昨日の記事[2010-08-01-1]の OANC からの結果に飽き足りずに,語頭を <h> と綴るが /h/ で発音されない単語をより多く探すべく,BNC でも同じことをやってみた.そちらのほうがおもしろい結果が出たので,結果報告する( OANC の面目丸つぶれ?).
216種類の語が得られたが,固有名詞や頭字語が多く,一覧してもあまりおもしろくない(見たい方はHTMLソースを参照).また,品詞のタグ付けに誤りがある例もあったので,今回はあくまで概要を知るための初期調査として理解されたい.一般名詞や形容詞に絞った117例をアルファベット順に示す.
habitual, habituated, habitué, haemoglobin, half, half-hour, hallucination, hallucinatory, hallucinogenic, handful, haphazardly, happy, haute-couture, hazard, heap, heartening, hedonistic, heir, heir-apparent, heiress, heirloom, hell, heparin, hepatic, heraldic, herbaceous, herbalist, hereditary, heretical, hermaphrodite, heroic, heterogenous, heterologous, heuristic, hexadecimal, hexagonal, hi, hiatus, hibiscus, hide, hierarchical, hierarchically, hierarchy, high, higher, hilarious, historian, historic, historically, historically-created, historically-evolved, historicist, historiographical, history, histrionic, hitherto, hockey, hole, holiday, holistic, holoenzyme, holy, home-grown, homogeneous, homologous, hon., honest, honest-to-god, honest-to-goodness, honestly, honesty, honorable, honorarium, honorary, honour, honour-able, honourable, honourably, honoured, honouring, hopeful, horchata, horizon, horizontal, horrendous, horrific, horror, hors-d'oeuvre, horse, hospital, host/target, hotel, hotel-keeper, hour's-worth, hour-an-a-half, hour-and-a-half, hour-glass, hour-long, hourglass, hourglass-shaped, hourly, hours, howitzer, human, humanities, humble, hundred, hydraulic, hydraulically, hydroxyapatite, hydroxyl, hypnotic, hypostasised, hypothesis, hypothetical, hysterical, hysterically
history, honest, honour, hour の関連語はやはり多い.おもしろいところを取りあげると,habitual, hallucination, hepatic, hereditary, heretical, heroic, hierarchical, hilarious, homogeneous, horizon, horrendous, horrific, hypothetical, hysterical あたりだろうか.いずれも第1音節に主強勢がおかれないので語頭の /h/ が特に弱まりやすい.ただ,第1音節に主強勢が落ちる例も少なくないことは確かである.
昨日の OANC での結果として出た herb や homage が BNC では出なかった.いずれの語も /h/ のない発音はアメリカ英語発音のみであるという辞書の記述と一致しているようだ.
それにしても,BNC と OANC の収録語数に差があるとはいえ,イギリス英語からの例の種類の豊富さは際立っている.確かにイギリス英語には h-dropping で名高い Cockney などの方言もあるし,/h/ の不安定さは著しいのではないかと予想はしていた.また,アメリカ英語では綴り字発音 ( spelling-pronunciation ) の傾向が強いことも一般論としては分かっていた.今回の BNC と OANC での初期調査の結果は予想と一致するものだったが,より詳しく調べていくと結構おもしろいテーマに発展してゆくかもしれない.
[2009-11-27-1]に取りあげた話題の続編.英語の <h> の綴字が表わす子音 [h] にまつわる混乱は,この子音が単に音声的に不安定であるからばかりではなく,<h> を含んだフランス単語を英語が借用する際に一貫性を欠いていたという事情にもよる.このことを理解するには,話を古典ラテン語まで遡らなければならない.
古典ラテン語では <h> の綴字は /h/ として発音しており規則的だった.ところが,古典期も後期になると /h/ 音の脱落が始まった.ところが,綴字は <h> で固定していたので綴字と発音のズレが起こり出した.このズレた状態が後のロマンス諸語にもそのまま伝わった.中世のフランス語も例外ではなく,<h> と綴る単語では /h/ は決して発音されなかった.そして,英語は中英語期にこのようなズレを抱えたフランス語から大量の <h> を含む語を借用することとなったのである.
このとき,英語は <h> と綴るのに無音というズレに対処するのに3つの方法を採用した ( Scragg, p. 41 ).
(1) 発音しないのだから綴る必要なしということで <h> を落として取り入れた.able, ability, arbour などがあるが,例は少ない.(フランス語の habile, habileté,ラテン語の herbarium と比較.)
(2) ズレたフランス語の通りに従った.つまり,<h> と綴るが発音しないというズレを甘受した.heir, honest, honour, hour など,(1) よりは例が多い.(an historical study や an hotel のような例も参考.)
(3) 綴りがあるのだから発音しようという spelling-pronunciation の発想で <h> を /h/ として読むことにした.horrible, hospital, host など大多数の <h> を含む借用語がこのパターン.
英語は原則として (3) の方法を選んだ.これ自体は合理的であり,綴字と発音の関係がすっきりする.英語の spelling-pronunciation の歴史では,<h> と /h/ ほどに一貫して起こった spelling-pronunciation の例はないのではないか.まさに spelling-pronunciation の鏡といってよい.ただし,100%一貫していたわけではなく,少数の語ではあるが (1) や (2) が適用されてしまったことで,尊い完璧な分布の夢は崩れてしまった.(2) の少数の語によって,英語は中世ラテン語やフランス語の負の遺産を引きずることになってしまい,その混乱は現代英語にも続いているのである.
関連する話題として「アデランス」の記事[2010-04-22-1]も参照.
・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
昨日の記事[2010-07-17-1]で影の薄い文字 <z> の話題を取りあげたが,スコットランド系の人名について英語史上 <z> にまつわる興味深い話しがある ( Scragg, p. 23 ) .標題の三つの人名はいずれも <z> を含んでおり,発音はそれぞれ /ˈdælziəl/, /məˈkɛnzi/, /ˈmɛnziz/ と /z/ を伴って発音されるのだが,/z/ を伴わない伝統的な別の発音もあり得るのである.後者はそれぞれ /diˈɛl/, /məˈkɛni/ (現在ではほぼ廃用), /ˈmɪŋɪs/ と発音される.
ちょうど小川さんが「おがわ」なのか「こかわ」なのか漢字からは判別がつかないように,Menzies さんは綴字だけでは /ˈmɛnziz/ なのか /ˈmɪŋɪs/ なのか分からないという状況がある(実際にスコットランドでは学校の同じクラスに,二つの異なる発音をもつ Menzies さんがいることがあるという).
なぜこのような状況になっているかを理解するためには,中英語の綴字習慣を知る必要がある.古英語以来,"yogh" /joʊk, joʊx/ と呼ばれる文字 <ʒ> が硬口蓋摩擦音や軟口蓋摩擦音を表すのに用いられていた.具体的には [j], [x] などの音に対応し,後に音に応じて <y> や <gh> に置換されることとなった多用途の文字である.中英語では隆盛を誇った <ʒ> だが,近代英語期の印刷技術の発展に伴って衰退し,他の文字に置換されることとなった.特にスコットランドでは,発音と対応するからという理由ではなく字体が似ているからという理由で,<z> がしばしば置換候補となった.<z> の小文字の筆記体を思い浮かべれば,字体の類似は明らかだろう.人名などで <ʒ> → <z> の書き換えが起こった結果,現在の <Dalziel>, <MacKenzie>, <Menzies> という綴字が生まれた.
逆にいえばもともとは <Dalʒel>, <MacKenʒie>, <Menʒes> などと綴られていたということであり,ここで <ʒ> が表す音はそれぞれ有声硬口蓋摩擦音 [j] や有声軟口蓋摩擦音 [ɣ] に近い音だったと考えられる.この発音がそのまま現在までに発展してきたのが上記で伝統的と述べた発音であり,<z> を伴う現代的な発音は綴字が <z> に切り替わってからの綴字発音 ( spelling-pronunciation ) ということになる.
この話題については,BBC の記事 Why is Menzies pronounced Mingis? が非常におもしろい.
字体が似ているがゆえに混用が起き,その混用の名残が現在にまで残っている同様の例としては,[2009-05-11-2]の記事で取りあげた "thorn" と <y> がある.
・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
昨日の記事[2010-05-11-1]で often の綴り字発音 ( spelling pronunciation ) を取りあげた.often の例は英語史の観点からみてかなりおもしろいと述べたが,それは昨日話したほかにも理由がある.<t> の発音が話題に取りあげられることの多いのは今日的な問題として当然のことだろうが,英語史的にみるとこの問題は語尾の <n> の起源の問題に行き着くと考えている.そして,この <n> の起源というのが,判然とはしないのだがおもしろい.
"often" の意味の副詞は,古英語では oft という語で表されていた.-en はまだついていない.この語はゲルマン諸語にも対応語の見られる非常に古い語である.中英語には( oft ですでに副詞ではあるが)副詞語尾 -e を付加した ofte も現れ,16世紀後半まで異綴りとして残ったが,現代にまで続いた形は本来の oft である.現代では oft は古語・詩語として用いられるほか,ofttimes や oft-told, oft-quoted などの複合語の要素として用いられる.
often, oftin などの形で語尾の -n が現れだすのは13世紀のことである(一般的になるのは16世紀以降).不定冠詞 an と a の使い分けと同様に,母音で始まる語の前で often が,子音で始まる語の前で ofte が区別して使われていた形跡が Chaucer などにあるが,北部方言ではより早い段階で次の語頭音にかかわらず oftin が使われており,先の euphony による説明の妥当性が問題となる.
そこで考えられたのが,selden "seldom" からの類推 ( analogy ) という説である.頻度を表す副詞という同じ語類に属するので,十分に類推のターゲットになりうると考えられ,説得力は高い.( selden 自体は,hwīlum "whilom" などの複数与格形に由来する語尾からの類推で,古英語後期から -m をもつ変異形でも現れ出す [ see [2009-06-06-1] ].)この seldom 類推説を採用するとなると,以下のような理屈が成り立つのではないか.
現代の <t> を読むか読まないかという問題は,そもそも <t> を読まないという選択肢があり得るところに存する.<t> を読まない発音が現れたのは,近代英語期に三子音の中音が脱落するという英語の音声変化が生じたからである.三子音という環境が整っていたのは,三音目の <n> が中英語で挿入されていたからである.<n> が挿入されたのは,おそらく selden "seldom" からの類推である.とすると,今日の often の発音が [ˈɒfən] か [ˈɒftən] かという議論を引き起こした元凶は,seldom であるということになるのではないか.
こんなところに,英語史の観点から現代英語の問題をみるおもしろさがあるのではないか.
綴り字発音 ( spelling pronunciation ) については,[2009-11-24-1]や[2009-11-25-1]の記事で取り上げてきた.現代英語の spelling pronunciation の代表選手としてよく取り上げられるのが often である.この語の伝統的な発音は BrE では [ˈɒfən] と発音されるが,[ˈɒftən] と [t] を発音するものも聞かれる(いずれも第1音節の母音は変異しうる).AmE でも同様で,[t] を読む発音が聞かれる.LPD によると,多くの話者が [t] を読まない発音と読む発音の両方をもっているとされる.BrE と AmE での Preference poll の結果は以下の通り.
いずれの変種でも,[t] を発音するのは 1/4 程度で少数派のようだ.ただ,これは静的な調査なので,これだけでは今後の行方については不明である.
often が spelling pronunciation の代表語としてよく取り上げられるのは,高頻度語で話題にしやすいからだろうと思われるが,この例は英語史の観点から見てもかなりおもしろいと思っている.spelling pronunciation としての [t] の復活は現代英語の現象と思われがちだが,実際には [t] の有無の揺れは soften, swiften などの例とともに近代英語期から見られる.17世紀には標準英語で [t] が確立していたが,18, 19世紀には [t] を読まない発音が普通となっており,以降の現代英語で再び [t] が復活してきたというのが歴史的経緯である.often の初例は13世紀であり,当初は文字通りに [t] は発音されていたはずなので,この語の歴史としては [t] が発音されていた期間の方が長いことになる.考えてみれば,<t> と書かれているのだから [t] を発音するというのは,きわめて自然なことだ.18世紀以降,[t] を読まなくなった [ˈɒfən] に慣れ親しんでいるほうが不自然ということになる.
[t] を読まなくなったのは,三子音の連続において中音が脱落するという英語発音の一般的な傾向と一致する現象である ( ex. castle, Christmas, listen ) .話者の生理に基づく [t] 脱落の力と話者の理性に基づく [t] 復活の力の引っ張りあいは,これからも続いていくのだろうか.30年後くらいの Preference poll を待ちたい.
・ Wells, J C. ed. Longman Pronunciation Dictionary. 3rd ed. Harlow: Pearson Education, 2008.
・ 中尾 俊夫 『音韻史』 英語学大系第11巻,大修館書店,1985年.405頁.
昨日[2009-11-24-1]に引き続きの話題.今日は,教育の普及と綴り字発音の発生との関係を考えてみたい.
英語にしろ日本語にしろ,現代の言語文化では,話し言葉 ( spoken language ) よりも書き言葉 ( written language ) が重視される傾向がある.口約束よりも文書の契約が重んじられ,耳学問よりも書物を通じた学問が推奨される.話し言葉はその場限りの不安定な存在であり,書き言葉は永続する安定的な存在であるという前提が,無意識のうちに共有されている.綴り字発音は,書き言葉を重視する現代の傾向の一つの現れとして位置づけられるだろう.
英語における綴り字発音は,英語国における19世紀末の教育の普及が大きく関わっているとされる.国民の多くが文字に親しむようになり,書き言葉,書かれたもの,綴り字に対してこれまで以上に権威を認め,信頼を寄せるようになった.識字率の低い時代には,幼児の言語習得と同様に,人々は新しい単語を「耳」から覚えるのを常としたが,文字を読めるようになると,書物のなかで見たことも聞いたこともない語に出くわす機会が増えた.こうして新しい単語を「目」から覚える機会が増し,書き言葉を重視する傾向と相俟って,綴り字を頼りに発音する綴り字発音が行われるようになった.
綴り字発音が広まったのは教育の普及ゆえであると述べたが,よりピンポイントに責任者をつきとめると,それは(英語)教師だろう.『現代英語学辞典』の "Spelling pronunciation" の項にこのような記述がある.
概して,綴り字発音は,無学者,あるいは(発音と綴り字との関係を知っている)学者の行うものではなくて,衒学的な人たち(たとえば教師など)によって始められることが多い.
さらに,Bloomfield (487) の指摘も辛辣である.ある語の標準的な発音を知らないが,立場上,知っているふりをしなければ権威を保てない教師,特に下層階級出身の教師こそが,綴り字発音を広めたのだとする.
Especially, it would seem, in the last centuries, with the spread of literacy and the great influx of dialect-speakers and sub-standard speakers into the ranks of standard-speakers, the influence of the written form has grown --- for these speakers, unsure of themselves in what is, after all, a foreign dialect, look to the written convention for guidance. The school-teacher, coming usually from a humble class and unfamiliar with the actual upper-class style, is forced to the pretense of knowing it, and exerts authority over a rising generation of new standard-speakers. A great deal of spelling-pronunciation that has become prevalent in English and in French, is due to this source.
時代が変わって21世紀の現在.いま起きている綴り字発音の首謀者もかつてと同様,衒学的な人たちなのだろうか?
・石橋 幸太郎 編 『現代英語学辞典』 成美堂,1973年.
・Bloomfield, Leonard. Language. New York: Henry Holt, 1933.
spelling pronunciation 「綴り字発音」については本ブログでも何度か触れてきた.
綴り字発音は「綴字に合わせて,歴史的,伝統的,標準的な様式とは異なる様式でなされる発音」として定義される.現代英語で often の発音に起きている変化が代表的な例である.この語は従来 [ˈɔ:fn] と発音されてきたが,近年では [ˈɔ:ftən] と <t> を発音する方向へ変化しつつある.「書かれているのだから読もう」という素直な発想に基づく発音変化である.
他には,accomplish がある.これは従来 [əˈkʌmplɪʃ] と発音されてきたが,近年の米語では [əˈkɑ:mplɪʃ] と発音されるようになってきている.<om, on> という綴字における母音は,some や company にみられるように,歴史的には [ʌ] と発音されてきたが,stop や Tom などの [ɑ:] の発音からの類推で,このように変化してきている.
上記のように,綴り字発音には二つの種類が区別される.種類ごとにいくつかの例を挙げよう.
(1) 黙字 ( mute letter ) が発音されるようになるタイプ.often の新発音の例.
単語 | 従来の発音 | 綴り字発音 |
---|---|---|
clothes | [ˈkləʊz] | [ˈkləʊðz] |
forehead | [ˈfɒrɪd] | [ˈfɔ:hɛd] |
often | [ˈɔ:fn] | [ˈɔ:ftən] |
suggest | [səˈdʒɛst] | [səgˈdʒɛst] |
towards | [ˈtɔ:dz] | [təˈwɔ:dz] |
単語 | 従来の発音 | 綴り字発音 |
---|---|---|
assume | [əˈʃu:m] | [əˈsju:m] |
ate | [ˈɛt] | [ˈeɪt] |
clerk | [ˈklɑ:k] | [ˈclə:rk] |
constable | [ˈkʌnstəbl] | [ˈkɑ:nstəbl] |
nephew | [ˈnevju:] | [ˈnefju:] |
単語 | イギリス発音 | アメリカ発音 |
---|---|---|
Derby | [ˈdɑ:bi] | [ˈdə:rbi] |
Eltham | [ˈɛltəm] | [ˈɛlθəm] |
Greenwich | [ˈgrɪnɪdʒ] | [ˈgri:nwɪtʃ] |
Thames | [ˈtɛmz] | [ˈθeɪmz] |
[2009-08-21-1]で取りあげた etymological respelling の続編.英国におけるルネッサンス時代はおよそ初期中英語期に相当する.ルネッサンスは古典復興運動であり,その媒体となったのが古典語,とりわけラテン語とギリシャ語だった.したがって,この時期に両古典語からの借用が多かったのはごく自然のことだった([2009-08-19-1]).しかし,ラテン語重視の時代の風潮は,なにも語の借用にとどまっていたわけではない.例えば,英文法書はラテン語文法をお手本に書かれた.そして,もう一つのラテン語重視の現れは,綴字に見られた.
[2009-08-25-1], [2009-05-30-1]で見たように,近代英語期以前にもラテン語からの借用語はたくさんあった.そのなかでも特に中英語期にフランス語を経由して英語に入ってきたラテン語は,形態が崩れていることが多かった.伝言ゲームではないが,英語に入ってくる過程でフランス語などを経ると,どうしても原形が崩れてしまうのである.
ルネッサンス期の学者たちはこれを嘆かわしいと思った.かれらは,権威のある古典ラテン語の「原形」を知っているので,英語で根付いていた「崩れた形」に我慢がならなかったのである.そこで,「原形」(=語源)を参照して,すでに英語に定着していた綴りを一方的に直した.この学者たちの営みを etymological respelling と呼ぶ.
[2009-08-21-1]では debt 「債務」という語を例に etymological respelling のプロセスを解説したので,今回はいろいろと他の例を挙げることにする.以下の現代英単語はすべて etymological respelling の産物だが,各語についてどの文字が学者によって挿入・置換されたかわかるだろうか.
altar, Anthony, assault, author, comptroller, debt, delight, doubt, falcon, fault, indict, island, language, perfect, phantom, psalm, realm, receipt, salmon, salvation, scholar, school, scissors, soldier, subject, subtle, throne, victual
学者たちは,ラテン借用語の綴字こそ改革したが,庶民の発音までをも改革し得たわけではない.多くの場合,庶民は相変わらず中世以来の「崩れた形」の発音を使い続けたのである.学者がいくら騒ごうが民衆にとって関心がないのは,いつの時代でも同じである.だが,せっかく綴字を改革したのだからそれにあわせて発音も変えようという殊勝な態度も一部にはあったようで,いくつかの単語では,挿入された文字に対応する発音もおこなわれるようになった.綴字にあわせて発音しようというこの考え方は,spelling pronunciation と呼ばれる.
現代英語において綴字と発音の乖離は大きな問題であり,etymological spelling はこの問題に一役買っている([2009-06-28-2]).また,それを是正しようとする spelling pronunciation の作用も中途半端であり,かえって混乱を招いているともいえる.この問題の根が深いのは,上述のとおり深い歴史があるからである.「ルネッサンス期の学者の知識のひけらかし」といえば確かにそうだろう.しかし,当時の学者に罪を着せるという考え方よりは,当時の時代精神の産物と捉える方が,英語史をポジティブに味わえるように思われる.ときにはラテン語由来の英単語のかもすハイレベルな文体を味わうもよし,ときには island の <s> の不合理を嘆くもよし.人間と同じで,言語も一癖も二癖もあるからこそおもしろいのではないか.
上記の語群でどの文字が挿入・置換されたか,その答えは以下をクリック.
altar, Anthony, assault, author, comptroller, debt, delight, doubt, falcon, fault, indict, island, language, perfect, phantom, psalm, realm, receipt, salmon, salvation, scholar, school, scissors, soldier, subject, subtle, throne, victual
英国のパブがどんどん潰れているという新聞記事を読んだ.スーパーに出される格安のビール,経済不況,アルコール増税が原因らしい.1日平均6件が潰れているという.窮状はこちらの記事に詳しい.パブなしでは過ごせなかった留学時代を思い出すと,このゆゆしき事態に嘆かざるをえない.
パブは "public house" の略語であり,英国の伝統的な酒場のことである.屋号や建物に歴史が刻まれているパブも多い.例えば,ロンドンで最古のパブとして知られているのが1528年創業の "Ye Olde Cheshire Cheese" である.
今日の話題は,屋号に現れる最初の単語である.店の看板の画像をご覧ください.古いパブ,あるいは古さを装っているパブには,この Ye で始まるものが多い.発音は/ji:/として読まれるが,実はこれは定冠詞 the の異形である.これには歴史的背景がある.
古英語には,現代英語にないアルファベット文字がいくつか存在した.そのうちの一つに,<þ> "thorn" という文字があった.これは,現代英語でいえば<th>という二文字に相当し,歯摩擦音の /θ/ や /ð/ を表した.<þ> は古英語以降も使われはしたが,フランス語から入った<th>に徐々に取って代わられていった.したがって,中英語の the に対しては,新形として <the> が,古形として <þe> が併存することとなった.
thorn | thorn | y |
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