と文語体の区別とも連動することが,続く野村の文章で触れられている (12) .
書き言葉口語体は,文化語彙,言い回し・表現法,文体などの表層部分では,必ずしも話し言葉には従っていない.しかし,基層に属する文法や音声・音韻,基礎語彙などの面で,話し言葉のそれらに従っている.一方,「文語体」(古典語をもとにした文語体)は,文法,音韻,基礎語彙などの面で,古典語のそれらに従っているのである.
基層と表層の区別はまた,他言語からの借用に対して開かれている程度にも関係するだろう.基層は他言語からの干渉を比較的受けにくいが,表層では受けやすいということはありそうだ.この問題については,「#902. 借用されやすい言語項目」 ([2011-10-16-1]),「#1780. 言語接触と借用の尺度」 ([2014-03-12-1]),「#2011. Moravcsik による借用の制約」 ([2014-10-29-1]) の記事や,「#2067. Weinreich による言語干渉の決定要因」 ([2014-12-24-1]) も参照されたい.
・ 野村 剛史 『話し言葉の日本史』 吉川弘文館,2011年.
話し言葉と書き言葉の対立について,「#3274. 話し言葉と書き言葉 (5)) ([2018-04-14-1]) に掲げたリンク先の記事で様々に取り上げてきた.書き言葉の特徴と,その特徴がなぜあるのかについて,改めて考えてみたい.
野村 (8) によれば,話し言葉と比較される書き言葉の特徴として,以下の3点があるという.
(1) 内容が整理され,文体が洗練される.
(2) 上品になる.パブリックな場の表現である.
(3) 対・聞き手表現が減じる.
(1) には,順序や論理の考慮,引き締まった表現,語彙の選択,単調さを避ける工夫などが含まれる.(2) は,言葉遣いがフォーマルになるということである.(3) は,命令・依頼・問い掛けや間投詞などが減るということである.これらは程度の問題ではあるが,確かに書き言葉の本質的な特徴といってよい.
では,なぜこれらの特徴が古今東西の書き言葉において共通して見られるのだろうか.なぜこれらが書き言葉の本質的な特徴なのだろうか.野村 (10) は,次のように述べる.
まず,話し言葉では目前の聞き手,話題の現場や共通の了解など,言葉を発する以前に共有している事柄・知識の援助が期待できる.それにもたれかかれば,特に (1) の必要性は大いに減ずる.一方,書き言葉は,話し言葉と異なって文字に定着する.それは不特定の人々の目にさらされる可能性がある.初めから人々を意識して表現される場合もある.話し言葉であっても,大勢の人々の前で話すとなると改まりが生じる.人々の目にさらされることへの意識は,重要である.しかし,文字への定着ということの最も大切な特性は,それが書き手自身の目にさらされるという点にある.
「旅の恥はかき捨て」という言葉がある.話し言葉というのはもっとひどい.それは,語るそばから消えてしまう言語である.いわば言語の垂れ流しである.しかし,書き言葉ではそうはいかない.文章を書いてみるとわかることだが,何だかよそよそしく対象化された言語がそこにあるという感じになる.それは「洗練」を行いやすくもするが,同時に洗練せざるを得ないという状況も作り出すのである.
書き言葉は必然的に書き手自身の目に触れることになり,それゆえに書き手に洗練を迫るものなのだという議論は,非常に鋭い洞察である.人に見られる緊張感よりも,必ず自分の目に入ってしまう恐怖感のほうが強いということだろうか.「#1065. 第三者的な客体としての音声言語の特徴」 ([2012-03-27-1]) の記事で,音声言語を「第三者的な客体」ととらえたが,考えてみれば,書き言葉は書かれてしまえばそこにずっととどまるのだから,余計に第三者的な客体であると考えられる.新しい書き言葉観を得られた気がする.
・ 野村 剛史 『話し言葉の日本史』 吉川弘文館,2011年.
話し言葉と書き言葉は言語の2大メディアだが,それぞれに特有の,情報を整序し意味を伝える形式的なデバイスが存在する.英語に関するものとして,Stubbs (117) がいくつか列挙しているので,Milroy and Milroy (117--18) 経由で示そう.
Speech (conversation): intonation, pitch, stress, rhythm, speed of utterance, pausing, silences, variation in loudness; other paralinguistic features, including aspiration, laughter, voice quality; timing, including simultaneous speech; co-occurrence with proxemic and kinesic signals; availability of physical context.
Writing (printed material): spacing between words; punctuation, including parentheses; typography, including style of typeface italicization, underlining, upper and lower case; capitalization to indicate sentence beginnings and propoer nouns; inverted commas, for instance to indicate that a term is being used critically (Chimpanzees' 'language' is. . . .); graphics, including lines, shapes, borders, diagrams, tables; abbreviations; logograms, for example, &; layout, including paragraphing, spacing, margination, pagination, footnotes, headings and sub-headings; permanence and therefore availability of the co-text.
このようなデバイスのリストは,両メディアを比較対照して論じる際にたいへん有用である.本ブログでも,この種の比較対照は多くの記事で取り上げてきた話題なので,主たるものを参考のため,以下に示しておこう.
・ 「#230. 話しことばと書きことばの対立は絶対的か?」 ([2009-12-13-1])
・ 「#748. 話し言葉と書き言葉」 ([2011-05-15-1])
・ 「#849. 話し言葉と書き言葉 (2)」 ([2011-08-24-1])
・ 「#1001. 話しことばと書きことば (3)」 ([2012-01-23-1])
・ 「#1655. 耳で読むのか目で読むのか」 ([2013-11-07-1])
・ 「#1665. 話しことばと書きことば (4)」 ([2013-11-17-1])
・ 「#1829. 書き言葉テクストの3つの機能」 ([2014-04-30-1])
・ 「#2301. 話し言葉と書き言葉をつなぐスペクトル」 ([2015-08-15-1])
・ Milroy, Lesley and James Milroy. Authority in Language: Investigating Language Prescription and Standardisation. 4th ed. London and New York: Routledge, 2012.
・ Stubbs, M. Language and Literacy: The Sociolinguistics of Reading and Writing. London: Routledge & Kegan Paul, 1980.
標題はふと抱いた疑問なのだが,歴史言語学の evidence を巡る問題として考えてみるとおもしろいのではないか.念頭に置いているのは英語であり,すべての言語に当てはまるわけではないだろうが,似たようなことは少なからぬ言語の研究において当てはまるのではないか.
通常,現存する最初期の文献の多くは韻文であることが多い.たいてい韻文とは,書き記されたその時代においてすら古風とされる文学語であり,当時の話し言葉をそのまま反映しているものと解釈することはできない.しかし,時代が下るにつれ,とりわけ近代にかけて西洋のように言文一致風の散文が発達した場合には,つまり書き言葉と話し言葉の差が比較的縮まってくるような文化にあっては,書き記された記録から話し言葉の実体を取り出すことが,もっと容易になってくる.全体として,時間とともに,話し言葉の evidence へのアクセスが保証されるようになってきたようにみえる.
しかし,一方で近代にかけて,標準語というものが発達してきた事実がある.書き手は,発達してきた散文において,自らの母語や母方言とは言語的に隔たりのある標準語で書くことを余儀なくされる.すると,現代の研究者が目にしている彼らのものした散文は,確かに韻文と比べれば日常の話し言葉を反映している可能性が高いとはいえ,彼らの自然の母語が反映されているわけではなく,教育によって矯正された言語変種,ある種の不自然な話し言葉変種が反映されているにすぎないともいえる.その意味では,そのような証拠から彼らの「素の」日常的な話し言葉を取り出すことは難しくなっていると言えるのでないか.全体として,時間とともに,素の話し言葉の evidence へのアクセスが妨げられるようになってきたと考えられる.
さらに議論を続ければ,散文の文体としても,時代が下るにつれ pragmatic mode あるいは informal discourse から syntactic mode あるいは formal discourse へと推移する "syntacticization" の傾向を指摘する Givón のような論者もある (Schaefer 1277) .話し言葉の気取らない pragmatic/informal な性質は,syntactic/formal を指向する近現代の書き言葉とは相容れないという見方も説得力がある.
上記のプラスとマイナスを印象的に総合すると,日常的な話し言葉へのアクセシビリティは,たとえば3歩進んで2歩下がるというくらいのペースで進んできたとは言えないだろうか.通言語的にこのような一般論が語れるかどうかは怪しいかもしれないが,歴史言語学の evidence を巡る問題として一般的に論じるに値するテーマではないだろうか.
・ Schaefer, Ursula. "Interdisciplinarity and Historiography: Spoken and Written English --- Orality and Literacy." Chapter 81 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1274--88.
21世紀入ってから,謎とされていた民族,ソグド人の研究が賑やかになってきている.1999年に山西省太原で随の虞弘墓の発掘があり,墓室から発見されたソグドの壁画に,美術史家や考古学者が関心を示したのがきっかけである.ソグド人の話していたソグド語(Sogdian; この言語名の英語での初出は1909年)や,表記されたソグド文字についても,少しずつ研究が進んできているらしい.
ソグド語は現在では死語となっているが,歴史的には紀元前300年頃から紀元900年頃にかけて中央アジアのソグディアナ (Sogdiana) で行なわれていたとされる.歴史的なソグディアナはアラル海へと注ぐ中央アジアの2大河,アム河 (Amu Dar'ya) とシル河 (Syr Darya) に挟まれた地域を指し,首邑はサマルカンドである.現在の,ウズベキスタンとタジキスタン辺りに相当する.
ソグド語は中央イラン語群に属し,南西イラン語群に属する歴史的に強大なペルシア語とは言語的に隔たりがある.イラン語派については「#1452. イラン語派(印欧語族)」 ([2013-04-18-1]) の記事や「#1146. インドヨーロッパ語族の系統図(Fortson版)」 ([2012-06-16-1]) の樹形図を参照されたい.
ソグド語はソグディアナにおいて優勢な言語ではあったが,ソグド人は統一国家をなさなかったので標準語というべきものは成立しなかった.ソグド語はイスラーム化とともに失われ,サマルカンドでも10世紀までにペルシア語に取って代わられた.
ソグド語の現存する文献として,20世紀の初めにドイツのトルファン探検隊により発見された文書がある.コインの銘文などを除けば,313年頃に書かれた「古代書簡」が現存する最古の文献とされていたが,近年さらに古い紀元2世紀のものとされる碑文がみつかった.
ソグド語が表記されているソグド文字は,アラム文字の系統を引き,それと同じ22文字からなっていた.その書字方向について「#2449. 書字方向 (2)」 ([2016-01-10-1]) では右横書きの言語として触れたが,実際には時代によって変化したようだ.紀元2世紀の古い文書では実際に右横書きだったと考えられているが,6世紀以降の碑文では左縦書きが普通となっている.
ソグド文字に関して興味深いのは,アラム語の単語をアラム語通りに綴って,それをソグド語で「訓読」する例があったことだ.「送りがな」が添えられているものもある.ただし,そのように訓読される語彙は20語ほどと限定されていた.
ザラフシャン河の上流ヤグノブ渓谷でヤグノブ語 (Yagnobi) という言語が現在でも1万2千人ほどの話者により行なわれているが,この言語は歴史的なソグド語と近縁である.当時,ソグド語は地域の共通語的な地位にあったが,その方言の1つとしてヤグノブ語の祖先があったという関係である.
ソグドは,日本との関連でいえば正倉院宝物として知られる「酔胡王」の伎楽面や「漆胡瓶」に文化の痕跡を残している.これらは唐より伝わったものだが,当時の唐では「胡」の名前のつくもの(胡人,胡姫,胡複,胡食,胡旋舞)が大流行していた.この「胡」とは,従来はペルシア(人)を指すものと理解されていたが,近年の研究によるとほぼソグド(人)を指していると考えてよいという.シルクロードの大動脈のど真ん中で交易に従事していたのが,このソグド人だったのである.
以上,主として吉田を参照して執筆した.
・ 吉田 豊 「ソグド人の言語」『ソグド人の美術と言語』 (曽布川 寛・吉田 豊(編)) 臨川書店,2011年.80--118頁.
『クロニック世界全史』 (246--47) に「無文字文化と文字文化」と題する興味深いコラムがあった.文化人類学では一般に,言語社会を文字社会と無文字社会に分類することが行なわれているが,この分類は単純にすぎるのではないかという.もう1つの軸として「歴史を必要とする」か否か,歴史叙述の意志をもつか否かというパラメータがあるのではないかと.以下,p. 247より長めに引用する.
歴史との関連でいえば,文字記録は歴史資料としてきわめて重要なものだが,人類史全体での文字使用の範囲からいっても,文字記録がのこっている度合いからいっても,文字記録のみによって探索できる歴史は限られている.考古学や民族〔原文ノママ〕学(物質文化・慣習・伝説や地名をはじめとする口頭伝承などの比較や民族植物学的研究)などの非文字資料にもとづく研究が求められる.文字を発明しあるいは採り入れて,出来事を文字によって記録することを必要とした,あるいはその意志をもった社会と,そうでなかった社会とは,歴史の相においてどのような違いを示すかが考えられなければならない.
出来事を文字を用いて記録する行為は,直接の経験をことばと文字をとおして意識化し,固定して,のちの時代に伝える意志をもつことを意味する.文字記録が,口頭伝承をはじめ生きた人間によって世代から世代へ受けつがれていく伝承と著しく異なるのは,出来事を外在化し固定する行為においてであるといえる.文字が図像のなかでも特別の意味をもっているのは,言語をとおして高度に分節化されたメッセージを「しるす」ことができるからである.
出来事を文字に「しるす」社会が,時の流れのなかに変化を刻み,変化がもたらすものを蓄積していこうとする意志をもっているのにたいし,伝承的社会,つまり集合的な仕来りを重んじる社会は,新しく起こった出来事も仕来りのなかに包みこみ,変化を極小化する傾向をもつといえる.このような伝承的社会は,日本をはじめいわゆる文字社会のなかでも無も時的な層としてひろく存在しており,これまで民俗学者の研究対象となってきた.
従来,多くの歴史学者が出来事の文字記録の誕生に歴史の発生を結びあわせ,アフリカ,オセアニアなど文字記録を生まなかった社会を「歴史のない」社会とみなしてきたのも,経験を意識化し,過去を対象化する意志に歴史意識の発生をみたからだろう.しかしこのような見方は,正しさを含んではいるが,あまりに一面的である.文字記録のない社会でも,王制をもつ社会のように,口頭伝承や太鼓による王朝史などの歴史語りを生んできた社会は,それなりに「歴史を必要とした」社会である.そして,そのような権力者が現在との関係で過去を意識化し,正当化して広報する必要のある社会では,王宮付きの伝承者や太鼓ことばを打つ楽師によって,文字記録に比べられる長い歴史語りの「テキスト」が作られ,伝えられてきた.
そのような過去との緊張ある対話を必要としない社会,つまり熱帯アフリカのピグミー(ムブティなど)や極北のエスキモー(イヌイットなど)のように,平等な小集団で狩猟・採集の遊動的な生活を営んできた社会は,無文字社会のなかでもまた「歴史を必要としなかった」社会ということができる.
このようにみてくると,文字社会,無文字社会という区別は絶対的なものではないことがわかる.いわゆる文字社会のなかにも無文字的な層があるのと同時に,無文字社会にも「歴史を必要とする」という限りで,文字社会と共通する部分があるのだから.このような二つの層,ないし部分は,時代とともに,すべてが文字性の側に吸収されていくのが望ましいとはいえない.人間のうちで,歴史とのつながりでいえば出来事を意識化して変化を生むことを志向する,文字性に発する部分と,「今までやってきたこと」のくりかえしに安定した価値を見いだす,無文字性に根ざす部分とは,あい補う関係で人類の社会をかたちづくってきたし,これからもかたちづくっていくだろう.
ここで述べられている,文字社会・無文字社会の区別と,歴史叙述の意志の有無という区別をかけ合わせると,次のような図式になるだろう.
「歴史を必要とする」社会 | 「歴史を必要としない」社会 | |
---|---|---|
文字社会 | (1) 従来の「文字社会」 | (2) 歴史を記さない文字社会 |
無文字社会 | (3) 口頭のみの歴史伝承をもつ社会 | (4) 従来の「無文字社会」 |
3--4世紀,書記の歴史において重大な2つの事件が起こった.巻物 (scroll) に代わって冊子 (codex) が,パピルス (papyrus) に代わって羊皮紙 (parchment) が現われたことである.書写材料とその使い方において劇的な変化がもたらされた.まず,「巻物→冊子」の重要性について,『印刷という革命』の著者ペティグリー (19--20) は次のように述べている.
巻物が冊子へと変わってゆくプロセスは段階的なものだったが,その変化がもたらしたインパクトたるや,数世紀後の印刷術の発明に勝るとも劣らぬほど大きなものであった.冊子が人気を博したのは,便利だったからである.紙の裏面にも書き込めるから,巻物より場所を取らない.それに破損しにくいし,もし傷ついた箇所があっても,簡単にページの差し替えができた.また蔵書は積み上げるか棚に並べるかして保管できるので,どの巻かすぐに見分けがついた.このように冊子状の本は,巻物と比べると,はるかに図書館(室)での収蔵と管理が容易だったのである.さらに冊子は,筆写のために分割もできたし,逆にさまざまなテクストを好みの順番で一冊にまとめることも,簡単にばらばらにして順番を入れ替えることもできた.要するに柔軟性と耐久性に富んでいたのである.
冊子は実用的であったばかりではない.巻物よりも,はるかに洗練された知的アプローチが可能だった.なにより,多様な読み方ができた.巻物だと,最初から順を追って読んでゆくよりほかないが,冊子ならぱらぱらとめくって拾い読みができる.読者はテクストのある箇所から別の箇所へと,望むままに移動してゆけるから,深い思索を展開できる.冊子は,物語ばかりでなく,知的な手段も提供したのである.
続けて,「パピルス→羊皮紙」についても言及している (20--21) .
冊子形式の本が成功した理由には,もろくて摩滅しやすいパピルスに替えて,より耐性のある記録媒体を採用したこともあった.パピルスの代わりに,徐々に羊皮紙が用いられるようになった.〔中略〕
羊皮紙はまた強度が高く,耐久性にも優れていたため,分量の多いテクストや,豊かな装飾を施した文章に用いることができた.
このような技術的革新により,書くこと,読むことの意義が変わっていった.また,古文書が朽ちずに現在まで存続することにもなった.まさに,歴史を可能ならしめた革新だったといえよう.
書写材料の話題については,「#2456. 書写材料と書写道具 (1)」 ([2016-01-17-1]) と「#2457. 書写材料と書写道具 (2)」 ([2016-01-18-1]) ,「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]),「#2931. 新しきは古きを排除するのではなく選択肢を増やす」 ([2017-05-06-1]),「#2933. 紙の歴史年表」 ([2017-05-08-1]) も参照されたい.
・ ペティグリー,アンドルー(著),桑木 幸司(訳) 『印刷という革命 ルネサンスの本と日常生活』 白水社,2015年.
書き言葉の発生,すなわち文字の発生は,実用本位のものか,儀礼的なものか.この究極の問題について,Nicholas et al. が明快な議論を展開している.論文のアブストラクトがよい要約になっているので,引用しよう (459) .
A comparison of the evidence for the earliest scripts in different parts of the world suggests that an apparent preponderance of ceremonial; and symbolic usage should not be interpreted too literally. It seems to have more to do with archaeological preservation --- the better survival in archaeological contexts of the durable materials preferred as vehicles for ceremonial texts --- than with any deep-seated differences in the function of the scripts. It may well be that the earliest Chinese, Egyptian or Mesoamerican texts were largely as utilitarian in their application as those of Mesopotamia.
論文では,上記と関連する言及がそこかしこに点在している.
Some materials survive better than others, and for various reasons scribes chose relatively perishable substances for utilitarian texts, and more permanent vehicles for more formal ones. They were guided not only by the substance's durability, but also by its value and its convenience. Carving an inscription in stone improves its chance of survival for posterity; furthermore, the material may have been chosen for its intrinsic value (whether aimed at the inscription, or at the object, like a bowl or a statue, on which the inscription is found); and the labour of carving the text on a stone is itself an enhancement of the value of the object. As a general rule, therefore, we may expect surviving inscriptions to be those serving ceremonial purposes and found on durable materials. (472)
The main factor in deciding which script style was to be used was not purely the tools and media used for writing but also the content of the text. Likewise the amount of time devoted to a particular inscription (in turn reflecting the value attached to the text) will have had an effect on the form of the script used, with formality on ceremonial, informality on utilitarian vehicles: thus bones and tortoise-shells, though still formal, have more narrative content and generally have more cursive characters than the bronzes. (477)
The medium based for writing depended largely upon the content of the message. Because of the differential preservation of writing media, formal ceremonial texts, written on more durable substances, dominate in the archaeological record, giving a biased picture of the uses of early writing. The occasional survival of more perishable substances, together with certain other evidence, helps to correct this bias. (478--79)
そして,結論として "[T]he stimulus to move from individual symbols or emblems to a coherent writing system is more likely to have come from the needs of administration than from a wish to disseminate propaganda." (479) と述べている.書き言葉は,あくまで実用本位で生まれてきたという明快な結論だ.
この議論は,古生物学において生き残りやすい化石の種類を考察する化石生成学 (taphonomy) の発想と酷似している.「#2865. 生き残りやすい言語証拠,消えやすい言語証拠――化石生成学からのヒント」 ([2017-03-01-1]) を参照されたい.また,文字の起源と発達を考慮するにあたっての書写材料の重要性については,「#2456. 書写材料と書写道具 (1)」 ([2016-01-17-1]),「#2457. 書写材料と書写道具 (2)」 ([2016-01-18-1]),「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]),「#2933. 紙の歴史年表」 ([2017-05-08-1]) を要参照.
・ Postgate, Nicholas, Tao Wang, and Toby Wilkinson. "The Evidence for Early Writing: Utilitarian or Ceremonial?" Antiquity 69 (1965): 458--80.
連日,長田順行(著)『暗号大全』を参照しているが,言語と文字について論じる上で,暗号(学)が多くのインスピレーションを与えてくれることに驚いている.今回は,様々な種類の暗号を「文字言語の構成要素と暗号形式の対応」関係により整理・分類した長田の表を示したい (29) .
文字言語の構成要素と人為的操作 | 形式名 | 見かけ上の特徴 | ||
---|---|---|---|---|
一定の文字 | → | 別の文字で代用 | 換字式 | 暗号らしい暗号(一般的な暗号) |
一定の順序 | → | 順序の入替え | 転置式 | 暗号らしい暗号(一般的な暗号) |
→ | 別の文字を挿入 | 分置式 | 暗号らしくない暗号(特殊な暗号) | |
一定の意味 | → | 別の意味に変換,あるいは遠回しに表現 | 隠語・隠文式 | 暗号らしくない暗号(特殊な暗号) |
上記の組み合わせ | 混合式 | 暗号らしくない暗号(特殊な暗号) |
略語表記は英語でも日本語でも花盛りである.「#889. acronym の20世紀」 ([2011-10-03-1]),「#2982. 現代日本語に溢れるアルファベット頭字語」 ([2017-06-26-1]) でみたように,頭字語と呼ばれる acronym や initialism などは新聞や雑誌などに溢れている.確かに略語表記は現代に顕著だが,その存在は古くから確認される.西洋ではギリシア・ローマの時代に遡り,その起こりこそ筆記に要する空間・時間の節約や速記といった実用的な用途にあったかもしれないが,やがて宗教的な目的,秘匿の目的にも用いられるようになった.長田 (43--44) は,暗号との関連から略語について次のように論じている.
略語は,このように第三者に対する秘匿とは別の目的から使用され,発達してきたが,略語そのものがあまり慣用されていないものであったり,略語の種類が増加してくると,略語表を見ないと元の意味がとれない場合が生じる.また,簡略化によるものや書き止めによる略語(書きかけのまま中途で止めて略語とするもの)には,それが略語であることを示すために単語上や語末に傍線を入れて注意を喚起するようなことが行なわれた.
じつは,この不便さが一方では秘匿の目的に略語が使用されることにつながるのである.
AIDS や EU であれば多くの人が見慣れており相当に実用的といえるが,最近目につくようになったばかりの EPA(Economic Partnership Agreement; 経済連携協定)や ICBM(Inter-Continental Ballistic Missile; 大陸間弾道弾)では,必ずしも多くの人が何の略語なのか,何を指すのかを認識していないかもしれない.かすかなヒントがあると言い張ることはできるかもしれないが,暗号に近いといえるだろう.
では,AIDS や EU はなぜ認知されやすいのかといえば,繰り返し用いられてきたからである.当初は事実上の暗号に等しかったろうが,それでも構わずに使い続けられていくうちに,多くの人々が慣れ,認知するに到ったということである.これは非暗号化の過程とみることもできるだろう.「これらの略語も繰り返し使用したのでは,秘匿の効果が薄れてしまうことはいうまでもない」(長田,p. 45).
・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.
通常,少数の人によってしか共有されていない文字を指して暗号と呼ぶが,標題のように裏からとらえて「文字は公認の暗号である」と表現することもできる.これは,みごとな逆転の発想である.長田 (136--37) を引用する.
音声言語を表記するためにどのような文字を使用するかはどうでもよいことであって,要はその文字の使い方が首尾一貫していれば,記号としての役目を果たすことができる.フェルディナン・ド・ソシュールは,「記号の不易性と可易性」について次のように述べている.「能記は,その表はす観念と照し合はす時は,自由に選ばれたものとして現はれるとすれば,逆にこれを用ひる言語社会と照し合はす時は,自由ではなくて,賦課されたものである.社会大衆は一つも相談にあづからず,言語の選んだ能記は他のものと代へるわけにはいきかねる.この矛盾を含むかに思はれる事実は,平たくいへば『脅迫投票』とでもいふべきか.言語に向って『選びたまへ』と言つたそばから,『この記号だぞ,ほかのでなくて』と附加へる」(小林英夫訳『言語学原論』)
これはそのまま換字式暗号にあてはまる原理である.変換する記号としてはどのようなものを選んでもさしつかえないが,一度選んだならば,その規約を使用する間はけっして変更することは許されない.ただ換字式暗号の違う点は,言語とその表記の関係が第三者に秘匿されていることである.
一般に文字言語を「社会公認公用の暗号法」と呼ぶのは,このような相対関係によるものである.
また,次のようにも述べている (137--38)
ウェルズは,その『世界史』に,「文字は,それが発明されたとき,初めのうちは関係の人だけの秘密通信に使われていた」と書いている.これは,識字率の低い間は文字そのものが秘密の表記であったことを的確にとらえた言葉である.
文字も暗号も恣意的な記号であるという点では共通している.顕著な差異を1つ挙げるとすれば,文字は通常多数の人に共有されているが,暗号は少数の人にしか知られていないということだろう.それを知っている人の数というパラメータを度外視すれば,文字はすなわち暗号であり,暗号はすなわち文字であるといえる.言語学的文字論と暗号学がいかなる相互関係にあるのか,一気に呑み込めた気がする.
関連して,「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]),「#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性」 ([2016-09-17-1]) と「#2701. 暗号としての文字」 ([2016-09-18-1]) も参照されたい.
・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.
「#574. punctuation の4つの機能」 ([2010-11-22-1]) で,Crystal の英語百科事典から句読法 (punctuation) の4つの機能を紹介した.同じ Crystal が,句読法を徹底的に論じた著書 Making a Point の最後に近いところで,別の切り口から句読法の機能の多様性を力説している.
For a long time, . . . people thought there were only two functions to punctuation: a guide to pronunciation and a guide to grammar. There are far more . . . . There is a ludic function, seen in poetry, informal letters, and many online settings where people are playing with punctuation. There is a psycholinguistic function, facilitating easy processing by writer and reader. There is a sociolinguistic function, contributing to rapport between users. There is a stylistic function, providing genres with some of their orthographic identity. (346)
句読点の働きは,発音や文法のガイド以外にもあるという.例えば,遊びとしての句読点がある.携帯メールなどで用いられる「#808. smileys or emoticons」 ([2011-07-14-1]) の一部にみられるような,ジョークとしての句読点使用などがこれに当たるだろう.
心理言語学的な機能としては,例えば節と節を分ける際に,ルールとしては必ずしもカンマを挿入する必要がない場合でも,長さによっては読み手の解析のしやすさに配慮してカンマを挿入するほうがよいケースがあるだろう.
社会言語学的な機能,あるいは社会語用論的な機能といってもよいかもしれないが,例えば携帯メールなどで感情を表わす smileys を文末に添えることによって,相手との関係調整を行なうようなケースがある.
文体的な機能とは,例えば携帯メールのテキストに特有の句読法を用いることにより,それが携帯メールのテキストというジャンルに属することを標示するというようなケースを指す.
考えてみれば,これらは句読法の機能であるばかりか,およそ綴字の機能でもあるといってよい.句読法,綴字,文字などの書き言葉の要素は,それぞれ実に多種多様な機能を果たしているのである.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
英語の分かち書きについて,以下の記事で話題にしてきた.「#1112. 分かち書き (1)」 ([2012-05-13-1]),「#1113. 分かち書き (2)」 ([2012-05-14-1]),「#2695. 中世英語における分かち書きの空白の量」 ([2016-09-12-1]),「#2696. 分かち書き,黙読習慣,キリスト教のテキスト解釈へのこだわり」 ([2016-09-13-1]),「#2970. 分かち書きの発生と続け書きの復活」 ([2017-06-14-1]),「#2971. 分かち書きは句読法全体の発達を促したか?」 ([2017-06-15-1]) .
現代的な語と語の分かち書きは,古英語ではまだ完全には発達していなかったが,語の分割する方法は確かに模索されていた.しかし,ある方法をとるにしても,その使い方はたいてい一貫しておらず,いかにも発展途上という段階にみえるのである.1例として,空白とともに中点 <・> を用いている Bede の Historia Ecclesiastica, III, Bodleian Library, Tanner MS 10, 54r. より冒頭の4行を再現しよう(Crystal 19).
ÞA・ǷÆS・GE・WORDENYMB
syx hund ƿyntra・7feower7syxtig æft(er) drihtnes
menniscnesse・eclipsis solis・þæt is sunnan・aspru
ngennis・
then was happened about
six hundred winters・and sixty-four after the lord's
incarnation・(in Latin) eclipse of the sun・that is sun eclipse
まず,空白と中点の2種類の分かち書きが,一見するところ機能の差を示すことなく併用されているという点が目を引く.また,現代の感覚としては,分割すべきところに分割がなく(7 [= "and"] の周辺),逆に分割すべきでないところに分割がある(題名の GE・WORDENYMB にみられる接頭辞と語幹の間)という点も興味深い.
空白で分かち書きする場合,手書きの場合には語と語の間にどのくらいの空白を挿入するかという問題があり,狭すぎると分割機能が脅かされる可能性があるが,中点は(前後の文字のストロークと融合しない限り)狭い隙間でも打てるといえば打てるので,有用性はあるように思われる.
中点は,英語に限らず古代の書記にしばしば見られたし,自然な句読法の1つといってよいだろう.現代日本語でも,中点は特殊な用法をもって活躍している.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
日本語では段落の始めは1字下げして書き始めるのが規範とされている.近年この規範と実践が揺れ始めている件については,「#2848. 「若者は1字下げない」」 ([2017-02-12-1]) の記事で触れた.では,英語についてはどうだろう.
英語の本を読んでいるとわかるとおり,通常,段落開始行は数文字程度の字下げが行なわれている.しかし,これには別の作法もある.例えば,字下げは行なわない代わりに,段落を始める語の頭文字を他の文字よりも大きくして(ときに複数行の高さで)目立たせるやり方,すなわち "drop capital" の使用がある.これは,中世の写本において,同じ目的で用いられた大きな装飾文字に起源をもつ.あるいは,その変種と考えられるが,雑誌や新聞の記事でよくお目にかかるように,最初の1語か数語をすべて大文字で書くという方法もある.
もう1つ注意すべきは,字下げも行なわず,かつ特別な目立たせ方もしないで段落を開始することがあるということだ.それは,章や節の第1段落においてである.章や節の題名を示す行の直後では,そこが新段落の始めであることは自明であり,特別な合図をせずともよいということだ.日本語では第1段落といえども律儀に1字下げをするので,英語のこの流儀はいかにも合理性を重んじているかのように感じられる.
私も長らくこの英語書記の合理性に感じ入っていたが,歴史的にはそれほど古い流儀ではないようだ.Crystal (131) によると,100年ほど前には,第1段落といえども他の段落と同じように数文字の字下げを行なうのが通常だったようだ.結局のところ,句読法 (punctuation) の慣習は,時代にも地域にもよるし,house style によるところも大きい.ある程度の合理性の指向は認められるにせよ,句読法もまた絶対的なものではないということだろう.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
昨日の記事「#2997. 1800年を境に印刷から消えた long <s>」 ([2017-07-11-1]) の最後に触れたように,十分に現代英語に近いと感じられる18世紀でも(そして部分的に19世紀ですら),印刷と手書きは,文字や綴字の規範に関して,2つの異なる世界を構成していたといってよい.換言すれば,2つの正書法が存在していた(しかも,各々は現代的な意味での水も漏らさぬ強固な規範というわけではなかった).印刷はおよそ「公」であり,手書きは「私」であるから,正書法は公私で使い分けるべき二重基準となっていたのである.
この差異が最も印象的に見られるのは,Johnson の辞書での綴字と,Johnson の私的書簡での綴字である.例えば,Johnson は辞書での綴字とは異なり,書簡では companiable, enervaiting, Fryday, obviateing, occurences, peny, pouns, stiched, chappel, diner, dos (= does) 等の綴字を書いている (Tieken-Boon van Ostade 42) .このような状況は他の作家についても同様に見られることから,Johnson が綴り下手だったとか,自己矛盾を起こしているなどという結論にはならない.むしろ,公的な印刷と私的な手書きとで異なる綴字の基準があり,それが当然視されていた,ということである.
このような状況は,現代の我々にとっては理解しにくいかもしれないが,当時の綴字教育の現状を考えてみれば自然のことである.後期近代英語期には綴字の教科書は多く出版されたが,それは子供たちに印刷されたテキストを読めるようにするための教科書であり,子供たちが自ら綴字を書くことを訓練する教科書ではなかった.印刷テキストの綴字は,印刷業者によって慣習的に定められた正書法が反映されており,子供たちはその体系的な綴字を「読む」訓練こそ受けたが,「書く」訓練は特に受けていなかった.そのような子供たちが手書きで書簡を認める段には,当然ながら印刷テキストに表わされている正書法に則って綴ることはできない.しかし,だからといって単語をまったく綴れないということにはならないし,書簡の受け手に誤解されることもほとんどないだろう.
そして,この状況は,綴字を学んでいる子供たちのみならず,文字を読み書きする大人たちにも一般に当てはまった.印刷と手書きの対立は,公私の対立のみならず,綴字を読む能力と書く能力の対立でもあったのだ.
・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.
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