昨日の記事 ([2018-01-18-1]) に引き続き,ドーキンスのミーム論について.先の記事で言語をミームと捉える視点を導入したが,注意すべきは,ここに目的論 (teleology) は一切含まれていないことだ.ドーキンスの説を目的論と結びつけるのは,「利己的な遺伝子」 (selfish genes) というキーワードがしばしば引き起こしてきた誤解である.同説を言語に応用する場合にも,この点には気をつけておかなければならない.ドーキンスも何度となく念押ししているが,ミームに関する箇所から引用しよう (303--04) .
ミームと遺伝子の類似点をもっと調べてみることにしよう.本書の全体を通じて私は,遺伝子を,意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた.しかし,遺伝子は,盲目的な自然淘汰のはたらきによって,あたかも目的をもって行動する存在であるかのように仕立てられている.そこで,ことばの節約という立場からは,目的意識を前提にした表現を遺伝子に当てはめてしまったほうが便利だというわけだった.たとえば,「遺伝子は,将来の遺伝子プールの中における自分のコピーの数を増やそうと努力している」と表現した場合,実際の意味は「われわれが自然界においてその効果を目にすることができる遺伝子は,将来の遺伝子プール中における自分の数を結果的に増加させることのできるような挙動を示す遺伝子だろう」ということなのだ.自己の生存のために目的志向的にはたらく能動的な存在として遺伝子を考えることが便利だったのとまったく同様に,ミームに関しても同じように考えれば便利なのではあるまいか.いずれの場合も,表現を神秘的に解釈されては困る.目的の観念はいずれにおいても単なる比喩にすぎないのだ.しかし,遺伝子の場合にこの比喩がどんなに有用だったかはすでに見たとおりである.われわれは,それが単なる比喩であることを十分承知した上で,遺伝子に対して,「利己的な」とか「残忍な」とかいう形容詞をさえ用いたほどである.これらの場合とまったく同じ心構えで,利己的なミームや残忍なミームを物色することができるだろうか.
ドーキンスは最後の自問に,Yes だろうと答えている.ミームは意識も先見能力ももたない自己複製子であり,あくまで非目的論的な存在である.したがって,ミームとしての言語を想定するならば,それもまた非目的論的に振る舞うだろうと推測される.
言語変化における teleology については,「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]),「#1382. 「言語変化はただ変化である」」 ([2013-02-07-1]),「#2525. 「言語は変化する,ただそれだけ」」 ([2016-03-26-1]),「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]),「#2837. 人類史と言語史の非目的論」 ([2017-02-01-1]) などを参照.
・ ドーキンス,リチャード(著),日高 敏隆・岸 由二・羽田 節子・垂水 雄二(訳) 『利己的な遺伝子』増補新装版 紀伊國屋書店,2006年.
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