昨日の記事「#1885. AAVE の文法的特徴と起源を巡る問題」 ([2014-06-25-1]) で,AAVE の特徴と起源に関する考え方を整理した.もし変種間の言語的な差異はその話者集団の社会的な差異に対応すると考えることができるのであれば,アメリカで主として黒人の用いる AAVE と主として白人の用いる Standard English により近い変種との言語的な差異は,アメリカの黒人社会と白人社会の差異を表わしているとみることができる.差異とは見方によっては乖離ともとらえられ,その大小は社会的,政治的,イデオロギー的,人種的な含意をもつことになる.
Creolist Hypothesis は,元来標準変種から大きく乖離していたクレオール語が,脱クレオール化 (decreolization) の過程を通じて標準変種に近づいてきたと仮定している.つまり,両変種(そして含意では両変種の話者集団)の歴史は合流 (convergence) の方向を示してきたという解釈になる.一方,Anglicist Hypothesis は,イギリス諸方言がアメリカにもたらされ,黒人変種と白人変種という大きな2つの流れへと分岐し,現在に至るまでその分岐状態が保たれているのだとする.つまり,両変種(そして含意では両変種の話者集団)の歴史は分岐 (divergence) の方向を示してきたという解釈になる.
では,現在のアメリカ社会において,言語的にはどちらの潮流が観察されるのだろうか.現在生じていることを客観的に判断することは常に難しいが,黒人変種と白人変種は分岐する方向にあると唱える "divergence hypothesis" が論争の的となっている.Trudgill (60) の説明を引用する.
Research carried out in the 1990s appears to suggest that, even if AAVE is descended from an English-based Creole which has, over the centuries, come to resemble more and more closely the English spoken by other Americans, this process has now begun to swing into reverse. The suggestion is that AAVE and white dialects of English are currently beginning to grow apart. In other words, changes are taking place in white dialects which are not occurring in AAVE, and vice versa. Quite naturally, this hypothesis has aroused considerable attention in the United States because, if true, it would provide a dramatic reflection of the racially divided nature of American society. The implication is that these linguistic divergences are taking place because of a lack of integration between black and white communities in the USA, particularly in urban areas.
具体的な事例を挙げれば,Philadelphia などでは白人変種では二重母音 [aɪ] > [əɪ] の変化が進行中だが,同じ都市の黒人変種にはこれが生じていない.一方,AAVE では未来結果相を表わす be done 構文 (ex. I'll be done killed that motherfucker if he tries to lay a hand on my kid again.) が独自に発達してきているが,白人変種には反映されていない.
サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) に舞い戻ってしまうが,言語と社会の関係がどの程度直接的であるかを判断することがたやすくないことを考えれば,言語問題を即社会問題化しようとする傾向には慎重でなければならないだろう.特にアメリカでは,この話題は政治問題,人種問題,イデオロギー問題へと化しやすい.客観的な言語学の観点から,2つの変種の言語変化の潮流を見極める態度が必要である.言うは易し,ではあるが.
通時言語学における divergence と convergence については,「#627. 2変種間の通時比較によって得られる言語的差異の類型論」 ([2011-01-14-1]) および「#628. 2変種間の通時比較によって得られる言語的差異の類型論 (2)」 ([2011-01-15-1]) を参照.
・ Trudgill, Peter. Sociolinguistics: An Introduction to Language and Society. 4th ed. London: Penguin, 2000.
サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) と関連して,ある文化において注目される事象(顕点)の語彙は細分化される傾向がある,といわれる.例えば,英語の rice に対し,日本語では「こめ」「めし」「白米」「ごはん」「ライス」「もみ」など複数の語が対応するという例がよく引き合いに出される.日本語では魚の名前が細分化されており,魚偏の漢字が多数あることも,日本の魚文化についてを物語っているともいわれる.
しかし,語彙の細分化がその言語文化の顕点を表わす傾向があるということは否定しないが,一方で「#1337. 「一単語文化論に要注意」」 ([2012-12-24-1]) で取り上げたように,語彙の細分化のすべての例が同様に文化上の重要性を直接に体現しているかというと,そうはならない.文化的に顕著とは特に感じられないにもかかわらず,語彙が細分化されているというケースはある.指示詞について,1単語レベルでいえば,日本語では「これ」「それ」「あれ」の3種類が区別されるが,英語では this と that の2種類のみであり,フランス語では ce 1種類のみである.また,4種類以上を区別する言語も世の中には存在する.この細分化の精度の違いはそれぞれの言語と関連づけらるる文化のなにがしかを反映している,と結論づけることは果たして可能なのだろうか.日本語の米や魚に関する語彙の多さは,日本文化と関連づけることが比較的容易のように思えるが,ものを数える際の「一本」「二足」「三艘」のような助数詞については,どうだろうか.言語と文化の関連性という問題は,単純には処理できない.
私は,どの言語も,その文化に支えられているか否かは別として,何らかの点でフェティシズムをもっていると考えている.言語学の術語を使えば,言語ごとに特定のカテゴリー (「#1449. 言語における「範疇」」 ([2013-04-15-1]) を参照)が設定されているともいえる.例えば,多種多様な助数詞や敬語体系をもっている日本語は「数え方フェチ」「敬意フェチ」であり,単数か複数かを明示的に区別する英語(や多くの印欧諸語及びその他の言語)は(少なくとも日本語母語話者から見ると)「数フェチ」である.「かぶる」「着る」「履く」「つける」を区別する日本語は,wear や put on で事足りると感じる英語母語話者からみれば「着衣フェチ」とも映るだろう.もう一度繰り返すが,これらの言語上のフェチが,それぞれ文化上の対応物によって規定されているのかどうかを知ることは,案外と難しい.文化的な支えのない,ただのフェチという可能性も十分にあるのだ.
上に挙げた例はいずれも,英語では1単位だが日本語では複数の単位に対応するというものばかりだった.これでは英語にとって不公平なので,逆の例として日本語の「(人・動物の)群れ」に対応する,英語の多様な表現を挙げてみよう.
a bevy of quails, a cluster of stars, a covey of partridges, a crowd of people, a drove of oxen, a flight of birds, a flock of sheep, a gang of robbers, a group of islands, a herd of deer, a horde of savages, a pack of wolves, a pride of lions, a school of whales, a shoal of fish, a swarm of bees, a throng of ants, a troop of children
他にも和英辞典や類義語辞典を繰れば,多様な表現が見出せるだろう.日本語でも類義語辞典を引けば,「群がり」「公衆」「群衆」「人群れ」「人波」「一群れ」「会衆」「衆人」「人山」「モッブ」「マス」「大衆」などが挙るが,動物の群れについて表現の多様性はない.
語彙細分化の精度の違いは,文化に根ざしているものもあるだろうが,そうでないものもある.それらをひっくるめて,言語とはフェチである,そのようなものであると捉えるのが正確ではないだろうか.
昨日の記事「#1769. Ogden and Richards の semiotic triangle」 ([2014-03-01-1]) で,Ogden and Richards の有名な図を示した.彼らによれば,SYMBOL と REFERENT をつなぐ底辺が間接的なつながり(点線)しかないにもかかわらず,世の中では多くの場合,直接的なつながり(実線)があるかのように誤解されている点が問題であるということだった ("The fundamental and most prolific fallacy is . . . that the base of the triangle given above is filled in" (15)) .これを正したいとの著者の思いは "missionary fervor" (Eco vii) とでも言うべきほどのもので,第1章の直前には,この思いを共有する先人たちからの引用が多く掲げられている.
"All life comes back to the question of our speech---the medium through which we communicate." ---HENRY JAMES.
"Error is never so difficult to be destroyed as when it has its root in Language." ---BENTHAM.
"We have to make use of language, which is made up necessarily of preconceived ideas. Such ideas unconsciously held are the most dangerous of all." ---POINCARÉ.
"By the grammatical structure of a group of languages everything runs smoothly for one kind of philosophical system, whereas the way is as it were barred for certain other possibilities." ---NIETZCHE.
"An Englishman, a Frenchman, a German, and an Italian cannot by any means bring themselves to think quite alike, at least on subjects that involve any depth of sentiment: they have not the verbal means." ---Prof. J. S. MACKENZIE.
"In Primitive Thought the name and object named are associated in such wise that the one is regarded as a part of the other. The imperfect separation of words from things characterizes Greek speculation in general." ---HERBERT SPENCER.
"The tendency has always been strong to believe that whatever receives a name must be an entity or being, having an independent existence of its own: and if no real entity answering to the name could be found, men did not for that reason suppose that none existed, but imagined that it was something peculiarly abstruse and mysterious, too high to be an object of sense." ---J. S. MILL.
"Nothing is more usual than for philosophers to encroach on the province of grammarians, and to engage in disputes of words, while they imagine they are handling controversies of the deepest importance and concern." ---HUME.
"Men content themselves with the same words as other people use, as if the very sound necessarily carried the same meaning." ---LOCKE.
"A verbal discussion may be important or unimportant, but it is at least desirable to know that it is verbal.." ---Sir G. CORNEWALL LEWIS.
"Scientific controversies constantly resolve themselves into differences about the meaning of words." ---Prof. A. Schuster.
いくつかの引用で示唆される通り,Ogden and Richards が取り除こうと腐心しているこの誤解は,サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) や言語相対論 (linguistic_relativism) の問題にも関わってくる.実際に読んでみると,The Meaning of Meaning は多くの問題の種を方々にまき散らしているのがわかり,その意味で "a seminal work" と呼んでしかるべき著書といえるだろう.
・ Ogden, C. K. and I. A. Richards. The Meaning of Meaning. 1923. San Diego, New York, and London: Harcourt Brace Jovanovich, 1989.
・ Eco, Umberto. "The Meaning of The Meaning of Meaning." Trans. William Weaver. Introduction. The Meaning of Meaning. C. K. Ogden and I. A. Richards. San Diego, New York, and London: Harcourt Brace Jovanovich, 1989. v--xi.
「#1484. Sapir-Whorf hypothesis」 ([2013-05-20-1]) について,近年,心理学や神経言語学 (neurolinguistics) からのアプローチが目立つようになってきている.従来の同仮説の研究は,人類言語学的な観点から諸言語,諸文化を比較するという方法が主だったが,新しい見方が現われてきている.
神経言語学の立場からみると,「#1515. 言語は信号の信号である」 ([2013-06-20-1]) で話題にしたように,「言語には,それに固有の生理学はない」.言語は,人間以外の動物にも備わっている共通の神経機能の土台のうえに築き上げられた高度な学習能力の反映である.
『ことばと思考』の著者である今井は,この事実を強調しながら,この点にこそ Sapir-Whorf hypothesis の神髄がある,同仮説の意義は,動物(および人間の赤ちゃん)と人間とのあいだに横たわる大きな溝を説明することにあると力説する.
動物と人間の知性の違いは甚だしく大きいが,それは単純に遺伝子の違い,脳の構造の違いにすべて起因するものではない.人間の認識の基礎になるほとんどの要素は,人間以外の動物にも共有されている.ことばを話す以前の人間の赤ちゃんの認識は,人間の大人よりも,動物のそれに近いといってよいかもしれない.人間以外の動物と人間の子どもの間で大きく異なるのは,持っている知識を使って,さらに学習していく学習能力なのだ.言語は,私たち人間に,伝達によってすでに存在する知識を次世代に伝えることを可能にした.しかし,それ以上に,教えられた知識を使うだけでなく,自分で知識を創り,それを足がかりにさらに知識を発展させていく道具を人間に与えたのだ./ことばと認識の関係というと,違う言語の話者の認識が違うか否か,という点に興味が集まりがちだ.異なる言語が話者にどのような認識の違いをもたらすかを知ることは,確かにとても大事なことだ.しかし,相対的にいって,言語を獲得した後の,異なる言語の話者の間の認識の違いより,言語を学習することによっておこる,子どもから大人への,革命といってよいほどの大きな認識と思考の変容こそが,ウォーフ仮説の神髄であると考えてもよいのではないだろうか.(182--83)
言語と思考の関係を考える場合に,もはや,単純に,異なる言語の話者の間の認識が違うか,同じかという問題意識は,不十分で,科学的な観点からは,時代遅れだといってよい.いま私たちがしなければならないことは,私たちの日常的な認識と思考---見ること,聞くこと,理解し解釈すること,記憶すること,記憶を思い出すこと,予測すること,推論すること,そして学習すること---に言語がどのように関わっているのか,その仕組みを詳しく明らかにすることである./その上で,異なる言語がそれぞれの認識と思考にどのように関わるのか,その関わり方が言語の文法による構造的な特徴や語彙の特徴によってどのように異なるのか,という問題に取り組んでいくことになるだろう.(214--15)
Sapir-Whorf hypothesis は,言語どうしの比較対照という横軸ではなく,言語未習得状態から言語習得過程を通じて言語既習得状態へと至る縦軸に沿って再解釈すべきだという提案として理解できる.
さらに,今井は,思考や認識における外国語学習の効用について,次のように的確な意見を述べている(原文の圏点は,ここでは太字にしてある).
一つの言語(つまり母語)しか知らないと,母語での世界の切り分け方が,世界中どこでも標準の普遍的なものだと思い込み,他の言語では,まったく別の切り分けをするのだ,ということに気付かない場合が多い.外国語を勉強し,習熟すると,自分たちが当たり前だと思っていた世界の切り分けが,実は当たり前ではなく,まったく別の分け方もできるのだ,ということがわかってくる.この「気づき」は,それ自体が思考の変容といってよい./言い換えれば,外国語を勉強し,習熟することで,その外国語のネイティヴと全く同じ「思考」を得るわけではないにしても,母語のフィルターを通してしか見ていなかった世界を,別の視点から見ることができるようになるのである.つまり,バイリンガルになることにより,得ることができるのは,その外国語の母語話者と同じ認識そのものではなく,母語を通した認識だけが唯一の標準の認識ではなく,同じモノ,同じ事象を複数の認識の枠組みから捉えることが可能であるという認識なのである.自分の言語・文化,あるいは特定の言語・文化が世界の中心にあるのではなく,様々な言語のフィルターを通した様々な認識の枠組みが存在することを意識すること---それが多言語に習熟することによりもたらされる,もっとも大きな思考の変容なのだと筆者は考える.(222--23)
かねてからの外国語学習に関する持論が,心理学や神経言語学という観点からも支持されたと感じる.
・ 今井 むつみ 『ことばと思考』 岩波書店〈岩波新書〉,2010年.
古英語を含め印欧語族の諸言語には文法性 (grammatical gender) が存在する.その他の世界の諸言語にも文法性という文法範疇をもつものが少なくない.なぜ言語に文法性が存在するのかという一般的な問題は興味深いが,個別言語の文法性の体系を合理的に説明することは難しい.「#1135. 印欧祖語の文法性の起源」 ([2012-06-05-1]) の記事でその発生に関する「世界観」説を概略したが,共時的にみればおよそ脈絡のないのが文法性である.同じ印欧語族に属するものの,太陽を表わす名詞は,古英語で女性 (sunne) ,フランス語で男性 (soleil) ,ロシア語で中性 (coлhцe) である.
性の数も言語によって異なる.「#487. 主な印欧諸語の文法性」 ([2010-08-27-1]) で見たように,印欧諸語で3性あるいは2性の区別が多いが,英語のように文法性が消失したものもある.印欧語族から外に目を移すと,さらに多くの性を区別する言語もある.そのような言語では男性,女性,中性のほかに弁別的なラベルを考えるだけでも一苦労であり,いっそのことI類,II類,III類などと名付けたほうがよい.
文法性はしばしば話者集団の世界観や宗教観を反映するといわれるが,この点について社会言語学のテキストなどでよく言及される言語に,オーストラリア北西部の原住民によって話される Dyirbal 語がある(Ethnologue より Dyirbal およびオーストラリア北部の言語地図の右端を参照).この言語では,名詞が4つのクラスに分類されている.各クラスに属する名詞の典型例は以下の通りである(今井,p. 32 より).
第一クラス…「バイ」 (Bayi) --- 人間の男,カンガルー,オポッサム(有袋類の小動物),コウモリ,ヘビの大部分,魚の大部分,鳥の一部分,昆虫の大部分,月,嵐,虹,ブーメラン,一部の槍
第二クラス…「バラン」 (Balan) --- 人間の女,バンディクート(中型有袋類),イヌ,カモノハシ,一部のヘビ,一部の魚,ほとんどの鳥,蛍,サソリ,コオロギ,星,一部の槍,一部の木,水,火をはじめとした危険なもの
第三クラス…「バラム」 (Balam) --- 食べられる実とその実がとれる植物,芋類,シダ,ハチミツ,タバコ,ワイン,ケーキ
第四クラス…「バラ」 (Bala) --- 体の部位,肉,蜜蜂,風,一部の槍,木の大部分,草,泥,石,言語
大雑把にいえば,第一クラスは人間の男性と動物,第二クラスは人間の女性,水,火,危険なもの,第三クラスは植物性の食べ物,第四クラスはそれ以外という分類だが,個々の名詞については例外と見えるものが多く,分類基準に一貫性がないように思われる.
しかし,Dyirbal の世界観や神話を参照すると,理解できる項目が増えてくる.Dyirbal では魚は動物と考えられており,原則として第一クラスに所属している.また,関連して「釣糸」や「槍」も同じ第一クラスに所属することになる.ところが,オニオコゼやサヨリは危険な魚として第二クラスに入れられる.鳥が第二クラスに入っているのは,Dyirbal の神話では鳥が死んだ女性の精とみなされているからだ.また,月と太陽が夫婦であるというのも神話の一部である (Romain 27--28) .
このような Dyirbal の文法性の区分法は,「#1484. Sapir-Whorf hypothesis」 ([2013-05-20-1]) を支持する論者にとっては貴重な証拠だろう.
・ 今井 むつみ 『ことばと思考』 岩波書店〈岩波新書〉,2010年.
・ Romain, Suzanne. Language in Society: An Introduction to Sociolinguistics. 2nd ed. Oxford: OUP, 2000.
昨日の記事「#1484. Sapir-Whorf hypothesis」 ([2013-05-20-1]) で見たサピア=ウォーフの仮説は言語と文化(社会)の関係に関する最も有名な仮説だが,言語と社会の間にどのような関係がありうるかという問いに対する可能な答えは,ほかにもある.社会と言語の間に働いている影響の向きと有無により,論理的には4つの可能性がある.
(1) 社会が言語に影響を与えている(弱いサピア=ウォーフの仮説,言語相対論)
(2) 言語が社会に影響を与えている(強いサピア=ウォーフの仮説,言語決定論)
(3) 言語と社会の間には双方向の影響がある(弁証法的)
(4) 言語と社会の間には影響関係はない
(1), (2) については昨日の記事でカバーした.(3) は,言語と社会の両者が絶え間なく影響を及ぼし合っているという仮説である.この相互関係において物質的な条件が重要な役割を果たしていると考えるマルクス主義的な仮説も (3) の一種だろう.
(4) は一見すると極端な仮説に思えるかもしれないが,Chomsky や Pinker など生成文法論者の取る立場である.正確にいえば,Chomsky などは社会と言語の間に関係がないとは言い切っておらず,言語と社会のそれぞれについてまだ知識が不足している現状にあって,影響の方向や有無を論じるのは時期尚早だという意見だ.
言語と社会の間の影響といっても,強い決定(論)的な影響もありうるし,単に反映とでも呼んだほうがよいくらいの弱い影響もありうる.以下は,このような程度の問題をも考慮して,(1)--(4) を図示した.社会が言語に与える影響をX軸に,言語が社会に与える影響をY軸にとったものである.真実はこのプロット上のどの辺りにあるのだろうか.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
サピア=ウォーフの仮説 (Sapir-Whorf hypothesis) については,本ブログでも sapir-whorf_hypothesis の記事で数回ほど触れてきたが,仮説そのものの紹介はまだだったので,以下に教科書的な記述を施す.
サピア=ウォーフの仮説は,言語と文化の関係にかかわる仮説であり,言語の構造が話者の世界観に影響を与えていると主張する.この仮説には,強いヴァージョンと弱いヴァージョンのものがあり,前者は言語決定論 (linguistic determinism) ,後者は言語相対論 (linguistic relativity) と呼ばれる.強い言語決定論は,言語は話者の世界の見方を完全に,あるいは大幅に決定するもののであり,そこから自由になることはできない,あるいは難しいと主張する.一方,弱い言語相対論は,文化は言語を決定するとはいわないまでも,部分的に言語の上に反映されるということはあると主張する.
言語と文化の関係については,早く19世紀にドイツの Wilhelm von Humboldt (1767--1835) が「世界観」理論を唱えていた.イヴィッチ (32) によれば,Humboldt にとって,言語とは「その民族の精神が如実に発露されたもの」で,「内部形式」の外的表現であり,世界についての特定の見方(世界観 Weltanschauung)を反映するものである.サピア=ウォーフの仮説は,確かに Humboldt の「世界観」理論と親和性が高いが,それとは独立してアメリカの地で発生したものである.名前が示すとおり,この仮説はアメリカの2人の言語学者 Edward Sapir (1884--1939) ,とりわけ Benjamin Lee Whorf (1897--1943) と強く結びつけられることとなった.
まずは,Sapir の主張を見てみよう.Sapir の主張が最も明確に現われている箇所として,Wardhaugh (230) が引用している文章を孫引きする.
Human beings do not live in the objective world alone, nor alone in the world of social activity as ordinarily understood, but are very much at the mercy of the particular language which has become the medium of expression for their society. It is quite an illusion to imagine that one adjusts to reality essentially without the use of language and that language is merely an incidental means of solving specific problems of communication or reflection. The fact of the matter is that the 'real world' is to a large extent unconsciously built up on the language habits of the group. . . . We see and hear and otherwise experience very largely as we do because the language habits of our community predispose certain choices of interpretation. (Sapir 207)
Sapir は,言語はものの解釈をある特定の方向へ "predispose" すると述べるにとどまり,決定づける (determine) とまでは言っていない.しかし,弟子の Whorf の主張はより強く決定論へと踏み込んでいる.再び,Wardhaugh (231) から孫引き.
. . . the background linguistic system (in other words, the grammar) of each language is not merely a reproducing instrument for voicing ideas but rather is itself the shaper of ideas, the program and guide for the individual's mental activity, for his analysis of impressions, for his synthesis of his mental stock in trade. Formulation of ideas is not an independent process, strictly rational in the old sense, but is part of a particular grammar, and differs, from slightly to greatly, between different grammars. We dissect nature along lines laid down by our native languages. The categories and types that we isolate from the world of phenomena we do not find there because they stare every observer in the face; on the contrary, the world is presented in a kaleidoscopic flux of impressions which has to be organized by our minds --- and this means largely by the linguistic systems in our minds. We cut nature up, organize it into concepts, and ascribe significances as we do, largely because we are parties to an agreement to organize it in this way --- an agreement that holds throughout our speech community and is codified in the patterns of our language. The agreement is, of course, an implicit and unstated one, but its terms are absolutely obligatory; we cannot talk at all except by subscribing to the organization and classification of data which the agreement decrees. (cited in Wardhaugh 231 from Carroll 212--14)
"largely" を2回用いているのをみると,Whorf は言語が思考を「完全に」決定するとまでは言っていない.しかし,"the shaper of ideas", "along lines laid down by our native languages", "absolutely obligatory" などと,かなり強い表現が並んでいるのも事実である.
サピア=ウォーフの仮説はいまだ証明されていない.しかし,その正しさが前提とされているかのような言語論も少なくない.例えば,失われゆく言語を守る大義として,異なる言語は異なる世界観を映し出すものであるからと主張される.性差別を表わす語彙を撤廃することによって,性差別の思想もなくなるはずだと論じる.科学的にいまだ証明されておらず,今後も証明されうるのかどうかも不明だが,多くの論者を引きつけてやまない問題であることだけは確かである.
・ Sapir, E. "The Status of Linguistics as a Science." Language 5 (1929): 207--14.
・ Carroll, J. B., ed. Language, Thought, and Reality: Selected Writings of Benjamin Lee Whorf. Cambridge, MA: MIT P, 1956.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
・ ミルカ・イヴィッチ 著,早田 輝洋・井上 史雄 訳 『言語学の流れ』 みすず書房,1974年.
言語学では範疇 (category) という術語が頻用される.もともとは哲学用語であり,日本語の「範疇」は,中国の『書経』の「洪範九疇」ということばをもとに,英語 category やドイツ語 Kategorie の訳語として,明治時代の西洋哲学の移入時に,井上哲次郎(一説に西周)が作ったものとされる.原語はギリシア語の katēgoríā であり,その動詞 katēgoreîn は kata- (against) + agoreúein (to speak in the assembly) から成る.「公の場で承認されうる普遍的な概念の下に包みこんで訴える」ほどの原義に基づいて,アリストテレスは「分類の最も普遍的な規定,すなわち最高類概念」の語義を発展させ,以降,非専門的な一般的な語義「同じ種類のものの所属する部類・部門」も発展してきた.
英語の category も,まずは16世紀末に哲学用語としてラテン語から導入され,17世紀中葉から一般用語として使われ出した.現在では,OALD8 の定義は "a group of people or things with particular features in common" とあり,日常化した用語と考えてよい.
では,言語学で用いられる「範疇」とは何か.さすがに専門用語とだけあって,日常的な単なる「部類・部門」の語義で使われるわけではない.では,言語的範疇の具体例を見てみよう.英文法では文法範疇 (grammatical category) ということが言われるが,例えば数 (number) ,人称 (person) ,時制 (tense) ,法 (mode) などが挙げられる.これらは動詞を中心とする形態的屈折にかかわる範疇だが,性 (gender or sex) など語彙的なものもあるし,定・不定 (definiteness) や相 (aspect) などの統語的なものもある.これらの範疇は英文法の根本にある原理であり,文法記述に欠かせない概念ととらえることができる.これで理解できたような気はするが,では,言語的範疇をずばり定義せよといわれると難しい.このもやもやを解決してくれるのは,Bloomfield の定義である.以下に引用しよう.
Large form-classes which completely subdivide either the whole lexicon or some important form-class into form-classes of approximately equal size, are called categories. (270)
文法性 (gender) で考えてみるとわかりやすい.名詞という語彙集合を前提とすると,例えばフランス語には形態的,統語的な振る舞いに応じて,規模の大きく異ならない2種類の部分集合が区別される.一方を男性名詞と名付け,他方を女性名詞と名付け,この区別の基準のことを性範疇を呼ぶ,というわけである.
category の言語学的用法が一般的用法ではなく哲学的用法に接近していることは,言語的範疇がものの見方や思考様式の問題と直結しやすいからである.この点についても,Bloomfield の説明がすばらしい.
The categories of a language, especially those which affect morphology (book : books, he : she), are so pervasive that anyone who reflects upon his language at all, is sure to notice them. In the ordinary case, this person, knowing only his native language, or perhaps some others closely akin to it, may mistake his categories for universal forms of speech, or of "human thought," or of the universe itself. This is why a good deal of what passes for "logic" or "metaphysics" is merely an incompetent restating of the chief categories of the philosopher's language. A task for linguists of the future will be to compare the categories of different languages and see what features are universal or at least widespread. (270)
・ Bloomfield, Leonard. Language. 1933. Chicago and London: U of Chicago P, 1984.
標題は,「#1326. 伝え合いの7つの要素」 ([2012-12-13-1]) , 「#1327. ヒトの言語に共通する7つの性質」 ([2012-12-14-1]) で参照した西江雅之先生の著書のなかの,1節 (pp. 91--96) につけられたタイトルである.単語に基づく文化論は巷にあふれているが,これは多くの場合,危険である.たいていの場合,言語と文化の密接な関係を指摘されるとおもしろく感じるし,関心をかきたてられるので,言語学関係の授業などでは単語に基づく文化論は話の種とされることも多いだろう.しかし,そこには様々な罠がひそんでいる.
罠の1つは,「#364. The Great Eskimo Vocabulary Hoax」 ([2010-04-26-1]) で見たように,議論のおおもととなる語に関する記述が,不正確である可能性があることだ.ある語の意味や用法を正確に記述するには,それなりの時間と労力を費やしての調査が必要である.とりわけ文化論という大きな議論につなげようとするのであれば,コーパスなどを駆使してその語の用例を詳しく調査する必要があるし,関連する語についても同様に調査することが必要だろう.あわせて語源や語史をひもとくことも重要である.要するに,その語について徹底的に文献学をやらなければならないはずである.この基盤が整って初めて次の議論へとステップアップしてゆくべきだが,そこまで踏み込んだ一単語文化論は稀である.
別の種類の罠は,ある単語だけを拾ってきて文化論を論じることがどこまで妥当なのかという点である.例えば,日本語では「深い」と「浅い」を単語として区別するが,フランス語では profond (深い)に対して peu profond (ほとんど深くない)として単語レベルでは区別しない.したがって,日本語のほうが世界を繊細に区分しているといえ,それゆえ日本人はより繊細だ(!)という結論になる.だが,別の意味の単語を拾ってくれば,むしろ状況は逆ということもあるわけであり,「深い」と「浅い」という語彙に限定して議論するのはアンフェアである.同じように,日本語は「稲」「米」「ごはん」「ライス」と様々な呼び方をするが,英語では rice のみである,したがって日本語は繊細である,という議論は言語文化論ではなく,荒っぽい日本文化礼賛にすぎない.一単語文化論は,文化独自論,文化優越論へと走りやすい.
一単語文化論のもう1つの罠は,profond と peu profond の議論で前提とされていたように,2語以上からなる分析的な表現は,1語での総合的な表現よりも,概念のコンテナとしては劣っている,あるいは粗雑だという考え方が前提にあることだ.しかし,これは妥当な前提だろうか.分析よりも総合のほうが表現として密度が濃いという直感はあるかもしれないが,これはどのように証明されるだろうか.また,それ以前に,ある表現が総合的な1語なのか分析的な2語以上なのかを区別することも,それほどたやすい作業ではない.「#911. 語の定義がなぜ難しいか (2)」 ([2011-10-25-1]) で見た flower pot ~ flower-pot ~ flowerpot の例のように,peu profond は正書法上は2語だが,2形態素からなる1つの複合語とみなすことも可能かもしれないのだ.日本語の「こなゆき」は,1語とみなせば雪の分類が細かいという議論へつなげられそうだが,「こな」+「ゆき」の2語とみなせばそのような議論はできない.英語の powder (こなゆき)は,辞書では powder snow を参照せよとある.要するに,これは語というものの定義という問題に関わってくるのであり,それは言語学でも未解決の問題なのである.
・ 西江 雅之 『新「ことば」の課外授業』 白水社,2012年.
サピア=ウォーフの仮説 (Sapir-Whorf hypothesis) あるいは言語的相対論 (linguistic relativism) は,言語に関する仮説のなかでもとりわけ有名であり,多くの論争を巻き起こしてきた.アメリカの言語学者 Benjamin Lee Whorf (1897--1943) は,同じくアメリカの言語学者 Edward Sapir (1884--1939) の言語と世界に関する思想を発展させ,言語が文化を規定ないし決定すると考えた.
Whorf の説く強い規定論には,熱狂的な信者もいれば,激しい反対論もある.しかし,服部によれば,そもそもこの仮説は科学的に検証することができない性質のものである.服部は,この点について主に3つの議論を展開している (103--26) .
第1に,文化人類学で広く受け入れられている文化の定義によれば,文化とは言語を含む社会的遺産である.服部 (109) は,C. クラックホーン(『文化人類学の世界』 講談社現代新書,1971年,pp. 34, 42)による文化の定義を引いている.
「文化」という語は,人類学では,一民族の生活様式の総体,個々の人間が集団から受け取る社会的遺産を意味する.いいかえれば,文化は環境のうちの人間のこしらえた部分であると考えてもよい.
文化とは,思考,感情,信仰についての方法である.いいかえると,集団が将来の利用にそなえて,記憶,書物,物品などに蓄積した知識である.われわれはこの精神の働きが生み出したものを研究しているのである.人間の行動,言語,身振り,活動,またその具体的結果である道具,家屋,とうもろこし畑などがそれである.
この定義に従えば言語は文化の一部なのであるから,相互が密接に関わるとか一方が他方を規定しているとかということは,定義上,自明である.言語と文化の相関関係は事実には違いないが,特におもしろい事実ではないということになる(服部,pp. 109--10).
第2に,第1の点と関わるが,通常,A と B の相関関係や因果関係を経験的に検証しようとする際には,A と B は独立して同定できなければならないが,今回の場合,A と B が独立していないのだから,経験的な検証に付すこともできないということになる(服部,p. 119).
第3に,かりに相関関係が検証できたとしても,相関関係がすなわち因果関係ではない.A と B が相関していたとしても,A が原因で B が結果なのか,あるいはその逆なのかは,別に検証しなければならない.通常,時間的に先立つものが原因とされるが,言語と文化の場合,どちらが時間的に先立つのかを知ることはできない(服部,pp. 123--24).
以上のように,Whorf の強い仮説は検証不能であるから,科学の立場からは興味深い仮説ではないということになる.ただし,同仮説を,科学的な検証に耐えるように適切に再定式化することは可能かもしれない.
なお,服部 (125) は,同仮説は,哲学的には興味深い仮説であり続けていると締めくくっている.それは,「私たちの文化的経験を可能ならしめるものは何かという哲学的な問いに対する哲学的答え」である,と.
・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.
Eskimo ( Inuit ) 語における雪を表す語彙の話しは,聞いたことがある人も多いだろう.サピア・ウォーフの仮説 ( Sapir-Whorf hypothesis ) あるいは言語的相対論 ( linguistic relativism ) の議論で決まって出される例である.私も学生の頃に,言語学の授業や本でよく出会った.雪深いカナダ北極圏やグリーンランドに住む Inuit の言語には雪を表す語が他言語よりも多く存在するという.この事実は文化の言語への反映にほかならない.雪のように当該文化において顕点とされる概念は,細かく語彙化されるものである,という主張だ.
しかし,今ではこれがまったくのインチキ説であることが判明している.現在でも有名なこの「エスキモーの雪」の逸話は,人類言語学というアカデミックの世界で疑われることなく長々と受け継がれてきたし,一般の人々の間にも広く知れ渡ってきた.ところが,Boas や Whorf にさかのぼって情報源の信憑性を確かめ,Inuit の言語特徴に照らして再考したところ,まるでデタラメの説だということがわかったのである.学者によっては「エスキモーの雪」は400語あるとも200語あるとも言われ,48語であるとか9語であるとか,仕舞いには2語に過ぎないという説まで出てきて,そもそも何か胡散臭い議論だということは感じられる.また,この議論で Inuit 語との比較対象として持ち出されてきた英語ですら,皮肉なことに結構な種類の雪語彙があるのである.例えば,Pinker (54) は11語を挙げている.
snow, sleet, slush, blizzard, avalanche, hail, hardpack, powder, flurry, dusting, snizzling
Inuit 語は,形態類型論的には複総合語 ( polysynthetic language ) というタイプに属する.私自身は Inuit 語を知らないので詳しく語る資格はないが,この問題は,Inuit 語の文法特徴に照らして,雪を表す語の複数の異形態をどう数えるかという問題に帰着するようだ.情報源のチェックが甘かったこと,Inuit 語の精密な文法記述を無視して数ばかり数えていたことにより,誤った伝統が生き長らえてきたのだろう.いやはや,自戒しなければ.
人類言語学史上の大イカサマともいえるこの逸話は今では The Great Eskimo Vocabulary Hoax と呼ばれているが,いまだに非常に根強く語り継がれている.この Hoax がどのように受け継がれ,生き長らえてきたかについては,Martin の論文がおもしろい.
ちなみに,日本語の雪語彙についての決定版はやはり新沼謙治『津軽恋女』の歌詞に尽きるだろう.大好きな曲の一つ.歌唱力あります.しびれる.
降りつもる雪 雪 雪 また雪よ
津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪
・ Pinker, Steven. The Language Instinct: How the Mind Creates Language. New York: W. Morrow, 1994. New York : HarperPerennial, 1995.
・ Martin, Laura. "Eskimo Words for Snow: A Case Study in the Genesis and Decay of an Anthropological Sample." American Anthropologist. New Series. 88 (1986): 418--23.
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