Treffers-Daller の借用に関する論文および Meeuwis and Östman の言語接触に関する論文を読み,「#1778. 借用語研究の to-do list」 ([2014-03-10-1]) に付け足すべき項目が多々あることを知った.以下に,いくつか整理してみる.
(1) 借用には言語変化の過程の1つとして考察すべき諸側面があるが,従来の研究では主として言語内的な側面が注目されてきた.言語接触の話題であるにもかかわらず,言語外的な側面の考察,社会言語学的な視点が足りなかったのではないか.具体的には,借用の契機,拡散,評価の研究が遅れている.Treffers-Dalle (17--18) の以下の指摘がわかりやすい.
. . . researchers have mainly focused on what Weinreich, Herzog and Labov (1968) have called the embedding problem and the constraints problem. . . . Other questions have received less systematic attention. The actuation problem and the transition problem (how and when do borrowed features enter the borrowing language and how do they spread through the system and among different groups of borrowing language speakers) have only recently been studied. The evaluation problem (the subjective evaluation of borrowing by different speaker groups) has not been investigated in much detail, even though many researchers report that borrowing is evaluated negatively.
(2) 借用研究のみならず言語接触のテーマ全体に関わるが,近年はインターネットをはじめとするメディアの発展により,借用の起こる物理的な場所の存在が前提とされなくなってきた.つまり,接触の質が変わってきたということであり,この変化は借用(語)の質と量にも影響を及ぼすだろう.
Due to modern advances in telecommunication and information technology and to more extensive traveling, members within such groupings, although not being physically adjacent, come into close contact with one another, and their language and communicative behaviors in general take on features from a joint pool . . . . (Meeuwis and Östman 38)
(3) 量的な研究.「#902. 借用されやすい言語項目」 ([2011-10-16-1]) で示した "scale of adoptability" (or "borrowability scale") の仮説について,2言語使用者の話し言葉コーパスを用いて検証することができるようになってきた.Ottawa-Hull のフランス語における英語借用や,フランス語とオランダ語の2言語コーパスにおける借用の傾向,スペイン語とケチュア語の2限後コーパスにおける分析などが現われ始めている.
(4) 語用論における借用という新たなジャンルが切り開かれつつある.いまだ研究の数は少ないが,2言語使用者による談話標識 (discourse marker) や談話機能の借用の事例が報告されている.
(5) 上記の (3) と (4) とも関係するが,2言語使用者の借用に際する心理言語学的なアプローチも比較的新しい分野である.「#1661. 借用と code-switching の狭間」 ([2013-11-13-1]) で覗いたように,code-switching との関連が問題となる.
(6) イントネーションやリズムなど韻律的要素の借用全般.
総じて最新の借用研究は,言語体系との関連において見るというよりは,話者個人あるいは社会との関連において見る方向へ推移してきているようだ.また,結果としての借用語 (loanword) に注目するというよりは,過程としての借用 (borrowing) に注目するという関心の変化もあるようだ.
私個人としては,従来型の言語体系との関連においての借用の研究にしても,まだ足りないところはあると考えている.例えば,意味借用 (semantic loan) などは,多く開拓の余地が残されていると思っている.
・ Treffers-Daller, Jeanine. "Borrowing." Variation and Change. Ed. Mirjam Fried et al. Amsterdam: Benjamins, 2010. 17--35.
・ Meeuwis, Michael and Jan-Ola Östman. "Contact Linguistics." Variation and Change. Ed. Mirjam Fried et al. Amsterdam: Benjamins, 2010. 36--45.
「#1890. 歳とともに言葉遣いは変わる」 ([2014-06-30-1]) の記事で,age-grading という社会言語学上の概念と用語を紹介した.言語変化の実証的研究において,age-grading の可能性は常に念頭においておかなければならない.というのは,観察者が,現在起こっている歴史的な(したがって単発の)言語変化とであると思い込んでいた現象が,実際には毎世代繰り返されている age-grading にすぎなかったということがあり得るからだ.逆に,毎世代繰り返される age-grading と信じている現象が,実際にはその時代に特有の一回限りの言語変化であるかもしれない.
では,観察中の言語現象が真正の言語変化なのか age-grading なのかを見分けるには,どうすればよいのだろうか.現在進行中の言語変化を観察する方法論として,2種類の視点が知られている.apparent time と real time である.Trudgill の用語集より,それぞれ引用しよう.
apparent-time studies Studies of linguistic change which attempt to investigate language changes as they happen, not in real time (see real-time studies), but by comparing the speech of older speakers with that of younger speakers in a given community, and assuming that differences between them are due to changes currently taking place within the dialect of that community, with older speakers using older forms and younger speakers using newer forms. As pointed out by William Labov, who introduced both the term and the technique, it is important to be able to distinguish in this comparison of age-groups between ongoing language changes and differences that are due to age-grading (Trudgill 9--10)
real-time studies Studies of linguistic change which attempt to investigate language changes as they happen, not in apparent time by comparing the speech of older speakers with that of younger speakers in a given community, but in actual time, by investigating the speech of a particular community and then returning a number of years later to investigate how speech in this community has changed. In secular linguistics, two different techniques have been used in real-time studies. In the first, the same informants are used in the follow-up study as in the first study. In the second, different informants, who were too young to be included in the first study or who were not then born, are investigated in the follow-up study. One of the first linguists to use this technique was Anders Steinsholt, who carried out dialect research in the southern Norwegian community of Hedrum, near Larvik, in the late 1930s, and then returned to carry out similar research in the late 1960s. (Trudgill 109)
apparent-time studies は,通時軸の一断面において世代差の言語使用を比較対照することで,現在進行中の言語変化を間接的に突き止めようとする方法である.現在という1点のみに立って調査できる方法として簡便ではあるが,明らかになった世代差が,果たして真正の言語変化なのか age-grading なのか,別の方法で(通常は real-time studies によって)見極める必要がある.
一方,real-time studies は,通時軸上の複数の点において調査する必要があり,その分実際上の手間はかかるが,真正の言語変化か age-grading かを見分けるのに必要なデータを生で入手することができるという利点がある.
理論的,実際的な観点からは,言語変化を調査する際には両方法を組み合わせるのが妥当な解決策となることが多い.結局のところ,共時的な調査を常に続け,調査結果をデータベースに積み重ねて行くことが肝心なのだろう.同じ理由で,定期的に共時的コーパスを作成し続けていくことも,歴史言語学者にとって重要な課題である.
apparent time と real time については「#919. Asia の発音」 ([2011-11-02-1]) でも触れたので,参照を.
・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
ゼミの学生の卒業論文研究をみている過程で,Fischer による借用語研究のタイポロジーについての論文を読んだ.英語史を含めた諸言語における借用語彙の研究は,3つの観点からなされてきたという.(1) morpho-etymological (or morphological), (2) lexico-semantic (or semantic), (3) socio-historical (or sociolinguistic) である.
(1) は,「#901. 借用の分類」 ([2011-10-15-1]) で論じたように,model と loan とが形態的にいかなる関係にあるかという観点である.形態的な関係が目に見えるものが importation,見えないもの(すなわち意味のみの借用)が importation である.(2) は,借用の衝撃により,借用側言語の意味体系と語彙体系が再編されたか否かを論じる観点である.(3) は,語の借用がどのような社会言語学的な状況のもとに行われたか,両者の相関関係を明らかにしようとする観点である.この3分類は互いに交わるところもあるし,事実その交わり方の組み合わせこそが追究されなければならないのだが,おおむね明解な分け方だと思う.
Fischer は,このなかで (3) の社会言語学的な観点は最も興味をそそるが,目に見える研究成果は期待できないだろうと悲観的である.この観点を重視した Thomason and Kaufman を参照し,高く評価しながらも,借用語研究には貢献しないだろうと述べている.
Of the three types of typologies discussed here, the third, although the most attractive because of its sociolinguistic orientation, is possibly the least useful for a study of lexical borrowing: lexis is an unreliable indicator of the precise nature of a contact situation, and the socio-historical evidence necessary to reconstruct the latter is often not available. Morphological and semantic typologies on the other hand, though seemingly more traditional, can yield a great deal of new information if an attempt is made to study a whole semantic domain and if such studies are truly comparative, comparing different text types, different source languages or different periods. (110)
Fischer は (1) と (2) の観点こそが,借用語研究において希望のもてる方向であると指南する.一見すると,英語史に限定した場合,この2つの観点,とりわけ (1) の観点からは,相当に研究がなされているのではないかと思われるが,案外とそうでもない.例えば,意味借用 (semantic loan) に代表される substitution 型の借用語については,研究の蓄積がそれほどない.これには,importation に対して substitution は意味を扱うので見えにくいこと,頻度として比較的少ないことが理由として挙げられる.
それにしても,語を借用するときに,ある場合には importation 型で,別の場合には substitution 型で取り込むのはなぜだろうか.背後にどのような選択原理が働いているのだろうか.借用側言語の話者(集団)の心理や,公的・私的な言語政策といった社会言語学的な要因については言及されることがあるが,上記 (1) や (2) の言語学的な観点からのアプローチはほとんどないといってよい.Fischer (100) の問題意識,"why certain types of borrowing seem to be more frequent than others, depending on period, source language, text type, speech community or language policy, to name only the most obvious factors." は的を射ている.私自身も,同様の問題意識を,「#902. 借用されやすい言語項目」 ([2011-10-16-1]),「#903. 借用の多い言語と少ない言語」 ([2011-10-17-1]),「#934. 借用の多い言語と少ない言語 (2)」 ([2011-11-17-1]),「#1619. なぜ deus が借用されず God が保たれたのか」 ([2013-10-02-1]) などで示唆してきた.
英語史におけるラテン借用語を考えてみれば,古英語では importation と並んで substitution も多かった(むしろ後者のほうが多かったとも議論しうる)が,中英語以降は importation が主流である.Fischer (101) で触れられているように,Standard High German と Swiss High German におけるロマンス系借用語では,前者が substitution 寄り,後者は importation 寄りの傾向を示すし,アメリカ英語での substitution 型の fall に対してイギリス英語での importation 型の autumn という興味深い例もある.日本語への西洋語の借用も,明治期には漢語による substitution が主流だったが,後には importation が圧倒的となった.言語によって,時代によって,importation と substitution の比率が変動するが,ここには社会言語学的な要因とは別に何らかの言語学的な要因も働いている可能性があるのだろうか.
Fischer (105) は,このような新しい設問を多数思いつくことができるとし,英語史における設問例として3つを挙げている.
・ How many of all Scandinavian borrowings have replaced native terms, how many have led to semantic differentiation?
・ How does French compare with Scandinavian in this respect?
・ How many borrowings from language x are importations, how many are substitutions, and what semantic domains do they belong to?
HTOED (Historical Thesaurus of the Oxford English Dictionary) が出版された現在,意味の借用である substitution に関する研究も断然しやすくなってきた.英語借用語研究の未来はこれからも明るそうだ.
・ Fischer, Andreas. "Lexical Borrowing and the History of English: A Typology of Typologies." Language Contact in the History of English. 2nd rev. ed. Ed. Dieter Kastovsky and Arthur Mettingers. Frankfurt am Main: Peter Lang, 2003. 97--115.
・ Thomason, Sarah Grey and Terrence Kaufman. Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistics. Berkeley: U of California P, 1988.
本ブログで,斉一論の原則 (uniformitarian_principle) について何度か取り上げてきた.「#1588. The Uniformitarian Principle (3)」 ([2013-09-01-1]) の記事では,Comrie と Lass の間の論争,process/force の斉一論か state の斉一論かという問題に触れたが,Labov はこれについて慎重な態度を示している.
Labov は,斉一論の原則は,歴史の逆説 (Historical Paradox) ゆえに仕方なく採用せざるを得ない原則なのであり,万能薬などではないことを力説する.では,歴史の逆説とは何か.Labov (21) によれば,以下の通りである.
The task of historical linguistics is to explain the differences between the past and the present; but to the extent that the past was different from the present, there is no way of knowing how different it was.
かみ砕いていえば,現在と過去の言語状況 (state) の違いを明らかにすることが歴史言語学の使命なのだが,違うはずだということは分かっていても,言語状況の生み出され方 (process/force) 自体が違っているとすれば,違い方がわからないではないか,ということになる.そんなことをいっては過去を理解することなどまるでできなくなってしまうではないか,と思わせるような逆説だ.
そこで,歴史研究が頼ることになるのが斉一論である.だが,注意すべきは,斉一論は歴史の逆説に対する解決法 (solution) としてではなく,結果 (consequence) として提案されているにすぎないということである.
. . . [the uniformitarian principle] is in fact a necessary consequence of the fundamental paradox of historical linguistics, not a solution to that paradox. If the uniformitarian principle is applied as if it were such a solution, rather than a working assumption, it can actually conceal the extent of the errors that are the result of real differences between past and present.
Solutions to the Historical Paradox must be analogous to solutions to the Observer's Paradox. Particular problems must be approached from several different directions, by different methods with complementary sources of error. The solution to the problem can then be located somewhere between the answers given by the different methods. In this way, we can know the limits of the errors introduced by the Historical Paradox, even if we cannot eliminate them entirely. (Labov 24--25)
先述のとおり,Lass は言語状態のあり得べき姿こそが不変であるとして state の斉一論を唱え,Comrie は言語変化の力学のあり得べき姿こそが不変であるとして process/force の斉一論を唱えている.だが,いずれの斉一論にしても,歴史の逆説により制限されざるを得ない歴史研究をせめて成り立たせるために,微力ではあるが最大限にすがるほかない作業上の仮説にすぎない.日々それに乗りながら研究をしていること自体は避けられないが,「(斉一論の)原則」という呼称が招きやすい絶対性を前提とするのは危険ということだろう.斉一論の「原則」は,本当のところは「仮説」なのである.
・ Labov, William. Principles of Linguistic Change: Internal Factors. Cambridge, Mass.: Blackwell, 1994.
昨日の記事「#1587. 印欧語史は言語のエントロピー増大傾向を裏付けているか?」 ([2013-08-31-1]) で,Comrie による言語的エントロピー増加傾向の仮説を紹介した.Comrie の考え方の背景には,斉一論の原則 (The Uniformitarian Principle) の1つの解釈の仕方が関与している(斉一論については,「#556. The Uniformitarian Principle」 ([2010-11-04-1]) と「#1186. The Uniformitarian Principle (2)」 ([2012-07-26-1]) を参照).
言語における斉一論の原則について,いくつかの定義や説明を見てみると,言語の状態 (state) について述べているものと,言語の過程 (process) や力学 (force) について述べているものがある.例えば,[2010-11-04-1]の記事で挙げた引用に従えば,Romaine は force の斉一性を,Lass は state の斉一性を念頭においている(もっとも,Lass は "linguistic state of affairs (structure, inventory, process, etc.)" と包括的にとらえている節はある).
しかし,この2つの斉一論は大きく異なっている.state の斉一論は静態についての謂いであり,process/force の斉一論は動態についての謂いだ.後者は,現在と過去の言語変化の原動力や過程は異なるところがないと主張しているが,その結果としての言語状態については何も述べていない.極端にいえば,現在の言語と過去の言語が異なるタイポロジーを示すことすらありうるというのが,process/force の斉一論である.process/force の斉一論の主張者である Comrie (255--56) は,state の斉一論の主張者である Lass を批判する文脈のなかで,こう述べている.
In geology, certain processes can be observed as ongoing during recorded history, such as the formation of mountains and their subsequent erosion by wind and rain. The uniformitarian hypothesis, which did so much to raise geology to its present scientific level, assumes that these same processes also characterised the Earth's prehistory. In other words, in order to explain earlier geological formations, we are not permitted to appeal to processes other than those that have characterised the more recent period. But it is important to realise that what is constrained by the uniformitarian hypothesis is the set of processes that have formed the earth, not the set of states that are separated by these processes. Thus, one could imagine starting from a state that is radically different from the present state of the Earth, say a perfectly smooth spherical or near-spherical object, and then initiate operation of the processes of mountain formation and erosion to produce something like the present-day Earth. In other words, the typological consistency implied by the uniformitarian hypothesis in geology is a typological consistency of processes, not a typological consistency of states. . . . / We may now apply this historically more appropriate concept of uniformitarianism, from the viewpoint of the philosophy of science, to the kind of linguistic reconstruction that we proposed . . . . It now becomes clear that our reconstruction is indeed compatible with this conception of the uniformitarian hypothesis. We propose no processes that are not attested in the historical period. . . . No new types of processes are proposed. However, the operation of these processes can take us from an earlier stage that is typologically different from attested languages to a later stage that is compatible with our knowledge of attested language states.
ここでは,地学主義とでもいうべき言語変化観が展開されている.state の斉一論なのか,process/force の斉一論なのか,あるいは両者を合わせた斉一論なのか.これもまた,controversial な議論である.
・ Comrie, Barnard. "Reconstruction, Typology and Reality." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 243--57.
「#1404. Optimality Theory からみる大母音推移」 ([2013-03-01-1]) で,大母音推移 (gvs) を最適性理論 (OT) によっていかに記述できるかを概説した.そこでの私の印象は,OT は大母音推移がどのようにして起こったのかという過程を記述することは得意だが,なぜ起こったかという原因の説明を与えてくれない,というものだった.「#1577. 言語変化の形式的説明と機能的説明」 ([2013-08-21-1]) で見たように,OT のような形式的なアプローチは,原因説明ではなく過程記述をよくするのが関の山なのではないか.
OT では言語変化を "reranking of constraints" ととらえるが,この reranking は変化の原因なのだろうか,結果なのだろうか.原因とみれば OT は why を説明する理論であり,結果とみれば how を記述する理論である.私も同意見だが,McMahon (93) は後者とみている.
It would seem . . . that reranking is descriptive at best, fortuitous at worst, and post hoc either way, so long as the constraint set is in principle unrestricted, and the reranking itself depends on external factors, whether phonetic, functional, or sociolinguistic.
OT (に限らず形式的な理論)の実践者は,自らが行なっていることは原因説明ではなく過程記述であるという認識が必要であるとの指摘 (McMahon 94--95) にも同意したい.もちろん,理論が原因説明の洞察をまったく与えてくれないということを主張するつもりはない.慎重に扱いさえすれば,むしろ逆だろう.
. . . explanation of change, in its truest sense, may be beyond OT, and indeed any other formal linguistic theory. The cause of the model is not served if its practitioners continue, nonetheless, to claim that they are providing explanations. Lass notes that we tend
to talk about 'explanations' when we mean 'models' or 'metaphors', and to claim that we have shown 'why X happened' when what we have really done is linked X up in a 'network' with Y, Z, etc., and thus created a more or less plausible and imaginatively pleasing picture of 'how' (ceteris paribus) X could happen'. This is all really relatively harmless . . .; at least it is if we can bring ourselves to see clearly what we actually do, and avoid terminological subterfuge and defensive pretence. (1980 [On Explaining Language Change]: 157--8)
言語変化の研究には,原因説明と過程記述との両方が必要である.様々な方法論を組み合わせない限り言語変化は研究できない以上,理論を積極的に,そして慎重に用いてゆくことが肝心のように思う.
・ McMahon, April. "Optimality Theory and the Great Vowel Shift." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 82--96.
言語変化を説明する原理や理論は数々提案されているが,すべての言語変化をきれいに説明できるものはない.また,ある1つの言語変化を説明するのに,いくつもの異なる説明が同等に有効であるという場合もある.言語変化の説明には,大きく分けて形式的なものと機能的なものがある.Newmeyer (32--33) がそれぞれの説明の特徴と問題を要領よくまとめている.
Formal explanations are those which appeal to mentally represented formal grammars and constraints on those grammars; functional explanations are those that appeal to properties of language users. Many, if not most, accounts of language change appeal to both types of explanation. The principal objection to formal explanation is to claim that it does little more than rearrange the data in more compact form --- such criticism embodies the idea that in order to explain the properties of some system, it is necessary to go outside of that system. The principal criticism of functional explanation is to claim that it is vacuous. Since for any functional factor there exists another factor whose operation would lead to the opposite consequence, the claim that some particular functional factor 'explains' some particular instance of language change has the danger of being empty.
形式的説明は,言語変化のスマートな記述を得意とするが,なぜ言語変化が生じるのかという問題には答えてくれない.機能的説明は,なぜという問いには答えようとするが,相反する要因に阻まれるのが常であり,説得力のある説明にならない.
形式的次元の説明と機能的次元の説明とは対置されがちだが,決して融和できないかといえば,そうでもないかもしれない.例えば「最適化」といわれるような説明原理は両次元に居場所をもつことができ,両次元をつなぐ橋であるかもしれない.特に音変化の説明に関しては,多くの場合,形式的な音韻論と機能的な音声学との連携が欠かせない.両次元が融和する形での,バランスのとれた説明原理を目指したいところだが,なかなか難しい.
・ Newmeyer, Frederick J. "Formal and Functional Motivation for Language Change." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 18--36.
昨日の記事で「#1508. 英語における軟口蓋鼻音の音素化」 ([2013-06-13-1]) を取り上げたが,それと正反対ともいえる過程が日本語で起こっているので紹介しよう.
伝統的な日本語の共通語発音では,2つの有声軟口蓋音 [g] と [ŋ] が区別されていた.原則として前者は語頭で,後者は語中(母音や撥音の後)で用いられ,ほぼ相補分布をなす.例えば,柄,銀,郡,芸,午前などの語では [g] が,東,金銀,道具,朝餉,かご,リンゴなどの語では [ŋ] が聞かれた.ただし,「世界銀行」などの複合語の第2要素の始まり,「お元気」などの接頭辞の直後,「十五」などの数詞の五,「がらがら」などの擬音語,「ヨーグルト」などの借用語においては,語中であっても [g] が標準的である.しかし,「十五」と「銃後」の対などにおいて [g] と [ŋ] は対立するので,厳密に分布主義的な立場からは /g/ と /ŋ/ は異なる音素ということになる.
上記の区別は,現在でも声楽などの分野では威信あるものとして保たれているが,一般の共通語発音としては [ŋ] は廃れつつある.1983年の東京方言の調査では,話者の年代により語中 [ŋ] の生起率が大きく異なっていることが確かめられた.それによると,1930年頃に生まれた話者が語中 [ŋ] の消失を牽引した世代であるという.背景には,彼らが疎開により東京外へ出て,[ŋ] の行なわれていない方言と接する機会が増えたことが指摘されている.
1986年の Hibiya による同様の調査でも,語中 [ŋ] の通時的な消失傾向が確かめられた.80歳前後の話者は80--90%が [ŋ] を保っていたが,20歳前後の話者は保有率はゼロに近い (Hibiya 163) .しかし,この調査方法は,ある時点における様々な年齢の話者の発音を調べることにより通時的変化を間接的に捉えようとする "apparent-time" の観察であり,話者の成長に伴う子供言葉から大人言葉へ変化 (age-grading) であるという可能性を排除できない.
そこで,"real-time" の観察が必要になってくる.Hibiya は,19世紀から20世紀にかけてのいくつかの文献学的証拠や研究結果を根拠に,[ŋ] の消失が紛れもない通時的変化であることを明らかにした.それによると,少なくとも19世紀までは,[ŋ] は体系的に用いられていたという.結論として,Hibiya (169) は次のように述べている.
Kato . . . claims that speakers who were born around 1930 were the originators of the change from word-internal [-ŋ-] to [-g-]; the present investigation, however, indicates that the change began earlier. Those who were born in the 1910's and 1920's have [-g-] more frequently than the speakers from the real-time data base who were born two to three decades earlier. Therefore, the age distribution . . . represents a remarkably smooth and linear sound change in the Tokyo dialect, which is going to completion in the youngest generation of today.
語中 [ŋ] が [g] に置換されることによって,両音の相補分布が崩れ,事実上 /ŋ/ の音素としての地位は失われたといってよい.これは,「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1]) や「#1023. 日本語の拍の種類と数」 ([2012-02-14-1]) で示した日本語共通語の音韻体系,音節体系にも影響する体系的な変化であり,脱音素化 (de-phonemicisation) の過程であるといえるだろう.
・ Hibiya, Junko. "Denasalization of the Velar Nasal in Tokyo Japanese." Towards a Social Science of Language: Papers in Honour of William Labov. Ed. G. R. Guy, C. Feagin, D. Schiffrin, and J. Baugh. Amsterdam: John Benjamins, 1996. 161--70.
現代英語で,finger と singer において ng 部分の発音は異なる.前者は [fɪŋgə],後者は [sɪŋə] である.後者のように,-ing で終わる語幹に派生・屈折接尾辞が付加される場合には [ŋ] のみとなる点に注意したい.ただし,形容詞の比較変化は別で long の比較級 longer は [lɔŋgə] である.したがって,「より長い」と「切望する人」とでは,同じ longer でも [lɔŋgə] と [lɔŋə] で発音が異なることになる.
古くは語末の -ng は常に [ŋg] だった.弱音節では方言にもよるが14世紀前半から,強音節では標準英語で17世紀から,[ŋŋ] を経由して [ŋ] へと音韻変化を遂げた.だが,West Midlands 方言,Birmingham, Manchester, Liverpool などではこの音韻変化は起こらず,[ŋg] が保たれた.
このように多くの方言で語末の -ng が [ŋg] から [ŋ] へ変化することによって,sing [sɪŋ] と sin [sɪn] などが最小対 (minimal pair) を形成することになり,/ŋ/ が音素化 (phonemicisation) した.
なお,動詞の派生接尾辞としての -ing は,本来の [ɪŋg] から [ɪŋ] へ変化したほかに,さらに [ɪn] へと発展した変異形もあった.現代英語ではしばしば -in' と表記される語尾で,非標準的とされている([2013-01-26-1]の記事「#1370. Norwich における -in(g) の文体的変異の調査」を参照)が,歴史的には広く行なわれてきた.19世紀中には保守的な RP でも用いられており,むしろ権威ある発音とすらみなされていた.その後,相対的に威信が失われていったのは,綴字発音 (spelling pronunciation) の影響と考えられる.
・ 中尾 俊夫 『音韻史』 英語学大系第11巻,大修館書店,1985年.
なぜ言語には変種が存在するのかという問題について,時間と変化を強調する従来の系統樹モデルへのアンチテーゼとして,地理と拡散を強調する波状モデルが提案されてきたことは,「#999. 言語変化の波状説」 ([2012-01-21-1]) を始め,wave_theory の各記事で取り上げてきた.
波状説によれば,革新的な言語項目 (linguistic item) の各々は,池に投げ込まれた石のように,地理的に波状に拡散してゆく.言語項目によって波紋の中心の位置は異なるし,波の強さも異なるし,持続時間も異なるため,結果として波紋の影響の及ぶ範囲もバラバラとなり,入り組んだ複数の等語線 (isogloss) が描かれることになるのが常である.
しかし,言語項目の拡散を波紋の広がりに喩えることができるのは,ここまでである.波紋の広がり方や止まり方は力学的,機械的に説明できるかもしれないが,言語項目の拡散はある話者(集団)がそれを積極的に採用すれば広がり続け,そうでなければ止まるという社会心理的な要因に依存する(「#1056. 言語変化は人間による積極的な採用である」 ([2012-03-18-1]) や「#1069. フォスラー学派,新言語学派,柳田 --- 話者個人の心理を重んじる言語観」 ([2012-03-31-1]) を参照).また,拡散する言語項目は,必ずしも革新的なものである必要はない.古くからそこにあった言語項目が,あるとき拡散の中心地として機能し始めるということもありうるのである.「投げ込まれた石」「機械的な波紋の広がり」の比喩のみでは,不十分ということになる.
そこで,Hudson (41) は,代替案として,印象的な種子拡散理論というべきものを提起した.
Because of these reservations it seems best to abandon the analogy of the stones dropping in a pool. A more helpful analogy would perhaps be one involving different species of plants sown in a field, each spreading outwards by dispersing its seeds over a particular area. In the analogy, each item would be represented by a different species, with its own rate of seed dispersal, and an isogloss would be represented by the limit of spread of a given species. Different species would be able to coexist on the same spot (a relaxation of the normal laws of botany), but it might be necessary to designate certain species as being in competition with one another, corresponding to items which provide alternative ways of saying the same thing (like the two pronunciations of farm). The advantages of this analogy are that there is no need for the distribution of species in a field to be in constant change with respect to every item, and that every item may be represented in the analogy, and not just those which are innovative.
In terms of this analogy, a linguistic innovation is a new species which has arisen (either by mutation or by being brought in from outside), and which may or may not prosper. If it does, it may spread and replace some or all of its competitors, but if it does not it may either die out or remain confined to a very small area of the field (i.e. to a very small speech community). Whether or not a species thrives depends on how strongly its representatives grow (i.e. on the power and influence of its speech community): the bigger the plants, the more seeds they produce, and the better the chances of the species conquering new territory.
このアイデアは,Hudson (48--49) が別に提案する,従来の "variety-based view of language" に代わるところの "item-based view of language" とも符合する.いずれの説も,個々の言語項目に社会的な役割を認めるという Hudson の言語観が色濃く反映されている.
・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.
「#1427. 主要な英訳聖書に関する年表」 ([2013-03-24-1]) から明らかなように,16世紀は様々な聖書が爆発的に出版された時代だった(もう1つの爆発期は20世紀).当時は宗教改革の時代であり,様々なキリスト教派の存在,古典語からの翻訳の長い伝統,出版の公式・非公式の差など諸要素が絡み合い,異なる版の出現を促した.当然ながら,各版は独自の目的や問題意識をもっており,言語的な点においても独自のこだわりをもっていた.では,この時代の聖書翻訳家たちが関心を寄せていた言語的争点とは,具体的にどのようなものだったのだろうか.Görlach (5) によれば,以下の4点である.
1. Should a translator use the Latin or Greek/Hebrew sources?
2. Should translational equivalents be fixed, or varying renderings be permitted according to context? (cf. penitentia = penance, penitence, amendment)
3. To what extent should foreign words be permitted or English equivalents be used, whether existing lexemes or new coinages (cf. Cheke's practice)?
4. How popular should the translator's language be? There was a notable contrast between the Protestant tradition (demanding that the Bible should be accessible to all) and the Catholic (claiming that even translated Bibles needed authentic interpretation by the priest). Note also that dependence on earlier versions increased the conservative, or even archaic character of biblical diction from the sixteenth century on
それぞれの問いへの答えは,翻訳家によって異なっており,これが異なる聖書翻訳の出版を助長した.まったく同じ形ではないにせよ,20--21世紀にかけての2度目の聖書出版の爆発期においても,これらの争点は当てはまるのではないか.
さて,英語史の研究では,異なる時代の英訳聖書を比較するという手法がしばしば用いられてきたが,各版のテキストの異同の背景に上のような問題点が関与していたことは気に留めておくべきである.複数の版のあいだの単純比較が有効ではない可能性があるからだ.Görlach (6) によれば,より一般的な観点から,聖書間の単純比較が成立しない原因として次の4点を挙げている.
1. the translators used different sources;
2. older translations were used for comparison;
3. the source was misunderstood or interpreted differently;
4. concepts and contexts were absent from the translator's language and culture.
様々な英訳聖書の存在が英語史研究に貴重な資料を提供してくれたことは間違いない.だが,英語史研究の方法論という点からみると,相当に複雑な問題を提示してくれていることも確かである.
・ Görlach, Manfred. The Linguistic History of English. Basingstoke: Macmillan, 1997.
「#1389. between の語源」 ([2013-02-14-1]),「#1393. between の歴史的異形態の豊富さ」([2013-02-18-1]),「#1394. between の異形態の分布の通時的変化」 ([2013-02-19-1]) に続いて,今回は LAEME を用いて通時的変化および方言別分布を調査した結果を報告する.
Helsinki Corpus による通時的調査 ([2013-02-19-1]) の場合と同様に,多数の異形態をまとめるに当たって,語尾以外における母音の違いは無視し,第2音節以降の子音(と,もしあれば語尾の母音も)の種類と組み合わせに注目した.lexel に "between" を指定して取り出した例をもとに,241個のトークンを半世紀ごと,方言別に整理した(区分は[2012-10-10-1]の記事「#1262. The LAEME Corpus の代表性 (1)」で採用したものと同じ).原データはこちらを参照.以下,最初に年代別,次に方言別の集計結果を掲げる.
PERIOD | nn | n | ne | x | xe | xn | xte | hn | he | tn | tx | txn | txe | ths | s | e | yn | zn | Sum |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
C12b | 18 | 1 | 2 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 |
C13a | 23 | 4 | 19 | 6 | 4 | 4 | 0 | 9 | 14 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 85 |
C13b | 20 | 3 | 23 | 2 | 1 | 3 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 64 |
C14a | 5 | 13 | 28 | 9 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 64 |
Sum | 66 | 21 | 72 | 24 | 7 | 9 | 4 | 10 | 14 | 3 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 | 2 | 1 | 1 | 241 |
DIALECT | nn | n | ne | x | xe | xn | xte | hn | he | tn | tx | txn | txe | ths | s | e | yn | zn | Sum |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
N | 0 | 0 | 1 | 9 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 15 |
NEM | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 |
NWM | 7 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 37 |
SEM | 14 | 20 | 9 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 52 |
SWM | 31 | 1 | 26 | 7 | 5 | 7 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 84 |
SW | 0 | 0 | 16 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 24 |
SE | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 15 |
Sum | 66 | 21 | 72 | 24 | 7 | 9 | 4 | 10 | 14 | 3 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 | 2 | 1 | 1 | 241 |
中英語の方言については,me_dialect の各記事で扱ってきた.方言どうしを区分する線は特定の弁別的な形態の分布により決められることが多く,例えば「#130. 中英語の方言区分」 ([2009-09-04-1]) のような方言地図が一案として提示されている.しかし,「#1317. 重要な等語線の選び方」 ([2012-12-04-1]) で話題にしたとおり,方言線を引くことに関しては様々な理論的な問題がある.中英語方言学は20世紀前半以来の長い研究史をもっており,近年では LALME や LAEME の登場により研究環境が著しく進歩したのは確かだが,いまだに多くの問題が残されている.
今回は,伝統的な Moore, Meech and Whitehall の後期中英語方言の研究に基づき,主要な弁別的形態とその分布を示そう.Moore, Meech and Whitehall は,1400--1450年に書かれた266の(公)文書および43の文学作品を主たる対象テキストとし,11の主要な弁別的な特徴によって方言線を引いた.これは MED 編纂の基盤ともなった方言線であり,MED の "Plan and Bibliography" にも反映されている.中尾 (96--106) が8つの弁別的な特徴について要約した表 (98) を与えており便利なので,それをまとめ直したものを下に示そう.
Feature | Isogloss | N | NEM | SEM | WM | SW | SE |
---|---|---|---|---|---|---|---|
OE /ā/ | A | /ɑː/ | /ɔː/ | /ɔː/ | /ɔː/ | /ɔː/ | /ɔː/ |
OE /a/ + nasal | D | /a/ | /a/ | /a/ | /ɔ/ | /a/ | /a/ |
OE /ȳ/, /y/, /ēo/, /eo/ | F | /iː, ɪ/, /eː, ɛ/ | /iː, ɪ/, /eː, ɛ/ | /iː, ɪ/, /eː, ɛ/ | /yː, y/, /øː, ø/ | /yː, y/, /øː, ø/ | /iː, ɪ/, /eː, ɛ/ |
/f/ -- /v/ | I | /f/ | /f/ | /f/ | /f, v/ | /v/ | /v/ |
/ʃ/ -- /s/ | C | /s/ | /s/ | /ʃ/ | /ʃ/ | /ʃ/ | /ʃ/ |
3rd pl. pronoun | E | them | them | hem | hem | hem | hem |
3rd sg. pres. verb | G | -es | -es | -eth | -es, -eth | -eth | -eth |
3rd pl. pres. verb | B, H | -es | -es, -e(n) | -e(n) | -e(n), -eth | -eth | -eth |
Bloomfield は,青年文法学派 (Neogrammarians) による音声変化の仮説(Ausnahmslose Lautgesetze "sound laws without exception")には様々な批判が浴びせられてきたが,畢竟,現代の言語学者はみな Neogrammarian であるとして,同学派の業績を高く評価している.批判の最たるものとして,音声変化に取り残された数々の residue の存在をどのように説明づけるのかという問題があるが,Bloomfield はむしろその問題に光を投げかけたのは,ほかならぬ同仮説であるとして,この批判に反論する.Language では関連する言及が散在しているが,そのうちの2カ所を引用しよう.
The occurrence of sound-change, as defined by the neo-grammarians, is not a fact of direct observation, but an assumption. The neo-grammarians believe that this assumption is correct, because it alone has enabled linguists to find order in the factual data, and because it alone has led to a plausible formulation of other factors of linguistic change. (364)
The neo-grammarians claim that the assumption of phonetic change leaves residues which show striking correlations and allow us to understand the factors of linguistic change other than sound-change. The opponents of the neo-grammarian hypothesis imply that a different assumption concerning sound-change will leave a more intelligible residue, but they have never tested this by re-classifying the data. (392--93)
青年文法学派の批判者は,同学派が借用 (borrowing) や類推 (analogy) を,自説によって説明できない事例を投げ込むゴミ箱として悪用していることをしばしば指摘するが,Bloomfield に言わせれば,むしろ青年文法学派は借用や類推に理論的な地位を与えることに貢献したのだということになる.
Bloomfield は,次の疑問に関しても,青年文法学派擁護論を展開する.ある音声変化が,地点Aにおいては一群の語にもれなく作用したが,すぐ隣の地点Bにおいてはある単語にだけ作用していないようなケースにおいて,青年文法学派はこの residue たる単語をどのように説明するのか.
[A]n irregular distribution shows that the new forms, in a part or in all of the area, are due not to sound-change, but to borrowing. The sound-change took place in some one center, and after this, forms which had undergone the change spread from this center by linguistic borrowing. In other cases, a community may have made a sound-change, but the changed forms may in part be superseded by unchanged forms which spread from a center which has not made the change. (362)
そして,上の引用にすぐに続けて,青年文法学派の批判者への手厳しい反論を繰り広げる.
Students of dialect geography make this inference and base on it their reconstruction of linguistic and cultural movements, but many of these students at the same profess to reject the assumption of regular phonetic change. If they stopped to examine the implications of this, they would soon see that their work is based on the supposition that sound-change is regular, for, if we admit the possibility of irregular sound-change, then the use of [hy:s] beside [mu:s] in a Dutch dialect, or of [ˈraðr] rather beside [ˈgɛðr] gather in standard English, would justify no deductions about linguistic borrowing. (362)
Bloomfield の議論を読みながら,青年文法学派の仮説が批判されやすいのは,むしろ仮説として手堅いからこそなのかもしれないと思えてきた.
・ Bloomfield, Leonard. Language. 1933. Chicago and London: U of Chicago P, 1984.
方言を区分する等語線 (isogloss) は,考慮される語の数だけ引くことができるといっても過言ではない.これは,どの等語線を重視するかによって,方言区分の様子がらりと変わりうる危険があるということである.また,特定の等語線を意図的に選ぶことによって,望む方言区分を作り出せるということでもある.
では,重視すべき等語線の選定は恣意的とならざるを得ないのだろうか.何らかの客観的な基準によって,重要な等語線と重要でない等語線を区別することができるのだろうか.この方法論上の問題について,Bloomfield (341--42) は次のような意見を述べている.
An isogloss which cuts boldly across a whole area, dividing it into two nearly equal parts, or even an isogloss which nearly marks off some block of the total area, is more significant than a petty line enclosing a localism of a few villages. . . . The great isogloss shows a feature which has spread over a large domain; this spreading is a large event, simply as a fact in the history of language, and, may reflect, moreover, some non-linguistic cultural movement of comparable strength. As a criterion of description, too, the large division is, of course, more significant than small ones; in fact, the popular classification of dialects is evidently based upon the prevalence of certain peculiarities over large parts of an area. / Furthermore, a set of isoglosses running close together in much the same direction --- a so-called bundle of isoglosses --- evidences a larger historical process and offers a more suitable basis of classification than does a single isogloss that represents, perhaps, some unimportant feature. It appears, moreover, that these two characteristics, topographic importance and bundling, often go hand in hand.
要約すれば,(1) 広い地域を大きく按分する等語線を選べ,(2) 束をなしている太い等語線を選べ,ということになるだろう.
しかし,この基準自体が程度の問題を含む.どのくらい広ければ「広い地域」とみなせるのか,どのくらい「大きく」按分すべきかを明確に教えてくれる指標はない.どのくらい「太い」束であればよいのかも同様だ.例えば,イングランドの方言を南北へ大きく2分する等語線の価値はほとんどの人が認めるだろうが,方言学では通常さらに細かく分類してゆく.この場合,どの細かさまでを方言区分とみなしてよいかを客観的に示す指標はない.中英語方言にしても,中部方言を東と西に2分するだけでよいのか,あるいはそれぞれを南北に分けて全部で4方言とすべきなのか,一般的な正答はない.この辺りは,方言区分を用いて考察しようとしている言語項目の地理的分布やその他の背景を参照した上で,適切な区分を意識的に選ぶというのが,むしろ望ましいやり方と言えるのかもしれない.
それでも,Bloomfield の2つの基準は,複数の等語線のあいだの相対的な重要性を測るのに役立つ基準であることは認めてよいだろう.
Bloomfield の Language 10章 "DIALECT GEOGRAPHY" は,具体例が豊富で,実によく書けている.
・ Bloomfield, Leonard. Language. 1933. Chicago and London: U of Chicago P, 1984.
コーパスにとって代表性 (representativeness) が命であることは,コーパスの定義上 ([2010-11-16-1]) あきらかであるし,昨日の記事「#1279. BNC の強みと弱み」 ([2012-10-28-1]) で紹介した Leech もとりわけ主張している点である.McEnery et al. (13) は,代表性について,Leech の定義を参考にしながら "a corpus is thought to be representative of the language variety it is supposed to represent if the findings based on its contents can be generalized to the said language variety" と述べている.
代表性を具体的に考えてみよう.例えば BNC がターゲットとするような,現代イギリス英語という一般的な変種を収録するコーパス (general corpus) の代表性はどのようにすれば得られるのか,その理論化は難しい.話し言葉と書き言葉の割合の問題を考えると,それぞれを50%ずつに割り振ることは,現代イギリス英語の代表性を約束してくれるだろうか.Leech の表現でいえば "impressionistic" とならざるを得ないが,今この瞬間に行なわれている現代イギリス英語の圧倒的な部分が,話し言葉においてではないか.もしそうだとすれば,話し言葉コーパスの割合を,例えば80%ほどに設定するほうがより代表性を確保できるのではないか.母体となる現代イギリス英語の全体像を直接つかむことができない以上,その代表性の議論は行き詰まってしまう.
コーパス(特に一般コーパス)の代表性という場合に,これを balance と sampling という2つの概念に分けて考えることがある.McEnery et al. (13) では,"the representativeness of most corpora is to a great extent determined by two factors: the range of genres included in a corpus (i.e. balance . . .) and how the text chunks for each genre are selected (i.e. sampling . . .)" と説明されている.
balance とは,BNC の用語でいうところの domain や genre という分類の設定に関するものである.例えば,現代イギリス英語のコーパスを標榜しながらも,イギリスの新聞の英語だけを集めたコーパスは,representativeness の点で難がある.現代イギリス英語には書き言葉だけでなく話し言葉もあるし,前者については新聞英語だけでなく文学英語もあれば電子メール英語もあるし,買い物メモ英語もあれば,日記英語もある.これらのあらゆる domain や genre を考慮に入れたいと思うが,果たしていくつの text domain があるのだろうか.新聞英語に限っても,タブロイドもあれば高級紙もある.1つの新聞内でも,社会面,スポーツ面,社説などを区別する必要はないのか,社会面であれば国内記事と国際記事の区別はどうか,等々.理論的にはどこまでも細分化しうる.話し言葉でも同様に細分化を推し進めていけば,個人語 (idiolect) ,さらに個人語における register 別の現われ,などのアトムへと終着してしまう.実際のコーパス作成上は,常識的なレベルで妥協することになるが,「常識的」と "impressionistic" はほぼ同義だろう.
sampling とは代表性を得るための手法である.母体の言語的特徴が再現されるように,質と量の点において考慮を加えながら,コーパス内に各 domain を案配するための理論と実践である.ここには,sampling unit として何を設定するか(典型的には,本,雑誌,新聞などの製品としての単位),そのような単位をリスト化する作業の範囲 (sampling frame) をどこまでに設定するか(特定の年への限定や,ベストセラー本への限定など),標本収集は完全なランダムにするかある程度の体系化を加えた上でのランダムにするか,著作権の問題をどう乗り越えるかなどの,理論的・実践的な問題が含まれる.
代表性に関わるもう1つの概念として,closure あるいは saturation と呼ばれるものもある.McEnery et al. (16) によれば,"Closure/saturation for a particular linguistic feature (e.g. size of lexicon) of a variety of language (e.g. computer manuals) means that the feature appears to be finite or is subject to very limited variation beyond a certain point." と説明されている.平たくいえば,これ以上コーパスの規模を大きくしても,語彙構成の割合は変わらないという規模に到達すれば,そのコーパスは saturated であると考えられる.代表性の指標としては,balance よりも saturation のほうがすぐれているという指摘もあるが,saturation は主として語彙が念頭にあり,他の言語項目への応用は試みられていないのが現状である.
代表性は,定義上コーパスの命であるとはいっても,定義先行というきらいはある.それを確保するための理論もないし,検証法もない.すべてのコーパス編纂者に立ちはだかる頭の痛い問題だろうが,コーパスは次々と編纂されている.理論的な問題は別にして,ひたすら編纂と使用を続けてゆき,ノウハウをため込むべき段階にあるのかもしれない.
・ McEnery, Tony, Richard Xiao, and Yukio Tono. Corpus-Based Language Studies: An Advanced Resource Book. London: Routledge, 2006.
[2012-10-10-1], [2012-10-11-1]の記事で,The LAEME Corpus の代表性について取りあげた.私の評価としては,カバーしている方言と時代という観点からみて代表性は著しく損なわれているものの,現在利用できる初期中英語コーパスとしては体系的に編まれた最大規模のコーパスであり,十分な注意を払ったうえで言語研究に活用すべきツールである.The LAEME Corpus の改善すべき点はもちろんあるし,他のコーパスによる補完も目指されるべきだとは考えるが,言語を歴史的に研究する際に必然的につきまとう限界も考慮した上で評価しないとアンフェアである.
歴史言語学は,言語の過去の状態を観察し,復元するという課題を自らに課している.過去を扱う作業には,現在を扱う作業には見られないある限界がつきまとう.Milroy (45) の指摘する歴史言語学研究の2つの限界 (limitations of historical inquiry) を示そう.
[P]ast states of language are attested in writing, rather than in speech . . . [W]ritten language tends to be message-oriented and is deprived of the social and situational contexts in which speech events occur.
[H]istorical data have been accidentally preserved and are therefore not equally representative of all aspects of the language of past states . . . . Some styles and varieties may therefore be over-represented in the data, while others are under-represented . . . . For some periods of time there may be a great deal of surviving information: for other periods there may be very little or none at all.
乗り越えがたい限界ではあるが,克服の努力あるいは克服にできるだけ近づく努力は,いろいろな方法でなされている.そのなかでも,Smith はその著書の随所で (1) 書き言葉と話し言葉の関係の理解を深めること,(2) 言語の内面史と外面史の対応に注目すること,(3) 現在の知見の過去への応用の可能性を探ること,の重要性を指摘している.
とりわけ (3) については,近年,社会言語学による言語変化の理解が急速に進み,その原理の過去への応用が盛んになされるようになってきた.Labov の論文の標題 "On the Use of the Present to Explain the Past" が,この方法論を直截に物語っている.
これと関連する方法論である uniformitarian_principle (斉一論の原則)を前面に押し出した歴史英語の論文集が,Denison et al. 編集のもとに,今年出版されたことも付け加えておこう.
・ Milroy, James. Linguistic Variation and Change: On the Historical Sociolinguistics of English. Oxford: Blackwell, 1992.
・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.
・ Labov, William. "On the Use of the Present to Explain the Past." Readings in Historical Phonology: Chapters in the Theory of Sound Change. Ed. Philip Baldi and Ronald N. Werth. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 1978. 275--312.
・ Denison, David, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore, eds. Analysing Older English. Cambridge: CUP, 2012.
[2010-11-04-1]の記事で,言語学の方法論としての「#556. The Uniformitarian Principle」を紹介した.斉一論の原則と訳されるこの原理は,元来は,地質学の分野における革命的な発想だった.18世紀末までの地質学は非科学的,思弁的なものであり,聖書に基づいてノアの洪水に代表される天変地異を基本とする地質観 (catastrophism) に支配されていた.これに対して,スコットランド人 James Hutton (1726--97) が,1795年の著書 Theory of the Earth において,過去の地質現象は,現在の地質現象を進行させているのと同じ自然法則のもとで進行したとする考えを発表した.過去の地質現象は現在の自然現象の注意深い観察によって知ることができる,現在を知ることは過去を知ることへの鍵である,と主張したこの地質観は,それまでの天変地異説を置き換え,科学的地質学の誕生を告げるものとなった.地球の誕生をわずか6千年ほどと見ていた従来の聖書に基づく地質観を転換させたことは,天文学における Copernicus, Kepler, Galileo などの業績と比較される科学史上の革命と言ってよいだろう.
同じスコットランド人の Sir Charles Lyell (1797--1875) は,Principles of Geology (1830--33) において,Hutton の斉一論の普及に貢献した.Lyell は,地質現象がきわめて長大な時間の経過の中で緩慢に行われること,そしてその過程は一様であることを重視したため,斉一説はしばしば漸進説,斉一過程説,現在主義などと呼ばれることになった.この考え方は,Charles Darwin (1809--82) の進化論にも重要な示唆を与え,科学全般にも影響を与えた.そして,方法論として,言語の歴史的研究にも応用されることになった.
歴史言語学における斉一論について,Campbell and Mixco (213) による定義を掲げよう.
uniformitarianism, Uniformitarian Principle A fundamental principle of biological, geological and linguistic sciences, which holds for linguistics that things about language that are possible today were not impossible in the past and that things that are impossible today were not possible in the past. This means that whatever is known to occur in languages today would also have been possible in earlier human languages and anything not possible in contemporary languages was equally impossible in the past, in the earlier history of any language. The Uniformitarian Principle came to linguistics from Charles Lyell's formulation of it in geology. It is valuable for reconstruction via the comparative method, where, according to the principle, nothing in reconstruction can be assumed to have been a property of some proto-language if it is not possible in known languages. (213)
・ Campbell, Lyle and Mauricio J. Mixco, eds. A Glossary of Historical Linguistics. Salt Lake City: U of Utah P, 2007.
昨日の記事「#1184. 固有名詞化」 ([2012-07-24-1]) で紹介した Coates の onymisation の理論について,思うところを2点メモする.
(1) Coates にしたがって onymisation は意味を失う過程であると理解すると,これは,[2012-05-09-1]の記事「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」で言及した「無縁化」にほかならない.そこで触れたように,言語記号の無縁化と有縁化は通時的に無限のサイクルを構成するということを考慮すると,固有名詞と一般名詞の間の往来もまた無限に繰り返されるものなのかもしれない.この議論は,「#1056. 言語変化は人間による積極的な採用である」 ([2012-03-18-1]) や「#1069. フォスラー学派,新言語学派,柳田 --- 話者個人の心理を重んじる言語観」 ([2012-03-31-1]) の記事でみた柳田国男の言語変化観にも関わるところがある.
(2) 固有名詞は音韻的な摩耗や,一般語には見られない例外的な音韻変化を受けることが多い.理論的には,昨日の記事で触れたように,固有名詞語彙の phonological space が相対的に広々としていると説明することができるかもしれない.歴史言語学の方法論の観点からは,音韻変化に関する固有名詞の例外的な振る舞いは「音韻変化を論じる際には,固有名詞を参照することに注意せよ」という教訓となる.Coates (33) は,Hogg の同趣旨の言及を支持しながら,"using name material in argumentation about phonology (and morphology) needs caution, because name material can contain chronological and systemic anomalies with respect to its matrix language" と述べている.例えば,古英語 geat "gate" は,Yeats, Yates などに発音と綴字の痕跡を残しているが,現代標準英語では古ノルド語形 gat に由来するとおぼしき gate が伝わっている(Hogg 69; [2009-11-19-1]の記事「#206. Yea, Reagan and Yeats break a great steak.」も参照).
・ Coates, Richard. "to þære fulan flóde . óf þære fulan flode: On Becoming a Name in Easton and Winchester, Hampshire." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 28--34.
・ ピエール・ギロー 著,佐藤 信夫 訳 『意味論』 白水社〈文庫クセジュ〉,1990年.
・ Hogg, Richard M. "Phonology and Morphology." The Cambridge History of the English Language: Vol. 1 The Beginnings to 1066. Ed. Richard M Hogg. Cambridge: CUP, 1992. 67--167.
『英語コーパス研究』第19号に掲載の論文で,1960年代に誕生して以来,コーパス言語学がとりわけ英国で発展してきた経緯が話題とされていた.そこでは,the University of Birmingham, Lancaster University, the University of Nottingham の3大学がコーパス言語学の発展に果たしてきた役割が強調されており,英国におけるコーパス研究の現状と展望までもが要領よく概観され,非常に参考になった.
その論文によると,英国でコーパス研究が盛んになった背景には,次の5点があった (68--69) .
(1) 研究者に,大規模な研究プロジェクトに参加する時間的な余裕があった(ある).
(2) 生成文法以外の言語理論に対して寛容な土壌があった.
(3) 出版社が,コーパス研究の実用的な応用(特に辞書編纂)に関心を寄せた.
(4) 1990年代には,the Bank of English, the British National Corpus, the London-Lund Corpus を含む,多くの巨大で良質なコーパスにアクセスできた.
(5) 技術者との連係により,コーパスを分析するツールが手に入った(ex. Micro-Concord, WordSmith, AntConc, BNCweb).
現状について.Birmingham では,John Sinclair の強力な指導力のもとに培われた伝統が継続している.collocation, meaning unit, semantic preference, semantic prosody, discourse analysis, pattern grammar, expressions of evaluation, modal-like expressions などをキーワードとするコーパス研究が盛んに進められている.
Lancaster では,Geoffrey Leech, Tony McEnery, Andrew Wilson などによるコーパスの開発と研究が進められてきた.The Brown Family of Corpora の作成に関わったほか,タグ付けプログラム CLAWS や BNCweb の開発,UCREL (University Centre for Computer Corpus Research in Language) の設立など,技術的,運営的な側面でも一日の長がある.現在では,量的な研究を主体としながら,英語以外の言語へと関心を広げつつある.一方で,資金難により BNC のような巨大プロジェクトの続編は期待できないようだ.
Nottingham では,Ronald Carter, Michael McCarthy が話し言葉への関心から,1990年代初頭に CUP と共同して,CANCODE (the Cambridge and Nottingham Corpus of Discourse in English) を編纂した.その後も,続々と様々なコーパスをリリースしてきた.Nottingham におけるコーパス研究の特徴としては,話し言葉と書き言葉における語彙文法の差異,multimodal corpus 編纂などの技術的な革新,言語教育への応用が挙げられる.
1960年代に産声を上げた近代コーパス言語学が,1970--1980年代の発展の結果,1990年代に主流をなす分野として確立し,21世紀に入り「黄金時代」に至っている.
・ Anthony, Laurence, Yasunori Nishina, Kaoru Takahashi, and Michael Handford. "Current Trends in Corpus Linguistics: Voices from Britain." 『英語コーパス研究』第19号,英語コーパス学会,2012年,67--92頁.
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