固有名詞は言語を構成する一部か否かという問題は,言語(哲)学における重要な問題である.固有名詞と,それ以外の語とは,多くの点で性質が異なる.「#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである」 ([2015-05-18-1]) でも触れたように,まず固有名詞には意味がない.固有名詞がもっているのは意味機能ではなく,あくまで指示機能にとどまっている.固有名詞は,共時的にみると概ね音韻上の制約には従っているが,通時的にみると音韻形態的な縮約に服することが著しい.例えば,英語の地名などの綴字と発音がかけ離れている程度は,一般の語の比ではない (ex. Silverstone /silsn/) .造語された当初には明らかだった音韻形態が,現在では相当に崩れていることが珍しくなく,それゆえに共時的には分析不能で無意味となるのだろう.このように,固有名詞が言語を構成する他の語類が普通にもっている重要な性質を欠いているのは,その役割が「意味」することではなく「指示」することに特化しているからなのだろう.
では,そのような固有名詞を必要としたり用いたりする言語話者たる人間は,そこまでして何を「指示」したいのだろうか.生活上,人間が指示したいものの代表格は,人間と場所ということのようだ.文化によって,集団によって,それ以外の事物に対してフェチともいえる異常な関心を示して,それを是非とも固有名詞で指示したいということもあるかもしれないが,個々の人間と場所について完全に無関心という文化はなさそうだ.古今東西の言語において人名と地名という固有名詞が普遍的に見られることから,そう認めざるをえないだろう.これは当たり前のようだが,人間が普遍的に何に関心をもっているかを示唆する重要な観察である.Coates (315) 曰く,
Personal names appear to be the prototypical names, as all humans have overwhelming interest (1) in being able to refer conversationally to other humans with the expectation of uniquely identifying them in context, and (2) in catching the attention of other humans individually. Accordingly, personal names typically have both a referential and a vocative function. Their fundamental nature is also seen in the way they are applicable to other categories of individual, for instance animals. Places gain significance because we all move and act in space, so they gain significance through the way(s) in which they fit into human perceptions of landscape, townscape and starscape, which is what governs their naming. Other categories of object may bear proper names, and the more intimately associated with human activity a type of object is, the more readily it seems able to acquire a proper name, though the systematic application of names to other categories is quite rare, and the degree of intimacy with which something is felt to be associated with human activity may vary from culture to culture.
関連する固有名詞の問題については,onomastics の各記事,とりわけ「#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである」 ([2015-05-18-1]),「#1184. 固有名詞化 (1)」 ([2012-07-24-1]),「#1185. 固有名詞化 (2)」 ([2012-07-25-1]) を参照されたい.
・ Coates, Richard. "Names." Chapter 6 of A History of the English Language. Ed. Richard Hogg and David Denison. Cambridge: CUP, 2006. 312--51.
ヒトの言語の特徴について,「#1327. ヒトの言語に共通する7つの性質」 ([2012-12-14-1]) や「#1281. 口笛言語」 ([2012-10-29-1]) などの記事で取り上げてきた.そのような議論では,当然ながらヒトの言語が他の動物のもつコミュニケーション手段とは異なる特徴を有することが強調されるのだが,別の観点からみるとむしろ共通する特徴が浮き彫りになることがある.Aitchison (7--9) によれば,ヒトの言語と鳥の歌 (bird-song) には類似点があるという.
(1) まず,すぐに思い浮かぶのはオウムによる口まねだろう.オウムはヒトと同じような意味で「しゃべっている」あるいは「言語を用いている」わけではないし,調音の方法もまるで異なる.しかし,動物界には希少な分節音を発する能力をもっている点では,オウムはヒトと同類だ.
(2) 鳥は先天的な呼び声 (call) と後天的な歌 (song) の2種類の鳴き声をもっている.ヒトにも本能的な叫び声などと後に習得される言語の2種類の発声がある.つまり,鳥の歌とヒトの言語には,後天的に習得されるという共通点がある.
(3) 鳥の歌では,歌を構成する個々の音は単独では意味をなさず,音の連続性が重要である.同様に,ヒトの言語でも,個々の分節音は意味をもたず,通常それが複数組み合わさってできる形態素以上の単位になったときに始めて意味をもつ.この性質は,ヒトの言語の最たる特徴としてしばしば指摘される二重分節 (double_articulation) にほかならないが,鳥の歌にも類似した特徴がみられるということになる.
(4) さらに,同じ種の鳥でも,関連はするが若干異なる種類の歌をさえずることがある.これは,ヒトの言語でいうところの方言にほかならない.California の「みやましとど」 (white-crowned sparrow) というホオジロ科の鳥は,州内や,場合によっては San Francisco 市内ですら,種々の区別される「方言」を示し,熟練した観察者であれば個体の住処がわかるとまで言われる(関連して,東京と京都の鶯のさえずりが方言のように異なるという話も聞いたことがある).
(5) 興味深いことに,作用している機構はまるで異なるだろうが,ヒトの言語も鳥の歌も,通常左脳で制御されているという共通点がある.
(6) 鳥のひなによる歌の習得とヒトの子供の言語習得に似ている点がある.ひなは一人前の鳥としての歌を習得する前に,半人前のさえずりの段階を経る.しかも,早い段階において歌の発達に重要な臨界期があることも知られている.これは,ヒトの言語でいうところの喃語 (babbling) や言語習得の臨界期に対応するようにみえる.
Aichison (8) は,以上の類似点を次のようにまとめている.
In short, both birds and humans produce fluent complex sounds, they both have a double-barrel led, double-layered system involving tunes and dialects, which is controlled by the left half of the brain. Youngsters have a type of sub-language en route to the full thing, and are especially good at acquiring the system in the early years of their lives.
だが,もちろん相違点も大きいという点は見逃してはならない.例えば,鳥でさえずりをするのは,雄のみである.また,鳥の歌は,ヒトの言語と比べて,個体差が大きいという.場合によっては数キロの距離を経てコミュニケーションを取れるというのも,鳥の歌の顕著な特徴だろう.鳥の歌の主たる目的が求愛であるのに対して,ヒトの言語の目的はずっと広範である.
鳥の歌とヒトの言語の類似性(と異質性)を比較してわかることは,異なる種にも似たような特徴が独立して生じうるということである.両者の接点を手がかりにヒトの言語の起源を求めようとしても,おそらくうまくいかないのではないか.
・ Aitchison, Jean. The Seeds of Speech: Language Origin and Evolution. Cambridge: CUP, 1996.
昨日の記事「#2064. 言語と文化の借用尺度 (1)」 ([2014-12-21-1]) に続き,言語項と文化項の借用にみられる共通点について.言語も文化の一部とすれば,借用に際しても両者の間に共通点があることは不思議ではないかもしれない.ただし,あまりこのような視点からの比較はされてこなかったと思われるので,この件についての言及をみつけると,なるほどと感心してしまう.
昨日と同様に,Weinreich は Linton (Linton, Ralph, ed. Acculturation in Seven American Indian Tribes. New York, 1940) に依拠しながら,さらなる共通点を2つほど指摘している.1つは,既存の語の同義語が他言語から借用される場合に関わる.すでに自言語に存在する語の同義語が他言語から借用される場合には,(1) 両語の意味に混同が生じる,(2) 借用語が本来語を置き換える,(2) 両方の語が意味を違えながら共存する,のいずれかが生じるとされる.(3) は道具などの文化的な項目の借用についても言えることではないか.Weinreich (55fn) 曰く,
Similarly in culture contact. "The substitution of a new culture element," Linton writes . . ., "by no means always results in the complete elimination of the old one. There are many cases of partial . . . replacement. . . . Stone knives may continue to be used for ritual purposes long after the metal ones have superseded them elsewhere."
既存の項が役割を特化させるなどしながらあくまで生き残るという過程は,文法化研究などで注目されている exaptation の例にも比較される (cf. 「#1586. 再分析の下位区分」 ([2013-08-30-1])) .
言語項と文化項の借用にみられる2つ目の共通点は,借用を促進する要因と阻害する要因に関するものである.言語の借用尺度の決定に関与する要因は,構造的(言語内的)なものと非構造的(言語外的)なものに2分される.前者は言語体系への統合の度合いに関わり,後者は例えば2言語使用者の習慣,発話の状況,言語接触の社会文化的環境などを含む(「#1779. 言語接触の程度と種類を予測する指標」 ([2014-03-11-1]) も参照).Weinreich (66--67fn)は,文化人類学者の洞察に触れながら,文化項の借用にも同様に構造的・非構造的な要因が認められるとしている.
Distinctions parallel to those between stimuli and resistance, structural and non-structural factors, occur implicitly in studies of acculturation, too. Thus, Redfield, Linton, and Herskovits . . . distinguish culture traits "presented" (=stimuli) from those "selected" in acculturation situations, and stress the "significance of understanding the resistance to traits as well as the acceptance of them." They also name "congruity of existing culture-patterns" as a reason for a selection of traits; this corresponds to structural stimuli in language contact. When Linton observes . . . that "new things are borrowed on the basis of their utility, compatibility with preëxisting culture patterns, and prestige associations," his three factors are equivalent, roughly, to structural stimuli of interference, structural resistance, and nonstructural stimuli, respectively. Kroeber . . . devotes a special discussion to resistance against diffusion. Resistance to cultural borrowing is also the subject of a separate article by Devereux and Loeb . . ., who distinguish between "resistance to the cultural item"---corresponding roughly to structural resistance in language contact---and "resistance to the lender." These authors also discuss resistance ON THE PART OF the "lender," e.g. the attempts of the Dutch to prevent Malayans, by law, from learning the Dutch language. No equivalent lender's resistance seems to operate in language contact, unless the inconspicuousness of a strongly varying, phonemically slight morpheme with complicated grammatical functions be considered as a point of resistance to transfer within the source language . . . .
このような文化と言語における借用の比較は,言語学と文化人類学との学際的な研究課題,人類言語学の研究テーマになるだろう.
・ Weinreich, Uriel. Languages in Contact: Findings and Problems. New York: Publications of the Linguistic Circle of New York, 1953. The Hague: Mouton, 1968.
言語項の借用尺度 (scale of adoptability) について,「#902. 借用されやすい言語項目」 ([2011-10-16-1]),「#903. 借用の多い言語と少ない言語」 ([2011-10-17-1]),「#934. 借用の多い言語と少ない言語 (2)」 ([2011-11-17-1]),「#1779. 言語接触の程度と種類を予測する指標」 ([2014-03-11-1]),「#1780. 言語接触と借用の尺度」 ([2014-03-12-1]),「#1989. 機能的な観点からみる借用の尺度」 ([2014-10-07-1]),「#2011. Moravcsik による借用の制約」 ([2014-10-29-1]) などで取り上げてきた.理論的には,語彙でいえば機能語よりも内容語が,抽象的な意味をもつ語よりは具体的な意味をもつ語のほうが言語間での借用が容易である.このことは確かに直感にも合うし,ある程度は実証されてもいる.
Whitney, Haugen, Moravcsik, Thomason and Kaufman などと同じ借用への関心から Weinreich (35) も言語項の借用尺度について考究しているが,向き合い方はやや慎重である.
It may be possible to range the morpheme classes of a language in a continuous series from the most structurally and syntagmatically integrated inflectional ending, through such "grammatical words" as prepositions, articles, or auxiliary verbs, to full-fledged words like nouns, verbs, and adjectives, and on to independent adverbs and completely unintegrated interjections. Then this hypothesis might be set up: The fuller the integration of the morpheme, the less likelihood of its transfer. A scale of this type was envisaged by Whitney in 1881 . . . and by many linguistics since. Haugen . . . discusses it as the "scale of adoptability," without, perhaps, sufficiently emphasizing its still hypothetical nature as far as bilinguals' speech is concerned. It should be clear how much painstaking observation and analysis is necessary before this hypothesis can be put to the test.
しかし,Weinreich がこの問題に関して面目躍如たる貢献をしているのは,言語項の借用と文化項の借用 (acculturation) の間の類似性を指摘していることだ.上の引用と同ページの脚注に,次のようにある.
Students of acculturation face a similar problem---almost equally unexplored---of rating culture elements according to their transferability. "It seems," says Linton in a tentative remark . . ., "that, other things [e.g. prestige associations] being equal, certain sorts of culture elements are more easily transferable than others. Tangible objects such as tools, utensils, or ornaments are taken over with great ease, in fact they are usually the first things transferred in contact situations. . . . The transfer of elements which lack the concreteness and ready observability of objects is the most difficult of all. . . . In general, the more abstract the element, the more difficult the transfer."
言語項にせよ文化項にせよ,その具体性と借用可能性が関連していそうだというところまでは察しがついた.次なる問題は,このことと借用の方式(importation か substitution かという問題)との間にも何らかの相関関係がありうるだろうかということだ.例えば,具体的な言語項や文化項は,受け入れる際に「翻訳」せずにモデルのまま取り入れる傾向 (importation) があったり,逆に抽象的なものは「翻訳」して取り込む傾向 (substitution or loan_translation) があったりするだろうか.あるいは,むしろ逆の傾向を示すものだろうか,等々.
借用における importation と substitution については,「#901. 借用の分類」 ([2011-10-15-1]),「#903. 借用の多い言語と少ない言語」 ([2011-10-17-1]),「#1067. 初期近代英語と現代日本語の語彙借用」 ([2012-03-29-1]),「#1619. なぜ deus が借用されず God が保たれたのか」 ([2013-10-02-1]),「#1778. 借用語研究の to-do list」 ([2014-03-10-1]),「#1895. 古英語のラテン借用語の綴字と借用の類型論」 ([2014-07-05-1]) などで扱ってきたが,言語の問題にとどまらず,より大きな文化の問題にもなりうるということかもしれない.
・ Weinreich, Uriel. Languages in Contact: Findings and Problems. New York: Publications of the Linguistic Circle of New York, 1953. The Hague: Mouton, 1968.
「#1749. 初期言語の進化と伝播のスピード」 ([2014-02-09-1]) で,言語の発現・進化・伝播について Aitchison の "language bonfire" 仮説を紹介した.言語学の「入門への入門書」とうたわれている,加藤重広著『学びのエクササイズ ことばの科学』を読んでいたところ,この仮説がわかりやすく紹介されていた.
加藤 (23--24) によると,現在の人類学の研究成果が明らかするところによれば,他の原人の祖先から,現生人類およびネアンデルタール人の共通の祖先が分岐したのは約100万年前のことである.そして,後者2つの祖先が互いに分岐したのは約50万年前.2万5千年前くらいにネアンデルタール人が滅びるまでは,現生人類と共存していたことがわかっている.一方,現生人類がアフリカに誕生したのは約20万年前のことである.この現生人類は7--6万年前にアフリカから世界へ拡散し,1万5千年前くらいに北米に達した.
上記の現生人類の歴史のなかで,その誕生期前後に言語の前駆体なるものも同時に発現したと考えられる(前駆体については,「#544. ヒトの発音器官の進化と前適応理論」 ([2010-10-23-1]) を参照).その後しばらくは,言語の前駆体は緩やかな進化を示すにすぎず,10万年ほど前にようやく原始的な言語の水準に達しつつあったとされる.ところが,10万年ほど前の時期に,急激な言語の進化が生じる.そして,出アフリカの時期を中心に,歴史時代の言語体系にほぼ匹敵する高度な言語体系が発達した.その後は,長い尾を引く緩やかな精緻化の時期に入り,現在に至る.これが,"language bonfire" 仮説である.加藤 (24) から図示すると,以下のようになる.
関連して,「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1]),「#751. 地球46億年のあゆみのなかでの人類と言語」 ([2011-05-18-1]),「#1544. 言語の起源と進化の年表」 ([2013-07-19-1]) も参照.
・ 加藤 重広 『学びのエクササイズ ことばの科学』 ひつじ書房,2007年.
「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1]),「#751. 地球46億年のあゆみのなかでの人類と言語」 ([2011-05-18-1]) の記事で言語の起源と進化の年表を示したが,コムリー他編の『新訂世界言語文化図鑑 世界の言語の起源と伝播』 (17) より,もう1つの言語年表を示す.
50,000 BC | アフリカからの人類の出現(最新の推定年代) | |
45,000 BC | ||
オーストラリアへの移動 | ||
40,000 BC | ホモ・サピエンス:言語形態の存在を示唆する複雑な行動様式(物的証拠の存在) | |
35,000 BC | ||
30,000 BC | ネアンデルタール人の死滅:最も原始的な言語形態 | |
25,000 BC | ||
20,000 BC | ||
15,000 BC | 言語の多様性のピーク(推定):10,000?15,000言語 | |
最終氷河期の終わり;ユーラシア語族の拡大 | ||
新世界への移動第一波:アメリンド語族 | ||
10,000 BC | ||
新世界への移動第二波:ナ・デネ語族 | ||
5,000 BC | オーストロネシア語族の拡大;台湾への移動 | |
インド・ヨーロッパ祖語 | ||
インド・ヨーロッパ語族の最古の記録:ヒッタイト語,サンスクリット語 | ||
0 | 古典言語:古代ギリシャ語,ラテン語 | |
500 | ロマンス語派,ゲルマン語派の発生;古英語 | |
1000 | ||
1500 | 植民地時代;ピジンとクレオールの発生;標準言語の拡がり;言語消滅の加速化 | |
2000 |
50,000 BC | アフリカからの人類の出現(最新の推定年代) | |
45,000 BC | ||
オーストラリアへの移動 | ||
40,000 BC | ホモ・サピエンス:言語形態の存在を示唆する複雑な行動様式(物的証拠の存在) | |
35,000 BC | ||
30,000 BC | ネアンデルタール人の死滅:最も原始的な言語形態 | |
25,000 BC | ||
20,000 BC | ||
15,000 BC | 言語の多様性のピーク(推定):10,000?15,000言語 | |
最終氷河期の終わり;ユーラシア語族の拡大 | ||
新世界への移動第一波:アメリンド語族 | ||
10,000 BC | ||
新世界への移動第二波:ナ・デネ語族 | ||
5,000 BC | オーストロネシア語族の拡大;台湾への移動 | |
インド・ヨーロッパ祖語 | ||
インド・ヨーロッパ語族の最古の記録:ヒッタイト語,サンスクリット語 | ||
0 | 古典言語:古代ギリシャ語,ラテン語 | |
500 | ロマンス語派,ゲルマン語派の発生;古英語 | |
1000 | ||
1500 | 植民地時代;ピジンとクレオールの発生;標準言語の拡がり;言語消滅の加速化 | |
2000 |
[2012-02-12-1]の記事「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」で軽く言及したのみだが,日本語は通時的に唇音退化 (delabialisation) を経たとされている.現在のハ行の子音は,かつては [p] だったという説である.[p] が摩擦音化し,さらに摩擦そのものが弱くなり,調音点が [h] へと後退したという.異論もないわけではないが,今や学界ではほぼ定説として受け入れられている.
[p] > [f] の変化といえば,英語史(正確には印欧語史というべきか)におけるグリムの法則 (Grimm's Law; [2009-08-08-1]) がすぐに想起される.ただし,グリムの法則の示す変化は,調音点においても調音様式においても,広範かつ体系的であり,単発の日本語の唇音退化とは性質が大きく異なる.しかし,[2012-05-22-1]の記事「#1121. Grimm's Law はなぜ生じたか?」などで,グリムの法則の変化の起源が謎であるのを見たとおり,日本語の唇音退化を引き起こした要因も謎であるという点で,両者は共通している.
大野 (95--96) は,場合によっては胡散臭い印象を与えかねない人類学的な要因を提案している.
この〔F〕の音は,奈良時代をさかのぼるもっと以前の時代には唇の合わせ方がもっと強くて〔p〕の音であったろうと推定されている.ちょうど現代の沖縄の八重山方言で歯を pa,花を pana,蠅を pai,墓を paka,骨を puni,帆を pu: というように,奈良時代よりずっと以前の本土の日本語でも,舟を puna などと言っていたのだろうという.これは今日の学界の定説である./(では〔p〕→〔F〕→〔h〕という変化は何故起こったのかについて従来説をとなえる人がいないが,私はこれが日本人の顎の骨の後退という骨格の年台的変化と密接な関係があるのだろうと考えている.日本の縄文式時代の人骨では上歯と下歯とはぴったり咬み合わさっているが,弥生式時代以降,下顎が後に退き,相対的に上歯が前方に出る傾向がある.そして鎌倉時代の人骨,徳川時代の人骨と時代がくだるにつれて,下顎が小さくなり,下後方にさがって行く.そして出歯やそっ歯が多くなりつつある.これは元来上唇の短い傾きのある日本人の上下の唇の合わせ方をしにくくする原因となる骨格的変化である.この変化の漸進と,ハ行子音の〔p〕→〔F〕→〔h〕の変化とは平行しており,次に述べる〔w〕子音の脱落も,発音機構の変化としては全く同一の原因によってひき起こされている.)
この提案は学界ではほとんど相手にされなかったというが,小松 (125) はこのような胡散臭い提案を,胡散臭さのみを理由に,頭ごなしに否定するのは科学的な態度ではなく,きちんと検証しようとする姿勢が必要だと考えているようだ.結論としては小松は大野の下顎骨後退説を否定しているが,私も少なくとも検証する価値はあるという意見だ.確かに,胡散臭い,怪しい,荒唐無稽と思われる.だが,本当のところはどこまで笑って済ませられる問題なのか,専門家の助けを得ながら,ぜひ知りたいと思うからだ.
なぜこの説が胡散臭く聞こえるかといえば,人類学的な要因とは人種的な差に訴えかける説明のことであり,それは人種差別につながりうる危険をはらんでいるからだ.言語の起源論については人類学的な知見が不可欠であることは誰しもが認めていながら,形質人類学的な特徴と諸言語の特徴が相関している可能性があるという議論は一種のタブーとされている観がある.
この点で,私はマルティネの科学的リアリズムを評価したい.以下は,ムーナン (281--82) からのマルティネ(『音声変化の経済』)評である.
マルティネはさらに,見ならってよい科学的リアリズムをもって,ある種の生物学的原因の働く可能性を検討することさえ認めている.なにしろ生物学的原因というのは,醜悪なイデオロギー的論法に利用された過去があるために毛嫌いされる場合がきわめて多いのである.彼はこう書いている,「人種の影響という一つの独立した問題が提起される.その問題を一挙に退けてしまうわけにはいかないのだ.[口の器官の一般に見られる非対称性は,形態的類型に応じて変わっている可能性があるし,生理的な人体構造によって,たとえばある種の言語にはある種の音素が欠如しているとか,まれであるということが説明されるかもしれない].しかし,[その問題]を解くためには,どんな種類の先入観ももたずに長い忍耐づよい調査研究を進め,身体的な特性以外の何ものも介入させないよう綿密に配慮することが要求されるだろう.」
・ 大野 晋 『日本語をさかのぼる』 岩波書店,1974年.
・ 小松 秀雄 『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』 笠間書院,2001年.
・ ジョルジュ・ムーナン著,佐藤 信夫訳 『二十世紀の言語学』 白水社,2001年.
言語は音声に基づいている.文明においては文字が重視されるが,言語の基本が音声であることは間違いない.このことは[2011-05-15-1]の記事「#748. 話し言葉と書き言葉」で論じているので,繰り返さない.今回は,言語という記号体系がなぜ音声に基づいているのか,なぜ音声に基づいていなければならないのかという問題について考える.
まず,意思疎通のためには,テレパシーのような超自然の手段に訴えるのでないかぎり,何らかの物理的手段に訴えざるをえない.ところが,人間の生物としての能力には限界があるため,人間が発信かつ受信することのできる物理的な信号の種類は,おのずから限られている.具体的には,受信者の立場からすれば,視・聴・嗅・味・触の五感のいずれか,あるいはその組み合わせに訴えかけてくる物理信号でなければならない.発信者の立場からすれば,五感に刺激を与える物理信号を産出しなければならない.当然,後者のほうが負担は重い.
さて,嗅覚に訴える言語というものを想像してみよう.発信者は意思疎通のたびに匂いを作り出す必要があるが,人間は意志によって匂いを作り出すことは得意ではないし,作り出せたとしても時間がかかるだろう.あまり時間がかかるようだと即時的な意思疎通は不可能であり,「会話」のキャッチボールは望めない.また,匂いを作り出せたとしても,その種類は限られているだろう.手にニンニク,魚,納豆を常にたずさえているという方法はあるが,それならばニンニク,魚,納豆の現物をそのまま記号として用いるほうが早い.仮に頑張って3種類の匂いを作り出すことができたと仮定しても,それはちょうどワー,オー,キャーの3語しか備わっていない言語と同じことであり,複雑な意志疎通は不可能である.3種類を組み合わせれば複雑な意思疎通が可能になるかもしれないが,匂いは互いに混じり合ってしまうという大きな欠点がある.受信者の側にそれを嗅ぎ分ける能力があればよいが,受信者は残念ながら犬ではなく人間であり,嗅ぎ分けは難しいと言わざるを得ない.風が吹かずに空気が停滞している場所で,古い匂いメッセージと区別して新しい匂いメッセージを送りたいとき,発信者・受信者ともに匂いの混じらない安全な場所に移動しなければならないという不便もある(だが,逆にメッセージを残存させたいときには,匂いの残存しやすい性質はメリットとなる).風が吹いていれば,それはそれで問題で,受信者が感じ取るより先ににおいが流されてしまう恐れがある.発信者が体調不良で匂いを発することができない場合や,受信者が風邪で鼻がつまっている場合には,匂いによる「会話」は不可能である(もっとも,類似した事情は音声言語にもあり,声帯が炎症を起こしている場合や,耳が何らかの事情で聞こえない場合には機能しない).人間にとって,嗅覚に訴えかける言語というものは発達しそうにない.
次に味覚である.こちらも産出が難しいという点では,嗅覚に匹敵する.発信者が意志によって体から辛み成分や苦み成分を分泌し,受信者に「ほれ,なめろ」とかいうことは考えにくい.激しい運動により体に汗をかかせて塩気を帯びさせるなどという方法は可能かもしれないが,即時性の点で不満が残るし,不当に体力を消耗するだろう.受信者の側でも,味覚により何種類の記号を識別できるかという問題が残る.味覚は個人差が大きいし,体調に影響されやすいことも,経験から知られている.さらに,匂いの場合と同様に,味は混じりやすいという欠点がある.味覚依存の言語も,効率という点では採用できないだろう.
触覚.これは嗅覚や味覚に比べれば期待がもてる.触るという行為は,発信も受信も容易だ.発信者は,触り方(さする,突く,掻く,たたく,つねる等々),触る強度,触る持続時間,触る体の部位などを選ぶことができ,それぞれのパラメータの組み合わせによって複雑な記号表現を作り出すことができそうだ.たたくリズムやテンポを体系化すれば,音楽に匹敵する表現力を得ることもできるかもしれない.複数部位の同時タッチも可能である.ただし,受信者側にとっては触覚の感度が問題になる.人間の識別できるタッチの種類には限界があるし,掻く,たたく,つねるなどの結果,痛くなったり痒くなったりしては困る.痛みや痒みは持続するので,匂いの残存と同じような不都合も生じかねない.触覚に依存する言語というものは十分に考えられるが,より効率の良い手段が手に入るのであれば,積極的に採用されることはないのではないか.さする,なでる,握手する,抱き合うなどのスキンシップは実際に人間のコミュニケーションの一種ではあるが,複雑な記号体系を構成しているわけではなく,主役の音声言語に対して補助的に機能することが多い.
人間において触覚よりもよく発達しており,意思伝達におおいに利用できそうな感覚は,視覚である.実際に有効に機能している視覚記号として,身振りや絵画がある.特に身振りは発信が容易であり,即時性もある.文字や手話も視覚に訴える有効な手段だが,これらは身振りと異なり,原則として音声言語を視覚へ写し取ったものである.あくまで派生的な手段であり,補助や代役とみなすべきものだ.しかし,補助や代役とはいえ,いくつかの点で,音声言語の限界を超える働きすら示すことも確かである(##748,849,1001).このように音声言語の補助や代役として視覚が選ばれているのは,人間の視覚がことに鋭敏であるからであり,偶然ではない.視覚依存の欠点として,目の利かない暗闇や濃霧のなかでは利用できないことなどが挙げられるが,他の感覚に比べて欠点は少なく,長所は多い.[2009-07-16-1]の記事「#79. 手話言語学からの inspiration 」も参照.
最後に残ったのが,人間の実際の言語が依存している聴覚である.聴覚に訴えるということは,受信者は音声を聴解する必要があり,発信者は音声を産出する必要があるということである.まず受信者の立場を考えてみよう.人間の聴覚は視覚と同様に非常に鋭敏であり,他の感覚よりも優れている.したがって,この感覚を複雑な意思疎通の手段のために利用するというのは,能力的には理にかなっている.音の質や量の微妙な違いを聞き分けられるのであるから,それを記号間の差に対応させることで膨大な情報を区別できるこはずだからだ.
次に発信者の立場を考えてみよう.発信者は多様な音声を産出する必要があるが,人間にはそのために必要な器官が進化の過程で適切に備わってきた([2009-10-04-1]の記事「#160. Ardi はまだ言語を話さないけれど」,[2010-10-23-1]の記事「#544. ヒトの発音器官の進化と前適応理論」を参照).人間の唇,歯,舌,声帯,肺などの発音に関わる器官がこのような状態で備わっているのは,言語の発達にとって理想であったし,奇跡とすらいえる.これにより,微妙な音の差を識別できる聴覚のきめ細かさに対応する,きめ細かな発音が可能になったのである.音声に依存する言語が発達する条件は,進化の過程で整えられてきた.
では,他の感覚ではなく聴覚に訴える手段が,音声に依存する言語が,特に発達してきたのはなぜだろうか.それは,上で各感覚について述べてきたように,聴覚依存,音声依存の伝達の長所と欠点を天秤にかけたとき,長所が欠点を補って余りあるからである.その各点については,明日の記事で.
[2009-06-08-1]の記事「言語と文字の歴史は浅い」では,人類のあゆみにおいて言語の歴史がいかに浅いかを示した.今回は,タイムスパンを地質学的次元にまで引き延ばし,地球のあゆみ46億年における人類と言語の歴史の浅さを強調したい.直感でとらえられるように,46億年を1年間というスケールに縮めて表現してみた.
1秒は約146年に相当する.大晦日は黄色表示にし,秒単位まで示した.人類の誕生は600万年前,ホモサピエンスの誕生は20万年前,言語の発生は10万年前とする説をもとに計算してある.より詳しい表はこのページのHTMLソースを参照.
月日(時分秒) | 出来事 |
---|---|
01/01 | 太陽と地球が生まれる |
01/08 | 月ができる |
01/16 | 海ができる |
02/17 -- 03/04 | 巨大ないん石が地球に落ちて海が蒸発,その後ふたたび海ができる |
03/04 | 最古の生命があらわれる |
05/30 | ???????????????????????í????????????????? |
06/24 -- 07/09 | この間のどこかで,大規模な氷河時代 |
07/17 | 真核生物(細胞の中の遺伝子が膜で包まれている生物)が登場 |
08/02 | ヌーナ超大陸ができる |
09/27 | 多細胞生物が発展 |
09/27 -- 10/29 | ロディニア超大陸の時代 |
10/30 -- 11/13 | この間のどこかで,大規模な氷河時代 |
11/14 | エディアカラ生物群が登場 |
11/19 | 無せきつい動物の種類が爆発的に増える |
11/25 -- 11/27 | 植物の上陸 |
11/30 | 昆虫が登場 |
12/11 | ペルム期末期の大量絶滅 |
12/15 -- 12/26 | 恐竜の繁栄 |
12/26 | 白亜紀末期の大量絶滅 |
12/31 12:34:26 | 人類の誕生 |
12/31 23:37:08 | ホモサピエンスの誕生 |
12/31 23:48:34 | 言語の発生 |
12/31 23:58:03 | ラスコーの壁画 |
12/31 23:59:18 | 印欧祖語の時代 |
12/31 23:59:22 | インダス文字の起源 |
12/31 23:59:23 | エジプト文字の起源 |
12/31 23:59:25 | メソポタミア文字の起源 |
12/31 23:59:36 | 漢字,ヒッタイト文字の起源 |
12/31 23:59:42 | マヤ文字,古代ペルシャ文字の起源 |
12/31 23:59:44 | 古代インド文字の起源 |
12/31 23:59:48 | 英語の起源 |
12/31 23:59:56 | 近代英語の始まり |
東京大学やカリフォルニア大学などの国際チームが,エチオピアで440万年前とされる最古の人類の全身骨格を化石から復元した.この最古の人類は Ardipithecus ramidus 「ラミダス猿人」という種類の人類で,この化石の女性は Ardi と愛称で呼ばれる.人類がチンパンジーから分かれたのは約700万年前とされ,分かれた後の人類の最初の証拠がアルディということになる.人類の起源の研究が新しい段階に入ったとして,米科学誌『サイエンス』が異例の特集を組んでいる.
[2009-06-08-1]の記事で見たとおり,人類の起源から人類の言語の起源までには,相当な時間的な隔たりがある.言語は長く見積もっても数十万年の歴史をもつに過ぎない.人類は長い間「無言」だったわけだが,進化の過程では言語を獲得するための準備を着々と進めていったことも事実である.
その準備の一つに,脳の発達がある.言語を操るためには相応の脳の発達が必要だったことは間違いない.ちなみに,アルディの脳は300ccくらいで,まだチンパンジーと同じくらいだったという.
脳の発達以外にも言語の起源につながるもう一つの重要な準備があった.喉頭 ( larynx ) の発達である.アルディはすでに直立歩行していたようだが,直立することにより喉の空間が縦に長くなり,声帯 ( glottis ) で発せられた音が喉頭で共鳴することができるようになった.これにより,ヒトは音の高さや大きさを調整することができるようになり,そこに感情を載せるなど精妙な表現の手段を獲得したのである.さらに,共鳴器で響いた音が,舌や歯などのより上部の器官で調音され,複雑多岐な子音や母音が発せられるようになった.
いくら脳が発達して言語能力が高まったとしても,それを表現する手段である声や音の調整が不可能であれば,言語行動 ( speech ) は成り立たなかっただろう.
現代でも,脳(=表現する内容)と喉頭(=表現する手段)がセットになっていないと言語コミュニケーションは成り立たない.英語という手段だけ身につけようと頑張っても,伝える内容がお粗末ではしかたがない.自戒を込めて,アルディからの教訓.
数百万年に及ぶ人類の歴史の中では,言語の発生はかなり最近のことであるし,文字の発生はさらに最近である.
約50万年前に Homo erectus から Homo sapiens が分かれたが,頭蓋骨の形状から,彼らは言語を話さなかったようだ.約10万年前から,頭蓋骨の形状が現代の我々のものに類似してきたようで,恐らく言語の発生もこのくらいだろうと考えられる.一方,文字の発生は,現在確認されている最も古いもので,ようやく5500年ほどを遡れるくらいである.
上記の人類史の観点から,主だった古代文字の年代を時系列に整理してみよう.
出来事 | 約?年前 |
---|---|
人類の発生 | 5,000,000? |
Homo erectus の発生 | 2,000,000 |
Homo sapiens の発生 | 500,000 |
言語の発生 | 100,000 |
インダス文字の起源 | 5,500 |
エジプト文字の起源 | 5,300 |
メソポタミア文字の起源 | 5,100 |
漢字の起源 | 3,500 |
ヒッタイト文字の起源 | 3,500 |
マヤ文字の起源 | 2,500 |
古代ペルシャ文字の起源 | 2,500 |
古代インド文字の起源 | 2,250 |
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