英語史の魅力や奥深さを社会に届けるアウトリーチ活動を続けていると,よく「どうすればそんなに毎日更新を続けられるのですか?」と尋ねられることがある.お読みの hellog や Voicy heldio の毎日更新は,私にとって日々のライフワークとなっているが,特別な魔法があるわけではない.まさに「やり続ける」力,英語の俗語でいうところの grit (根性,気骨,ガッツ)に支えられている部分が大きいと感じる.
以前 heldio で「#569. 「やり切る」よりも「やり続ける」あるいは「ブレない」 --- grit と persistence」と題して話したことがある.この grit という単語の語源と歴史をひもといてみると,興味深い事実が見えてくる.
grit は古英語の grēot (砂,粗砂,砂利)に遡る古い英単語である.現代でも「粒子の細かい砂利」などを意味するが,ビジネス書や自己啓発書で話題になるような「(苦難に耐える)根性,気骨,ガッツ」という俗語的な意味で使われ始めたのは,19世紀前半のアメリカ英語でのことだ.OED によると,この語義での初出は1808年とされている.
では,なぜ「砂利」が「根性,気骨」といった精神的な意味を獲得するに至ったのだろうか.とりわけ俗語をめぐる語源学の常として,メタファーやメトニミーによる大きな飛躍を含んだ意味変化の道程を完全に復元することは容易ではないが,いくつかの連想の糸口を考えることができる.
1つは,動詞としての grit の存在である.「(砂や砂利をかみしめるように)歯をきしらせる,歯ぎしりする」という意味の動詞用法が1718年に初出している.慣用句 grit one's teeth (歯を食いしばる)も,この流れのなかにある.口の中に砂利が紛れ込んだときのあのジャリッとした不快な感覚が想起されるからだろうか,不快な状況や苦難を耐え忍ぶ「根性」へと意味が発展したのではないか,と私は見立てている.そのような不快さを正面から引き受け,それを乗り越えて維持する精神力こそが grit の本質なのではないかと考える.
学問や教育,あるいは広く知識を社会に開かせるためのアウトリーチ活動は,華やかな側面ばかりではなく,地道で,しばしば砂利を噛みしめるような苦痛が伴う.短期間で一気に「やり切る」ことよりも,多少の不快さや困難があっても長く「やり続ける」こと,ブレずにしつこく persistence を保つことこそが,結果として実を結ぶのではないか.
昨今は「根性論」というと忌避されがちな風潮もあるが,泥臭い grit を腹に据えておくことは,いつの時代も変わらず重要なことのように思わる.私もこれからも grit を胸に,英語史の魅力をコツコツと発信し続けていきたい.
昨日の記事 ([2026-09-07-1]) で少し触れ,「#1009. ルーン文字文化と関係の深い語源」 ([2012-01-31-1]) でも言及したことがあったが,英語の基本語 write は「引っ掻く,彫る,刻む」を意味する印欧語根 *(w)rei- に由来すると考えられている.
ゲルマン人たちが木片や石にルーン文字をガリガリと彫り込んでいた時代の名残が,この英単語の原義に宿っているわけである.興味深いことに,日本語の「書く」も「掻く」と同根とされており,文化は違えど,「文字を記す」という原初体験が「表面を傷つけて痕跡を残す」行為であったことを物語っている 時代とともに書くためのツールは進化し,キリやノミから紙と筆へ,鉛筆やペンへ,さらにはキーボードでのタイピングへと移り変わった.そして現代では,声で文字を打ち込む「音声入力」なる技術まで現われてきている.私自身,英語史のアウトリーチ活動やその他で,日々のもろもろの文章を作成しているが,音声入力の恩恵に浴する機会が増えている.
ふと立ち止まって考えると,これはなかなか倒錯的な事態である.声を出して入力しているのに,私たちはそれを「書く」と認識し,表現しているのだから.
手も動かさず,物理的な摩擦すら生じない音声入力のどこに write の要素があるのかという疑問が湧かないわけでもないが,ツールが変われど「書き言葉」として思考を結実させる過程の本質は変わらない.口頭で吹き込んだ粗削りな言葉から始めるにせよ,それを推敲し,読者に届く文章へと研ぎ澄ましていく作業は,やはり一筋縄ではいかないものだ.
文明の利器によって書く際に「引っ掻く」 物理的な苦労からは解放された現代の私たちであるが,いざ思考を研ぎ澄まして何かを write しようとするとき,結局のところ頭を掻きむしるような苦悶と向き合い続けている.人間が書く行為の歴史の皮肉であり,おもしろさでもある.
英語史を広める活動,「hel活」 (helkatsu) を展開してきた私自身の経緯を振り返ってみると,「始める」ことの難しさを何度となく実感してきた.
「始める」を表わす英単語はいくつかあるが,基本語でいえば begin と start の2つがすぐに思い浮かぶ.両語とも古英語でも使われていた生粋の本来語である.ただし,両語が担ってきた語義は当初から異なっていた.「始める」という意味の座を,古くから一貫して占めてきたのは begin のほうである.古英語の動詞 beginnan は,接頭辞 be- と動詞 ginnan 「始める」が組み合わさったもので,接頭辞の機能は当時すでに弱まっており,中立的かつ一般的な「始める」を表わす語として,古英語から現代英語に至るまで安定的に用いられてきた.
一方の start は,古英語の動詞 styrtan に遡るが,その原義は「始める」ではなかった.もともとは「跳ねる,急に飛び出す,勢いよく動く」を意味する語だった.遡れば印欧祖語の語根 *ster- "stiff" に行き着き,原義は「硬直した,こわばった」である.この語根を共有する他の英単語としては stare, stark, starve など,確かにこわばった語感のものが多い.start は,こわばって固まっていたものが,急に弾け出るイメージの動詞だったようだ.
start の「急発信」と結びつけられる語義は,現代英語の慣用表現のなかにも残っている.たとえば I started at the sound of thunder. 「私は雷の音にぎくっとした」や She started to her feet. 「彼女はさっと立ち上がった」において,start は急発進のイメージを示している.時代とともに「急」の意味が背景化してきたことは確かだが,今でもこのような表現をみれば原義を思い起こすことができるだろう.なお,関連語 startle「飛び上がらせる,びっくりさせる」も急発進の原義のイメージを現代にまで伝えている.
学術アウトリーチ活動は,「始めよう」と身構えすぎると,かえって始められないものだと,つくづく思う.考えてみれば,hellog や heldio を始めたときも,事前にあれこれ準備をし,用心を重ねてから始めようとしていた.しかし,十分すぎる準備などそもそも得られないものだ.結局のところ,傍から見ても,自分自身の感覚としても,あれは begin というより start,すなわち「急発進」,もっといえば「見切り発進」だったと思う.
アウトリーチ活動には,ある程度の準備や計画はもちろん必要だろう.けれども振り返ってみて思うのは,物事は結局のところ「急発進」でしか始まらないものなのではないか.とりわけ新しい一歩を踏み出す挑戦において,覚悟や勇気が求められる場面においては,begin ではなく start にならざるを得ない.Let's begin! ではなく,Let's start! と言っておきたい.
英語史を広めるアウトリーチ活動を展開しているが,その「見返り」は何か.もちろん,英語史がお茶の間に広がっていくことが,そのまま私にとってのご褒美となるのだが,それは中長期的な話しである.短期的にはどうだろうか.あるいは,より個人的な報酬は得られるのか.この問題と関連して,今回は「報酬,報い,見返り」を意味する英単語 reward に注目してみたい.
reward の語源を遡ると,この語はまったく意外な単語と2重語 (doublet) の関係にあることに気づかされる.その相手とは,regard 「見なす,評価する」である.すなわち,起源をたどれば同一の語幹に行き着くにもかかわらず,別々の経路を通って中英語期に個別に借用され,異なる形態・意味に分化した2語である.具体的には,regard は中央フランス語から,reward はノルマン・フランス語から中英語期に,(部分的には関連づけられながらも)それぞれ独立して英語へ入ってきた.
形態的な分化の背景には,ノルマン・フランス語と中央フランス語のあいだの音対応がある.ノルマン方言はゲルマン語的な /w/ 音をよく保持していたのに対し,中央フランス語ではこれが /g/ 音へと変化した.同じ対応は war と guerrilla (「戦争」を意味するフランス語 guerre に指小辞のついたもの)や,ward と guard (いずれも「守衛」)の対にも見て取れる.英語は,この2つのフランス語方言由来の語形をしばしば両方とも取り込み,意味を分化させることで語彙を豊かにしてきた.
では,意味の方はどう分かれていったのか.いずれの語も動詞と名詞の用法があるが,regard は動詞としてはほぼ原義通り「じっくり見る,見なす,評価する」という語義を保持してきた.一方,reward は名詞として,まず「見なし,評価」を意味したが,そこから「好意的に」というプラスの価値観が付け加わった.意味の良化 (amelioration) の例といってよい.さらに,「好意的な見なしに対するご褒美」,つまり「報い,報酬」へと意味の特殊化 (specialisation) も経た.今日私たちが「見返り」と呼んでいるものの原義は,突き詰めれば「好意的なまなざしを向けられること」だったのである.日本語の「見+返る」と英語の「re- + ward/gard」の語形成もとてもよく似ている.
この語源をアウトリーチ活動に重ねてみると,なかなか示唆に富む.アウトリーチ活動における reward 「見返り」とは,本来,金銭的な対価というより,「好意的に見なされること」それ自体だったのではないか.今日の私たちが身近に受け取っている「見返り」は,考えてみれば,日々の SNS 上の「いいね」なのかもしれない.この語源に照らして考えれば,reward の本質は「どう見なされるのか」にこそある.
英語史のアウトリーチ活動を続けていると、自分自身の肩書きについて考えさせられることがある.私は英語史の研究者であり専門家である.専門家といえば,英語では professional であり「プロ」だ.
professional 「専門職(の)」は名詞・形容詞ともに profession 「専門職」から派生した語だ.遡ればラテン語の動詞 profitērī 「公言する,公然と述べる」に行き着く.pro- 「前へ,公然と」と fatērī 「認める,述べる」(fārī 「話す」に由来)の組み合わせであり,字義通りには「前面に出て言い表わす」という発想である.英語の動詞 profess も同根に遡り,語義はやはり「公言する」である.
後期中英語期にフランス語を経由して英語に借用された profession(al) の最初期の語義は,「(信仰を公言して)修道会に正式に入ること,誓願を立てること」という,きわめてキリスト教的なものだった.修道士・修道女になるとは,信仰を人前で「公言する」ことにほかならなかった.つまり,かつての profession とは,職業的聖職者になる誓いそのものを指した.
この宗教的な語義はやがて世俗化し,中英語末から近代英語期にかけて,神学・法律・医学という「学識ある専門職」を指すようになる.さらに後期近代英語期には形容詞 professional が「その道を生業とする」の意で確立し,対義語 amateur 「愛好家」(ラテン語で「愛する」を意味する動詞 amāre と語根を共有)との対比のなかで,現在おなじみの語感が定着していった.
こうして語史をたどってみると,professional の根底には,「公言する」という行為があったことがわかる.「プロ」とは,単に生計を立てる手段であるだけでなく,「自分はこれを専門とする者だ」と社会に向けて宣言する行為でもあったのだ.アウトリーチ活動という文脈に立ち戻るならば,専門家が自らの専門性を看板に掲げ,それを広く外へ表明していく営みこそが,professional の語源に忠実な姿ともいえる.
「#6324. アウトリーチ活動とは何か? --- 英単語 outreach の発展」 ([2026-08-20-1]) で触れたように,私や周囲の人々による「英語史をお茶の間に」の活動,通称「hel活」 (helkatsu) は,英語史という学問分野に関するアウトリーチ活動である.
学術的な話題に関するアウトリーチ活動の根幹には,share 「シェア」の発想があるのではないかと,私は考えている.share は「分け前,取り分」という名詞であるとともに「分ける,分かち合う,共有する,共に用いる」を意味する動詞でもある.アウトリーチの文脈で「知識や知恵のシェア」という場合には,日本語の「お裾分け」の語感が近いように感じている.
share の語源を遡ると,おおもとは印欧祖語の *(s)ker- "to cut" にたどり着く.そこから,「切り分ける;切り分けられた断片」ほどに語義が展開し,現代的な名詞や動詞の意味に到達した.同音異綴字異義語の shear 「大ばさみ(で刈る)」も同根である.
ただし,おもしろいことに古英語 sċearu は「刈り込み;剃髪」などの比較的特殊な意味で,現代的な「分け前,シェア」的な語義が発達するのは中英語期になってからのことだ.私たちが注目しているアウトリーチに直接関連する語義は,それなりに新しいものということになる.
では,古英語では「分け前,シェア」という「意味の場」は存在しなかったのかといえば,そうでもない.別の単語 dǣl (名詞)や dǣlan (動詞)がその意味を担っていた.現代でいうところの deal である.この語は現代では「取引;取り扱い」の語義が前面に出てきている感があるが,原義ははほぼ share と重なるといってよい.語根も share とは異なるとはいえ,印欧祖語 *dail- "to divide" に遡るとされ,ここにはやはり「分け与える」の発想が入っている.中英語以降,名詞も動詞も独自の語義を発展させて現代に至るが,原義に比較的近いところを残しているものとして dealer 「(トランプのカードを)配る人」,a great deal of などの表現における「一部,部分」を挙げておこう.なお,「取引」関連の語義の発達は,取引や交渉というものが,2者が同じ目的を共有する作業だからだろう.
ここまでのところを考えると,古英語で deal が担っていた意味の場を,中英語では share が担当するようになった,という風に見える.そして,この英語本来語ペアの動きに介入して来ているように見えるのが,ラテン語由来にしてフランス語経由で中英語期に借用されてきた part という単語だ.「分け前;一部」といった先の2語と共通する語義を持っており,語根こそいずれとも異なるが,起源を遡ると印欧祖語 *perə "to grant, allot" に行き着く.根本的な発想はここでも「分け与える」なのだ.現代英語で part の関連語としては,participate 「参加する」や partake 「参加する;共にする」にその原義が感じられる.
share, deal, part の3つの基本語は,英語史を通じてそれぞれ守備範囲を調整しながら現代まで生きながらえてきたわけだが,いずれも発想の根幹に共通のものがあるのがおもしろい.アウトリーチ活動と相性のよい「お裾分け」系の語彙を構成している.
関連して,hellog 「#4941. partner と parcener」 ([2022-11-06-1]) および「#524. deal と part のイメージは「分け与えて共有する」」を参照.
8月9日に,Voicy heldio で「#1897. heldio オープンマイク」と題する配信回をお届けした.
英語史をお茶の間に届けるべく,2021年6月に開始した Voicy 「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」は,おかげさまで5年を超え,1日も休まず毎朝の配信を続けてこられた.本ブログ「hellog~英語史ブログ」については,2009年5月以来,かれこれ17年以上にわたって毎日更新を継続している.この間,各種メディアでの発信,YouTube「いのほた言語学チャンネル」,雑誌連載,書籍の執筆,市民講座の開講など,英語史の裾野を広げるアウトリーチ活動,すなわち「hel活」 (helkatsu) に注力してきた.
しかしながら,率直に告白すれば,私ひとりの力で毎日休まず新たなコンテンツを生み出し続けることには,物理的・時間的な限界が訪れつつある.近年は各種プロジェクトが目白押しで,日々の発信に追われるあまり,インプットが枯渇し,カラカラの状態になっているのである.アウトプット過多による質の低下は,何より私自身が日々痛感している.heldio について番組の継続を断念するか,あるいは配信頻度を下げるか,悩む日々が続いていた.
そこで heldio について思いついたのが,マイクをコアリスナーの皆さんに開放する「オープンマイク企画」である.折しも Voicy のプレミアムリスナー限定配信チャンネル「英語史の輪 (helwa)」や月刊ウェブマガジン Helvillian では,熱心なリスナー(「ヘルメイト」と呼んでいる)の皆さんが主に note などのプラットフォームで自主的なhel活を繰り広げてくださっている.私ひとりで抱え込むのではなく,英語史を愛するリスナーの皆さんに番組制作の一翼を担っていただく体制へと移行できないかと考えたのである.
当初は向こう1,2年をかけた中長期的なマイク委譲計画を思い描いていたのだが,7月下旬に helwa 内で協力を呼びかけたところ,わずか数週間のうちに驚くべきスピードで企画が動き出した.ヘルメイトの皆さんが自発的に対談やインタビューなどの音声コンテンツを次々と制作・提供してくださり,瞬く間にチャンネルを支えていただく体制が整ったのである.この熱気と実行力には,ただただ圧倒され,感謝の念に堪えない.
オープンマイク企画には,大きく3つの狙いがある.第1に,私自身にかかっていた負担を適度に緩和すること.第2に,ヘルメイトの皆さんのフレッシュな熱量と多彩な知見を番組に吹き込むこと.そして第3に,発信者の多様化によってリスナーにとっても飽きのこない,より重層的で魅力的なチャンネルへと進化させることである.
Voicy に代表される音声配信は,本来誰もが発信者となりうるウェブ時代のメディアである.英語史のアウトリーチ活動も,研究者からの一方通行の啓発という段階を終え,コミュニティ全体で楽しみながら知を共有するフェーズに入りつつあると考えている.私自身もメインのパーソナリティとして発信を継続しつつ,ヘルメイトの皆さんとともにこの場をサステイナブルに育てていきたい.日頃お聴きいただいているリスナーの皆さんにも,ぜひコメントなどでオープンマイク企画を応援していただき,さらには helwa への参加を通じてチャンネル制作の輪に加わっていただければ.よろしくお願いします.
近年,学術界をはじめ教育,福祉,医療,文化活動などの現場で「アウトリーチ(活動)」というカタカナ語を頻繁に耳にするようになった.私自身も英語史を広める活動,「hel活」 (helkatsu) を展開するなかで,このアウトリーチという概念を強く意識するようになってきた.本ブログでも「#6161. 『中央評論』の特集「アウトリーチ活動の多様な見方」を読んで」 ([2026-03-10-1]) などで関連する話題に関心を寄せてきた.
しかし,そもそも英単語の outreach とは何なのか.今回はこの単語の意味変化 (semantic_change) と品詞転換 (conversion) の歴史を振り返ってみたい.
動詞としての outreach の歴史は古く,古英語期にまで遡る.接頭辞 out- に基本動詞 reach が結合したもので,きわめて古英語らしい典型的な複合語である.原義としては「渡す,提示する」から始まり,そこから「超える,延伸する」,さらには「手を届かせる,手を伸ばす」へと発展し,比喩的に「手を差し伸べる」という語義を獲得するに至った.なお,後期近代英語期には,句動詞としての reach out も同様に比喩的な語義での使用が見られるようになる.
一方,品詞転換によって生まれた名詞としての用法は,動詞に比べるとぐんと新しいものである.OED (Oxford English Dictionary) によると,名詞用法の初例は1835年のことだ.名詞としての語義の広がりも動詞の発展経路とおおむね軌を一にしており,使われ始めた当初から「届く範囲」という物理的な原義から,比喩的な「手を差し伸べること」に至るまで,幅広い意味で用いられていた.
私たちの「アウトリーチ」に近い語義に接近するのは,19世紀末のことである.1899年以降,「ある組織が,支援や教育のために,あるいは自らの目的を広く伝えるために,それを知らない人々に向けて働きかけをする活動」という特殊な語義を発展させてきた.OED より該当の定義を引いてみよう.
2.b. spec. The activity of an organization in making contact and fostering relations with people unconnected with it, esp. for the purpose of support or education and for increasing awareness of the organization's aims or message; the fact or extent of this activity. (1899--)
そして,20世紀中に,福祉・医療・介護・心理・教育といった幅広い分野でこの「手を差し伸べる」の語義が定着し,形容詞的にも用いられ,outreach programs, a YMCA outreach worker, outreach effort, outreach activity などの表現が現われるようになった.
日本語におけるカタカナ語の「アウトリーチ(活動)」は,英語において後発的に発達したこの名詞・形容詞の語義を近年になって借用したものである.その語感としては,『現代用語の基礎知識2008』の解説が参考になる.そこでは「福祉サービスで規定や通常の限度を超えて手を差しのべようとする活動」と説明されている.アウトリーチ活動の本質は自主性や積極性にあるということだろう.
言ってみれば「誰からも明示的に求められてもいないのに,自ら枠を飛び越えて行なう活動」であり,見方によっては一種の「お節介」に近い性格をもっているとも考えられる.あるいは,利潤を追求しない企業家精神,とも言えるかもしれない.
閉じた領域にとどまらず,まだその価値を知らない人々に向けて積極的に手を伸ばしていくことこそが,現在使われている「アウトリーチ」という語の核心なのだろうと解釈している.意味変化の歴史や用法の広がりをたどってみると,単語の輪郭がより鮮明に見えてくる.
「#6289. 井上逸兵さんが「ゆる言語学ラジオ」に3度目の登場」 ([2026-07-16-1]) で紹介したとおり,人気 YouTube チャンネル「ゆる言語学ラジオ」に井上逸兵さん(慶應義塾大学教授)が3度目(最終回)のご出演をされました.それを受けて,昨日公開された「いのほた言語学チャンネル」の最新回にて,反省会を開きました.「ゆる言語学ラジオさんに説教されましたー!」(20分ほどの動画)をご覧ください.
今回の動画は,ゆる言語学ラジオでの井上さんの学ラン姿でのコント風ご出演と,堀元さんによる本気の YouTube 論を受けた振り返りトークとなっています.実はこの学園コント企画,2年前の2024年冬に両チャンネルのメンバー4名で会食した折に上がってきたもので,2年越しの計画として結実したものでした.堀元さんの卓越したエンタメ性と魂の入った YouTube 論には,私も大いに刺激を受け,学ぶことばかりでした.
動画内では,エンタメや編集技術の反省にとどまらず,現代における知のあり方や大学の役割についても議論が及びました.従来のように大学が知の唯一の頂点や中心として君臨する時代は過ぎ去り,現代は分散型の知の潮流の中にあります.そのような状況において,大学や研究者には,知のキュレーターやオーガナイザー,あるいは開かれた知のサークルの1メンバーとしての柔軟な役割が求められているのではないか,と語り合いました.
現在私が海外に滞在しているため Zoom での遠隔収録となっていること,画面のアスペクト比や編集,音声レコーディングの話題など,技術面での裏話にも触れています.9月末には日本へ帰国する予定で,10月からは再び2人並んでの対面収録をお届けできる見込みです.
昨年刊行された共著『言語学でスッキリ解決! 英語の「なぜ?」』(ナツメ社)や,雑誌『英語教育』でのコラボ連載など,動画にとどまらない2人の発信活動についても紹介しています.ゆる言語学ラジオの視聴者の方々にも,一味違った角度から英語学・言語学の奥深さを味わっていただければ幸いです.
おかげさまで「いのほた言語学チャンネル」は開設から4年と5ヶ月が経ち,チャンネル登録者は2万2千人を超えています.今後とも英語学・言語学のおもしろさを伝えていきたいと思います.「いのほた言語学チャンネル」をよろしくお願いします.
・ 井上 逸兵・堀田 隆一 『言語学でスッキリ解決!英語の「なぜ?」』 ナツメ社,2025年.
標題の記事が掲載されていることを heldio リスナーの ykagata より教えていただき,記事全文を読んでみました.記事のリード文は次の通りです.
大学などの研究者がポッドキャストを配信する動きが広がっている。高度な内容を平明に伝える番組にはファンも付く。専門知の伝達チャネルとして音声メディアが存在感を増している。」
記事は,犯罪学・刑事政策をテーマとする丸山泰弘さん(立正大学教授)のポッドキャストチャンネル「丸ちゃん教授のツミナハナシ」の紹介に始まり,研究者によるいくつかのポッドキャストが言及されていきます.その他,記事には「研究者がパーソナリティの番組」の一覧表が掲げられているのですが,そのトップに私のチャンネル「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」が挙げられており,驚きました.ありがたいことです.

記事は次のように締めくくられています.
音声広告会社オトナル(東京・中央)の調査では月1回以上ポッドキャストを聴く人の割合は25年に18%で、増加傾向が続く。アカデミックナポッドキャストはこれからさらに広がっていきそうだ。
この記事を読んで,そして heldio やそのプレミアム版「英語史の輪 (helwa)」の音声配信に日々携わっている身として,とても感慨深いものがあります.「知の伝達,活字から声へ」という視点は,長年目指してきた「英語史をお茶の間に」というモットーの実現とも深く関わってくるからです.
活字離れが叫ばれる現代において,文字情報としての本ブログ「hellog~英語史ブログ」を毎日更新し続ける一方で,2021年からは毎朝の音声配信 heldio を開始しました.これは私にとってもひとつの大きな実験でした.今では,文字による深い解説と,声による平明で血の通った解説.今では,この2つのメディアは,決して対立するものではなく,お互いを補完し合う強力なペアになり得るという確信があります.
実際,heldio のリスナーコミュニティであるヘルメイトの皆さんとの繋がりや,そこから生まれる様々な「hel活」 (helkatsu) は,まさに「声」のメディアが媒介となって生まれたものです.音声を通じて,学問に近づくためのハードルを下げ,双方向の知的コミュニケーションの触媒になっているのです.
専門知をアカデミアの内部だけに閉じ込めておくのではなく,いかにして社会へアウトリーチしていくか.これは現代の研究者に課された重要な課題です.ポッドキャストというパーソナルで親密なメディアは,そのための最も強力な武器のひとつと言えます.
これからも,hellog による「文字」の蓄積と,heldio による「声」のダイナミズムの両輪で,英語史の魅力を発信し続けていきます.読者の皆さん,リスナーの皆さん,引き続きお付き合いのほど,よろしくお願いします.
ykagata さんによる7月16日公開の関連 note 記事「日本経済新聞が紹介した7つの「研究者配信のポッドキャスト」まとめ」もお読みください.

中央大学出版が発行する『中央評論』の最新号334号の特集「アウトリーチ活動の多様な見方」が気になっていた.本ブログを始めて17年弱の時間が流れ,そのほかいくつかのメディアでも英語史という分野の発信を行なってきた者として,この活動がどのような意味をもつのかは自分自身もイマイチよく分かっていないながらも,「アウトリーチ活動」と呼ばれるようなことはしてきたように思われるからだ.目下,私は海外にいるのだけれども,あまりに読みたかったので,冊子を入手して読んだ.以下は,特集を読んだ上での雑記である.
まず特集を構成する各記事の執筆者とタイトルを挙げておこう.いつもお世話になっている「ゆる言語学ラジオ」の水野太貴さんも寄稿されている.
・ 福田 純也[巻頭言]:アウトリーチ活動の多様な見方
・ 石井 雄隆/植木 美千子:科学コミュニケーションの観点から考える研究のアウトリーチ --- 外国語教育の研究成果を社会とつなぐために
・ 松浦 年男/浅原 正幸/占部 由子/黒木 邦彦/田川 拓海/中川 奈津子/矢野 雅貴:ぬるま湯のアウトリーチ --- 言語学フェスが照らす新たな可能性
・ 水野 太貴:「ゆる言語学ラジオ」はアウトリーチではない --- 理想のアウトリーチと映画『国宝』について
・ 平田 トキヒロ:あえて言おう、クソであると。 --- アウトリーチ活動の定義再検討
・ 石井 慶子:孤独と発信のあいだ --- アウトリーチ活動から考えたこと
特集を通して読んでみて,まず「アウトリーチ活動」やその考え方の多様性に驚いた.特集のタイトルが示す通り,そもそも「アウトリーチ活動」そのものが鵺のように捉えどころのないものらしいのだ.私自身はどこに位置づけたらよいのか,軽くめまいがしたほどだ.アウトリーチは自由であってよいし,制限されたらアウトリーチではない,そんな風に思えた.
それぞれの論考に学ぶところがあり,自分に引きつけて考えてみたくなる洞察が含まれていた.ここでは,松浦氏ほかによる「ぬるま湯のアウトリーチ」より,とりわけ琴線に触れた箇所を引きたい.
言語学フェスはコロナ禍によって生じた研究者間の交流の断絶を緩和する策のひとつとして生まれたという経緯がある (27)
言語学フェスは学会とは異なり,「研究とは何か」という問いを考えるきっかけとなる場を提供している (31)
「楽しさ」を起点としたアウトリーチ活動は,特定の課題の解決というよりもむしろ,参加者が「言語は(やっぱり)面白い」と感じられるような環境を作ることを目指している.そうした空間を作っていき,ゆるやかに続けることは,研究者として活動する人にとっても,未来の研究者やファンを作ることに繋がっていく.そしてこれは研究予算の縮小など先行きが不透明な学術界にとっても,言語に関心を持つ多くの人にとっても明るい光となる可能性が十分にあるだろう. (33)
私自身も Voicy heldio での英語史発信を始めたのは,コロナ禍によるコミュニケーションの断絶がきっかけだった.ただし,私の場合は「研究者間の交流の断絶」というよりは,どちらかといえば「教員・学生間の交流の断絶」に動機づけられていたという点での違いはある.
そして,本格的なアウトリーチ活動として「hel活」を始めてみるまでは気づかなかったが,「研究とは何か」「自分は何のために研究しているのか」を強く意識するようになった.明確な答えが出ているわけではないが,少なくとも自問自答する機会が非常に多くなった.
さらに,アウトリーチ活動を通じて,学びや研究は,本来はそれ自体が楽しいからするものであり,ほかの○○の目的ためにするわけではない,少なくとも第一義的にはそうではないということを,再認識する機会が増えた.おもしろいから研究するのだし,そのおもしろさを他の人々と分かち合いたいから伝えるのだ.それが結果的に「アウトリーチ活動」になっている,という順番で理解している.
また,特集を取りまとめた福田氏による編集後記 (164) の言葉も印象的だった.
その往復[=さまざまな立場の人々が互いに影響を与え合う往復]の中で,研究の意味や社会の側の問いかけが新たに立ち上がっているのを感じました.読者の皆さまにも,この特集を通じて,新しい往復を始めるきっかけを見つけていただければ幸いです.
「アウトリーチ活動」を通じて,はじめて可能となった交流がある.その交流を経てはじめて気づいた研究の意義がある.活動していなかったら決して気づかなかったと思われる研究の価値,予想もできなかったと思われる研究の可能性が,見えるようになってきた.これだけでも十分な大きな収穫だし,何よりも未来に向けて希望の光が差す.
「アウトリーチ活動」をうさんくさいと思われる方もいるかもしれない.ちょっと関心がある,やってみたい気がするという方もいるだろう.すでに実質的に活動しているという方もいるだろう.いずれの読者にとっても,この特集の各記事は,洞察を与えてくれるはずである.
・ 「特集 アウトリーチ活動の多様な見方」『中央評論』334号(77巻4号) 2026年2月3日.
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