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dublin - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2026-09-12 05:00

2026-09-06 Sun

#6341. ha'penny 「半ペニー」 --- ダブリンの Ha'penny Bridge より [tabihel][dublin][ireland][gvs][sound_change][wellington]


Ha'penny Bridge, Dublin



 早朝ダブリンの Liffey 川に架かる Ha'penny Bridge を渡ってみた.最初の語は /ˈheɪp(ə)ni/ と発音する.正式名称は Liffey Bridge というが,架橋当初の名は,先日の記事「#6337. 英語史上の Arthur Wellesley Wellington --- ダブリンの Wellington の生家と記念塔を眺めて」 ([2026-09-02-1]) で取り上げた,あの Wellington にちなんだ Wellington Bridge だった.竣工は1816年.イングランドの Coalbrookdale で鋳造された橋で,当時この地点を往来していた渡し舟に代わるものとして架けられた.
 この橋が Ha'penny Bridge と呼ばれるようになったのは,渡橋に半ペニーの通行料が課されたことに由来する.渡し舟の運賃と同額の料金を橋の利用者にも課すことで,渡し舟業者への補償としたのだという.この通行料の徴収は,実に1919年まで100年以上にわたって続けられた.今では毎日のべ3万人がこの橋を渡っているというダブリンを代表する橋で,正式名称よりも,日々の暮らしに根ざしたこの俗称のほうが,今日まで広く定着しているというのも頷ける.現在の橋は2001年に修理されたものだが,橋の北詰のたもとには竣工の1816年をしっかりと刻んだ銘板が掲げられている.


Plaque at the north end of the Ha'penny Bridge, Dublin



 さて,halfpenny という語は,古英語にまで遡る複合語で,早くも halpenige のような形で1語として認識されて使われていたようだ.これをもとにした複合語として,その価値・相当額を表す halfpennyworth なる単語もあり,古英語では healfpenigwurð のような綴字で用いられている.
 橋の名前の綴字 ha'penny に見えるアポストロフィは,前半要素 half の音変化の履歴を物語っている.方言によって細部は異なり,変化の順序を厳密に確定することは難しいものの,おおよそ /half/ > /haʊf/ > /haːf/ > /haː/ > /hɛː/ > /heː/ > /heɪ/ というような経路が想定される./aː/ 以降の母音変化は,いわゆる「大母音推移」 (gvs) に沿った規則的な変化である.そして,語末における子音群 /lf/ の脱落が綴字上に反映されたのが,まさにこの橋の名に見える ha'penny というスペリングである.
 こうした縮約は halfpenny に限った現象ではない.twopence /ˈtʌp(ə)ns/ や threepence /ˈθrɛpns/ のように,日常的に用いられる少額硬貨を表わす語にも,同様の発音上の縮約がしばしば見られる.使用頻度の高い語ほど,発音が摩耗しやすいという,英語史における一般的な傾向の例である.
 小さな歩行者橋の名前の背後に,かつての渡し船の運賃,Wellington の名の記憶,そして音韻史が折り重なっている.明日も明後日もこの橋を渡ることにしよう.

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2026-09-03 Thu

#6338. 英語史上の Horatio Nelson --- ロンドンと今はなきダブリンの「ネルソンの柱」に思いを馳せて [dublin][ireland][london][nelson][tabihel][history]


Nelson's Column, Trafalgar Square, London



 昨日の「#6337. 英語史上の Arthur Wellesley Wellington --- ダブリンの Wellington の生家と記念塔を眺めて」 ([2026-09-02-1]) に続き,本日もナポレオン戦争がらみの話題を1つ.イギリス軍のもう1人の英雄,ネルソン提督こと Horatio Nelson (1758--1805) を取り上げたい.Wellington が陸戦で勝利をイギリスにもたらした軍人として英語史上に象徴的に位置づけられるのだとすれば,海戦でいち早くイギリス軍に勢いをつけた Nelson もまた,同じように位置づけることができるだろう.
 1805年のトラファルガーの戦 (Battle of Trafalgar) において Nelson はフランス・スペイン連合艦隊を打ち破り,自らは銃弾に倒れつつも,その後のイギリス海軍の優位を決定づけた.イギリスがヨーロッパの制海権を握ることになり,ナポレオンのイギリス侵攻の野望は打ち砕かれることになった.
 先日,ロンドンのトラファルガー・スクエアに立つ「ネルソンの柱」 (Nelson's Column) を訪れた(上掲の写真).そして今,滞在中のダブリンの目抜き通り O'Connell Street には,高さ120メートルのランドマーク Spire がそびえ立っているのだが,実はこの塔には前身があった.かつて,そこにはもう1つの「ネルソンの柱」 (Nelson's Pillar) が建っていたのである.
 ダブリンの「ネルソンの柱」は,1800年の連合法によってイギリスとアイルランドが合一した後の1809年,Nelson によるかの戦役の勝利を記念して建てられたものだった.ロンドンの「ネルソンの柱」(こちらは1840--43年に建設)よりも早く,ダブリンにこうした記念塔が建てられていたことになる.しかし,この柱は1966年,テロリストによって爆破され,姿を消してしまった.そこには,アイルランドの英雄ではなくイギリスの英雄を顕彰する柱だった,という影の事情が横たわっている.
 ダブリンの柱が破壊された跡地には,長らく空白が残されていたが,2003年,特定の人物や国家を象徴しない,抽象的なステンレス製の尖塔,上述の Spire が新たに建てられた(下掲の写真).イギリスの英雄の記念柱から,誰のものでもない現代的なモニュメントへ.この置き換えそのものが,アイルランドとイギリスのあいだの複雑な歴史を雄弁に物語っているように思われる.


The Spire of Dublin on O'Connell Street, standing on the former site of Nelson's Pillar



 ロンドンでは今なお健在の「ネルソンの柱」と,ダブリンでは姿を消し,別のモニュメントに置き換えられた「ネルソンの柱」.同じ人物,同じ勝利を記念しながら,2つの都市でまったく異なる運命をたどったことになる.

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2026-09-02 Wed

#6337. 英語史上の Arthur Wellesley Wellington --- ダブリンの Wellington の生家と記念塔を眺めて [dublin][ireland][wellington][tabihel][history][language_shift]


Birthplace of Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, on Merrion Street, Dublin



 2週間ほど前の早朝,ダブリン市内をジョギングをしていたところ,思いがけず Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington (1769--1852) の生家とされる建物を見つけた.Merrion Street 沿い,何の変哲もない街並みの一角に,控えめなプレートが掲げられているだけだったので,危うく素通りするところだった.1769年,この家で生まれたとされている.
 せっかくの発見である.翌日の早朝ジョギングでは,西の郊外に広がる公園 Phoenix Park まで足を延ばしてみることにした.ここには,遠くからでも見える背の高い(62メートル!)オベリスク型の記念塔 Wellington Monument がそびえ立っている.1815年,ナポレオン戦争のワーテルローの戦 (Battle of Waterloo) におけるイギリス軍の英雄を顕彰するために19世紀半ばに建てられたものだ.2日連続でダブリンゆかりの英雄の痕跡を追いかけるジョギングとなった.


The Wellington Monument in Phoenix Park, Dublin



 英語史のなかに Wellington を位置づけようとすると,何が言えるだろうか.2点ほど考えてみた.まず,軍人としての顔だ.彼は上述の戦役においてイギリスを勝利に導いた.この勝利がなければ,19世紀以降のヨーロッパにおける覇権の行方は違ったものになっていたかもしれない.ナポレオン戦争での勝利によりイギリスが軍事的,政治的,経済的な覇権国としての地位を固めていき,イギリス帝国の絶頂期を準備したからこそ,英語という言語も世界的な優位性を確立させていくことができた.イギリスの勝利は,もちろん Wellington 1人のみによるものではないが,象徴的な意義をもつ軍人であることは確かだ.
 もう1つは政治家としての顔である.後にイギリスの首相となった Wellington は,1829年に「カトリック解放」 (Catholic Emancipation) を実現した.カトリック教徒の公職就任を大幅に認める改革は,アイルランドにおけるカトリック教徒の社会的地位を押し上げ,結果として皮肉なことにアイルランド人たちがアイルランド語から(アイルランド)英語へと言語交替 (language_shift) していく社会的な条件を整えることになった.信仰の自由の拡大という政治的決断が,長期的には言語共同体の言語選択にまで影響を与えていたわけで,この一連の因果関係は決して単純ではないにせよ,たしかに存在していたろう.
 朝のジョギング中の何気ない発見が,思いがけずイギリスの誇る軍人・政治家と英語史の関係を考えさせることになった.なお,ダブリン(アイルランドの首都)とイギリスの話題が交錯しているように思われるかもしれないが,当時は1800年の連合法 (Act of Union) を通じて,1つの国となっていたことに注意が必要である.ダブリンはロンドンに次ぐイギリス(帝国)第2の都市となっていた.

Referrer (Inside): [2026-09-06-1] [2026-09-03-1]

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2026-08-23 Sun

#6327. カナダへ16往復した不屈の船 --- ダブリンの Jeanie Johnston Famine Ship 前より [ireland][dublin][great_famine][tabihel][canadian_english][l][th][be][perfect][auxiliary_verb][newfoundland_english][variety]


jeanie_johnston_famine_ship_in_dublin.jpg



 昨日の記事「#6326. アイルランド大飢饉の英語史上の意義 --- ダブリンの記念像前より」 ([2026-08-22-1]) に引き続き,アイルランドのジャガイモ大飢饉(the Great Famine)にまつわる話題.
 ダブリンのリフィー川沿いを朝ジョギングしていると,あの痛切な飢饉追悼記念像(Famine Memorial)から目と鼻の先に,堂々たる3本マストの帆船が係留されているのが目に入る.これは,19世紀半ばにアイルランドの西岸 Tralee からカナダへと移民を運び続けた帆船 Jeanie Johnston Famine Ship である.本物は沈没してしまっているため,これはレプリカなのだが,ダブリン観光の呼び物の1つとなっている.
 当時,飢餓と病から逃れるべく大西洋を渡った移民船の多くは,昨日の記事でも触れたように,劣悪な衛生環境と過密積載のため「棺桶船」 (coffin-ships) と呼ばれた.乗船者の3分の1近くがチフスやコレラ等で命を落とすことも珍しくなかった.しかし,この Jeanie Johnston 号の経歴は奇跡ともいうべきものだった.船長の James Attridge による徹底した衛生管理と定員制限,船医 Richard Blennerhassett の乗船によって,1848年の初航海から1855年までの間に,アイルランド西部の Kerry 県の首都 Tralee からカナダへ16往復し,2,500人もの移民を輸送しながら,船上での死者をただの1人も出さなかったという栄光の記録を残しているのだ.後に木材輸送船となり1858年に浸水・沈没した際にも,乗組員全員が生還を果たしたというから,乗船した者にとっては幸運の船としか言いようがない.
 ところで,こうした飢饉移民の船が向かった先であるカナダ(アメリカ合衆国ではなく)の英語には,アイルランド英語の痕跡は残っているのだろうか.私自身はカナダ英語とアイルランド英語の接点について不勉強なのだが,少し調べてみたところ,カナダのなかでもとりわけ Newfoundland の英語 (newfoundland_english) に注目すると,明確な影響の痕が見られるようだ.Kirwin (449--50) の "Anglo-Irish Influence" と題された節によると,Newfoundland の英語変種には,例えば以下のようなアイルランド英語由来の顕著な特徴があると報告されている.

 ・ 明るい /l/ (clear /l/)
 ・ 歯摩擦音 /θ/, /ð/ の破裂音 [t], [d] での代替
 ・ 習慣的現在 (consuetudinal present) を表わす be
 ・ 直前完了を表わす be after -ing 構文
 ・ 助動詞 shall を用いず,もっぱら will で一貫させる特長

 Tralee の港から命がけで海を渡っていった人々の記憶と,彼らの運んだ言葉の痕跡は,海を越えたカナダの地に,少なくとも Newfoundland に,今も息づいているということだ.帆船を見上げながら,過酷な歴史の荒波と,海を渡った英語変種に思いを馳せている.

 ・ Kirwin, William J. "Newfoundland English." The Cambridge History of the English Language. Vol. 6. Ed. Richard M. Hogg. Cambridge: CUP, 2008. 441--55.

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2026-08-22 Sat

#6326 アイルランド大飢饉の英語史上の意義 --- ダブリンの記念像前より [ireland][dublin][irish_english][great_famine][tabihel][language_shift][ame]


great_famine_sculptures_in_dublin.jpg



 アイルランドの首都ダブリンに滞在している.毎朝,市内を西から東に流れる Liffey 川沿いをジョギングしているのだが,壮麗な Custom House Quay の近くに,飢餓に苦しみながら河口埠頭へと歩く人々をかたどった飢饉追悼記念像(上記写真)を横目に走ることになる.1847年5月,Roscommon 県の Strokestown からダブリン港まで,1490人もの小作農民たちが165キロ(100マイル)におよぶ過酷な道のりを歩かされた記録 (The National Famine Way) が記されている.彼らはカナダを目指して「棺桶船」 ("coffin-ships") に乗り込んだが,多くの命が航海中や到着直後に失われた.新世界で生活を始めることができたのは,Strokestown を出発した1490人のうち,2/3にも満たなかったという.
 1840年代後半にアイルランドを襲ったジャガイモ大飢饉(the Great Famine, またはアイルランド語で An Gorta Mór)は,アイルランド史のみならず,近代ヨーロッパ史における最大の悲劇の1つである.しかし同時に,英語史の観点からも重大な転換点となった.この未曾有の災厄がもたらした英語史上の意義は,2点あるように思われる.
 第1に,アイルランド国内における劇的な言語交替 (language_shift) の加速だ.大飢饉以前より社会的な圧力から英語化の流れは生じていたが,依然としてアイルランド語を母語とする話者層も強固に残っていた.ところが,飢餓と疫病によって命を落とし,あるいは国外への脱出を余儀なくされた人々の多くは,アイルランド語を話す農村部や西部の貧しい階層だった.大飢饉による人口の急減と人口動態の激変によって,世代間の言語継承が断ち切られ,アイルランド語から英語への交替が一気に進むことになったのである.これにより,アイルランド語を基層言語とする独自の英語変種,すなわちアイルランド英語 (irish_english) の形成も決定づけられた.
 第2に,世界的な英語変種,とりわけアメリカ英語への影響である.大飢饉を逃れてアメリカやカナダなどへと渡った膨大な数のアイルランド系移民は,各地で自分たちのコミュニティを形成した.彼らが携えていったアイルランド英語の語彙,語法,発音の特徴は,部分的にせよ移住先の英語へ移植され,各地の英語変種に独特のアイルランド風味をもたらすことになった.19世紀半ば以降のアメリカ英語の形成や多様化を語る上で,アイルランド移民の存在は欠かすことができない.関係する具体的な言語項目については,「#327. Irish English が American English に与えた影響」 ([2010-03-20-1]) や「#328. 菌がもたらした(かもしれない) will / shall の誤用論争」 ([2010-03-21-1]) を参照.
 この大飢饉は,一見するとジャガイモの疫病による天災のように見える.しかし,その実態はイギリス統治下の収奪が生み出した人災の側面が大きい.近代のイギリス支配のもとで,アイルランドの人々は東部の肥沃な土地を奪われ,地味の乏しい西部の狭小な土地で,高収量なジャガイモのみに依存する極端なモノカルチャーへと追い詰められていたからだ.社会構造の歪みが,農作物の病害を壊滅的な大惨事へと変えてしまったわけだ.
 言語の歴史は,文法規則の変遷だけで完結するものではない.まさに「英語と歴史」が交錯する現場において,人々の移動,社会の激変,そしてときに過酷な歴史的悲劇が,言語の運命を大きく揺り動かすことがある.毎日ダブリンの記念像の前を通り過ぎながら,大飢饉という歴史の傷跡が世界の英語のあり方をいかに変えてきたかを考えている.
 関連して「#2958. ジャガイモ,アイルランド,英語史」 ([2017-06-02-1]) も参照されたい.

Referrer (Inside): [2026-08-23-1]

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2026-08-19 Wed

#6323. Dublin 市内の Liffey 川沿いの言語景観 [dublin][irish][linguistic_landscape][sociolinguistics]

 現在アイルランドの Dublin に滞在しており,毎日 Liffey 川沿いをジョギングしている.その限られた視界のなかでも,実に多様で興味深い言語景観 (linguistic_landscape) が目に飛び込んでくる.今回は街で見かけたアイルランド語と英語の表記について,2枚の写真とともに雑感を記してみたい.
 Dublin の街中を観察していると,公共性の高い標識にはアイルランド語 (irish) と英語の2言語表記が徹底されていることがよく分かる.次の写真のように駐車禁止などの道路標識をはじめ,バス停の運行情報に至るまで,この基本方針は一貫しているといってよい.


dublin_landscape_parking_sign.jpg



 とりわけ興味深いのは,表記の順序である.「必ず第1にアイルランド語,第2に英語」という並び順になっているのだ.海外からの観光客も含め,街中で最も広く通用する言語が英語であることは自明である.市民の大多数にとっても母語は英語であり,日常的にアイルランド語を流暢に操る話者は決して多数派ではない.にもかかわらず,理解度が圧倒的に高いはずの英語を差しおいて,アイルランド共和国のアイデンティティとjjシンボルを体現するアイルランド語が表示の最上位に優先して置かれるのである.
 そのため,看板から素早く情報を読み取ろうとするとき(それが標識を見る大抵の動機なのだが),無意識のうちに2段目や下部に配置された英語表記の始まりを探す癖がついてしまう.実用的な情報処理の動線と,国家的な象徴性の標示との間に,ギャップが感じられるのだ.
 もっとも,すべての公共物に2言語表記が徹底されているわけではない.たとえば,街角に設置されたゴミ箱の注意書きなどを見ると,英語のみのモノリンガル表記になっているケースが散見される.これはスペースの制約という物理的な事情もあるかもしれないが,地元民のみならず観光客に対しても,ゴミのポイ捨て禁止を周知したいという強い実用的な動機づけが優先された結果かもしれない.


dublin_landscape_bin.jpg



 公共性と対照的な軸として考慮すべきなのが商業性である.店舗の看板や広告といった商業的な表記においては,通行人に商品やサービスを認知させ,購買行動につなげることが最重要となるため,圧倒的な通用度を誇る英語が前面に出るのは自然だろう.
 さらに,標識が設置された年代やタイミングも無視できない要因なのではないかと睨んでいる.言語政策の推進の度合いや予算,社会的な意識の変遷によって,古い看板と新設された案内板とでは表記の傾向に微妙なズレが生じることもあるはずだ.街の標識や看板には,新旧のものが混じっているのが普通だろう.
 このように Dublin の言語景観を眺めていると,第1にアイルランド語,第2に英語という「公式の理想」を掲げつつも,(1) 公共性の度合い,(2) 商業性の度合,(3) 物理的な表記スペースの制約,(4) 設置年代やその他の様々な要因が複雑に絡み合い,せめぎ合っているように思われる.
 首都 Dublin を離れ,他の地方都市や農村部,さらにはアイルランド語が日常的に話されているゲールタハト (Gaeltacht) へと足を延ばせば,またまったく異なる言語景観のバランスが観察できるのだろうと思われる.言語政策と言語の実態がどのように街の景色に刻まれているのか,引き続き足を動かしながら観察を続けていきたい.

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