英語史では,否定の統語的変化が時代とともに以下のように移り変わってきたことがよく知られている.Jespersen が示した有名な経路を,Ukaji (453) から引こう.
(1) ic ne secge.
(2) I ne seye not.
(3) I say not.
(4) I do not say.
(5) I don't say.
(1) 古英語では,否定副詞 ne を定動詞の前に置いた.(2) 中英語では定動詞の後に補助的な not を加え,2つの否定辞で挟み込むようにして否定文を形成するのが典型的だった.(3) 15--17世紀の間に ne が弱化・消失した.この段階は動詞によっては18世紀まで存続した.(4) 別途,15世紀前半に do-periphrasis による否定が始まった (cf. 「#486. 迂言的 do の発達」 ([2010-08-26-1]),「#1596. 分極の仮説」 ([2013-09-09-1])) .(5) 1600年頃に,縮約形 don't が生じた.
(2) 以下の段階では,いずれも否定副詞が定動詞の後に置かれてきたという共通点がある.ところが,稀ではあるが,後期中英語から近代英語にかけて,この伝統的な特徴を逸脱した I not say. のような構文が生起した.Ukaji (454) の引いている例をいくつか挙げよう.
・ I Not holde agaynes luste al vttirly. (circa 1412 Hoccleve The Regement of Princes) [Visser]
・ I seyd I cowde not tellyn that I not herd, (Paston Letters (705.51--52)
・ There is no need of any such redress, Or if there were, it not belongs to you. (Sh. 2H4 IV.i.95--96)
・ I not repent me of my late disguise. (Jonson Volp. II.iv.27)
・ They ... possessed the island, but not enjoyed it. (1740 Johnson Life Drake; Wks. IV.419) [OED]
従来,この奇妙な否定の語順は,古英語以来の韻文の伝統を反映したものであるとか,強調であるとか,(1) の段階の継続であるとか,様々に説明されてきたが,Ukaji は (3) と (4) の段階をつなぐ "bridge phenomenon" として生じたものと論じた.(3) と (4) の間に,(3') として I not say を挟み込むというアイディアだ.
これは,いかにも自然といえば自然である.(3') I not say は,do を伴わない点で (3) I say not と共通しており,一方,not が意味を担う動詞(この場合 say)の前に置かれている点で (4) I do not say と共通している.(3) と (4) のあいだに統語上の大きな飛躍があるように感じられるが,(3') を仮定すれば,橋渡しはスムーズだ.
しかし,Ukaji 論文をよく読んでみると,この橋渡しという考え方は,時系列に (3) → (3') → (4) と段階が直線的に発展したことを意味するわけではないようだ.Ukaji は,(3) から (4) への移行は,やはりひとっ飛びに生じたと考えている.しかし,事後的に,それを橋渡しするような,飛躍のショックを和らげるようなかたちで,(3') が発生したという考えだ.したがって,発生の時間的順序としては,むしろ (3) → (4) → (3') を想定している.このように解釈する根拠として,Ukaji (456) は,(4) の段階に達していない have や be などの動詞は (3') も示さないことなどを挙げている.(3) から (4) への移行が完了すれば,橋渡しとしての (3') も不要となり,消えていくことになった.と.
英語史における橋渡しのもう1つの例として,Ukaji (456--59) は "compound numeral" の例を挙げている.(1) 古英語から初期近代英語まで一般的だった twa 7 twentig のような表現が,(2) 16世紀初頭に一般化した twenty-three などの表現に移行したとき,橋渡しと想定される (1') twenty and nine が15世紀末を中心にそれなりの頻度で用いられていたという.(1) から (2) への移行が完了したとき,橋渡しとしての (1') も不要となり,消えていった.と.
2つの例から一般化するのは早急かもしれないが,Ukaji (459) は統語変化の興味深い仮説を提案しながら,次のように論文を結んでいる.
I conclude with the hypothesis that syntactic change tends to be facilitated via a bridge sharing in part the properties of the two chronological constructions involved in the change. The bridge characteristically falls into disuse once the transition from the old to the new construction is completed.
・ Ukaji, Masatomo. "'I not say': Bridge Phenomenon in Syntactic Change." History of Englishes: New Methods and Interpretations in Historical Linguistics. Ed. Matti Rissanen, Ossi Ihalainen, Terttu Nevalainen, and Irma Taavitsainen. Berlin: Mouton de Gruyter, 1992. 453--62.
昨日の記事「#2044. なぜ mayn't が使われないのか? (1)」 ([2014-12-01-1]) に引き続き,標記の問題.今回は歴史的な事実を提示する.OED によると,短縮形 mayn't は16世紀から例がみられるというが,引用例として最も早いものは17世紀の Milton からのものだ.
1631 Milton On Univ. Carrier ii. 18 If I mayn't carry, sure I'll ne'er be fetched.
OED に基づくと,注目すべき時代は初期近代英語以後ということになる.そこで EEBO (Early English Books Online) ベースで個人的に作っている巨大テキスト・データベースにて然るべき検索を行ったところ,次のような結果が出た(mai や nat などの異形も含めて検索した).各時期のサブコーパスの規模が異なるので,100万語当たりの頻度 (wpm) で比較されたい.
Period (subcorpus size) | mayn't | may not |
---|---|---|
1451--1500 (244,602 words) | 0 wpm (0 times) | 474.24 wpm (116 times) |
1501--1550 (328,7691 words) | 0 (0) | 133.22 (438) |
1551--1600 (13,166,673 words) | 0 (0) | 107.01 (1,409) |
1601--1650 (48,784,537 words) | 0.020 (1) | 131.85 (6,432) |
1651--1700 (83,777,910 words) | 1.03 (86) | 131.54 (11,020) |
1701--1750 (90,945 words) | 0 (0) | 109.96 (10) |
Period (subcorpus size) | mayn't | may not |
---|---|---|
1710--1780 (10,480,431 words) | 33 | 859 |
1780--1850 (11,285,587) | 21 | 703 |
1850--1920 (12,620,207) | 68 | 601 |
なぜ may not の短縮形 mayn't が現代英語では一般的に用いられないのかという質問をいただいた.確かに不思議だと思っていたのだが,これまで扱わずにきたので少し考えてみたい.
法助動詞が否定辞を伴う形には,たいてい対応する短縮形がある.can't, couldn't, won't, wouldn't, shouldn't, mightn't, mustn't, needn't, use(d)n't, oughtn't 等々だ.しかし,mayn't はあまりお目にかからない.実際のところ大きな辞書には記載があるのだが,レーベルとしては口語的であるとか古風であるとか,特殊な用法とされている.OED でも mayn't は "(colloq., now rare)" や "rare in all varieties of English" とあり,標準英語をターゲットとする英語教育において教えられていないのも無理からぬことである.Quirk et al. (122) でも,mayn't が shan't とともに用いられなくなってきていることが述べられている.
Every auxiliary except the am form of BE has a contracted negative form . . ., but two of these, mayn't and shan't, are now virtually nonexistent in AmE, while in BrE shan't is becoming rare and mayn't even more so.
また Quirk et al. (811--12) は,付加疑問において mayn't I? などの形が使いにくい現状のぎこちなさにも言い及んでいる.mightn't I? や can't I? で代用する話者もいるようだが,スマートではない.may I not? は常に可能だが,堅苦しすぎて多くの文脈にはふさわしくない.
The negative tag question following a positive statement with modal auxiliary may poses a problem because the abbreviated form mayn't is rare (virtually not found in AmE). There is no obvious solution for the tag question, though some speakers will substitute mightn't or can't or --- when the reference is future --- won't:
?I may inspect the books, | mightn't I?
| can't I?
?They may be here next week, | mightn't they?
| won't they?
The abbreviated form is fully acceptable, but limited to formal usage:
I may inspect the books, may I not?
They may be here next week, may they not?
さて,BNC で mayn't を検索すると7例のみヒットした.話し言葉サブコーパスからは2例のみだが,書き言葉サブコーパスからの5例も口語的な文脈において生起している.7例中3例が mayn't you?, mayn't it?, mayn't there といった付加疑問のなかで現われており,一応は使用されていることがわかるが,1億語規模のコーパスでこれだけの例数ということは,やはり事実上の不使用といってよいだろう.
can't や mightn't との平行性を断ち切り,かつ付加疑問におけるそのぎこちなさを甘受してまでも mayn't の使用は避けるというこの状況は,いったいどのように理解すればよいのだろうか.歴史的に何か解明できるのだろうか.歴史的な事情について,明日の記事で考察したい.
・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.
現代英語で but は多義語の1つである.用法が非常に多く,品詞だけみても接続詞,前置詞,代名詞,副詞,名詞,動詞までと範囲が広い.このなかで副詞としての用法に注目したい.文語において only の意味で用いられる but がある.例文を挙げよう.
・ He is but a child.
・ There is but one answer to your question.
・ There were a lot of famous people there: Tom Hanks and Julia Roberts, to name but two.
・ I heard it but now.
・ I don't think we'll manage it. Still, we can but try.
but のこの意味・用法は歴史的にはどこから来たのだろうか.考えてみれば,He is but a child. という文は He is nothing but a child. とも言い換えられる.後者では but は「?を除いて」の意の前置詞と分析され全体としては否定構造となるが,前者の肯定構造と事実上同義となるのは一見すると不思議である.しかし,歴史的には only の意味の but は,まさに nothing but のような否定構造から否定辞が脱落することによって生じたのである.短縮あるいは省略の事例である.Stern (264) は次のように述べている.
In English, an original ne--butan has been shortened to but: we nabbað her buton fif hlafas and twegen fiscas > we have here but five loafs and two fishes (Horn, Sprachkörper 90), he nis but a child > he is but a child (NED but 6). The immediate cause of the omission of the negation is not quite certain. It is not impossible that influence from other uses of but may have intervened.
OED の but, prep., adv., conj., n.3, adj., and pron. の語義6aにも同趣旨の記述が見られる.
By the omission of the negative accompanying the preceding verb . . ., but passes into the adverbial sense of: Nought but, no more than, only, merely. (Thus the earlier 'he nis but a child' is now 'he is but a child'; here north. dialects use nobbut prep., conj., and adv. = nought but, not but, 'he is nobbut a child'.)
なお,OED ではLangland (1393) がこの用法の初例となっているが,MED の but (conj. (also quasi adj., adv., and prep.)) 2a によれば,13世紀の The Owl and the Nightingale より例が見られる.
短縮・省略現象としては,ne butan > but の変化は,"negative cycle" として有名なフランス語の ne . . . pas > pas の変化とも類似する.pas は本来「一歩」 (pace) ほどの意味で,直接に否定の意味を担当していた ne と共起して否定を強める働きをしていたが,ne が弱まって失われた結果,pas それ自体が否定の意味を獲得してしまったものである(口語における Ce n'est pas possible. > C'est pas possible. の変化を参照).この pas の経た変化は,本来の意味を失い,否定の意味を獲得したという変化であるから,「#1586. 再分析の下位区分」 ([2013-08-30-1]) で示した Croft の術語でいえば "metanalysis" の例といえそうだ.
確かに,いずれももともと共起していた否定辞が脱落する過程で,否定の意味を獲得したという点では共通しており,統語的な短縮・省略の例であると当時に,意味の観点からは意味の転送 (meaning transfer) とか感染 (contagion) の例とも呼ぶことができそうだ.しかし,but と pas のケースでは,細部において違いがある.前田 (115) から引用しよう(原文の圏点は,ここでは太字にしてある).
ne + pas では,否定辞 ne の意味が pas の本来の意味〈一歩〉と完全に置き換えられたのに対して,この but の発達では,butan の意味はそのまま保持され,そのうえに ne の意味が重畳されている.この例に関して興味深いのは,否定辞 ne は音声的に消えてしまったのに,意味だけがなおも亡霊のように残っている点である.つまり,この but の用法では,省略された要素の意味が重畳されているぶん,but の他の用法に比べて意味が複雑になっている.
したがって,but の経た変化は,Croft のいう "metanalysis" には厳密に当てはまらないように見える.前田は,but の経た変化を,感染 (contagion) ではなく短縮的感染 (contractive contagion) と表現し,pas の変化とは区別している.なお,Stern はいずれのケースも意味変化の類型のなかの Shortening (より細かくは Clipping)の例として挙げている(「#1873. Stern による意味変化の7分類」 ([2014-06-13-1]) を参照).
・ Stern, Gustaf. Meaning and Change of Meaning. Bloomington: Indiana UP, 1931.
・ 前田 満 「意味変化」『意味論』(中野弘三(編)) 朝倉書店,2012年,106--33頁.
否定の no は,Have you ever been to Kyoto? に対する No, I haven't. のような返答において,単独で副詞として用いられる.しかし,それ以外の多くの用例により,no は典型的には形容詞として認識されている.文否定の形容詞として,I have no money on me., He is no fool., Let there be no talking in class. のように用いられるほか,語否定の形容詞として No news is good news., The owl can see with no light., No homework, no TV., No objection. のようにも用いられる.
しかし,応答の no 意外にも副詞の no 用法は存在する.比較級や叙述形容詞に前置される例,また whether or no などという例がそれである.いくつか例文を挙げよう.
・ The sick man is no better.
・ You're no longer young.
・ I can walk no further.
・ There were no more than two books on the desk.
・ Their way of life is no different from ours.
・ I am no good at tennis.
・ I don't know whether it's true or no.
・ Rain or no, I have to leave tomorrow.
比較級との構造としては no + the + less が1語になった natheless /ˈneɪθləs, ˈnæθləs/ (cf. nonetheless, nevertheless) も同類である.最後の2つの例文の . . . or no は,現代標準英語では格式張った言い方で,通常は . . . or not で代用する.ほかに We had no little rain. (雨が少ないどころではなかった)における no も,形容詞 little を否定する副詞と解釈できるだろう.
上記の形容詞の no と副詞の no は,用法こそ異なれ,辞書でも通常は同じ語彙項目のもとに記述されている.しかし,語源的には両者は区別される.形容詞の no は,古英語の形態でいえば,否定の副詞 ne (not) と数詞 ān (one, a(n)) を合わせた複合語である.不定冠詞の a(n) や所有形容詞の my/mine と平行的な音韻発達により,後続する語頭音が母音や h の場合には -n が保持されたが,子音の場合には -n が脱落した.語幹母音は古英語の ā が,中英語の南部・中部方言で ō へと発達したものが,後の標準的な形態に反映している.語源的には数詞であるから,この系統の no は基本的に形容詞である.
一方,現代英語の副詞の no は,古英語の語形成としては,否定の副詞 ne (not) と副詞 ā (ever, always, aye) の複合語であり,意味と機能においては never とほぼ同じである.形態的には形容詞の no と合流し,さらに機能的に none も巻き込んで三人四脚で発展してきた.
この流れのなかで,副詞としての none も後期古英語から発展し,主として比較級と構造をなす nanmore, non lengere, none the less や,He went to college but is none the better for it.(彼は大学へ行ったが,何の役にも立たなかった)などの用法が現われてきた.
(後記 2022/10/02(Sun):この話題は 2021/06/18 に Voicy 「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」にて「#17. 形容詞と副詞の no は別語源!」として取り上げました.以下よりどうぞ.)
標題は英語で "polarization hypothesis" と呼ばれる.児馬先生の著書で初めて知ったものである.昨日の記事「#1572. なぜ言語変化はS字曲線を描くと考えられるのか」 ([2013-08-16-1]) および「#1569. 語彙拡散のS字曲線への批判 (2)」 ([2013-08-13-1]) などで言語変化の進行パターンについて議論してきたが,S字曲線と分極の仮説は親和性が高い.
分極の仮説は,生成文法やそれに基づく言語習得の枠組みからみた言語変化の進行に関する仮説である.それによると,文法規則には大規則 (major rule) と小規則 (minor rule) が区別されるという.大規則は,ある範疇の大部分の項目について適用される規則であり,少数の例外的な項目(典型的には語彙項目)には例外であるという印がつけられており,個別に処理される.一方,小規則は,少数の印をつけられた項目にのみ適用される規則であり,それ以外の大多数の項目には適用されない.両者の差異を際立たせて言い換えれば,大規則には原則として適用されるが少数の適用されない例外があり,小規則には原則として適用されないが少数の適用される例外がある,ということになる.共通点は,例外項目の数が少ないことである.分極の仮説が予想するのは,言語の規則は例外項目の少ない大規則か小規則のいずれかであり,例外項目の多い「中規則」はありえないということだ.習得の観点からも,例外のあまりに多い中規則(もはや規則と呼べないかもしれない)が非効率的であることは明らかであり,分極の仮説に合理性はある.
分極の仮説と言語変化との関係を示すのに,迂言的 do ( do-periphrasis ) による否定構造の発達を挙げよう.「#486. 迂言的 do の発達」 ([2010-08-26-1]) ほかの記事で触れた話題だが,古英語や中英語では否定構文を作るには定動詞の後に not などの否定辞を置くだけで済んだ(否定辞配置,neg-placement)が,初期近代英語で do による否定構造が発達してきた.do 否定への移行の過程についてよく知られているのは,know, doubt, care など少数の動詞はこの移行に対して最後まで抵抗し,I know not などの構造を続けていたことである.
さて,古英語や中英語では否定辞配置が大規則だったが,近代英語では do 否定に置き換えられ,一部の動詞を例外としてもつ小規則へと変わった.do 否定の観点からみれば,発達し始めた16世紀には,少数の動詞が関与するにすぎない小規則だったが,17世紀後半には少数の例外をもつ大規則へと変わった.否定辞配置の衰退と do 否定の発達をグラフに描くと,中間段階に著しく急速な変化を示す(逆)S字曲線となる.
語彙拡散と分極の仮説は,理論の出所がまるで異なるにもかかわらず,S字曲線という点で一致を見るというのがおもしろい.
合わせて,分極の仮説の関連論文として園田の「分極の仮説と助動詞doの発達の一側面」を読んだ.園田は,分極の仮説を,生成理論の応用として通時的な問題を扱う際の補助理論と位置づけている.
・ 児馬 修 『ファンダメンタル英語史』 ひつじ書房,1996年.111--12頁.
・ 園田 勝英 「分極の仮説と助動詞doの発達の一側面」『The Northern Review (北海道大学)』,第12巻,1984年,47--57頁.
「#1361. なぜ言語には男女差があるのか --- 征服説」 ([2013-01-17-1]) 及び「#1362. なぜ言語には男女差があるのか --- タブー説」 ([2013-01-18-1]) に引き続き,Trudgill の最も有望とみる仮説を紹介する.英語圏で行なわれた多くの社会言語学調査によれば,女性は男性に比べてより標準的な変種を好むという傾向がみられる.
1例として,Detroit で行なわれた多重否定 (multiple negation) の調査を挙げる.一般に,現代英語において I don't wanna none のような多重否定は非標準的な語法とされる(「#549. 多重否定の効用」 ([2010-10-28-1]) ,「#988. Don't drink more pints of beer than you can help. (2)」 ([2012-01-10-1]) を参照).階級別では,上流階級ほど標準的な語法を選択するために多重否定が避けられるだろうと予想され,実際にその通りなのだが,同一階級内で比べると,女性のほうが男性よりも多重否定が避けられる傾向が明らかに見られた.Trudgill (70) より,多重否定の使用率を再現しよう.
Upper Middle Class | Lower Middle Class | Upper Working Class | Lower Working Class | |
---|---|---|---|---|
Male | 6.3 | 32.4 | 40.0 | 90.1 |
Female | 0.0 | 1.4 | 35.6 | 58.9 |
Upper Middle Class | Lower Middle Class | Upper Working Class | Lower Working Class | |
---|---|---|---|---|
Male | 66.7 | 52.5 | 20.0 | 25.0 |
Female | 90.0 | 70.0 | 44.2 | 31.7 |
Middle Middle Class | Lower Middle Class | Upper Working Class | Middle Working Class | Lower Working Class | |
---|---|---|---|---|---|
Male | 4 | 27 | 81 | 91 | 100 |
Female | 0 | 3 | 68 | 81 | 97 |
Cheshire (115) を読んでいて,現代英語に関する記述として,会話において否定形が多く使われるという言及に遭遇した.直感的には確かにそのように思われるが,客観的な裏付けはあるのだろうかと,LGSWE に当たってみた.すると,関連する記述が pp. 159--60 に見つかった.
否定形にも様々な種類があるが,4つの使用域のそれぞれについて,コーパスを用いて "Distribution of not/n't v. other negative forms" を調査した結果が示されていた.100万語当たりの生起数を,グラフと表で示そう.
not/n't | other negative forms | |
---|---|---|
CONV | 19500 | 2500 |
FICT | 9500 | 4000 |
NEWS | 4500 | 2000 |
ACAD | 3500 | 1500 |
昨日の記事「#1246. 英語の標準化と規範主義の関係」 ([2012-09-24-1]) で,英語の標準化は無意識の自然な過程であるとする Hope の見解を紹介した.しかし,Hope はあえてその見解と矛盾する,英語の標準化にまつわる不自然さをも同時に指摘している.標準化の過程そのものは人々の「自然」で「言語内的」な営みなのだが,その結果としての標準英語は言語類型論的には最もありそうにない「不自然な」変種であるという.Hope (52--53) は,例として4点を挙げている.
(1) 3単現の -s の保持.類型的には最も保持されにくいスロットに屈折語尾が残っている.フィンランド語など,高度に総合的な言語でもこのスロットでは無標形式が用いられる.
(2) 不均衡な人称代名詞体系(下表参照).中英語 ([2009-10-25-1]),初期近代英語,現代の諸方言では,よりきれいな体系がみられる.(cf. thou / you, you / youse, you / you-all; [2010-10-08-1]の記事「#529. 現代非標準変種の2人称複数代名詞」を参照.)
singular | I | she / he / it |
singular / plural | you | |
plural | we | they |
Thus, in each case, Standard English arrives at a typologically unusual structure, while non-standard English dialects follow the path of linguistic naturalness. One explanation for this might be that as speakers make the choices that will result in standardisation, they unconsciously tend towards more complex structures, because of their sense of the prestige and difference of formal written language. Standard English would then become a 'deliberately' difficult language, constructed, albeit unconsciously, from elements that go against linguistic naturalness, and which would not survive in a 'natural' linguistic environment.
人々は標準化を目指す無意識の過程のなかで,類型論的にはあり得なさそうな,より不自然な言語的選択をなすのだという.結果として,学ぶのに難しく,それだけ教える側にとっては教え甲斐のある(教えるのに都合のよい)言語体系ができあがり,そこから,努力して学んだ者は偉いという風潮,すなわち規範主義が生まれのだという.
確かに,上に挙げられた文法項目は,類型論的にありそうにないもののように思われる.しかし,反論するとすれば,どの言語も類型的にありやすい文法項目ばかりで構成されているわけではなく,個々の項目をみれば平均からの逸脱はいくらでもあるだろう.むしろ,そのような逸脱があってはじめて類型論という考え方も生まれるはずだ.そうだとしても,Hope の「集団的無意識の選択によるひねくれ」論は含蓄がある.昨日の記事[2012-09-24-1]では標準化と規範主義の峻別を強調したが,実際のところ,両者の関係は入り組んでいるだろう.
・ Hope, Jonathan. "Rats, Bats, Sparrows and Dogs: Biology, Linguistics and the Nature of Standard English." The Development of Standard English, 1300--1800. Ed. Laura Wright. Cambridge: CUP, 2000. 49--56.
昨日の記事「#1245. 複合的な選択の過程としての書きことば標準英語の発展」 ([2012-09-23-1]) で,標準英語の発展は不特定多数の人々による言語的選択 (selections) の過程であるとする Hope の意見を要約した.では,この選択とは意識的なものなのか無意識的なものなのか.不自然なのか自然なのか.通常,個人の選択は意識的であり不自然であるともいえるが,不特定多数による選択となると無意識的であり自然であるともいえる.
Hope は,標準英語発展のもつ,このアンビバレントな特徴について,次のように考えている.標準化の過程は,人々の集団の無意識的な言語観に駆動される "a 'natural' linguistic process" あるいは "a language-internal phenomenon" (51) である.これは,しばしば標準化と一緒くたに扱われるが,実は対照をなしている規範主義というものが "language-external: a cultural, ideological phenomenon" (52) であるのと対比される.一般に社会言語学的な話題であると考えられている言語の標準化を "natural" や "language-internal" とみなすのは議論の余地があるだろうが,規範主義と区別する上では,鋭い分析ではないか.(集団的無意識という説明は,Keller の言語変化における「見えざる手」の議論を強く想起させる.invisible_hand の各記事を参照.)
Hope (50) は,英語の標準化と規範主義の関係を,前者が後者に先立つ関係であると明言する.
One of the paradoxes of the relationship between standardisation and prescriptivism is that prescriptivism always follows, rather than precedes, standardisation. It is therefore wrong to see prescriptivism as the ideological wing of standardisation: standardisation can be initiated, and can run virtually to completion (as in the case of English in the early seventeenth century), in the absence of prescriptivist comment. In fact, it is arguable that prescriptivism is impossible until standardisation has done most of its work --- since it is only in a a relatively standardised context that some language users become conscious of, and resistant to, variation.
18世紀の規範文法で指摘されている数々の規則(例えば,多重否定の禁止)は,すでにある程度慣用として標準化していたからこそ指摘し得たのであって,しばしば誤解されているように,規範文法家の独断と偏見だったわけでは必ずしもない.この誤解は,標準化と規範主義を混同している,あるいは同時に作用したもの間違えてとらえていることによる.標準化と規範主義という2つの過程を区別し,両者の関係を正しく認識することが重要である.
・ Hope, Jonathan. "Rats, Bats, Sparrows and Dogs: Biology, Linguistics and the Nature of Standard English." The Development of Standard English, 1300--1800. Ed. Laura Wright. Cambridge: CUP, 2000. 49--56.
・ Keller, Rudi. On Language Change: The Invisible Hand in Language. Trans. Brigitte Nerlich. London and New York: Routledge, 1994.
現代英語には so ... that や if ... then や both ... and をはじめとして,様々な相関構文が用意されている.接続詞どうし,あるいは接続詞と指示副詞が対になって,構造をなすものだ.
このような相関構文は古英語より盛んであり,[2011-07-18-1]の記事「#812. The sooner the better」で示したように,当時は対をなす両方の語が同形であるものが少なくなかった (ex. þā ... þā "when ..., (then)",þǣr ... þǣr "where ..., (there)", ge ... ge "both ... and", ne ... ne "neither ... nor") .その記事で,同じ語を両側に用いる相関構文で現在にまで残っているのは The sooner ... the better のタイプくらいではないかと述べたが,そんなことはなかった.
すぐに思いつくものとして as ... as がある.これには,[2011-03-21-1]の記事「#693. as, so, also」で見たように,so ... so などのヴァリエーションもあった.
そして,もう1つはかなり珍しく古めかしいが,標題に掲げた nor ... nor なる構文がある.neither ... nor と同義で,近現代から次のような例文がみつかる.
・ Nor silver nor gold can buy it. (金銭であがないえない.)
・ Nor he nor I was there. (彼も私もそこにいなかった.)
・ I nor fear her frown nor trust her smile. (彼女の不機嫌を恐れはしないし,また彼女のほほえみを信用もしない.)
・ Nor heaven nor earth have been at peace to-night. (今夜は天も地も平和ではなかった (Shak., Caesar 2.2.1).)
一見すると,古英語 ne ... ne と似ており,同じくらい古い表現なのだろうかと疑ってしまうが,先行する別の否定辞を伴わない用法としては近代に入ってからである.OED "nor", conj.1 2. b. に "Introducing both alternatives" Chiefly poet. とあり,初例は1576年だ.本来は ne などが先行しており,否定文だということが示されている統語的文脈でしか,nor ... nor が現われなかったものである.なお,この ne が先行している文脈での nor ... nor の構文は,初期中英語から現在にまで連綿と続いている.中英語では,MED "nor" (conj.) に例文があるし,現代英語では They did not wait for you, nor for me, nor for anybody. などの例がある.
したがって,nor ... nor 単独で相関構文をなす用法は,古英語にまで遡るわけではないが,現代英語に残る,唯一とはいわずとも数少ない同形繰り返しによる相関構文の1つといえるだろう.ただし,これは,従属相関構文をなす他例と異なり,等位相関構文である.これを認めるのであれば,[2011-07-12-1]の記事で扱った what with A and what with B も認めることになろうか.
昨日の記事 ([2012-01-09-1]) で取り上げた構文について,議論の続きを.
論理的には誤っている同構文が現代英語で許容されている背景として,昨日は,語用論的,統語意味論的な要因を挙げた.だが,この構文を許すもう1つの重要な要因として,規範上の要因があるのではないか,という細江 (148--49) の議論を紹介したい.それは,多重否定 (multiple negation; [2010-10-28-1]) を悪とする規範文法観である.
18世紀に下地ができ,現在にまで強い影響力を及ぼし続けている規範英文法の諸項目のなかでも,多重否定の禁止という項目は,とかくよく知られている.典型的には2重否定がよく問題となり,1度の否定で足りるところに2つの否定辞を含めてしまうという構文である (ex. I didn't say nothing.) .多重否定を禁止する規範文法が勢力をもった結果,現代英語では否定辞は1つで十分という「信仰」が現われた.しかし,2つの否定辞が,異なる節に現われるなど,互いに意味的に連絡していない場合には,打ち消し合うこともなく,それぞれが独立して否定の意味に貢献しているはずなのだが,そのような場合ですら「信仰」は否定辞1つの原則を強要する.ここに,*Don't drink more pints of beer than you cannot help. が忌避された原因があるのではないか.細江 (148) は「この打ち消しを一度しか用いないとのことがあまりに過度に勢力を加えた結果,場合によってはぜひなくてはならない打ち消しがなくなって,不合理な文さえ生ずるに至った」と述べている.
歴史的にみれば,cannot help doing のイディオムは近代に入ってからのもので,OED の "help", v. 11. b. によれば,動名詞を従える例は1711年が最初のものである.興味深いことに,11. c. では,問題の構文が次のように取り上げられている.
c. Idiomatically with negative omitted (can for cannot), after a negative expressed or implied.
1862 WHATELY in Gd. Words Aug. 496 In colloquial language it is common to hear persons say, 'I won't do so-and-so more than I can help', meaning, more than I can not help. 1864 J. H. NEWMAN Apol. 25 Your name shall occur again as little as I can help, in the course of these pages. 1879 SPURGEON Serm. XXV. 250, I did not trouble myself more than I could help. 1885 EDNA LYALL In Golden Days III. xv. 316, I do not believe we shall be at the court more than can be helped.
OED は,同構文は論理的に難ありとしながらも,19世紀半ば以降,慣用となってきたことを示唆している.規範文法の普及のタイミングとの関連で,意味深長だ.
現代規範英文法はしばしば合理主義を標榜しながらも,このように不合理な横顔をたまにのぞかせるのがおもしろい.統語意味論的,論理的な観点から議論するのもおもしろいが,やはり語用論的,歴史的な観点のほうに,私は興味をそそられる.
規範文法における多重否定の扱いについては,[2009-08-29-1]の記事「#124. 受験英語の文法問題の起源」や[2010-02-22-1]の記事「#301. 誤用とされる英語の語法 Top 10」を参照.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
cannot help doing は,「?することが避けられない」を原義とし,「?せずにはいられない,?するのは仕方がない」を意味する慣用表現である.cannot but do としても同義.日本人には比較的使いやすい表現だが,標題のように比較の文において than 節のなかで現われる同構文には注意が必要である.
先に類例を挙げておこう.BNCWeb により "(more (_AJ0 | _AV0)? | _AJC) * than * (can|could) (_XX0)? help" で検索すると,関連する例が8件ヒットした.ほぼ同じ表現は削除して,整理した6例を示そう.
・ . . . the Commander struck out for the shore in a strong breaststroke that did not disturb the phosphorescence more than he could help . . . .
・ I'm not putting money in the pocket of the bloody Hamiltons more than I can help.
・ "Don't be more stupid than you can help, Greg!"
・ Resolutely, and determined to think no more than she could help about it . . . .
・ And I won't spend more than I can help.
・ "We'll do our best; we won't get in your way more than we can help."
さて,この構文の問題は,意図されている意味と統語上の論理が食い違っている点にある.例えば,毎日どうしてもビール3杯は飲まずにいられない人に対してこの命令文を発すると「3杯までは許す,だが4杯は飲むな」という趣旨となるだろう(ここでは話しをわかりやすくするために杯数は自然数とする).少なくとも,それが発話者の意図であると考えられる.しかし,論理的に考えると,you can help と肯定であるから,この量は,何とか飲まずにこらえられるぎりぎりの量,4杯を指すはずだ.これより多くは飲むなということだから,「4杯までは許す,だが5杯は飲むな」となってしまう.つまり,発話者の意図と統語上の意味とが食い違ってしまう.あくまで論理的にいうのであれば,*Don't drink more pints of beer than you cannot help. となるはずだが,この種の構文は BNCWeb でも文証されない.
理屈で言えば上記のようになるが,後者の意図で当該の文を発する機会はほとんどないと想像され,語用的に混乱が生じることはないだろう.また,[2011-12-03-1]の記事「#950. Be it never so humble, there's no place like home. (3)」で見たように,肯定でも否定でも意味が変わらないという,にわかには信じられないような統語構造が確かに存在する.とすると,標題の統語構造が許容される語用論的,統語意味論的な余地はあるということになる.
ちなみに,標記の文は今年の私の標語の1つである.ただし,その論理については……できるだけ広く解釈しておきたい.
##948,949,950,951 の記事で,厳密に論理的には説明のつけられない譲歩表現 Be it never so humble (= "no matter how humble it is") について触れた.中英語ではごく普通に見られる表現で,つい最近も The Owl and the Nightingale にて例に出くわした.しかし,その例では,ただでさえ解釈の困難な譲歩表現が複雑な統語的文脈のなかで現われており,全体として極めて難解な読みの問題となっている.
Atkins 版から,C と J テキストの ll. 341--48 を再現しよう.
(C text)
341: Eurich murȝþe mai so longe ileste
342: þat ho shal liki wel unwreste:
343: vor harpe, 7 pipe, 7 fuȝeles [song]
344: mislikeþ, ȝif hit is to long.
345: Ne bo þe song neuer so murie,
346: þat he ne shal þinche wel unmurie
347: ȝef he ilesteþ ouer unwille:
348: so þu miȝt þine song aspille.
(J text)
341: Eurych mureþe may so longe leste,
342: Þat heo schal liki wel vnwreste:
343: For harpe, 7 pipe, 7 foweles song
344: Mislikeþ, if hit is to long.
345: Ne beo þe song ne so murie,
346: Þat he ne sal þinche vnmurie
347: If he ilesteþ ouer vnwille:
348: So þu myht þi song aspille.
問題は,ll. 345--48 の構文である.Atkins は,p. 32fn にてこの譲歩表現について次のように説明を与えている.
345. neuer so murie. Instance of an irrational negative in a concessive clause---a construction found in O.E. and other Teutonic languages (see W. E. Collinson, M.L.R. x. 3, pp. 349--65) as well as occasionally in A.-Norman, where it is apparently due to English influence (see J. Vising, M.L.R. XI. 2, pp. 219--21): cf. A.S. Chron. (1087), nan man ne dorste slean oðerne man, næfde he næfre swa mycel yfel gedon.
この箇所の Atkins の解釈については,l. 346 の ne は redundant と解されると述べていることから,"No matter how merry the song may be, it shall seem very unmerry if it lasts . . ." と読んでいることが想像される.だが,この場合 l. 346 の行頭の þat の役割を無視していることになり,その説明が欠けている.
Cartlidge も,ne と unmurie で合わせて "unmerry" として解釈しており,þat についても無言であるから,Atkins の読みに近いと考えられる.Cartlidge の与えている現代英語訳は,"No matter how merry the song might be, it won't seem at all amusing if it lasts too long, undesirably, . . ." (10) である.
þat の問題を解決しようとしている読みに,Stanley (114) がある.
345ff. The construction is difficult. Perhaps translate (assuming ellipsis), 'However joyous the song may be, it is never so joyous that it will not seem very miserable if it. . . .' he in lines 346f refers to song, a masc. n.
この読みでは,ne は redundant ではなく,þat は主節部の省略された so . . . that 構文の þat だと説明されている.Burrow and Turville-Petre (94) もこの読みに従っている.
345--6 The logic of these lines requires their expansion: 'However delightful the song may be, (it will never be so delightful) that it will not seem very tiresome.'
筆者としては,þat 問題を解決している Stanley 派の読みに賛成である.譲歩表現中の so が,本来続くはずだった so . . . that 構文の so と重なり合い,妙な構文として現われたということではないか.繰り返し現われる否定辞によって論理がほぼ解読不能の域に達しているが,so . . . that 構文の主節部の省略,あるいはより適切には syntactic contamination ([2011-05-04-1]の記事「#737. 構文の contamination」を参照)としてであれば,理解可能になる.
・ Atkins, J. W. H., ed. The Owl and the Nightingale. New York: Russel & Russel, 1971. 1922.
・ Cartlidge, Neil, ed. The Owl and the Nightingale. Exeter: U of Exeter P, 2001.
・ Stanley, Eric Gerald, ed. The Owl and the Nightingale. Manchester: Manchester UP, 1972.
・ Burrow, J. A. and Thorlac Turville-Petre, eds. A Book of Middle English. 3rd ed. Malden, MA: Blackwell, 2005.
##948,949,950 の記事で,一見すると論理の通らない譲歩構文について取り上げてきた.この問題を考えるきっかけとなったのは,Chaucer の The Parson's Tale (l. 90) に,この構文を用いた次の文が現われたことである(Riverside版より引用).
But nathelees, men shal hope that every tyme that man falleth, be it never so ofte, that he may arise thurgh Penitence, if he have grace; but certeinly it is greet doute.
複数人で日本語訳書を参照しながらこの箇所を読んでいたのだが,すんでのところで「それほど度々ではないとしても」という解釈で素通りしてしまうところだった.ここは,むしろ「たとえ度々であったとしても」が適切な訳である.訳書の間でも解釈に相違が見られたので,この構文を詳しく調べてみようと思った次第である.
かくしてこの問題は一件落着となった.一通り調べた後で,中英語における当該表現の使用について Mustanoja を参照し忘れていたことに気づき,早速見てみると,pp. 321--22 に以下の記述があった.
Never so, indicating an unlimited degree or amount, has been used in concessive clauses since the end of the OE period. It is not uncommon in ME texts: --- were he never knight so strong (Havelok 80); --- be he never so vicious withinne (Ch. CT D WB 943). Parallel expressions have been recorded in some other Germanic languages, particularly in High and Low German, where nie sô is used in the same way as never so from the earliest times down to the close of the Middle Ages. . . . The corresponding affirmative forms ever so is modern English.
ゲルマン諸語のほかフランス語やアングロ・ノルマン語にも相当する表現があったという.虚辞 (expletive) として否定辞を加える感覚は,英語だけのものではなかったということになる.
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
[2011-12-01-1], [2011-12-02-1]の記事で議論してきた,譲歩表現 never so (= ever so) の問題を続ける.
never so と ever so がほぼ同義であるということは一見すると理解しがたいが,nonassertion の統語意味的環境では,対立が中和することがある( nonassertion については[2011-03-07-1]と[2011-03-08-1]の記事を参照).例えば,Quirk et al. (Section 8.112 [p. 601]) は次のように言及し,例文を挙げている.
In nonassertive clauses ever (with some retention of temporal meaning) can replace never as minimizer; this is common, for instance, in rhetorical questions:
Will they (n)ever stop talking? Won't they ever learn? (*Won't they never learn?)
I wondered if the train would (n)ever arrive.
最後の例文にあるように,動詞 wonder に続く if 節内では,肯定と否定の対立が中和されることが多い.節内が統語的に肯定であれば文全体に否定の含意が生じ,統語的に否定であれば肯定の含意が生じるともされるが,意味上の混同は免れない.wonder は「よくわからない」を含意するのであるから,結局のところ,続く if 節,whether 節は nonassertion の性質を帯びるということだろう.
・ He was beginning to wonder whether Gertrud was (not) there at all.
・ He's starting to wonder whether he did (not) the right thing in accepting this job.
・ I wonder if he is (not) over fifty.
・ I wonder if I'll (not) recognize him after all these years.
・ I wonder whether it was (not) wise to let her travel alone.
ここで,be it never so humble と be it ever so humble の問題に戻ろう.条件節としての用法であるから,nonassertion の性質を帯びていることは間違いない.論理的には「どんなにみすぼらしくとも」という譲歩の意味に対応するのは be it ever so humble という統語表現だが,日本語でも「どんなにみすぼらしかろうが,なかろうが」と否定表現を付加することができるように,英語でも or never の気持ちが付加されたとしても不思議はない.英語では,or により選言的に否定が付加されるというよりは,否定によって肯定が完全に置換された結果として be it never so humble が生じたのではないか.
言い換えれば,never の否定接頭辞 n(e)- は,統語意味論で 虚辞 (expletive) と呼ばれているものに近い.
・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.
昨日の記事[2011-12-01-1]の続編.be it never so humble という表現で,なぜ「どんなにみすぼらしくとも」 (= "no matter how humble it may be") の意味が生じるのかについて,疑問を呈した.
この問題を考えるに当たって,『新英和大辞典第6版』で never so の同用法について ever so と同義であるという記述があること,OED の対応する記述に "(Cf. EVER 9b.)" とあることが注目に値する.OED の ever の項を見てみると,次のようにある.
ever so: prefixed in hypothetical sentences to adjs. or advbs., with the sense 'in any conceivable degree'. Sometimes ellipt. = 'ever so much'; also dial. in phrases like were it ever so, = 'however great the need might be'. Similarly, ever such (a).
This expression has been substituted, from a notion of logical propriety, for never so, which in literary use appears to be much older, and still occurs arch., though app. not now known in dialects. See NEVER.
つまり,驚くことに be it never so humble と be it ever so humble は同義ということになる.ever を用いた統語表現の初例は1690年で,never のものより5世紀半以上も遅れての出現だ.現代英語にも例はある.if I were ever so rich や Home is home, be it ever so humble などがあり,確かに never と ever は交替可能である.また,BNCWeb で "be it never so" を検索すると,6例のみではあるが得られた.その中から文脈の比較的わかりやすかった3例を挙げよう.
・ In a field that is patchy in space and time, be it ever so small, we may expect that the populations of a species such as white clover will, at any time, reflect selective forces from its past.
・ If the cause is a self-replicating entity, the effect, be it ever so distant and indirect, can be subject to natural selection.
・ . . . each had his or her part to play, be it ever so humble.
never so と ever so が交替可能であるというところまでは明らかになったが,では,なぜそうなのか.上の OED からの引用文の2段落目に,疑問を解く鍵が隠されているように思える.論理的には ever so のように肯定の強めでないと妙である,と昨日の記事でも触れたが,同じ感覚は OED の編者にも共有されていたことが "substituted, from a notion of logical propriety" からわかる.never so は論理的には適切に説明づけられないということになれば,では,なぜこの表現が生まれ得たのか.事実としては,より古くに生まれ,特に中英語では盛んに用いられたのであるから,やはり謎は謎のままである.
しかし,ever so と never so のほかにも,論理的には相反するはずの肯定版と否定版が,ほぼ同義となる統語的文脈というものが存在する.明日の記事で,改めてこの問題に迫ろう.
標記の文のような,譲歩を表わす特殊な表現が現代英語にある.前半部分が "however humble" あるいは "no matter how humble" ほどの意味に相当する,仮定法現在を用いた倒置表現だ.倒置を含まずに,if や though を用いたり,仮定法過去を用いたりすることもある.OED の定義としては,"never" の語義4として以下のようにある.
never so, in conditional clauses, denoting an unlimited degree or amount.
以下に,辞書やコーパスから例文を挙げてみよう.
・ She would not marry him, though he were never so rich.
・ Some vigorous effort, though it carried never so much danger, ought to be made.
・ Were the critic never so much in the wrong, the author will have contrived to put him in the right.
・ 'I am at home, and that is everything.' Be it never so gloomy --- is there still a sofa covered with black velvet?
辞書では《古》とレーベルが貼られているし,BNCWeb で "be it never so" を検索するとヒットは7例のみである.いずれにせよ,頻度の高い表現ではない.
倒置や仮定法を用いるということであれば,古い英語ではより多く用いられたに違いない.実際に中英語ではよく使われた表現で,MED, "never" 2 (b) には幾多の例が挙げられている.定義は以下の通り.
(b) ~ so, with adj. or adv.: to whatever degree; extremely; ~ so muchel (mirie, hard, wel, etc.), no matter how much, however much, etc.; also with noun: if he be ~ so mi fo, however great an enemy he may be to me;
OED によると,この表現の初例は12世紀 Peterborough Chronicle の1086年の記事ということなので,相当に古い表現ではある.
Nan man ne dorste slean oðerne man, næfde he nævre swa mycel yfel ȝedon.
中英語最初期から現代英語まで長く使われてきた統語的イディオムだが,なぜ上記の意味が生じてくるのか理屈がよく分からない.否定の never と譲歩が合わされば,「たとえ?でないとしても」と実際とは裏返しの意味になりそうなところである.
意味の変化と規範的な語法には相反する力が作用しており,議論の対象になりやすい.近年の著名な例の1つに,標題の2語の使い分けに関する議論がある.
肯定形 interested には異なる2つの語義がある.いくつかの英英辞典を調べたなかでは,Merriam-Webster's Advanced Learner's English Dictionary (MWALED; see [2010-08-24-1], [2010-08-23-1]) による定義がこの区別を最も分かりやすく表わしていた.部分的に引用する.
1a. wanting to learn more about something or to become involved in something
???The listeners were all greatly/very interested in the lecture.???
2. having a direct or personal involvement in something
???The plan will have to be approved by all interested parties.???
日本語にすれば,前者は「興味をもっている」,後者は「利害関係のある」の区別となる.後者がより古い語義を表わすが,頻度としては前者のほうが圧倒的に高いだろう.1つの語が異なる複数の語義をもっていること自体は,英語でも他の言語でもまったく珍しいことではない.しかし,注目すべきは,英語では両語義に対応する否定が別々の語で表わされることである.規範的な語法に従えば,1a の語義「興味をもっている」の否定は uninterested で,2 の語義「利害関係のある」の否定は disinterested で表わされるとされる.それぞれの例文を示そう.
- He is completely uninterested in politics. (興味をもっていない)
- Her advice appeared to be disinterested. (利害関係のない,公平無私の)
ところが,2 の語義が比較的まれだからか,近年では disinterested が uninterested と同様に 1a の否定の語義「興味をもっていない」として用いられることが増えてきているという.保守的な評者は,かつては明確に存在した uninterested と disinterested の語義上の区別が失われかけている,あるいは disinterested が両義的になってしまったとして警鐘を鳴らしているが,この批判はどのくらい当を得ているだろうか.
第1に,disinterested の両義性について.もとより肯定形の interested は2つの異なる語義をもっており常に両義的だったが,両語義が区別されないで不合理だという批判は聞いたことがない.すでにある両義性には寛容でありながら,もともとあった区別が両義化してゆくことには厳格というのは,あまり筋が通っているとはいえない.
第2に,「興味をもっていない」の語義を新しく獲得した disinterested は uninterested と完全な同義ではなく,しばしば強意を込めた「まるで興味をもっていない」の意味で interested とは使い分けられるとされる.この場合,両語の使い分けによって,かつては不可能だった興味のなさの度合いの標示が可能になったということであり,あらたな区別が獲得されたことになる.
第3に,従来は,「興味をもっていないこと,無関心」を意味する対応する1語の名詞形が存在しなかった.*uninterest という語は通常は用いられず,lack of interest などという迂言的表現で我慢するしかなかった.ところが,disinterest という語は「利害関係のないこと,公平無私」を意味する名詞として存在していたので,形容詞の意味変化と連動して,この同じ語が「無関心」の語義をも担当するようになった.「無関心」がずばり1語で表現できるようになったのは,問題の形容詞の意味変化ゆえと考えられる.
まとめれば,次のようになる.uninterested と disinterested にまつわる意味変化の結果として,保守的な評者のいうようにある区別が失われたことは確かである.しかし,その反面,従来は存在しなかった別の区別が獲得されたのも事実である.
規範的な辞書では,disinterested の新しい語義をいまだに正用とは認めていないようだ.言語が無常であることを考えれば「誤用」が正用化するのは時間の問題かもしれない.あるいは,話者の規範遵守の傾向が強ければ,少なくとも格式張った文脈では,誤用とのレッテルを貼られ続けるのかもしれない.私個人としてはどちらが望ましいか判断できないし,あえて判断しない.ただ,言語は無機的に変化してゆくのではなく,話者によって有機的に変化させられてゆくものだとは信じている.
以上の議論は Trudgill (2--5) に拠った.
・ Trudgill, Peter. "The Meaning of Words Should Not be Allowed to Vary or Change." Language Myths. Ed. Laurie Bauer and Peter Trudgill. London: Penguin, 1998. 1--8.
昨日の記事[2011-03-07-1]に引き続き,肯定平叙文 ( assertion ) と,否定文および疑問文 ( nonassertion ) の対立について.nonassertion には,否定平叙文 ( "He isn't honest." ) ,肯定疑問文 ( "Is he honest?" ) ,否定疑問文 ( "Isn't he honest?" ) の3種類の統語的な現われ方があるが,これらの関係はどのようになっているのだろうか.言い換えれば,nonassertion の内部はどのような体系をなしているのだろうか.3者の関係には3通りが考えられそうである.
(1) nonassertion = negative-statement and positive-question and negative-question
(2) nonassertion = ( ( negative and positive ) -question ) and negative-statement
(3) nonassertion = ( negative- ( statement and question ) ) and positive-question
どの選択肢がもっともスマートな答えかを考えるに当たって,昨日列挙した some / any や sometimes / ever などの assertive form と nonassertive form のペア語句を思い出したい.例えば somebody と anybody を考えると分かるが,関連語として nobody が思い浮かぶはずである.同様に sometimes / ever からは never が想起される.これらの語句は,2語からなる対立ではなく,3語からなる関係を示唆するのである.表で示すと以下のようになる.
assertive forms | some | somebody | something | sometimes |
nonassertive forms | any | anybody | anything | ever |
negative forms | no | nobody | nothing | never |
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