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linguistic_ideology - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2022-05-26 13:57

2016-06-12 Sun

#2603. 「母語」の問題,再び [sociolinguistics][terminology][linguistic_ideology]

「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]),「#1926. 日本人≠日本語母語話者」 ([2014-08-05-1]) で「母語」という用語のもつ問題点を論じた.
 母語 (mother tongue) とネイティブ・スピーカー (native speaker) は1対1で分かちがたく結びつけられるという前提があり,近代言語学でも当然視されてきたが,実はこの前提は1つのイデオロギーにすぎない.クルマス (180--81) の議論に耳を傾けよう.

 母語とネイティブ・スピーカーを結びつけることは,さまざまな形で批判されてきた.それはこうした概念が,現実に即していない,理想化された二つの考えに基づいているからである.①言語とは,不変であり,明確な境界をもつシステムであり,②人は一つの言語にのみネイティブ・スピーカーになることが可能であるというものである.
 こうした思想は,書記法が人々に広く普及し,実用言語がラテン語,ギリシア語,ヘブライ語といった伝統的な書き言葉から,その土地固有の話し言葉に移行した,書記ルネサンスのヨーロッパにおいて顕著だ.このときこそ「言語」文脈において,母のイメージが初めて現われたときである.フランス革命後の数世紀,義務教育の普及は母語を学校教育における教科として,そして政治的案件へと変えた.かつて無意識のうちに獲得すると考えられていた母語を話す技能は,意図的で,意識的な学習となったのだ.生来の能力であるものを学ばなければならないという,明らかな矛盾をはらみながら,完全な母語能力は生来の話者にしか到達し得ないという排他意識が強化されたのは,国民国家の世紀である19世紀であった.
 それは言語,帰属意識,領土,国民間を結ぶイデオロギーが,国語イデオロギーに統合されたためである.学校教育が普及するに伴い,ドイツの哲学者 J. G. ヘルダーが提唱した,言語は国民精神の宝庫であるという考えに多くの国が賛同した.ヘルダーは,子供が母語を学ぶのは,いわば自分の祖先の精神の仕組みを受け継ぐことであると論じている.ヘルダーの思想の流れに続くロマン的な思想は,国語と見立てることで母語を,生まれつきでないと精通できない,あるいはできにくいシステムであると神話化した.言語のナショナリズムは個別言語を,排他的なものとしてとらえる傾向を強めた.明治時代,このイデオロギーは日本でも定着した.多くのヨーロッパ諸国と同様,日本も国民の単一言語主義を理想的なものとして支持した.
 近代の始まりにヨーロッパで国家の統合のために使われた,排他的な母語のイデオロギー構成概念が,こうしたものとは違った伝統をもつ,つまり多言語が普通である土地の言語学者によって批判的に脱構築されたのは不思議なことではない.だからインドの言語学者 D. P. パッタナヤックは,人は実際に話すことができなくても,ある言語に帰属意識を感じる事が可能な一方,他方でそれが家庭で使われている言語であるかに係わらず,一番よくできる言語を母語として選べると指摘した.
 多言語社会の人間にとって,安らぎ,かつ自分をきちんと表現できる第一言語は必ずしも一つである必要はない.多言語社会では,言語獲得の多種多様なパターンが存在する.「母語は自然に身につく」というヘルダーの単一言語の安定性を重視するイデオロギーに対し,二つまたはそれ以上の言語システムが存在する社会では,母語能力とネイティブ・スピーカーを単純にむすぶイデオロギーも覆されることになる.


 ここでクルマスが示唆しているのは,「母語」とは相対的な概念であり,用語であるということだ.話者によって,社会によって「母語」に込められた意味は異なっており,その込められた意味とは1つの言語イデオロギーにほかならない.母語とネイティブ・スピーカーは必ずしも1対1の関係ではないのだ.
 私も,日常用語として,また言語についての学術的な言説において「母語」や「ネイティブ・スピーカー」という表現を多用しているが,その背後には,あまり語られることのない,しかしきわめて重大な前提が隠れている可能性に気づいておく必要がある.

 ・ クルマス,フロリアン 「母語」 『世界民族百科事典』 国立民族博物館(編),丸善出版,2014年.180--81頁.

Referrer (Inside): [2016-12-30-1]

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2015-04-05 Sun

#2169. 日本語における「女性語」 (3) [gender_difference][gender][japanese][discourse_analysis][historical_pragmatics][sociolinguistics][linguistic_ideology]

 「#1905. 日本語における「女性語」」 ([2014-07-15-1]),「#1915. 日本語における「女性語」 (2)」 ([2014-07-25-1]) に引き続いての話題.先の2つの記事では,日本語の女ことばの起源と発展について,日本語史で伝統的に言われてきたことに基づいて記述した.しかし,中村はジェンダー論,歴史談話分析,歴史社会言語学の立場から,従来行われてきた女ことばの歴史記述に異議を唱え,女ことばは各時代に特有の言語イデオロギー(「#2163. 言語イデオロギー」 ([2015-03-30-1]))により形成されてきたと主張する.
 例えば,室町時代の女房詞を女ことばの起源とする伝統的な見解について,中村は疑念を表明している.「女性たちが使ってきた言葉づかいは多様なので,多様な言葉づかいが自然にひとつの「女ことば」を形成することは考えにくい」 (50) とあるように,女房詞は後世の女ことばの数多くあるルーツの候補の1つではあるが,それが単独かつ直接に女ことばへ発展していったわけではないという.そもそも,女房詞の属性には,女性に使用されるということだけでなく,宮中で使用されるという社会階級に関する側面も含まれている.むしろ,後者に力点を置けば,女房詞は女ことばというよりは階級方言と呼ぶほうがふさわしい.もともと階級方言に近かった言葉遣いのいくつかを,後に女性一般の規範的な言葉遣いのなかへ意図的に取り込むことによって,徐々に女ことばが形成されてきたと考えられる.
 中村は,時代ごとの女ことばの発展の背景にはいつも政治的・倫理的な側面があったと主張し,それに支えられ,それを支えている言語イデオロギーの正体を次々と暴いていく.明治期の標準語策定における女ことばの排除,言文一致運動と翻訳文学に駆動された女ことばの創出,女子教育の高まりとともに却って女ことばに付加されるようになったセクシュアリティの含蓄,戦中の礼賛されるべき美しき日本語の伝統としての女ことば,戦後の自然な女らしさを発露するものとして捉えられた女ことば,等々.
 中村の提起する数々の言語イデオロギーを要領よくまとめることができないので,中村自身の結論を引用したい (227--29) .

 本書では、女ことばという理念が、西洋やアジアとのグローバルな関係や、都市と地方、中流階級と労働者階級、近代と伝統、未来と過去などのさまざまに対立する社会過程の中で、「女らしさの規範」「西洋近代との親和性」「セクシュアリティ」「天皇制国家の伝統」「家父長制の家族制度」「日本文化の優位性」「日本語の伝統」などの意味づけを与えられることで形成されてきたことを見てきました。
 鎌倉時代から続く規範の言説によって女性の発言を支配する傾向が、江戸時代の女訓書に列挙された女房詞という具体的な語彙によって強化され、「つつしみ」や「品」となって現代のマナー本にも見られるような女らしさとの結びつきが強調されるようになったこと。
 明治の開国後、近代国家建設の過程で必要となった国語理念を、男性国民の言葉として純化させるために、そして、女子学生を西洋近代と日本を媒介する性的他者とするためにも、「てよ・だわ」など具体的な語と結びついた女学生ことばが広く普及したこと。
 戦中期には、アジアの植民地の人々に日本語を教えることで皇国臣民にする同化政策や家父長的な家族的国家観に基づいて女性も戦争に動員する総動員体制を背景に、女ことばが天皇制国家の伝統とされ、家父長制の象徴である「性別のある国語」が強調されたこと。
 戦後には、占領軍によって男女平等政策が推進され、天皇制や家父長制が否定される中で、女ことばを自然な女らしさの発露として再定義する言説が普及し、女ことばには、日本の伝統を象徴することが期待されるようになったこと。
 その過程で、「女の言葉」は、近代国語を純化させる否定項として、帝国日本語の伝統として、常に「日本語」や「日本」との関係で語られ続けてきました。日本語に「女ことばがある」と信じられているのは、いつの時代にも女の言語行為について語る言説が可能になり、意味を持ち、普及するような政治経済状況があったからです。この意味で、女ことばの歴史を知ることは、女だけにかかわる事象というよりも、日本語がなぜ今ある形をしているのかを理解する上で、欠くことのできない作業だと言えるのです。


 非常に手応えのある新書だった.

 ・ 中村 桃子 『女ことばと日本語』 岩波書店〈岩波新書〉,2012年.

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2015-03-30 Mon

#2163. 言語イデオロギー [linguistic_ideology][sociolinguistics][gender][japanese][linguistic_imperialism][terminology]

 私たちは,個々の言語や変種について特別な思いをもっている.例えば,母語である日本語に対して伝統をもつ美しい言葉であると思っているかもしれないし,一方でその1変種である若者ことば堕落していると嘆くかもしれない.標準語は高い地位をもつ正式な言葉遣いだと認識しているかもしれないし,広く国際語として学ばれている英語は大きな力をもつ言語であると考えているかもしれない.これらの言葉に対する「特別の思い」は言語意識や言語観と呼ぶこともできるが,特定の集団に何らかの利害関係をもたらすような社会的な価値観を伴って用いられる場合には言語イデオロギーと呼んでおくのが適切である.
 『女ことばと日本語』を著した中村 (18--20) は,日本語における女ことばの位置づけについて考察する観点として,言語イデオロギーの概念を導入している.中村 (18) は 言語人類学者の Irvine を引用して,言語イデオロギーとは「言語関係について個々の文化が持っている理念の体系を指し,これらは倫理的・政治的価値をもっている」との定義を紹介している.(なお,Irvine の原文 (255) によると,". . . linguistic ideology---the cultural (or subcultural) system of ideas about social and linguistic relationships, together with their loading of moral and political interests" とあるので,定義の最初は「社会と言語の関係について」となるべきだろう.また,"interests" は「価値」よりも「利害関係」と理解しておくのが適当だろう.)
 この定義の要点は3つある.1つは,言語イデオロギーが言語の実践そのものではなく理念 (ideas) に関するものだということである.イデオロギーであるから,言語に関する考え方という抽象的なものである.例えば,母語や母方言を美しいと思うのは,その言語変種の実践ではなく,その言語変種に対して抱く理念である.
 2つ目に,言語イデオロギーとは,そのような諸理念の体系 (system) であるということだ.それぞれの理念が独立して集合されたものではなく,互いが互いに依存して成り立っている組織である,と.例えば,母方言に対する愛着は,標準語の無味乾燥という見方との対比に支えられているといえる.
 3つ目は,言語イデオロギーは倫理的・政治的な利害関係 (moral and political interests) を伴っているということだ.例えば,英語は国際的に優位な言語であるという肯定的なとらえ方,あるいは逆に帝国主義的な言語 (linguistic_imperialism) であるとの否定的なとらえ方は,英語を倫理的あるいは政治的な観点から評価している点で,イデオロギーである.「#1194. 中村敬の英語観と英語史」 ([2012-08-03-1]) で世界の4つの英語観を示したが,これらはいずれも倫理的・政治的な利害関係を伴う理念の体系であるから,4つの英語に対する言語イデオロギーと言い換えてよい.
 言語に対する美醜の観念,規範主義や純粋主義,言語の帝国主義批判,言語差別,言語権といった諸々の概念に共通するのは,その根底に何らかの形の言語イデオロギーが存在しているということである.

 ・ Irvine, Judith T. "When Talk Isn't Cheap: Language and Political Economy." American Ethnologist 16 (1989): 248--67.
 ・ 中村 桃子 『女ことばと日本語』 岩波書店〈岩波新書〉,2012年.

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