世界の言語における敬語(ここでは,狭い意味での,専門言語要素を用いた敬譲・丁寧表現を指す)の分類は様々になされているが,ネウストプニー氏による,相手敬語(対者敬語)と登場人物敬語(素材敬語)の2種類の分布による分類がある(南,pp. 34--36 参照.出典は,ネウストプニー,J. V. 「世界の敬語---敬語は日本語だけのものではない---」 『敬語講座8 世界の敬語』 林 四郎・南 不二男 編,明治書院,1974年.) .これは,一方で日本語のよく発達した敬語体系を,他方で中英語,現代フランス語,現代ドイツ語などにみられる T/V distinction などの比較的単純な敬語体系(実際の使い分けは精妙だが)を区別するのにも,ある程度は役に立つ分類である.
日本語は「○○がいらっしゃった」 (A),「○○がいらっしゃいました」 (B),「○○が来ました」 (C) ,さらにはそのいずれからも外れた「○○が来た」も含めて,素材敬語と対者敬語のありとあらゆる組み合わせが可能である.
一方,例えば現代フランス語では,Tu es vené venu (おまえは来た)と Vous êtes vené venu (あなたはいらっしゃった)といった対立が見られるものの,この T/V の対立は,聞き手に対して(対者),聞き手自身を指す2人称単数代名詞(素材)を用いる場合にしか生じない.Vous が素材敬語 (A) なのか対者敬語 (C) なのか,あるいは両者を兼ねているのか (B) は判然としないが,たとえ B だとしても,2人称単数代名詞に限られるという条件つきの敬語表現にすぎない.
英語では「#167. 世界の言語の T/V distinction」 ([2009-10-11-1]) や「#185. 英語史とドイツ語史における T/V distinction」 ([2009-10-29-1]) で見たように,近代英語期以降,T/V distinction すら失っており,現在ではこの図に関与すらしない.しかし,[2010-07-11-1]の記事「#440. 現代に残る敬称の you」で挙げたように Your Majesty のような称号は敬語表現として残っている.3人称単数として Her Majesty などとも言えるので,これは A や B に属する素材敬語の一種といえるだろう.
なお,世界の言語を見渡すと,A か C のいずれかの敬語タイプしかもたない言語はほとんどないという.
ネウストプニー氏の分類に代えて,南 (37) は「敬語的表現のための,多くの専用の言語要素を持ち,しかもそれがはっきりした組織をもっている」日本語型の言語と「敬語的表現のための専用言語要素を持たないか,持っていても数がすくなく,むしろ一般的な言語要素の用法に依存するか,あるいは非言語表現を用いる」非日本語型の言語とを区別することを提案している.
通言語的な敬語モデルに照らすと,日本語と英語が対蹠的であることは確かだ.
・ 南 不二男 『敬語』 岩波書店,1987年.
昨日の記事「#1002. this の不定指示形容詞としての用法」 ([2012-01-24-1]) に関連して,this の読みひとつをとっても奥が深いことを実感した.日本語の「こそあど」もそうだが,deixis の関与する語句の語用論は実に複雑だ.
指示形容詞としての this には,現代英語でも様々な用法がある.中英語ともなれば,語用論的な含意は,ますます直感的にはとらえにくくなるし,そもそも含意があることに気付くことすら難しい.今回は,Horobin (94--96) より,Chaucer に見られる語用論的に興味深い this の用法,2種をのぞいてみたい.
一つ目は,人物名詞や名前に先行して this が用いられる場合で,「例の,くだんの」ほどの意を表わし,機能としては定冠詞に近い.Mustanoja (174) によれば,定冠詞に近い this の用法は古英語から見られるもので,"mainly a feature of vivid, colloquial, and often chatty style" として Chaucer や Gower でよく見られるとしている(口語的であるという点が,昨日の this の特殊用法と比べられる).確かに,口語色の強い The Miller's Tale で,"This Absolon", "This parissh clerk, this amorous Absolon", "this joly lovere Absolon" など,登場人物の名前に添えて使われる例が目立つ.ほかには,The Knight's Tale で,2人の騎士 Palamon と Arcite の描写が節ごとに交互に繰り返される部分では,各節の冒頭に "This Palamon", "This Arcite" などと this を添えることで,当該の節がどちらの騎士についての描写なのかを明示する談話上の役割が確認される.いずれの場合にも,this は単に定 (definiteness) を表わすだけの機能にとどまらず,追加的に談話上の役割を担っている.
二つ目として,話者の "a contemptuous or patronizing attitude" (Horobin 96) を含意するという this の用法がある.以下は,語り手である Franklin が,主人公 Dorigen が夫の留守を嘆き悲しむ激しさを評して,「女というものは・・・」と,軽蔑交じりに述べている箇所である.
For his absence wepeth she and siketh,
As doon this noble wyves whan hem liketh. (F817--18)
類例として,同じく The Franklin's Tale より.
'Go we thanne soupe,' quod he, 'as for the beste.
Thise amorous folk somtyme moote han hir reste.' (F1217--18)
あたかも,いったん対象との心理的距離を縮め,身近に引きつけておいてから,突き放す(軽蔑する)という感じだろうか.両方の例で,this が共通して総称的に使われているのが気になるところだ.
Chaucer の上記の2用法と,昨日取り上げた現代英語の this の用法との関連は不明だが,口語性,話者の心理的な引きつけという点では漠然とつながりそうだ.広い意味で,this の deictic な働きは,中英語より連綿と受け継がれているといえるだろう.
・ Horobin, Simon. Chaucer's Language. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007. (esp. pp. 105--07.)
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
this の用法についての質問が寄せられた.NHKラジオ講座で,Tetsu と Joyce の次の会話が現われたという(赤字は引用者).
T: You're grinning from ear to ear, Joyce.
J: Tetsu, things are looking up!
T: Really? What's going on?
J: Remember that guy I was telling you about?
T: The new guy who works in your office?
J: Yes! He asked me out to dinner!
T: Excellent! Where's he taking you?
J: We're going to this unique hamburger joint.
T: But aren't you a pescetarian?
J: Not anymore!
8行目の Joyce の発話にある this がここでの問題である.ここでの文脈を考えても,ハンバーガー店は近辺にないようだ.また,かつてこの2人が行ったことがある店であるという様子でもない.また,このスキットは1回読み切りで,前後の回との関連もない.
結論からいえば,この this は,Joyce が念頭にある特定の「すごいハンバーガー屋さん」を内面化し,心理的距離が近いものとしてとらえているために発せられた this だろう.聞き手の Tetsu にとっては,具体的にどの店を指しているのかはわからないはずである.不定冠詞 a や,もっといえば a certain に近い用法だが,話者の内面化の事実が強調されている点で,勢いが感じられる.(この趣旨の読みで間違いないことは,英語母語話者の同僚に確認を取った.)
この用法は,通常,辞書にも記載されており,珍しくはないが,日本語母語話者には感覚がつかみにくい.各学習者英英辞書の記載を,用例とともに比べてみよう.
OALD8:
6 (informal) used when you are telling a story or telling sb about sth
・ There was this strange man sitting next to me on the plane.
・ I've been getting these pains in my chest.
LDOCE5:
(SPOKEN PHRASES)
6. used in stories, jokes etc when you mention a person or thing for the first time:
・ I met this really weird guy last night.
・ Suddenly, there was this tremendous bang.
LAAD2:
4. spoken used in conversation to mean a particular person or thing, especially when you do not know their name:
・ Then this girl came up and kissed him on the lips.
・ When am I going to meet this boyfriend of yours?
Macmillan English Dictionary for Advanced Learners, 2nd ed.:
9 used for referring to a particular person or thing SPOKEN used in a story or a joke when you mention a person or thing without giving a name
There was this big guy standing in the doorway.
MWALED:
5 --- used to introduce someone or something that has not been mentioned yet
<We both had this sudden urge to go shopping.>
笳?This sense of this is often used to produce excitement when telling a story.
<I was walking down the street when this dog starts chasing me. [=when a dog started chasing me]>
<Then these two guys come/came in and start asking her questions.>
最後の MWALED の記述がほかよりも丁寧だろうか.全体的に言えることは,口語のくだけた文脈で,いきいきした表現を生み出すために,この this が使われているようだ.「物語風の描写」「具体的な名前は挙げずに」「興奮して」という要素を取り出すことができるが,これは,話し手のよく知っている(内面化している)ことを,聞き手には半ば謎めいたままに提示するという結果を生み出している.以上より,当面,この用法を「話し手の一方的な内面化」用法と呼んでおきたい.一般の英英辞書の記述も参考までに挙げておこう.
Web3:
1. f : being one not previously mentioned <I was waiting for the bus and this old man came along and asked me for a dime> <gave me a light from this big lighter off the table---J. D. Salinger>
American Heritage, 4th ed.
4. Informal Used as an emphatic substitute for the indefinite article: looking for this book of recipes.
SOED:
B. 1. d (In narrative) designating a person or thing not previously mentioned or implied, a certain. colloq. E20.
最後の SOED の記述によると,20世紀前期からの口語用法ということになり,かなり新しい.もう少し歴史を調べようと,OED を引いてみると,II. Demonstrative Adjective. の 1. d. の語義が SOED のものに近そうだが,厳密に対応しているわけではない.したがって,歴史的な詳細は不明のままだ.中英語まで遡りうるかどうかと思い,MED の "this" (adj.) を参照したが,対応する例はなさそうだ.
歴史的な与格の用法の1つに,ethical dative と呼ばれる不思議な用法がある.「心性的与格」と訳されることが多いようだが,細江 (125) は「感興与格」と訳しており,後者のほうが用語としてずっとわかりやすい.これは "for me" ほどの意味を添える dative of interest (利害与格)から発展したものだが,受益や被害という含意はきわめて薄くなっており,しばしば和訳では訳出されない.現代標準英語ではほぼ姿を消したといってよい用法だが,近代からの例を見てみよう.
・ He would sweep me these rascals. (彼が悪人どもを追い払ってくれるだろう.)
・ I say, knock me at the gate. (Shakespeare)(さあ,この門をたたけ.)
・ As I was smoking a musty room, comes me the prince and Claudio, hand in hand . . . (Shakespeare) (私がね,かび臭い部屋をいぶしておりますとね,どうでしょう殿様とクローディオとがね,手に手を取っておいでになりましてね.)
ここでは me が受益者であるという主張は薄く,むしろ話者が異常な感興を覚えていることが強く暗示されている.聞き手の注意を引く役割は果たしているようだから,ethical dative は文法的機能というよりは修辞的効果のために用いられているといって差し支えないだろう.上の第3例の和訳は細江 (126) によるものだが,感嘆詞や終助詞「ね」によって対応する効果を訳出しようと腐心しており,ethical dative のメタな機能とその修辞的効果が日本語感覚として伝わってくる.
中英語からの例については,Mustanoja (99--100) が次を挙げている.
Another shade in the use of dative of interest is seen in what is customarily called the ethical dative. This occurs only in the first and second persons: --- ilc prince me take his wond (Gen. & Ex. 3821); --- so wiste I me non other red (Gower CA i 108); --- þay fel on hym alle and woried me þis wyly wyth a wroth noyse (Gaw. & GK 1905).
西洋諸言語にも同じ与格の用法が広く見られる.細江 (126) を転載しよう.
ギリシア語: (= What am I to learn for thee?); ラテン語: Quid mihi Celsus agit? (= How is Celsus me getting on?); スペイン語: Me han muerto à mi hijo (= They have killed me my son); フランス語: Que me faîtes-vous là? (= What are you going [sic] me there?); ドイツ語: Sieh mir nicht so finster aus (= Don't look me so sullen).
どうやら ethical dative は言語に広く見られる現象のようであり,語用論的な立場から考察を加えるとおもしろいだろう.古い英語でも頻用されていたわけではないようだが,現代英語にかけてほぼ完全に失われていった背景も気になるところである.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
英語史における ye と thou の使い分けと,それに関連する2人称代名詞の話題は,[2009-10-11-1], [2009-10-29-1], [2010-02-12-1], [2010-03-26-1], [2010-07-11-1], [2010-10-08-1]の記事で扱ってきた.
古英語では,[2009-10-24-1]の人称代名詞屈折表に見られるように,þū は2人称単数,ȝē は2人称複数というように,数 ( number ) という文法カテゴリーによって使い分けが明確に区別されていた.しかし,中英語になると両者の使い分けは数によって区別される ([2009-10-25-1]) のとは別に,様々な文体的,語用論的な要素の関数として決まってくるようになった.
では,例えば Chaucer の英語を例に取ると,ye と thou の使い分けを区別する要素にはどのようなものがあったのだろうか.そして,各々どの程度の重みをもって使い分けの区別に関与していたのだろうか.これは Chaucer 研究,英語史研究における積年の問題であるが,完全な答えは出ていないといってよい.日本語の敬語体系にまつわる問題に喩えれば,問題の難しさが想像できるかもしれない.
しかし,一般的な提案はなされてきている.以下に,Burnley (21) のフローチャートを,少々改変した形で示そう.
中央から右上にかけての "addressee familiar", "non-intimate", "age +", "status +" の分岐については,特にその項目が焦点でなければ上の道筋をたどり,より丁寧な YE に近づくのが原則である.また,YE と THOU にはさまれた各種の "SWITCHING" は,最終的には感情,態度,文体といった要素が決め手になるということを表わしている.例えば "affective switching" によれば,ye の使用は detachment, distancing, formality, objectivity, rejection, repudiation などと結びつけられ,thou の使用は intimacy, solidarity, engagement, rapprochement, joking, patronising, cajolery, conspiracy などと結びつけられる ( Burnley 21 ) .
・ Burnley, David. The Language of Chaucer. Basingstoke: Macmillan Education, 1983.
歴史語用論 ( historical pragmatics ) は1990年代半ばに興った今をときめく言語学の学際的な領域である.歴史言語学,語用論はもちろんのこと,コーパス言語学,談話分析,文学とも切り離せない.2000年には Journal of Historical Pragmatics の刊行が開始され,順調に研究が積み重ねられてきている.
歴史語用論の定義は,Taavitsainen and Fitzmaurice によれば,以下の通りである.
A provisional and fairly neutral definition of historical pragmatics could be that historical pragmatics focuses on language use in past contexts and examines how meaning is made. It is an empirical branch of linguistic study, with focus on authentic language use in the past. (13)
歴史言語学 ( historical linguistics ) と語用論の出会いは,両者の発展の必然的な帰結である.歴史言語学は,言語変化の理由を問うなかで言語の variation の重要性に気付いてきた.variation は実際の言語使用の事例のなかに観察されるものであるから,経験主義的な研究,近年ではコーパス言語学的研究が主流となってきている.一方で,語用論 ( pragmatics ) は,話し言葉とそれを取り巻くコンテクスト ( context ) の経験主義的な観察を重視してきたが,分野の発展とともにコンテクストの範囲を話し言葉のそれからから書き言葉のそれへと広げてきた.その範囲はついに歴史的な書き言葉へも広がり,ここに経験主義的な方法論で一致する歴史言語学と語用論の出会いが果たされることとなった.
・ Taavitsainen, Irma and Susan Fitzmaurice. "Historical Pragmatics: What It Is and How to Do It." Methods in Historical Pragmatics. Ed. Susan Fitzmaurice and Irma Taavitsainen. Berlin: Mouton de Gruyter, 2007. 11--36.
文学 ( literature ) と言語学 ( linguistics ) のあいだの距離が開いてきたということは,すでに言われるようになって久しい.また,文献学 ( philology ) が20世紀後半より衰退してきていることも,随所で聞かれる.この2点は,広く世界的にも英語の領域に限っても等しく認められるのではないか.もちろん両者は互いに深く関係している.
Fitzmaurice (267--70) がこの状況を簡潔に記しているので,まとめておきたい.
(1) 20世紀後半より,言語学は文学テクストを不自然な言葉として避けるようになった.
(2) 一方で文学は理論的な方法論を追究し,言葉そのものへの関心からは離れる傾向にあった.例えば現在の英文学の主流に新歴史主義 ( new historicism ) があるが,その基礎は英語史の知見にあるというよりは人類学の発展にある.
(3) 言語学は,逸話よりも数値を重視する方向で進んできた.
(4) 一方で文学は,数値よりも逸話を重視する方向で進んできた.
このように文学と言語学が両極化の道を歩んできたことは,当然その間に位置づけられる文献学の衰退にもつながってくる.文学と言語学の方法論をバランスよく取り入れた文献学的な研究というものが一つの目指すべき理想なのだろうが,それが難しくなってきている.もっとも,この10年くらいは上記の認識が各所で危惧をもって表明されるようになり,文学と言語学を近づけ,文献学に新たな息を吹き込むような新たな試みが出始めてきている.近年の歴史語用論 ( historical pragmatics ) の盛り上がりも,その新たな試みの一つの現われと考えられるだろう.
・ Fitzmaurice, James. "Historical Linguistics, Literary Interpretation, and the Romances of Margaret Cavendish." Methods in Historical Pragmatics. Ed. Susan Fitzmaurice and Irma Taavitsainen. Berlin: Mouton de Gruyter, 2007. 267--84.
中英語期の二人称単数代名詞が親称の thou と敬称の you で語用論的に使い分けられていたことについて,関連する話題を何度か扱ってきた ([2009-10-11-1], [2009-10-29-1], [2010-02-12-1], [2010-03-26-1]) .この区別が1660年くらいまでにほぼ消失し,you が一般化した.現在,かつての親称 thou を用いた表現は,聖書や古風な文体でのみ見られる化石的表現と考えてよい.では,かつての敬称 you の化石的表現は何らかの形で現代英語に残っているだろうか.
一般的ではないかもしれないが,高位の人への呼びかけや you の代わりに,以下のような表現が聞かれる.いずれも大文字で始められ,動詞は三人称単数で呼応する.ただし,代名詞は you として受けることもあれば,he や she として受けることもあり,一貫していない.
Your Majesty 「陛下」(君主)
Your Excellency 「閣下」(大使,知事,総督,司教・大司教など)
Your Grace 「閣下,猊下」(公爵,大司教など)
Your Highness 「殿下」(皇族)
Your Lordship 「閣下」(公爵をのぞく貴族,主教,裁判官など)
Your Honour 「閣下」(地方判事など)
Your Worship 「閣下」(治安判事,市長など)
これらの Your はかつての敬称の you の所有格であることは明らかである ( Svartvik and Leech, p. 211) .Your Majesty の起源はラテン語の vestra maiestas に遡り,そこからロマンス諸語やゲルマン諸語に広がった.英語では15世紀から見られるが,定着したのは17世紀である.
・ Svartvik, Jan and Geoffrey Leech. English: One Tongue, Many Voices. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006.
昨日の記事[2010-05-09-1]で,言語理論の基本構成部門 ( the core components ) として,音声学,音韻論,形態論,統語論,意味論の5分野を挙げた.語用論 ( pragmatics ) はこのリストの外に位置づけたが,これには議論の余地があるかもしれない.理論言語学における語用論の位置づけについては,語用論を the core components の一つとして含めるか否かで異なる立場がある.
・ 音声学 ( phonetics )
・ 音韻論 ( phonology )
・ 形態論 ( morphology )
・ 統語論 ( syntax )
・ 意味論 ( semantics )
・ 語用論 ( pragmatics )
Huang (4-5) は,語用論を5分野と同列に基本構成部門の一つとして認める考え方を "the (Anglo-American) component view" と呼んでいる.これに対して,語用論は部門 ( component ) というよりも観点 ( perspective ) であり,部門とは異次元のものであるという考え方を "the (European Continental) perspective view" と呼んでいる.この考え方の違いは語用論という分野が発達してきた複数の歴史的過程の差異によるものである.自らは "the component view" を採用している Huang の言い分の一つとして,言語には linguistic underdeterminacy という性質があることが挙げられている (5-6).
linguistic underdeterminacy thesis は,文の意味とそれが実際に伝える伝達内容との間には大きなギャップがあることを前提としている.例えば,次の英文はいずれも文意は理解できたとしても,文脈がない限り伝達内容は多義的である.
(1) You and you, but not you, stand up!
(2a) The authorities barred the anti-globalization demostrators because they advocated violence.
(2b) The authorities barred the anti-globalization demostrators because they feared violence.
(3a) John is looking for his glasses. (「眼鏡」の意)
(3b) John is looking for his glasses. (「グラス」の意)
(4a) They are cooking apples. (「リンゴを料理している」の意)
(4a) They are cooking apples. (「料理用のリンゴ」の意)
(1) は物理的な文脈が与えられていない限り,代名詞 you の指示対象を把握することができない.これは,語用論の主要な話題である直示性 ( deixis ) の問題である.(2) では,they が誰を指すかを正確に読み取るには,背景となる前提を知っていなければならない.(3) は語彙の多義性,(4) は統語の多義性に基づくものである.いずれも正しく理解するには,文脈,現実世界の知識,推論といった語用論的な要素に頼らなければならない.linguistic underdeterminacy thesis の前提を持ち出して語用論を基本構成部門に含めることを是とする Huang の主旨は「文の意味とそれが実際に伝える伝達内容との間には大きなギャップがあり,それを埋める機構の記述がなされなければ言語理論は完成しない.そして,その機構を記述するものがほかならぬ語用論である」ということになろう.
・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.
[2009-09-27-1]の記事で,ある言語の長所と短所を言語学的に同定することの難しさについて触れた.ある外国語の難易度は,学習者がすでに獲得している母語との比較においてある程度決まる,ということは経験からいっても広く受け入れられそうだ.しかし,ある言語の習得にかかわる絶対的な難易度というものは言語学的に測ることができるのだろうか.
Andersson によると,この問題は,文法 ( grammar ),語彙 ( vocabulary ),語用 ( rules of usage ) の部門別に考える必要があるという.ここでいう文法とは,統語論,形態論だけでなく音韻論をも含む広い部門のことを指す.それぞれの部門が言語の難易度測定にどのように貢献するか,あるいはしないかを,Andersson に基づいて要約する.
・語彙部門
どの言語でも,習得にもっとも時間のかかるのは語彙である.母語であっても,一生でそのすべての語彙を習得することは不可能である.ここから一般的に,語彙の少ない言語のほうが語彙の多い言語より困難であるといえそうだが,語彙が少なければそれだけ複雑な概念を表現することが難しくなるというコミュニケーション効果の問題が生じるために,語彙の観点のみから言語の難易度を測るということはできそうにない.
・文法部門
音韻については,区別される音素の数が少ないほど易しい言語といえる.5母音システムをもつ標準日本語と20母音システムをもつ英語の RP (see [2010-01-20-1]) とでは,前者ほうが習得は易しい.
形態・統語については,一般的に総合的な言語 ( synthetic language ) よりも分析的な言語 ( analytic language ) のほうが易しいといえる.この点で,性・数・格といった文法情報が屈折語尾に埋め込まれた古英語の名詞形態論と,そうでない現代英語の形態論とでは,後者のほうがより易しい.
・語用部門
一般に,敬語の使用などに代表される語用論的な規則が少なければ少ないほど言語は易しいといえる.しかし,社会関係を標示する機能はどの言語にも埋め込まれており,その規則の質や量を判定することは難しい.この点では,Esperanto などの人工語は,語用論規則の埋め込みが少ないので,易しいといえるかもしれない.
結論として次のようにいえるだろう.ある言語の習得にかかわる絶対的な難易度は部門別には測定可能かもしれないが,それぞれの部門に付与された難易度が全体のなかでどれだけのウェイトを占めているかを決めることは難しい.この結論を踏まえたうえで,現代英語の特徴 ( see pde_characteristic ) を改めて見直してみたい.
・Andersson, Lars-Gunnar. "Some Languages are Harder than Others." Language Myths. Ed. Laurie Bauer and Peter Trudgill. London: Penguin, 1998. 50--57.
英語史では,二人称代名詞の形態と機能の変遷はよく取りあげられるテーマの一つである.古英語では þū と ȝē はそれぞれ二人称の単数と複数を表し,単純に数カテゴリーに基づく区別をなしていた(屈折表は[2009-10-24-1]).
中英語になると,thou と ye は,古英語からの数カテゴリーの基準に加え,[2009-10-29-1][2009-10-11-1]で触れたように,親称・敬称の区別を考慮に入れるようになった(屈折表は[2009-10-25-1]).T/V distinction と呼ばれる,語用論でいうところの社会的直示性 ( social deixis ) の機能が,単複の区別のうえに覆いかぶさってきたことになる.
近代英語期には,thou が犠牲となり T/V distinction が解消されたが,同時に古英語以来の単複の区別も解消されてしまい,一般に二人称代名詞としては you だけが残った(屈折表は[2009-11-09-1]).
中英語の T/V distinction やその対立解消の過程などは,語用論的な関心から英語史でもよく取りあげられるが,しばしば見落とされているのは thou の消失によって,単純化へ向かっていた動詞の屈折体系がさらに単純化したことである.thou が現役だった中英語期の動詞屈折をみてみよう.強変化動詞の代表として binde(n),弱変化動詞の代表として loue(n) の屈折表を掲げる.
中英語の段階では,数・人称による屈折語尾の種類は現在系列で -e(n), -est, -eth の3通りがあったが,これでも古英語に比べれば単純化している.過去系列にあってはさらに種類が少なく,事実上,弱変化二人称単数で -est が他と区別されるのみである.近代英語期に入ると,-e(n) も消失したので,動詞屈折の単純化はいっそう進むことになった.
そして,近代英語期にもう一つだめ押しが加えられた.上に述べたように,語用論的な原因により thou が消失すると,thou に対応する二人称単数の屈折語尾 -est は現れる機会がなくなり,廃れていった.結果として,三人称単数の -eth (後に -s で置換される)のみが生き残り,現在に至っている.
thou の消失が,英語の屈折衰退の流れに一押しを加えたという点は覚えておきたい.
中英語期の動詞屈折については,以下のサイトも参照.
・ Horobin, Simon and Jeremy Smith. An Introduction to Middle English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2002. 115--16.
・ Middle English Verb Morphology
・ ME Strong Verbs
・ ME Weak Verbs
[2009-10-11-1]で世界の言語における T/V distinction の類型を簡単に紹介した.
英語では,中英語期に thou (親称)と you (敬称)により相手との社会的関係を標示する手段が存在したが,後に you に一本化されてからは区別する手段がなくなっている.thou でなく you の方に一本化したということは,相手との距離を大きく取る方向へ舵を切ったということになるだろう.
比較しておもしろいのは,ドイツ語の T/V distinction の通時的変遷である.現代ドイツ語では,二人称親称代名詞は du,二人称敬称代名詞は Sie として区別しているが,かつてはそうではなかったという.最初は二人称敬称代名詞として二人称複数形 Ihr を転用していたらしい.つまり,英語で本来的に二人称複数形であった you を敬称として転用したのと同じ状況があったことになる.
ところが,次に三人称単数男性形 Er が二人称敬称代名詞として使われるようになった.そして,さらに三人称複数形 Sie がその役割を担うようになり,現在に至っている.英語でたとえれば,二人称敬称代名詞が you → he → they と変遷してきたということになる.ドイツ語では,二人称敬称代名詞を表す形態こそ変化してきたが,その機能は失わずに保ってきたということになろう.
上記のように,英語とドイツ語とでは,二人称敬称代名詞に関して異なる歴史を歩んできたわけだが,T/V distinction という語用論的機能は,いずれの言語でも,どうやら扱いづらいもののようだ.二人称単数(=相手)を名指しするやり方は,日本語ならずとも,やはり神経を使うものなのだろう.
ドイツ語で,Ihr と複数形によって「あなた」を間接的に指していたはずが,使われ続けるうちにその間接性が薄まり,結局は直接的に指しているのと同じくらい生々しい効果を生んだ.そこで再び新しい間接的で丁寧な「あなた」として Er を使い出したが,これもそのうちに手垢がついて,直接性が感じられるようになる.そこで,次に Sie を持ってくる・・・.これは「敬意逓減の法則」と呼ばれるが,この調子でいくと,永遠に新しい語が現れては滅ぶということを繰り返すことになりそうだ.英語では,この輪廻を断ち切って,いわば涅槃の境地に達したということになるのかもしれない.
文化人類学的には,「人を呼ぶ」(=相手の名指し)は「相手に触れる」のと同様のタブー性を有しているとされ,多くの言語文化で敬避的呼称が発達しているという.[2009-10-11-1]の結論の追認することになるが,涅槃の境地に達した英語と,煩悩を抱き続けている日本語を含めた多くの言語とでは,呼称に対する言語文化の差は実に大きいのだなと改めて感じさせられる.
・滝浦 真人 「呼称のポライトネス」 『月刊言語』38巻12号,2009年,32--39頁.
日本語に呼びかけや指示のために用いる適切な二人称単数代名詞が欠けていることは,多くの日本語話者が,意識するにせよしないにせよ,日常的に体験していることである.「あなた」ではよそよそしく,「君」ではきざっぽく,「おまえ」では角が立つ,「そちら」や「お宅」もどうもふさわしくない.日本語話者は,日々,判断の難しいケースに遭遇し,何とか乗り切るということを繰り返している.多くの場合にとる戦略は,二人称代単数名詞を使わないですませる,という逃げの手である.その点,現代英語は,you 一語でことが足りる.なので,この問題に関する限り,日本語母語話者にとって英語は楽だな,便利だなと感じる.
だが,英語も中英語にさかのぼると,二種類の二人称単数代名詞があった.自分より下位・同位の者に対して用いる thou と,自分よりも上位の者に対して用いる you である.もっとさかのぼって古英語では,両者の使い分けは単純に数の問題であり,前者は二人称単数(あなた一人),後者は二人称複数(あなたがた複数)を指した.しかし,中英語になって,二人称代名詞には話し手と聞き手の社会的直示性 ( social deixis ) の情報が埋め込まれることになった.その後,近代英語では thou がほぼなくなってしまい,社会的直示性の対立も解消され,現代英語に至っている.
中英語の時代にあった thou と you に相当する社会的直示性の対立は,現代の多くのヨーロッパ語に見られ,フランス語の tu / vous の例から,一般に T/V distinction と呼ばれる.T が下位,V が上位の二人称代名詞を指す.
さて,二人称表現における日本語と現代英語の差は,世界の言語の類型から考えても,確かに大きいようである.Helmbrecht によると,世界の言語は二人称単数代名詞の社会的直示性の観点から大きく4タイプに分けられる.
(1) 現代英語のような T/V distinction のない言語
(2) フランス語や中英語のような T/V distinction の二分法をもつ言語
(3) ヒンディー語のような T と V の間に複数の段階が認められる多分法をもつ言語
(4) 日本語のような,二人称単数代名詞の使用をできるだけ避けようとする言語
(1)?(3) は social deixis の区別が粗いか細かいかという程度の問題だが,(4) は (3) のように多分法のリソースをもっているにもかかわらず,その区別を利用しないようにするという超越的なカテゴリーである.類型論的にみても,現代英語と日本語の差は相当に大きいといえる.
・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007. 166--68.
・ Helmbrecht, Johannes. "Politeness Distinctions in Second Person Pronouns." Deictic Conceptualisation of Space, Time and Person. Ed. Friedrich Lenz. 2003. 185--221.
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