英語は,現代世界のリンガ・フランカ (lingua_franca) として世界中に分布を拡大させている.英語はある意味では,はるか昔,紀元前の大陸時代より,ブリテン諸島のケルト民族や新大陸の先住民をはじめ世界中の多くの民族の言語の分布を縮小させ,自らの分布を拡大させてきた歴史をもつ.
一見すると「負け知らず」の言語のように思われるかもしれないが,必ずしもそうではない.他の言語との競争に敗れて分布を縮小させたり,ときに不使用となる場合すらあったし,現在もそのような事例がみられるのである.今回は,この英語(史)の意外な事例をいくつかみていきたい.参照するのは Trudgill の "English in Retreat" と題する節 (27--29) である.
歴史的に古いところから始めると,12--15世紀のアイルランドの事例がある.Henry II は,1171年にアングロ・ノルマン軍を送り込んでアイルランド侵攻を狙い,その一画に英語話者を入植させた.しかし,彼らはやがて現地化するに至り,英語が根づくことはなかった.英語としては歴史上初めて本格的な分布拡大に失敗した機会だったといえる(cf. 「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]),「#2361. アイルランド歴史年表」 ([2015-10-14-1])).
ぐんと現代に近づいて19世紀のことになるが,私たちにとって非常に重要な --- しかしほとんど知られていない --- 英語の敗北の事例がある.舞台はなんと小笠原群島である.この群島はもともと無人だったが,1543年にスペイン人により発見され,その後,主に欧米系の人々により入植が進み,19世紀には英語ベースの「小笠原ピジン英語」 (Bonin English) が展開していた.しかし,19世紀後半から日本がこの地の領有権を主張し,島民の日本への帰化を進めた結果,日本語が優勢となり,現在までに小笠原ピジン英語はほぼ廃用となっている.詳しくは「#2559. 小笠原群島の英語」 ([2016-04-29-1]),「#2596. 「小笠原ことば」の変遷」 ([2016-06-05-1]),「#3353. 小笠原諸島返還50年」 ([2018-07-02-1]) を参照されたい.
現在の事例でいえば,カナダのケベック州が挙げられる.フランス語が優勢な同州において,英語が劣勢に立たされていることはよく知られている(cf. 「#1733. Canada における英語の歴史」 ([2014-01-24-1])).住人の帰属意識を巡る政治・歴史問題が関わっており,「世界の英語」といえども単純に分布を広げられるわけではないことをよく示している.
また,あまり知られていないが,中央アメリカのカリブ海沿岸にも,英語母語話者集団でありながら言語的・社会的に劣勢に立たされている人々の住まう土地が点在している.彼らのルーツは19世紀後半よりジャマイカなどから中央アメリカの大陸沿岸地域へ展開した人々で,しばしば奴隷として社会的地位の低い集団とみなされていた.現在でも,関連する各国の公用語であるスペイン語のほうが威信が高く,当地では英語使用に負のレッテルが張られている.関連する記事として「#1679. The West Indies の英語圏」 ([2013-12-01-1]),「#1702. カリブ海地域への移民の出身地」 ([2013-12-24-1]),「#1711. カリブ海地域の英語の拡散」 ([2014-01-02-1]),「#1713. 中米の英語圏,Bay Islands」 ([2014-01-04-1]),「#1714. 中米の英語圏,Bluefields と Puerto Limon」 ([2014-01-05-1]),「#1731. English as a Basal Language」 ([2014-01-22-1]) を挙げておく.
ほかにも,19世紀半ばにアメリカ南北戦争で敗者となった南部人がブラジルに逃れた子孫が,今もブラジルに英語母語話者集団として暮らしているが,同国の公用語であるポルトガル語に押されて劣勢である.また,1890年代に社会主義的ユートピアを求めてパラグアイに移住したオーストラリア人の子孫が今も暮らしているが,若者の間では土地の言語である Guaraní への言語交替が進行中である.
英語は過去にも現在にも「負け知らず」だったわけではない.
・ Trudgill, Peter. "The Spread of English." Chapter 2 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 14--34.
ここ数日,小笠原諸島返還50年の話題がメディアで取り上げられている.去る6月28日が返還日だった.朝日新聞デジタルより,いくつかの記事へのリンクを張ろう.1830年に初めて小笠原へやってきたアメリカ人セーボレーの子孫の方々の写真もみられる.
・ 「絶海の島,戦禍越え文化溶け合う 小笠原返還50年」
・ 「まるで大河ドラマ 世界遺産・小笠原,その数奇な運命」
・ 「戦争が島の絆を引き裂いた 「小笠原返還の歌」誕生秘話」
・ 「亡き兄の夢を羅針盤に,たどり着いた小笠原 新島民は今」
小笠原諸島の言語史・事情は非常に特殊であり,「#2559. 小笠原群島の英語」 ([2016-04-29-1]) と「#2596. 「小笠原ことば」の変遷」 ([2016-06-05-1]) で話題にしてきた.まだ分かっていないことも多いのだが,言語混交が濃密かつ高速に生じてきた歴史をもつとされ「言語の圧力鍋」と呼ばれている(ロング,p. 155).
以下,7月1日の朝日新聞朝刊に掲載されていた「小笠原年表」を引用しておきたい.小笠原の歴史,現在,未来に想いを馳せましょう・・・.
| 1830年 | 父島に欧米や太平洋諸島の二十数人移住 |
| 76年 | 明治政府が領有宣言 |
| 82年 | 欧米系島民らが帰化 |
| 95年 | 諸島の人口約4千人に(最大は1944年の7711人) |
| 1941年 | 太平洋戦争勃発 |
| 45年 | 2月,米海兵隊が硫黄島上陸.死者は米国側6821人,日本側2万1千人超;8月,終戦 |
| 46年 | 欧米系島民129人が帰島 |
| 52年 | サンフランシスコ講和条約発効.小笠原諸島・沖縄・奄美が米国施政権下に |
| 65年 | 日本人旧島民が初めて墓参 |
| 68年 | 6月26日,小笠原諸島返還.日本人の帰島始まる |
| 72年 | 4月,東京・父島間の定期船就航 |
| 76年 | 5月,父島・母島間の定期船就航 |
| 79年 | 4月,諸島全域が小笠原村 |
| 83年 | 6月,小笠原・本土間の電話,ダイヤル即時通話が可能に |
| 88年 | 鈴木都知事が兄島飛行場建設案を公表 |
| 96年 | 飛行場予定地で希少植物が見つかり,後に飛行場案は撤回 |
| 2005年 | 超高速船計画が頓挫 |
| 2011年 | 6月,世界自然遺産登録;7月,海底光ケーブル敷設で地上デジタル放送視聴や高速データ通信が可能に |
標題の the Falkland Islands (フォークランド諸島; Falklands とも) といえば,1982年のフォークランド紛争が想起される.南大西洋上,南米大陸から480キロほど東の沖合に浮かぶこの諸島はイギリスの植民地だが,歴史的に領有権を主張するアルゼンチンがこの年に軍事的侵入を試みたことに発する国際紛争である.イギリスはサッチャー首相のもとでアルゼンチンと国交断絶した上で,大艦隊をもって報復し,アルゼンチン軍を一掃した.イギリス国民は大国意識をくすぐられたかのごとく狂喜し,西側諸国も概ねイギリスを支持したが,大英帝国の時代を懐かしむかのような時代錯誤感が否めず,その後の世論は必ずしもイギリスにとって芳しくない.両サイドに数百人の死者が出た事件だった.

フォークランド諸島の地理と歴史を覗いてみよう.諸島には West Falkland と East Falkland の2つの主たる島がある.ここにイギリス系住民が2100人ほど住んでいる.1690年,イギリスの船長 John Strong が諸島に上陸したとの記録が残っている.島名は,この Strong 船長が Viscount Falkland にちなんで名付けたものだという.しかし,1765年に最初の居住地を建設したのは de Bougainville に率いられたフランス人たちであり,イギリス人居住地の建設はそれから1年遅れた.1767年にはスペインがフランス居住地を購入し,その後一時的にイギリス人を追い払ったが,イギリス人は統治権を手放したわけではなかった.1811年,今度はスペイン居住地が撤退することとなった.
その後,1816年にスペインから独立を果たしたアルゼンチンが,1820年にフォークランド諸島の領有権を宣言した(アルゼンチンでは諸島を Las Islas Malvinas と呼んでいる.これは,島を訪れた Saint-Malo 出身のブルトン人漁師にちなんでフランス語 Les îles Malouines と名付けられたもののスペイン語名である).しかし,1831年にアメリカの軍艦が East Falkland のアルゼンチン居住地を攻撃し,1833年にはイギリス軍も介入してアルゼンチンの役人を追い払った.1841年,イギリスはフォークランド諸島総督を任命し,1885年までに2つの島で1800人ほどのイギリス人社会を作り上げた.そして,1892年にイギリス植民地となった.
以降,首都である East Falkland の Port Stanley では,オーストラリアやニュージーランドの英語といくぶん似通った英語変種が発達してきた.互いに深い接触があったとは思えないが,羊毛刈り労働者がオーストラリア,ニュージーランド,フォークランド諸島のあいだを往復していたという事実があり,これらの方言混交の結果として互いの英語変種に似ている部分が見られるということかもしれない.また,West Falkland の個々の村落で話される変種は,先祖の出身地であるイギリスの特定の地方方言と結びつけられるという.なお,フォークランド諸島の変種では non-prevocalic r に関しては non-rhotic である.
以上,Trudgill and Hannah (123--24) および McArthur (397) の記述に依拠して書いた.CIA: The World Factbook による Falkland Islands や Ethnologue による Falkland Islands も参照.
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
・ Trudgill, Peter and Jean Hannah. International English: A Guide to the Varieties of Standard English. 5th ed. London: Hodder Education, 2008.
「#2559. 小笠原群島の英語」 ([2016-04-29-1]) で,かつて小笠原群島で話されていた英語変種を紹介した.この地域の言語事情の歴史は,180年ほどと長くはないものの,非常に複雑である.ロング (134--35) の要約によれば,小笠原諸島で使用されてきた様々な言語変種の総称を「小笠原ことば」と呼ぶことにすると,「小笠原ことば」の歴史的変遷は以下のように想定することができる.
19世紀にはおそらく「小笠原ピジン英語」が話されており,それが後に母語としての「小笠原準クレオール英語」へと発展した.19世紀末には,日本語諸方言を話す人々が入植し,それらが混淆して一種の「コイネー日本語」が形成された.そして,20世紀に入ると小笠原の英語と日本語が入り交じった,後者を母体言語 (matrix language) とする「小笠原混合言語」が形成されたという.
しかし,このような変遷は必ずしも文献学的に裏付けられているものではなく,間接的な証拠に基づいて歴史社会言語学的な観点から推測した仮のシナリオである.例えば,第1段階としての「小笠原ピジン英語」が行なわれていたという主張については,ロング (134--35) は次のように述べている.
まずは,英語を上層言語とする「小笠原ピジン英語」というものである.これは19世紀におそらく話されていたであろうと思われることばであるが,実在したという証拠はない.というのは,当時の状況からすれば,ピジンが共通のコミュニケーション手段として使われていたと判断するのは最も妥当ではあるが,その文法体系の詳細は不明であるからである.言語がお互いに通じない人々が同じ島に住み,コミュニティを形成していたことが分かっているので,共通のコミュニケーション手段としてピジンが発生したと考えるのは不自然ではない〔後略〕.
同様に,「小笠原準クレオール英語」の発生についても詳細は分かっていないが,両親がピジン英語でコミュニケーションを取っていた家庭が多かったという状況証拠があるため,その子供たちが準クレオール語 (creoloid) を生じさせたと考えることは,それなりの妥当性をもつだろう.しかし,これとて直接の証拠があるわけではない.
上記の歴史的変遷で最後の段階に相当する「小笠原混合言語」についても,解くべき課題が多く残されている.例えば,なぜ日本語変種と英語変種が2言語併用 (bilingualism) やコードスイッチング (code-switching) にとどまらず,混淆して混合言語となるに至ったのか.そして,なぜその際に日本語変種のほうが母体言語となったのかという問題だ.これらの歴史社会言語学的な問題について,ロング (148--55) が示唆に富む考察を行なっているが,解決にはさらなる研究が必要のようである.
ロング (155) は,複雑な言語変遷を遂げてきた小笠原諸島の状況を「言語の圧力鍋」と印象的になぞらえている.
小笠原諸島は歴史社会言語学者にとっては研究課題の宝庫である.島であるゆえに,それぞれの時代において社会的要因を突き止めることが比較的簡単だからである.その社会言語学的要因とは,例えば,何語を話す人が何人ぐらいで,誰と家庭を築いていたか,日ごろ何をして生活していたか,誰と関わり合っていたかなどの要因である.
小笠原のような島はよく孤島と呼ばれる.確かに外の世界から比較的孤立しているし,昔からそうであった.しかし,その代わり,島内の人間がお互いに及ぼす影響が強く,島内の言語接触の度合いが濃い.
内地(日本本土)のような一般的な言語社会で数百年かかるような変化は小笠原のような孤島では数十年程度で起こり得る.島は言語変化の「圧力鍋」である.
・ ロング,ダニエル 「他言語接触の歴史社会言語学 小笠原諸島の場合」『歴史社会言語学入門』(高田 博行・渋谷 勝巳・家入 葉子(編著)),大修館,2015年.134--55頁.
小笠原群島は,英語の別名を Bonin Islands という.人が住んでいなかったところから,日本語の「無人(ぶにん)」に由来するという説がある.実は,ここには世界で最も知られていない英語話者の共同体がある.Trudgill の用語集より,Bonin Islands の項 (18) を覗いてみよう.
Bonin Islands Perhaps the least-known anglophone community in the world, these Japanese-owned islands (Japanese Ogasawara-gunto) are in the central Pacific Ocean, about 500 miles southeast of Japan. The population is about 2,000. The islands were discovered by the Spanish navigator Ruy Lopez de Villalobos in 1543. They were then claimed by the USA in 1823 and by Britain in 1825. The originally uninhabited islands were first settled in 1830 by five seamen --- two Americans, one Englishman, one Dane and one Italian --- together with ten Hawaiians, five men and five women. This founding population was later joined by whalers, shipwrecked sailors and drifters of many different origins. The islands were annexed by Japan in 1876. The English is mainly American in origin and has many similarities with New England varieties.
小笠原群島(聟島,父島,母島の3列島)を含む小笠原諸島の歴史は複雑である.もともとは無人の地域であり,1543年にスペイン人ビラロボスにより発見されたといわれている.日本人としては,豊臣秀吉の命で南方航海した小笠原貞頼が1593年に発見したのが最初だ.後に徳川家康によりこの発見者の名前が付され,現在の名称となる.1675年に幕府は開拓を図るが挫折し,1727年に小笠原一族による渡島も失敗した.その後も対外的対策から開拓の発議は出されたが,実質的には実らなかった.
とかくするうちに,19世紀前半にアメリカ船員が母島に,イギリスの艦船が父島にそれぞれ寄港して,領有宣言した.1830年にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住人を引き連れて移住した.帰属問題を巡って米英間で紛議が起こるも,その一方で幕府は1862年に日本領として領有を宣言.幕府はこのとき八丈島民の移住を企てたが,失敗している.その後,日本は1873年に諸島の本格的な経営に乗りだし,先住のアメリカ人らを徐々に日本に帰化させた.第2次大戦後では硫黄島が日米の激戦地となり,戦後はアメリカに施政権が移ったが,1968年に日本に返還された.
上の略史からわかる通り,小笠原群島では,有人化した最初の段階から,日本語ではなく(ある変種の)英語が話されていたといえる.その英語変種は早くからピジン語化し,さらに20世紀にかけては日本語と混淆してクレオール語となって,島のアイデンティティと結びつけられるようになった.Wikipedia: Bonin English によれば,20世紀中にも家庭内では Bonin English が一般に用いられたというが,特に戦後は日本語(の単一言語)化が進んできているとのことである.

・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
「#2305. 英語を説明する25の地図」 ([2015-08-19-1]) の11番目として挙げられている Tristan da Cunha について付け加える.Tristan da Cunha は,アフリカ南部と南アメリカ大陸のどちらからも遠く離れた絶海の孤島.南アフリカからは約2400キロ,南アメリカからは約3360キロ離れている.6つの小島からなり,有人島は Tristan da Cunha と Gough Island の2つのみである.この群島は,1506年にポルトガル人の海軍将官 Tristão da Cunha によって発見された.17世紀以降,何度かにわたって定住の試みがあったが失敗し,初めて成功したのは1816年のイギリス駐屯軍によるものである.St. Helena に島流しにされたナポレオンの救出を阻止するための派兵とされる.その1816年に英国領として併合されたが,翌1817年に軍は撤退し,それ以降は,島に残った少数の者たちと,難破したヨーロッパ人の漂流者たちが島民人口のほとんどであった.1886年には97人がいたとの報告がある.1938年には St. Helena の保護領となったが,2009年にその地位は解消され,英国海外領 St Helena, Ascension and Tristan da Cunha の一部となっている.2015年現在,人口は259人であり,そのほとんとが英語を母語とする ENL 地域である.

以下,関連する外部リンクを張っておく.
・ Website of the Tristan da Cunha Government and Tristan Association
・ Wikipedia による Tristan da Cunha の記事
・ BBC による St Helena, Ascension, Tristan da Cunha profiles
・ CIA: The World Factbook による Saint Helena, Ascension, and Tristan da Cunha
・ Edgar Allan Poe による The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838) の Chapter 15 に,Tristan da Cunha の歴史的,地理的な詳しい記述がある.
なお,St. Helena については,「#177. ENL, ESL, EFL の地域のリスト」 ([2009-10-21-1]),「#215. ENS, ESL 地域の英語化した年代」 ([2009-11-28-1]),「#1919. 英語の拡散に関わる4つの crossings」 ([2014-07-29-1]) でも軽く触れている.
(後記 2015/09/01(Tue): McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992. の "TRISTAN DA CUNHA" (1056) の項も参照.この英語変種は,Highland English と同じ特徴を有すると考えられている.)
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
英語話者や英語圏をモデル化する試みについては,model_of_englishes の各記事で話題に取り上げてきた.とりわけ古典的な分類は ENL, ESL, EFL と3区分するやり方だが,ここにもう1つ EBL (English as a Basal Language) を加えるべきだとの注目すべき見解がある.「#1713. 中米の英語圏,Bay Islands」 ([2014-01-04-1]) と「#1714. 中米の英語圏,Bluefields と Puerto Limon」 ([2014-01-05-1]) で参照した Lipski の論文を読んでいるときに出会った見解だ.Lipski (204) は,次のように述べている.
In offering a classification of societies where English is used, Moag suggests, in addition to the usual English as a native/second/foreign language, a new category: English as a Basal Language, defined for a society in which "English is the mother tongue of a minority group of a larger populace whose native tongue, often Spanish, is clearly the dominant language of the society as a whole." . . . . Moag's typology is undoubtedly useful and underlines the necessity for expanding the currently accepted typologies to accommodate such situations as the CAmE groups.
そこで,引用されている Moag の論文に当たってみた.Moag (14) によると,EBL として指示される地域には次のようなものがあるという.Argentina, Costa Rica (Jamaican Blacks), Dominican Republic (Samaná), Honduras (Coast and Bay Islands), Mexico (Mormon Colonístas), Nicaragua (Meskito Coast), Panama, San Andres (Columbia), St. Maarten (Netherlands Antilles) .
EBL の最大の特徴は,引用中に定義にもあるとおり,少数派としての英語母語使用にある.少数派の英語母語話者共同体が多数派のスペイン語母語話者共同体に隣接して暮らしているという構図だ.従来のモデルでは,このような社会言語学的状況におかれた英語変種を適切に位置づけることができなかった.というのは,従来の3区分では,英語は常に社会的に権威ある言語であるという前提が暗に含まれていたからだ.ENL では,当然ながら英語母語話者が多数派なので,英語の社会的な安定感は確保されている.ESL や EFL でも,国内的,国際的な lingua franca としての英語の役割は概ねポジティヴに評価されている(植民地主義への反感などによる例外はあるが,Moag (36) にあるように,多くの場合は一時的なものであると考えられる).ところが,上記の地域では,英語は少数派言語として多数派言語によって周縁に追いやられており,さらにはその母語話者によってすらネガティヴな評価を与えられているのである(母語話者によるネガティヴな評価は,その英語変種が標準的な変種というよりはクレオール化した変種であるという点にしばしば帰せられる).
英語が(母語話者によってすら)負の評価を与えられているという社会言語学的状況は,ぜひともモデルのなかに含める必要があるだろう.かくして,ENL, ESL, EFL, EBL の4区分という新モデルが提案されることとなった.Moag (12--13) では,この4種類を区別するのに26の細かな判断基準を設けている.ただし,Moag の論文は30年以上も前のものなので,「EBL 地域」の最新の言語事情が知りたいところではある.
・ Lipski, John M. "English-Spanish Contact in the United States and Central America: Sociolinguistic Mirror Images?" Focus on the Caribbean. Ed. M. Görlach and J. A. Holm. Amsterdam: Benjamins, 1986. 191--208.
・ Moag, Rodney. "English as a Foreign, Second, Native and Basal Language." New Englishes. Ed. John Pride. Rowley, Mass.: Newbury House, 1982. 11--50.
昨日の記事「#1713. 中米の英語圏,Bay Islands」 ([2014-01-04-1]) に引き続き,中米における英語圏について.今日は,Bluefields (Nicaragua) と Puerto Limón (Costa Rica) の英語事情に注目したい.
Nicaragua のカリブ海に面した港町 Bluefields は,British West Indian, Nicaraguan ladino, Miskito (Afro-Indian) の人々を混合させた多文化の地である.アフリカ系ヨーロッパ人は英語を母語として話し,それ以外は程度の差はあれスペイン語を話す.Nicaragua のカリブ海岸は19世紀半ばまでイギリスの支配下にあり,同種の周辺地域と同様に,英領西インド諸島を経由してやってきたアフリカ人やヨーロッパ人が住みつくことが多かった.現在,その子孫たちが英語を話していることになる.Bluefields の英語話者集団は,昨日の Bay Islands の英語話者集団と同様に,スペインを話す国内の多数派集団とよりも,周辺諸国の英語圏諸地域との連携のほうが強い(以上,Lipski, pp. 194--95 より).

次に,Costa Rica のカリブ海岸に面する Puerto Limón に話を移そう.「#1702. カリブ海地域への移民の出身地」 ([2013-12-24-1]) や「#1711. カリブ海地域の英語の拡散」 ([2014-01-02-1]) の年表で示したが,Puerto Limón の英語使用の歴史は,Bay Islands や Bluefields に比べて遅めである.この町の英語話者の先祖は,1871年以降に鉄道建設のために Jamaica などから連れてこられた大量の黒人労働者である.彼ら労働者たちは,一般の Costa Rica 国民からは隔離され,その後も現在に至るまで融合したとは言いがたい.Puerto Limón の英語話者比率は,Bay Islands や Bluefiedls に比べて低いが,英語による教育の機会などは与えられている(以上,Lipski, pp. 195--96 より).

昨日と今日の記事で Bay Islands, Bluefields, Puerto Limón など一般には知られていない中米の英語圏を話題にしたのは,母語としての英語が社会の少数派によって話されている地域が,現代世界に存在するという事実に注意を向けたかったからである.上記のいずれの地でも,英語の社会的な立場は,威信のある周囲の多数派言語であるスペイン語の圧力により,相対的に低い.一般的には英語は現代世界において威信のある言語であるということはできるかもしれないが,例外なくどこでもそうであるわけではない,という点は認識しておく必要がある.
・ Lipski, John M. "English-Spanish Contact in the United States and Central America: Sociolinguistic Mirror Images?" Focus on the Caribbean. Ed. M. Görlach and J. A. Holm. Amsterdam: Benjamins, 1986. 191--208.
中南米は植民史により英語ではなくスペイン語やポルトガル語が優勢の地域ではあるが,カリブ海に臨む中米諸国には英語が母語として話されている地域が点在している.これは,19世紀半ば,英植民地における奴隷制廃止に伴って生じた経済危機を受けて,地域の人口が移動したことに由来する.現在,公用語として英語を採用している Belize のほかにも,Bay Islands (Honduras), Bluefields を主とするカリブ海岸地域や Corn Islands (Nicaragua), Puerto Limón (Costa Rica), Livingston や Puerto Barrios (Guatemala),San Andrés と Providencia (Columbia),Bocas del Toro や Colón (Panama) などにおいて,英語が母語として話されている.今回は,Honduras の例を見てみよう.

Honduras 北東岸は Costa de Mosquitos と呼ばれており,人口は多くないが英語ベースのクレオール語を話すインディアン民族が住んでいる.北岸地域は La Costa Norte と呼ばれており,クレオール英語を話す黒人を含むいくつかの少数民族が住んでいる.その沖合に浮かぶ Islas de la Bahía (Bay Islands) では,1830年代にカリブ海の Cayman Islands から移民してきた人々の子孫が住んでおり,近年は本土からのスペイン語話者も移住してきているものの,英語が主たる母語として話されている(「#1702. カリブ海地域への移民の出身地」 ([2013-12-24-1]) 及び「#1711. カリブ海地域の英語の拡散」 ([2014-01-02-1]) の移民年表を参照).アメリカからの観光客にも人気が高い.
歴史的には Bay Islands は17世紀より海賊の温床であった.所有者を何度も変えてきたが,実質的に外から支配されることはなかったといってよい.現在,島民の大多数が黒人も白人も英語を母語として話しており,スペイン語の知識はあまりない.彼らは,島外に出るときには,本土を訪れるというよりもアメリカや西インド諸島の英語圏 (特に先祖の出身地である Jamaica や Cayman Islands)を訪れることのほうが多く,ホンジュラス本土との関係は比較的うすい.ただし,上記の現状は1986年の Lipski (193--94) に依拠したものなので,すでに古い情報になっているかもしれないことを断っておきたい.
・ Lipski, John M. "English-Spanish Contact in the United States and Central America: Sociolinguistic Mirror Images?" Focus on the Caribbean. Ed. M. Görlach and J. A. Holm. Amsterdam: Benjamins, 1986. 191--208.
イングランドの航海士・探検家の William Bligh (1754--1817) は,James Cook (1728--79) の南洋の最終航海にも付き従った腕利きの船乗りだった.西インド諸島のプランテーション経営者より,奴隷用の食料としてのパンノキを確保する方法を探るよう求められ,1787年12月,Bligh は海軍の科学調査船バウンティー号 (HMS Bounty) の船長として Tahiti への航海に出た.船上の指揮や天候等の幾多の困難の末,1788年10月に Tahiti に到着した.数ヶ月の滞在の後,1789年4月4日にイングランドへの帰路についたが,船員の無能に腹を立てることの多かった Bligh に対して,長年の右腕であった航海仲間 Fletcher Christian (1764--c1790) が,4月28日,9人の仲間とともに反乱を起こした.世に知られる "Mutiny on the Bounty" である.Bligh と18人の船員はボートで海に流されたが,Bligh は不屈の精神で翌年イングランドにたどりつく.一方,バウンティー号に残った Christian 一行は,Tahiti に戻るが,その後現地の男女数名を引き連れて,Tahiti の南東へ2000キロ以上も離れた Pitcairn Island へたどり着き,船を焼き払って小さな植民地を設立した.その後20年弱の詳細は不明だが,1808年,アメリカの捕鯨船によって彼らの子孫が島で生き延びていることが発見された.
Pitcairn はこの事件に先立つ1767年に英国船によって発見されていたが,当時は無人だった.人が住み始めたのはこの事件がきっかけであり,現在,島民のほとんどが「反乱者たち」の末裔である.Pitcairn は,19世紀にはアメリカとオーストラリアの間の捕鯨基地として機能したが,1856年に人口過剰を解消すべく島民の一部が現在のオーストラリア領 Norfolk Island へ移住した.
現在も,英領 Pitcairn と豪領 Norfolk Island では,反乱事件とその後の経緯で生じた creole である Pitkern が話されている.英語とタヒチ語が完全に入り交じった混成語である.どちらの言語が基盤であるか分からないほどの混成ぶりであり,"dual-source creole" の例と言われる.Norfolk Island における creole は,英語の影響を受けて post-creole 化している.Trudgill (183) の記述を引用しよう.
Pitcairnese, the language of the remote Pacific Ocean island Pitcairn, is a dual-source creole which is the sole native language of the small community there. The Pitcairnese are for the most part descendants of the British sailors who carried out the famous mutiny on the Bounty and Tahitian men and women who went with them to hide on Pitcairn from the British Royal Navy. Their language is a mixed and simplified form of English and Tahitian (a Polynesian language) . . . . Pitcairnese also has speakers on Norfolk Island, in the Western Pacific, who are descended from people who resettled there from Pitcairn. On Norfolk Island, the language is in close contact with Australian English, and is consequently decreolizing (in the direction of English, not Tahitian). We can therefore describe it as a dual-source post-creole.
両地域の詳細については,CIA: The World Factbook より Pitcairn Islands および Norfolk Island を参照.
・ Trudgill, Peter. Sociolinguistics: An Introduction to Language and Society. 4th ed. London: Penguin, 2000.
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