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literature - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-11-12 07:24

2018-02-25 Sun

#3226. イギリス文学関連略年表 [literature][timeline][history]

 年表シリーズ (cf. timeline) .今回は,イギリス文学史より略年表を示す.川崎による英文学史概説書の巻末に挙げられているものである (175--80) .イギリス史と日本史との関連付けもあり,眺めて楽しめる.

西暦イギリス(文学)関係参考事項
410ローマの Britain 島支配終わる 
1000 (日)清少納言『枕草子』,紫式部『源氏物語』この頃起稿
1066ノーマン征服.ウィリアム一世即位 (--1087) 
1154プランタジネット朝始まる (--1399) 
1167Oxford 大学の基礎成る 
1313 (イ)ダンテ『神曲』この頃,イタリア人文主義思潮起こる
1337英仏百年戦争始まる (--1453) 
1349 (イ)ボッカチオ『デカメロン』
1380Wyclif が聖書の翻訳を始める 
1382Chaucer, Troilus and Criseyde (--1385. 出版 1484) 
1387Chaucer, The Canterbury Tales 執筆開始(出版 1478) 
1455ばら戦争 (--1485) 
1469Malory, Le Morte d'Arthur (出版 1485) 
1475W. Caxton, 最初の英語による印刷物出版 
1485ヘンリー七世即位 (--1509) 
1492 (ス)コロンブス,新大陸へ航海
1513 (イ)マキャベルリ『君主論』この頃成る
1516More, Utopia 
1517 ルターの宗教改革始まる
1519 マゼランの世界周航 (--1522)
1534The Church of England (or Anglican Church) 成立し,England の宗教改革成る 
1535Sir Thomas More (1478--) 処刑さる 
1543 (日)ポルトガル人,種子島に来る
1557England で the Stationers' Company (書籍出版業組合)誕生 
1558Elizabeth I 即位 (--1603) 
1576最初の常設公開劇場 The Theatre を建設 
1579Spenser, E., The Shepheardes Calendar 
1587Scotland 女王 Mary 処刑さる 
1588Drake, Hawkins ら,スペイン無敵艦隊 (The Armada) を破る 
1589Spenser, E., The Faerie Queene, I?ス曵II 
1593ペスト流行のためロンドンの劇場が2月から年末まで閉鎖(日)最初の木版活字本印刷される
1595Shakespeare, Romeo and Juliet 
1596Shakespeare, A Midsummer Night's Dream; Spenser, E., The Faerie Queene, IV?ス朷I 
1597Shakespeare, The Merchant of Venice 
1599グローブ劇場開場 
1600Shakespeare, As You Like It 
1601Shakespeare, Hamlet 
1603ジェイムス一世即位 (--1625) 
1605Shakespeare, Othello(ス)セルバンテス『ドン・キホーテ』
1606Shakespeare, King Lear; Macbeth 
1618 (ド)三十年戦争(宗教戦争) (--1648)
1620Pilgrim Fathers が Mayflower 号でアメリカに渡航 
1634Milton, Comus 
1642清教徒革命始まる 
1649チャールズ一世処刑され,王制が廃止され,イギリスは「共和国にして自由国」となる (--1660) 
1666ロンドンの大火 
1667Milton, Paradise Lost (初版10巻本) 
1684Bunyan, The Pilgrim's Progress, Pt. ii (Pt. i は1678) 
1687 ニュートン,万有引力の法則を発表
1688名誉革命 (Glorious Revolution) 起こる 
1702The Daily Courant 創刊(イギリス最初の日刊新聞) 
1707England, Scotland を併合,Great Britain 成立 
1711Addison と Steele が The Spectator を創刊 
1714ジョージ一世即位 (--1727) ハノーヴァー朝始まる 
1719Defoe, Robinson Crusoe 
1721R. ウォールポールが組閣し,イギリス最初の首相となる 
1724 (日)近松門左衛門 (1635--)歿
1726Swift, Gulliveris Travel 
1731イギリス,公用語としてのラテン語全廃 
1739イギリスとスペインが開戦 
1740Richardson, Pamela 
1742Fielding, Joseph Andreas 
1748 (仏)モンテスキュ『法の精神』
1749Fielding, Tom Jones 
1755Johnson の『英語辞典』成る 
1756英仏間に七年戦争始まる 
1760Sterne, Tristram Shandy 
1767この頃イギリス産業革命 
1774 (日)杉田玄白『解体新書』;(ド)ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』
1776 アメリカ,独立宣言
1789 フランス革命起こる
1791The Observer 創刊 
1798Wordsworth & Coleridge, Lyrical Ballads 
1801イギリスがアイルランドを併合,the Union of Great Britain and Ireland が成立 
1805Wordsworth, The Prelude 
1807イギリスが奴隷売買を禁止 
1812Byron, Childe Harold's Pilgrimage;英米戦争始まる (--1814) 
1813Austen, Pride and Prejudice 
1817Byron, Manfred(日)イギリス船,浦賀に来航
1819Keats, 'Ode to a Nightingale'; Scott, Ivanhoe 
1820Shelley, Prometheus Unbound; 'To a Skylark' 
1823Lamb, The Essays of Elia 
1836Dickens, Pickwick Papers (出版は1837);イギリス経済恐慌始まる 
1837Dickens, Oliver Twist;ヴィクトリア女王即位 (--1901) 
1840イギリスが New Zealand を併合;アヘン戦争始まる (--42) 
1847C. Brontë, Jane Eyre; E. Brontë, Wuthering Heights; Thackeray, Vanity Fair 
1848 マルクス=エンゲルス『共産党宣言』をロンドンで発表
1849Dickens, David Copperfield 
1850Tennyson, In Memoriam 
1851ロンドンで万国博覧会開催 
1854 クリミア戦争起きる (--1856);(日)ペリー,浦賀に来航.日米和親条約
1856イギリス国王,インドを直轄日本,英米修好通商条約締結
1859Darwin, On the Origin of Species; G. Eliot, Adam Bede 
1865Carroll, Alice's Adventures in Wonderland 
1868(日)明治と改元,江戸を東京と改める 
1871G. Eliot, Middlemarch(日)津田梅子らアメリカ留学
1872Butler, Erewhon(日)福沢諭吉『学問のすすめ』
1877 (日)東京大学創立
1883Stevenson, Treasure Island 
1891Hardy, Tess 
1893Wilde, Salomé (仏語版,英訳版は1894) 
1894Shaw, Arms and the Man; Kipling, The Jungle Book日清戦争
1895Wells, The Time Machine 
1896 アテネで近代オリンピック第一回大会
1899 ボーア戦争 (--1902)
1900Conrad, Lord Jim(日)津田梅子,女子英学塾(津田塾大学)創立.夏目漱石,イギリス留学
1901ヴィクトリア女王歿.エドワード七世即位 
1902The Times Literary Supplement 創刊日英同盟成立
1907 (日)英語研究社(のち研究社)創業
1909 (日)坪内逍遙訳『ハムレット』(以後次々に翻訳)
1913Lawrence, Sons and Lovers 
1914Joyce, Dubliners第一次世界大戦始まる (--18)
1917 ロシア革命
1920 国際連盟成立
1922T. S. Eliot, The Waste Land; Galsworthy, The Forsyte Saga; Joyce, Ulysses (パリで出版); Ireland 自由国,正式に成立 
1924Forster, A Passage to India 
1925Woolf, Mrs. Dalloway 
1927Woolf, To the Lighthouse 
1928Lawrence, Lady Chatterley's Lover; Huxley, Brave New World 
1929 (日)日本英文学会結成
1936エドワード八世,シンプソン夫人との結婚を選び王位放棄.ジョージ六世即位 (--52)スペイン内乱 (--39)
1937Ireland 自由国,国名をエール (Eire) と改める 
1936Joyce, Finnegans Wake第二次世界大戦始まる
1940Greene, The Power and Glory 
1941 日本,米英に宣戦布告
1945Orwell, Animal Farm第二次世界大戦終結
1948Greene, The Heart of the Matter 
1949Orwell, Nineteen Eighty-Four; Eire 共和国,Ireland 共和国として独立 
1950 (日)ロレンス著,伊藤整訳『チャタレー夫人の恋人』発禁
1951 日米安保条約調印
1952Beckett, En Attendant Godot(『ゴドーを待ちながら』);エリザベス二世即位宣言 
1954Golding, Lord of the Flies; Murdock, Under the Net 
1956Osborne, Look Back in Anger 
1957Braine, Room at the Top 
1958Weaker, Chicken Soup with Barley 
1959Sillitoe, The Loneliness of the Long-Distance Runner 
1960Pinter, The Caretaker日米新安保条約成立
1963 (日)実用英検始まる
1964 オリンピック東京大会
1965Pinter, The Homecoming(日)大学生数百万人突破
1970 大阪で万国博覧会開催
1971貨幣制度を十進法に切り替え 
1975ベトナム戦争終結 
1979サッチャー,イギリス初の女性首相となる東京サミット
1980レーガン,アメリカ大統領に就任;オリンピックモスクワ大会 
1981チャールズ皇太子,ダイアナ・スペンサーと結婚 
1982ローマ法王が訪英,英国国教会と和解成る 
1984T. Hughes, J. Betjeman のあとの桂冠詩人となるオリンピックロサアンゼルス大会


 ・ 川崎 寿彦 『イギリス文学史入門』 研究社,1986年.

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2018-02-11 Sun

#3212. 黒死病,死の舞踏,memento mori [literature][black_death]

 英語死における黒死病 (black_death) の意義について,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1]),「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) をはじめとする諸記事で考えてきた.
 14世紀半ばの黒死病の到来は中世ヨーロッパの死生観を変え,「死の舞踏」 (dance of death, danse macabre) のモチーフの流行をもたらすなど,文化史や社会史において甚大な影響を及ぼしたとも言われるが,松田の近著『煉獄と地獄』によれば,正確には「死の普遍性を再認識する契機となった」と捉えるべきだろうという.死の普遍性という捉え方は,古今東西,それこそ普遍的であり,特に中世のヨーロッパに特有のはずはない.むしろ,黒死病はその普遍的な言説のなかに取り込まれていったとみるべきではないか.松田 (19--20) を引用する.

 こうした〔黒死病の〕光景は一四世紀のヨーロッパの多くの都市に共通して見られ,死の普遍性を再認識する契機となったことだろう.一五―一六世紀に「死の舞踏」の壁画がシチリアからイングランド北部に至るまで広く人気を博した背景には,この悲惨な共通体験があったとヨハン・ホイジングは『中世の秋』(一九一九年)で指摘した.両者を直接の因果関係で結びつけることは短絡的だとしても,「死の舞踏」にはドリュモーが指摘した「神罰の様相,死の攻撃の凶暴さ,貧富老若を問わぬ死の平等性」というペストの三つの特徴がそのままあてはまると感じられたことは想像に難くない.
 ペストという共通体験は,死の文学における地域性を見えにくくしていると言えるかもしれない.しかし,本書で扱う中世後期のポピュラーな死の文学ジャンルやモチーフ――現世蔑視,三人の生者と三人の死者,往生術,死語世界探訪譚,死の舞踏など――は,いずれも特定の地域に限定されたものではなく,少なくとも西ヨーロッパの複数の言語で同時的に見られるものばかりである.文学史的な見方をするならば,死の文学に関しては聖書にまで遡るモチーフや比喩の伝統が確立していて,ペストといえどもその受け継がれてきた表現形態や機能を大きく変革することはなかったと考えることができる.実際,ペストが神に対する絶望のような神学的問題を引き起こすことは稀で,むしろ原因追及の矛先は,中世の天変地異の解釈がしばしばそうであったように,人間の道徳的堕落へと向けられた.ペストは死神を介して与えられた神罰であり,その衝撃は最終的に教化という死の文学の機能のなかに吸収されて,予定調和的に処理されたと言えるだろう.


 上でみたように,黒死病と「死の舞踏」のモチーフの流行の間に直接の因果関係があるかどうかは別として,後者は中世から近代にかけてのヨーロッパの死生観をヴィジュアルに示したものとして際立っている.松田 (223) によれば,

この死の遍在性を端的に視覚化したモチーフとして,中世の終わりから近代初期にかけて流行した「死の舞踏」がある.「死の舞踏」とは,腐乱あるいは白骨化した屍がさまざまな階級や職業,年齢の生者の手を取って,ときに踊るようなステップであの世へと誘う姿を描いたもので,屍と生者が一組となって通常三〇組ほどの列を成す.パリのイノサン墓地の四方を取り囲む納骨堂の回廊に一四二四年に描かれた一連の壁画を嚆矢とするとされ,一五世紀から一六世紀にかけてヨーロッパ各地で製作された.現在でもフランス,イタリア,ドイツの教会を中心にかなりの数が保存されている.


 黒死病以降の人々にとって,死はこれまで以上に身近になり,いまわの際にのみ恐れおののく対象ではなく,日頃から意識すべき対象,つまり memento mori そのものとなった.これを松田は,終章の副題として「薄く引き延ばされた死」と表現している.
 死は人間にとって普遍的ではあるが,その扱い方は文化によっても時代によっても変異するし,変化もする.中英語期から初期近代英語期の各世紀のコーパスで,「死」,「死」の類義語,「死」と関連するキーワード等を分析し,通時比較してみると,死のモチーフの流行度の推移が測れたりするかもしれない.文化研究を念頭においた語彙調査の対象としておもしろそうだ.

 ・ 松田 隆美 『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』 ぷねうま舎,2017年.

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2017-10-12 Thu

#3090. 英語英文学は南方から滋養をとってきた [literature][borrowing][loan_word]

 福原 (33) によれば,英文学がドイツ文学から影響を受け始めたのは,Carlyle の手を経ての19世紀のことであり,それ以前にはほとんどなかった.言語上の接触についても,「#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用」 ([2015-03-31-1]),「#2621. ドイツ語の英語への本格的貢献は19世紀から」 ([2016-06-30-1]) で触れたとおり,英語はドイツ語からの影響を比較的最近まで受けていなかった.英語の文学・言語がドイツの言語・文学と長らく接点をもたなかったことは,一般に英語英文学が,主に北方ではなく南方から滋養をとってきた歴史を反映している.福原 (33--34) は,英文学におけるこの歴史的傾向について次のように述べている.

英文學といふものは,どうも南方から滋養を取つてくるので,北方文學はあまり奮ひません.十九世紀末につてイプセンが來ます.それから,二十世紀になりまして,ロシア文學が入つて参りますけれども,どうも性に合はないらしく,トルストイもドストエフスキーも十分消化されないやうでありました.〔中略〕そんなわけで北よりも南,ことに十九世紀末は,フランスの頽廢派の文學に共鳴した友人達が輩出いたしました〔後略〕.


 英語史,とりわけ英語の語彙借用史に照らしても,概ね「南方」の言語(フランス語,ラテン語,ギリシア語など)から滋養をとってきたことは事実である.確かに古ノルド語,低地地方の言語など「北方」のゲルマン諸語からの借用語もあったが,少なくとも量的な観点からみれば明らかに「南方」過多といってよいだろう.
 文学にせよ言語にせよ,本来的に北方的な体質をもっていたところに,歴史的に南方的な滋養が入り込んで,現在あるような English ができあがってきた.これは,英文学史と英語史を大きく俯瞰する視点である.

 ・ 福原 麟太郎 『英文学入門』 河出書房,1951年.

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2017-09-30 Sat

#3078. kenning と枕詞 [kenning][japanese][literature]

 古英語の修辞技法である kenning について,「#472. kenning」 ([2010-08-12-1]),「#2677. Beowulf にみられる「王」を表わす数々の類義語」 ([2016-08-25-1]),「#2678. Beowulf から kenning の例を追加」 ([2016-08-26-1]) などでみてきた.今回は,福原 (70) が古英語の kenning と日本語の枕詞とを比較している文章を見つけたので,引用したい.ここでは,「海」を表わすのに whale-road (鯨の道)という隠喩的複合語をもってする例を念頭においている.

此處に whale-road といふ言葉でありますが,吾々の國には枕詞といふものがあつて,例へば「あしびきの山鳥」「たらちねの父母」といふ様に申します.丁度此の枕詞が之に似て居ります.「たらちねの父母」といふ言葉の代りに,お終ひには「たらちね」だけですませ,枕詞の中に父母という意味がある様になつて來ました.それから「いさなとり」,是は海の枕言葉でありますが,「いさな」とは鯨のことらしい,whale-road と「いさなとり」といふ枕詞と大變似て居ります.吾々の國の文學でさういふ枕詞を使つた時代は平安朝で一應お終ひになりました.平安朝といふ非常に爛熟した時代でお終ひになりましたが,文化の爛熟といふことと修飾した言葉を無暗に使つて喜ぶことと関係があるのではないかと思ひます.でセルマの歌なんか頗る感情的な,形容詞的な歌でありますが,實質的なことをいはないで無暗に形容詞でもつて人の心を掻き立てる様な演説がある時代が現はれると,其の國はそろそろお終ひだと思つて良いかも知れない.文學に使はれる言葉とその國の文化との關係といふものは一つの注意すべき問題であると思ふのであります.


 福原は,kenning と枕言葉の語形成や用法が似ているという点を指摘するのみならず,そのような形容詞的,修飾的な言葉遣いは文化の爛熟期に見られることが多いと述べている.爛熟期ということは,次には退廃期が待っているということを示唆しており,つまり件の語法の存在は,それをもつ文化の「お終ひ」を暗示しているのだ,という評価だ.何だかものすごい議論である.
 なお,引用中の「セルマの歌」は,ケルト民族の歌の時代を思い起こさせるスコットランドの古詞である.

 ・ 福原 麟太郎 『英文学入門』 河出書房,1951年.

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2017-09-14 Thu

#3062. 1665年のペストに関する Samuel Pepys の記録 [black_death][pepys][literature][history][demography][statistics]

 17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.

Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!


Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.


Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .


Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.


 上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.

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2017-09-09 Sat

#3057. "The Pardoner's Tale" にみる黒死病 [chaucer][black_death][literature][popular_passage]

 中英語文学における黒死病の表象は様々あるが,Chaucer の The Canterbury Tales の "Pardoner's Tale" より,pestilenceDeeth と同一視されながら言及されている箇所を引こう.黒死病以後の強烈な memento mori の強迫観念,あるいは黒死病が死(神)のイメージと重ね合わされていることが,よく感じられるくだりである.Riverside Chaucer より関連箇所 (ll. 661--91) を引く.

   Thise riotoures three of whiche I tell,
Longe erst er prime rong of any belle,
Were set hem in a taverne to drynke,
And as they sat, they herde a bell clynke
Biforn a cors, was caried to his grave.
That oon of hem gan callen to his knave:
"Go bet," quod he, "and axe redily
What cors is this that passeth heer forby;
And looke that thou reporte his name weel."
   "Sir," quod this boy, "it nedeth never-a-deel;
It was me toold er ye cam heer two houres.
He was, pardee, an old felawe of youres,
And sodeynly he was yslayn to-nyght,
Fordronke, as he sat on his bench upright.
There cam a privee theef men clepeth Deeth,
That in this contree al the peple sleeth,
And with his spere he smoot his herte atwo,
And wente his wey withouten wordes mo.
He hath a thousand slayn this pestilence.
And, maister, er ye come in his presence,
Me thynketh that it were necessarie
For to be war of swich an adversarie.
Beth redy for to meete hym everemoore;
Thus taughte me my dame; I sey namoore."
"By Seinte Marie!" seyde this taverner,
"The child seith sooth, for he hath slayn this yeer,
Henne over a mile, withinne a greet village,
Bothe mam and womman, child, and hyne, and page;
I trowe his habitacioun be there.
To been avysed greet wysdom it were,
Er that he dide a man a dishonour."


 物語の主人公である3人の放蕩者が,酔っ払いながら黒死病の象徴である「死」(=伝染病)を探しだそうと決意する場面の描写だ.物語の最後には,彼らも「死」の餌食となる.暗喩に満ちた韻文だが,引用の前半にある黒死病の犠牲者の葬儀の描写は,穏やかならぬリアリズムを感じさせもする.このような描写に特徴づけられる「ペスト文学」は1つの文化といってよく,現実のむごさに比例して精彩を放つものなのだろう.黒死病蔓延の時代背景を理解するために,以下を薦めておきたい.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
 ・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.
 ・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.
 ・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.

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2017-07-02 Sun

#2988. Wycliffe の聖書英訳正当化の口上 [wycliffe][bible][reformation][me_text][literature]

 14世紀後半の Wycliffe (一門)による聖書英訳は,英国史や聖書翻訳史のみならず英語史においても重要なできごとである.ラテン語原典から完訳した英訳聖書として初のものであり,時代をはるかに先取りした「宗教改革」ののろしだった.
 Wycliffe は,いかにして聖書の英訳を正当化しようとしたか.その口上が,Wyclif's Treatise, De Officio Pastorali (Chapter 15) に見られる.中英語テキストの講読に適している箇所と思うので,Crystal (198) に掲載されている校訂テキストを引用しよう.

Also the worthy reume of Fraunse, notwithstondinge alle lettingis, hath translated the Bible and the Gospels, with othere trewe sentensis of doctours, out of Lateyn into Freynsch. Why shulden not Engliyschemen do so? As lordis of Englond han the Bible in Freynsch, so it were not aghenus resoun that they hadden the same sentense in Engliysch; for thus Goddis lawe wolde be betere knowun, and more trowid, for onehed of wit, and more acord be bitwixe reumes.
   And herfore freris han taught in Englond the Paternoster in Engliysch tunge, as men seyen in the pley of York, and in many othere cuntreys. Sithen the Paternoster is part of Matheus Gospel, as clerkis knowen, why may not al be turnyd to Engliysch trewely, as is this part? Specialy sithen alle Cristen men, lerid and lewid, that shulen be sauyd, moten algatis sue Crist, and knowe His lore and His lif. But the comyns of Engliyschmen knowen it best in ther modir tunge; and thus it were al oon to lette siche knowing of the Gospel and to lette Engliyschmen to sue Crist and come to heuene.


 骨子は明確である.お隣のフランスでも翻訳がなされているではないか.また,イングランド庶民にとっても,英語の聖書のほうが理解しやすいではないか.現代の我々にとっては実に明快な理由づけだが,14世紀のイングランドでは,この考え方は異端も異端だった.
 さらに,この時代には,宗教的な異端性もさることながら,高尚なテキストを執筆するのに英語をもってするということ自体が,いまだ確立した慣習とはなっていなかった.もちろん同時代のチョーサーも文学を英語で書いたわけだが,それ自体一種の冒険であり,実験だったとも考えられる.ジャンルにもよるが,「英語で書く」という行為が当然でなかったことは,先立つ初期中英語でもそうだったし,後続する初期近代英語でも然り.関連して,「#2861. Cursor Mundi の著者が英語で書いた理由」 ([2017-02-25-1]),「#2612. 14世紀にフランス語ではなく英語で書こうとしたわけ」 ([2016-06-21-1]),「#1407. 初期近代英語期の3つの問題」 ([2013-03-04-1]),「#2580. 初期近代英語の国語意識の段階」 ([2016-05-20-1]) も参照されたい.

 ・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.

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2017-06-17 Sat

#2973. 格の貧富の差 [case][syncretism][eme][literature][inflection]

 Allen (205) に,(主として初期)中英語のテキストを,形態的な格標示が比較的残っているもの (case-rich texts) と,形態的縮減 (deflexion) により,さほど残っていないもの (case-impoverished texts) におおまかに分類している.各テキストにみられる格の「貧富」の差は,時代や方言によるところが大きいが,その他,テキストや写本の伝統に起因するものもあるだろう.初期中英語の格を巡る研究に役立ちそうなので,このテキストの分類を再現しておく.ただし,網羅的なリストではなく,Allen がケース・スタディで利用したテキストのみを掲載しているにすぎないので,注意しておきたい.

Case-rich textsDateCase-impoverished textsDate
PC I (not very rich)c.1131PC IIc.1155
Kentish Homiliesa.1150, c.1125Ormulum (Vol. II)c.1180
Lambeth Homiliesc.1200, mostly OEAncrene Wisse (Parts 1--5)c.1230, somewhat earlier
Poema Morale (Lambeth version)c.1200, c.1170--90Katherine Groupc.1225, 1200--20
Trinity Homiliesa.1225, ?OEWohungec.1220, post 1200
Brut (C MS) (1st 3,000 lines)s.xiii2, post 1189Cursor Mundi (Vesp. MS, Vol. I)c.1350
Vices and Virtuesc.1200, a.1225Havelok the Danec.1300, c.1295--1310
Owl and Nightingale (C MS)s.xiii2, 1189--1216Robert of Gloucester's Chronicle (A MS, Vol. I)c.1325, c.1300
Kentish Sermonsc.1275, pre-1250Genesis and Exodusa.1325, c.1250
Aȝenbite of Inwit1340Sir Orfeo and Amis and Amiloun (Auchinleck MS)c.1330
  Early Prose Psalterc.1350


 ついでに,格の貧富の差のもう1つの指標となり得る,Hotta (40--43) による "syncretism rate" というアイディアも参照されたい.

 ・ Allen, Cynthia L. "Case Syncretism and Word Order Change." Chapter 9 of The Handbook of the History of English. Ed. Ans van Kemenade and Bettelou Los. Malden, MA: Blackwell, 2006. 201--23.

Referrer (Inside): [2017-06-18-1]

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2017-06-13 Tue

#2969. 閉じない quotation marks [punctuation][literature][genre][prescriptive_grammar][printing]

 「#1097. quotation marks」 ([2012-04-28-1]) で,英語の引用符の single か double の差について論じた.今回は,引用符の開きと閉じの習慣について歴史をひもといてみよう.
 現在の慣習では,引用符を “ で開いたら ” で閉じるというのは自明のように思われる.しかし,前の記事でみたように,本来的にこの記号は「ここから引用が始まりますよ」という合図として,欄外に置かれるマークとして出発したのだった.「ここから始まる」と言っておいて「どこそこで終わる」と言わないのは,引用者として無責任のように思われるかもしれないが,これは現代的な思考法なのかもしれない.古くは,閉じの引用符は置かれなかったのである! 書き手にとって,どこで引用が終わるかは明らかだし,読み手もそれで何とかなるだろうと,ある種の鷹揚さを持ち合わせていたかのようだ.
 話者が頻繁に交替する会話の再現が稀な時代であれば,実際,何とかなったろう.しかし,小説のようなジャンルが盛んになると,閉じない引用符の問題は深刻となる.こうして,小説が人気を獲得する18世紀に,ついに閉じの引用符が慣習的に用いられるようになった.おりしも18世紀には現代人にとっては見苦しいほど句読法を多用することが是とされたので,Murray の規範文法でも,このような2重引用符の使用が推奨されたのである.新たな文学ジャンルの発達とそれに伴う直接話法の頻用,そして当時の重めの句読法の慣習が,新しい記号使用を促進したことになる (Crystal 308--09) .
 引用符の開きと閉じの問題について,印刷家が直面したもう1つの問題があった.それは,引用が複数の段落にまたがるとき,前の段落の最後に閉じの引用符を含めるか,あるいは後の段落の最初に開きの引用符を繰り返すか,といった問題である.印刷家によっては,各段落の始めと終わりを,それぞれ開きと閉じの引用符で標示するという方法を採用した.しかし,これでは各段落で独立して引用が導入されているかのように誤読される恐れがある.現在採用されているのは,各段落の始めは改めて開きの引用符を付して引用の継続を示すが,閉じの引用符は引用全体の終末時にしか付さない,という方法だ (Crystal 310) .一見すると論理的ではないかのようだが,説明されれば,その実用性と合理性のバランスの取れていることは納得できるだろう.
 歴史的には,引用符は必ずしも閉じるのが当然ではなかったという事実に注意すべきである.かつての緩い句読法は,開きと閉じの括弧の対応が正確でないとすぐにエラーとなる現代のプログラミング言語のようなガチガチの理屈とは対極にある,実におおらかな世界の慣習だったのである.

 ・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.

Referrer (Inside): [2020-01-25-1]

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2017-04-20 Thu

#2915. Beowulf の冒頭52行 [beowulf][link][oe][literature][popular_passage][oe_text]

 「#2893. Beowulf の冒頭11行」 ([2017-03-29-1]) で挙げた11行では物足りなく思われたので,有名な舟棺葬 (ship burial) の記述も含めた Beowulf 冒頭の52行を引用したい.舟棺葬とは,6--11世紀にスカンディナヴィアとアングロサクソンの文化で見られた高位者の葬法である.
 原文は Jack 版で.現代英語訳は Norton Anthology に収録されているアイルランドのノーベル文学賞受賞詩人 Seamus Heaney の版でお届けする.

OEPDE translation
a-verseb-verse
Hwæt, wē Gār-Denain geārdagum,So. The Spear-Danes in days gone by
þēodcyningaþrym gefrūnon,and the kings who ruled them had courage and greatness.
hū ðā æþelingasellen fremedon.We have heard of those princes' heroic campaigns.
   Oft Scyld Scēfingsceaþena þrēatum,   There was Shield Sheafson, scourge of many tribes,
5monegum mǣgþummeodosetla oftēah,a wrecker of mead-benches, rampaging among foes.
egsode eorl[as],syððan ǣrest wearðThis terror of the hall-troops had come far.
fēasceaft funden;hē þæs frōfre gebād,A foundling to start with, he would flourish later on
wēox under wolcnum,weorðmyndum þāh,as his powers waxed and his worth was proved.
oðþæt him ǣghwylc þ[ǣr]ymbsittendraIn the end each clan on the outlying coasts
10ofer hronrādehȳran scolde,beyond the whale-road had to yield to him
gomban gyldan.Þæt wæs gōd cyning!and begin to pay tribute. That was one good king.
Ðǣm eafera wæsæfter cenned   Afterward a boy-child was born to Shield,
geong in geardum,þone God sendea cub in the yard, a comfort sent
folce tō frōfre;fyrenðearfe ongeatby God to that nation. Hew knew what they had tholed,
15þ[e] hīe ǣr drugonaldor[lē]asethe long times and troubles they'd come through
lange hwīle.Him þæs Līffrēa,without a leader; so the Lord of Life,
wuldres Wealdendworoldāre forgeaf;the glorious Almighty, made this man renowned.
Bēowulf wæs brēme---blǣd wīde sprang---Shield had fathered a famous son:
Scyldes eaferaScedelandum in.Beow's name was known through the north.
20Swā sceal [geong g]umagōde gewyrcean,And a young prince must be prudent like that,
fromum feohgiftumon fæder [bea]rme,giving freely while his father lives
þæt hine on yldeeft gewunigenso that afterward in age when fighting starts
wilgesīþasþonne wīg cume,steadfast companions will stand by him
lēode gelǣsten;lofdǣdum scealand hold the line. Behavior that's admired
25in mǣgþa gehwǣreman geþēon.is the path to power among people everywhere.
   Him ðā Scyld gewāttō gescæphwīle,   Shield was still thriving when his time came
felahrōr fēranon Frēan wǣre.and he crossed over into the Lord's keeping.
Hī hyne þā ætbǣrontō brimes faroðe,His warrior band did what he bade them
swǣse gesīþas,swā hē selfa bæd,when he laid down the law among the Danes:
30þenden wordum wēoldwine Scyldinga;they shouldered him out to the sea's flood,
lēof landfrumalange āhte.the chief they revered who had long ruled them.
Þǣr æt hȳðe stōdhringedstefnaA ring-whorled prow rode in the harbor,
īsig ond ūtfūs,æþelinges fær;ice-clad, outbound, a craft for a prince.
ālēdon þālēofne þēoden,They stretched their beloved lord in his boat,
35bēaga bryttanon bearm scipes,laid out by the mast, amidships,
mǣrne be mæste.Þǣr wæs mādma felathe great ring-giver. Far-fetched treasures
of feorwegum,frætwa gelǣded;were piled upon him, and precious gear.
ne hȳrde ic cȳmlīcorcēol gegyrwanI never heard before of a ship so well furbished
hildewǣpnumond heaðowǣdum,with battle-tackle, bladed weapons
40billum ond byrnum;him on bearme lægand coats of mail. The massed treasure
mādma mænigo,þā him mid scoldonwas loaded on top of him: it would travel far
on flōdes ǣhtfeor gewītan.on out into the ocean's sway.
Nalæs hī hine lǣssanlācum tēodan,They decked his body no less bountifully
þēodgestrēonum,þon þā dydonwith offerings than those first ones did
45þe hine æt frumsceafteforð onsendonwho cast him away when he was a child
ǣnne ofer ȳðeumborwesende.and launched him alone out over the waves.
Þā gȳt hie him āsettonsegen g[yl]denneAnd they set a gold standard up
hēah ofer hēafod,lēton holm beran,high above his head and let him drift
gēafon on gārsecg.Him wæs geōmor sefa,to wind and tide, bewailing him
50murnende mōd.Men ne cunnonand mourning their loss. No man can tell,
secgan tō sōðe,selerǣden[d]e,no wise man in hall or weathered veteran
hæleð under heofenum,hwā þǣm hlæste onfēng.knows for certain who salvaged that load.


 ・ Jack, George, ed. Beowulf: A Student Edition. Oxford: Clarendon, 1994.
 ・ Greenblatt, Stephen, ed. The Norton Anthology of English Literature. 8th ed. New York:: Norton, 2006.

Referrer (Inside): [2023-07-29-1]

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2017-04-17 Mon

#2912. AElfric's Life of King Oswald [oe][literature][popular_passage][pchron][oe_text]

 Ælfric の説教集の第3弾とされる The Lives of the Saints は,998年までに書かれたとされる.そのなかから Life of King Oswald の冒頭部分をサンプル・テキストとして取り上げよう.King Oswald は633--641年にノーサンブリアを治めた王で,その子孫とともに十字架を篤く崇拝した者として知られている.ルーン文字の刻まれたノーサンブリアの有名な Ruthwell Cross も,そのような十字架崇拝の伝統の所産だろう.
 Ælfric の説教集は多くの写本で現存しているが,以下の Smith 版テキストは,MS London, British Library Cotton Julius E.vii のものである.現代英語訳も付けて示す (Smith 132--33) .

Æfter ðan ðe Augustīnus tō Engla lande becōm, wæs sum æðele cyning, Oswold gehāten, on Norðhumbra lande, gelȳfed swyþe on God. Sē fērde on his iugoðe fram his frēondum and māgum tō Scotlande on sǣ, and þǣr sōna wearð gefullod, and his gefēran samod þe mid him sīðedon. Betwux þām wearð ofslagen Eadwine his ēam, Norðhumbra cynincg, on Crīst gelȳfed, fram Brytta cyninge, Ceadwalla gecīged, and twēgen his æftergengan binnan twām gēarum; and se Ceadwalla slōh and tō sceame tūcode þā Norðhumbran lēode æfter heora hlāfordes fylle, oð þæt Oswold se ēadiga his yfelnysse ādwǣscte. Oswold him cōm tō, and him cēnlīce wið feaht mid lȳtlum werode, ac his gelēafa hine getrymde, and Crīst gefylste tō his fēonda slege. Oswold þā ærǣrde āne rōde sōna Gode tō wurðmynte, ǣr þan þe hē tō ðām gewinne cōme, and clypode tō his gefērum:`Uton feallan tō ðǣre rōde, and þone Ælmihtigan biddan þæt hē ūs āhredde wið þone mōdigan fēond þe ūs āfyllan wile. God sylf wāt geare þæt wē winnað rihtlīce wið þysne rēðan cyning tō āhreddenne ūre lēode.' Hī fēollon þā ealle mid Oswolde cyninge on gebedum; and syþþan on ǣrne mergen ēodon tō þām gefeohte, and gewunnon þǣr sige, swā swā se Eallwealdend heom ūðe for Oswoldes gelēafan; and ālēdon heora fȳnd, þone mōdigan Cedwallan mid his micclan werode, þe wēnde þaet him ne mihte nān werod wiðstandan.


After Augustine came to England, there was a certain noble king, called Oswald, in the land of the Northumbrians, who believed very much in God. He travelled in his youth from his friends and kinsmen to Dalriada ("Scotland in sea"), and there at once was baptised, and his companions also who travelled with him. meanwhile his uncle Edwin, king of the Northumbrians, who believed in Christ, was slain by the king of the Britons, named Ceadwalla, as were two of his successors within two years; and that Ceadwalla slew and humiliated the Northumbrian people after the death of their lord, until Oswald the blessed put an end to his evil-doing. Oswald came to him, and fought with him boldly with a small troop, but his faith strengthened him, and Christ assisted in the slaying of his enemies. Oswald then immediately raised up a cross in honour of God, before he came to the battle, and called to his companions: "Let us kneel to the cross, and pray to the Almighty that he rid us from the proud enemy who wishes to destroy us. God himself knows well that we strive rightly against this cruel king in order to redeem our people." They then all knelt with King Oswald in prayers; and then early on the morrow they went to the fight, and gained victory there, just as the All-powerful granted them because of Oswald's faith; and they laid low their enemies, the proud Ceadwalla with his great troop, who believed that no troop could withstand him.


・ Smith, Jeremy J. Old English: A Linguistic Introduction. Cambridge: CUP, 2009.

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2017-04-14 Fri

#2909. Peterborough Chronicle の Early Britain の記述 [oe][literature][popular_passage][pchron][oe_text][pictish]

 何回目かになる,古英語のテキストとその現代英語訳を挙げるシリーズ(oe_text) .今回は,The Anglo-Saxon Chronicle のE写本,いわゆる Peterborough Chronicle からのテキストで,ブリテン島の地理,民族,言語,歴史が述べられている部分を抜粋する.初学者用に綴字の標準化された市川・松浪版 (86--89) より,現代英語訳も合わせて示そう.

Brytene īeȝland is eahta hund mīla lang, and twā hund mīla brād. And hēr sind on þȳs īeȝlande fīf ȝeþēodu: Englisc, and Brytwilisc, and Scyttisc, and Pyhtisc, and Bōclæden. Ǣrest wǣron būend þisses landes Bryttas; þā cōmon of Armenia, and ȝesǣton sūðewearde Brytene ǣrest. Þā ȝelamp hit þæt Pyhtas cōmon sūþan of Scithian, mid langum scipum, nā manigum. And þā cōmon ǣrest on Norþ-Ibernia ūp, and þǣr bǣdon Scottas þæt hīe ðǣr mōsten wunian. Ac hīe noldon him līefan, for ðǣm hīe cwǣdon þæt hīe ne mihten ealle ætgædere ȝewunian þǣr. And þā cwǣdon þā Scottas, `Wē ēow magon þēah hwæðere rǣd ȝelǣran, wē witon ōþer īeȝland hēr bē ēastan, þǣr ȝē magon eardian ȝif ȝē willað, and ȝif hwā ēow wiðstent, wē ēow fultumiað þæt ȝē hit mæȝen ȝegān.'
   ðā fērdon þā Pyhtas, and ȝefērdon þis land norþanweard, and sūþanweard hit hæfdon Bryttas, swā wē ǣr cwǣdon. And þā Pyhtas him ābǣdon wīf æt Scottas, on þā ȝerād þæt hīe ȝecuren hiera cynecynn ā on þā wīfhealfe. Þæt hīe hēoldon swā lange siððan. And þā ȝelamp hit ymbe ȝēara ryne þæt Scotta sum dǣl ȝewāt of Ibernian on Brytene, and þæs landes sumne dǣl ȝeēodon. And wæs hiera heretoga Reoda ȝehāten, from þǣm hie sind ȝenemnode Dǣl Reodi.

The island of Britain is eight hundred miles long, and two hundred miles broad. And here in this island are five languages: English, British, Pictish, and Latin. At first the inhabitants of this island were Britons; they came from Armenia, and first occupied Britain in the south (i.e. the southern part of Britain). Then it happened that the Picts came from the south from Scythia, with warships, not many. And they first landed in North Ireland, and there begged the Scots that they might dwell there. But they (= the Scots) would not allow them, because they said that they could not live there all together. And then the Scots said, `We can, however, give you advice: we know another island to the east from here, where you can dwell, if you wish; and if anyone resists you, we will help you that you may conquer it.'
   Then the Picts went away, and conquered the northern part of this land, and the Britons had the southern part of it, as we have said before. And the Picts asked wives for them from the Scots, on the conditions that they should choose their royal line always on the female side. They kept it for a long time. And it happened then, in the course of years, that some portion of the Scots departed from Ireland to Britain, and conquered some part of the land, And their leader was called Reoda; from him they are named (the people) of Dal Rialda.


・ 市河 三喜,松浪 有 『古英語・中英語初歩』 研究社,1986年.

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2017-04-11 Tue

#2906. 古英語聖書より「種をまく人の寓話」 [oe][popular_passage][bible][literature][oe_text][hel_education]

 「#2895. 古英語聖書より「岩の上に家を建てる」」 ([2017-03-31-1]) に引き続き,新約聖書を古英語訳で読んでみよう.今回は,同じくよく知られた Matthew 13: 3--8 の「種をまく人の寓話」を紹介する.市川・松浪 (84--86) より,現代英語訳も付して示す.

Sōþlīċe ūt ēode se sāwere his sǣd tō sāwenne. And þā þā hē sēow, sumu hīe fēollon wiþ weȝ, and fuglas cōmon and ǣton þā. Sōþlīċe sumu fēollon on stǣnihte, þǣr hit næfde miċle eorþan, and hrædlīċe ūp sprungon, for þǣm þe hīe næfdon þāre eorþen dēopan; sōþlīċe, ūp sprungenre sunnan, hīe ādrūgodon and forscruncon, for þǣm þe hīe næfdon wyrtruman. Sōþlīċe sumu fēollon on þornas, and þā þornas wēoxon, and forþrysmdon þā. Sumu sōþlīċe fēollon on gōde eorþan, and sealdon wæstm, sum hundfealdne, sum siextiȝfealdne, sum þrītiȝfealdne.


Truly the sower went out to sow his seeds. And while he was sowing, some of them fell along the way, and birds came and ate them. Truly some fell on stony ground where it had not much earth, and quickly sprang up, because they had not any deep earth; truly, the sun (being) risen up, they dried up and shrank up, because they had not roots. Truly some fell on thorns, and the thorns grew, and choked them. Some truly fell on good ground, and gave fruit, some hundredfold, some sixtyfold, (and) some thirtyfold.


・ 市河 三喜,松浪 有 『古英語・中英語初歩』 研究社,1986年.

Referrer (Inside): [2023-06-05-1]

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2017-04-07 Fri

#2902. Pope Gregory のキリスト教布教にかける想いとダジャレ [oe][literature][popular_passage][christianity][oe_text][pun]

 古英語末期を代表する散文作家 Ælfric (955--1010) は,標準的な West-Saxon 方言で多くの文章を残した.今回は,Catholic Homilies の第2集に収められた,Pope Gregory のイングランド伝道に対する熱い想いを綴った,有名なテキストを紹介しよう.市川・松浪のエディション (105--10) の POPE GREGORY より,古英語テキストと現代英語訳を示す.

   Þā underȝeat se pāpa þe on ðām tīman þæt apostoliċe setl ȝesæt, hū sē ēadiga Grēgōrius on hālgum mæȝnum ðēonde wæs, and hē ðā hine of ðǣre munuclican drohtnunge ȝenam, and him tō ȝefylstan ȝesette, on diaconhāde ȝeendebyrdne. Ðā ȝelāmp hit æt sumum sǣle, swā swā ȝȳt foroft dēð, þæt englisce ċȳpmenn brōhton heora ware tō Rōmāna byriȝ, and Gregorius ēode be ðǣre strǣt tō ðām engliscum mannum heora ðing scēawiȝende. Þā ȝeseah hē betwux ðām warum, ċȳpecnihtas ȝesette, þā wǣron hwītes līchaman and fæȝeres andwlitan menn, and æðelīċe ȝefexode.
   Grēgōrius ðā behēold þǣra cnapena wlite, and befrān of hwilċere þēode hī ȝebrohte wǣron. Þā sǣde him man þæt hī of engla lande wǣron, and þæt ðǣre ðēode mennisc swā wlitiȝ wǣre. Eft ðā Grēgōrius befrān, hwæðer þæs landes folc cristen wǣre ðe hǣðen. Him man sǣde þæt hī hǣðene wǣron. Grēgōrius ðā of innweardre heortan langsume siċċetunge tēah, and cwæð: “Wā lā wā, þæt swa fæȝeres hīwes menn sindon ðām sweartan dēofle underðēodde.” Eft hē āxode hū ðǣre ðēode nama wǣre, þe hī of comon. Him wæs ȝeandwyrd þæt hī Angle ȝenemnode wǣron. Þā cwæð hē: “rihtlīċe hī sind Angle ȝehātene, for ðan ðe hī engla wlite habbað, and swilcum ȝedafenað þæt hī on heofonum engla ȝefēran bēon.” Gȳt ðā Grēgōrius befrān, hū ðǣre scīre nama wǣre, þe ðā cnapan of ālǣdde wæron. Him man sǣde þæt ðā scīrmen wǣron Dēre ȝehātene. Grēgōrius andwyrde: “Wel hī sind Dēre ȝehātene. for ðan ðe hī sind fram graman ȝenerode, and tō cristes mildheortnysse ȝecȳȝede.” Gȳt ðā hē befrān: “Hū is ðǣre leode cyning ȝehāten?” Him wæs ȝeandswarod þæt se cyning Ælle ȝehāten wǣre. Hwæt, ðā Grēgōrius gamenode mid his wordum to ðām naman, and cwæð: “Hit ȝedafenað þæt alleluia sȳ ȝesungen on ðām lande. tō lofe þæs ælmihtigan scyppendes.”
   Grēgōrius ðā sōna ēode tō ðām pāpan þæs apostolican setles, and hine bæd þæt hē Angelcynne sume lārēowas āsende, ðe hī to criste ȝebiȝdon, and cwæð þæt hē sylf ȝearo wǣre þæt weorc tō ȝefremmenne mid godes fultume, ȝif hit ðām pāpan swā ȝelīcode. Þā ne mihte sē pāpa þæt ȝeðafian, þeah ðe hē eall wolde, for ðan ðe ðā rōmāniscan ċeasterȝewaran noldon ȝeðafian þæt swā ȝetoȝen mann and swā ȝeðungen lārēow þā burh eallunge forlēte, and swā fyrlen wræcsīð ȝename.

Then perceived the pope who at that time sat on the apostolic seat, how the blessed Gregory was thriving in the holy troops, and he then picked him up from the monastic condition, and made him (his) helper, (being) ordained to deaconhood. Then it happened at one time (= one day), as it yet very often does, that English merchants brought their wares to the city of Rome, and Gregory went along the street to the English men, looking at their things. Then he saw, among the wares, slaves set. They were men of white body and fair face, and excellently haired.
   Gregory then beheld the appearance of those boys, and asked from which country they were brought. Then he was told that they were from England, and that the people of that country were so beautiful. Then again Gregory asked whether the fold of the land was Christian or heathen. They told him that they were heathen. Gregory then drew a long sigh from the depth of (his) heart, and said, 'Alas! that men of so fair appearance are subject to the black devil.' Again he asked how the name of the nation was, where they came from. He was answered that they were named Angles. Then said he, 'rightly they are called Angles, because they have angels' appearance, and it befits such (people) that they should be angels' companions in heavens!' Still Gregory asked how the name of the shire was, from which they were led away. They told him that the shiremen were called Deirians. Gregory answered, 'They are well called Deirians, because they are delivered from ire, and invoked to Christ's mercy.' Still he asked 'How is the king of the people called?' He was answered that the king was called Ælle. What! then Gregory joked with his words to the name, and said, 'It is fitting that Halleluiah be sung in the land, in praise of the Almighty Creator.'
   Then Gregory at once went to the pope of the apostolic seat, and entreated him that he should send some preachers to the English, whom they converted to Christ, and said that he himself was ready to perform the work with God's help, if it so pleased the pope. The pope could not permit it, even if he quite desired (it), because the Roman citizens would not consent that such an educated and competent scholar should leave the city completely and take such a distant journey of peril.


 なお,この逸話の主人公は後の Gregory I だが,テキスト中で示されている pāpa は当時の Pelagius II を指している.この後,さすがに Gregory が自らイングランドに布教に出かけるというわけにはいかなかったので,後に Augustinus (St Augustine) を送り込んだというわけだ.
 この逸話を受けて,渡部とミルワード (50--51) は,英国のキリスト教はダジャレで始まったようなものだと評している.

渡部 若いときにグレゴリーがローマで非常に肌の白い,金髪の奴隷を見ました.で,その奴隷に「おまえはどこから来たのか」ときいたら,「アングル (Angle)」人と答えた.そこでグレゴリーは「おまえはアングル人じゃなくてエンジェル (angel) のようだ」といったというような有名な話があります.
ミルワード そう,有名なシャレです.ですから,ある意味でイギリスのキリスト教史は言葉のシャレから始まると言うことができます.--- Non angli, sed angeli, --- Not Angles, but angels.
渡部 そして,「おまえの国は?」と聞いたら「デイラ (Deira) です」とその奴隷は答えた.すると「〔神の〕怒から (de ira) 救われて,キリストの慈悲に招かれるであろう」とグレゴリーは言ってやった.それから「おまえの王様の名は何か」と聞いたら「エルラ (Ælla) です」と奴隷は答えた.するとグレゴリーはそれをアレルヤとかけて「エルラの国でもアルレルリア (Allelulia) と,神をたたえる言葉が唱えられるようにしよう」と言った有名な話がありますね.本当にジョークで始まったんですね,イギリスの布教は.


(後記 2024/04/13(Sat):Voicy 「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」にて,この1節の "Eft hē āxode . . . ȝefēran bēon." の部分について古英語音読していますのでご参照ください.「#1048. コアリスナーさんたちと古英語音読」です.)
(後記 2024/06/12(Wed):上記 Voicy で読み上げた部分の写本画像へのリンクです:Catholic Homilies, Second Series, "IX, St Gregory the Great" (MS Ii.1.33, fol. 140v)  *

・ 市河 三喜,松浪 有 『古英語・中英語初歩』 研究社,1986年.
・ 渡部 昇一,ピーター・ミルワード 『物語英文学史――ベオウルフからバージニア・ウルフまで』 大修館,1981年.

Referrer (Inside): [2024-06-13-1]

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2017-04-05 Wed

#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略 [bede][oe][literature][popular_passage][history][anglo-saxon][oe_text]

 Bede の古英語訳により,英語史上記念すべき449年の記述 ("The Coming of the English") を市川・松浪編の古英語テキスト(現代英語訳付き)で読んでみよう (pp. 89--94) .アングロサクソン人は,ブリトン人に誘われた機会に乗じて,いかにしてブリテン島に居座るに至ったのか.

   Ðā wæs ymb fēower hund wintra and nigon and fēowertiġ fram ūres Drihtnes menniscnysse þæt Martiānus cāsere rīċe onfēng and vii ġēar hæfde. Sē wæs syxta ēac fēowertigum fram Augusto þām cāsere. Ðā Angelþēod and Seaxna wæs ġelaðod fram þām foresprecenan cyninge, and on Breotone cōm on þrim miċlum scipum, and on ēastdæle þyses ēalondes eardungstōwe onfēng þurh ðæs ylcan cyninges bebode, þe hī hider ġelaðode, þæt hī sceoldan for heora ēðle compian and fohtan. And hī sōna compedon wið heora ġewinnan, þe hī oft ǣr norðan onherġedon; and Seaxan þā siġe e ġeslōgan. Þā sendan hī hām ǣrendracan and hēton secgan þysses landes wæstmbǣrnysse and Brytta yrgþo. And hī sōna hider sendon māran sciphere strengran wiġena; and wæs unoferswīðendliċ weorud,þā hī tōgædere ġeþēodde wǣron. And him Bryttas sealdan and ġēafan eardungstōwe betwih him, þæt hī for sibbe and for hǣlo heora ēðles campodon and wunnon wið heora fēondum, and hī him andlyfne and āre forġēafen for heora ġewinne.
   Cōmon hī of þrim folcum ðām strangestan Germānie, þæt is of Seaxum and of Angle and of Ġēatum. Of Ġēata fruman syndon Cantware and Wihtsǣtan; þæt is se þēod þe Wiht þæt ēalond oneardað. Of Seaxum, þæt is of ðām lande þe mon hāteð Ealdseaxan, cōmon Ēastseaxan and Sūðseaxan and Westseaxan. And of Engle cōman Ēastngle and Middelengle and Myrċe and eall Norðhembra cynn; is þæt land ðe Angulus is nemned, betwyh Ġēatum and Seaxum; and is sǣd of ðǣre tīde þe hī ðanon ġewiton oð tōdæġe þæt hit wēste wuniġe. Wǣron ǣrest heora lāttēowas and heretogan twēġen ġebrōðra, Henġest and Horsa. Hī wǣron Wihtgylses suna, þæs fæder wæs Witta hāten, þæs fæder wæs Wihta hāten, þæs fæder wæs Woden nemned, of ðæs strȳnde moniġra mǣġðra cyningcynn fruman lǣdde. Ne wæs ðā ylding tō þon þæt hī hēapmǣlum cōmon māran weorod of þām þēodum þe wǣ ǣr ġemynegodon. And þæt folc ðe hider cōm ongan weaxan and myċlian tō þan swīðe þæt hī wǣron on myclum eġe þām sylfan landbīġengan ðe hī ǣr hider laðedon and cȳġdon.


   It was 449 years after our Lord's incarnation that the emperor Martianus received the kingdom, and he had (it) seven years. He was the forty-sixth from the emperor Augustus. Then the Angles and Saxons were invited by the aforesaid king (Vortigern), and came to Britain on three great ships, and received a dwelling place in the east of this island by order of the same king, who invited them hither, that they should strive and fight for their country. And they soon fought with their enemies who had oft harassed them from the north before; and the Saxons won victory then. Then they sent home messengers and bade (them) tell the fertility of this land and the Britons' cowardice. And then they sent a larger fleet of the stronger friends soon; and (it) was an invincible troop when there were united together. And the Britons gave and alloted them habitation among themselves, on the condition that they should fight for the peace and safety of their country and resist their enemies, and they (the Britons) should give them sustenance and estates in return for their strife.
   They came of the three strongest races of Germany, that is, of Saxons and of Angles and of Jutes. Of Jutes' origin are the people of Kent and the 'Wihtsætan', that is, the people who inhabit the Isle of Wight. Of the Saxons, of the land (of the people) that is called Old Saxons, came the East Saxons, the South Saxons, and the West Saxons. And of Angles came the East Angles and the Middle Angles and Mercians and the whole race of Northumbria; it is the land that is called Angulus, between the Jutes and the Saxons; and it is said from the time when they departed thence till today that it remains waste. At first their leaders and commanders were two brothers, Hengest and Horsa. They were the sons of Wihtgyls, whose father was called Witta, whose father was named Wihta, whose father was named Woden, of whose stock the royal families of many tribes took their origin. There was no delay until they came in crowds, larger hosts from the tribes that we had mentioned before. And the people who came hither began to increase and multiply so much that they were a great terror to the inhabitants themselves who had invited and invoked them hither.


・ 市河 三喜,松浪 有 『古英語・中英語初歩』 研究社,1986年.

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2017-04-03 Mon

#2898. Caedmon's Hymn [oe][popular_passage][literature][bede][oe_text][caedmon]

 731年に完成したとされる Bede の Historia Ecclesiastica Gentis Anglorum (= Ecclesiastical History of the English People) は,アルフレッド大王の時代にマーシアの学者によって古英語に訳されている.そこには文盲の牛飼い Cædmon が霊感を得て作成したとされる,9行からなる現存する最古の古英詩 Cædmon's Hymn が収録されているが,そのテキストについては,さらに早い8世紀初頭の Bede のラテン語写本 (MS Kk. v. 16, Cambridge University Library; 通称 "Moore Manuscript") の中に,ノーサンブリア方言で書かれたバージョンも残されている.まず,オリジナルに最も近いと言われる Moore バージョンのテキストおよび現代英語訳を Irvine (37) より再掲しよう.

Nu scylun hergan   hefænricæs uard,
metudæs mæcti   end his modgidanc,
uerc uuldurfadur,   sue he uundra gihuæs,
eci dryctin,   or astelidæ.
He ærist scop   aelda barnum
heben til hrofe,   haleg scepen;
tha middungeard   moncynnæs uard,
eci dryctin,   æfter tiadæ
firum foldu,   frea allmectig.
   

Now [we] must praise the Guardian of the heavenly kingdom, the Creator's might and His intention, the glorious Father's work, just as He, eternal Lord, established the beginning of every wonder. He, holy Creator, first shaped heaven as a roof for the children of men, then He, Guardian of mankind, eternal Lord, almighty Ruler, afterwards fashioned the world, the earth, for men.


 次に,アルフレッド時代のものを Mitchell (212) より引用する.両テキスト間の綴字,音韻,形態,語彙の差に注意したい.

   Nū sculon heriġean   heofonrīċes weard,
Meotodes meahte   ond his mōdġeþanc,
weorc wuldorfæder,   swā hē wundra ġehwæs,
ēċe Drihten,   ōr onstealde.
   Hē ǣrest scēop   eorðan bearnum
heofon tō hrōfe,   hāliȝ Scyppend;
þā middanġeard   monncynnes weard,
ēċe Drihten,   æfter tēode
fīrum foldan,   Frēa ælmihtiġ.


 ・ Irvine, Susan. "Beginnings and Transitions: Old English." Chapter 2 of The Oxford History of English. Ed. Lynda Mugglestone .Oxford: OUP, 2006.
 ・ Mitchell, Bruce. An Invitation to Old English and Anglo-Saxon England. Blackwell: Malden, MA, 1995.

Referrer (Inside): [2019-08-04-1]

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2017-03-31 Fri

#2895. 古英語聖書より「岩の上に家を建てる」 [oe][popular_passage][bible][literature][oe_text][hel_education][voicy]

 古英語訳の聖書は,古英語読解のための初級者向け教材として有用である.近代英語の欽定訳聖書 (The Authorized Version) や現代英語版はもちろん,日本語を含むありとあらゆる言語への訳も出されており,比較・参照できるからだ.
 以下,新約聖書より Matthew 7: 24--27 の「岩の上に家を建てる」寓話について,古英語版テキストを MS Corpus Christi College Cambridge 140 より示そう (Mitchell 60) .合わせて,対応する近代英語テキストを欽定訳聖書より引用する.

Ǣlċ þāra þe ðās mīne word ġehȳrþ and þā wyrcþ byþ ġelīċ þǣm wīsan were se hys hūs ofer stān ġetimbrode.
Þā cōm þǣr reġen and myċel flōd and þǣr blēowon windas and āhruron on þæt hūs and hyt nā ne fēoll・ sōþlīċe hit wæs ofer stān ġetimbrod.
And ǣlċ þāra þe ġehȳrþ ðās mīne word and þā ne wyrcþ・ sē byþ ġelīċ þǣm dysigan menn þe ġetimbrode hys hūs ofer sand-ċeosel.
Þā rīnde hit and þǣr cōmon flōd and blēowon windas and āhruron on þæt hūs and þæt hūs fēoll・ and hys hryre wæs miċel


Therefore whosoever heareth these sayings of mine, and doeth them, I will liken him unto a wise man, which built his house upon a rock:
And the rain descended, and the floods came, and the winds blew, and beat upon that house; and it fell not: for it was founded upon a rock.
And every one that heareth these sayings of mine, and doeth them not, shall be likened unto a foolish man, which built his house upon the sand:
And the rain descended, and the floods came, and the winds blew, and beat upon that house; and it fell: and great was the fall of it.


 聖書に関する古英語テキストについては,「#1803. Lord's Prayer」 ([2014-04-04-1]),「#1870. 「創世記」2:18--25 を7ヴァージョンで読み比べ」 ([2014-06-10-1]) も参照されたい.

(後記 2022/05/03(Tue):Voicy 「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」にて,この1節を古英語の発音で読み上げていますのでご参照ください.「古英語をちょっとだけ音読 マタイ伝「岩の上に家を建てる」寓話より」です.)

・ Mitchell, Bruce. An Invitation to Old English and Anglo-Saxon England. Blackwell: Malden, MA, 1995.

Referrer (Inside): [2023-06-05-1] [2017-04-11-1]

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2017-03-30 Thu

#2894. 793年,ヴァイキングによるリンディスファーン島襲撃 [anglo-saxon_chronicle][popular_passage][oe][history][literature][oe_text]

 Anglo-Saxon Chronicle は,アルフレッド大王の命により890年頃に編纂が開始された年代記である.古英語で書かれており,9写本が現存している.最も長く続いたものは通称 Peterborough Chronicle と呼ばれもので,1154年までの記録が残っている.以下の抜粋は,Worcester Chronicle と呼ばれるバージョンの793年の記録である(Crystal 19 より現代英語訳も合わせて引用).数年前からイングランドに出没し始めたヴァイキングが,この年に,ノーサンブリアのリンディスファーン島を襲った.イングランド人の怯える様が,印象的に記されている.最後に言及されている Sicga なる人物は,788年にノーサンブリア王 Ǣlfwald を殺した悪名高い貴族である.

Ann. dccxciii. Her ƿæron reðe forebecna cumene ofer noðhymbra land . 7 þæt folc earmlic breȝdon þæt ƿæron ormete þodenas 7 liȜrescas . 7 fyrenne dracan ƿæron ȝeseƿene on þam lifte fleoȝende. þam tacnum sona fyliȝde mycel hunȝer . 7 litel æfter þam þæs ilcan ȝeares . on . vi. id. ianr . earmlice hæþenra manna herȝunc adileȝode ȝodes cyrican in lindisfarna ee . þurh hreaflac 7 mansliht . 7 Sicȝa forðferde . on . viii . kl. martius.


Year 793. Here were dreadful forewarnings come over the land of Northumbria, and woefully terrified the people: these were amazing sheets of lightning and whirlwinds, and fiery dragons were seen flying in the sky. A great famine soon followed these signs, and shortly after in the same year, on the sixth day before the ides of January, the woeful inroads of heathen men destroyed god's church in Lindisfarne island by fierce robbery and slaughter. And Sicga died on the eighth day before the calends of March.


 歴史上,この793年の事件は,イングランドにおける本格的なヴァイキングの侵攻の開始を告げる画期的な出来事である.

 ・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.

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2017-03-29 Wed

#2893. Beowulf の冒頭11行 [beowulf][link][oe][literature][popular_passage][oe_text][hel_education]

 Beowulf は,古英語で書かれた最も長い叙事詩(3182行)であり,アングロサクソン時代から現存する最も重要な文学作品である.スカンディナヴィアの英雄 Beowulf はデンマークで怪物 Grendel を殺し,続けてその母をも殺した.Beowulf は後にスウェーデン南部で Geat 族の王となるが,年老いてから竜と戦い,戦死する.
 この叙事詩は,古英語で scop と呼ばれた宮廷吟遊詩人により,ハープの演奏とともに吟じられたとされる.現存する唯一の写本(1731年の火事で損傷している)は1000年頃のものであり,2人の写字生の手になる.作者は不詳であり,いつ制作されたかについても確かなことは分かっていない.8世紀に成立したという説もあれば,11世紀という説もある.
 冒頭の11行を Crystal (18) より,現代英語の対訳付きで以下に再現しよう.

1HǷÆT ǷE GARDEna in ȝeardaȝum .Lo! we spear-Danes in days of old
2þeodcyninȝa þrym ȝefrunonheard the glory of the tribal kings,
3hu ða æþelinȝas ellen fremedon .how the princes did courageous deeds.
4oft scyld scefing sceaþena þreatumOften Scyld Scefing from bands of enemies
5monegū mæȝþum meodo setla ofteahfrom many tribes took away mead-benches,
6eȝsode eorl[as] syððan ærest ƿearðterrified earl[s], since first he was
7feasceaft funden he þæs frofre ȝebadfound destitute. He met with comfort for that,
8ƿeox under ƿolcum, ƿeorðmyndum þah,grew under the heavens, throve in honours
9oðþ[æt] him æȝhƿylc þara ymbsittendrauntil each of the neighbours to him
10ofer hronrade hyran scoldeover the whale-road had to obey him,
11ȝomban ȝyldan þ[æt] ƿæs ȝod cyninȝ.pay him tribute. That was a good king!


 冒頭部分を含む写本画像 (Cotton MS Vitellius A XV, fol. 132r) は,こちらから閲覧できる.その他,以下のサイトも参照.

 ・ Cotton MS Vitellius A XV, Augustine of Hippo, Soliloquia; Marvels of the East; Beowulf; Judith, etc.: 写本画像を閲覧可能.
 ・ Beowulf: BL による物語と写本の解説.
 ・ Beowulf Readings: 古英語原文と「読み上げ」へのアクセスあり.
 ・ Beowulf Translation: 現代英語訳.
 ・ Diacritically-Marked Text of Beowulf facing a New Translation (with explanatory notes): 古英語原文と現代英語の対訳のパラレルテキスト.

 ・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.

Referrer (Inside): [2023-07-29-1] [2017-04-20-1]

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2016-11-08 Tue

#2752. dialect という用語について [greek][terminology][dialect][standardisation][koine][literature][register][language_or_dialect][dialect_levelling]

 Haugen (922--23) によれば,dialect という英単語は,ルネサンス期にギリシア語から学術用語として借用された語である.OED の「方言」の語義での初例は1566年となっており,そこでは英語を含む土着語の「方言」を表わす語として用いられている.フランス語へはそれに先立つ16年ほど前に入ったようで,そこではギリシア語を評して abondante en dialectes と表現されている.1577年の英語での例は,"Certeyne Hebrue dialectes" と古典語に関するものであり,1614年の Sir Walter Raleigh の The History of the World では,ギリシア語の "Æeolic Dialect" が言及されている.英語での当初の使い方としては,このように古典語の「方言」を指して dialect という用語が使われることが多かったようだ.そこから,近代当時の土着語において対応する変種の単位にも応用されるようになったのだろう.
 ギリシア語に話を戻すと,古典期には統一した標準ギリシア語なるものはなく,標準的な諸「方言」の集合体があるのみだった.だが,注意すべきは,これらの「方言」は,話し言葉としての方言に対してではなく,書き言葉としての方言に対して与えられた名前だったことである.確かにこれらの方言の名前は地方名にあやかったものではあったが,実際上は,ジャンルによって使い分けられる書き言葉の区分を表わすものだった.例えば,歴史書には Ionic,聖歌歌詞には Doric,悲劇には Attic などといった風である (see 「#1454. ギリシャ語派(印欧語族)」 ([2013-04-20-1])) .
 これらのギリシア語の書き言葉の諸方言は,元来は,各地方の話し言葉の諸方言に基盤をもっていたに違いない.後者は,比較言語学的に再建できる古い段階の "Common Greek" が枝分かれした結果の諸方言である.古典期を過ぎると,これらの話し言葉の諸方言は消え去り,本質的にアテネの方言であり,ある程度の統一性をもった koiné によって置き換えられていった (= koinéization; see 「#1671. dialect contact, dialect mixture, dialect levelling, koineization」 ([2013-11-23-1])) .そして,これがギリシア語そのもの (the Greek language) と認識されるようになった.
 つまり,古典期からの歴史をまとめると,"several Greek dialects" → "the Greek language" と推移したことになる.諸「方言」の違いを解消して,覇権的に統一したもの,それが「言語」なのである.本来この歴史的な意味で理解されるべき dialect (と language)という用語が,近代の土着語に応用される及び,用語遣いの複雑さをもたらすことになった.その複雑さについては,明日の記事で.

 ・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.

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