標記の /s/ + 無声破裂音の子音群は,英語史上,音韻論的に特異な振る舞いを示してきた.その特異性は英語音韻論の世界では広く知られており,様々な考察と分析がなされてきた.以下,池頭 (132--33, 136--38) に依拠して解説しよう.
まず,グリムの法則 (grimms_law) は,この子音群の第2要素として現われる破裂音には適用されなかったことが知られている.「#641. ゲルマン語の子音性 (3)」 ([2011-01-28-1]) と「#662. sp-, st-, sk- が無気音になる理由」 ([2011-02-18-1]) でみたように,[s] の気息の影響で後続する破裂音の摩擦音化がブロックされたためである.
次に,古英語や古ノルド語の頭韻詩で確認されるように,sp-, st-, sc- をもつ単語は,この組み合わせをもつ別の単語としか頭韻をなすことができなかった.つまり,音声学的には2つの分節音からなるにもかかわらず,あたかも1つの音のように振る舞うことがあるということだ.
また,「#2063. 長母音に対する制限強化の歴史」 ([2014-12-20-1]) の (6) でみた「2子音前位置短化」 (shortening before two consonants) により,fīfta > fifta, sōhte > sohte, lǣssa > læssa などと短化が生じたが,prēstes では例外的に短化が起こらなかった.いずれの場合においても,/s/ とそれに続く破裂音との相互関係が密であり,合わせて1つの単位として振る舞っているかのようにみえる.
加えて,/sp/, /st/, /sk/ は,Onset に起こる際に子音の生起順序が特異である.Onset の子音結合では,聞こえ度 (sonority) の低い子音に始まり,高い子音が続くという順序,つまり「低→高」が原則である.ところが,[s] は [t] よりも聞こえ度が高いので,sp- などでは「高→低」となり,原則に反する.
最後に付け加えれば,言い間違いの研究からも,当該子音群に関わる言い間違いに特異性が認められるとされる.
以上の課題に直面し,音韻論学者は問題の子音群を,(1) あくまで2子音として扱う,(2) 2子音ではあるが1つのまとまり (複合音素; composite phoneme)として扱う,(3) 1子音として扱う,などの諸説を提起してきた.新しい考え方として,池頭 (138) は,依存音韻論 (dependency phonology) の立場から,当該の子音結合は /s/ を導入部とし,破裂音を主要部とする "contour segment" であるとする分析を提案している."contour segment" の考え方は,初期中英語で起こったとされる同器性長化 (homorganic_lengthening) に関係する /mb/ などの子音結合にも応用できるようである.
・ 池頭(門田)順子 「"Consonant cluster" と音変化 その特異性と音節構造をめぐって」『生成言語研究の現在』(池内正幸・郷路拓也(編著)) ひつじ書房,2013年.127--43頁.
認知言語学では,プロトタイプ (prototype) の考え方が重視される.アリストテレス的なデジタルなカテゴリー観に疑問を呈した Wittgenstein (1889--1951) が,ファジーでアナログな家族的類似 (family resemblance) に基づいたカテゴリー観を示したのを1つの源流として,プロトタイプは認知言語学において重要なキーワードとして発展してきた.プロトタイプ理論によると,カテゴリーは素性 (feature) の有無の組み合わせによって表現されるものではなく,特性 (attribute) の程度の組み合わせによって表現されるものである.程度問題であるから,そのカテゴリーの中心に位置づけられるような最もふさわしい典型的な成員もあれば,周辺に位置づけられるあまり典型的でない成員もあると考える.例えば,「鳥」というカテゴリーにおいて,スズメやツバメは中心的(プロトタイプ的)な成員とみなせるが,ペンギンやダチョウは周辺的(非プロトタイプ的)な成員である.コウモリは科学的知識により哺乳動物と知られており,古典的なカテゴリー観によれば「鳥」ではないとされるが,プロトタイプ理論のカテゴリー観によれば,限りなく周辺的な「鳥」であるとみなすこともできる.このように,「○○らしさ」の程度が100%から0%までの連続体をなしており,どこからが○○であり,どこからが○○でないかの明確な線引きはできないとみる.
考えてみれば,人間は日常的に事物をプロトタイプの観点からみている.赤でもなく黄色でもない色を目にしてどちらかと悩むのは,プロトタイプ的な赤と黄色を知っており,いずれからも遠い周辺的な色だからだ.逆に,赤いモノを挙げなさいと言われれば,日本語母語話者であれば,典型的に郵便ポスト,リンゴ,トマト,血などの答えが返される.同様に,「#1962. 概念階層」 ([2014-09-10-1]) で話題にした FURNITURE, FRUIT, VEHICLE, WEAPON, VEGETABLE, TOOL, BIRD, SPORT, TOY, CLOTHING それぞれの典型的な成員を挙げなさいといわれると,多くの英語話者の答えがおよそ一致する.
英語の FURNITURE での実験例をみてみよう.E. Rosch は,約200人のアメリカ人学生に,60個の家具の名前を与え,それぞれがどのくらい「家具らしい」かを1から7までの7段階評価(1が最も家具らしい)で示させた.それを集計すると,家具の典型性の感覚が驚くほど共有されていることが明らかになった.Rosch ("Cognitive Representations of Semantic Categories." Journal of Experimental Psychology: General 104 (1975): 192--233. p. 229) の調査報告を要約した Taylor (46) の表を再現しよう.
Member | Rank | Specific score |
---|---|---|
chair | 1.5 | 1.04 |
sofa | 1.5 | 1.04 |
couch | 3.5 | 1.10 |
table | 3.5 | 1.10 |
easy chair | 5 | 1.33 |
dresser | 6.5 | 1.37 |
rocking chair | 6.5 | 1.37 |
coffee table | 8 | 1.38 |
rocker | 9 | 1.42 |
love seat | 10 | 1.44 |
chest of drawers | 11 | 1.48 |
desk | 12 | 1.54 |
bed | 13 | 1.58 |
bureau | 14 | 1.59 |
davenport | 15.5 | 1.61 |
end table | 15.5 | 1.61 |
divan | 17 | 1.70 |
night table | 18 | 1.83 |
chest | 19 | 1.98 |
cedar chest | 20 | 2.11 |
vanity | 21 | 2.13 |
bookcase | 22 | 2.15 |
lounge | 23 | 2.17 |
chaise longue | 24 | 2.26 |
ottoman | 25 | 2.43 |
footstool | 26 | 2.45 |
cabinet | 27 | 2.49 |
china closet | 28 | 2.59 |
bench | 29 | 2.77 |
buffet | 30 | 2.89 |
lamp | 31 | 2.94 |
stool | 32 | 3.13 |
hassock | 33 | 3.43 |
drawers | 34 | 3.63 |
piano | 35 | 3.64 |
cushion | 36 | 3.70 |
magazine rack | 37 | 4.14 |
hi-fi | 38 | 4.25 |
cupboard | 39 | 4.27 |
stereo | 40 | 4.32 |
mirror | 41 | 4.39 |
television | 42 | 4.41 |
bar | 43 | 4.46 |
shelf | 44 | 4.52 |
rug | 45 | 5.00 |
pillow | 46 | 5.03 |
wastebasket | 47 | 5.34 |
radio | 48 | 5.37 |
sewing machine | 49 | 5.39 |
stove | 50 | 5.40 |
counter | 51 | 5.44 |
clock | 52 | 5.48 |
drapes | 53 | 5.67 |
refrigerator | 54 | 5.70 |
picture | 55 | 5.75 |
closet | 56 | 5.95 |
vase | 57 | 6.23 |
ashtray | 58 | 6.35 |
fan | 59 | 6.49 |
telephone | 60 | 6.68 |
「#1618. 英語の /l/ と /r/」 ([2013-10-01-1]) および昨日の記事「#1817. 英語の /l/ と /r/ (2)」 ([2014-04-18-1]) に引き続き,/r/ の話題.今回は日本語の /r/ の音声的実現についてである.
日本語のラ行の子音 /r/ は,典型的には,有声歯茎はじき音 [ɾ] として実現される.特に「あられ」のように,母音に挟まれた環境ではこれが普通である.この音は,BrE の merry や AmE の letter の第2子音として典型的に現れる音でもある.調音音声学的には,この音は有声歯茎閉鎖音 /d/ にかなり近いが,[ɾ] では舌尖と歯茎による閉鎖が弱く,その時間も短いという特徴がある.「ライオン」などの語頭や「アッラー」などの促音の後では接触が強くなり,/d/ にさらに近づくが,閉鎖の開放は弱めである.
意外と知られてないことだが,日本語母語話者の個人によっては,有声側面接近音 [l] に近い子音がラ行子音として用いられている.語頭や撥音の後で現われることが多いが,母音間でも側音に近くなる人もいる.ぴったりの音声標記はないが,有声そり舌破裂音 [ɖ] や 有声歯茎側面はじき音 [ɺ] や(接触が長い場合の)舌尖による有声歯茎側面接近音 [l̺] にも近いので,これらで代用する方法もある.有声歯茎側面はじき音 [ɺ] は,いわば [l] をはじき音化したものだが,タンザニアのチャガ語などで聞かれる子音である.
ほかにも「べらんめえ口調」に典型的とされる有声歯茎ふるえ音 [r] が,日本語 /r/ の自由異音として現れることがある.
以上,斉藤 (91) と佐藤 (43) を参照した.
・ 斉藤 純男 『日本語音声学入門』改訂版 三省堂,2013年.
・ 佐藤 武義(編著) 『展望 現代の日本語』 白帝社,1996年.
英語の /l/ と /r/ については,「#72. /r/ と /l/ は間違えて当然!?」 ([2009-07-09-1]),「#1597. star と stella」 ([2013-09-10-1]),「#1614. 英語 title に対してフランス語 titre であるのはなぜか?」 ([2013-09-27-1]) などで扱ってきた.とりわけ調音について「#1618. 英語の /l/ と /r/」 ([2013-10-01-1]) で概要を記したが,今回は一部重複するものの,それに補足する内容の記事を Crystal (245) に依拠して書く.
前の記事でも見たように,英語の音素 /l/ は,様々な音声として実現される.[l] の基本的な調音は,舌先を歯茎に接し,舌の側面から呼気を抜けさせるものだが,舌のとる形に応じて大きく2種類が区別される.それぞれ "clear l" と "dark l" と呼ばれる.前者 [l] は,前舌が硬口蓋に向かって上がるもので,前母音の響きをもち,RP では母音や [j] の前位置で起こる (ex. leap) .後者 [ɫ] は,後舌が軟口蓋に向かって上がるもので,後母音の響きをもち,RP ではそれ以外の位置で起こる (ex. pool) .ただし,clear l と dark l の分布は,諸変種において様々であり,例えば,Irish の一部であらゆる位置で clear l が聞かれたり,Scots や AmE の多くであらゆる位置で dark l が聞かれる.また,please, sleep のような無声子音の後位置では無声化した [l] が用いられる.そのほか,bottle のように音節主音的な l では,先行する [t] の側面破裂を伴う.Cockney 方言や一部 RP ですら,peel などの dark l が母音化し,[piːo] などとなる.
英語の音素 /r/ は,おそらく変種による差や個人差が最も多い子音だろう.最も普通には有声歯茎接近音 [ɹ] として実現される.d に後続する場合には,舌先が歯茎に限りなく接近し,摩擦音化が生じる (ex. drive) .母音に挟まれた位置やいくつかの子音の後位置で,日本語の典型的なラ行の子音と同じような有声歯茎はじき音 [ɾ] となる (ex. very, sorry, three) .気息を伴う [ph, th, kh] の後位置では無声摩擦音となる (ex. pry, try, cry) .
変種による異音としては,最も有名なのが有声そり舌接近音の [ɻ] で,先行する母音の音色を帯びる.General American に典型的だが,ほかにもイングランド南西部や東南アジアの変種でも聞かれる.有声歯茎ふるえ音の [r] は,Scots や Welsh の一部で聞かれるが,その他の変種でも格調高い発音において現れることがある.そのほか,フランス語やドイツ語で一般的に聞かれる有声口蓋垂摩擦音 [ʁ] あるいは有声口蓋垂ふるえ音 [ʀ] が,イングランド北東方言や一部スコットランド方言でも聞かれ,"Northumbrian burr" と呼ばれることがある(「#1055. uvular r の言語境界を越える拡大」 ([2012-03-17-1]) を参照).最後に,19世紀前半のイングランドで,red を [wed] と発音するように /r/ を [w] で代用することがはやったことを付け加えておこう.
なお,音素としては /r/ ではないが,AmE で matter の t は有声歯茎はじき音 [ɾ] として実現されることが多く,party の t は有声そり舌はじき音 [ɽ] で発音される.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
日本語のルーツについての有力な説の1つに,オーストロネシア系 (Austronesian) とアルタイ系 (Altaic) の言語が融合したとする説がある.オーストロネシア語族の音韻論的な特徴としては,開音節が多い,区別される音素が少ないというものがあり,確かに日本語の比較的単純な音素体系にも通じる.
日本語の音素が比較的少ない点については「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1]) および「#1023. 日本語の拍の種類と数」 ([2012-02-14-1]) で触れたが,そこでは関連してハワイ語にも触れた.ハワイ語もオーストロネシア語族に属する言語で,8つの子音 /w, m, p, l, n, k, h, ʔ/ と5つの母音 /a, i, u, e, o/ を区別するにすぎない(コムリー,p. 95).ところが,世界にはもっと音素が少ない言語があるのである.
地理的にオーストロネシア語族と隣接しているパプア諸語も,音韻体系は単純である.そのなかでも,東パプアニューギニアの Bougainville Province で4千人ほどの話者によって話されているロトカス語 (Rotokas) は,6つの子音 /b, g, k, p, r, t/ と5つの母音 /a, e, i, o, u/ の計11音素(と対応する11の文字)しかもたない(Ethnologue より,関連する言語地図はこちら).コムリー (106) によれば,これは世界最少の音素数であり,とりわけ子音の少なさについては1985年のギネスブック (199) に登録されているほどである.
子音についていえば,最多を誇るのは「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1]) でも触れたウビフ語である.80--85個の子音をもつという.母音の最少は,コーカサス地方のアブハズ語で2母音しかもたない.母音音素の最多はベトナム中央部のセダン語で,明確に区別できる55の母音をもつという.世界は広い.
同じギネスブック (198--201) では,言語についての興味深い「世界一」が,他にもいろいろと挙げられており,一見の価値がある.言語のびっくり統計は,Language statistics & facts も参考になる.
・ バーナード・コムリー,スティーヴン・マシューズ,マリア・ポリンスキー 編,片田 房 訳 『新訂世界言語文化図鑑』 東洋書林,2005年.
・ ノリス・マクワーター 編,青木 栄一・大出 健 訳 『ギネスブック』 講談社,1985年.
音節 (syllable) には様々な定義が与えられうるが,広く受け入れられているものとして,分節音の音声的な聞こえ度 (sonority) に依存する定義がある.聞こえ度そのものは,"the overall loudness of a sound relative to others of the same pitch, stress and duration" (Crystal 442) のように定義される.各分節音が本来的にもつ聞こえやすさの程度と解釈できる.
分節音の聞こえ度の測定は様々になされており,その値については実験ごとに詳細は異なるかもしれないが,おおまかな分類や順位については研究者のあいだで一致をみている.その1例として,Hogg and McCully (33) に挙げられている英語の分節音の sonority scale を示そう.
Sounds | Sonority values | Examples |
---|---|---|
low vowels | 10 | /a, ɑ/ |
mid vowels | 9 | /e, o/ |
high vowels | 8 | /i, u/ |
flaps | 7 | /r/ |
laterals | 6 | /l/ |
nasals | 5 | /n, m, ŋ/ |
voiced fricatives | 4 | /v, ð, z/ |
voiceless fricatives | 3 | /f, θ, s/ |
voiced stops | 2 | /b, d, g/ |
voiceless stops | 1 | /p, t, k/ |
Word | Pronunciation | Sonority values | Peaks = Syllables |
---|---|---|---|
modest | /modest/ | 5-9-2-9-3-1 | 2 |
complain | /compleːn/ | 1-9-5-1-6-9-5 | 2 |
petty | /peti/ | 1-9-1-8 | 2 |
elastic | /əlæstik/ | 8-6-10-3-1-8-1 | 3 |
elasticity | /iːlæstisiti/ | 9-6-10-3-1-8-3-8-1-8 | 5 |
petrol | /petrəl/ | 1-9-1-7-9-6 | 2 |
button | /bʌtn/ | 2-9-1-5 | 2 |
bottle | /botl/ | 2-9-1-6 | 2 |
[I]n any syllable, there is a segment constituting a sonority peak that is preceded and/or followed by a sequence of segments with progressively decreasing sonority values. (Crystal 442)
音節によって山の頂点の高さはまちまちだが,典型的に「谷山谷」のきれいな分布になるということを,SSG は示している.onset が s で始まる子音群 (ex. sp-, st-, sk-) の場合などではこの原則は規則的に破られることが知られているが,これを除けば SSG は英語において非常に安定した原則である.
・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
・ Hogg, Richard and C. B. McCully. Metrical Phonology: A Coursebook. Cambridge: CUP, 1987.
昨日の記事で「#1508. 英語における軟口蓋鼻音の音素化」 ([2013-06-13-1]) を取り上げたが,それと正反対ともいえる過程が日本語で起こっているので紹介しよう.
伝統的な日本語の共通語発音では,2つの有声軟口蓋音 [g] と [ŋ] が区別されていた.原則として前者は語頭で,後者は語中(母音や撥音の後)で用いられ,ほぼ相補分布をなす.例えば,柄,銀,郡,芸,午前などの語では [g] が,東,金銀,道具,朝餉,かご,リンゴなどの語では [ŋ] が聞かれた.ただし,「世界銀行」などの複合語の第2要素の始まり,「お元気」などの接頭辞の直後,「十五」などの数詞の五,「がらがら」などの擬音語,「ヨーグルト」などの借用語においては,語中であっても [g] が標準的である.しかし,「十五」と「銃後」の対などにおいて [g] と [ŋ] は対立するので,厳密に分布主義的な立場からは /g/ と /ŋ/ は異なる音素ということになる.
上記の区別は,現在でも声楽などの分野では威信あるものとして保たれているが,一般の共通語発音としては [ŋ] は廃れつつある.1983年の東京方言の調査では,話者の年代により語中 [ŋ] の生起率が大きく異なっていることが確かめられた.それによると,1930年頃に生まれた話者が語中 [ŋ] の消失を牽引した世代であるという.背景には,彼らが疎開により東京外へ出て,[ŋ] の行なわれていない方言と接する機会が増えたことが指摘されている.
1986年の Hibiya による同様の調査でも,語中 [ŋ] の通時的な消失傾向が確かめられた.80歳前後の話者は80--90%が [ŋ] を保っていたが,20歳前後の話者は保有率はゼロに近い (Hibiya 163) .しかし,この調査方法は,ある時点における様々な年齢の話者の発音を調べることにより通時的変化を間接的に捉えようとする "apparent-time" の観察であり,話者の成長に伴う子供言葉から大人言葉へ変化 (age-grading) であるという可能性を排除できない.
そこで,"real-time" の観察が必要になってくる.Hibiya は,19世紀から20世紀にかけてのいくつかの文献学的証拠や研究結果を根拠に,[ŋ] の消失が紛れもない通時的変化であることを明らかにした.それによると,少なくとも19世紀までは,[ŋ] は体系的に用いられていたという.結論として,Hibiya (169) は次のように述べている.
Kato . . . claims that speakers who were born around 1930 were the originators of the change from word-internal [-ŋ-] to [-g-]; the present investigation, however, indicates that the change began earlier. Those who were born in the 1910's and 1920's have [-g-] more frequently than the speakers from the real-time data base who were born two to three decades earlier. Therefore, the age distribution . . . represents a remarkably smooth and linear sound change in the Tokyo dialect, which is going to completion in the youngest generation of today.
語中 [ŋ] が [g] に置換されることによって,両音の相補分布が崩れ,事実上 /ŋ/ の音素としての地位は失われたといってよい.これは,「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1]) や「#1023. 日本語の拍の種類と数」 ([2012-02-14-1]) で示した日本語共通語の音韻体系,音節体系にも影響する体系的な変化であり,脱音素化 (de-phonemicisation) の過程であるといえるだろう.
・ Hibiya, Junko. "Denasalization of the Velar Nasal in Tokyo Japanese." Towards a Social Science of Language: Papers in Honour of William Labov. Ed. G. R. Guy, C. Feagin, D. Schiffrin, and J. Baugh. Amsterdam: John Benjamins, 1996. 161--70.
現代英語で,finger と singer において ng 部分の発音は異なる.前者は [fɪŋgə],後者は [sɪŋə] である.後者のように,-ing で終わる語幹に派生・屈折接尾辞が付加される場合には [ŋ] のみとなる点に注意したい.ただし,形容詞の比較変化は別で long の比較級 longer は [lɔŋgə] である.したがって,「より長い」と「切望する人」とでは,同じ longer でも [lɔŋgə] と [lɔŋə] で発音が異なることになる.
古くは語末の -ng は常に [ŋg] だった.弱音節では方言にもよるが14世紀前半から,強音節では標準英語で17世紀から,[ŋŋ] を経由して [ŋ] へと音韻変化を遂げた.だが,West Midlands 方言,Birmingham, Manchester, Liverpool などではこの音韻変化は起こらず,[ŋg] が保たれた.
このように多くの方言で語末の -ng が [ŋg] から [ŋ] へ変化することによって,sing [sɪŋ] と sin [sɪn] などが最小対 (minimal pair) を形成することになり,/ŋ/ が音素化 (phonemicisation) した.
なお,動詞の派生接尾辞としての -ing は,本来の [ɪŋg] から [ɪŋ] へ変化したほかに,さらに [ɪn] へと発展した変異形もあった.現代英語ではしばしば -in' と表記される語尾で,非標準的とされている([2013-01-26-1]の記事「#1370. Norwich における -in(g) の文体的変異の調査」を参照)が,歴史的には広く行なわれてきた.19世紀中には保守的な RP でも用いられており,むしろ権威ある発音とすらみなされていた.その後,相対的に威信が失われていったのは,綴字発音 (spelling pronunciation) の影響と考えられる.
・ 中尾 俊夫 『音韻史』 英語学大系第11巻,大修館書店,1985年.
「#1231. drift 言語変化観の引用を4点」 ([2012-09-09-1]) の記事で,Ritt の論文に触れた.この論文では標題に掲げた問題が考察されるが,筆者の態度はきわめて合理主義的で機能主義的である.
Ritt は,中英語以来の Homorganic Lengthening, Middle English Open Syllable Lengthening (MEOSL), Great Vowel Shift を始めとする長母音化や2重母音化,また連動して生じてきた母音の量の対立の明確化など,種々の母音にまつわる変化を「母音の強化」 (strengthening of vowels) と一括した.それに対して,子音の量の対立の解消,子音の母音化,子音の消失などの種々の子音にまつわる変化を「子音の弱化」 (weakening of consonants) と一括した.直近千年にわたる英語音韻史は母音の強化と子音の弱化に特徴づけられるとしながら,その背景にある原因を合理的に説明しようと試みた.このような歴史的な潮流はしばしば drift (駆流)として言及され,歴史言語学においてその原動力は最大の謎の1つとなっているが,Ritt は意外なところに解を見いだそうとする.それは,英語に長いあいだ根付いてきた "rhythmic isochrony" と "fixed lexical stress on major class lexical items" (224) である.
広く知られているように,英語には "rhythmic isochrony" がある.およそ強い音節と弱い音節とが交互に現われる韻脚 (foot stress) の各々が,およそ同じ長さをもって発音されるという性質だ.これにより,多くの音節が含まれる韻脚では各音節は素早く短く発音され,逆に音節数が少ない韻脚では各音節はゆっくり長く発音される.さらに,英語には "fixed lexical stress on major class lexical items" という強勢の置かれる位置に関する強い制限があり,強勢音節は自らの卓越を明確に主張する必要に迫られる.さて,この2つの原則により,強勢音節に置かれる同じ音素でも統語的な位置によって長さは変わることになり,長短の対立が常に機能するとは限らない状態となる.特に英語の子音音素では長短の対立の機能負担量 (functional load) はもともと大きくなかったので,その対立は初期中英語に消失した(子音の弱化).一方,母音音素では長短の対立は機能負担量が大きかったために消失することはなく,むしろ対立を保持し,拡大する方向へと進化した.短母音と長母音の差を明確にするために,前者を弛緩化,後者を緊張化させ,さらに後者から2重母音を発達させて,前者との峻別を図った.2つの原則と,それに端を発した「母音の強化」は,互いに支え合い,堅固なスパイラルとなっていった.これが,標記の問題に対する Ritt の機能主義的な解答である.
狐につままれたような感じがする.多くの疑問が浮かんでくる.そもそも英語ではなぜ rhythmic isochrony がそれほどまでに強固なのだろうか.他の言語における類似する,あるいは相異する drift と比較したときに,同じような理論が通用するのか.音素の機能負担量を理論的ではなく実証的に計る方法はあるのか.ラベルの貼られているような母音変化が,(別の時機ではなく)ある時機に,ある方言において生じるのはなぜか.
Ritt の議論はむしろ多くの問いを呼ぶように思えるが,その真の意義は,先に触れたように,drift を合理的に説明しようとするところにあるのだろうと思う.それはそれで大いに論争の的になるのだが,明日の記事で.
・ Ritt, Nikolaus. "How to Weaken one's Consonants, Strengthen one's Vowels and Remain English at the Same Time." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 213--31.
[2012-02-13-1]の記事「#1022. 英語の各音素の生起頻度」で確認できるように,/ʊ/ は英語の短母音音素のなかで最も生起頻度の低いものである.綴字としては,典型的に <oo> や <u> で表わされる音素だが,前者は /uː/,後者は /ʌ/ として実現されることも多いので,実際にはそれほど現われない.具体的にはどのくらいあるのだろうか.
「#1191. Pronunciation Search」 ([2012-07-31-1]) で,「/ʊ/ + 子音」で終わる単音節語を拾ってみた.検索欄に "^[^AEIOU]*(?<!Y )UH[012]? [^AEIOUHWY]+$" と入れてみると次の159語が挙がった.
bloor, book, book's, booked, books, books', boor, boord, boors, bourque, brook, brook's, brooke, brooke's, brookes, brooks, brooks's, bruehl, bull, bull's, bulls, bulls', cook, cook's, cooke, cooked, cooks, could, crook, crooke, crooks, duerr, duerst, flook, fluhr, fooks, foor, foot, foote, foote's, foots, fuhr, fuld, full, full's, fulp, fults, fultz, gloor, good, good's, goode, goods, gook, hood, hoods, hoofed, hoofs, hook, hook's, hooke, hooked, hooks, hooves, joong, jure, kook, kooks, koors, kuehl, kuhrt, look, looked, looks, loong, luehrs, luhr, luhrs, lure, lured, lures, mook, moor, moore, moore's, moored, moores, moors, muhr, nook, nooks, poor, poor's, poore, poors, pull, pulled, pulls, puls, pultz, put, puts, rook, rooke, rooks, routes, ruehl, ruhr, schnooks, schnoor, schoof, schook, schultz, schulz, schulze, schuur, shook, should, shultz, shure, snook, snooks, soot, soots, spoor, spoor's, stood, stroock, stuhr, suire, sure, took, tooke, tookes, tour, tour's, toured, tours, ture, uhr, wolf, wolf's, wolfe, wolfe's, wolff, wolves, wood, wood's, woods, wool, woolf, wools, woong, would, wuertz, wulf, wulff, zook, zuehlke
一方で,対応する長母音 /uː/ や中舌母音 /ʌ/ をもつ単音節語は,同様の条件検索 "^[^AEIOU]*(?<!Y )UW[012]? [^AEIOUHWY]+$" および "^[^AEIOU]*(?<!Y )AH[012]? [^AEIOUHWY]+$" によれば,それぞれ596語,966語がヒットした.限定された音声環境における調査ではあるが,相対的に /ʊ/ をもつ単語が少ないことがわかる.
上の171語のうち,<oo> = /ʊ/ の関係を示すものは95語ある.この綴字と発音の関係の背景には,「#547. <oo> の綴字に対応する3種類の発音」 ([2010-10-26-1]) および「#1297. does, done の母音」 ([2012-11-14-1]) で述べた通り,長母音の短母音化という音韻変化があった.
この音韻変化は過去のものではあるが,その余波は現代でも少数の語において散発的に見られる.例えば,「発音の揺れを示す語の一覧」 ([2010-08-28-1]) で確認できる限り,room, bedroom, broom の発音は,長母音と短母音の間で揺れを示す.LPD の Preference polls によれば,揺れの分布は以下の通り.
BrE /ruːm/ | BrE /rʊm/ | AmE /ruːm/ | AmE /rʊm/ | |
---|---|---|---|---|
room | 81% | 19 | 93 | 7 |
bedroom | 63 | 37 | - | - |
broom | 92 | 8 | - | - |
[2012-08-31-1]の記事「#1222. フランス語が英語の音素に与えた小さな影響」の (1)(c) で触れたが,[f] に対する [v] の音素化は,中英語における音韻体系変化の例として,英語史ではよく話題にのぼる.フランス語借用により offer のような語が英語語彙に加わり,かつ非重子音化 (degemination) という音韻変化が生じたために,over : offer などの最小対が現われ,音素 /v/ が確立したという議論である.
Britton (233) によれば,この議論は古く Kurath (1956) に端を発し,現在でも概説書等で根強く繰り返されているが,Sledd (1958) によって正当に反論されている.つまり,一種の神話であるという見解だ.実際に二人の論争を読むと,確かに Sledd に軍配が上がる.Kurath の議論とその神話たる所以を解説すると,次のようになる (Britton 233) .
Kurath によれば,中英語期に,[VCV] (太字はアクセント) という環境で,最初の母音が長音化し,[VVCV] となった.いわゆる Middle English Open Syllable Lengthening (MEOSL) と呼ばれる音韻変化である.一方,[VCCV] の環境では非重子音化が生じ,[VCV] となった.問題の [C] が,摩擦音 [f, s, θ] の場合には,歴史的な [VCV] の環境(新しい [VVCV])ではその有声音が,歴史的な [VCCV] の環境(新しい [VCV])では無声音が現われており,その分布は新しい環境でも保たれたため,今や /v/ : /f/, /z/ : /s/, /ð/ : /θ/ がそれぞれ別々の音素として対立するようになったという.
しかし,よく考えてみると,問題の子音の声の有無は,音韻変化を経て生まれ変わった後でも,環境によって自動的に決まる性質のものである.[VVCV] と [VCV] を比べてみれば,前者は長母音が先行しており,後者は短母音が先行している.後続する [C] の声の有無は,直前の母音の長さを参照して決まるのであり,この意味で相補分布 (complementary distribution) をなしていると解釈できる.したがって,[v, z, θ] を独立した音素としてみなすことはできないということになる.
Kurath の [f] などの音素化の議論は破綻するように見えるが,議論以前に,そもそも問題の音素化はすでに確立していたという主張もある.広く受け入れられているように,MEOSL が語末の schwa の消失の後に起こったと想定するのであれば,schwa の消失から MEOSL までの隙間期間に,[V + voiced C] と [V + voiceless C] の対立はすでに成立していたことになるからだ.ただし,この辺りは込み入った議論があるようなので,これ以上の深入りはせずに止めておく.
・ Britton, Derek. "Degemination in English, with Special Reference to the Middle English Period." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 232--43.
・ Kurath, Hans. "The Loss of Long Consonants and the Rise of Voiced Fricatives in Middle English." Language 32 (1956): 435--45. Rpt. in Approaches in English Historical Linguistics: An Anthology. Ed. Roger Lass. New York: Holt, Rinehart and Winston, 1969.
・ Sledd, James. Some Questions of English Phonology. Language 34 (1958): 252--58.
フランス語が英語に与えた言語的影響といえば,語彙が最たるものである.その他,慣用表現や綴字にも少なからず影響を及ぼしたが,音韻や統語にかかわる議論は多くない.だが,音韻に関しては,しばしばフランス語からの借用として言及される音素がある.Görlach (337--38) によると,これには5種類が認められる.
(1) /v/ の音素化 (phonemicisation) .古英語では [v] は音素 /f/ の異音にすぎず,いまだ独立した音素ではなかった.ところが,(a) very のような [v] をもつフランス借用語の流入,(b) vixen のような [v] をもつ方言形の借用,(c) over : offer に見られる単子音と重子音の対立の消失,(d) of に見られる無強勢における摩擦音の有声化,といった革新的な要因により,/v/ が音素として独立した.同じことが [z] についても言える.(a) の要因に関していえばフランス語の影響を論じることができるが,/v/ も /z/ も異音としては古英語より存在していたし,閉鎖音系列に機能していた有声と無声の対立が摩擦音系列へも拡大したととらえれば,体系的調整 (systemic regulation) の例と考えることもできる.ここでは,Görlach は,英語体系内の要因をより重要視している([2010-07-14-1]の記事「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」を参照).
(2) /ʒ/ の音素化.この音も古英語では独立した音素ではなく,Anglo-Norman 借用語 joy や gentle の語頭音も /ʤ/ として実現されたので,中英語ですら稀な音だった./ʒ/ の音素化は,measure などの語での [-zj-] の融合に負うところが大きい.この音素化により,音韻体系に /ʤ : ʒ ? ʧ : ʃ/ の対照関係が生じた.やはり,ここでもフランス語の影響は副次的でしかない.
(3) フランス借用語に含まれる母音の影響で,新しい二重母音 /ɔɪ, ʊɪ/ が英語で音素化した.この2つが加わることで,英語の二重母音体系はより均整の取れたものとなった.
-- | ɛɪ | aɪ | ɔɪ | ʊɪ |
ɪʊ | ɛʊ | aʊ | ɔʊ | -- |
. . . it is significant that phonemes said to be derived from French survive only where they fill obvious gaps in the English system --- and some of these were stabilized by loans from English dialect . . . . (337)
受け入れ側の態勢が重要なのか,外圧の強さが重要なのか.[2010-07-14-1]の記事「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」の議論を思い起こさせる.
・ Görlach, Manfred. "Middle English --- a Creole?" Linguistics across Historical and Geographical Boundaries. Ed. D. Kastovsky and A. Szwedek. Berlin: Gruyter, 1986. 329--44.
昨日の記事「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1]) で,音素一覧を掲げた.では,英語の音素のなかでもっとも多く使われる音素は何だろうか.そして,もっとも使われないのは何だろうか.
その統計をとった研究がある.Fry, D. B. "The Frequency of Occurrence of Speech Sounds in Southern English." Archives Néerlandaises de Phonétique Expérimentale 20 (1947) で出された統計が Crystal (239, 242) に掲載されているので,ここに再掲する.一定の長さの談話における延べ音素で数えたものである.
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | total | ||||
/iː/ | /ɪ/ | /e/ | /æ/ | /ʌ/ | /ɑː/ | /ɒ/ | /ɔː/ | /ʊ/ | /uː/ | /ɜː/ | /ə/ | /eɪ/ | /aɪ/ | /ɔɪ/ | /əʊ/ | /aʊ, ɑʊ/ | /ɪə/ | /eə/ | /ʊə/ | |||||
1.65 | 8.33 | 2.97 | 1.45 | 1.75 | 0.79 | 1.37 | 1.24 | 0.86 | 1.13 | 0.52 | 10.74 | 1.71 | 1.83 | 0.14 | 1.51 | 0.61 | 0.21 | 0.34 | 0.06 | 39.21 | ||||
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | |
/p/ | /b/ | /t/ | /d/ | /k/ | /g/ | /ʧ/ | /ʤ/ | /f/ | /v/ | /θ/ | /ð/ | /s/ | /z/ | /ʃ/ | /ʒ/ | /h/ | /m/ | /n/ | /ŋ/ | /l/ | /r/ | /w/ | /j/ | |
1.78 | 1.97 | 6.42 | 5.14 | 3.09 | 1.05 | 0.41 | 0.60 | 1.79 | 2.00 | 0.37 | 3.56 | 4.81 | 2.46 | 0.96 | 0.10 | 1.46 | 3.22 | 7.58 | 1.15 | 3.66 | 3.51 | 2.81 | 0.88 | 60.78 |
ある言語の音素一覧は,構造言語学の手法にのっとり,最小対語 (minimal pair) を取り出してゆくことによって作成できることになっている.しかし,その言語のどの変種を対象にするか(英語であれば BrE か AmE かなど),どの音韻理論に基づくかなどによって,様々な音素一覧がある.ただし,ほとんどが細部の違いなので,標題のように英語と日本語を比較する目的には,どの一覧を用いても大きな差はない.以下では,英語の音素一覧には,Gimson (Gimson, A. C. An Introduction to the Pronunciation of English. 1st ed. London: Edward Arnold, 1962.) に基づいた Crystal (237, 242) を参照し,日本語には金田一 (96) を参照した.英語はイギリス英語の容認発音 (RP) を,日本語は全国共通語を対象としている.
英語の音素一覧(20母音+24子音=44音素):
/iː/, /ɪ/, /e/, /æ/, /ʌ/, /ɑː/, /ɒ/, /ɔː/, /ʊ/, /uː/, /ɜː/, /ə/, /eɪ/, /aɪ/, /ɔɪ/, /əʊ/, /aʊ, ɑʊ/, /ɪə/, /eə/, /ʊə/; /p/, /b/, /t/, /d/, /k/, /g/, /ʧ/, /ʤ/, /f/, /v/, /θ/, /ð/, /s/, /z/, /ʃ/, /ʒ/, /h/, /m/, /n/, /ŋ/, /l/, /r/, /w/, /j/
日本語の音素一覧(5母音+16子音+3特殊音素=24音素):
/a/, /i/, /u/, /e/, /o/; /j/, /w/; /k/, /s/, /c/, /t/, /n/, /h/, /m/, /r/, /g/, /ŋ/, /z/, /d/, /b/, /p/; /N/, /T/, /R/
実際には多くの言語の音素一覧を比較すべきだろうが,この音素一覧からだけでもそれぞれの言語音の特徴をある程度は読み取ることができる.以下に情報を付け加えながらコメントする.
・ 母音について,英語は20音素,日本語は5音素と開きがあるが,5母音体系は世界でもっとも普通である.もっと少ないものでは,アラビア語,タガログ語,日本語の琉球方言の3母音,黒海東岸で話されていたウビフ語の2母音という体系がある.日本語では,古代は4母音,上代は8母音と通時的に変化してきた.
・ 子音について,英語は24音素,日本語は16音素で,日本語が比較的少ない.少ないものでは,ハワイ語の8子音,ブーゲンビル島の中部のロトカス語の6子音,多いものでは先に挙げたウビフ語の80子音という驚くべき体系がある.
・ 日本語には摩擦音が少ない./z/ は現代共通語では [dz] と破擦音で実現されるのが普通.また,上代では /h/, /s/ はそれぞれ /p/, /ts/ だったと思われ,摩擦音がまったくなかった可能性がある.一方,英語では摩擦音が充実している.
・ 日本語では,通時的な唇音退化 (delabialisation) を経て,唇音が少ない.後舌高母音も非円唇の [ɯ] で実現される(ただし近年は円唇の調音もおこなわれる).
日本語母語話者にとって英語の発音が難しく感じられる点については,「#268. 現代英語の Liabilities 再訪」 ([2010-01-20-1]) と「#293. 言語の難易度は測れるか」 ([2010-02-14-1]) で簡単に触れた.
(英語)音声学の基礎に関する図表には,以下を参照.
・ 「#19. 母音四辺形」: [2009-05-17-1]
・ 「#118. 母音四辺形ならぬ母音六面体」: [2009-08-23-1]
・ 「#31. 現代英語の子音の音素」: [2009-05-29-1]
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
・ 金田一 春彦 『日本語 新版(上)』 岩波書店,1988年.
原則として「子音+母音」によりモーラ (mora) という音韻単位を構成している日本語の母語話者として,なぜこの組み合わせが自然かということについて,疑問を感じたことすらなかった.英語では,音節内の単音の組み合わせの種類は日本語とは比較にならないくらい多く(実際,厳密に数え上げた研究はあるのだろうか?),その他の多くの言語も,単音の配列については,日本語より豊富なものが多いだろう.確かに音素配列が貧しい言語もあれば豊かな言語もあるが,「子音+母音」の基本的な組み合わせを欠いている言語はない.「閉鎖子音+母音」は「母音のみ」とともに,言語において基本中の基本となる音節構造である.
これがなぜかなどと問うたこともなかった.あえて答えるとすれば,「単に調音しやすいし聴解しやすいからだろう」程度の答えしか出てこない.だが,もう少し考えてみよう.子音や母音だけでは区別できる単音の種類が限られるし,特に子音だけだとしたらそれこそ調音も聴解も困難を極めるにちがいない.1つずつの子音と母音の組み合わせを1単位とすれば,それだけで数十の音節が区別されることになり,言語の基本的な用は足りる.もしそれでも足りなければ,もう少し音節内構造の可能性を広げてやれば,区別できる音節数を幾何級数的に増やせる.
さて,このような疑問が問うに値すると思ったのは,Martinet がこの問題を機能主義的な観点から切っていたからである.よく知られているように,3母音体系をもつ言語において,その3母音はほぼ間違いなく [i], [u], [a] である.これは,3音が口腔内の3つの頂点に対応し,互いに最大限の距離をバランスよく保てる位置取りだからである([2009-05-17-1]の母音四辺形を参照).これにより,調音と聴解のいずれにおいても,互いに区別される度合いが最大限になる."l'équidistance entre les phonèmes" (音素間の等距離)の原則である (Martinet 202) .
母音の paradigm については機能主義の立場から上記のように説明できるわけだが,Martinet は syntagm のレベルでも同じ説明が可能だと考える.音の連鎖においても,互いの対立が最大限になるような組み合わせが選ばれやすいのではないか,という説だ.これによると,口の開きや聞こえ度という観点で最小値をとる閉鎖子音と最大値をとる母音が連続して現われるのは,3母音体系の場合に [i], [u], [a] が選ばれるのと同様に,機能的な動機づけがある,ということになる.閉鎖子音と母音の組み合わせが一種のプロトタイプであり,そこから逸脱した組み合わせに対して,マグネットのように引き戻す力として作用していると考えることもできるだろう.
. . . toutes les langues favorisent les contrastes les mieux marqués, c'est-à-dire les successions occlusive + voyelle. (Martinet 202)
. . . すべての言語はもっとも際立つ対立,すなわち閉鎖音+母音というつながりを好む.
では,閉鎖子音と母音の1つずつの組み合わせが基本であるということを認めるとして,「母音+閉鎖子音」ではなく「閉鎖子音+母音」がより基本的とされるのはなぜか.Martinet はこれについては無言である.機能主義に乗っかった上で,私見としては,実際に「母音+閉鎖子音」の組み合わせも少なくないが,逆の「閉鎖子音+母音」に比べて,後続する音がないかぎり,子音の調音の入りわたりと出わたりまでを含めた全体が実現されにくいという事情があるのではないか.
機能主義の常として例外には事欠かないものの,音素体系という paradigm レベルのみならず音素配列という syntagm レベルにも同様に適用できるという一貫性が魅力である.
閉鎖子音が基本的であるという点については,[2011-08-17-1]の記事「#842. th-sound はまれな発音か」で参照した分節音ごとの類型論的な統計情報も参照.言語にもっともよくある子音のトップ4までが閉鎖音 ([m], [k], [p], [b]) である.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
一般に th-sound ([θ], [ð]) は言語音としてはまれであり,多くの非母語話者にとって習得しにくいと言われている.実際に [θ] を [t] や [s] で代用する非母語話者が多く,その点を考慮して国際的な航空管制英語 Airspeak では three を tree として発音することになっているほどだ.th-sound はこのように世界で悪名高い発音としてみなされており,英語の liability の1つとして言及されることもある.
しかし,実際のところ,問題の歯摩擦音は,英語のほかにもスペイン語やギリシア語など比較的よく知られた言語にも音素として現われる.同僚の音声学者と,この音は本当にまれな音なのだろうかという話しをしていたときに,UPSID (The UCLA Phonological Segment Inventory Database) なるサイトの存在を教えてもらった.451言語の音韻体系のデータベースへアクセスできるサイトで,Simple UPSID interface のインターフェースを通じて,言語ごとの音韻目録を閲覧したり,分節音ごとの類型論的な統計情報を得ることができる.
早速,歯摩擦音について調べてみた.UPSID Segment Frequency によると,0D と表記される [θ] と,6D と表記される [ð] を音韻目録に含む言語はそれぞれ以下のとおりである.
・ [θ] or "0d" (voiceless dental fricative) occurs in 18 languages (3.99% of the 451 languages): Albanian, Amahuaca, Araucanian, Bashkir, Berta, Burmese, Chipewyan, Greek, Huasteco, Iai, Karen, Lakkia, Mursi, Rukai, Spanish, Tabi, Wintu, Yay.
・ [ð] or "6D" (voiced dental fricative) occurs in 22 languages (4.88% of the 451 languages): Albanian, Aleut, Burmese, Chipewyan, Cubeo, Dahalo, Fijian, Greek, Guarani, Iai, Koiari, Mari, Mazatec, Mixtec, Moro, Nenets, Nganasan, Quechua, Rukai, Spanish, Tabi, Tacana.
調査対象の451言語から収集された異なる分節音は全部で919個あるが,頻度順位としては [θ] が126位,[ð] が113位である.順位で考えれば言われるほどまれな音ではないのかもしれないが,451言語のうちの4--5%ほどにしか現われない音であると示されれば,確かにまれと言えるのかもしれない.ただし,収集された異なる919の分節音の8割以上に当たる748の分節音が10を超える言語には現われないことを考えると,[θ], [ð] は,世界の言語にみられる数多くのまれな分節音の2つにすぎない.
ちなみに,通言語的に頻度の高い分節音トップ10は,[m, k, i, a, j, p, u, w, b, h] の順という.
過去2日間の記事「機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]) と「機能負担量と言語変化」 ([2011-08-11-1]) で,Schendl を引き合いに出しながら,機能主義 (functionalism) ,自己調整機能 (systemic regulation) ,治癒力 (therapeutic power) ,機能負担量 (functional load) などの用語を用いてきた.昨日これに関連して次のような質問が寄せられた.
Schendl (69)からの引用についてひとつ質問をさせてください.
'therapeutic changes in one part of the grammar may create imbalance in another part'
とありますが,どのような例があるのか思い浮かびません.治癒力のせいで生じてしまう不均衡とはどのようなものなのか,とても気になりますので御回答お願いします.
Schendl は同著で具体的に例を挙げているわけではないので,読者としては該当しうる例を考えてみるしかない.ある部門(例えば音韻論)に生じた言語変化が,他の部門(例えば形態論や統語論)に別の言語変化を連鎖的に引き起こすというような例や議論は英語史でも多く見られるが,より限定的に,ある治癒的な (therapeutic) 言語変化が別のところでは病因となるような (pathogenic) 言語変化の連鎖の例というのはあったろうかと,確かに考えさせられた.
なぜすぐに例が思い浮かばないのだろうかと考えてみると,"therapeutic" という用語が具体的に何を指すか,客観的に決めがたいという背景があるからではないかと思い当たった.一般の用語では「治癒」の目指す最終目標は「全快」状態だが,言語体系において「全快」とはいかなる状態を指すのか.機能主義の立場に立った一般的な理解としては,治癒とは "a symmetrical, balanced, simple, economical system" を指向しているとみなすことができるだろう(いずれの形容詞も Schendl の説明に現われる).しかし,言語体系は複数の下位体系の複雑な組み合わせによって成る有機体であり,その一部に生じる言語変化が,ある下位体系の観点から見れば therapeutic だとしても,別の下位体系の観点から見れば pathogenic であることもあり得る.では,言語体系全体の観点からすると,この言語変化はどの程度 therapeutic なのか,あるいは pathogenic なのか.これを決定することは非常に難しい.
具体例として思いついたのは,昨日の記事でも取り上げた /θ/ と /ð/ の対立の発生,別の言い方をすれば /ð/ の音素化 (phonemicisation) という言語変化である.古英語では,
[θ] と [ð] は1つの音素 (phoneme) の2つの異音 (allomorphs) という位置づけにすぎなかった.しかし,後に主として機能語において専ら有声音 [ð] が行なわれるようになり (ex. that, the, then, there, they, thou, though, with; cf. verners_law) ,thy vs. thigh のような最小対 (minimal pair) が生じた.こうして /θ/ と /ð/ は別々の音素へと分裂していった.
この /ð/ の音素化の動機づけを機能主義的な観点から説明すると,昨日も述べたように次のようになる.英語の阻害音 (obstruent) 系列では有声と無声の対立が大きな機能負担量を担っており,歯摩擦音での声の対立の欠如は阻害音系列の対称性を損なう「病因」と考えられる./θ/ と /ð/ の音素化はこの非対称性を減じる方向で作用し,問題の病因を「治癒」していると解釈される.実際には thy vs. thigh 型の最小対の例は少ないので,声の有無の対立はたいして利用されているわけではないのだが,それでも /θ/ と /ð/ の音素的な対立が堅持されているのは,英語音韻論全体として声の有無という対立が極めて機能的だからである.以上の説明が受け入れられるとすれば,この議論はまさに therapeutic な考え方を代表していると言えるだろう.
しかし,同じ言語変化を書記素論 (graphemics) の立場から見ると,むしろ体系的な非対称性が増しているとも考えられる.言語において,1音素に1文字が対応しているのが最も対称的で,均衡が取れており,単純で,経済的であることは疑いを容れない.現代英語はこの点で非常に悪名高いことはよく知られている.さて,より対称的で,均衡が取れており,単純で,経済的な音素と書記素の関係を追求するような言語変化が生じたとすれば,それは書記素論の観点からは therapeutic な変化ということができるだろう.ところが,上述の /ð/ の音素化に合わせて書記素体系も同様に変化したわけではないので,結果として <th> という二重字 (digraph) で表わされる1つの書記素が2つの異なる音素に対応することになってしまった.これは,書記素論の立場からすると,therapeutic ではなく,むしろ pathogenic な変化と言える.
まとめると,/ð/ の音素化という言語変化は,音韻論の観点からは therapeutic な変化だったが,書記素論の観点からは pathogenic な変化だったということになる.では,音韻論や書記素論やその他の部門をすべて考え合わせて,英語という言語体系全体への影響という視点で見ると,この変化ははたしてプラスだったのかマイナスだったのか.影響の質も量も客観的に計測することが難しいので,この判断はおぼつかないことになる(その意味では,機能負担量とは影響を客観的に計測しようとする営みの現われであり,その方法の1つなのかもしれないが).
言語において,何をもって「治癒」とし,何をもって「罹病」とするかはよくわからない.動物の場合ですら,敢えて軽く罹病させて予防・治癒効果を狙う予防接種の考え方がある.ちなみに,上で用いてきた pathogenic (発病させる)という形容詞は therapeutic の対義語として今回便宜的に用いたまでで,用語として定着しているわけではない.
・ Schendl, Herbert. Historical Linguistics. Oxford: OUP, 2001.
昨日の記事「言語の線状性」[2011-06-02-1]に引き続き,ヒトの言語の特徴について.すべての言語は二重に分節されている.言語のこの重要な特性は二重分節 ( double articulation ) と呼ばれる.
第一の分節は,言語化して伝達すべき物事を,Martinet が monème と呼ぶところの音形と意味がペアでカプセル化された記号(典型的には語)へ分節する過程である.拙訳とともに Martinet から引用する.
La première articulation du langage est celle selon laquelle tout fait d'expérience à transmettre, tout besoin qu'on désire faire connaître à autrui s'analysent en une suite d'unités douées chacune d'une forme vocale et d'un sens. (Martinet 37)
言語の第一分節は,伝達すべきすべての経験的事実や他人に知らせたいと望むすべての要求が,それぞれ音形と意味を付与された単位の連続へと分析される過程である.
La première articulation est la façon dont s'ordonne l'expérience commune à tous les membres d'une communauté linguistique déterminée. Ce n'est que dans le cadre de cette expérience, nécessairement limitée à ce quie est commun à un nombre considérable d'individus, qu'on communique linguistiquement. (Martinet 38)
第一分節は,規定の言語共同体の全成員に共通する経験を秩序づける方法である.数多くの個人にとって共通の物事に必然的に限られるこの経験の範囲内においてのみ,人は言語的にコミュニケーションをとることができるのである.
この第一分節により幾多の monème が切り出されるが,あくまで人間の記憶に耐えられるほどの有限個に抑えられる.monème は有限個だが,その組み合わせにより無限の表現を産することが可能であり,言語の経済性と効率性が確保される.ただし,上にも述べられているとおり,この経済性と効率性はあくまで分節の仕方を共有している限られた共同体内でのみ確保される点に注意すべきである.
第一分節により音形と意味からなる単位 monème が数多く切り出されるが,音形に関してはさらに小さな単位,弁別的な単位へと分析することができる.この第二分節によって,phonème 「音素」と呼ばれる単位が切り出される.例えば,フランス語の tête /tet/ は,/t/, /e/, /t/ の3つの分節音の結合として捉えられる.
Chacune de ces unités de première articulation présente, nous l'avons vu, un sens et une forme vocale (ou phonique). Elle ne saurait être analysée en unités successives plus petites douées de sens : l'ensemble tête veut dire «tête» et l'on ne peut attribuer à tê- et à-te des sens distincts dont la somme serait équivalence à «tête». Mais la forme vocale est, elle, analysable en une succession d'unités dont chacune contribue à distinguer tête, par exemple, d'autres unités comme bête, tante ou terre. C'est ce qu'on désignera comme la deuxième articulation du langage. (Martine 38--39)
上で見たように,第一分節による単位のそれぞれは,意味と音形を表わしている.その単位は,意味を付与されたより小さな連続する単位へと分析することはできない.tête 全体として「頭」を意味するのであり,tê- と -te に,合わせて「頭」を表わすことになるような区別された意味を付与することはできない.しかし,音形のほうは,一連の単位へと,すなわちそのそれぞれが例えば tête を bête, tante, terre のような他の単位と区別するのに貢献するような単位へと分析することができる.これが,言語の第二分節といわれるものである.
第二分節によって切り出された各音素はそれより小さい単位へは分解できないので,ここで分節の作業は終了する.この二つ目にして最後の分節により,せいぜい数十個に納まる数少ない phonème 音素を活用することによって,無数ともいえる monème を生み出すことができるのである.
言語における両分節の経済性と効率性ははかりしれない.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
発音表記には,大きく分けて音声表記 ( phonetic transcription or narrow transcription ) と音素表記 ( phonemic transcription or broad transcription ) の2種類がある.前者は [ ] で囲み,後者は / / で囲むのが慣習である.音声表記と音素表記は見た目は似ているが,本質的にはまったく異なるものである.音声表記は,調音的,音響的な観点からの音の記述を目指しており,原則として当該の言語でその音が果たす機能は考慮していない.一方で,音素表記は,音の物理的な側面は捨象し,原則として当該の言語でその音が果たす役割を重視する.構造主義言語学によれば,当該言語で機能的な役割を果たしている音の単位は 音素 ( phoneme ) と呼ばれ,形態素の最小対 ( minimal pair ) に基づいた対立 ( opposition ) によって厳密に定義される.厳格な構造主義の立場からは,音素は調音的,音響的な性質とは無縁であり,Jakobson and Halle の言うように,"all phonemes denote nothing but mere otherness" (11) である.
しかし,実際のところ,発音表記は,音声表記と音素表記が互いに歩み寄ったところで実現されていることが多い.厳密に音声表記を目指そうとすれば,音の物理的な特性を余すところなく表現しなければならず,無数の数値や音響スペクトログラム ( spectrogram ) で表記しなければならなくなる.一方で,厳密に音素表記を目指そうとしても,音素の拠って立つ「機能的な対立」には論者によって複数の説があり得るし,調音的な観点が欠如しているために,機能的な対立をなしていない音どうしの関係は一切無視されてしまうことになる.そこで,語学学習や言語学の現場でも,音声と音素の両方の考え方を活かした broad phonetic transcription ともいうべき折衷案が利用されている.[ ] で囲まれていながら音素的であったり,/ / で囲まれていながら音声的であったりすることがあるのは,このためである.
英語史や歴史英語学でも,原則としてこの折衷案が採用されていると考えてよい.もとより,過去の発音を,厳密な音声表記で表わせるほど正確に復元することはできない.また,厳密な音素表記をするにも論者によって様々な立場があり得るのは現代の言語の場合と同じであるし,調音的な側面を無視していては有意義に音声変化を記述できないという決定的な事情がある.例えば,[i] が前舌高母音であることを明示しない限り i-mutation によって [o] が [e] に変化することはうまく説明できないが,厳密に構造主義的な立場では,[i] が前舌高母音であるという調音的な主張をすることができないのである.
正確には復元できない過去の音を扱うから,また音の変化を有意義に説明する必要があるから,歴史言語学ではことさらに折衷的な発音表記を採用することが避けられない.英語史の分野(そして本ブログ)に出てくる発音表記は,純粋な音声表記でも純粋な音素表記でもなく,原則として折衷的な "poorly resolved broad transcription" (Lass and Laing 20) だと考えてよい.
現在最も広く採用されている発音表記である IPA 「国際音標文字」は The International Phonetic Association のサイトから IPA: Alphabet を参照.
・ Jakobson, R. and Halle, M. Fundamentals of Language. The Hague: Mouton, 1965.
・ Lass, Roger and Margaret Laing. "Interpreting Middle English." Chapter 2 of "A Linguistic Atlas of Early Middle English: Introduction.'' Available online at http://www.lel.ed.ac.uk/ihd/laeme1/pdf/Introchap2.pdf .
[2010-05-05-1], [2010-05-06-1]でアルファベットの <u> と <v> について述べたが,今日は英語で最も出番の少ない存在感の薄い文字 <z> を話題にする.
<z> が最低頻度の文字であることは,[2010-03-01-1]で軽く触れた.BNC Word Frequency Lists の lemma.num による最頻6318語の単語リストから <z> を含む単語を抜き出してみると,以下の36語のみである.この文字のマイナーさがよくわかる.(順位表はこのページのHTMLソースを参照.)
size, organization, recognize, realize, magazine, citizen, prize, organize, zone, seize, gaze, freeze, emphasize, squeeze, gaze, amazing, crazy, criticize, horizon, hazard, breeze, characterize, ozone, horizontal, enzyme, bronze, jazz, bizarre, frozen, organizational, citizenship, dozen, privatization, puzzle, civilization, lazy
<z> をもつ語のうちで最頻の size ですら総合716位という低さで,上位1000位以内に入っているのはこの語だけである.健闘しているのが,<z> を二つもっている jazz や puzzle である.
<z> の分布について気づくことは,ギリシャ語由来の借用語が多いこと,-ize / -ization(al) がいくつか見られること ([2010-02-26-1], [2010-03-07-1]) ,単音節語に見られることが挙げられるだろうか.<z> が借用語,特にギリシャ語からの借用語と関連づけられているということは,この文字の固い learned なイメージを想起させる.<z> のもつ近寄りがたさや,それを含む語の頻度の低さとも関係しているだろう,一方で,今回の順位表には数例しか現れていないが,単音節語に <z> がよく出現することは craze, daze, laze, maze, doze, assize, freeze, wheeze などで例証される.心理や状態を表す語が多いようである.
<z> は古英語にもあるにはあったが,Elizabeth などの固有名詞などに限られ,やはりマイナーだった.古英語では /z/ は音素としては存在していず,/s/ の異音として存在していたに過ぎないので,対応する文字 <z> を用いる必要がなかったということが理由の一つである.中英語になり <z> を多用するフランス語から大量の借用語が流入するにつれて <z> を用いる機会が増えたが,<v> の場合と異なり,それほど一般化しなかった.それでも price と prize などの minimal pair を綴字上でも区別できるようになったのは,<z> の小さな貢献だろう.しかし,このような例はまれで,現代でも <s> が /s/ と /z/ の両音を表す文字として活躍しており,例えば名詞としての house と動詞としての house が綴字上区別をつけることができないなどという不便があるにもかかわらず,<z> が出しゃばることはない.<z> の不人気は,Shakespeare でも言及されている ( Scragg, p. 8 ).
Thou whoreson zed! thou unnecessary letter! ( Shakespeare, King Lear, Act II, Scene 2 )
Shakespeare と同時代人で綴字問題に関心を抱いた Richard Mulcaster ([2010-07-12-1]) は,<z> の不人気は字体が書きにくいことによると述べている.
Z, is a consonant much heard amongst vs, and seldom sene. I think by reason it is not so redie to the pen as s, is, which is becom lieutenant generall to z, as gase, amase, rasur, where z, is heard, but s, sene. It is not lightlie expressed in English, sauing in foren enfranchisments, as azur, treasur. ( The First Part of the Elementarie, p. 123 )
英語史を通じて,<z> が脚光を浴びたことはない.しかし,存在意義が稀薄でありながら,しぶとくアルファベットから脱落せずに生き残ってきたのが逞しい.ギリシャ語借用語,特に -ize / -ization,そして一握りの単音節語という限られたエリアに支持基盤をもつ小政党のような存在感だ.
・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
・ Mulcaster, Richard. The First Part of the Elementarie. Menston: Scolar Reprint 219, 1582. (downloadable here from OTA)
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