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norman_conquest - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2025-06-06 08:58

2020-09-26 Sat

#4170. 講座「英語の歴史と語源」の第7回「ノルマン征服とノルマン王朝」のご案内 [asacul][notice][norman_conquest][french][history][link]

 10月3日(土)の15:30?18:45に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて「英語の歴史と語源・7 ノルマン征服とノルマン王朝」と題する講演を行ないます.趣旨は以下の通りです.

1066年のノルマン征服はイギリス史上最大の事件といわれますが,英語史の観点からも,その後の英語がたどってゆく進路を大きく方向づけた点できわめて重大な出来事でした.以後,英語はノルマン王朝の公用語であるフランス語との接触を強め,主に語彙,語法,綴字の領域で大きな言語的影響を被ることになりました.また,当時英語が一時的にフランス語のくびきの下で社会的権威を奪われ,標準形をも失ったという事実は,近代以降の英語の世界的な発展を思うとき,実に意味深長です.本講座で,ノルマン征服の英語史上の意義を改めて考えてみましょう.


 ノルマン征服とは? ノルマン人とは何者? 彼らは何語を話していたのか? イングランドや英語とはどのような関係があるのか? 現代の英語にいかなる影響を及ぼしたのか? 英国史のみならず英語史においても計り知れないインパクトをもつ1066年の事件とその余波に迫ります.
 本シリーズもしばらく中断を余儀なくされていましたが,久し振りの再開となります.関心のある方は是非お申し込みください.よろしくどうぞ.

Referrer (Inside): [2020-10-06-1]

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2020-07-21 Tue

#4103. 頭韻のあり方の分水嶺はやはり1066年? [alliteration][prosody][meter][norman_conquest]

 ゲルマン語の韻律上の伝統としての頭韻 (alliteration) は,英語史においても古英語から現代英語まで連綿と続いている.しかし,韻文の技巧という観点からみると,韻律論的にも文学的にも,古英語と中英語の間に明確な断絶があるとされている.この過渡期には,表面的には同じ頭韻が行なわれ続けているようにみえても,頭韻を司る抽象的な韻律上の規則に注目すれば,伝統は忠実には保持されておらず,せいぜい「崩れた」形で継承されているにすぎない.継承か断絶かという議論は古くからあるが,少なくとも「そのままの継承」でないことは明白だ.
 では,かりに断絶とみたとき,その分水嶺はいつ頃なのか.まさか,お約束のように,かの1066年ではないだろうと思っていたところ,「いや実に1066年なのだ」という Minkova (339) の記述に出会い面食らった.

The 1065 poem The Death of Edward is the last composition that can be described reasonably as belonging to the Classical metrical tradition of Anglo-Saxon versification. Very revealing in this respect are the statistics and the comments presented in Cable (1991: 54--5). He notes one single metrically dubious verse (soþfæste sawle 'soothfast soul' (28a)) in the sixty-eight verses of The Death of Edward, while on the other side of the 1066 chronological divide the next extant poem with prominent alliteration, Durham, composed c. 1100, shows a very high level of unmetricality. In Durham 38.1 per cent of the forty-two verses fail to conform to the classical rules. Thus, while the cataclysmic effect of the Norman Conquest with respect to changes affecting phonology and morphosyntax can be questioned, the demarcation line in terms of versification modes is clearer, at least within the inevitable limitations imposed by the surviving texts.


 さすがにピンポイントに1066年ということを強調しているわけではないが,象徴的にはやはりこの年代のようだ.引用でも述べられている通り,英語も自然言語である以上,音韻論や形態統語論がある年代にガクンと変わるということは考えにくい.その点では韻律論も同じだろう.しかし,韻律論と関係は深いが韻律論そのものではない韻文の技巧として頭韻規則を眺める場合,ある年代を境に1つの規則から別の規則にガクンと変化するということはあり得るかもしれない.この場合の規則とは社会制度に近いもので,社会制度とはある日を境にして人々が一方から他方に意識的に乗り換えることができる代物だからだ.
 古英語末期の The Battle of Maldon などでも伝統的なリズムからは逸脱していると言われており,分水嶺としての1066年を額面通りに受け入れることはできないにせよ,象徴的な意義は認めてよいだろう.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.
 ・ Cable, Thomas. The English Alliterative Tradition. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 1991.

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2020-04-05 Sun

#3996. ノルマン征服の英語史上の意義は強調されすぎ? [norman_conquest][history]

 「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]) やその他の記事 (norman_conquest) で,この1066年の著名な事件のもつ英語史へのインパクトを様々に紹介してきたが,Mengden (29--30) は事件の意義をややトーンダウンした形で伝えようとしている.意義は確かに大きいが,少し強調されすぎなのではないかというスタンスだ.耳を傾けてみよう.

The events of the year 1066 seem to have been the consequence of a series of steps by the Norman nobility to gain political influence in England --- a development always accompanied by support from an influential pro-Norman party in the Anglo-Saxon aristocracy. It is therefore feasible to assume that the intensity of French influence, although traceable, is not considerably greater in the years immediately following the Norman Conquest than it is before. From this perspective, the Norman Conquest stabilizes, but by no means ignites or reinforces, the growing intensity of Anglo-Norman relations. As such, William's victory at Hastings may be seen as one of several important events that pave the way for the enormous influence that French exerts on English in the 13th and 14th centuries. The beginnings of this development are clearly part of the history of Old English rather than of Middle English.


 ポイントは,ノルマン・フランス(語)の英語への影響は事件以前からあり,事件によってすぐに拡大したわけではないという点だ.その後,事件の効果がジワジワと効いてきたというのは確かだろうが,結果的には数世紀間続くことになるフランス語による影響の全体像のなかに位置づけるならば,1066年は前半の1コマにすぎない.全体像の開始こそが重要とみるのであれば,1066年ではなく,それより前の古英語末期を指摘しなければならない.このような議論だ.
 やや冷めた目ではあるが,いくつかの事実を指摘しており,おもしろい見方だと思う.関連して「#2685. イングランドとノルマンディの関係はノルマン征服以前から」 ([2016-09-02-1]),「#302. 古英語のフランス借用語」 ([2010-02-23-1]) を参照.

 ・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.

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2020-01-02 Thu

#3902. 純アングロサクソン名の Edward, Edgar, Edmond, Edwin [anglo-saxon][oe][onomastics][personal_name][etymology][norman_conquest]

 「#2364. ノルマン征服後の英語人名のフランス語かぶれ」 ([2015-10-17-1]) でみたように,古英語期,すなわち1066年のノルマン征服より前の時代には当たり前のようにイングランドで用いられていたアングロサクソン人名の多くが,征服後に一気に衰退した.標題の名前は,生き残った純正アングロサクソン男性名の代表例である(「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) よりアングロサクソン諸王の名前を確認されたい).
 いずれも複合語であり,第1要素に Ed- がみえる.これは古英語の名詞 ēad (riches, prosperity, good, fortune, happiness) を反映したものである(すでに廃語).「裕福」という縁起のよい意味だから人名には多用された.Edwardēad + weard (guardian) ということで「富を守る者」が原義である.Edgarēad + gār (spear) ということで「富裕な槍持ち」といったところか.Edmond/Edmundēad + mund (protection) ということで「富貴の守り手」ほどの意となる(この第2要素は Raymond, Richmond にもみられる).Edwineēad + wine (friend) ということで「富の友」である(この第2要素は Baldwin にもみられる).
 なお Edith は女性名となるが,第1要素はやはり ēad である.これに gūþ (war) が複合(および少し変形)した,勇ましい名前ということになる.
 現代に生き残るこのような純アングロサクソン名(残念ながら多くはない)を利用して,古英語の単語や語源について学ぶのもおもしろい.

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2019-11-02 Sat

#3841. Whitby の宗教会議(664年)の英語史上の意義 [history][christianity][norman_conquest]

 英語史関連の年表を眺めていると,たいてい標記の Whitby の宗教会議 (Synod of Whitby) が項目として挙げられている(以下の記事の年表を参照).

 ・ 「#1419. 橋本版,英語史略年表」 ([2013-03-16-1])
 ・ 「#2526. 古英語と中英語の文学史年表」 ([2016-03-27-1])
 ・ 「#2562. Mugglestone (編)の英語史年表」 ([2016-05-02-1])
 ・ 「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1])
 ・ 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1])
 ・ 「#3624. 安藤貞雄『英語史入門』の英語史年表」 ([2019-03-30-1])

 この宗教会議は,どのような会議だったのか.『英米史辞典』 によると次の通りである.

Whitby, Synod of 〔英〕 ホイットビー教会会議 663/664年,ノーサンブリア (Northumbria) 王オズウィ (Oswy) により,領内のホイットビー(現在はノース・ヨークシャーの沿岸都市)で,宗教問題解決のために開かれた会議.ノーサンブリアではケルト教会 (Celtic Church) 系のキリスト教会が先に広まり,遅れてローマ教会系のキリスト教が伝わったが,それとともに,両者の軋轢が強まった.特に,復活祭 (Easter) の日取りそのほかをめぐって対立が目立つようになり,ノーサンブリア教会としてはどちらの教会のしきたりを採用するべきかを決定する必要に迫られた.その結果,この会議が招集され,ケルト教会側はリンディスファーン (Lindisfarne) 司教コールマン (Coleman),ローマ教会側はウィルフリッド (Wilfrid) が代表となって論戦を展開したが,結局,オズウィの支持により,ローマ教会方式の採用が決定した.これを機に,ケルト教会が有力であったアングロ・サクソン諸国もノーサンブリアの例にならい,8世紀中にはウェールズ・スコットランド・アイルランドの教会もローマ教会を受け入れた.この会議は,ブリテン島やアイルランドのキリスト教がローマ教会により統一され,ヨーロッパ大陸の教会と一体化する契機を作った.


 Whitby の宗教会議の歴史的な意義は,引用の最後にも述べられているとおり,ブリテン諸島を大陸側へグイッと引きつけた点にある.これを契機に,北方の海・島の文化圏が南方の大陸の文化圏へ接近することになった.664年とは,ブリテン諸島がある意味で北から南へと旋回した象徴的な年なのである.それからほぼ400年後,1066年のノルマン征服により,その北から南への旋回はスピードを増すことになった.
 英語史の観点から考えてみよう.ノルマン征服の英語史上の意義は,つとに知られている (cf. 「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1])) .端的にいえば,フランス語(およびラテン語)からの影響が強まったということだ.これは言語学的な意味での「北から南への旋回」である.しかし,その旋回の下準備として4世紀前の Whitby の宗教会議があったと解釈すると,俄然この会議の存在が重くみえてくる.あくまで間接的な意義というべきものだが,英語史的にも象徴的な会議だったといえそうだ.

 ・ 松村 赳・富田 虎男 『英米史辞典』 研究社,2000年.

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