
ダブリンにゆかりのある文人を取り上げる「旅hel」 (tabihel) シリーズ.今回は,文人,政治家,そして主席司祭でもあった Jonathan Swift (1667--1745) に注目する.Gulliver's Travels 『ガリバー旅行記』の著者として世界的に知られる人物だが,英語史上重要なのは,むしろ別の顔のほうである.
一雨さっと降ったあと,急に日差しが戻ってポカポカ陽気になった午後,ダブリンの St Patrick's Cathedral に隣接する公園のベンチに腰掛けながら,この建築物の威容を眺めていた.この大聖堂は,アイルランドを代表する "National" を冠された,アイルランド国教会のなかでも別格の位置づけを与えられている教会だ.
名前の由来である St Patrick は5世紀にアイルランドへキリスト教をもたらした聖人で,アイルランドで最も愛され,尊ばれている人物である.大聖堂そのものは,1190年に,彼の布教にゆかりのあるダブリンのこの地に建てられた.すでに800年以上の歴史を数える.
この大聖堂と結びつけられる著名人が,もう1人いる.Jonathan Swift である.1713年に,この大聖堂の主任司祭に就任した.イギリス政界に深く関わっていた Swift が聖職者としてこの座に収まることには反対の声もあったというが,最終的にはこの職を務め上げた.大聖堂のなかには彼の墓があり,彼との関係がいまだ謎に包まれたままの女性 Stella とともに眠っている.大聖堂内は半ば Swift 博物館のような様相を呈しており,オーディオガイド付きの展示となっていた.
Swift は英語史の観点からも位置づけられる人物だ.英語史的には,1712年に英語アカデミーの設立を提案した政治家としての顔が重要である.すでにイタリアやフランスでは早々と母語を統制するアカデミーが設立されていたのに対し,イギリスにはいまだ存在しなかった.Swift は A Proposal for Correcting, Improving and Ascertaining the English Tongue と題する提案書を著し,英語を統制する公的機関の設立を訴えた.これは17世紀以来くすぶり続けてきたイギリスにおけるアカデミー設立運動の,事実上最後にして最大の試みだったといってよい(「#134. 英語が民主的な言語と呼ばれる理由」 ([2009-09-08-1]),「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1]) を参照).
だが,この提案は結局は通らなかった.政敵による反発に加え,提案の理解者だった Anne 女王が1714年に急逝し,後ろ盾を失ってしまったことが大きいとわれる(「#2759. Swift によるアカデミー設立案が通らなかった理由」 ([2016-11-15-1]),「#3602. アン女王と英語史」 ([2019-03-08-1]) を参照).結果として,英語はついに中央集権的なアカデミーをもたない言語となったのである.フランス語における l'Académie française のような「上から」の統制機関が存在しないまま,18世紀後半にかけては文人・知識人による「下から」の慣用重視の規範が形成されていくことになる.18世紀初頭の時点では,英語はまだ国際的にはフランス語の後塵を拝していたが,後に世界中に広がっていく英語が,ついぞ1つの機関に統制されることのない野放しの言語として育っていく分岐点が,まさにこの1712年にあったのだと思うと感慨深い.
なお,Swift には英語史上もう1つのおもしろい顔がある.大の「短縮語」嫌いで,clipping を非難する文章まで書いているのだ(「#1947. Swift の clipping 批判」 ([2014-08-26-1]) を参照).
大聖堂のすぐ裏手にはアイルランド最古の公開図書館 Marsh's Library (1701年)があり,そこへは Swift, Joyce, Stoker もかつて通ったという.私が図書館に訪れたとき,そこでも Swift 展が開かれていた.大聖堂と図書館を合わせて「Swift 博物館」をめぐった感がある.Gulliver's Travels の作者,大聖堂の主任司祭,という以外の顔として,英語史における Swift の存在感を,多くの方に知っていただきたい.

先日の記事「#6341. ha'penny 「半ペニー」 --- ダブリンの Ha'penny Bridge より」 ([2026-09-06-1]) で「明日も明後日もこの橋を渡ることにしよう」と書いたが,実際には毎朝のジョギングのコースは日によって変わる.すでに定番コースの1つでもあるのだが,今朝は Ha'penny Bridge からさらに下流方面に走り,Liffey 川が海へと近づいていく Docklands 地区で,異彩を放つ橋を横目に走った.Samuel Beckett Bridge である.2009年に竣工の比較的新しい橋だ.アイルランドの国章でもあるアイリッシュ・ハープ (Irish harp) を横倒しにした形そのものの橋だ.橋は北岸と南岸の通りを結ぶ交差点も兼ねており,信号待ちがてら,ここでひと息つくことが多い.
この橋の形が象るハープは,アイルランド共和国の紋章やギネスビールのロゴにも用いられる国民的な象徴だが,橋のたもとに立つと,その意匠の大胆さに見とれる.ちなみに,最近の heldio は,この早朝ジョギングの復路にて,この橋の付近で屋外収録を行なうことが増えている.川の風にあおられながらの収録は,臨場感があってなかなか気に入っている.
さて,この橋の名の由来となった Samuel Beckett (1906--89) は,ダブリン近郊 Foxrock の生まれ.Waiting for Godot (原題は仏語 En attendant Godot, 1952年)をはじめとする不条理演劇の傑作で知られ,1969年にノーベル文学賞を受賞したアイルランド出身の作家である.英語史の観点からも見逃せないのは,Beckett はフランス在住作家だったが,英語とフランス語の両言語で創作し,しかも自作を自ら他方の言語へと訳し直す自己翻訳を生涯にわたって実践した稀有な作家だという点だ.削ぎ落とすように言葉を切り詰めていく彼の作風は,2つの言語のあいだを往還するなかで,いっそう研ぎ澄まされていったのだろうか.
Beckett のよく知られた箴言の1つに,次の文句がある.晩年の散文作品 Worstward Ho (1983) の冒頭の表現だ.
Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.
「やってみた.失敗した.それがどうした.また挑戦せよ.また失敗せよ.もっとうまく失敗せよ.」今日では Fail better. の部分だけが自己啓発やビジネスの文脈で独り歩きし,すっかり紋切り型のスローガンと化している.しかし,やはり味わいがある.
この教訓は,あらゆる失敗に等しく当てはまるわけではないだろう.取り返しのつかないほど大きな失敗をしてしまうと,そう簡単には次の挑戦に向けて立ち上がれないものだ.しかし,やり直しのきく小さな失敗であれば,この箴言はそのまま生きた指針になる.失敗そのものをいちいち気に病まず,成功するまで淡々と続けよ,ということだ.
ただし,実践する側にとって本当に難しいのは,まさにそこである.次の挑戦が実るのが1週間後なのか,1ヶ月後なのか,1年後なのか,それとも10年後なのか,誰にも前もっては分からない.No matter. と割り切れるだけの余裕は,見通しの立たない時間の長さの前で,しばしば試される.
思えば,アイルランド出身の作家には,Beckett にせよ Swift にせよ,寸鉄人を刺す箴言の名手が数多く出ている.先日立ち寄った土産物屋の店先にも,アイルランド出身作家たちの箴言をあしらった「箴言マグネット」なるものがたくさん並んでいた.1つ1つ手にとって読むたびに思わずウームとうなってしまい,買って帰って冷蔵庫にでも貼ろうかと,本気で悩んでしまうほどだ.

早朝ダブリンの Liffey 川に架かる Ha'penny Bridge を渡ってみた.最初の語は /ˈheɪp(ə)ni/ と発音する.正式名称は Liffey Bridge というが,架橋当初の名は,先日の記事「#6337. 英語史上の Arthur Wellesley Wellington --- ダブリンの Wellington の生家と記念塔を眺めて」 ([2026-09-02-1]) で取り上げた,あの Wellington にちなんだ Wellington Bridge だった.竣工は1816年.イングランドの Coalbrookdale で鋳造された橋で,当時この地点を往来していた渡し舟に代わるものとして架けられた.
この橋が Ha'penny Bridge と呼ばれるようになったのは,渡橋に半ペニーの通行料が課されたことに由来する.渡し舟の運賃と同額の料金を橋の利用者にも課すことで,渡し舟業者への補償としたのだという.この通行料の徴収は,実に1919年まで100年以上にわたって続けられた.今では毎日のべ3万人がこの橋を渡っているというダブリンを代表する橋で,正式名称よりも,日々の暮らしに根ざしたこの俗称のほうが,今日まで広く定着しているというのも頷ける.現在の橋は2001年に修理されたものだが,橋の北詰のたもとには竣工の1816年をしっかりと刻んだ銘板が掲げられている.

さて,halfpenny という語は,古英語にまで遡る複合語で,早くも halpenige のような形で1語として認識されて使われていたようだ.これをもとにした複合語として,その価値・相当額を表す halfpennyworth なる単語もあり,古英語では healfpenigwurð のような綴字で用いられている.
橋の名前の綴字 ha'penny に見えるアポストロフィは,前半要素 half の音変化の履歴を物語っている.方言によって細部は異なり,変化の順序を厳密に確定することは難しいものの,おおよそ /half/ > /haʊf/ > /haːf/ > /haː/ > /hɛː/ > /heː/ > /heɪ/ というような経路が想定される./aː/ 以降の母音変化は,いわゆる「大母音推移」 (gvs) に沿った規則的な変化である.そして,語末における子音群 /lf/ の脱落が綴字上に反映されたのが,まさにこの橋の名に見える ha'penny というスペリングである.
こうした縮約は halfpenny に限った現象ではない.twopence /ˈtʌp(ə)ns/ や threepence /ˈθrɛpns/ のように,日常的に用いられる少額硬貨を表わす語にも,同様の発音上の縮約がしばしば見られる.使用頻度の高い語ほど,発音が摩耗しやすいという,英語史における一般的な傾向の例である.
小さな歩行者橋の名前の背後に,かつての渡し船の運賃,Wellington の名の記憶,そして音韻史が折り重なっている.明日も明後日もこの橋を渡ることにしよう.

昨日の「#6337. 英語史上の Arthur Wellesley Wellington --- ダブリンの Wellington の生家と記念塔を眺めて」 ([2026-09-02-1]) に続き,本日もナポレオン戦争がらみの話題を1つ.イギリス軍のもう1人の英雄,ネルソン提督こと Horatio Nelson (1758--1805) を取り上げたい.Wellington が陸戦で勝利をイギリスにもたらした軍人として英語史上に象徴的に位置づけられるのだとすれば,海戦でいち早くイギリス軍に勢いをつけた Nelson もまた,同じように位置づけることができるだろう.
1805年のトラファルガーの戦 (Battle of Trafalgar) において Nelson はフランス・スペイン連合艦隊を打ち破り,自らは銃弾に倒れつつも,その後のイギリス海軍の優位を決定づけた.イギリスがヨーロッパの制海権を握ることになり,ナポレオンのイギリス侵攻の野望は打ち砕かれることになった.
先日,ロンドンのトラファルガー・スクエアに立つ「ネルソンの柱」 (Nelson's Column) を訪れた(上掲の写真).そして今,滞在中のダブリンの目抜き通り O'Connell Street には,高さ120メートルのランドマーク Spire がそびえ立っているのだが,実はこの塔には前身があった.かつて,そこにはもう1つの「ネルソンの柱」 (Nelson's Pillar) が建っていたのである.
ダブリンの「ネルソンの柱」は,1800年の連合法によってイギリスとアイルランドが合一した後の1809年,Nelson によるかの戦役の勝利を記念して建てられたものだった.ロンドンの「ネルソンの柱」(こちらは1840--43年に建設)よりも早く,ダブリンにこうした記念塔が建てられていたことになる.しかし,この柱は1966年,テロリストによって爆破され,姿を消してしまった.そこには,アイルランドの英雄ではなくイギリスの英雄を顕彰する柱だった,という影の事情が横たわっている.
ダブリンの柱が破壊された跡地には,長らく空白が残されていたが,2003年,特定の人物や国家を象徴しない,抽象的なステンレス製の尖塔,上述の Spire が新たに建てられた(下掲の写真).イギリスの英雄の記念柱から,誰のものでもない現代的なモニュメントへ.この置き換えそのものが,アイルランドとイギリスのあいだの複雑な歴史を雄弁に物語っているように思われる.

ロンドンでは今なお健在の「ネルソンの柱」と,ダブリンでは姿を消し,別のモニュメントに置き換えられた「ネルソンの柱」.同じ人物,同じ勝利を記念しながら,2つの都市でまったく異なる運命をたどったことになる.

2週間ほど前の早朝,ダブリン市内をジョギングをしていたところ,思いがけず Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington (1769--1852) の生家とされる建物を見つけた.Merrion Street 沿い,何の変哲もない街並みの一角に,控えめなプレートが掲げられているだけだったので,危うく素通りするところだった.1769年,この家で生まれたとされている.
せっかくの発見である.翌日の早朝ジョギングでは,西の郊外に広がる公園 Phoenix Park まで足を延ばしてみることにした.ここには,遠くからでも見える背の高い(62メートル!)オベリスク型の記念塔 Wellington Monument がそびえ立っている.1815年,ナポレオン戦争のワーテルローの戦 (Battle of Waterloo) におけるイギリス軍の英雄を顕彰するために19世紀半ばに建てられたものだ.2日連続でダブリンゆかりの英雄の痕跡を追いかけるジョギングとなった.

英語史のなかに Wellington を位置づけようとすると,何が言えるだろうか.2点ほど考えてみた.まず,軍人としての顔だ.彼は上述の戦役においてイギリスを勝利に導いた.この勝利がなければ,19世紀以降のヨーロッパにおける覇権の行方は違ったものになっていたかもしれない.ナポレオン戦争での勝利によりイギリスが軍事的,政治的,経済的な覇権国としての地位を固めていき,イギリス帝国の絶頂期を準備したからこそ,英語という言語も世界的な優位性を確立させていくことができた.イギリスの勝利は,もちろん Wellington 1人のみによるものではないが,象徴的な意義をもつ軍人であることは確かだ.
もう1つは政治家としての顔である.後にイギリスの首相となった Wellington は,1829年に「カトリック解放」 (Catholic Emancipation) を実現した.カトリック教徒の公職就任を大幅に認める改革は,アイルランドにおけるカトリック教徒の社会的地位を押し上げ,結果として皮肉なことにアイルランド人たちがアイルランド語から(アイルランド)英語へと言語交替 (language_shift) していく社会的な条件を整えることになった.信仰の自由の拡大という政治的決断が,長期的には言語共同体の言語選択にまで影響を与えていたわけで,この一連の因果関係は決して単純ではないにせよ,たしかに存在していたろう.
朝のジョギング中の何気ない発見が,思いがけずイギリスの誇る軍人・政治家と英語史の関係を考えさせることになった.なお,ダブリン(アイルランドの首都)とイギリスの話題が交錯しているように思われるかもしれないが,当時は1800年の連合法 (Act of Union) を通じて,1つの国となっていたことに注意が必要である.ダブリンはロンドンに次ぐイギリス(帝国)第2の都市となっていた.

昨日の記事「#6326. アイルランド大飢饉の英語史上の意義 --- ダブリンの記念像前より」 ([2026-08-22-1]) に引き続き,アイルランドのジャガイモ大飢饉(the Great Famine)にまつわる話題.
ダブリンのリフィー川沿いを朝ジョギングしていると,あの痛切な飢饉追悼記念像(Famine Memorial)から目と鼻の先に,堂々たる3本マストの帆船が係留されているのが目に入る.これは,19世紀半ばにアイルランドの西岸 Tralee からカナダへと移民を運び続けた帆船 Jeanie Johnston Famine Ship である.本物は沈没してしまっているため,これはレプリカなのだが,ダブリン観光の呼び物の1つとなっている.
当時,飢餓と病から逃れるべく大西洋を渡った移民船の多くは,昨日の記事でも触れたように,劣悪な衛生環境と過密積載のため「棺桶船」 (coffin-ships) と呼ばれた.乗船者の3分の1近くがチフスやコレラ等で命を落とすことも珍しくなかった.しかし,この Jeanie Johnston 号の経歴は奇跡ともいうべきものだった.船長の James Attridge による徹底した衛生管理と定員制限,船医 Richard Blennerhassett の乗船によって,1848年の初航海から1855年までの間に,アイルランド西部の Kerry 県の首都 Tralee からカナダへ16往復し,2,500人もの移民を輸送しながら,船上での死者をただの1人も出さなかったという栄光の記録を残しているのだ.後に木材輸送船となり1858年に浸水・沈没した際にも,乗組員全員が生還を果たしたというから,乗船した者にとっては幸運の船としか言いようがない.
ところで,こうした飢饉移民の船が向かった先であるカナダ(アメリカ合衆国ではなく)の英語には,アイルランド英語の痕跡は残っているのだろうか.私自身はカナダ英語とアイルランド英語の接点について不勉強なのだが,少し調べてみたところ,カナダのなかでもとりわけ Newfoundland の英語 (newfoundland_english) に注目すると,明確な影響の痕が見られるようだ.Kirwin (449--50) の "Anglo-Irish Influence" と題された節によると,Newfoundland の英語変種には,例えば以下のようなアイルランド英語由来の顕著な特徴があると報告されている.
・ 明るい /l/ (clear /l/)
・ 歯摩擦音 /θ/, /ð/ の破裂音 [t], [d] での代替
・ 習慣的現在 (consuetudinal present) を表わす be
・ 直前完了を表わす be after -ing 構文
・ 助動詞 shall を用いず,もっぱら will で一貫させる特長
Tralee の港から命がけで海を渡っていった人々の記憶と,彼らの運んだ言葉の痕跡は,海を越えたカナダの地に,少なくとも Newfoundland に,今も息づいているということだ.帆船を見上げながら,過酷な歴史の荒波と,海を渡った英語変種に思いを馳せている.
・ Kirwin, William J. "Newfoundland English." The Cambridge History of the English Language. Vol. 6. Ed. Richard M. Hogg. Cambridge: CUP, 2008. 441--55.

アイルランドの首都ダブリンに滞在している.毎朝,市内を西から東に流れる Liffey 川沿いをジョギングしているのだが,壮麗な Custom House Quay の近くに,飢餓に苦しみながら河口埠頭へと歩く人々をかたどった飢饉追悼記念像(上記写真)を横目に走ることになる.1847年5月,Roscommon 県の Strokestown からダブリン港まで,1490人もの小作農民たちが165キロ(100マイル)におよぶ過酷な道のりを歩かされた記録 (The National Famine Way) が記されている.彼らはカナダを目指して「棺桶船」 ("coffin-ships") に乗り込んだが,多くの命が航海中や到着直後に失われた.新世界で生活を始めることができたのは,Strokestown を出発した1490人のうち,2/3にも満たなかったという.
1840年代後半にアイルランドを襲ったジャガイモ大飢饉(the Great Famine, またはアイルランド語で An Gorta Mór)は,アイルランド史のみならず,近代ヨーロッパ史における最大の悲劇の1つである.しかし同時に,英語史の観点からも重大な転換点となった.この未曾有の災厄がもたらした英語史上の意義は,2点あるように思われる.
第1に,アイルランド国内における劇的な言語交替 (language_shift) の加速だ.大飢饉以前より社会的な圧力から英語化の流れは生じていたが,依然としてアイルランド語を母語とする話者層も強固に残っていた.ところが,飢餓と疫病によって命を落とし,あるいは国外への脱出を余儀なくされた人々の多くは,アイルランド語を話す農村部や西部の貧しい階層だった.大飢饉による人口の急減と人口動態の激変によって,世代間の言語継承が断ち切られ,アイルランド語から英語への交替が一気に進むことになったのである.これにより,アイルランド語を基層言語とする独自の英語変種,すなわちアイルランド英語 (irish_english) の形成も決定づけられた.
第2に,世界的な英語変種,とりわけアメリカ英語への影響である.大飢饉を逃れてアメリカやカナダなどへと渡った膨大な数のアイルランド系移民は,各地で自分たちのコミュニティを形成した.彼らが携えていったアイルランド英語の語彙,語法,発音の特徴は,部分的にせよ移住先の英語へ移植され,各地の英語変種に独特のアイルランド風味をもたらすことになった.19世紀半ば以降のアメリカ英語の形成や多様化を語る上で,アイルランド移民の存在は欠かすことができない.関係する具体的な言語項目については,「#327. Irish English が American English に与えた影響」 ([2010-03-20-1]) や「#328. 菌がもたらした(かもしれない) will / shall の誤用論争」 ([2010-03-21-1]) を参照.
この大飢饉は,一見するとジャガイモの疫病による天災のように見える.しかし,その実態はイギリス統治下の収奪が生み出した人災の側面が大きい.近代のイギリス支配のもとで,アイルランドの人々は東部の肥沃な土地を奪われ,地味の乏しい西部の狭小な土地で,高収量なジャガイモのみに依存する極端なモノカルチャーへと追い詰められていたからだ.社会構造の歪みが,農作物の病害を壊滅的な大惨事へと変えてしまったわけだ.
言語の歴史は,文法規則の変遷だけで完結するものではない.まさに「英語と歴史」が交錯する現場において,人々の移動,社会の激変,そしてときに過酷な歴史的悲劇が,言語の運命を大きく揺り動かすことがある.毎日ダブリンの記念像の前を通り過ぎながら,大飢饉という歴史の傷跡が世界の英語のあり方をいかに変えてきたかを考えている.
関連して「#2958. ジャガイモ,アイルランド,英語史」 ([2017-06-02-1]) も参照されたい.
現在アイルランドの Dublin に滞在しており,毎日 Liffey 川沿いをジョギングしている.その限られた視界のなかでも,実に多様で興味深い言語景観 (linguistic_landscape) が目に飛び込んでくる.今回は街で見かけたアイルランド語と英語の表記について,2枚の写真とともに雑感を記してみたい.
Dublin の街中を観察していると,公共性の高い標識にはアイルランド語 (irish) と英語の2言語表記が徹底されていることがよく分かる.次の写真のように駐車禁止などの道路標識をはじめ,バス停の運行情報に至るまで,この基本方針は一貫しているといってよい.

とりわけ興味深いのは,表記の順序である.「必ず第1にアイルランド語,第2に英語」という並び順になっているのだ.海外からの観光客も含め,街中で最も広く通用する言語が英語であることは自明である.市民の大多数にとっても母語は英語であり,日常的にアイルランド語を流暢に操る話者は決して多数派ではない.にもかかわらず,理解度が圧倒的に高いはずの英語を差しおいて,アイルランド共和国のアイデンティティとjjシンボルを体現するアイルランド語が表示の最上位に優先して置かれるのである.
そのため,看板から素早く情報を読み取ろうとするとき(それが標識を見る大抵の動機なのだが),無意識のうちに2段目や下部に配置された英語表記の始まりを探す癖がついてしまう.実用的な情報処理の動線と,国家的な象徴性の標示との間に,ギャップが感じられるのだ.
もっとも,すべての公共物に2言語表記が徹底されているわけではない.たとえば,街角に設置されたゴミ箱の注意書きなどを見ると,英語のみのモノリンガル表記になっているケースが散見される.これはスペースの制約という物理的な事情もあるかもしれないが,地元民のみならず観光客に対しても,ゴミのポイ捨て禁止を周知したいという強い実用的な動機づけが優先された結果かもしれない.

公共性と対照的な軸として考慮すべきなのが商業性である.店舗の看板や広告といった商業的な表記においては,通行人に商品やサービスを認知させ,購買行動につなげることが最重要となるため,圧倒的な通用度を誇る英語が前面に出るのは自然だろう.
さらに,標識が設置された年代やタイミングも無視できない要因なのではないかと睨んでいる.言語政策の推進の度合いや予算,社会的な意識の変遷によって,古い看板と新設された案内板とでは表記の傾向に微妙なズレが生じることもあるはずだ.街の標識や看板には,新旧のものが混じっているのが普通だろう.
このように Dublin の言語景観を眺めていると,第1にアイルランド語,第2に英語という「公式の理想」を掲げつつも,(1) 公共性の度合い,(2) 商業性の度合,(3) 物理的な表記スペースの制約,(4) 設置年代やその他の様々な要因が複雑に絡み合い,せめぎ合っているように思われる.
首都 Dublin を離れ,他の地方都市や農村部,さらにはアイルランド語が日常的に話されているゲールタハト (Gaeltacht) へと足を延ばせば,またまったく異なる言語景観のバランスが観察できるのだろうと思われる.言語政策と言語の実態がどのように街の景色に刻まれているのか,引き続き足を動かしながら観察を続けていきたい.
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