昨日の記事「#1632. communicative competence」 ([2013-10-15-1]) の最後に ethnography of speaking という社会言語学の1分野に触れた.communicative competence を構成する要素に,いつ話してよいのか,どのように話しを始めればよいのか,いつ沈黙すべきか,どのくらい話しをしてもよいのかなどの知識が含まれるが,これらの規範は言語文化によって大きく異なる.様々な言語文化におけるそのような規範を記述し比較するのが,ethnography of speaking の目的である.
Wardhaugh (254--59) より世界からの実例を挙げよう.南西アフリカのブッシュに住まう !Kung (クン族)は,生活を営む上で,おしゃべりに非常に高い価値を与えている.物語を作り上げることには関心がないが,あらゆる事柄を話題にし,特に贈り物の贈与や食べ物の話し好む.彼らは,集団の社会関係を平和に保つために,そして場に漂う不安要素を取り除くために,おしゃべりを最大限に利用する.
ティモールの南西端に住む Roti も,おしゃべりを人生の最大の喜びとする民族である.無駄話はもちろん,討論から,口論,おしゃべり上手の披瀝,言葉遊びまで,ひたすら話しをする.そこでは沈黙は否定的に見られる.カナダ西部 British Columbia の Bella Coola の人々もおしゃべりに価値を置き,チリの Araucanian の男性も雄弁を尊ぶ.西インド諸島の Antigua でもおしゃべりが生活の一部であり,そこでは仲間のおしゃべりに参加するのに独特な規範がある.すでにおしゃべりをしている仲間に入って行くのに特別な挨拶は必要ない.そもそも,参加したことに対して,周囲から注意を払われることがない.やおら話しを始めると,聞いてもらえるかもしれないし,聞いてもらえないかもしれない.聞いてもらえなければ,もう一度声を上げるかもしれないし,聞き役に回るかもしれない.話し始めるときには,すでに起こっている会話の話題と関係があろうがなかろうが問題ない.会話に割って入ることは失礼ではなく,当然の権利としてみなが共有している.
上記の話し好きな人々と対照的な例としてあげられるのが,米国 Arizona 州中東部の Western Apache である.彼らは,場に不安が感じられる場合,むしろ沈黙を選択する.同族の人であれ,外部の人であれ,見知らぬ人に会うと沈黙するのが規範である.彼らは,容易に新しい社会関係を作ることをしない.子供が寄宿学校から帰省した場合でも,家族の挨拶は沈黙でなされ,子供の存在が場になじんでくるまでは会話がなされない.叱り飛ばされても,反応は沈黙でなされなければならない.たとえ不当な叱りつけであっても,ことばで応答することは,事態を悪化させるという考え方があるからだ.求愛も沈黙でなされ,とりわけ女性は沈黙でいつづけることが期待される.弔意も言葉を使わずに沈黙で表現する.
沈黙についていえばさらに極端な例が,南インドの Puliyanese に見られる.彼らは個人を尊ぶ文化をもっており,40歳を超える頃にはほとんど話をしない状態になるという.一方,コロンビアの Aritama は,寡黙であるばかりでなく,口を開く時にはあえてとらえどころのない表現を用いるという.また,一般的に言葉による自己主張が強いと思われている欧米文化のなかでも,デンマーク人は沈黙を好み,長いあいだ話をせずに人と同席していることができるという.そこには,話す必要がなければ話さないという規範が存在する.
実際,多くの文化において,沈黙は何かを物語るものとされている.沈黙はゼロの情報ではなく,言語文化によって具体的な内容は異なるが,敬意,安らぎ,支援,意見への反対,不安などを伝える有効な手段である.平均的な欧米人に比べれば沈黙を尊ぶといわれる日本人は,日々その価値を認め,実際に利用している.だが,Western Apache や Aritama のような超沈黙文化の例をきくと,世界広しと思わざるを得ない.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
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