[2025-07-15-1], [2025-07-16-1], [2025-07-17-1]に続いての話題.初期近代英語期の正音学者の批判的分析といえば,まず最初に当たるべきは Dobson である.案の定 could の <l> についてある程度の紙幅を割いてしっかりと記述がなされている.Dobson (Vol. 2, §4) を引用する.
Could: the orthoepists record four main pronunciations, [kʌuld], [ku:ld], [kʊd], and [kʌd]. The l of the written form is due to the analogy of would and should, and it is clear that pronunciation was similarly affected. The transcriptions of Smith, Hart, Bullokar, Gil, and Robinson show only forms with [l], and Hodges gives a form with [l] beside one without it. Tonkis says that could is 'contracted' to cou'd, from which it would appear that the [l] was pronounced in more formal speech. Brown in his 'phonetically spelt' list writes coold beside cud) for could, and the 'homophone' lists from Hodges onwards put could by cool'd. Poole's rhymes show that he pronounced [l]. Tonkis gives the first evidence of the form without [l]; he is followed by Hodges, Wallis, Hunt, Cooper, and Brown. The evidence of other orthoepists is of uncertain significance.
一昨日,Shakespearean 学者2名にこの件について伺う機会があったのだが,could の /l/ ありの発音があったことには驚かれていた.上記の Dobson の記述によると,初期近代英語期のある時期には,むしろ /l/ の響く発音のほうが一般的だったとすら解釈できることになる.この時代の発音の実態の割り出すのは難しいが,ひとまずは Dobson の卓越した文献学的洞察に依拠して理解しておこう.
・ Dobson, E. J. English Pronunciation 1500--1700. 2nd ed. 2 vols. Oxford: OUP, 1968.
[2025-07-15-1], [2025-07-16-1]に続いての話題.could の <l> は /l/ として発音されたことがあるかという問題に迫っている.Jespersen (§10.453) によると,初期近代英語期には発音されたとする記述がある.具体的には,正音学者 Hart と Gill に,その記述があるという.
10.453. /l/ has also been lost in a few generally weak-stressed verbal forms should, weak [ʃəd], now stressed [ˈʃud] would [wəd, ˈwud] . could [kəd, ˈkud]. The latter verb owes its l, which was pronounced in early ModE, to the other verbs. H 1569 [= Hart, Orthographie] has /kuld, ʃuld, (w)uld/, G 1621 [= A Gill, Logonomia] /???ku-ld, shu-d, wu-d/.
該当する時代がちょうど Shakespeare の辺りなので,Crystal の Shakespeare 発音辞典を参照してみると,次のように /l/ が実現されないものとされるものの2通りの発音が並記されている.
could / ~est v
=, kʊld / -st
複数の先行研究,また同時代の記述にも記されているということで,少なくとも could の <l> が発音されるケースがあったことは認めてよいだろう.引き続き,どのようなレジスターで発音されることが多かったのかなど,問うべき事項は残っている.
・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part 1. Sounds and Spellings. 1954. London: Routledge, 2007.
・ Crystal, David. The Oxford Dictionary of Original Shakespearean Pronunciation. Oxford: OUP, 2016.
昨日の記事「#5922. could の <l> は発音されたか? --- 『英語語源ハンドブック』の記述をめぐって」 ([2025-07-15-1]) に引き続き,could の <l> の話題.Carney (249) によると,この <l> が /l/ と発音されたことはないと断言されている.断言であるから,昨日の記事で示した OED が間接的に取っている立場とは完全に異なることになる.
<l> is an empty letter in the three function words could, should and would. In should and would the original /l/ of ME sholde, wolde was lost in early Modern English, and could, which never had an /l/, acquired its current spelling by analogy. So, this group of modals came to have a uniform spelling.
これはある意味で「伝統的な」見解といえるのかもしれない.しかし,which never had an /l/ という言い方は強い.この強い表現は,何らかの根拠があってのことなのだろうか.それは不明である.
doubt の <b> が発音されたことは一度もないという,どこから出たともいえない類いの言説と同様に,語源的綴字 (etymological_spelling) の事例では,必ずしも盤石な根拠なしに,このような強い表現がなされることがあるのかもしれない.とすれば,「伝統」というよりは「神話」に近いかもしれない.
ちなみに,英語綴字史を著わしている Scragg (58) や Upward and Davidson (186) にも当たってみたが,could の <l> の挿入についての記述はあるが,その発音については触れられていない.
私自身も深く考えずに「伝統的」の表現を使ってきたものの,これはこれでけっこう怪しいのかもしれないな,と思う次第である.
・ Carney, Edward. A Survey of English Spelling. Abingdon: Routledge, 1994.
・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.
『英語語源ハンドブック』の記述について,質問をいただきました.ハンドブックの can/could 項目に次のようにあります.
can という語形は古英語期の直説法1・3人称現在単数形 can に由来.3人称単数過去形は cuðe で,これに基づく coud(e) のような l の入らない語形もかなり遅い時期まで記録されている.一方,現在標準となっている could という綴りは,should や would との類推により l が加えられてできたもので,中英語期末期以降使われている.語源的裏付けのない l は綴りに加えられたものの,発音には影響を与えなかった.
一方,質問者に指摘によると,OED の can の語源欄に,次のような記述があるとのことです.
Past tense forms with -l- . . . appear in the second half of the 15th cent. by analogy with should and would, prompted by an increasingly frequent loss of -l- in those words . . . . The -l- in could (as well as in should and would) is always recorded as pronounced by 16th-cent. orthoepists, reflecting the variant preferred in more formal use, and gradually disappears from pronunciation over the course of the 17th cent.
この記述に従えば,could の <l> は would, should からの類推により挿入された後に,文字通りに /l/ としても発音されたことがあったと解釈できます.つまり,挿入された <l> が,かつても現代標準英語のように無音だったと,すなわち黙字 (silent_letter) だったと断じることはできないのではないかということです.
基本的には,質問者のご指摘の通りだと考えます.ただし,考慮すべき点が2点ありますので,ここに記しておきたいと思います.(1) は英語史上の事実関係をめぐる議論,(2) はハンドブックの記述の妥当性をめぐる議論です.
(1) OED の記述が先行研究を反映しているという前提で,could の <l> が16世紀には必ず発音されていたものとして正音学者により記録されているという点については,ひとまず認めておきます(後に裏取りは必要ですが).ただし,そうだとしても,正音学者の各々が,当時の発音をどこまで「正しく」記述しているかについて綿密な裏取りが必要となります.正音学者は多かれ少なかれ規範主義者でもあったので,実際の発音を明らかにしているのか,あるいはあるべき発音を明らかにしているのかの判断が難しいケースがあります.おそらく記述通りに could の <l> が /l/ と発音された事実はあったと予想されますが,本当なのか,あるいは本当だとしたらどのような条件化でそうだったのか等の確認と調査が必要となります.
(2) ハンドブック内の「語源的裏付けのない l は〔中略〕発音には影響を与えなかった」という記述についてですが,これは could の <l> に関する伝統的な解釈を受け継いだものといってよいと思います.この伝統的な解釈には,質問者が OED を参照して確認された (1) の専門的な見解は入っていないと予想されるので,これがハンドブックの記述にも反映されていないというのが実態でしょう.その点では「発音には影響を与えなかった」とするのはミスリーディングなのかもしれません.ただし,ここでの記述を「発音に影響を与えたことは(歴史上一度も)なかった」という厳密な意味に解釈するのではなく,「結果として,現代標準英語の発音の成立に影響を与えることにはならなかった」という結果論としての意味であれば,矛盾なく理解できます.
同じ問題を,語源的綴字の (etymological_spelling) の典型例である doubt の <b> で考えてみましょう.これに関して「<b> は発音には影響を与えなかった」と記述することは妥当でしょうか? まず,結果論的な解釈を採用するのであれば,これで妥当です.しかし,厳密な解釈を採用しようと思えば,まず doubt の <b> が本当に歴史上一度も発音されたことがないのかどうかを確かめる必要があります.私は,この <b> は事実上発音されたことはないだろうと踏んではいますが,「#1943. Holofernes --- 語源的綴字の礼賛者」 ([2014-08-22-1]) でみたように Shakespeare が劇中であえて <b> を発音させている例を前にして,これを <b> ≡ /b/ の真正かつ妥当な用例として挙げてよいのか迷います./b/ の存在証明はかなり難しいですし,不在証明も簡単ではありません.
このように厳密に議論し始めると,いずれの語源的綴字の事例においても,挿入された文字が「発音には影響を与えなかった」と表現することは不可能になりそうです.であれば,この表現を避けておいたほうがよい,あるいは別の正確な表現を用いるべきだという考え方もありますが,『英語語源ハンドブック』のレベルの本において,より正確に,例えば「結果として,現代標準英語の発音の成立に影響を与えることにはならなかった」という記述を事例ごとに繰り返すのもくどい気がします.重要なのは,上で議論してきた事象の複雑性を理解しておくことだろうと思います.
以上,考えているところを述べました.記述の正確性と単純化のバランスを取ることは常に重要ですが,バランスの傾斜は,話題となっているのがどのような性格の本なのかに依存するものであり,それに応じて記述が成功しているかどうかが評価されるべきものだと考えています.この観点から,評価はいかがでしょうか?
いずれにせよ,(1) について何段階かの裏取りをする必要があることには違いありませんので,質問者のご指摘に感謝いたします.
・ 唐澤 一友・小塚 良孝・堀田 隆一(著),福田 一貴・小河 舜(校閲協力) 『英語語源ハンドブック』 研究社,2025年.
7月7日の七夕,khelf(慶應英語史フォーラム)による『英語史新聞』シリーズの第12号がウェブ上で公開されました.こちらよりPDFで自由に閲覧・ダウンロードできます.
数ヶ月前から,七夕の日を公開日と定め,執筆陣や編集陣が協力して準備を進めてきました.例によって公開前夜はぎりぎりまで最終調整に追われていましたが,できあがった紙面については,どうぞご安心ください.珠玉のコンテンツが満載です.企画,執筆,編集と今号の制作に関わったすべての khelf メンバーに,まずは労いと感謝の言葉を述べたいと思います.よく頑張ってくれました,ありがとうございます!
さて,今号も4面構成となっています.どのような記事が掲載されているか,具体的に紹介していきましょう.まず第1面は,七夕の公開日に合わせ「星を見ながら語源をめぐろう」と題するロマンチックな巻頭記事です.執筆者は,本ブログや heldio でも語源的綴字 (etymological_spelling) に関する研究でお馴染みの,khelf の寺澤志帆さんです.彦星(わし座のアルタイル)と織姫(こと座のベガ)にちなみ,2つの星座にまつわる単語の歴史をたどります.「こと座」 (Lyra) に関しては,lyre の綴りが中英語期の lire から,語源のギリシャ語に近づけるために16世紀に y を用いる形へ変更されたという語源的綴字の実例にも触れられており,執筆者の専門知識が活かされた記事となっています.
続く第2面の記事は,「wh から始まる関係代名詞の歴史」です.こちらは学部4年生の Y. T. さんによる本格的な英語史コンテンツです.私たちが当然のように使っている who や which は,古英語の時代には,「誰」「どれ」を意味する疑問詞でしかありませんでした.関係代名詞としては指示詞に由来する that の祖先などが用いられていましたが,中英語期以降,which を皮切りに wh 疑問詞が,関係代名詞の用法を獲得してきました.ただし,who については,関係代名詞として定着するのは意外にも17世紀に入ってからと,比較的遅いのです.その過渡期には,Shakespeare の作品で,人を先行詞にとる場合に which が感情的な文脈で用いられていました.関係代名詞をめぐる歴史には,単なる文法規則の変化にとどまらない,社会言語学的にダイナミックな変化の過程が関わっていたのです.
第3面の上部にみえるのは「英語史ラウンジ by khelf」の連載コーナーです.今回は,青山学院大学の寺澤盾先生へのインタビューの後編をお届けします.記事執筆者は khelf 会長の青木輝さんです.寺澤先生の「推し本」として,中島文雄『英語発達史』や H. Bradley 『英語発達小史』など,英語史研究における古典的名著が複数紹介されます.また,英語史を学ぶ魅力について,「面白い」で終わらず「なぜ」と問い続けることの重要性が説かれており,研究者を志す学生には特に示唆に富む内容となっています.
そして,3面の下部では,第2面でちらっと出題されている「英語史クイズ BASIC」の答えと詳しい解説を読むことができます.現代英語の語彙における借用語の割合に関するクイズですが,問いも答えも,ぜひ記事を熟読していただければ.記事執筆者は,大学院生の小田耕平さんです.
最後の第4面には,大学院生の疋田海夢さんによる本格的な英語史の記事「Not は否定の「強調」!? ~Jespersen's Cycle と「古都」としての言語観~」が掲載されています.これは,英語の否定文の発達を説明する "Jespersen's Cycle" に関する解説と論考です.ここで紹介される「否定辞の弱化→強調語の追加→強調語の否定辞化」というサイクルはフランス語やドイツ語でも見られる現象ですが,記事ではさらに,現代アメリカ英語のスラング squat (例: Claudia saw squat.) の事例を取り上げ,このサイクルが現代,そして未来へと続いている可能性を示唆しています.
このように,今号もすべての記事が khelf メンバーの熱意と探究心の結晶です.英語史を研究する学生たちが本気で作り上げた『英語史新聞』第12号を,ぜひじっくりとお読みいただければ幸いです.
最後に,hellog 読者の皆さんへ1点お伝えします.もし学校の授業などの公的な機会(あるいは,その他の準ずる機会)にて『英語史新聞』を利用される場合には,ぜひ上記 heldio 配信回のコメント欄より,あるいはこちらのフォームを通じてご一報くださいますと幸いです.khelf の活動実績となるほか,編集委員にとっても励みともなりますので,ご協力のほどよろしくお願いいたします.ご入力いただいた学校名・個人名などの情報につきましては,khelf の実績把握の目的のみに限り,記入者の許可なく一般に公開するなどの行為は一切行なわない旨,ここに明記いたします.フィードバックを通じ,khelf による「英語史をお茶の間に」の英語史活動(hel活)への賛同をいただけますと幸いです.
最後に『英語史新聞』のバックナンバー(号外を含む)も紹介しておきます.こちらも合わせてご一読ください(khelf HP のこちらのページにもバックナンバー一覧があります).
・ 『英語史新聞』第1号(創刊号)(2022年4月1日)
・ 『英語史新聞』号外第1号(2022年4月10日)
・ 『英語史新聞』第2号(2022年7月11日)
・ 『英語史新聞』号外第2号(2022年7月18日)
・ 『英語史新聞』第3号(2022年10月3日)
・ 『英語史新聞』第4号(2023年1月11日)
・ 『英語史新聞』第5号(2023年4月10日)
・ 『英語史新聞』第6号(2023年8月14日)
・ 『英語史新聞』第7号(2023年10月30日)
・ 『英語史新聞』第8号(2024年3月4日)
・ 『英語史新聞』第9号(2024年5月12日)
・ 『英語史新聞』第10号(2024年9月8日)
・ 『英語史新聞』号外第3号(2024年9月8日)
・ 『英語史新聞』第11号(2024年12月30日)
5月30日(金),YouTube 「文藝春秋PLUS 公式チャンネル」にて,前後編の2回にわたり,「英語に関する素朴な疑問」に答えながら英語史を導入するトークが公開されました.フリーアナウンサーの近藤さや香さんとともに,計60分ほどお話をしています.
前編は「【know の K はなぜ発音しない?「英語史」で英語のナゼがわかる】国内唯一慶應だけの必修科目|古代英語はもはや別言語|500通り以上の綴りがある英単語|"憧れ"と"威信"が英語を変化させた」と題して,35分ほどお話ししました.動画を観る時間がない方のために,以下に文章としてお届けします.
今回のトーク番組(前編)では,英語史の魅力や学びのおもしろさを,特に現代英語が抱える様々な疑問と絡めながら,導入的に解説しています.hellog の読者の皆さんにも,きっと楽しんでいただける内容かと思います.
そもそも英語史とは,単に英語という言語の歴史を追うだけではありません.その言語を話してきた人々の社会や文化の歴史,つまりは世界史と密接に結びついた,実に奥深い分野です.私は英語史は「英語」と「歴史」であると考えています.
なぜ英語史を学ぶのでしょうか.それは,現代英語を学習するなかで誰もが抱く素朴な疑問,たとえば,なぜ3単現に -s がつくのか,なぜ不規則動詞はこんなにも多いのか,そしてとりわけ「なぜ英語の綴字と発音はこれほどまでに食い違うのか」といった問いに対して,歴史的な視点から実に鮮やかな説明を与えてくれるからです.私自身,学生時代にこの「腑に落ちる」感覚に魅了され,英語史研究の道へと進むことになりました.今回の番組では,このおもしろさの一端でもお伝えできればと思っています.
さて,番組の中心的な話題となったのは,英語の綴字と発音の乖離の問題です.英語の歴史は約1600年間ほどあり,大まかに古英語(449--1100年頃),中英語(1100--1500年頃),近代英語(1500--1900年頃),現代英語(1500--現在)の4期に区分されます.中英語であれば,訓練を積んだ英語ネイティブならなんとか読解可能ですが,古英語に至っては,用いられている文字も異なり,もはや外国語にしか見えないでしょう.
この長い歴史のなかで,綴字と発音の間にずれが生じる原因は多数ありました.番組では,主な要因を3つほど紹介しました.1つ目は,方言の混交です.特に中英語期には,イングランド内で多様な方言が話されており「標準語」というべきものが存在しませんでした.後の時代に標準化が進んでいく過程で,ある単語の綴字はとある方言から採用され,発音は別の方言から採用される,というようなミスマッチが生じたのです.例えば busy /ˈbɪzi/ という単語の <u> の綴字はイングランド西部方言に由来し,/ɪ/ という発音は北部方言に由来します.build の <ui> という綴字も,同様の混乱が生んだ産物です.
2つ目は,ルネサンス期の学者たちによる「お洒落」な改変です.16世紀,古典語であるラテン語やギリシア語への憧れから,教養ある学者たちが,単語の語源を綴字に反映させようと試みました.その結果,本来発音されない文字が,語源に倣って意図的に挿入されることになったのです.典型的な例が doubt の <b> (ラテン語 dubitāre に由来)や receipt の <p> (ラテン語 recepta に由来)です.当時の読み書きは知識階級の独占物だったため,彼らの決めた綴字が「正しい」ものとして定着してしまいました.そのような綴字は,教育を通じて世代から世代へと受け継がれ,一種の制度として固定化されていきました.綴字改革運動が繰り広げられることしばしばもありましたが,ほぼすべてが成功せずに現在に至ります.
3つ目は,自然な音変化です.know や knife の語頭の <k> が発音されないのは,この例です.かつては /kn/ と発音されていたこの子音連鎖が,17世紀末から18世紀にかけて弱まり,やがて /k/ の音が脱落しました.しかし,その音変化が完了するより前に綴字が固定化してしまっていたため,発音されない <k> が綴字においては現代に至るまで残存しているというわけです.
番組では,中英語期にとりわけ豊かな綴字のヴァリエーションを示した単語として through を挙げました.私が調査したところでは,この単語には実に516種類もの綴字がありました.また,古英語や中英語で用いられていた文字 <þ> (thorn) が,なぜわざわざ <th> という2文字の組み合わせに置き換えられてしまったのか,という話題にも触れました.これには,1066年のノルマン征服以降に英語に流入したフランス単語が放っていた威信が関係します.フランス語にはない文字 <þ> は「野暮ったい」とされ,フランス語風の <th> を用いるのが「お洒落」と見なされるようになったのです.言語の変化とは,必ずしも合理性や利便性だけで駆動するのではなく,こうした「ファッション」というべき非合理的な要因にも大きく左右される,実に人間臭い営みなのです.
このように,英語の歴史を紐解くことで,現代英語の不可解な側面に光を当てることができます.英語史の知識は,英語学習者が抱えるフラストレーションを,知的な好奇心へと転化させる力を持っているといえるのです.
今回の番組は,英語史の導入として,あるいは英語という言語への関心を深めるきっかけとして,多くの方にご覧いただければ幸いです.
月曜日に Voicy 「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」にて,khelf(慶應英語史フォーラム)の寺澤志帆さんと対談し,寺澤さんが最近始められた「『英語語源辞典』でたどる英語綴字史」という企画を紹介していただきました.今回の記事でも,その企画について改めてご案内します.
寺澤さんが始められたのは,私が日頃「世界一の英語語源辞典」として言及している推薦書・愛読書で,研究社より出版されている『英語語源辞典』 (kdee) を通読しながら,英語綴字史的に興味深い項目をコンテンツ化して紹介していくというシリーズです.寺澤さんご自身のHPで,ブログ記事のような形で発信されています.
これに似た企画,どこかで聞いたことがありますよね.そう,heldio/helwa のリスナー lacolaco さんが,に1年以上前から「英語語源辞典通読ノート」の企画を始めており,hel活 (helkatsu) 界隈では評判となっています.寺澤さんの企画は,その流れを汲んでの第2弾といえます.
lacolaco さんが総合的な観点からおもしろい語源の話題ををピックアップされているのに対し,寺澤さんはご自身の専門である英語綴字史の観点に絞って興味深いトピックを拾い出しています.綴字と発音の乖離 (spelling_pronunciation_gap) は英語史の定番の話題です.その点で,寺澤さんの通読シリーズは英語史の中心的テーマに迫ろうとする試みとなります.
寺澤さんは5月1日からこの企画を開始しており,今後はご自身のペースで定期的に続けていくとのことです.私も過去にこの『英語語源辞典』を通読してみようと試みたことがあるのですが,最初のページで深掘りしすぎてしまい,これは無理だと早々に諦めました.あの分厚い辞典を最初から最後まで読み通すというのは,まさに無謀とも思える試みです.だからこそ,それを実際に始められている寺澤さんや lacolaco さんの熱意には脱帽します.
さて,具体的にどのような記事が公開されているのでしょうか.例えば,この間の金曜日には ab(h)ominable の項目が紹介されていました.この語は現代英語では abominable と綴られますが,かつては abhominable のような h が入った形も存在しました.『英語語源辞典』では,この h があるものとないものが別々の項目として立てられており,その歴史的な変遷が示されています.これはまさに寺澤さんが専門的に研究している語源的綴字 (etymological_spelling) の話題です.寺澤さんは,『英語語源辞典』の記述をベースにしつつ,必要に応じて OED なども参照しながら,深掘り解説を加えています.
『英語語源辞典』を通読し,それをウェブ上で公開するというユニークな取り組みは,lacolaco さんに続き寺澤さんも始められたことで,ちょっとしたブーム(?)になりつつありますね.一般的に辞書は引くものであって通読するものではないと考えられていると思いますので,出版元の研究社さんも驚かれているのではないでしょうか.
本ブログ読者の皆さんも,ぜひ寺澤さんによる新企画「『英語語源辞典』でたどる英語綴字史」を末永く応援していただけますと幸いです.この企画を開始したきっかけの話題を含めた,寺澤さんとの heldio 対談について,「#1443. 「『英語語源辞典』でたどる英語綴字史」 by khelf 寺澤志帆さん」よりお聴きください.
・ 寺澤 芳雄(編集主幹) 『英語語源辞典』新装版 研究社,2024年.
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