標題は非常によく出される素朴な疑問です.ローマン・アルファベットの大文字・小文字の字形には,<C, c>, <K, k>, <O, o>, <P, p>, <S, s>, <U, u>, <V, v>, <W, w>, <X, x>, <Z, z> のようにほぼ相似形のものがあります.これらは分かりやすく学習も容易です.しかし,一方で <A, a>, <B, b>, <D, d>, <E, e>, <F, f>, <G, g>, <H, h>, <I, i>, <J, j>, <L, l>, <M, m>, <N, n>, <Q, q>, <R, r>, <T, t>, <Y, y> のように相似形でないものもあります.相似形でないばかりか,相当かけ離れているペアもあります.たとえば <D, d> などはループの向きが左右逆です.なぜこのような似ていない大文字・小文字のペアがあるのでしょうか.
「#1309. 大文字と小文字」 ([2012-11-26-1]) で大文字と小文字の略史を記しましたが,ざっくりまとめれば次のようになります.まず,ローマ時代には大文字のみが存在しました.碑文として彫られた格調高い Imperial capitals が,その代表的な書体です.その後,ローマ帝国が崩壊し,時代が中世に移り変わると,各国で様々な草書体が生み出されました.早書きに耐える実用的な書体が求められたためです.実用的な書体の字は,いきおい小型化します.これが小文字の起源です.
漢字の楷書体,行書体,草書体を思い浮かべてみればわかると思いますが,草書体化が進むと,元の字形から著しくかけ離れていくのが普通であり,相似していることはむしろ稀です.ローマン・アルファベットでもそれは同じことで,各国・各時代において草書体化や書体の派生が重なり,結果としてしばしば元の大文字とは見映えが異なる小文字が成立することになりました.中世の代表的な小文字の書体は,781--90年のシャルルマーニュの教育改革に際して生み出された Carolingian minuscule という書体です.
さて,時代がルネサンスに入ると,イタリアで新時代にふさわしい書体を採用しようという動きが起こります.古典にあこがれていたルネサンス期の人々は,大文字には古代ローマの威厳を体現する Imperial capitals を採用しました.しかし,小文字については,ローマ時代には前述のとおりそれが存在しなかったため,中世の代表的な小文字書体である Carolingian minuscule を採用することにしました.Carolingian minuscule も,いってみれば Imperial capitals からの派生書体の1つといえますが,数世紀にわたる草書体化を繰り返した果ての姿ですから,当然ながら Imperial capitals の字形とはそれなりに異なったものになってしまっていました.この Imperial capitals (大文字)と Carolingian minuscule (小文字)のペアが,初期近代期にイタリア以外にも広がり,現代のローマン・アルファベットの標準的な書体となったのです.
標題の素朴な疑問に立ち戻りましょう.上記のような経緯で現在の大文字と小文字のセットが定まってきたことを考えれば,両者の字形がきれいな相似形となることは,むしろ稀なことだとわかります(冒頭に挙げたように,実際に相似字形のペアは少数派です).ただし,漢字に比べればローマン・アルファベットは単純な幾何学的字形なので,形が崩れたとしても,そこそこ相似的にとどまる傾向もあるのだろうとは思います.
標題の疑問は,「なぜ大文字と小文字の字体で同じものがあるのですか?」と問い直すほうが妥当かもしれません.
先日「#3656. kings' のような複数所有格のアポストロフィの後には何が省略されているのですか?」 ([2019-05-01-1]) と題する素朴な疑問を取り上げた.歴史的な観点からの回答として,端的に「何も省略されていない」と答えた.共時的に想像を膨らませれば,kings という複数形に,さらに所有格の 's を付したが,綴字上,末尾が s's とうるさくなりそうなので,簡略表記したのではないか,とみることもできそうだ (cf. haplology) .実際,そのような発想のもとで近代英語期に現行の句読法 (punctuation) が定まっていた可能性は高いのではないかと思われる.もしそうだったとしたら,歴史的な事実に基づくというよりは,共時的な想像に基づく正書法の確立だったということになる.これを非難するつもりもないし,先の記事で述べたように複数形 kings,単数所有格形 king's,複数所有格形 kings' の3つが,せめて表記上は区別されることになったわけだから,結果として便利になったと考えている.ただし,歴史的にはそういうわけではなかった,ということをここでは主張しておきたい.
この辺りの問題については,Jespersen (272) がまさに取り上げている.それを引用するのが手っ取り早いだろう.
16.86. These forms [genitive plurals with -es] (in which e was still pronounced) show that the origin of the ModE gen pl is the old gen pl in -a (which in ME became e) + the ending s from the gen sg, which was added analogically for the sake of greater distinctiveness. The s' in kings' thus is not to be considered a haplological pronunciation of -ses, though some of the early grammarians look upon it as an abbreviation: Bullokar Æsop 225 writes the gen pl ravenzz and crowzz with his two z-letters, which do not denote two different sounds, but are purely grammatical signs, one for the plural and the other for the genitive.---Wallis 1653 writes "the Lord's [sic] House, the House of Lords . . pro the Lords's House", with the remark "duo s in unum coincident." Lane, Key to the Art of Lettters 1700 p. 27: "Es Possessive is often omitted for easiness of pronunciation as . . . the Horses bridles, for the Horsesses bridles."
In dialects and in vg speech the ending -ses is found: Franklin 152 (vg) before gentle folkses doors | GE M 1.10 other folks's children; thus also 1.293, 1.325, 2.7 | id A 251 gentlefolks's servants; ib 403; all in dialect | London schoolboy, in Orig. English 25: I wish my head was same as other boyses. Cf Murray D 164 the bairns's cleose, the færmers's kye, the doags's lugs; Elworthy, Somers. 155 voaksez (not other words, cf GE)
このような解説を読んでいると,標準語の「正史」としては -s's がうるさいから -s' にしたという理屈は採用できないものの,非標準語の歴史という観点からみると,それもあながち間違っているとは言い切れないのかなと思い直したりする.
・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part VI. Copenhagen: Ejnar Munksgaard, 1942.
先日,素朴な疑問として「#3649. q の後には必ず u が来ますが,これはどういうわけですか?」 ([2019-04-24-1]) を本ブログで取り上げたところ,読者の方より,queue (列)という妙なスペリングの単語があることを指摘してもらった.<ueue> と母音字が4つも続くのは,英語のスペリングとしては破格だからだ.フランスからの借用語であるこの語については,意味的な観点および英語の英米差という観点から,かつて「#1754. queue」 ([2014-02-14-1]) で話題にしたが,スペリングについては考えたことはなかったので,ここにコメントを加えておきたい.
先日の記事 ([2019-04-24-1]) では,<qu> ≡ /kw/ と単純にとらえたが,実は <qu> ≡ /k/ であることも少なくない.critique, technique, unique などの語末に現われるケースはもとより,quay, conquer, liquor など語頭や語頭に現われても /kw/ ではなく /k/ となる例は,そこそこ見られる(cf. 「#383. 「ノルマン・コンケスト」でなく「ノルマン・コンクェスト」」 ([2010-05-15-1])).今回注目している queue /kjuː/ もこれらの仲間だ.
queue の母音部分のスペリングをみると <eu> ≡ /juː/ となっており,これは一応英語のスペリング規則に沿ってはいる.neurotic, leukaemia; feudal, neuter; adieu, deuce, lieu など (Upward and Davidson 163) に確認される対応だが,これらは純粋な英語のスペリング規則というよりは,それぞれギリシア語,ラテン語,フランス語からの借用語として原語のスペリング習慣を引き継いだものとみるほうが妥当かもしれない(しかも,これらのいくつかの単語では (yod-dropping) の結果 <eu> ≡ /uː/ となっている).語末の <e> は,借用元のフランス語にもあるからあるのだと説明してもよいが,同時に英語のスペリング規則では <u> で単語を終えることができないからと説くこともできそうだ(「#2227. なぜ <u> で終わる単語がないのか」 ([2015-06-02-1]) を参照).
ちなみに,先の記事 ([2014-02-14-1]) でも触れたように,queue と cue (突き棒;弁髪)とは同根語,換言すればスペリングを違えただけの2重語 (doublet) である(ちょうど「#183. flower と flour」 ([2009-10-27-1]) のようなもの).いずれも同一のフランス単語に由来するが,スペリングを違えることで異なる語であるかのようにみなすようになったのは,英語における独自の発達である.
いずれにせよ queue のスペリングは, <ueue> と母音字が4つ続く点で,きわめて破格的であることは間違いない.ご指摘ありがとうございました.
・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.
令和時代の第1号の記事は,素朴な疑問シリーズより.鋭くも素朴な疑問です.
現代英語では表記上 kings (王たち), king's (王の),kings' (王たちの)と,意味に応じて3種類の書き方が区別されます.発音上はすべて /kɪŋz/ で同じなのですが,綴字・句読法上はしっかりと区別することになっているのです.この表記上の区別は何に由来するのでしょうか.
アポストロフィ (apostrophe) は,典型的に省略を表わすために用いられます.it's は it is の省略ですし,I'm は I am の省略,you're は you are の省略です.しかし,アポストロフィは省略のために用いられるとは限りません.「#582. apostrophe」 ([2010-11-30-1]),「#1772. greengrocer's apostrophe」 ([2014-03-04-1]) でみたように,第一義的には省略を表わすために用いられますが,その他の目的にも使われます.標題の疑問も,この観点からみる必要がありそうです.kings, king's, kings' の各々の成り立ちを紹介していきましょう.
古英語で「王たち」を表わす「王」の複数形(主格・対格)は cyningas でした.これが後の複数形 kings になるわけですが,これは古英語 cyningas → 中英語 kinges → 近代英語 kings という音変化の過程を経た結果です.語尾に注目すると,-as や -es という古い複数語尾が母音を消失させ,-s となったわけです.このように通時的には複数語尾の曖昧母音 /ə/ が「消失」したととらえますが,共時的には母音が「省略」されたようにもみえます.複数形の綴字 kings は実はこのように「省略」が絡んでいるにもかかわらず,それを示唆するアポストロフィは用いずに済ませているというわけです.
次に,「王の」を表わす単数所有格形の綴字 king's について考えましょう.古英語では,単数属格(所有格のことを古英語ではこう呼びます)形は cyninges と綴られ,これが中英語にそのまま kinges として受け継がれました.近代英語期にかけて,先の複数形の場合とパラレルに語尾の曖昧母音が消えたため,同じく kings と綴られていました.そのままでもよさそうなものでしたが,後にせめて綴字上は区別しようということなのか,単数所有格形のほうは king's と表記することになりました.今回は曖昧母音 /ə/ が「省略」されているのだから,それを標示するために king's というアポストロフィ付きの書き方になったのだ,と理屈をつけることができます.
最後に「王たちの」を表わす複数属格形の kings' ですが,これにはやや詳しい歴史的な説明が必要です.古英語では複数属格形は cyninga のように -a 語尾をもっていました.しかし,中英語にかけてこの -a が脱落し,代わって単数属格語尾 -es (後に母音消失を経て -s)が複数属格語尾としても用いられるようになったのです.つまり,king(e)s という形態で「王の」と「王たちの」(と「王たち」)を同時に表わしうる状況が出現したのです.そして,近代以降,いずれにせよ発音上は区別できないのですが,せめて書き言葉においては区別しようと,単数所有格形は king's,複数所有格は kings' という書き分けが発達したのでした.
以上をまとめれば次のようになります.複数(主格)の kings は中英語の kinges に由来し,屈折語尾の e が「省略」されたとみることができますが,その省略を表わすのにアポストロフィを付けることをしませんでした.これは理に適っていないようにみえます.一方,単数所有格形の king's は,先の複数形と同じく中英語の kinges に由来し,屈折語尾の e が「省略」された結果の形態ですので,アポストロフィを付けた綴字は理に適っているといえそうです.最後に複数所有格形の kings' は,単数所有格形と合一した形態にすぎず,その意味では問題のアポストロフィの後に何かが省略されているわけではありません.
(1) 何かが省略されているのにアポストロフィが付いていない複数形 kings
(2) 何かが省略されているから(という理由で)アポストロフィが付いている(と解せる)単数所有格形 king's
(3) 何も省略されていないのにアポストロフィが付いている複数所有格形 kings'
何だかメチャクチャという感じなのですが,せめて表記上は3者を区別したいという方針だったのでしょう,その意図は理解できます.いずれにせよ,これが英語の正書法なのです.
これまでにも何度か寄せられたことのあった質問です.確かに英語辞書でみても <x> の文字で始まる見出し語は最も少なく,存在感が薄いといえます.
<x> は,その呼び名 /eks/ が示す通り,典型的には /ks/ (あるいはその有声版 /gz/) の発音を表わします (ex. fox, anxious; exit, anxiety) .しかし,これらの子音連鎖は,原則として英単語の語頭には現われません.だから <x> という文字で始まる単語がほとんどないのです.
なぜ語頭では /ks/, /gz/ がありえないのかという問い自体は,難しい問題です.英語でも語頭以外では頻繁に現われる子音連鎖なので,その調音が生理的に難しいということは言えません.また,他の言語に目を移せば,ギリシア語などで,/ks/ は語頭でも普通に現われます.したがって,音声学的な理由を探すことは難しそうです.
しかし,音韻論,より正確には音素配列論 (phonotactics) では,これを単純に「規則」とみなします.つまり,英語では語頭にこの子音連鎖が起こることは許されないという規則があると考えるわけです.日本語でも「ん」は,音声学的には単語内のどの位置に現われても問題ないはずですが,語頭に起こることは原則として許されません.そこで,語頭に「ん」が現われることはできないという音素配列論上の規則があると考えるわけです.このように,各言語には独自の音素配列の規則が備わっています.音素配列論は,非常に多くの,かつ込み入った規則の集合体ですが,母語話者は,母語習得に際して無意識のうちにそれを完璧に学び取ってしまうのです.人間はたいしたものです.
さて,<x> で始まる英単語は少ないですが,皆無ではありません.そのような単語は,Xmas (= Christmas) や X-ray のような特殊な例か,あるいは /z/ で発音されるギリシア借用語に限られます.<x> ≡ /z/ の対応は,<x> ≡ /gz/ の第1子音の脱落によるものと考えられます.Carney (238) いわく,"One or two words have a §Greek correspondence <x>≡/z/ initially (or for some speakers <x>≡/gz/) --- xenon, xenophobia, xerox, xylophone." ほかに固有名詞として Xanadu, Xanthippe, Xavier, Xenia, Xerxes なども類例です.
<x> については,「#2280. <x> の話」 ([2015-07-25-1]),「#2918. 「未知のもの」を表わす x」 ([2017-04-23-1]) を始めとする x の記事もご覧ください.
・ Carney, Edward. A Survey of English Spelling. Abingdon: Routledge, 1994.
学生から出されたおもしろい質問です.意識したことはありませんでした.スペリングでは語頭に <n> と <m> の違いがあるだけですが,発音はそれぞれ /ˈneɪʧə/ と /məˈʧʊə/ となり大きく異なっています.比例的なスペリングでありながら発音が異なるということは,両者が1対1で対応しているわけではなく,複雑な関係を有していることの証左です.
両単語はそれぞれラテン語の nātūra (本質)と mātūrus (時宜を得た)にさかのぼります.ラテン語の段階では,両単語に関してスペリングも発音も比例的な関係にあり,現代英語のような異なりはみられませんでした.ところが,これらが借用語として英語に入ってきた後に,事件が起こります.
ラテン語 nātūra は,古フランス語の nature を経て,中英語期の13世紀後半に natur(e) として英語に入ってきました.英語に入ってきた当初は,古フランス語風に /naːˈtyːr/ と第2音節に強勢をおいて発音されていましたが,徐々に発音様式が英語化してくることになりました.発音の英語化とは,大雑把にいえば,強勢が第1音節に置かれるようになり,強勢の置かれなくなった第2音節を構成する音が弱化・短化する過程を指します.これにより /naːˈtyːr/ は /ˈnaːtyːr/ となり,さらに近代英語期にかけて大母音推移 (gvs) を含むいくつかの音変化を経て現代の /ˈneɪʧə/ にまで発展したのです.
一方,ラテン語 mātūrus は,15世紀半ばに直接英語に mature として借用されました.英語での当初の発音は /maːˈtyːr/ に近いものだったと思われます.ところが,この単語については,その後 nature では起こった発音様式の英語化,すなわち強勢位置の前移動が起こらなかったのです.その結果,強勢の置かれない第1音節は弱まることになり,現代英語の /məˈʧʊə/ の発音に至ったのです.
つまり,nature と mature の分水嶺は,英語に借用された後に発音様式の英語化が起こったか,起こらなかったかだったのです.では,なぜ nature では英語化が起こり,mature では起こらなかったのでしょうか.これは簡単には答えられませんが,一般論としては,早い時期に借用された語であればあるほど,現在までに英語化するのに十分な時間が確保されており,実際に英語化している可能性が高いということはいえます.nature は13世紀後半,mature は15世紀半ばの借用ですから,この時間差が関係している可能性はあります.また,借用時期が近代英語期に近づけば近づくほど,ラテン語やフランス語からの借用語は,原語の発音様式のままにとどまる傾向が強いことも知られています.
ラテン語・フランス語の強勢規則 (Romance Stress Rule; rsr) と英語の強勢規則 (Germanic Stress Rule; gsr) とは水と油の関係であり,これらが借用語において競合したときに何が起こるかという問題については,「#718. 英語の強勢パターンは中英語期に変質したか」 ([2011-04-15-1]) や「#200. アクセントの位置の戦い --- ゲルマン系かロマンス系か」 ([2009-11-13-1]) をご覧ください.
連日,学生から寄せられた素朴な疑問を取り上げています.今回は英単語のスペリングでよく見かける <qu> という2文字の連続についての疑問です.queen, quick, quiet, quote, quality のように <q> の後にはほぼ必ず <u> が来ます.これは,他の子音字で直後にくる母音字がこれほど限定されているものはないのではないかという観察に基づく発問として,おもしろいと思います.
たしかに,<q> の後には <u> という母音字(正確にいえば /w/ という半子音を表わす半子音字)がほぼ100%の確率で現われます.「#1599. Qantas の発音」 ([2013-09-12-1]) でみたように,略語や借用語などにいくつかの例外はみられるにせよ,事実上 <qu> という連鎖が決め打ちであるといってよいでしょう.<q> が現われた瞬間,次に来るのは <u> であるとほぼ完全に予測できてしまうので,情報理論的にいえば <u> の情報価値はゼロということになり,余剰的な綴字ということができます(cf. 「#2249. 綴字の余剰性」 ([2015-06-24-1])).したがって,綴字に合理性を求めるのであれば,先に挙げた語は *qeen, *qick, *qiet, *qote, *qality と綴ってもよいことになります.<q> = /kw/ という取り決めを作ってしまえば,むしろ簡単便利なのかもしれません.
しかし,英語ではそのような合理化は生じてきませんでした.一般論でいえば,言語は必ずしもすべてが合理的にできているわけではなく,合理的な方向へ変化するものでもありません.むしろある種の無駄を積極的に許容し,上で触れたような余剰性 (redundancy) を確保する傾向がみられます.また,/kw/ という2音を表わすのに <qu> という2文字を用いるというのは,ある意味ではわかりやすいともいえます.
しかし,<qu> が固定セットであり続けた最大の理由は,中英語期の英語話者たちの大陸文化への憧れと,その際に受け入れた綴字伝統の惰性的保持にあったといってよいでしょう.古英語では <qu> はおろか <q> という文字自体が使われておらず,現在の queen, quick は cwen, cwic などと綴られていました.当時は,<cw> が <qu> の役割を果たしていたのです.2音 /kw/ に対応する2文字の組み合わせという点では,同じ方針を採っていたことになります.これはこれで完璧に機能しており,変わる必要もなかったのですが,中英語期になるとラテン語やフランス語に代表される大陸文化への憧れが昂じ,それらの言語ですでに定着していた <qu> でもって従来の <cw> を置き換えるという傾向が出てきました.こうして,<q> という文字,そして <qu> という綴字が英語に導入されたのです.一言でいえば,当時の英語の書き手が,ミーハー的に大陸の流行に飛びついたということです.流行というのは合理性とは別の軸で作用するものであり,むしろ無駄な格好よさを指向するものなのかもしれません.英語は,その後も現在に至るまで,<qu> という大陸文化の香り豊かな見映えを尊重し,それに満足し,保持してきたのです.
結果的に,現代英語では /k/ の音(/kw/ の一部としての音も含め)を表わすのに,少なくとも <c>, <k>, <qu> という3つの綴字を使い分けなければならないはめに陥っています.この三つ巴の抗争の深い歴史的背景(英語史の枠をはみ出し,さらに古い時代にも及ぶ)については,「#2367. 古英語の <c> から中英語の <k> へ」 ([2015-10-20-1]) や「#1824. <C> と <G> の分化」 ([2014-04-25-1]) の記事をご覧ください.
昨日の記事「#3647. 船や国名を受ける she は古英語にあった文法性の名残ですか?」 ([2019-04-22-1]) に引き続き,学生から寄せられた素朴な疑問を1つ.
私たちは3単現の -s については英文法の時間にうるさく習うわけですが,その割には主語が3人称・単数,時制が現在であっても can, may, shall, must をはじめとする助動詞 (auxiliary_verb) には -s が付くことはありません.これをいぶかるのも無理はありません.標題のような *He cans swim. ではダメで,He can swim. としなければならないのです(文法的に許容されない文は,言語学では「非文」と呼ばれ,頭に * 記号を付す慣習があります).これはどういったわけでしょうか.
たいていの説明では,can は本動詞ではなく,あくまで助動詞というものであり,助動詞は語形が無変化であることが特徴なのだと説かれます.しかし,このような解説は,英文法はそういうものなのだと言っているにすぎず,私たちが知りたい真の説明にはなっていません.
英語史の観点からすれば,答えは簡単に出ます.can を含む上記のような典型的な助動詞は,語源的には過去形だからです.3人称かつ単数かつ「現在」の場合にのみ付けられる -s が,語源的に「過去形」である can に付くわけがないのです.*He cans swim. がダメなのは,ちょうど *He swams. や *He walkeds. がダメなのと同じ理由です.同様に,may, shall, must なども語源的には過去形だからこそ -s が付かないわけです.
これらの助動詞が起源的に過去形であるということは,当初は当然ながら過去の意味をもっていたはずです.ところが,歴史の過程で現在の意味を有するように変化し,形態は過去形ながらも意味は現在というチグハグの状況になってしまいました.このようなチグハグな動詞は,英語史上,過去現在動詞 (preterite-present_verb) と名付けられています.より詳しくは,「#58. 助動詞の現在形と過去形」 ([2009-06-25-1]) と「#66. 過去現在動詞」 ([2009-07-03-1]) をご参照ください.
どうも法助動詞という語類には,本来過去の意味を表わしていたものが現在の意味を帯びるようになる傾向があるようです.can, may, shall が現在の意味を帯びるようになると,あらたに過去を意味すべく別の過去形が必要となり,実際に could, might, should なる新過去形が生み出されました(簡単にいえば,それぞれの元の助動詞に -ed を付けて,さらに少し変形しただけの形態です).ところが,これら新過去形も,今となっては Could it be true?, She might be in London by now. We should apologize. などのように実際には過去というよりも現在の意味で用いられることが多いのです.
なお,もう1つの典型的な助動詞 will については上では触れませんでした.というのは,この語は過去現在動詞ではなく,厳密にいえば上記の can などとは同列に議論できないからです.ここでは,will も歴史の過程で can を含む過去現在動詞のグループに取り込まれていき,統語形態上,それらと同じ振る舞いを示すことになったとだけ述べておきましょう.
新年度の「英語史」の講義が始まりました.毎年度,初回の授業では,何でもよいので英語に関する疑問,とりわけ素朴な疑問を出してくださいと呼びかけています.今回も,おかげさまで,たんまりとブログのネタが集まりました.実際には必ずしも「素朴」でもなく高度だったりするのですが,本格的に英語の先生にこんな問いを投げかけてよいのだろうか,と問うことを躊躇していたような問いでも,とにかく出してくださいと呼びかけての募集だったで,なかなかの良問が出そろいました.向こう数週間,本ブログで,そのような学生からの問いを取り上げていきたいと思います.ということで,まずは標題の疑問.
千年ほど前に話されていた古英語 (Old English) では,フランス語やドイツ語をはじめとする現在のヨーロッパ諸言語にみられる文法上の性(文法性 = grammatical gender)が健在でした.すべての名詞が男性,女性,中性のいずれかに割り振られていたのです.おそらく第2外国語として文法性のある言語を学んだことのある学生が,このことを聞いて「英語にも文法性があったのか」と驚き,そこから標題の問いへと思いを巡らせたのかと思います.確かに,現代の英語には,船を始めとする各種の乗り物や国名を指して女性代名詞 she で受ける言語習慣があります.たとえば,次の通りです.
・ Look at my sports car. Isn't she a beauty?
・ What a lovely ship! What is she called?
・ Hundreds of small boats clustered round the yacht as she sailed into Southampton docks.
・ There were over two thousand people aboard the Titanic when she left England.
・ Iraq has made it plain that she will reject the proposal by the United Nations.
・ France increased her exports by 10 per cent.
・ Britain needs new leadership if she is to help shape Europe's future.
・ After India became independent, she chose to be a member of the Commonwealth.
しかし,これは古英語にあった文法性とは無関係です.乗り物や国名を女性代名詞で受ける英語の慣習は中英語期以降に発生した比較的新しい「擬人性」というべきものであり,古英語にあった「文法性」とは直接的な関係はありません.そもそも「船」を表わす古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞でしたし,bāt (= boat) にしても男性名詞でした.古英語期の後に続く中英語期の文化的・文学的な伝統に基づく,新たな種類のジェンダー付与といってよいでしょう.詳しくは,以下の記事をご覧ください.
・ 「#852. 船や国名を受ける代名詞 she (1)」 ([2011-08-27-1])
・ 「#853. 船や国名を受ける代名詞 she (2)」 ([2011-08-28-1])
・ 「#854. 船や国名を受ける代名詞 she (3)」 ([2011-08-29-1])
・ 「#1028. なぜ国名が女性とみなされてきたのか」 ([2012-02-19-1])
・ 「#1912. 船や国名を受ける代名詞 she (4)」 ([2014-07-22-1])
・ 「#1517. 擬人性」 ([2013-06-22-1])
そもそも文法性とは何なのだ,と気になる人も多いと思います.言語学的にもいろいろと議論できるのですが,私は人間の「フェチ」の一種であると考えています.「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1]) をご参照ください.
現代英語の副詞 ago は,典型的に期間を表わす表現の後におかれて「?前に」を表わす.a moment ago, a little while ago, some time ago, many years ago, long ago などと用いる.
この ago は語源的には,動詞 go に接頭辞 a- を付した派生動詞 ago (《時が》過ぎ去る,経過する)の過去分詞形 agone から語尾子音が消えたものである.要するに,many years ago とは many years (are) (a)gone のことであり,be とこの動詞の過去分詞 agone (後に ago)が組み合わさって「何年もが経過したところだ」と完了形を作っているものと考えればよい.
OED の ago, v. の第3項には,"intransitive. Of time: to pass, elapse. Chiefly (now only) in past participle, originally and usually with to be." とあり,用例は初期古英語という早い段階から文証されている.早期の例を2つ挙げておこう.
・ eOE Anglo-Saxon Chron. (Parker) Introd. Þy geare þe wæs agan fram Cristes acennesse cccc wintra & xciiii uuintra.
・ OE West Saxon Gospels: Mark (Corpus Cambr.) xvi. 1 Sæternes dæg wæs agan [L. transisset].
このような be 完了構文から発達した表現が,使われ続けるうちに be を省略した形で「?前に」を意味する副詞句として再分析 (reanalysis) され,現代につらなる用法が発達してきたものと思われる.別の言い方をすれば,独立分詞構文 many years (being) ago(ne) として発達してきたととらえてもよい.こちらの用法の初出は,OED の ago, adj. and adv. によれば,14世紀前半のことである.いくつか最初期の例を挙げよう.
・ c1330 (?c1300) Guy of Warwick (Auch.) l. 1695 (MED) It was ago fif ȝer Þat he was last þer.
・ c1415 (c1395) Chaucer Wife of Bath's Tale (Lansd.) (1872) l. 863 I speke of mony a .C. ȝere a-go.
・ ?c1450 tr. Bk. Knight of La Tour Landry (1906) 158 (MED) It is not yet longe tyme agoo that suche custume was vsed.
MED では agōn v. の 5, 6 に類例が豊富に挙げられているので,そちらも参照.
『英語教育』の英語史連載記事「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」が,前回の4月号より始まっています.昨日発売された5月号では,第2回の記事として「なぜ不規則な複数形があるのか」という素朴な疑問を取りあげています.是非ご一読ください.
名詞複数形の歴史は,私のズバリの専門分野です(博士論文のタイトルは The Development of the Nominal Plural Forms in Early Middle English でした).そんなこともあり,本ブログでも複数形の話題は plural の記事で様々に取りあげてきました.今回の連載記事の内容ととりわけ関係するブログ記事へのリンクを以下に張っておきます.
・ 「#946. 名詞複数形の歴史の概要」 ([2011-11-29-1])
・ 「#146. child の複数形が children なわけ」 ([2009-09-20-1])
・ 「#157. foot の複数はなぜ feet か」 ([2009-10-01-1])
・ 「#12. How many carp!」 ([2009-05-11-1])
・ 「#337. egges or eyren」 ([2010-03-30-1])
・ 「#3298. なぜ wolf の複数形が wolves なのか? (1)」 ([2018-05-08-1])
・ 「#3588. -o で終わる名詞の複数形語尾 --- pianos か potatoes か?」 ([2019-02-22-1])
・ 「#3586. 外来複数形」 ([2019-02-20-1])
英語の複数形の歴史というテーマについても,まだまだ研究すべきことが残っています.英語史は奥が深いです.
2017年に連載した「現代英語を英語史の視点から考える」の第1回「「ことばを通時的にみる 」とは?」でも複数形の歴史を扱いましたので,そちらも是非ご一読ください.
・ 堀田 隆一 「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ 第2回 なぜ不規則な複数形があるのか」『英語教育』2019年5月号,大修館書店,2019年4月12日.62--63頁.
大学でも新年度が本格的に始まりました.今期私が担当する英語史関連の授業で,2016年に研究社より出版された拙著『英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史』を指定テキスト(あるいは参考テキスト)としているので,年度初めに趣旨と内容を簡単に紹介しておきます.
本書の出版後に研究社のウェブサイト上に特設されたコンパニオン・サイトの本書のねらいにも詳しく書きましたが,なぜ皆さんに本書を読んでいただきたいのか,改めてここで強調しておきたいと思います.それは,
英語の「素朴な疑問」に「英語史」の視点から答えていくことを通じて,英語教員をはじめとする英語にかかわる多くの方々に,英語の「新しい見方」を提案し,「目から鱗が落ちる」体験を味わってもらいたいからです.
具体的には,以下の5つのねらいがあります.
1. 誰もが抱く英語の「素朴な疑問」に,納得のいく解答を与えます
2. 新たに生じる「素朴な疑問」にも対応できる,体系的な知識の必要性を説きます
3. 学問分野「英語史」の魅力を伝えます
4. 英語,英語学習,英語教育に対する「新しい見方」を提案します
5. 歴史的な視点から,英語について「目から鱗が落ちる」体験を提供します
本書で取り上げている話題の多くは日々書きためている本ブログの記事が元になっていますので,ブログ読者にとっては内容的にも文体的にもデジャヴュ感があるかもしれません.目次一覧はこちらに挙げてあるので繰り返しませんが,多くの人が興味をもちそうなタイトルを引き抜いておきます.
・ なぜ *a apple ではなく an apple なのか?
・ なぜ名詞は récord なのに動詞は recórd なのか?
・ なぜ often の t を発音する人がいるのか?
・ なぜ five に対して fifth なのか?
・ なぜ name は「ナメ」ではなく「ネイム」と発音されるのか?
・ なぜ debt, doubt には発音しない <b> があるのか?
・ なぜ3単現に -s を付けるのか?
・ なぜ *foots, *childs ではなく feet, children なのか?
・ sometimes の -s 語尾は何を表わすのか?
・ なぜ不規則動詞があるのか?
・ なぜ -ly を付けると副詞になるのか?
・ なぜ未来を表わすのに will を用いるのか?
・ なぜ If I were a bird となるのか?
・ なぜ英語には主語が必要なのか?
・ なぜ *I you love ではなく I love you なのか?
・ なぜ May the Queen live long! はこの語順なのか?
・ なぜ Help me! とは叫ぶが Aid me! とは叫ばないのか?
・ なぜ Assist me! とはなおさら叫ばないのか?
・ なぜ1つの単語に様々な意味があるのか?
・ なぜ単語の意味が昔と今で違うのか?
・ 英語の新語はどのように作られるのか?
・ なぜアメリカ英語では r をそり舌で発音するのか?
・ アメリカ英語はイギリス英語よりも「新しい」のか?
・ なぜ黒人英語は標準英語と異なっているのか?
・ なぜ船・国名を she で受けるのか?
・ なぜ単数の they が使われるようになってきたのか?
本書を読み,英語史の魅力に目覚めたら,ぜひ上記のコンパニオン・サイト上で2017年1月から12月にかけて連載された,本書の拡大版・発展版というべき「現代英語を英語史の視点から考える」企画の記事12本もオンラインでご一読ください.次のラインナップです.
・ 第1回 「ことばを通時的に見る」とは?(2017/01/20)
・ 第2回 なぜ3単現に -s を付けるのか?(2017/02/20)
・ 第3回 なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?(2017/03/21)
・ 第4回 イギリス英語の autumn とアメリカ英語の fall (2017/04/20)
・ 第5回 alive の歴史言語学 (2017/05/22)
・ 第6回 なぜ英語語彙に3層構造があるのか?(2017/06/20)
・ 第7回 接尾辞 -ish の歴史的展開 (2017/07/20)
・ 第8回 なぜ「グリムの法則」が英語史上重要なのか (2017/08/21)
・ 第9回 なぜ try が tried となり,die が dying となるのか? (2017/09/20)
・ 第10回 なぜ you は「あなた」でもあり「あなたがた」でもあるのか? (2017/10/20)
・ 第11回 なぜ英語は SVO の語順なのか?(前編) (2017/11/20)
・ 第12回 なぜ英語は SVO の語順なのか?(後編) (2017/12/20) ・
・ 堀田 隆一 『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』 研究社,2016年.
「行く」は go であり,「?したことがある」という経験の意味は現在完了「have + 過去分詞」で表わすということであれば,「?に行ったことがある」は普通に考えて have gone to . . . となりそうだが,一般的には have been to . . . であると習う.これは私もずっと不思議に思っていた.だが,フレーズとして,構文としてそのようになっているのだと言い聞かされてきたので,それ以上の質問はしてこなかった.だが,改めて考えてみて,やはり謎である.
have gone to . . . は「行ったことがある」という経験ではなく,「行ってしまった(その結果,ここにはいない)」という結果の意味になると,しばしば言われる.ここから,現在完了の経験用法と結果用法の形式がバッティングしないよう,前者には区別された形式 have been to . . . が用いられるのだ,という理屈が成立しそうである.もちろんこの説明はある程度まで納得できる.しかし,構文上の "blocking" とでも呼ぶべき,このような共時的かつ機能的な説明原理は,アドホックのきらいがあるように思われる.1つの機能に対して1つの形式を対応させようという言語の一般的指向については理解できるとしても,その形式がなぜとりわけ have been to . . . でなければならなかったのかという個別の問題については,何もヒントを与えてくれないからだ.また,アメリカ英語における事実として,have gone to . . . が経験の意味を表わすケースもある.たとえば,小西 (568) より I took a scuba course in college and I've gone a few times to the Caribbean. なる例文をあげておこう.
もちろん,歴史的にひもとけば疑問が解消するかといえば,ことはそう簡単ではないようだ.今のところ,(少なくとも私には)答えらしきものは見出せていない.しかし,歴史の事実を与えられれば,疑問をみる視点は明らかに変わってくる.というのは,そもそも「?に行ったことがある」を意味する have been to . . . という形式は比較的新しい18世紀の産物であり,それ以前には用いられていなかったようだからだ.なぜ18世紀に現われたのか,そしてなぜとりわけその形式が選ばれることになったのか.これは共時的な理論英語学ではなく通時的な歴史英語学の話題である.
OED は be, v. の 8c に,この用法が取り上げられている.
c. With to and a noun: to have been present (in a place, esp. for some purpose, or at an event or special occasion); to have gone to visit (and returned from) a place.
Apparently rare before the second half of the 18th cent. (when it occurs frequently in the usage of Fanny Burney).
1712 R. Laurence Bishop of Oxford's Charge Consider'd 則xlviii. 73 Publickly Baptiz'd a Child in the Meeting-house; which was carried thither in as great Form and Order, as if it had been to Church.
1763 F. Brooke Hist. Lady Julia Mandeville I. 178 We have been to the parish church, to hear Dr. H. preach.
1773 F. Burney Early Diary (1889) I. 186 She had been to these rehearsals.
1778 F. Burney Evelina I. xvii. 115 Miss will think us very vulgar..to live in London, and never have been to an Opera.
1802 C. Wilmot Irish Peer on Continent (1920) 39 We have been to the Opera Buffa or the Italian Opera.
1829 R. Sharp Diary 21 June (1997) 209 This understrapping Parson of ours has been to Cambridge the last week to vote for who? why for Mr. Bankes.
1892 E. Reeves Homeward Bound 205 Hadji is his title, and means that he has been to Mecca.
1902 Westm. Gaz. 25 Aug. 2 His Majesty has been to Westminster Abbey, and the Crystal Palace,..and Madame Tussaud's.
1915 T. S. Eliot Let. 3 Jan. (1988) I. 77 I have just been to a cubist tea.
1977 J. Lees-Milne Diary 27 Sept. in Through Wood & Dale (2001) 195 I have not been to the lav since I left Salonika on Friday.
2007 S. Worboyes Lipstick & Powder iii. 91 This wasn't the first time she had been to the flat so she knew where everything was kept.
説明にあるとおり,18世紀後半に Fanny Burney (1752--1840) が頻繁に用いたことが,この用法の実質的な走りとなったようだ.これは今後追いかけていく必要がありそうだ.いずれにせよ,静的な be と,移動およびその目的地を含意する動的な to とが直接結びつくという違和感はぬぐいきれない.当面の仮説として,顕在化していない go の亡霊を想定せざるを得ないのではないかとだけ述べておきたい.
・ 小西 友七 編 『現代英語語法辞典』 三省堂,2006年.
標題の who (とその仲間というべき whom, whose, etc.)はあまりに卑近な単語であるだけに,英語学習者は皆,この綴字でこの発音 (= /huː/) であることをそのまま丸暗記しており,特に疑問も抱かないにちがいない.しかし,よく考えてみると,綴字と発音の関係が不規則きわまりない単語である.この綴字であれば,本来 /woʊ/ と発音されるはずだ.
まず子音をみてみよう.<wh> と綴って /h/ と発音されるのは,他の wh 疑問詞と比べればわかる通り,異例である.what, which, when, where, why はいずれも /w/ で始まっている(ただし一部の非標準変種では無声の /ʍ/ もあり得る;cf. 「#1795. 方言に生き残る wh の発音」 ([2014-03-27-1])).疑問詞において /h/ で始まる単語は,規則的に <h> で綴られる how のみである(how が疑問詞のなかでもこのように一風変わっていることについては,「#51. 「5W1H」ならぬ「6H」」 ([2009-06-18-1]) を参照).
次に母音をみてみよう.子音字+ <o> で単語が終わる場合,go, ho, Jo, lo, no, so などにみられるように,母音は /oʊ/ である.who のように /uː/ となるものは,do, to などがあるが,圧倒的に少数派だ.したがって,who は本来 hoo とでも綴られるべき単語であり,現状の綴字は子音においても母音においても不規則といわざるを得ない.
一見すると納得のいかないこの綴字と発音の関係には,歴史的な経緯がある.古英語でこの単語は hwa と綴られ /hwɑː/ と発音された.ここから数世紀をかけて,次のような一連の母音変化が生じた.
/hwɑː/ → /hwɔː/ → /hwoː/ → /hwuː/ → /huː/
つまり,低母音の構えだった舌が,口腔のなかを上方向へはるばると移動して,ついに高母音の舌構えに到達してしまったのである.最終段階の /w/ の消失は,子音と後舌・円唇母音に挟まれた環境で15--16世紀に規則的に生じた音変化で,two, sword などの発音も説明してくれる.つまり who と two の音変化は平行的といってよい.(なので次の記事も参考にされたい:「#184. two の /w/ が発音されないのはなぜか」 ([2009-10-28-1]),「#1324. two の /w/ はいつ落ちたか」 ([2012-12-11-1]),「#3410. 英語における「合拗音」」 ([2018-08-28-1]) .)
綴字については,この子音は古英語では2重字 (digraph) <hw> で書かれたが,中英語では逆転した2重字 <wh> で書かれるようになった.母音字に関しては,途中までは母音変化を追いかけるかのように <a> から <o> へと変化したが,追いかけっこはそこでストップし,<u> や <oo> の綴字へと定着することはついぞなかったのである.かくして,who = /huː/ なる関係が標準化してしまったというわけだ.
言語にあっては,who のように卑近な単語であればあるほど不規則性がよく観察されるものである.関連して,「#1024. 現代英語の綴字の不規則性あれこれ」 ([2012-02-15-1]) の単語リストも参照.
なお,<wh> = /h/ という例外的な子音(字)の対応は,who のほかに whole, whore にもみられる.これについては,「#1783. whole の <w>」 ([2014-03-15-1]) を参照.
先日3月30日(土)の15:00?18:15に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて,「英語の歴史」の第3弾として講座「英語史で解く英語の素朴な疑問」を開講しました.受講された方々からは新たな「素朴な疑問」もいくつか飛び出し,たいへん啓発されました.今回の趣旨は,次の通りでした.
何年も英語を学んでいると,学び始めの頃に抱いていたような素朴な疑問が忘れ去られてしまうことが多いものです.なぜ A は「ア」ではなく「エイ」と読むのか,なぜ go の過去形は went なのか,なぜ動詞の3 単現には -s がつくのか等々.このような素朴な疑問を改めて思い起こし,あえて引っかかってゆき,大まじめに考察するのが,英語史という分野です.素朴な疑問を次々と氷解させていく英語史の力にご期待ください.
1. 英語史と素朴な疑問は相性がよい
2. 発音に関する素朴な疑問
3. 綴字に関する素朴な疑問
4. 文法に関する素朴な疑問
5. 語彙に関する素朴な疑問
6. 皆さんからの疑問について検討
7. 本講座のまとめ
それぞれの部門の「素朴な疑問」として取り上げられた話題は,時間の都合により限定的ではありましたが,個々の疑問を解決していくプロセスそのものが英語史の学びであり,自然とその魅力が理解されたのではないでしょうか.講座で使用したスライド資料をこちらにアップしておきますので,自由にご参照ください.
1. シリーズ「英語の歴史」 第3回 英語史で解く英語の素朴な疑問
2. 本講座のねらい
3. 1. 英語史と素朴な疑問は相性がよい
4. 英語に関する素朴な疑問の例 (#1093)
5. 皆さんの素朴な疑問は?
6. 2. 発音に関する素朴な疑問
7. 3. 綴字に関する素朴な疑問
8. 4. 文法に関する素朴な疑問
9. 身近な動詞に多い「不規則」変化
10. 歴史的には接尾辞を付けるか,母音を変化させるか
11. なぜ規則動詞化してきたのか
12. 真の不規則
13. 5. 語彙に関する素朴な疑問
14. 皆さんからの疑問について検討
15. 本講座のまとめ
16. 今回扱ったものやその他の素朴な疑問に答える参考文献
3月30日(土)の15:00?18:15に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて,「英語の歴史」と題するシリーズ講座の最後となる第3弾として「英語史で解く英語の素朴な疑問」を開講します.以下,お知らせの文章です.
何年も英語を学んでいると,学び始めの頃に抱いていたような素朴な疑問が忘れ去られてしまうことが多いものです.なぜ A は「ア」ではなく「エイ」と読むのか,なぜ go の過去形は went なのか,なぜ動詞の3 単現には -s がつくのか等々.このような素朴な疑問を改めて思い起こし,あえて引っかかってゆき,大まじめに考察するのが,英語史という分野です.素朴な疑問を次々と氷解させていく英語史の力にご期待ください.
1. 素朴な疑問と英語史の相性の良さ
2. 英語史概略
3. 綴字と発音に関する素朴な疑問
4. 語形に関する素朴な疑問
5. 文法に関する素朴な疑問
6. 語彙に関する素朴な疑問
7. 英語方言その他に関する素朴な疑問
英語学習・教育に携わる方々であれば,これまで必ず直面してきたはずの数々の「素朴な疑問」に英語史の観点からスパッと切り込んでいきます.3時間たっぷりの講座のなかで,ナルホドと何度も膝を打つ機会があるはずです.冒頭に英語史の概観もおこないますので,英語史という分野に接するのが初めてであっても心配ありません.皆さんの「素朴な疑問」も持ち寄りつつ,楽しみに参加してもらえればと思います.
なお,おかげさまで前回の「#3606. 講座「北欧ヴァイキングと英語」」 ([2019-03-12-1]) は(狭い教室とはいえ)満席となりまして,嬉しいかぎりですが,希望して受講できなかった方もおられたようです.どうぞ早めにお申し込みください.
標題の He is to blame. は「彼は責められるべきだ;彼には責任がある」という意味のフレーズだが,厳密に態 (voice) を考慮すれば,「彼」は「責められる」立場であるから He is to be blamed. と不定詞も受け身になるべきだと思われるかもしれない.実際,後者でも意味は通じるし,もちろん文法的なのだが,慣習的なフレーズとしては前者が用いられる.なぜだろうか.
これは,動名詞について解説した「#3604. なぜ The house is building. で「家は建築中である」という意味になるのか?」 ([2019-03-10-1]) と「#3605. This needs explaining. --- 「need +動名詞」の構文」 ([2019-03-11-1]) とも関係する.動名詞と同様に不定詞 (infinitive) も動詞の名詞化という機能をもっている.動名詞や不定詞により動詞が名詞化すると,もともとの動詞がもっていた態の対立は中和し,能動・受動の区別なく用いられるようになる.to blame は,したがってこの形で能動的に「非難すべき」ともなり得るし,受動的に「非難されるべき」ともなり得るのである.区別が中和されているということは,文脈によりいずれにも解釈し得るということでもある.He is to blame. の場合には,意味上,受け身として解釈されるというわけだ.There is a house to let. や I have something to say. のような「形容詞的用法」の不定詞も,態の中和という発想に由来する(中島,p. 238).
ただし,不定詞(や動名詞)の態の中和は,あくまでそれが強い名詞性を保っていた時代の特徴である.近代以降,不定詞(や動名詞)はむしろ動詞的な性格を強めてきており,中和されていた態の対立が復活してきている.その結果,慣習的ではないとはいえ He is to be blamed. も文法的に許容されるようになった.標題のような構文は,古い時代の特徴を伝える生きた化石のような存在なのである.
・ 中島 文雄 『英語発達史 改訂版』岩波書店,2005年.
昨日発売の大修館書店『英語教育』2019年4月号より,「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」と題する連載を開始しました.同誌の昨年9月号に,同じ趣旨で単発の記事を寄稿させていただきましたが,その延長編というようなシリーズになります(cf. 「#3396. 『英語教育』9月号に「素朴な疑問に答えるための英語史のツボ」が掲載されました」 ([2018-08-14-1])) .
初回となる4月号の話題は「第1回 なぜ3単現に -s をつけるのか」です.2ページという誌面に,この問題のエッセンスを煎じ詰めて書きました.また,導入の節では,連載開始の挨拶かたがた「英語史を学ぶメリット」を力説しました.ぜひご一読ください.初回ならではの力みには目をつぶっていただき,今後ともよろしくお願い致します.
連載のタイトルに「英語指導の引き出しを増やす」と前置きしてある通り,また『英語教育』という雑誌の記事であることから,当然ながらまず第一に英語の先生を読者として念頭においていますが,一般の英語学習者や英語学の学生の読者も意識して執筆していますので,英語の教育・学習に関係する方々に広く読んでもらえればと思います.
英語史の「ツボ」という連載タイトルですが,『広辞苑』によれば「ツボ」とは「急所.要点.かんどころ」の意.毎回この意味をとりわけ強く意識して執筆していきます.よろしくどうぞ.
・ 堀田 隆一 「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ 第1回 なぜ3単現に -s をつけるのか」『英語教育』2019年4月号,大修館書店,2019年3月14日.62--63頁.
標題の文は古風な表現ではあるが,現在でも使われることがある.「家が建てられているところだ」という受動的な意味に対応させるには,受動進行形を用いて The house is being built. となるべきではないのかと疑問に思われるかもしれない.この疑問はもっともであり,確かに後者の受動進行形の構文が標準的ではある.しかし,それでもなお,標題の The house is building. は可能だし,歴史的にはむしろ普通だった.能動態と受動態という態 (voice) の区別にうるさいはずの英語で,なぜ標題の文が許されるのだろうか.
歴史的には,The house is building. の building は現在分詞ではなく動名詞である.同じ -ing 形なので紛らわしいが,両者は機能がまったく異なる.The house is building. の前段階には The house is a-building. という構文があり,さらにその前段階には The house is on building. という構文があった.つまり,building は build の動名詞であり,それが前置詞 on の目的語となっているという統語構造なのである.意味的にはまさに「建築中」ということになる.前置詞 on が弱化して接頭辞的な a- となり,それがさらに弱化し最終的には消失してしまったために,あたかも現在進行形構文のような見栄えになってしまったのである.
動名詞は動詞由来であるから動詞的な性質を色濃く残しているとはいえ,統語上の役割としては名詞である.態とは本質的に動詞にかかわる文法範疇であり,名詞には関与しない.したがって,動「名詞」としての building では,「建てる」と「建てられる」の態の対立が中和されている.まさに日本語の「建築」がぴったりくるような意味をもっているのだ.前置詞 on を伴って「建築中」の意となるのは自然だろう.
このような構文は,古風とはいえ現在でも用いられることがあるし,近代英語まで遡ればよくみられた.類例として,以下を挙げておこう(中島,pp. 229--30).
・ The whilst this play is playing --- Hamlet, III. ii. 93.
・ While grace is saying -- Merch. V., II. ii. 202
・ What's doing here?
・ The dinner is cooking.
・ The book is printing.
・ The tea is drawing.
・ The history which is making about us.
標題の問いに戻ろう.主語の the house と,building のなかに収まっているもともとの動詞 build とは,歴史的にいえば直接的な統語関係にあるわけではない.言い方をかえれば,build the house という動詞句を前提とした構文ではないということだ.一方,現代の標準的な The house is being built. は,その動詞句を前提とした構文である.つまり,2つの構文は起源がまったく異なっており,比べて合ってもしかたない代物なのである.
現在分詞と動名詞が,まったく異なる機能をもちながらも,同じ -ing 形となっている歴史的経緯については,「#2421. 現在分詞と動名詞の協働的発達」 ([2015-12-13-1]) を参照されたい.
・ 中島 文雄 『英語発達史 改訂版』岩波書店,2005年.
3年ほど前の年度末に「#2470. 2015年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2016-01-31-1]) というアンケートを取ったが,今年度も大学で英語史概説の講義を一通り終えたあとで感想や意見を募ってみた.いくつか目にとまったものを再現したい.
・ 英語史的な「裏を返してみる」といった思考が備わったことが大きいと思いました.〔中略〕なぜ,a apple はだめなのか,なぜ children なのか,なぜ三単現がいるのか,など.このような疑問に答えられる先生が自分の学校に欲しかったという思いから来ている部分もありますが,この1年で学んだことをこれからさらに深め,そうした形で知識を活かせる程の力をつけたいと考えています.
・ 今後の英語学習において疑問が浮かんだ際に,「この問題は英語史的な観点ではどう見えるのだろう」という新しい一つの観点を獲得できたことは,私にとってとても大きな財産であると考えます.何よりも,人間の歴史と英語の歴史を重ねて研究していく作業そのものが,とても楽しかったです.
・ 世界史で覚えていた事柄に英語史という新たな歴史が肉付けされていく喜びを感じました.
・ なんだか英語史と聞くととっつきにくいイメージがあったが,英語史というものは,結構人間くさくておもしろいものだと分かった.
・ 言葉はその言葉を使っている人全員で作りあげるものだと思います.なので今自分も英語を勉強していますが,気構えずにもっと気楽に英語を使う姿勢が大切だと気づけたことが,最も価値のある学びだったと思っています.
・ こうした権力と深く結びついた言語を日常で用いることは,まさに日常に於いて社会の権力関係を反すうすることであり,これを無意識的に行うのは問題のあることではないかと感じさせられた.そうした気付きを通じて,言語をより重大なものと捉えるようになった.
・ 言語が歴史・文化そして何よりも人々の mind をうつし出す鏡であると感じた.戦争があれば独自性を自国の母語に求め,合理的な考え方が流行すれば言語表現や解釈にも合理性をもとめる.刻一刻と変化しつづける世の中の態度でもって言語は簡単(でもないが)に変化してしまう.そういう鏡であると感じた.
・ 私は英語の教員を目指すなかで,生徒に英語を楽しく学んでもらうにはどうするべきか,ということにとても頭を悩ませてきた.今年度の英語史を受講してそのヒントとなることをたくさん見つけることができた気がする.英語の「実は○○」を知って,自分がとてもわくわくしたのと同じように,生徒にも,英語をわくわくしながら学んでもらえる授業をしたいと思う.
・ [英語が]今後どのような変化をするのか知ることはできないが興味がわいたし,この授業をとらなければそんな感情は抱かなかったと思う.
・ 物事を判断する際は何となくで1つの結論におとしこまず,その背景をよく見てから判断していく必要があるのだろう.
・ 世界史の授業のように「覚えることが多くて大変そう」というようなマイナスイメージで始まった英語史でしたが,今では偶然が偶然を呼ぶ,奇跡の記録という認識を持っているのでとても楽しいです.〔中略〕「英語史は一流のコントである」が私の1年間の英語史の授業を通して学んだことです.
・ これまで学校や塾で何十年も英語を学んできて「なぜ?」と思っても「そういうルールだから」と流されてしまっていた事をこの英語史の講義を通して知ることができたと思っています.〔中略〕おそらくこの講義を受けていなければ知ることも知ろうとすることもなかったと思います.また,この講義を通して,疑問を持つことの重要さも知ることができました.普段何とも思っていないような事柄に長い歴史があることなども知ることができました.
・ 言語というものは,人間が用いる道具としての役割を持つだけでなく,人間の歴史と人間そのものを表しているということである.
・ つづりがむずかしいのは生徒のせいではないということをちゃんと説明できるようになりました.
・ 単なる教科としての「言語」に,こんなにも広い背景と歴史との関わりがあったことがわかり,一種の息吹が生まれたというか,言語も「生きている」のだなと感じた.
・ 知っていたけれどもわかっていたわけではなかったことに気付かされたということに私は価値を見出しました.
・ 言語はさかのぼって解きほぐすことはできるけど,未来の形は予想できないということです.
・ 「もしも」や歴史の見方を英語史の授業から学べたことは,とても価値があったと思う.
・ 「英語」という偉大な大きな何かではなく,人の中にある,利用される生きた言語としてうけとめやすくなる.私は英語の教員免許の取得を目指しているが,教員になった暁には,ぜひ生徒にも伝えたいと思う学びであった.
・ これからも英語は長い年月をかけて少しづつ変わっていくのかもしれないが,それも我々の行動に基づいて形成されていくのだとすると,我々がことばという1つの道具をぞんぶんに活用することは,私たちの権利というよりは義務なのかもしれないとも思う.
・ 改めて学際的な学問の良さすばらしさに気づかせてくれたことが,私にとって最も価値あることである.
・ 英語を学問する立場として英語史の知識は必要不可欠であるし,スキルの向上にしか目が無い学習者との一線や豊かな知識をたくわえることができると感じる.
・ 今英語という言語が存在し,ましてや世界的言語という地位にのぼるまでには,本当にたくさんの人々の行動や努力によってなされたのだな,とそう考えることもできると思います.フランス語から支配されており,もしフランス語が英語を放っておかずに強制的に庶民にもフランス語をたたきこんでいたら英語は消えていたのか?と考えると英語の存在はきせきであると感じます.私達がこのように当たり前に使い,時には嫌っているものが,その歴史や詳細を学ぶことでその存在自体がすごいと思える,このことを英語史で学べました.
・ 私は今も英語を勉強し,話したりもするが,何百年も前の時代や人々の息吹がかかった言葉を使っているのだと思いながらすると,非常にワクワクドキドキする.そして英語がさらに好きになる.この授業を通して,英語に新たに大きな魅力を見出すことが出来た.
・ 英語史を学ぶまで,英語は数学や物理と同じ“科目”としか思っていませんでした.〔中略〕英語は義務教育で習う科目の1つではなく,日本語と同じ言語の1つなんだということに気づかせてくれた点で,英語史は私にとって価値あるものでした.
・ 英語も使い倒され,刻々と変化してきた言語であり,これからも変わっていくと考えると,英語の学びにも柔軟になった気がする.
様々なレベルの「学び」があったようで,講義担当者としては嬉しい限りである.来年度も英語史を,そして英語史から,学んでいきましょう.
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