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language_death - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-12-23 11:02

2014-03-18 Tue

#1786. 言語権と言語の死,方言権と方言の死 [sociolinguistics][language_death][linguistic_right][dialect][ecolinguistics]

 昨日の記事で「#1785. 言語権」 ([2014-03-17-1]) を扱い,関連する話題として言語の死については language_death の各記事で取り上げてきた.近年,welfare linguistics や ecolinguistics というような考え方が現れてきたことから,このような問題について人々の意識が高まってきていることが確認できるが,意外と気づかれていないのが,対応する方言権と方言の死の問題である.
 「#1636. Serbian, Croatian, Bosnian」 ([2013-10-19-1]) その他の記事で,言語学的には言語と方言を厳密に区別することは不可能であることについて触れてきた.そうである以上,言語権と方言権,言語の死と方言の死は,本質的に同じ問題,一つの連続体の上にある問題と解釈しなければならない.しかし,一般には,よりグローバルな観点から言語権や言語の死には関心がある人々でも,ローカルな観点から方言権や方言の死に対して同程度の関心を示すことは少ない.本当は後者のほうが身近な話題であり,必要と思えばそのための活動にも携わりやすいはずであるにもかかわらずだ.Trudgill (195) は,この事実を鋭く指摘している.

Just as in the case of language death, so irrational, unfavourable attitudes towards vernacular, nonstandard varieties can lead to dialect death. This disturbing phenomenon is as much a part of the linguistic homogenization of the world --- especially perhaps in Europe --- as language death is. In many parts of the world, we are seeing less regional variation in language --- less and less dialect variation. / There are specific reasons, particularly in the context of Europe, to feel anxious about the effects of dialect death. This is especially so since there are many people who care a lot about language death but who couldn't care less about dialect death: in certain countries, the intelligentsia seem to be actively in favour of dialect death.


 言語の死や方言の死については,致し方のない側面があることは否定できない.社会的に弱い立場に立たされている言語や方言が徐々に消失してゆき,言語的・方言的多様性が失われてゆくという現代世界の潮流そのものを,覆したり押しとどめたりすることは現実的には難しいだろう.淘汰の現実は歴然として存在する.しかし,存続している限りは,弱い立場の言語や方言,そしてその話者(集団)が差別されるようなことがあってはならず,言語選択は尊重されなければならない.逆に,強い立場の言語や方言に関しては,それを学ぶ機会こそ万人に開かれているべきだが,使用が強制されるようなことがあってはならない.上記の引用の後の議論で,Trudgill はここまでのことを主張しているのではないか.

 ・ Trudgill, Peter. Sociolinguistics: An Introduction to Language and Society. 4th ed. London: Penguin, 2000.

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2014-03-17 Mon

#1785. 言語権 [linguistic_right][sociolinguistics][language_death][linguistic_imperialism]

 今回は,昨日の記事「#1784. 沖縄の方言札」 ([2014-03-16-1]) に関連して言及した言語権 (linguistic_right) について考えてみる.
 強大なA言語に取り囲まれて,存続の危ぶまれる弱小なB言語が分布していると想定する.B言語の母語話者たちは,教育,就職,社会保障,経済活動など生活上の必要から,少なくともある程度はA言語を習得し,バイリンガル化せざるを得ない.現世代は,子供たちの世代の苦労を少しでも減らそうと,子育てにあたって,A言語を推進する.なかには共同体の母語であるB言語を封印し,A言語のみで子育てをおこなう親たちもいるかもしれない.このようにB言語の社会的機能の低さを感じながら育った子供たちは,公の場ではもとより,私的な機会にすらB言語ではなくA言語を用いる傾向が強まる.このように数世代が続くと,B言語を流ちょうに話せる世代はなくなるだろう.B言語をかろうじて記憶している最後の世代が亡くなるとき,この言語もついに滅びてゆく・・・.
 上の一節は想像上のシミュレーションだが,実際にこれと同じことが現代世界でごく普通に起きている.世界中の言語の死を憂える立場の者からは,なぜB言語共同体は踏ん張ってB言語を保持しようとしなかったのだろう,という疑問が生じるかもしれない.B言語は共同体のアイデンティティであり,その文化と歴史の生き証人ではないのか,と.もしそのような主義をもち,B言語の保持・復興に尽力する人々が共同体内に現れれば,上記のシミュレーション通りにならなかった可能性もある.しかし,現実の保持・復興には時間と経費がかかるのが常であり,大概の運動は象徴的なものにとどまるのが現実である.A言語共同体などの広域に影響力のある社会からの公的な援助がない限り,このような計画の実現は部分的ですら難しいだろう.
 言語の死は確かに憂うべきことではあるが,だからといって件の共同体の人々にB言語を話し続けるべきだと外部から(そして内部からでさえ)強制することはできない.それはアイデンティティの押し売りであると解釈されかねない.話者は,自らのアイデンティティのためにB言語の使用を選ぶかもしれないし,社会的・経済的な必要から戦略的にA言語の使用を選ぶかもしれないし,両者を適宜使い分けるという方略を採るかもしれない.すべては話者個人の選択にかかっており,この選択の自由こそが尊重されなければならないのではないか.これが,言語権の考え方である.加藤 (31--32) は,言語権の考え方をわかりやすく次のように説明している.

「すべての人間は,みずからの意志で使用する言語を選択することができ,かつ,それは尊重されねばならず,また,特定の言語の使用によって不利益を被ってはいけない」と考えるのですが,これは「言語の自由」と「言語による幸福」に分けることができます.自由とは言っても,人は生まれる場所や親を選ぶことはできないので,母語を赤ん坊が決めることはできません.しかし,ある程度の年齢になれば,公共の福祉に反しない限り,自らの意志で使用言語が選べるようにすることは可能です.使用の自由を妨げないと言っても,ことばは伝達できなければ役にたちませんから,誰も知らない言語を使って伝達に失敗すれば損をするのは当人ということになります.自由には責任が伴うのです.
 「言語による幸福」は,特定の言語(方言も含む)を使うことで不利益を被らない社会であるべきだという考えによります.日本の社会言語学の基礎を気づいた徳川宗賢は,ウェルフェア・リングイスティクスという概念を提唱しましたが,これは,人間がことばを用いて生活をする以上,それが円滑に営まれるように,実情を調べ,さまざまな方策を考える必要があるとする立場の言語研究を指しています.ことばといっても,実際には多種多様な形態があり,例えば,言語障害,バイリンガル,弱小言語問題,方言や言語によるアイデンティティ,手話や点字といった言語,差別語,老人語,女性語,言語教育,外国語教育といったさまざまなテーマが関わってきます.すべての人間は,みずからの出自やアイデンティティと深く関わる母語を話すことで,不利益をこうむったり,差別されたりするべきではないのです.


 言語権の考え方は,言語(方言)差別や言語帝国主義に抗する概念であり手段となりうるとして期待されている.

 ・ 加藤 重広 『学びのエクササイズ ことばの科学』 ひつじ書房,2007年.

Referrer (Inside): [2023-02-14-1] [2014-03-18-1]

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2014-03-16 Sun

#1784. 沖縄の方言札 [sociolinguistics][language_planning][japanese][linguistic_imperialism][dialect][language_shift][language_death][linguistic_right]

 「#1741. 言語政策としての罰札制度 (1)」 ([2014-02-01-1]) の記事で沖縄の方言札を取り上げた後で,井谷著『沖縄の方言札』を読んだ.前の記事で田中による方言札舶来説の疑いに触れたが,これはかなり特異な説のようで,井谷にも一切触れられていない.国内の一部の文化人類学者や沖縄の人々の間では,根拠のはっきりしない「沖縄師範学校発生説」 (170) も取りざたされてきたようだが,井谷はこれを無根拠として切り捨て,むしろ沖縄における自然発生説を強く主張している.
 井谷の用意している論拠は多方面にわたるが,重要な点の1つとして,「少なくとも表面的には一度として「方言札を使え」などというような条例が制定されたり,件の通達が出たりしたことはなかった」 (8) という事実がある.沖縄の方言札は20世紀初頭から戦後の60年代まで沖縄県・奄美諸島で用いられた制度だが,「制度」とはいっても,言語計画や言語政策といった用語が当てはまるほど公的に組織化されたものでは決してなく,あくまで村レベル,学校レベルで行われた習俗に近いという.
 もう1つ重要な点は,「「方言札」の母体である間切村内法(「間切」は沖縄独自の行政区分の名称)における「罰札制度」が,極めて古い歴史的基盤の上に成り立つ制度である」 (8) ことだ.井谷は,この2点を主たる論拠に据えて,沖縄の方言札の自然発生説を繰り返し説いてゆく.本書のなかで,著者の主旨が最もよく現れていると考える一節を挙げよう.

先述したように,私は「方言札」を強権的国家主義教育の主張や,植民地主義的同化教育,ましてや「言語帝国主義」の象徴として把握することには批判的な立場に立つものである.ごく単純に言って,それは国家からの一方的な強制でできた札ではないし,それを使用した教育に関しては,確かに強権的な使われ方をして生徒を脅迫したことはその通りであるが,同時に遊び半分に使われる時代・場所もありえた.即ち強権的であることは札の属性とは言い切れないし,権力関係のなかだけで札を捉えることは,その札のもつ歴史的性格と,何故そこまで根強く沖縄社会に根を張りえたのかという土着性をみえなくする.それよりも,私は「方言札」を「他律的 identity の象徴」として捉えるべきだと考える.即ち,自文化を否定し,自分たちの存在を他文化・他言語へ仮託するという近代沖縄社会の在り方の象徴として捉えたい.それは,伊波が指摘したように,昨日今日にできあがったものではなく,大国に挟まれた孤立した小さな島国という地政学的条件に基盤をおくものであり,近代以前の沖縄にとってはある意味では不可避的に強いられた性格であった. (85--86)


 井谷は,1940年代に本土の知識人が方言札を「発見」し,大きな論争を巻き起こして以来,方言札は「沖縄言語教育史や戦中の軍国主義教育を論じる際のひとつのアイテムに近い」 (30) ものとして,即ち一種の言説生産装置として機能するようになってしまったことを嘆いている.実際には,日本本土語の教育熱と学習熱の高まりとともに沖縄で自然発生したものにすぎないにもかかわらず,と.
 門外漢の私には沖縄の方言札の発生について結論を下すことはできないが,少なくとも井谷の議論は,地政学的に強力な言語に囲まれた弱小な言語やその話者がどのような道をたどり得るのかという一般的な問題について再考する機会を与えてくれる.そこからは,言語の死 (language_death) や言語の自殺 (language suicide),方言の死 (dialect death), 言語交替 (language_shift),言語帝国主義 (linguistic_imperialism),言語権 (linguistic_right) といったキーワードが喚起されてくる.方言札の問題は,それがいかなる仕方で発生したものであれ,自らの用いる言語を選択する権利の問題と直結することは確かだろう.
 言語権については,本ブログでは「#278. ニュージーランドにおけるマオリ語の活性化」 ([2010-01-30-1]),「#280. 危機に瀕した言語に関連するサイト」 ([2010-02-01-1]),「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]),「#1657. アメリカの英語公用語化運動」 ([2013-11-09-1]) などで部分的に扱ってきたにすぎない.明日の記事はこの話題に注目してみたい.

 ・ 井谷 泰彦 『沖縄の方言札 さまよえる沖縄の言葉をめぐる論考』 ボーダーインク,2006年.
 ・ 田中 克彦 『ことばと国家』 岩波書店,1981年.

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2013-09-08 Sun

#1595. 消えゆく満州語 [altaic][language_death][language_shift][map][mongolian]

 一昨日,9月6日(金)の朝日新聞朝刊15面に「消えゆく満州語守れ」と題する記事があった.満州語 (Manchu) は,中国東北地方に住まう満州族(清朝建国より前には女真族と呼ばれた)の言語であり,17世紀から3世紀にわたって中国大陸を支配した清朝の公用語として栄えた言語である(以下の清朝の歴史地図を参照).現在,満州族の1千万人以上いる人口の半分は中国の遼寧省に集中しているが,中国語への言語交替 (language_shift) が著しく,満州語は2009年,UNESCO により消滅危機言語に指定された.EthnologueManchu を参照すると,言語状況は "Nearly extinct" と見積もられている. *

Map of Manchu

 満州語については「#1548. アルタイ語族」 ([2013-07-23-1]) の記事で少しだけ触れたにすぎないが,比較言語学的にはアルタイ語族ツングース語派の1言語と分類される.モンゴル文字を改良した文字体系をもち,アルタイ語族に特徴的な母音調和を示すほか,母音交替によって男性語と女性語を区別する一群の語彙をもつのが特異である.なお,互いに通じるほど近いシボ語 (Xibe or Sibo) は,地理的に孤立しており,新疆ウイグル自治区にていまだ3万人ほどの話者を擁している.
 さて,「消えゆく満州語守れ」の記事では,満州族文化の研究者が,民族文化の消失を防ぎ,継承するために,満州語教育制度を充実する必要があることを訴えている.とりわけ満州語を解読できる研究者の育成が急務であることが説かれている.清朝前期の公文書や民間史料は満州語で書かれているが,それを読みこなせる研究者は国内に10人ほどしかいない.また,清朝の発祥地とされる遼寧省撫順市の洞窟に多くの古文書が保管されているが,軍事的な理由でアクセスするのが容易でないことも頭の痛い問題だという.
 満州語の衰退には,政治史的な要因も関わっている.満州族は,1911年の辛亥革命による清朝崩壊後に排斥を受け,1949年の新中国成立後も他の少数民族とは異なり,自治が認められてこなかった.1980年代に自治が認められ始めたが,その頃にはすでに母語話者の高齢化と漢族への同化が進んでしまっていた.
 このような状況にある言語は世界中にごまんとある.UNESCO が消滅危機の警鐘を鳴らしたとしても,人々に復興の意思があるとしても,現実的には守り得る言語の数には限りがある.記事のなかで瀋陽師範大学の曹萌教授曹教授が力説しているとおり,危機にある言語の「継承も研究も,時間との勝負」である.

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2013-07-18 Thu

#1543. 言語の地理学 [geolinguistics][geography][sociolinguistics][demography][language_shift][language_death][world_languages][terminology]

 ブルトンの『言語の地理学』を読み,地理学の観点から言語を考察するという新たなアプローチに気づかされた.言語における地理的側面は,方言調査,言語変化の伝播の理論,言語圏 (linguistic area; see [2012-12-01-1]) の研究などで前提とはされてきたが,あまりに当然のものとみなされ,表面的な関心しか払われてこなかったといえるかもしれない.このことは,「#1053. 波状説の波及効果」 ([2012-03-15-1]) の記事でも触れた.
 言語の地理学,言語地理学,地理言語学などと呼び方はいろいろあるだろうが,これはちょうど言語の社会学か社会言語学かという区分の問題に比較される.Trudgill (56) の用語集で geolinguistics を引いてみると,案の定,この呼称には2つの側面が区別されている.

(1) A relatively recent label used by some linguists to refer to work in sociolinguistics which represents a synthesis of Labovian secular linguistics and spatial dialectology. The quantitative study of the geographical diffusion of words or pronunciations from one area to another is an example of work in this field. (2) A term used by human geographers to describe modern quantitative research on geographical aspects of language maintenance and language shift, and other aspects of the spatial relationships to be found between languages and dialects. An example of such work is the study of geographical patterning in the use of English and Welsh in Wales. Given the model of the distinction between sociolinguistics and the sociology of language, it might be better to refer to this sort of work as the geography of language.


 伝統的な方言研究や言語変化の伝播の研究では,言語項目の地理的な分布を明らかにするという作業が主であるから,それは「地理言語学」と呼ぶべき (1) の領域だろう.一方,ブルトンが話題にしているのは,「言語の地理学」と呼ぶべき (2) の領域である.後者は,民族や宗教や国家や経済などではなく言語という現象に焦点を当てる地理学である,といえる.
 言語の地理学で扱われる話題は多岐にわたるが,その代表の1つに,「#1540. 中英語期における言語交替」 ([2013-07-15-1]) で具体的にその方法論を適用したような言語交替 (language shift) がある.また,失われてゆく言語の保存を目指す言語政策の話題,言語の死の話題も,話者人口の推移といった問題も言語の地理学の重要な関心事だろう.世界の諸言語の地理的な分布という観点からは,先述の言語圏という概念も関与する.諸文字の地理的分布も同様である.
 ブルトンが打ち立てようとしている言語の地理学がどのような性格と輪郭をもつものなのか,直接ブルトンに語ってもらおう.

結局,地理学者は,社会史学的・経済学的な次元の人文現象と言語とのあいだの空間的相関関係の確立に習熟しているのである.そして中でも,自然環境や生物地理的環境との相関関係はお手のものである.言語が,自然環境に直接働きかけるものでない以上,言語については本来の生態学を語ることはできない.しかしすべての言語は,住民の中に独自の分布を示しており,住民は言語の環境でもある.したがってまた共通の言語を備えた人間集団の生態学が存在するのである.そしてある文化的特徴――言語――がある一つの環境――またはいくつかの環境――の中で,他の文化的・社会的・経済的特質と同様の,あるいは異なったしかたで,どのように拡大しどのように維持されどのように定着できたかを明らかにするには,地理学者はまさに資格十分である.(29--30)


 実際にはブルトンは,言語の地理学を,さらに大きな文化地理学へと結びつけようとしている.

自然現象と文化現象の2つの領域を厳密に分けることによってのみ,人種や人類学的圏域のような概念を理解し利用することが可能となり,これら人種圏の範囲と文化的な集合体の範囲とを比較することができる.この文化的集合体の中でも,言語的,宗教的,政治的属性といった異なる次元のあいだの相違は,長いあいだ,より明確に認識されてきた.そこからエスニー(民族言語的共同体)や信仰社会集団や国家といったような,それぞれの区別に対応する共同体や構造についての認識が派生してきたのである./文化の諸特徴の地理学から,われわれはいまや文化それ自体の地理学へと近づくことができる.すなわち,社会の言語的・宗教的・歴史政治的な遺産を結びつけ,そして思考と仲間意識との個性的な諸体系を生みだすような文化の集合体に関する地理学へ,である.この文化地理学はそれゆえに,大きなあるいは社会全体の人間集団を見極めることを目的とする.これらの集団は,場合に応じて部族,エスニー,国家,大文明の一大単位などと同列視されるのである.地理学者はこれらの集団の生態学を,その内部運動,偶発的な相互依存,さらにそれらの機能的な階層性,依存度または支配度,文化の受容と放棄といった個別的または集団的な現象による浸透力などの側面から研究する.経済活動の優先性が一般に認められている世界では,文化地理学は社会の中で経済人の反対の側に生きいきと存在しているものを見分けるという使命を帯びているのである.(32--33)


 要するに,ブルトンの姿勢は,社会における言語という大局観のもとで言語の地理的側面に焦点を当てるということである.以下は,その大局観と焦点の関係を図示したものである(ブルトン,p. 47,「エスニーの一般的特徴」).言語の社会学や社会言語学のための見取り図としても解釈できる.

General Characteristics of Ethnie


 なお,上の引用文で用いられているエスニーという概念と用語については,「#1539. ethnie」 ([2013-07-14-1]) を参照.

 ・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
 ・ ロラン・ブルトン 著,田辺 裕・中俣 均 訳 『言語の地理学』 白水社〈文庫クセジュ〉,1988年.

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2011-06-15 Wed

#779. Cornish と Manx [cornish][manx][celtic][language_death][metathesis][map][book_of_common_prayer]

 [2011-06-10-1], [2011-06-14-1]の記事でケルト諸語の話題を取りあげた.今回は,ケルト諸語のなかで事実上の死語となっているコーンウォール語 (Cornish) とマン島語 (Manx) を紹介する.
 Cornish は,ミートパイの一種 Cornish pasty でも知られているイングランドの最南西部 Cornwall 地方で話されていた Brythonic (P-Celtic) 系の言語である.Cornish の古い文献は多くは現存していないが,14世紀後半のものとされる8000行を超える韻文が残っている.16世紀,宗教改革の時代に Cornish の衰退と英語の浸透が始まり,1777年に,記録されている最後の話者 Dolly Pentreath が亡くなったことで死語となった.[2011-06-10-1]のケルト語派の系統図で示されるとおり,現在フランスのブルターニュで話されているブルトン語 (Breton) と最も近い言語である.
 しかし,"revived Cornish", "pseudo-Cornish", "Cornic" とも称される復活した Cornish が現代でも聞かれる. これは,20世紀にコーンウォールの郷土愛を共有する人々が Cornish を人為的に復活させたもので,実際的な言語ではなく象徴的な言語というべきだろう.文法書や辞書が発行されており,兄弟言語である Breton や Welsh からの類推で語彙を増強するなどの試みがなされている.Price の評価は手厳しい(McArthur 265 より孫引き).

It is rather as if one were to attempt in our present state of knowledge to create a form of spoken English on the basis of the fifteenth-century York mystery plays and very little else.


 Ethnologue: Cornish によれば,2003年の推計で数百人の話者がいるとされるが,ここでの Cornish はもちろん "revived Cornish" を指している.
 次に,Manx はアイリッシュ海 (the Irish Sea) に浮かぶマン島 (the Isle of Man) で話されていた Goidelic (Q-Celtic) 系の言語である.最古の文献は,1610年頃の祈祷書 (The Book of Common Prayer) の翻訳である.Manx は4世紀にアイルランドからの移住者によって持ち込まれたと考えられ,10--13世紀にはヴァイキングの言語 Old Norse により特に語彙的に影響を受けた.18世紀まではマン島の主要な言語だったが,それ以降は英語の浸透が進んだ.最後の話者 Ned Mandrell が1974年に亡くなり,現在では第1言語としては死語となっている.Cornish の場合と同じように,Manx の人為的な保存・復活の営みはなされているが,象徴的な意味合いを超えるものではない.
 言語名は「マン島の言語」を意味する ON manskr が ME Manisk(e) として入ったもので,その語末子音群が音位転換 ( metathesis ) を起こして Manx となった.Ethnologue: Manx を参照.

Map of Cornwall and the Isle of Man

 ・ Fennell, Barbara A. A History of English: A Sociolinguistic Approach. Malden, MA: Blackwell, 2001.
 ・ Price, Glanville. The Languages of Britain. London: Arnold, 1984.
 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.

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2011-02-01 Tue

#645. 死語と廃語 [language_death][lexicology]

 日本語の「死語」は,英語でいう "dead language" と "obsolete word" の2つの語義を兼ねる.『明鏡国語辞典』によると,

(1) 昔は使われていたが,現在では使用されていない言語.古代ギリシア語・ヒッタイト語など.
(2) 昔は使われていたが,現在,一般には使用されなくなった語.廃語.


 以下,この記事では (1) を「死語」,(2) を「廃語」と呼び分けることにする.死語については,このブログでも language_death の各記事で取り上げてきた.ある言語が死滅するという場合には,生物種の絶滅と同様に,センチメンタルな感情が伴うものである(と信じたい).言語にはその話者共同体の思想,文化,歴史が詰まっており,言語が消滅するということは(記録が残されていない限り)その知的遺産が永遠に失われるということである.言語の死は人類にとっての損失である.
 一方,廃語についてはブログで明示的に話題にしたことはあまりなかった.言語の死に比べれば,単語レベルの消滅は通常センチメンタルな現象とはとらえられないだろう.言語そのものが消滅するわけではなく,小さな断片が失われるだけなので,至極当然かもしれない.しかし,単語にも言語共同体の思想,文化,歴史が凝縮されているのであり,その消滅は,取り戻すことの難しい知的遺産の消滅であると考えることができる.話題性の大小はあるものの,豊かな言語的感受性をもってすれば,死語も廃語も質的には同等の損失なのかもしれない.
 このように思ったのは,豊かな言語的感受性を示すポール・バケの文章に出会ったからである.バケは,語の消失や語義の変化について次のように評している.

しかし消失の過程の期間がどうであれ,語の死滅は決定的と言わぬまでも現実のものであり,その死なるものが人間や文明に訪れるときと同じように,ここでも人の心を打つのである.この死とともに,ある世界全体が,あるいは文化的,感情的,概念的存在の一断片が姿を消していくのである.たとえある別の1語あるいは数語が遺棄された土地を引き受け,失われた語の意味領域を取戻すことがあるにせよ.たとえ意義の上から実際には何も失われていないにせよ,文脈はもはや同一ではなく,意味の移行がなされるのは数年のうちのことでしかない.それ故,すべてが変貌し,そして人々が変わり,世代もまた代わって,語の意味は,このしばしば無意識であるとはいえ,たゆみなき進化の影響を受けるのである.(16--17)


 語の消失や語義の変化にいちいち感傷的になっていては言語生活を営むことすらおぼつかないと言ってしまえばそうなのだが,語の研究に関する限りこのような感受性は必要なのだろうなと思う.
 さて,「廃」を表わす英語の obsolete は,ラテン語 obsolescere の過去分詞 obsolētus に由来し,16世紀に英語に借用された.ob- 「完全に」+ sol(ere) 「慣れる」 + ēscere 「?し始める」と形態分析され,その過去分詞形は全体として "grown out, worn out, fallen into disuse" ほどの意となる.OED では,廃語の見出しには短剣符 ( dagger or obelisk ) と呼ばれる「†」の標識がつけられる.短剣符は十字架の立った墓の象形に由来すると思われ,慣習的に没年を表わすのに用いられるので,廃語を標示するのにもふさわしいということだろうか.
 余談だが,近年の日本語の死語(=廃語)を収集したサイト死語's HomePageを発見した.その「ナウな死語辞典」に収録されている語句の数々に共感を覚えた.あったなあ,あんな言葉,こんな言葉.

 ・ ポール・バケ 著,森本 英夫・大泉 昭夫 訳 『英語の語彙』 白水社〈文庫クセジュ〉,1976年.

Referrer (Inside): [2016-03-18-1]

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2010-12-19 Sun

#601. 言語多様性と生物多様性 [world_languages][language_death][ecolinguistics]

 [2010-06-02-1]の記事で言語の多様性指数 ( diversity index ) について触れた.これは言語密集度と言い換えてもよいだろうが,興味深いことに,この指数は赤道に近いほど高く,両極に近いほど低い傾向がある(柴崎, p. 17).言語多様性指数で世界トップのパプアニューギニアを例に取れば,国土面積でいうと世界の0.4%を占めるにすぎないところに世界総人口の0.055%ほどの人が住んでいるのだが,そこに830もの言語(総言語数の12%)がひしめいている.一方で,例えばグリーンランドは比較的広大だが人口密度は低く,言語数も少ない ( see [2010-01-26-1] ).さらに興味深いことに,言語の死 ( see language_death ) の進行率が不釣り合いに高いのも,やはり赤道に近い地域である.言語密集度と言語消滅可能性は連動していることが知られており,高い値が赤道寄りに偏って分布していることは明らかである(柴崎,p. 21).
 赤道に近いほど言語の多様性と消滅可能性が高いというのは,より広く社会的関心を引きつけている別の話題を想起させる.それは生物種の多様性と消滅可能性である.生物種の多様性も赤道直下をピークとして,両極へ向かうほど密集度が低くなっており,消滅可能性もそれと足並みを揃えている.再びパプアニューギニアを例に取ると,国内に約40万種,世界の全生物種の約5%が生息しているとされ,消滅の度合いも大きいという(柴崎, p. 21).
 ここまで言語多様性と生物多様性の分布が一致すると,ヒトの言語が生態系の一部であることを認めざるを得ない.[2010-01-30-1]で言及したように ecolinguistics という呼称が現われてきていることも納得できるというものである.英語史の観点からこの状況を考察するとどうなるだろうか.言語生態系という考え方が生じている現代の社会においては,英語に代表される世界語は,かつて世界語と呼ばれ得た諸言語とは異なる役割と責任を負うことになるだろう.言語生態系という視点は,今後の英語を動かす,つまり新しい英語史を駆動する力の一つになってゆくかもしれない.
 世界の人口と関連する話題については世界の人口が有益.

 ・ 柴崎 礼士郎 編 『言語文化のクロスロード --- 沖縄からの事例研究 ---』 文進印刷,2009年.

Referrer (Inside): [2021-09-10-1] [2013-09-26-1]

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2010-10-12 Tue

#533. 未知の言語 Koro がインド北西部で発見される [language_death][world_languages][map]

 10月5日付けの CNN.com より Previously unknown language emerges in India という記事を読んだ.インド北西部の Arunachal Pradesh 州で約800人の話者によって話される言語が発見されたという記事だ.National Geographic の資金援助を受けた the Living Tongues Institute for Endangered Languages の言語学者が,Enduring Voices Project の現地調査によって明らかにした(調査自体は2008年のこと).

Map of Arunachal Pradesh

 この言語は Sino-Tibetan 語族の Tibeto-Burman 語派に属するとされる.Tibet-Burman 語派にはアジアの400ほどの言語が含まれ,インドだけでも同語族から150ほどの言語が確認されている.Koro 族の言語については真の意味で未知なわけではなかったが,これまでは Hruso-Aka 語と方言関係にあると(当の言語の話者の間ですら!)信じられており,別個の言語として認識されていなかった.それが調査員による Koro 族の戸別訪問により,明らかに周囲の言語とは異なる言語であることが確認されたのである.Ethnologue report for Hruso を見てみると,Koro が Hruso とは別個の言語らしいという示唆はあり,この点を調査員は明らかにしたということだろう.予期せぬ発見だったわけではないようだ.
 この地は "the black hole of the linguistic world" あるいは "a language hotspot where there is room to study rich, diverse languages, many unwritten or documented" とみなされており,今後も未調査の言語が掘り出される可能性が高い.インドは[2010-06-02-1]の記事でみた言語多様性指数でいえば,0.940で世界第9位である.また,国内の言語数でいえば,445言語で第4位.この国には今後も言語数が加算されてゆくポテンシャルは十分にある.
 今回の調査で Ethnologue の主張する世界の言語数6909に1が足されることになるのだろうが ( see [2010-01-22-1] ) ,Koro 語は約800人の話者しか有しておらず,しかも20歳以下の話者がほとんどいないことから,皮肉にも「発見」された瞬間から危機言語の仲間入りを果たすことになった ( see [2010-01-28-1] ) .記事の題名だけを見るとポジティブな話題に思えるが,実態は [2010-02-09-1]で紹介した Bo 語の消滅などの言語の死と紙一重の差しかない.
 奇しくも昨日から名古屋で COP10 (国連生物多様性条約第10回締約国会議)が開催されている.紙面では関連する話題が掲載されているが,実際のところ日本では一部の企業などを除き,関心度はそれほど高くないようである.生物多様性ですら人々の関心を集められないのだから,いわんや言語多様性をや,である.
 National Geographic の関連記事やビデオクリップはこちらのリンクからどうぞ.

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2010-04-27 Tue

#365. Eskimo [inuit][loan_word][native_american][language_death]

 昨日の記事[2010-04-26-1]で Eskimo の言語について触れた.Eskimo という語は,アルゴンキン族 ( The Algonquian ) が自分たちの北隣に分布する民族を指して呼んだ名前で,「生肉を食う者」の意である.現在ではこの呼称は offensive とみなされることがあるので,代わりに Inuit と呼ばれることが多い.その言語は Inuktitut と呼ばれる.
 アメリカ・インディアンの言語の分類は論争の的である.かつてアメリカ・インディアンの間では300以上の言語が話されていたというが,1970年代までにその数は半減した.このうち千人以上の話者を擁するものは50言語ほどに過ぎないという.(言語の死については,[2010-01-26-1]language_death を参照.)このアメリカ・インディアン諸言語は50を越える語族へと分類されるが,語族間および語族内の系統関係については異論が多い.かれらは民族的にはアジア系とされ,数回にわたるベーリング海峡 ( the Bering Strait ) 越えでアメリカへやってきたが,言語的にアジア系諸言語とのつながりが確認されているのは Eskimo-Aleut 語族に属する諸言語のみである.Eskimo-Aleut 語族とは,現在では Alaska, Canada, Greenland, Aleutian Islands, Siberia で話されている諸言語をまとめた呼称で,Eskimo 語はそのなかで特に主要な言語である.Eskimo 語それ自身は Inuit と Yupik の二変種へと分類される.この辺りの詳細は Ethnologue の記述や Crystal ( Language 322 ) を参照されたい.
 現在カナダでは,先住民族を指す一般的な呼称としては Native people を用いることが多い.もう一つの広く認められた呼称として First Nation というものがあるが,前者ほど包括的ではないとされる.また,先住民は政府に登録済み ( Status Indians ) か否か ( Non-status Indians ) で呼称が区別される ( Svartvik and Leech 94 ).米国と同様,カナダでも民族名や言語名には sensitive な問題がつきまとうようだ.
 さて,英語との関連でいえば,Inuit から英語に借用された語がいくつかあるので紹介したい.まずは,Alaska は "great land" の意.anorak, igloo, kayak もよく知られている.借用語とは異なるが,Inuit の話す英語から white-out "weather conditions in which there is so much snow or cloud that it is impossible to see anything" が標準英語に入ったというのも興味深い ( Crystal, English Language 343 ).

 ・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997.
 ・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003. 126.
 ・ Svartvik, Jan and Geoffrey Leech. English: One Tongue, Many Voices. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006.

Referrer (Inside): [2010-10-01-1]

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2010-02-10 Wed

#289. IT時代によみがえりつつある眠れる言語 Chitimacha [language_death][revitalisation_of_language]

 2月6日の NPR に Software Company Helps Revive 'Sleeping' Language と題する記事があった.米国 Lousiana の Lafayette 南部に千人ほどが生活しているとされるアメリカ先住民 Chitimacha 族が,1940年に死滅した彼らの民族言語を,IT技術によって復活させているという内容だ.
 言語関連のソフトウェアを開発している Rosetta Stone 社が,1934年に亡くなった Chitimacha の族長 Ben Paul の長時間にわたる肉声の録音をもとにして Chitimacha 語を復元し,現在に生きる Chitimacha 族の子供のための教材開発に役立てているという.自らが Chitimacha 族の一員でもある学校の先生は,開発されたソフトウェアを利用した教授法を模索しており,メール文章に同言語を織り交ぜたいという生徒のニーズに応えたいと述べている.
 記事の筆致はポジティブだが,現段階では Chitimacha 語の復活がどのくらい現実的であり,今後どの程度の推進力を得てゆくかは不透明である.決して楽観視はできないだろう.だが,復活に向けたいくつかの条件が小刻みに揃っているという点に目を向けたい.

 (1) かつての族長の長時間にわたる肉声録音と大量の言語学的メモが残っていること(←当時の言語学者 Morris Swadesh の努力)
 (2) 復活させようという機運が民族内の大人(特に教師)に生じていること
 (3) メール文章などの新しい言語運用環境にも応用してみたいというニーズが若年層に生じていること
 (4) 言語に高い関心をもつ Rosetta Stone 社のような会社が存在し,言語復興と最先端のIT技術とを結びつける役割を果たしていること

 人工的に復活された Chitimacha 語が言語的に独り立ちする可能性があるかどうかは未知数だが,たとえコミュニケーション用の完全な言語として蘇らないとしても,Chitimacha 語の知識と運用の一部が Chitimacha 族の文化のなかである特定の位置を占めることになるのであれば,復興の目的の一部は達せられたと考えられるのではないか.
 Chitimacha 語は "dead language" ではなく "sleeping language" だっただけである,という言い方が興味深い."sleeping language" を目覚めさせるという,これまでの人類言語史では試みられもしなかったし起こり得なかったことが,いま起ころうとしている.まったくもって新たな現象である.
 Chitimacha 語については Ethnologue の記述Wikipedia の記述 を参照.

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2010-02-09 Tue

#288. Bo の最後の話者,亡くなる [language_death][origin_of_language]

 2月4日,インド,アンダマン諸島 ( the Andaman Islands ) の Bo という言語の最後の話者 Boa Sr が約85歳で亡くなったという記事が BBC News - Last speaker of ancient language of Bo dies in India で報道された.Boa Sr は30年以上のあいだ Bo の最後の話者として,言語学者によってその言語が記録されてきた.同記事のページでは,録音の一部を聴くことができる.
 アンダマン諸島ではこの3ヶ月で二つの言語が滅びたとされており,[2010-01-26-1]で見たとおり深刻なスピードで言語が失われていることがわかる.このことが憂慮すべきことであることは[2010-01-29-1]でも話題にした.Bo の消失に関する同記事でも,以下のように憂慮が表明されている.

Boa Sr's death was a loss for intellectuals wanting to study more about the origins of ancient languages, because they had lost "a vital piece of the jigsaw"


 だが,上記引用文の "ancient languages" や,次の引用文にも趣旨の不明な点が現れる.

"It is generally believed that all Andamanese languages might be the last representatives of those languages which go back to pre-Neolithic times," Professor Abbi said. "The Andamanese are believed to be among our earliest ancestors."


 私はアンダマン諸島の諸言語に関する知識はまったくない.しかし,アンダマン諸語が新石器時代以前にさかのぼる言語の最後の代表選手だという主張に首をかしげざるを得ない.アンダマン諸語は7万年前から話されているアフリカに起源をもつ言語群と考えられているが,言語単一起源説 ( monogenesis or the Mother Tongue theory; for this see The Origin of Language ) を採るかどうかは別にしても,世界中の他の多くの言語も同じくらい昔に遡るのではないか.現代の日本語や英語も,究極的には同じくらい古い言語から発展してきたものではないか.こう考えると,あえてアンダマン諸語を「新石器時代以前にさかのぼる言語の最後の代表選手」と取り立てる理由は何かということになってくる.
 人類学や言語学の分野で,アンダマン諸島の言語文化を解明すれば,原初のアフリカ文化(すなわち人類文化?)の一部を復元することができるかもしれないという期待があることは間違いないだろう.ここには「アンダマン諸語は7万年の間,他言語の影響をほとんど受けておらず,原初の形態に近い pure な形態を保持している」という前提があるように思われる.しかし,それは本当だろうか? アンダマン諸語の担い手が遠路アフリカからやってきたとするならば,移動の過程で他言語と接触しなかったということは想像しにくい.また,言語内的な原因による言語変化が7万年のあいだにまったく起こらなかったということは考えられない.
 言語の死は大問題であると人々に啓蒙する上では,Bo の消滅とそれに関する言語学者のコメントが象徴的な意味合いをもっているということは認めるが,アンダマン諸語がとりわけ重要な言語であると示唆する根拠,特に "the last representatives of those languages which go back to pre-Neolithic times" と主張する根拠には疑問が残った.

Referrer (Inside): [2010-10-12-1]

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2010-02-01 Mon

#280. 危機に瀕した言語に関連するサイト [language_death][link][linguistic_right]

 ここ数日の記事で取り上げてきた "endangered languages" の話題に関連して,Web上では複数の機関が情報を提供している.以下は,主だったサイトへのリンク集.

Committee on Endangered Languages and Their Preservation (CELP)
Endangered Language Fund
Ethnologue
European Bureau for Lesser-Used Languages (EBLUL)
Foundation For Endangered Languages
Gesellschaft für bedrohte Sprachen (GBS)
The Society for the Study of the Indigenous Languages of the Americas
Terralingua: Unity in Biocultural Diversity
The International Clearing House for Endangered Languages (←東京大学内の機関.日本語版はこちら)(2010/09/10(Fri)現在,両ページともリンク切れ)
UNESCO Culture Sector - Intangible Heritage - 2003 Convention: Safeguarding endangered languages
Universal Declaration of linguistic rights

 危機に瀕した言語を復興させるための知識と知恵を蓄積するこの分野はいまだ定着した名称は与えられていないが,この20年足らずのあいだに世界中で少しずつ関心が高まってきたことは事実のようである.ちなみに,Crystal は "preventive linguistics",Matisoff は "perilinguistics" と呼んでいる (Crystal 93).
 上記,東京大学の The International Clearing House for Endangered Languages は,世界のなかでも比較的早い1995年に立ち上がった危機言語に関連する機関である.(2010/09/10(Fri)現在,リンク切れ)

 ・ Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.

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2010-01-30 Sat

#278. ニュージーランドにおけるマオリ語の活性化 [language_death][revitalisation_of_language][maori][new_zealand_english][linguistic_right]

 ENL 国の一つ New Zealand で,ここ40年ほど,先住民マオリの言語 Maori が活性化してきている.
 近年の言語多様性の意識の高まりとともに,地域の少数派言語が復興運動を通じて活性化する例は世界にあるが,Welsh と並んで著名な例が Maori である.一般論として言語復興運動の成功の鍵がどこにあるのか,そしてこれから言語復興運動を始めようとする場合にどのような戦略を立てるべきかは未開拓の研究分野だが,成功している例を参考にすべきことはいうまでもない.

In the case of the Maori of New Zealand, a different cluster of factors seems to have been operative, involving a strong ethnic community involvement since the 1970s, a long-established (over 150 years) literacy presence among the Maori, a government educational policy which has brought Maori courses into schools and other centres, such as the kohanga reo ('language nests'), and a steadily growing sympathy from the English-speaking majority. Also to be noted is the fact that Maori is the only indigenous language of the country, so that it has been able to claim the exclusive attention of those concerned with language rights. (Crystal 128--29)



 Maori の場合には,(1) マオリの確固たる共同体意識,(2) マオリの識字水準の高さ,(3) 政府の好意的な教育政策,(4) 周囲の多数派である英語母語話者の理解,(5) 他の少数派言語が存在しないこと,という社会的条件がすばらしく整っていることが成功につながっているようだ.
 [2010-01-26-1]の記事で触れたように,今後100年で約3000の言語が消滅するおそれがあることを考えるとき,その大多数についてこのような好条件の整う可能性は絶望的だろう.だが,(1) や (4) の意識改革の部分には一縷の希望があるのではないか.自分自身,言語研究に携わる者として,この点に少しでも貢献できればと考える.
 今回の話題は直接に英語に関する話題ではないが,今後の英語のあり方を考える上で,共生する言語との関係を斟酌しておくことは linguistic ecology の観点からも重要だろう.Crystal (32, 94, 98) によれば,最近は ecology of language や ecolinguistics という概念が提唱されてきており,言語にも「エコ」の時代が到来しつつあるようだ.

 ・Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.

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2010-01-29 Fri

#277. なぜ言語の消滅を気にするのか [language_death]

 [2010-01-26-1], [2010-01-28-1]で,Crystal の著書を参照しつつ絶滅に瀕した言語について話題にした.Crystal は英語学や言語学の researcher かつ populariser として,言語に関する数々の著書を世に送り出している.Language Death はとりわけ啓蒙的かつ社会的なインパクトを図って書かれた本で,他書にも見受けられるように,著者の言語にかける熱さが随所に表れている.
 "Why should we care if a language dies?" という質問に対して,Crystal は第2章で五つの解答を用意している.

 (1) Because we need diversity
 (2) Because languages express identity
 (3) Because languages are repositories of history
 (4) Because languages contribute to the sum of human knowledge
 (5) Because languages are interesting in themselves

 Crystal の「解答」を読む前に私が特に考えていたのは,(3) と (4) だった.しかし,その他の3点についても全面的に同意する.詳しくは Crystal の個々の解説を参照されたい.
 ほかに私ならこんな理由も加えるだろうかと思いついた点を挙げてみる.言語研究にたずさわる者として,というよりはかなり個人的な意見だが.

 ・異なった言語で交流すること自体が楽しいと思える者にとって,その可能性が一つでも多いほうがよいから.学生時代に50カ国以上をバックパッキングして歩いた経験からして,挨拶や値段交渉だけでも現地語で交わせると楽しいし,互いに気持ちがよい.
 ・自分の肩入れしている言語(母語や学習中の言語など)を相対的に眺めるには,(実際に比較するかどうかは別として)比較対象が多いほうがよいから.
 ・「虹」の比較語源学 ([2009-05-10-1]) で触れたように,言語間比較は手軽で効果的な発想の源泉となりうるから.

 ・Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.

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2010-01-28 Thu

#276. 言語における絶滅危惧種の危険レベル [language_death][world_languages]

 [2010-01-26-1]の記事で話題にしたように,消滅が危ぶまれる言語は世界中に数多く存在する.消滅が危惧される言語を守ろうという動きは世界中にあるが,政府などから公的な補助を受けるには注目度や優先度が低いというのが現実である.そもそも,ある言語が危険域内にあるかどうか,どのくらいの危険レベルかを判定する客観的な基準がない限り,公的機関が積極的に動くということは想像しにくい.現状としては,危険度の判定にかかわる理論モデルは構築されていない.数々の難問が立ちはだかるのである.
 例えば,言語の死という極端な状況すら確定するのが難しいケースがある.通常,話者がゼロになった段階で言語の死が宣告されるが,ある話者が本当に最後の話者であるかどうかはわからない.隣村に数名のこっているかもしれないし,片言であれば話せるという子孫がいるかもしれない.また,非常によく似た言語を話す人が少なからずいる場合,先の言語をこの言語の方言という位置づけでとらえれば,先の言語はまだ死んだとは言い切れないことになる.
 言語の死ですら客観的に定義するのが難しいのだから,危険レベルを段階づけることの困難は想像できる.例えば,500人の話者共同体のなかである言語の話者が100人いるという状況と,1000人のなかで200人という状況では,どちらの言語がより危険だろうか.単純に話者数や話者比率の問題でないことは明らかである.共同体の言語に対する態度や,個々の話者の思惑など,考えるべきパラメータはたくさんある.
 言語内的な危険度の判定基準の可能性として,語彙や文法項目の摩滅の度合いを測るということは考えられる.消滅に瀕した言語は,使用されないことにより機能が貧弱化してゆく傾向があるからである.だが,消滅に瀕していない言語も「摩滅」と考えられる言語変化を経ることはあり,どれが通常の言語変化でどれが死期に特有の言語変化なのかを定めることは難しそうだ.
 参考までに,複数の論者が提案している危険度のレベルとラベルを Crystal (19--21) より紹介する.話者数と話者年齢層を考慮しているものが多いようである.

 ・ safe, endangered, moribund, extinct (Krauss)
 ・ viable, viable but small, endangered, nearly extinct, extinct (Kincade)
 ・ potentially endangered, endangered, seriously endangered, moribund, extinct (Wurm)

 ・Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.

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2010-01-26 Tue

#274. 言語数と話者数 [statistics][world_languages][language_death][demography]

 [2010-01-22-1]で世界の言語の数を話題にした.今回は,言語数と各言語の母語話者数との関係を考えてみる.
 以下の表は,世界に約6000言語が存在すると仮定し,その母語話者数との関係を一覧にしたものである.これは,1999年版の Ethnologue を参考に,Crystal がまとめたものである (14--15).

Population of Native SpeakersNumber of Languages%Cumulative downwards %Cumulative upwards %
more than 100 million80.13 99.9
10--99.9 million721.21.399.8
1--9.9 million2393.95.298.6
100,000--999,99979513.118.394.7
10,000--99,9991,60526.544.881.6
1,000--9,9991,78229.474.255.1
100--9991,07517.791.925.7
10--993025.096.98.0
1--91813.099.9 


 この表あるいはこの表の背後にある事実から明らかなことは,第一言語に関する限り,ごく少数の言語が世界の人口の大部分をまかなっているということである.母語話者が1億人を超える言語は Mandarin (Chinese), Spanish, English, Bengali, Hindi, Portuguese, Russian, Japanese のわずか8言語に過ぎず,これだけで実に世界人口の4割ほど(24億人)がまかなわれているという.トップ20までの言語を考えると,それだけで世界人口の半分以上を占めるというから驚きである.
 さらに象徴的な数字を示せば,世界の言語の4%が世界人口の96%を覆っているという.逆にいうと,世界の言語の96%が世界人口の4%に相当する数の話者にしか母語として使用されていないことになる.より具体的にいうと,一番右の列の数値をみれば,世界の言語の約25%が千人未満しか母語話者をもたず,世界の言語の半数以上が一万人未満しか母語話者をもたないことがわかる.世界の言語と母語話者の数は,まさにピラミッド状の分布を示すのである.
 ピラミッドの中部以下に属する大多数の言語が消滅の危機にあることは明らかである.消滅の速度については様々な予想がなされているが,今後100年で世界の言語の半数が失われるだろうという推計がよく聞かれる (Crystal 19).この推計に基づいて簡単な算数をおこなうと,およそ12日に1言語の割合で消失が進んでいることになる.

 ・Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.

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