少し前になるが,読売新聞2013年12月13日の朝刊4面に「うごめく琉球独立論」という記事があった.そこでは,沖縄の独立を巡る問題,そして「方言札」への言及がなされていた.
「#1031. 現代日本語の方言区分」 ([2012-02-22-1]) でみたように,一般には,琉球で話される言語変種は日本語の1変種として,すなわち日本語のなかの琉球方言としてみなされている.しかし,歴史的,政治的な立場によっては,日本語とは独立した琉球語であるとする見方もある.政治的立場と言語論とは元来は別物ではあるが,結びつけられるのが常であるといってよい.琉球方言か,琉球語かという問題は,「#1522. autonomy と heteronomy」 ([2013-06-27-1]) で触れた,すぐれて社会言語学的な問題である.
沖縄で話されるこの変種は,公的に抑圧されてきた歴史をもつ.その象徴が,上に触れた「方言札」である.戦前(そして戦後までも),沖縄の学校では,生徒がその変種を口にすると,はずかしめとして方言札なるものを首にかけさせられた.『世界大百科事典』の「琉球語」(琉球方言ではなく)の項には,次の文章がみられる.
明治以降,村ぐるみ,学校ぐるみの標準語励行運動が強力にすすめられ,文章語としても話しことばとしても,標準語の習得は高度に必要なこととなった。一方,方言は蔑視され圧迫をうけた。学校で方言を話した子どもへの罰としての〈方言札(ふだ)〉は有名で,方言札をもらった子どもは次に方言を使う子どもが現れるまで,見せしめのためにこれを首にかけていなければならなかった。この方言札の罰は第2次大戦後にも行われていた。こうして,教育とすべての公的な場面では標準語のみが使われるようになり,現在に至っている。方言は衰退し,かつ標準語の影響などによって大きく変容しつつある。戦後の民主主義思想の普及と地方文化振興の気運とあいまって,復帰運動のころから方言は尊重され,愛着をもたれるようになり,ラジオ,テレビにも登場するようになったが,しかし,現実の生活における方言は用途を狭め,老人の会話,学生や労働者のスラング,民謡の歌詞と沖縄芝居のせりふなどに使用を限られ,言語としての汎用性を失ったままである。集落ごとに異なっていた島々,村々の伝統的方言は老人の他界とともに次々と消滅しつつあり,方言学者たちはその記録を急がされている。
これは,母語の抑圧の痛ましい事例として読むことができる.しかし,この罰札制度なる非人道的な施策は,沖縄のみならず,世界の諸地域で行われていた.非標準変種とその話者を抑圧する類例は,決してまれではないのである.罰札制度については,田中 (118--21) が次のように解説と論評を与えている.長いがすべて引用しよう(原文の圏点は,ここでは太字にしてある).
フランスが世界に先立って確立し、ひろめられた言語の中央集権化にともなう、少数者言語弾圧のシステムは、日本の方言滅ぼし教育の具体的な場所でも、こまかい点までなぞって導入されたものと考えられるふしがある。
おそらく日本の他の地域でもこれに類する手段が用いられたかもしれないが、琉球のばあいは、しばしば激しい感情をこめて思い起こされることが多い。それは琉球出身者が語る名高い罰札についての話であるが、要約すればこうである。「横一寸縦二寸の木札」を用意して、誰か方言を口にした生徒がいれば、ただちにその札を首にかける。札をかけられたこの生徒は、他に仲間のうちで誰か同じまちがいを犯す者が出るのを期待し、その犯人をつかまえてはじめて、自分の首から、その仲間の犯人の首へと札を移し、みずからは罰を逃れることができる。しかも、これはゲームの装いをとりながら、罰札を受けた回数は、そのまま成績に反映するというものである。
この屈辱のしるしである木札は、「罰札」と呼ばれた。琉球出身者でのちに「那覇方言概説」を著した金城朝永は、生前、わざと違反を重ねて罰札を集め、落第した思い出をよく語った。罰札は一つの教室に何枚もあったのだろう。
琉球の教育史をみると、罰札が教室に登場したのは明治四〇(一九〇七)年二月のことで、当時は「方言札」と呼ばれていた。それがいっそう強化されたのは一〇年後の大正六(一九一七)年である。県立中学に赴任した山口沢之助校長は「方言取締令」を発して、この罰札を活用した。ずっと後の太平洋戦争前夜の昭和十五(一九四〇)年にも、那覇を訪れた日本民芸協会一行が「方言札」を使った方言とりしまりを批判したという記録があるので、罰札、方言札は、琉球に義務教育が普及しはじめると同時に導入され、おそらく敗戦に至るまで、半世紀を支配しつづけたものと思われる。
この方言札とか罰札とかと言われるものの起源については、「誰の創案か明確ではないが」「在来の自然発生的な黒札制の援用と見られ」るとだけ述べられていて、くわしいことはわからない(上沼八郎「沖縄の「方言論争」について」)。ではいったい「自然発生的な黒札」とはなにか。柳田国男は黒札について次のように述べている。
島には昔から黒札という仕様があって、次の違反者を摘発した功によって、我身の責任を解除してもらふといふ、その組織を此禁止の上にも利用して居るとは情けない話である。女の学校などでは、いしやべりといふ者が丸で無くなつた。何か言はうとすれば、自然に違反になるからである。(昭和一四年)
かつてフリッツ・マウトナーは、「学校とは鞭でもって方言をたたき出す場所である」と述べたが、ここでは、さらに「学校は、すべての方言の話し手を犯罪者にし、密告者を育てあげる場所である」と言いかえなければならないであろう。この制度は、新たな違反者を見つけ出して、自らの罪をのがれるというところにその方法の特色があるからだ。
こうしたあくどく、むごい、巧妙な密告制度、相互監視の制度が、いったいどうして自然発生的に生れるのだろうかというのが、私の年来の疑問であった。日本人はがんらいこの種の人間管理に関してはどちらかといえば着想の貧しい方であって、その方面の優秀な技術はたいてい舶来ではないかと思ったのである。ところが最近、オクシタンでオック語回復運動をおこなっている人たちが同様の経験を持っていることを述べている箇所につきあたった。これは、あるオック語出身者の回想である。
たまたまオック語の単語が口にのぼることがあると、その罪人は、かれの vergonha (恥)を人目にさらすしるしとして、senhal を首にかけられる。それはお守りのように環に通して首からかける。この罪人は、だれか級友のうちにオック語を口にした奴がいて、そいつに首輪をかけてやれないものかと聞き耳をたてている。これは全体主義国家とか、悪夢のような未来幻想につきものの、内部密告の完ぺきな制度である。(ジャン「アルザス、ヨーロッパ内の植民地」)
ブルトン語回復運動史の若い研究者、原聖によると、罰札は、フランスの他の地域、すなわちブルターニュ、カタロニアにも、ところによっては一九六〇年代に入ってもおこなわれていたし、フランス以外にもプロイセン支配下のポーランド、それにフラマン語地域やウェールズにおいても一九世紀の中頃から後半にかけて一般化したという。罰札の利用は、じつはもっと古くまでさかのぼる。しかし、そこでは逆に、フランス語を話した者の首にかけて、ラテン語教育の能率をはかったイエズス会の工夫であったという。それをいまや、ラテン語の地位についた俗語が利用することになったのである。
罰札の方法は、自然発生的で日本独自のものというよりは、方言撲滅の政策においてはるかに先進的な、はるかに組織的、計画的であったフランスあるいはその他のヨーロッパ諸国から学びとられた可能性が強い。
沖縄の方言札の制度が西洋近代国家から輸入されたものだったかどうかには異論もある.その起源を突き止めることは,重要な課題だろう.
・ 田中 克彦 『ことばと国家』 岩波書店,1981年.
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