紀元前2千年紀半ば以降に人類が獲得した2つの技術的発明の意義について,マクニール (128--29) が次のように述べている.
アルファベット表記の発明の重要性は,ほぼ同じころおこった鉄の採用のそれと比べられよう.鉄の器具や武器は,貧富の差を和らげて,戦争や社会を大衆化した.また,上に述べたように,それは,はじめて農村の農民と都会の工人に互恵的な交換関係を結ばせて,文明というものを真に地域的特色を持つものにした.同じように,アルファベット文字は,普通人にも文字の初歩をなんとか学ばせるようにして,学問を大衆化したのである.アルファベットによって,それまでは特殊な神官団の中に保持されていた文明社会の高度の知的伝統が,かつてないほどに,俗人や一般人に解放された.さらに重要なのは,アルファベット文字のおかげで,俗人,一般人が,文明共同社会の文字による世襲財産に貢献することがひじょうに容易になり,結果としてその財産の種類の幅と量が大いにひろげられたことである.例えば,アルファベット文字がなかったら,アモスのような無学な牛飼いとか,その他だれにせよヘブライの預言者の言ったことなどが記しとめられて,後世今日にいたるまで人の思想と行動に影響を与えるようなことはなかっただろう.
したがって,鉄とアルファベットの影響は,全人口のうちの以前より大きな部分が,文明生活の経済的,知的営みにもっと参加できるような状態をつくり出し,それまでにないほどしっかりと文明的な生活スタイルを確立させることになったのである.
ここでマクニールは,アルファベットの発明と製鉄技術を,人類史における大衆的で民主的な革新ととらえて,その歴史的な意義を強調している.アルファベットより前の文字は一般庶民が容易に学べる類いの文字ではなく,その使用は閉鎖的な特権集団の内部に限られていた.ところが,数十個以下の文字数であらゆる言語を表記できるアルファベットが発明されたことにより,それを学習し使用する機会が一般社会に解放され,文明生活の拡大に寄与したというわけだ.
これはもっともな理屈のように思われるし,実際にそのような側面もあり得たことは私も否定しない.しかし,アルファベットの単純さと学びやすさという要因のみで,文明生活の拡大という現象を説明することはできないだろうと考えている.「#2429. アルファベットの卓越性という言説」 ([2015-12-21-1]) の記事で,今回のマクニールの唱えるようなアルファベットの大衆性仮説に対する反論を展開したが,むしろ同仮説は神話的といってすらよい代物かもしれないのだ.
この問題と関連して,「#2577. 文字体系の盛衰に関わる社会的要因」 ([2016-05-17-1]),「#1838. 文字帝国主義」 ([2014-05-09-1]),「#850. 書き言葉の発生と論理的思考の関係」 ([2011-08-25-1]),「#3568. literacy は認知上の決定的な差異をもたらすか? (1)」 ([2019-02-02-1]),「#3569. literacy は認知上の決定的な差異をもたらすか? (2)」 ([2019-02-03-1]),「#3545. 文化の受容の3条件と文字の受容」 ([2019-01-10-1]) の記事も参照.
なお,鉄のもつ大衆的な性格についてもアルファベットと比較し検討したいところだが,門外漢なので控えておく.
・ マクニール,ウィリアム・H(著),増田 義郎・佐々木 昭夫(訳) 『世界史(上)』 中央公論新社,2008年.
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