hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新     カテゴリ最新     前ページ 1 2 3 次ページ / page 2 (3)

norman_conquest - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-11-22 17:50

2020-07-21 Tue

#4103. 頭韻のあり方の分水嶺はやはり1066年? [alliteration][prosody][meter][norman_conquest]

 ゲルマン語の韻律上の伝統としての頭韻 (alliteration) は,英語史においても古英語から現代英語まで連綿と続いている.しかし,韻文の技巧という観点からみると,韻律論的にも文学的にも,古英語と中英語の間に明確な断絶があるとされている.この過渡期には,表面的には同じ頭韻が行なわれ続けているようにみえても,頭韻を司る抽象的な韻律上の規則に注目すれば,伝統は忠実には保持されておらず,せいぜい「崩れた」形で継承されているにすぎない.継承か断絶かという議論は古くからあるが,少なくとも「そのままの継承」でないことは明白だ.
 では,かりに断絶とみたとき,その分水嶺はいつ頃なのか.まさか,お約束のように,かの1066年ではないだろうと思っていたところ,「いや実に1066年なのだ」という Minkova (339) の記述に出会い面食らった.

The 1065 poem The Death of Edward is the last composition that can be described reasonably as belonging to the Classical metrical tradition of Anglo-Saxon versification. Very revealing in this respect are the statistics and the comments presented in Cable (1991: 54--5). He notes one single metrically dubious verse (soþfæste sawle 'soothfast soul' (28a)) in the sixty-eight verses of The Death of Edward, while on the other side of the 1066 chronological divide the next extant poem with prominent alliteration, Durham, composed c. 1100, shows a very high level of unmetricality. In Durham 38.1 per cent of the forty-two verses fail to conform to the classical rules. Thus, while the cataclysmic effect of the Norman Conquest with respect to changes affecting phonology and morphosyntax can be questioned, the demarcation line in terms of versification modes is clearer, at least within the inevitable limitations imposed by the surviving texts.


 さすがにピンポイントに1066年ということを強調しているわけではないが,象徴的にはやはりこの年代のようだ.引用でも述べられている通り,英語も自然言語である以上,音韻論や形態統語論がある年代にガクンと変わるということは考えにくい.その点では韻律論も同じだろう.しかし,韻律論と関係は深いが韻律論そのものではない韻文の技巧として頭韻規則を眺める場合,ある年代を境に1つの規則から別の規則にガクンと変化するということはあり得るかもしれない.この場合の規則とは社会制度に近いもので,社会制度とはある日を境にして人々が一方から他方に意識的に乗り換えることができる代物だからだ.
 古英語末期の The Battle of Maldon などでも伝統的なリズムからは逸脱していると言われており,分水嶺としての1066年を額面通りに受け入れることはできないにせよ,象徴的な意義は認めてよいだろう.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.
 ・ Cable, Thomas. The English Alliterative Tradition. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 1991.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2020-04-05 Sun

#3996. ノルマン征服の英語史上の意義は強調されすぎ? [norman_conquest][history]

 「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]) やその他の記事 (norman_conquest) で,この1066年の著名な事件のもつ英語史へのインパクトを様々に紹介してきたが,Mengden (29--30) は事件の意義をややトーンダウンした形で伝えようとしている.意義は確かに大きいが,少し強調されすぎなのではないかというスタンスだ.耳を傾けてみよう.

The events of the year 1066 seem to have been the consequence of a series of steps by the Norman nobility to gain political influence in England --- a development always accompanied by support from an influential pro-Norman party in the Anglo-Saxon aristocracy. It is therefore feasible to assume that the intensity of French influence, although traceable, is not considerably greater in the years immediately following the Norman Conquest than it is before. From this perspective, the Norman Conquest stabilizes, but by no means ignites or reinforces, the growing intensity of Anglo-Norman relations. As such, William's victory at Hastings may be seen as one of several important events that pave the way for the enormous influence that French exerts on English in the 13th and 14th centuries. The beginnings of this development are clearly part of the history of Old English rather than of Middle English.


 ポイントは,ノルマン・フランス(語)の英語への影響は事件以前からあり,事件によってすぐに拡大したわけではないという点だ.その後,事件の効果がジワジワと効いてきたというのは確かだろうが,結果的には数世紀間続くことになるフランス語による影響の全体像のなかに位置づけるならば,1066年は前半の1コマにすぎない.全体像の開始こそが重要とみるのであれば,1066年ではなく,それより前の古英語末期を指摘しなければならない.このような議論だ.
 やや冷めた目ではあるが,いくつかの事実を指摘しており,おもしろい見方だと思う.関連して「#2685. イングランドとノルマンディの関係はノルマン征服以前から」 ([2016-09-02-1]),「#302. 古英語のフランス借用語」 ([2010-02-23-1]) を参照.

 ・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2020-01-02 Thu

#3902. 純アングロサクソン名の Edward, Edgar, Edmond, Edwin [anglo-saxon][oe][onomastics][personal_name][etymology][norman_conquest]

 「#2364. ノルマン征服後の英語人名のフランス語かぶれ」 ([2015-10-17-1]) でみたように,古英語期,すなわち1066年のノルマン征服より前の時代には当たり前のようにイングランドで用いられていたアングロサクソン人名の多くが,征服後に一気に衰退した.標題の名前は,生き残った純正アングロサクソン男性名の代表例である(「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) よりアングロサクソン諸王の名前を確認されたい).
 いずれも複合語であり,第1要素に Ed- がみえる.これは古英語の名詞 ēad (riches, prosperity, good, fortune, happiness) を反映したものである(すでに廃語).「裕福」という縁起のよい意味だから人名には多用された.Edwardēad + weard (guardian) ということで「富を守る者」が原義である.Edgarēad + gār (spear) ということで「富裕な槍持ち」といったところか.Edmond/Edmundēad + mund (protection) ということで「富貴の守り手」ほどの意となる(この第2要素は Raymond, Richmond にもみられる).Edwineēad + wine (friend) ということで「富の友」である(この第2要素は Baldwin にもみられる).
 なお Edith は女性名となるが,第1要素はやはり ēad である.これに gūþ (war) が複合(および少し変形)した,勇ましい名前ということになる.
 現代に生き残るこのような純アングロサクソン名(残念ながら多くはない)を利用して,古英語の単語や語源について学ぶのもおもしろい.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2019-11-02 Sat

#3841. Whitby の宗教会議(664年)の英語史上の意義 [history][christianity][norman_conquest]

 英語史関連の年表を眺めていると,たいてい標記の Whitby の宗教会議 (Synod of Whitby) が項目として挙げられている(以下の記事の年表を参照).

 ・ 「#1419. 橋本版,英語史略年表」 ([2013-03-16-1])
 ・ 「#2526. 古英語と中英語の文学史年表」 ([2016-03-27-1])
 ・ 「#2562. Mugglestone (編)の英語史年表」 ([2016-05-02-1])
 ・ 「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1])
 ・ 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1])
 ・ 「#3624. 安藤貞雄『英語史入門』の英語史年表」 ([2019-03-30-1])

 この宗教会議は,どのような会議だったのか.『英米史辞典』 によると次の通りである.

Whitby, Synod of 〔英〕 ホイットビー教会会議 663/664年,ノーサンブリア (Northumbria) 王オズウィ (Oswy) により,領内のホイットビー(現在はノース・ヨークシャーの沿岸都市)で,宗教問題解決のために開かれた会議.ノーサンブリアではケルト教会 (Celtic Church) 系のキリスト教会が先に広まり,遅れてローマ教会系のキリスト教が伝わったが,それとともに,両者の軋轢が強まった.特に,復活祭 (Easter) の日取りそのほかをめぐって対立が目立つようになり,ノーサンブリア教会としてはどちらの教会のしきたりを採用するべきかを決定する必要に迫られた.その結果,この会議が招集され,ケルト教会側はリンディスファーン (Lindisfarne) 司教コールマン (Coleman),ローマ教会側はウィルフリッド (Wilfrid) が代表となって論戦を展開したが,結局,オズウィの支持により,ローマ教会方式の採用が決定した.これを機に,ケルト教会が有力であったアングロ・サクソン諸国もノーサンブリアの例にならい,8世紀中にはウェールズ・スコットランド・アイルランドの教会もローマ教会を受け入れた.この会議は,ブリテン島やアイルランドのキリスト教がローマ教会により統一され,ヨーロッパ大陸の教会と一体化する契機を作った.


 Whitby の宗教会議の歴史的な意義は,引用の最後にも述べられているとおり,ブリテン諸島を大陸側へグイッと引きつけた点にある.これを契機に,北方の海・島の文化圏が南方の大陸の文化圏へ接近することになった.664年とは,ブリテン諸島がある意味で北から南へと旋回した象徴的な年なのである.それからほぼ400年後,1066年のノルマン征服により,その北から南への旋回はスピードを増すことになった.
 英語史の観点から考えてみよう.ノルマン征服の英語史上の意義は,つとに知られている (cf. 「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1])) .端的にいえば,フランス語(およびラテン語)からの影響が強まったということだ.これは言語学的な意味での「北から南への旋回」である.しかし,その旋回の下準備として4世紀前の Whitby の宗教会議があったと解釈すると,俄然この会議の存在が重くみえてくる.あくまで間接的な意義というべきものだが,英語史的にも象徴的な会議だったといえそうだ.

 ・ 松村 赳・富田 虎男 『英米史辞典』 研究社,2000年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-10-29 Mon

#3472. 慶友会講演 (1) --- 「歴史上の大事件と英語」 [keiyukai][hel_education][slide][christianity][runic][latin][loan_word][bible][norman_conquest][french][ame_bre][spelling][webster][history]

 一昨日,昨日と「#3464. 大阪慶友会で講演します --- 「歴史上の大事件と英語」と「英語のスペリングの不思議」」 ([2018-10-21-1]) で案内した大阪慶友会での講演が終了しました.参加者のみなさん,そして何よりも運営関係者の方々に御礼申し上げます.懇親会も含めて,とても楽しい会でした.
 1つめの講演「歴史上の大事件と英語」では「キリスト教伝来と英語」「ノルマン征服と英語」「アメリカ独立戦争と英語」の3点に注目し「英語は,それを話す人々とその社会によって形作られてきた歴史的な産物である」ことを主張しました.休憩を挟んで180分にわたる長丁場でしたが,熱心に聞いていただきました.通時的な視点からみることで,英語が立体的に立ち上がり,今までとは異なった見え方になったのではないかと思います.
 この講演で用いたスライドを,以下にページごとに挙げておきます.

   1. 「歴史上の大事件と英語」
   2. はじめに
   3. 英語史の魅力
   4. 取り上げる話題
   5. I. キリスト教伝来と英語
   6. 「キリスト教伝来と英語」の要点
   7. ブリテン諸島へのキリスト教伝来
   8. 1. ローマン・アルファベットの導入
   9. ルーン文字とは?
   10. ルーン文字の起源
   11. 知られざる真実 現存する最古の英文はルーン文字で書かれていた!
   12. 古英語アルファベットは27文字
   13. 2. ラテン語の英語語彙への影響
   14. ラテン語からの借用語の種類と謎
   15. 外来宗教が英語と日本語に与えた言語的影響の比較
   16. 3. 聖書翻訳の伝統の開始
   17. 各時代の英語での「主の祈り」の冒頭
   18. 聖書に由来する表現
   19. 「キリスト教伝来と英語」のまとめ
   20. II. ノルマン征服と英語
   21. 「ノルマン征服と英語」の要点
   22. 1. ノルマン征服とは?
   23. ノルマン人の起源
   24. ノルマン人の流入とイングランドの言語状況
   25. 2. 英語への言語的影響は?
   26. 語彙への影響
   27. 英語語彙におけるフランス借用語の位置づけ
   28. 語形成への影響
   29. 綴字への影響
   30. 3. 英語への社会的影響は?
   31. 堀田,『英語史』 p. 74 より
   32. 「ノルマン征服と英語」のまとめ
   33. III. アメリカ独立戦争と英語
   34. 「アメリカ独立戦争と英語」の要点
   35. 1. アメリカ英語の特徴
   36. 綴字発音 (spelling pronunciation)
   37. アメリカ綴字
   38. アメリカ英語の社会言語学的特徴
   39. 2. アメリカ独立戦争(あるいは「アメリカ革命」 "American Revolution")
   40. アメリカ英語の時代区分
   41. 独立戦争とアメリカ英語
   42. 3. ノア・ウェブスターの綴字改革
   43. ウェブスター語録 (1)
   44. ウェブスター語録 (2)
   45. ウェブスターの綴字改革の本当の動機
   46. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめ
   47. おわりに
   48. 参考文献

Referrer (Inside): [2018-10-31-1] [2018-10-30-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-10-10 Wed

#3453. ノルマン征服がイングランドの地名に与えた影響 [toponymy][onomastics][norman_conquest][me_dialect]

 デイヴィスとレヴィット (168--69) は,ノルマン征服 (norman_conquest) が地名(史)に及ぼしたインパクトについて次のように述べている.

英語圏内にみられる様々な方言への分岐が加速されたことであった.このため,英語は統治のための手段ではなくなり,全国どこでも通じる意志〔ママ〕伝達の均一の手段ではなくなってしまった.また,以前とは違って,教育や文学のための言語でもなくなった.その結果,どんな言語にでも常に息づいている,方言として周囲に拡散する傾向が自由を得て,これまで英語に存在していた保守的な勢力が消滅していった.従って,英語は豊かな方言形式を発達させ,方言は地名に大きな影響を与えた.地名の成立にではなく,時代を経ての地名継承のあり方に大きな影響を及ぼした.


 この点はなるほどと思った.標準語が存在する言語においては,一般語彙に関して,広く通用する「標準形」と各地で行なわれる種々の「方言形」がありうる.しかし,地名語彙には,通常「標準形」と「方言形」という区別はない.地名は広く参照される語なので,機能的には標準的でなければならないが,形式的には標準的とされるものが採用される必要はない.それは,地名が何かを意味している必要はなく,その場所を参照していればよいという記号論的に特殊な性質を持ち合わせていることと関係しているだろう(この点については,「#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである」 ([2015-05-18-1]),「#2397. 固有名詞の性質と人名・地名」 ([2015-11-19-1]) を参照).
 中英語期の方言分化と地名の関係がよく見える形で表われている例の1つが,hillmill の母音の変異である.「#1812. 6単語の変異で見る中英語方言」 ([2014-04-13-1]) でみたように,この母音は南東部では e として,西部では u として,それ以外では i として実現される.それぞれの分布について,デイヴィッドとレヴィット (216--17) に次のように記述がある.

 e を用いていた地域(主にケント)からはヘルステッド (Helsted),ワームズヒル(Wormshill, 1232年の記録では Wodnesell, 意味はおそらく Woden's Hill 「ウォドンの丘」),ミルトン (Milton, カンタベリーの近く.tun by a mill 「粉引き場の近くの町」の意味で,1242年の記録では Meleton).
 u を用いていた地域からはスタッフォードシャーのペンクハル (Penkhull, ブリトン語の人名 Pencet に英語の hill が付け加えられている),グロスターシャーのラッジ(Rudge, ridge 「山の尾根」),ランカシャーのハルトン (Hulton, tun on a hill 「丘の上にある町」),スタッフォードシャーのミルトン (Milton) は以前 (1227年)は Mulneton だった.
 i を用いていた地域からの例は多数あり,最初期の頃にしばしば u が用いられ,その起源はイースト・ミッドランド及び北部の方言形 i が別個に発展する以前に遡る.


 地名学,方言学,音変化の研究は,ともに手を携えて進むべき仲間である.

 ・ デイヴィス,C. S.・J. レヴィット(著),三輪 伸春(監訳),福元 広二・松元 浩一(訳) 『英語史でわかるイギリスの地名』 英光社,2005年.

Referrer (Inside): [2020-12-14-1] [2018-10-11-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-09-24 Mon

#3437. ノルマン征服に従軍したフランドル人 [history][flemish][norman_conquest][me_text]

 昨日の記事「#3436. 英語と低地諸語との接触の歴史」 ([2018-09-23-1]) の (2) で,ノルマン征服に付き従った外国軍のなかにフランドル人がおり,征服後もブリテン島に残ったらしいと述べた.これに関して,1338年頃に詩人 Robert Mannyng of Brunne が訳した Chronicle のなかに,次のような言及がある.Baugh and Cable (108) に引かれているものを現代語訳とともに再掲する.

To Frankis & Normanz, for þar grete laboure,
To Flemmynges & Pikardes, þat were with him in stoure,
He gaf londes bityme, of whilk þer successoure
Hold ȝit þe seysyne, with fulle grete honoure.

To French and Normans, for their great labor,
To Flemings and Picards, that were with him in battle,
He gave lands betimes, of which their successors
Hold yet the seizin, with full great honor.


 Chamson (285) は,この記述を受けて次のように述べている.

The last two lines, referring to lands held by the successors of the foreign troops, indicate that the Flemings remained in Britain. Other non-Norman foreigners, e.g. the Bretons, are known to have left Britain after their service to William. During the conquest and its aftermath, large numbers of traders and mercenaries from the Low Countries came to Britain.


 フランドル人は,ノルマン征服の最中とその後に,その立ち位置から,ノルマン人とイングランド人を結びつける役割を演じたと考えることができるかもしれない.軍事・経済的にそうだったとすれば,言語的にもそうだったのではないかと,確かに考えてみたくなる.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
 ・ Chamson, Emil. "Revisiting a Millennium of Migrations: Contextualizing Dutch/Low-German Influence on English Dialect Lexis." Contact, Variation, and Change in the History of English. Ed. Simone E. Pfenninger, Olga Timofeeva, Anne-Christine Gardner, Alpo Honkapohja, Marianne Hundt and Daniel Schreier. Amsterdam/Philadelphia: Benjamins, 2014. 281--303.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-09-23 Sun

#3436. イングランドと低地帯との接触の歴史 [dutch][flemish][contact][borrowing][loan_word][history][anglo-saxon][norman_conquest][sociolinguistics]

 昨日の記事「#3435. 英語史において低地諸語からの影響は過小評価されてきた」 ([2018-09-22-1]) を受けて,Chamson の論文に拠り,英語と低地諸語の話者たちが歴史上いかなる機会に接触してきた(はず)か,略述したい.
 両者の接触の歴史は,時間幅でいえば,5世紀のアングロサクソンのブリテン島への移動の前後の時期から,オランダが超大国として覇権を握った17世紀まで,千年以上に及ぶ.このなかで注目に値するのは,(1) アングロサクソンの渡来の前後,(2) ノルマン征服とその後,(3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀,(4) オランダの繁栄期である16--17世紀の4つの時期だろう.それぞれについて述べていく.

 (1) アングロサクソンの渡来の前後

 5世紀のアングル人,サクソン人,ジュート人のブリテン島への移動の前後から,他の低地ゲルマン語派の諸部族も同じくブリテン島へ渡っていたことが分かっている.しかし,このように時代が古ければ古いほど,互いの言語の類似性も大きく,借用の決定的な証拠は得にくい.しかし,イングランドの地名のなかに "Frisians" や "Flemings" の存在を示すものが少なくないことに注意すべきである.例えば,Dunfries, Freseley, Freswick, Frisby, Friesden, Friesthorpe, Frieston, Friezland, Frisby, Frisdon, Frizenham, Frizinghall, Frizingon, Fryston; Flemingtuna, Flameresham, Flemdich, Flemingby など.人名でも,Flandrensis, Fleemeng, Flammeng, Flameng, Flemang, Fleamang, Flemmyng, Flamenc, Flemanc などの "Flemings" の異形が,現代でもイギリス人に多く残っている.

 (2) ノルマン征服とその後

 ノルマン征服の折に William に付き従った外国軍のなかには,多くのフランドル人がいた.また,William の妻 Matilda はフランドル伯 Baldwin V の娘だったこともあり,フランドル人の貢献は際立っていた.征服後もこれらのフランドル人はブリテン島にとどまったらしい.
 1107年頃にフランドルで洪水があった際に,Henry I は,被災したフランドル人がイングランド北部に移住することを許可した.それに伴って大量のフランドル人が押し寄せ,世紀半ばには彼らを Wales の南西端 Pembrokeshire に再移住させるなどの事態にも発展している (see 「#3292. 史上最初の英語植民地 Pembroke」 ([2018-05-02-1])) .結果として,Pembrokeshire 南部ではウェールズ人を押しのけてフランドル人が定住するようになり,その人口状況は16世紀の記述にもみられるほどである.
 ほかに,12世紀後半には,Henry II とその子供たちの争いにおいてフランドル人の軍隊が利用されたこともあった.さらに,12世紀以降には,Norwich や Norfolk などのイングランド東部の町は,低地帯からの入植者で満たされ,フランドルとの羊毛貿易でおおいに栄えた(特に Norwich は London に次ぐ人口の町となった).彼らは,征服者アングロノルマン人とイングランド人のつなぎの役目を果たした可能性もある.

 (3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀

 上記のように征服後間もない頃から,羊毛・織物産業を基盤とする両地域の貿易は大いに栄えてきたが,必ずしも常に仲むつまじい関係だったわけではない.14世紀からは貿易摩擦に由来する敵対心が芽生えたこともあった.イングランド東部やスコットランドに多数のフランドル人が移住し,イングランドの労働者の間に不満が生じるほどになった.国王は,貿易による利益獲得とイングランド国民の経済的保護とのあいだで難しい舵取りを迫られていたのである.しかし逆にいえば,この時代,両者が日常的に密に接触していた証左でもある.

 (4) オランダの繁栄期である16--17世紀

 16--17世紀には,低地帯はヨーロッパ全体に巨大な影響力を及ぼす地域へと成長しており,アントワープやブリュージュはヨーロッパを代表する都市となっていた.16世紀後半,低地帯はスペイン支配からの独立を巡る争いのなかで,プロテスタントの北部とスペイン支配が続く南部とに分裂した.この争いを受けて,南部からの移民が大量にイングランドに渡ってきた.その後も宗教・政治的争いに起因する万単位の移民の波が17世紀半ばまで数十年間も続き,低地帯とイングランドの人々の間に,歴史上最も大規模で親密な関係が築かれることとなった.

 以上,具体的な言語接触の過程や結果には触れなかったが,歴史上,両者の接触が間断なく続いていたことを,Chamson の論文に拠って示した.これは,語彙借用を含む言語的な影響を相互に容易たらしめた社会言語学的条件と見ることができるだろう.

 ・ Chamson, Emil. "Revisiting a Millennium of Migrations: Contextualizing Dutch/Low-German Influence on English Dialect Lexis." Contact, Variation, and Change in the History of English. Ed. Simone E. Pfenninger, Olga Timofeeva, Anne-Christine Gardner, Alpo Honkapohja, Marianne Hundt and Daniel Schreier. Amsterdam/Philadelphia: Benjamins, 2014. 281--303.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-09-21 Fri

#3434. 近代英語期までもつれこんだ英語の公用語化 [reestablishment_of_english][me][french][latin][law_french][norman_conquest]

 ノルマン征服により,イングランドの公用語はフランス語およびラテン語となった.英語は非公式の言語として地下に潜ったわけだが,その後の数世紀をかけてゆっくりと,しかし着実に復権を遂げていった.この経緯については,reestablishment_of_english の数々の記事で取り上げてきたが,とりわけ以下の記事を挙げておこう.

 ・ 「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1])
 ・ 「#324. 議会と法廷で英語使用が公認された年」 ([2010-03-17-1])
 ・ 「#336. Law French」 ([2010-03-29-1])
 ・ 「#1207. 英語の書き言葉の復権」 ([2012-08-16-1])
 ・ 「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1])
 ・ 「#3265. 中世から初期近代まで行政の書き言葉標準はずっとラテン語だった」 ([2018-04-05-1])

 君塚 (134--35) は,公用語としての英語の復権を13世紀以降の流れのなかで描いているが,その終点はといえば,近代に入った1649年である.

 なお,「ノルマン征服」以後,イングランド貴族の日常言語はフランス語であり,公式の文書などにはラテン語が用いられてきた.これがジョンによる「ノルマン喪失」以降,貴族間でも英語が日常的に使われ,エドワード3世治世下の一三六三年からは議会での日常語は正式に英語と定められた.庶民院にはフランス語ができない層が数多くいたこととも関わっていた.
 議会の公式文書のほうは,一五世紀前半まではラテン語とともにフランス語が使われていたが,一四八九年からは法令の草稿も英語となった(議会制定法自体はラテン語のまま).最終的に法として認められる「国王による裁可」(ロイヤル・アセント)も,一七世紀前半まではフランス語が使われていたが,共和制の到来(一六四九年)とともに英語に直され,以後今日まで続いている.


 だが,さらに後の話題もある.法律を含めた公文書が英語で書かれなければならなくなる,いわゆる「ラテン語の全廃」は,ハノーヴァー朝の1713年のことである.イングランドは,ノルマン征服以降,英語を公的な場に完全に取り戻すのに,ざっと650年を要したことになる.

 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-04-09 Mon

#3269. Blake の英語史時代区分の第2期 [periodisation][norman_conquest][grapheme][ab_language][ormulum][standardisation]

 「#3231. 標準語に軸足をおいた Blake の英語史時代区分」 ([2018-03-02-1]) で紹介したように,Blake による英語史時代区分は,徹頭徹尾,標準化という観点からなされた区分である.一般的な英語史の時代区分に慣れていると,おやと思うところがいくつかあるが,とりわけノルマン征服 (norman_conquest) に一顧だにせず,1066年という点をさらりと乗り越えていくかのような第2期(9世紀後半?1250年)の設定には驚くのではないか.ノルマン征服といえば,通常,英語史上およびイングランド史上最大の事件として扱われるが,Blake の見解によると,あくまで第2期の内部での事件という位置づけだ.
 Blake によれば,第2期はウェストサクソン方言の書き言葉標準が影響力をもった時代とされる.しかし,ノルマン征服によってウェストサクソンの書き言葉標準は無に帰したのではなかったか.また,「#2712. 初期中英語の個性的な綴り手たち」 ([2016-09-29-1]) で取り上げたように,1250年までに局所的ではあれ,AB language, Orm, Laȝamon において標準語に準ずる類の一貫した綴字習慣が発達しており,これらは来たるべき新しい時代の到来を予感させるという意味で,むしろ第3期に接近しているととらえるべきではないか.
 しかし,ノルマン征服後,12世紀後半から13世紀にかけて見られるこれらの限定的な「標準的」綴字は,Blake によれば,あくまで後期古英語のウェストサクソン標準語に起源をもつものであり,そこからの改変形・発展形ととらえるべきだという.確かに少なからぬ改変が加えられており,独自の発展も遂げているかもしれないが,かつての標準語の流れを汲んでいるという意味で,その本質は回顧的なものであるとみている.
 この回顧的な性質を保っていた,第2期の最後のテキストの1つは,1258年の「#2561. The Proclamation of Henry III」 ([2016-05-01-1]) だろう.ここではかつての標準語の名残が見られるといわれ,その最も分かりやすい例が <æ> の使用である.Blake (135) によれば,古英語の流れを汲んだ <æ> の英語史上最後の使用例だという.
 この辺りの年代を超えると,回顧的な雰囲気は消え,明らかに新しい次の時代,つまり標準語という概念がない時代へと入っていく.Blake (131) 曰く,

From now on there were no further attempts to create a standard English writing system which could be said to look back to that found earlier, and Old English manuscripts ceased to be living texts which were copied and recopied. A period of uncertainty as to writing in English succeeded, and when a new standard started to arise it would be based on different premises and a different dialect area.


 ・ Blake, N. F. A History of the English Language. Basingstoke: Macmillan, 1996.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-02-17 Sat

#3218. 講座「スペリングでたどる英語の歴史」の第3回「515通りの through --- 中英語のスペリング」 [slide][spelling][spelling_pronunciation_gap][norman_conquest][chaucer][manuscript][reestablishment_of_english][timeline][me_dialect][minim][orthography][standardisation][digraph][hel_education][link][asacul]

 朝日カルチャーセンター新宿教室で開講している講座「スペリングでたどる英語の歴史」も,全5回中の3回を終えました.2月10日(土)に開かれた第3回「515通りの through --- 中英語のスペリング」で用いたスライド資料を,こちらにアップしておきました.
 今回は,中英語の乱立する方言スペリングの話題を中心に据え,なぜそのような乱立状態が生じ,どのようにそれが後の時代にかけて解消されていくことになったかを議論しました.ポイントとして以下の3点を指摘しました.

 ・ ノルマン征服による標準綴字の崩壊 → 方言スペリングの繁栄
 ・ 主として実用性に基づくスペリングの様々な改変
 ・ 中英語後期,スペリング再標準化の兆しが

 全体として,標準的スペリングや正書法という発想が,きわめて近現代的なものであることが確認できるのではないかと思います.以下,スライドのページごとにリンクを張っておきました.その先からのジャンプも含めて,リンク集としてどうぞ.

   1. 講座『スペリングでたどる英語の歴史』第3回 515通りの through--- 中英語のスペリング
   2. 要点
   3. (1) ノルマン征服と方言スペリング
   4. ノルマン征服から英語の復権までの略史
   5. 515通りの through (#53, #54), 134通りの such
   6. 6単語でみる中英語の方言スペリング
   7. busy, bury, merry
   8. Chaucer, The Canterbury Tales の冒頭より
   9. 第7行目の写本間比較 (#2788)
   10. (2) スペリングの様々な改変
   11. (3) スペリングの再標準化の兆し
   12. まとめ
   13. 参考文献

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-01-26 Fri

#3196. 中英語期の主要な出来事の年表 [timeline][me][history][chronology][norman_conquest][reestablishment_of_english][monarch][hundred_years_war][black_death][wycliffe][chaucer][caxton]

 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) に引き続き,中英語期の主要な出来事の年表を,Algeo and Pyles (123--24) に拠って示したい,

1066The Normans conquered England, replacing the native English nobility with Anglo-Normans and introducing Norman French as the language of government in England.
1204King John lost Normandy to the French, beginning the loosening of ties between England and the Continent.
1258King Henry III was forced by his barons to accept the Provisions of Oxford, which established a Privy Council to oversee the administration of the government, beginning the growth of the English constitution and parliament.
1337The Hundred Years' War with France began and lasted until 1453, promoting English nationalism
1348--50The Black Death killed an estimated one-third of England's population, and continued to plague the country for much of the rest of the century
1362The Statute of Pleadings was enacted, requiring all court proceedings to be conducted in English.
1381The Peasants' Revolt led by Wat Tyler was the first rebellion of working-class people against their exploitation; although it failed in most of its immediate aims, it marks the beginning of popular protest.
1384John Wycliffe died, having promoted the first complete translation of scripture into the English language (the Wycliffite Bible).
1400Geoffrey Chaucer died, having produced a highly influential body of English poetry.
1476William Caxton, the first English printer, established his press at Westminster, thus beginning the widespread dissemination of English literature and the stabilization of the written standard.
1485Henry Tudor became king of England, ending thirty years of civil strife and initiating the Tudor dynasty.


 中英語の外面史は,まさに英語の社会的地位の没落とその後の復権に特徴づけられていることがよくわかる.

 ・ Algeo, John, and Thomas Pyles. The Origins and Development of the English Language. 5th ed. Thomson Wadsworth, 2005.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-01-24 Wed

#3194. ノルマン征服後,英語が用いられなくなったことへの嘆き [norman_conquest][me_text][scribe][manuscript][alliteration][laeme][bible]

 Worcester Cathedral, Dean and Chapter Library F 174 という写本の Fol. 63r, lines 14--28 に,緩い頭韻を示す短いテキストが収められている.オリジナルは古英語で書かれていたようだが,このテキストの言語はすでに初期中英語的な特徴を示している.写本はおそらく13世紀の第2四半世紀 (C13a2) に成立した.このテキストの直前には Ælfic の GrammarGlossary が,直後には "Body and Soul" に関する頭韻詩が収められている.写本全体が "Worcester tremulous hand" として知られる写字生によって書かれている.
 テキストの内容は,標題に示唆したように,ノルマン征服後に教育などの公的な場面で英語が用いられなくなってしまったことへの嘆きである.征服前の古英語期には英語で教育が行なわれ,イングランドは文化的に反映していたのに,今や英語を話さないノルマン人が教師となってしまっている,嗚呼,嘆かわしいことよ,という趣旨だ.
 ポイントは,l. 15 と l. 18 の対比である.古英語期にはアングロサクソン人の教師が英語で人々を教育していたが (l. 15),ノルマン征服後の今では「他の人々」,すなわち大陸から渡ってきたノルマン人が(他の言語で)人々を教育していると,書き手は嘆いている.英語が公的な地位から振り落とされ,学問からも遠ざけられた様子がわかる.Dickins and Wilson 版 (2) のテキストを示そう.

[S]anctus Beda was iboren her on Breotene mid us, 
And he wisliche [bec] awende 
Þet þeo Englise leoden þurh weren ilerde. 
And he þeo c[not]ten unwreih, þe questiuns hoteþ, 
Þa derne diȝelnesse þe de[or]wurþe is.5
Ælfric abbod, þe we Alquin hoteþ, 
He was bocare, and þe [fif] bec wende, 
Genesis, Exodus, Vtronomius, Numerus, Leuiticus, 
Þu[rh] þeos weren ilærde ure leoden on Englisc. 
Þet weren þeos biscop[es þe] bodeden Cristendom,10
Wilfrid of Ripum, Iohan of Beoferlai, Cuþb[ert] of Dunholme, 
Oswald of Wireceastre, Egwin of Heoueshame, Æld[elm] of 
Malmesburi, Swiþþun, Æþelwold, Aidan, Biern of Wincæstre, 
[Pau]lin of Rofecæstre, S. Dunston, and S. Ælfeih of Cantoreburi. 
Þeos læ[rden] ure leodan on Englisc,15
Næs deorc heore liht, ac hit fæire glod. 
[Nu is] þeo leore forleten, and þet folc is forloren. 
Nu beoþ oþre leoden þeo læ[reþ] ure folc, 
And feole of þen lorþeines losiæþ and þet folc forþ mid. 
Nu sæiþ [ure] Drihten þus, Sicut aquila prouocat pullos suos ad volandum, et super eo[s uolitat.]20
This beoþ Godes word to worlde asende, 
Þet we sceolen fæier feþ [festen to Him.] 


 l. 20 のラテン語は,Deuteronomy 32:11 より.The King James Version から対応箇所を引用すると "As an eagle stirs up her nest, flutters over her young, spreads abroad her wings, takes them, bears them on her wings: / So the Lord alone did lead him, and there was no strange god with him." (ll. 11--12) とある.よそから来た「神」が疎ましい,という引っかけか.
 この写本については,LAEME よりこちらの情報も参照.

 ・ Dickins, Bruce and R. M. Wilson, eds. Early Middle English Texts. London: Bowes, 1951.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-12-30 Sat

#3169. 古英語期,オランダ内外におけるフリジア人の活躍 [frisian][anglo-saxon][history][norman_conquest][dutch]

 比較言語学によれば,英語と最も近親の言語はフリジア語 (frisian) であると言われる (cf. 「#787. Frisian」 ([2011-06-23-1])) .その話者であるフリジア人とは,どのような集団だったのだろうか.イングランドでアングロサクソン人が活動していた後期古英語期を念頭に,その頃フリジア人が現在のオランダの地の内外でいかに活躍していたかを,佐藤 (21--23) に従って概説しよう.
 4世紀末から6世紀のゲルマン民族大移動の時代には,同じゲルマン系であるフリジア人も不安定だった.しかし,フランク王国 (481--987年) の支配下で安定を取り戻すと,彼らは7世紀よりオランダ内外で活発な商業活動を展開した.ライン川を中心にドイツ内陸部にまで進出するとともに,海を渡ってイングランド,ユトランド半島,スカンディナヴィアへも活動範囲を広げた.穀物,ワイン,羊の毛皮,魚,塩,武器の交易を行なっており,奴隷の売買にも手を染めていたという.
 このようなフリジア人の商業力の源泉な何だったのだろうか.佐藤 (21--22) は次のように述べている(引用文中の「テルプ」とは海のなかに設けられた人工の盛り土で,満潮になると島のようになった人々の居住地を指す).

 フリース人は七―八世紀になぜこのように広範囲にわたる商業活動を展開できたのか.すでにふれたように彼らはテルプの上に住み,水路で近隣とつながっている生活をし,日頃から水に親しみ,船を操るのはお手のものであった.テルプの上で暮らすフリース人はヒツジなどを飼う牧畜とサケやチョウザメをとる漁業が主な生業で,日常の穀物はどうしてもほかから手に入れなければならなかった.これがおそらく彼らを商業活動に駆り立てたと思われる.その見返りに彼らは羊の毛皮,羊毛,魚などをもって出かけた.それに加えて,もし需要があれば,先にのべたような各地の特産物を扱うのは自然の流れである.
 民族大移動の不安定な時代が終わるとともに,フリース人が手広い商業活動を展開したことは,オランダ人の歴史のひとコマとして注目してよいであろう.やがて一七世紀にはオランダ人は世界の七つの海へ雄飛するが,何かそれを予感させるようなフリース人の活躍である.大西洋を舞台に大々的に黒人奴隷貿易をくり広げたところなどは,まさにフリース人の商業の伝統を受け継いだものといえるかもしれない.


 ロマンチックなフリジア・オランダ史観といえるが,もう1つ歴史的におもしろいのは,フリジア人とヴァイキングの関係である.フリースランドはヴァイキングの故地に非常に近いので,最初のターゲットとなる運命だった.9世紀にはヴァイキングによる大規模な掠奪が繰り広げられたが,それは地理的な近さのみならず,フリジア人による豊富な商業資源に引きつけられたからにちがいない.フリジア人はそれによって打撃を受けたのは確かだろうが,一方でしたたかな彼らはヴァイキングの勢いに乗じる形で,周辺地域への商業活動をさらに活発化したらしい.
 7世紀以降のフリジア人にせよ,17世紀以降のオランダ人にせよ,超域的に活動し,歴史に民族名を刻むほどの影響力を示したものの,長期的に覇を唱えることはなかった.言語としても同様に,フリジア語やオランダ語は永続的に覇権を握ることはなかった.血を分けた兄弟たる英語が近代以降に世界化していくのと裏腹に,むしろ土地の言語として定着していくことになる.

 ・ 佐藤 弘幸 『図説 オランダの歴史』 河出書房,2012年.

Referrer (Inside): [2023-01-08-1] [2022-02-08-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-10-30 Mon

#3108. ノルマン征服がなかったら,英語は・・・? [hel_education][history][loan_word][spelling][stress][rsr][gsr][rhyme][alliteration][gender][inflection][norman_conquest]

 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) や「#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか」 ([2017-10-19-1]) に続き,歴史の if を語る妄想シリーズ.ノルマン征服がなかったら,英語はどうなっていただろうか.
 まず,語彙についていえば,フランス借用語(句)はずっと少なく,概ね現在のドイツ語のようにゲルマン系の語彙が多く残存していただろう.関連して,語形成もゲルマン語的な要素をもとにした複合や派生が主流であり続けたに違いない.フランス語ではなくとも諸言語からの語彙借用はそれなりになされたかもしれないが,現代英語の語彙が示すほどの多種多様な語種分布にはなっていなかった可能性が高い.
 綴字についていえば,古英語ばりの hus (house) などが存続していた可能性があるし,その他 cild (child), cwic (quick), lufu (love) などの綴字も保たれていたかもしれない.書き言葉における見栄えは,現在のものと大きく異なっていただろうと想像される.<þ, ð, ƿ> などの古英語の文字も,近現代まで廃れずに残っていたのではないか (cf. 「#1329. 英語史における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-16-1]) や「#1330. 初期中英語における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-17-1])) .
 発音については,音韻体系そのものが様変わりしたかどうかは疑わしいが,強勢パターンは現在と相当に異なっていたものになっていたろう.具体的にいえば,ゲルマン的な強勢パターン (Germanic Stress Rule; gsr) が幅広く保たれ,対するロマンス的な強勢パターン (Romance Stress Rule; rsr) はさほど展開しなかったろうと想像される.詩における脚韻 (rhyme) も一般化せず,古英語からの頭韻 (alliteration) が今なお幅を利かせていただろう.
 文法に関しては,ノルマン征服とそれに伴うフランス語の影響がなかったら,英語は屈折に依拠する総合的な言語の性格を今ほど失ってはいなかったろう.古英語のような複雑な屈折を純粋に保ち続けていたとは考えられないが,少なくとも屈折の衰退は,現実よりも緩やかなものとなっていた可能性が高い.古英語にあった文法性は,いずれにせよ消滅していた可能性は高いが,その進行具合はやはり現実よりも緩やかだったに違いない.また,強変化動詞を含めた古英語的な「不規則な語形変化」も,ずっと広範に生き残っていたろう.これらは,ノルマン征服後のイングランド社会においてフランス語が上位の言語となり,英語が下位の言語となったことで,英語に遠心力が働き,言語の変化と多様化がほとんど阻害されることなく進行したという事実を裏からとらえた際の想像である.ノルマン征服がなかったら,英語はさほど自由に既定の言語変化の路線をたどることができなかったのではないか.
 以上,「ノルマン征服がなかったら,英語は・・・?」を妄想してみた.実は,これは先週大学の演習において受講生みんなで行なった妄想である.遊び心から始めてみたのだが,歴史の因果関係を確認・整理するのに意外と有効な方法だとわかった.歴史の if は,むしろ思考を促してくれる.

Referrer (Inside): [2019-12-25-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-10-29 Sun

#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド [slide][norman_conquest][history][french][loan_word][link][hel_education][asacul]

 英語史におけるノルマン征服の意義について,スライド (HTML) にまとめてみました.こちらからどうぞ.
 これまでも「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]) を始め,norman_conquest の記事で同じ問題について考えてきましたが,当面の一般的な結論として,以下のようにまとめました.

 1. ノルマン征服は(英国史のみならず)英語史における一大事件.
 2. 以降,英語は語彙を中心にフランス語から多大な言語的影響を受け,
 3. フランス語のくびきの下にあって,かえって生き生きと変化し,多様化することができた

 詳細は各々のページをご覧ください.本ブログ内のリンクも豊富に張っていますので,適宜ジャンプしながら閲覧すると,全体としてちょっとした読み物になると思います.また,フランス語が英語に及ぼした(社会)言語学的影響の概観ともなっています.

 1. ノルマン征服と英語
 2. 要点
 3. (1) ノルマン征服 (Norman Conquest)
 4. ノルマン人の起源
 5. 1066年
 6. ノルマン人の流入とイングランドの言語状況
 7. (2) 英語への言語的影響
 8. 語彙への影響
 9. 英語語彙におけるフランス借用語の位置づけ (#1210)
 10. 語形成への影響 (#96)
 11. 綴字への影響
 12. 発音への影響
 13. 文法への影響
 14. (3) 英語への社会的影響 (#2047)
 15. 文法への影響について再考
 16. まとめ
 17. 参考文献
 18. 補遺1: 1300年頃の Robert of Gloucester による年代記 (ll. 7538--47) の記述 (#2148)
 19. 補遺2: フランス借用語(句)の例 (#1210)

 他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]),「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1]),「#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-24-1]) もご覧ください.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-10-19 Thu

#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか [reestablishment_of_english][monarch][history][norman_conquest][hundred_years_war]

 昨日の記事「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) に引き続き,英語の復権のスピードについての話題.
 William I が1066年のノルマン征服で開いたノルマン朝は,英語とフランス語の接触をもたらした.続いて,Henry I から Stephen の時代の政治的混乱を経た後に,1154年に Henry II が開いたプランタジネット朝は,イングランド全体とフランスの広大な部分からなるアンジュー帝国を出現させた.英仏海峡をまたいで両側に領土をもつという複雑な統治形態により,イングランドの言語を巡る状況も複雑化した.それ以降,英語は,フランス語と密接な関係を持ち続けずに存在することがもはやできなくなったといえるからだ.その後も14--15世紀の百年戦争に至るまで厄介な英仏関係が続いたが,関係の泥沼化がこのように進んでいなければ,英語とフランス語の関係も,そしてイングランドにおける英語の復権も,別のコースをたどっていた可能性が高い.
 このようなことを考えていたところに,Henry I と Stephen の息子 Eustace がヤツメウナギ (lamprey) を食して亡くなったという逸話を読んだ(石井,p. 41).歴史の if の妄想ということで,ツイッターで独りごちた.以下,ツイッター口調で(実際にツイートなので)再現してみたい.

同じ食用魚でもヤツメウナギ (lamprey) とウナギ (eel) は生物学的にはまったくの無関係.名前や姿形でだまされてはいけない.


ヤツメウナギ (lamprey) を食し,中毒でポックリ逝ったノルマン朝の King Henry I と,King Stephen の息子 Eustace の2人.ノルマン朝の王族って,そんなにヤツメウナギ好きだったの?


ヤツメウナギ (lamprey) で Eustace がやられなかったら,Henry II に王位が渡らず,プランタジネット朝が開かれなかったかも.すると,イングランドはフランスとさほど摩擦せず,国内の英語の復権はもっと早かったかも.その後の英語史はどうなっていたことか?


プランタジネット朝の開祖 Henry II のフランスの領土保有により,フランスとの泥沼の関係が持続したわけで,それで国内の英語の復権が遅くなった.後に,英語はその遅れの焦りによる「火事場の馬鹿力」的な瞬発力で国内での復権を一気になしとげ,さらに国外へ飛躍できたと考えられる.


結論として,ヤツメウナギがいなかったら,むしろ英語はもう少し長く停滞していたかも!? そして,後に世界語となる機会を逸していたかも!!?? 以上.


「ヤツメウナギが英語を世界語にした」張りの「ハッタリの英語史?歴史の if シリーズ(仮称)」より,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) もどうぞ.


 Henry II は医者の再三の注意を無視してヤツメウナギを大量に食べ続けたというから,相当の好物だったのだろう.歴史は,たやすく偶然に左右されるものかもしれない.
 こちらからツイッターもどうぞ.フォローは

 ・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.

Referrer (Inside): [2019-12-25-1] [2017-10-30-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-02-25 Sat

#2861. Cursor Mundi の著者が英語で書いた理由 [popular_passage][norman_conquest][norman_french][reestablishment_of_english][language_shift][eme][me_text]

 ノルマン征服 (norman_conquest) の後,イングランドに定住することになったノルマン人とその子孫たちは,しばらくの間,自分たちの母語である norman_french を話し続けた.イングランド社会の頂点に立つノルマン人の王侯貴族とその末裔たちは,特に公的な文脈において,フランス語使用をずっと長く続けていたことは事実である.この話題については,以下の記事を始めとして,いろいろと取り上げてきた.

 ・ 「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1])
 ・ 「#661. 12世紀後期イングランド人の話し言葉と書き言葉」 ([2011-02-17-1])
 ・ 「#1204. 12世紀のイングランド王たちの「英語力」」 ([2012-08-13-1])
 ・ 「#1461. William's writ」 ([2013-04-27-1])
 ・ 「#2567. 13世紀のイングランド人と英語の結びつき」 ([2016-05-07-1])
 ・ 「#2604. 13世紀のフランス語の文化的,国際的な地位」 ([2016-06-13-1])

 特に,1300年頃に Robert of Gloucester の著わした Chronicle では,ノルマン人がフランス語を使用し続けている現状について,著者がぼやいている箇所があるほどだ(「#2148. 中英語期の diglossia 描写と bilingualism 擁護」 ([2015-03-15-1]) の引用を参照).
 しかし,考えなければいけないことは,上に述べた状況は,およそノルマン人の王侯貴族にのみ当てはまったということだ.比較的身分の低いノルマン人たちは,周囲にいる大多数の英語母語話者たるイングランド人の圧力のもとで,早くにフランス語から離れ,英語へ乗り換えていた.
 このような言語事情ゆえに,すでに1300年頃には,英語母語話者のなかには,英語でものを書こうという「個人的な」動機づけは十分にあったはずだ.ただ,英語で書くことは社会的慣習の外にあったので,「社会的に」ためらわれるという事情があっただけである.だが,その躊躇を振り切って,英語でものする書き手も現れ始めていた.1300年頃に北部方言で書かれた長詩 Cursor Mundi の著者も,その1人である.なぜ英語で書くのかという理由をあえて書き記している箇所 (Prologue, II, ll. 232--50) を,Gramley (72--73) 経由で引用しよう.

þis ilk bok es translate
Into Inglis tong to rede
For the loue of Inglis lede,
Inglish lede of Ingland,
For the commun at understand.
Frankis rimes here I redd,
Comunlik in ilk[a] sted;
Mast es it wroght for frankis man,
Quat is for him na Frankis can?
In Ingland the nacion,
Es Inglis man þar in commun;
þe speche þat man wit mast may spede;
Mast þarwit to speke war nede.
Selden was for ani chance
Praised Inglis tong in France;
Give we ilkan þare langage,
Me think we do þam non outrage.
To laud and Inglish man I spell
þat understandes þat I tell.


 英語で書く理由をあえて書き記しているということから,逆にそれが社会的にはまだ普通の行いではなかったことが示唆される.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

Referrer (Inside): [2017-07-02-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-09-02 Fri

#2685. イングランドとノルマンディの関係はノルマン征服以前から [norman_conquest][french][oe][monarch][history][family_tree]

 「#302. 古英語のフランス借用語」 ([2010-02-23-1]) で触れたように,イングランドとノルマンディの接触は,ノルマン人の征服 (norman_conquest) 以前にも存在したことはあまり知られていない.このことは,英語とフランス語の接触もそれ以前から少ないながらも存在したということであり,英語史上の意味がある.
 エゼルレッド無策王 (Ethelred the Unready) の妻はノルマンディ人のエマ (Emma) であり,彼女はヴァイキング系の初代ノルマンディ公ロロ (Rollo) の血を引く.エゼルレッドの義兄弟の孫が,実にギヨーム2世 (Guillaume II),後のウィリアム征服王 (William the Conqueror) その人である.別の観点からいうと,ウィリアム征服王は,エゼルレッドとエマから生まれた後のエドワード聖証王 (Edward the Confessor) にとって,従兄弟の息子という立場である.
 今一度ロロの時代にまで遡ろう.ロロ (860?--932?) は,後にノルマン人と呼ばれるようになったデーン人の首領であり,一族ともに9世紀末までに北フランスのセーヌ川河口付近に定住し,911年にはキリスト教化した.このときに,ロロは初代ノルマンディ公として西フランク王シャルル3世 (Charles III) に臣下として受けいれられた.それ以降,歴代ノルマンディ公は婚姻を通じてフランス,イングランドの王家と結びつき,一大勢力として台頭した.
 さて,その3代目リシャール1世 (Richard I) の娘エマは「ノルマンの宝石」と呼ばれるほどの美女であり,エゼルレッド無策王 (968--1016) と結婚することになった.2人から生まれたエドワードは,母エマの後の再婚相手カヌート (Canute) を嫌って母の郷里ノルマンディに引き下がり,そこで教育を受けたために,すっかりノルマン好みになっていた.そして,イングランドでデーン王朝が崩壊すると,このエドワードがノルマンディから戻ってきてエドワード聖証王として即位したのである.
 このような背景により,イングランドとノルマンディのつながりは,案外早く1000年前後から見られたのである.
 ロロに端を発するノルマン人の系統を中心に家系図を描いておこう.関連して,アングロサクソン王朝の系図については「#2620. アングロサクソン王朝の系図」 ([2016-06-29-1]) と「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) で確認できる.

                                   ロロ
                                    │
                                    │
                              ギヨームI世(長剣公)               
                                    │
                                    │
                            リシャールI世(豪胆公)
                                    │
                                    │
                ┌─────────┴──────────┐
                │                                        │
                │                                        │
 クヌート===エマ===エゼルレッド無策王          リシャールII世
                    │                                    │
                    │                                    │
          ┌────┴────┐                          │
          │                  │                          │
          │                  │                          │
  エドワード聖証王       アルフレッド                     │
                                                          │
                    ┌──────────────────┘
                    │
          ┌────┴────┐
          │                  │
          │                  │
    リシャールIII世     ロベールI世(悪魔公)===アルレヴァ
                                               │
                                               │
                                  ギヨームII世(ウィリアム征服王)

Referrer (Inside): [2020-04-05-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-03-04 Fri

#2503. 中英語文学 [me][literature][chaucer][norman_conquest][romance][reestablishment_of_english][wycliffe][bible][langland][sggk][pearl][lydgate]

 中英語期の英語で書かれた文学について,主として Baugh and Cable の110節 "Middle English Literature" (149--51) に依拠し,英語史に関連する範囲内で大雑把に概括したい.
 中英語が社会言語的にたどった運命と,中英語文学は密接にリンクしている.ノルマン征服により,フランス語を話す上流階級の文学的嗜好は,当然ながらフランス語で書かれた書物へ向かっており,英語で書かれたものにパトロンが付く可能性は皆無だった.しかし,英語で物する者がいたことは確かであり,彼らは別の目的で書くという行為を行なっていたのである.それは,英語しか解さない一般庶民にキリスト教を布教しようという情熱に駆られた宗教者たちだった.したがって,1150--1250年に相当する初期中英語期に英語で書かれたものは,ほぼすべてが宗教的・説諭的な文学である.Ancrene RiwleOrmulum (c. 1200) のような聖書の福音書の解釈本や,古英語に由来する聖者伝や説教集の焼き直しが,この時代の英語文学だった.例外的に Layamon's Brut (c. 1200) や The Owl and the Nightingale (c. 1195) のような非宗教的な文学も出たが,例外と言ってよい.この時代は,原則として "Period of Religious Record" と呼べるだろう.
 次の100年間は,フランス語に対して英語が徐々に復権の兆しを示し初め,英語がより広く文学として表わされるようになってきた.フランス語で書かれた文学が翻訳されるなどして,14世紀にかけて英語の文学は勢いを増してきた.具体的には,非宗教的なロマンス (romance) というジャンルが英語という媒体に乗せられるようになった.1250--1350年の英語文学の時代は,"Period of Religious and Secular Literature" と呼ぶことができるだろう.
 14世紀の後半までには,イングランドにおいて英語はほぼ完全な復活 (reestablishment_of_english) を果たし,この時期は中世英語文学史における華を体現することになる.Canterbury TalesTroilus and Criseyde といった大著を残した Geoffrey Chaucer (1340--1400) を初めとして,社会的寓話 Piers Plowman (1362--87) を著わした William Langland,聖書翻訳で物議をかもした John Wycliffe (d. 1384),Sir Gawain and the Green Knight ほか3つの寓意的・宗教的な珠玉の詩を残した詩人が現われ,まさに "Period of Great Individual Writers" と言ってよいだろう.
 15世紀は,Chaucer などの偉大な先人の影響下で,英語文学史上,影が薄い時期となっており,"Imitative Period",あるいは初期近代の Shakespeare までのつなぎの時期という意味で "Transition Period" などと呼ばれている.文学史的には相対的に過小評価されてきたきらいがあるが,Lydgate, Hoccleve, Skelton, Hawes などの傑物が現われている.スコットランドでも,Henryson, Dunbar, Gawin Douglas, Lindsay などが著しい活躍をなした.世紀末には Malory や Caxton が現われるが,この15世紀の語学や文学はもっと真剣に扱われてしかるべきである.この最後の時代の語学・文学的事情については,「#292. aureate diction」 ([2010-02-13-1]) および「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]) も要参照.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

Referrer (Inside): [2016-08-05-1] [2016-03-27-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow