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lowth - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-12-22 08:43

2023-03-03 Fri

#5058. because の目的を表わす歴史的用法 [conjunction][expletive][auxiliary_verb][lowth][prescriptive_grammar]

 昨日の記事「#5057. because の語源と歴史的な用法」 ([2023-03-02-1]) で,この日常的な接続詞を歴史的に掘り下げた.もともとは節を導くために that の支えが必要であり,because that として用いられたが,14世紀末までには that が省略され,現代風に because 単体で接続詞として用いられる例も出てきた.しかし,その後も近代英語期まで because that が並行していたことに注意を要する.
 さて,because は意味機能としては「理由・原因」を表わすと解されているが,「目的」を表わす例も歴史的にはあった.昨日の記事の最後に「because + to 不定詞」の構造に触れたが,その意味機能は「目的」だった.理由・原因と目的は意味的に関連が深く,例えば前置詞 for は両方を表わすことができるわけなので,because に両用法があること自体はさほど驚くべきことではない.しかし,because の場合には,当初可能だった目的の用法が,歴史の過程で廃されたという点が興味深い(ただし方言には残っている).
 OED によると,because, adv., conj., n. の接続詞としての第2語義の下に,(廃用となった)目的を表わす15--17世紀からの例文が4つ挙げられている.

2. With the purpose that, to the end that, in order that, so that, that. Obsolete. (Common dialect.)
   1485 W. Caxton tr. Paris & Vienne (1957) 31 Tolde to hys fader..by cause he shold..doo that, whyche he wold requyre hym.
   1526 Bible (Tyndale) Matt. xii. f. xvv They axed hym..because [other versions 'that'] they myght acuse him.
   1628 R. Burton Anat. Melancholy (ed. 3) iii. ii. iii. 482 Annointing the doores and hinges with oile, because they shall not creake.
   1656 H. More Antidote Atheism (1712) ii. ix. 67 The reason why Birds are Oviparous is because there might be more plenty of them.


 問題の because 節中にはいずれも法助動詞が用いられており,目的の読みを促していることが分かる.
 現代に至る過程で because は理由・原因のみを表わすことになり,目的は他の方法,例えば (so) that などで表わされることが一般的となった.冒頭で述べたように,もともと形式としては because that から始まったとすると,that を取り除いた because が理由・原因に特化し,because を取り除いた that が目的に特化したとみることもできるかもしれない.
 ちなみに18世紀の規範文法家 Lowth は目的用法の because の使用に注意を促している.「#3036. Lowth の禁じた語法・用法」 ([2017-08-19-1]) を参照.

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2022-10-17 Mon

#4921. Murray の英文法の9品詞論 [parts_of_speech][lowth][prescriptive_grammar][history_of_linguistics][category]

 一昨日の記事「#4919. Lowth の英文法の9品詞論」 ([2022-10-15-1]) を受けて,今回は Lindley Murray (1745--1826) の品詞論について.Murray といえば,「#2592. Lindley Murray, English Grammar」 ([2016-06-01-1]) でも取り上げた通り,Lowth などを下敷きにしつつ,18世紀規範英文法を集大成した「英文法の父」である.
 1795年に English Grammar, adapted to the different classes of learners; With an Appendix, containing Rules and Observations for Promoting Perspicuity in Speaking and Writing を出版するや爆発的な人気を誇り,その売り上げは1850年までに150万部以上を記録したという.斎藤 (42) によると,English Grammar は「日本最初の本格的な英文法書」となる渋川敬直による『英文鑑(えいぶんかがみ)』 (1840--41) の底本ともなった.
 Murray の英文法は Lowth などを引き継ぎ,9品詞論が基本となっている.斎藤 (45) より区分を示そう.

(1) 冠詞 (Article): Definite/Indefinite
(2) 名詞 (Substantive or Noun): Common/Proper
   数 (Number): Singular/Plural
   格 (Case): Nominative/Possessive/Objective
   性 (Gender): Masculine/Feminine/Neuter
(3) 形容詞 (Adjective)
   比較 (Comparison): Positive/Comparative/Superlative
(4) 代名詞 (Pronoun): Personal※1/Relative※2/Adjective※3
   ※1 人称 (Person): First/Second/Third
   ※2 Interrogative は,Relative pronoun の一部
   ※3 Adjective: Possessive/Distributive/Demonstrative/Indefinite
(5) 動詞 (Verb): Active (Transitive)/Passive/Neuter (Intransitive)
   法 (Mood or Mode):
      Indicative/Imperative/Potential/Subjunctive/Infinitive
   時制 (Tense):
      Present/Past (Imperfect)/Perfect(現在完了のこと)/Pluperfect(過去完了のこと)/First future(単純未来形のこと)/Second future(未来完了のこと)
   分詞 (Participle),助動詞 (Auxiliary or helping Verbs)
   能動態・受動態 (Active voice/Passive voice)
   規則・不規則・欠如動詞 (Regular/Irregular/Defective)
(6) 副詞 (Adverb):
   Number/Order/Place/Time/Quantity/Manner or quality/Doubt/Affirmation/Negation/Interrogation/Comparison
(7) 前置詞 (Preposition)
(8) 接続詞 (Conjunction): Copulative/Disjunctive
(9) 間投詞 (interjection)


 同じ9品詞論でも Lowth の区分との間に若干の差異がある.例えば名詞の格のカテゴリーについて,Murray は Lowth の Nominative/Possessive に加えて Objective も含めている.また,分詞について Lowth は法のカテゴリーに含めているが,Murray は動詞の1形式とみている.
 全体として Murray の9品詞論は,現代的な英文法観にまた一歩近づいているということができるだろう.

 ・ 斎藤 浩一 『日本の「英文法」ができるまで』 研究社,2022年.

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2022-10-15 Sat

#4919. Lowth の英文法の9品詞論 [parts_of_speech][lowth][prescriptive_grammar][history_of_linguistics][category]

 最も著名な18世紀の規範文法家 Robert Lowth (1710--87) とその著書 A Short Introduction to English Grammar (1762) について,hellog では「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]) や lowth の各記事で取り上げてきた.昨日の記事「#4918. William Bullokar の8品詞論」 ([2022-10-14-1]) を受けて,Lowth の品詞論を確認しておこう.Lowth は9品詞を掲げている.以下,斎藤 (26--27) より.

(1) 冠詞 (Article): Definite/Indefinite
(2) 名詞 (Substantive, or Noun): Common/Proper
   数 (Number): Singular/Plural
   格 (Case): Nominative/Possessive
   性 (Gender): Masculine/Feminine/Neuter
(3) 代名詞 (Pronoun):
   Personal/Relative/Interrogative/Definitive/Distributive/Reciprocal
   ※ 人称 (Person): First/Second/Third
(4) 形容詞 (Adjective), (5) 副詞 (Adverb)
   比較 (Comparison): Positive/Comparative/Superlative
(6) 動詞 (Verb): Active (Transitive)/Passive/Neuter (Intransitive)
   法 (Mode): Indicative/Imperative/Subjunctive/Infinitive/Participle
   時制 (Tense):
      Present/Past/Future
      Present Imperfect/Present Perfect/Past Imperfect
      Past Perfect/Future Imperfect/Future Perfect
      ※ 'Imperfect' は,現代の「進行形」に相当
   助動詞 (Auxiliary),規則・不規則動詞 (Regular/Irregular)
   欠如動詞 (Defective)
(7) 前置詞 (Preposition)
(8) 接続詞 (Conjunction): Copulative/Disjunctive
(9) 間投詞 (interjection)


 Bullokar の8品詞論と比べて Lowth の9品詞論について注目すべき点は,冠詞 (Article) が加えられていること,名詞から形容詞が分化し区別されるようになっていること,分詞が動詞の配下の1区分として格下げされていることである.斎藤 (27) も述べている通り「全体として見れば,現代のわれわれにとりなじみ深い概念の多くが成立していることも事実であり,これこそ16世紀以来続いた試行錯誤の一応の到達点だった」と理解することができる.

 ・ 斎藤 浩一 『日本の「英文法」ができるまで』 研究社,2022年.

Referrer (Inside): [2022-10-17-1]

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2022-10-13 Thu

#4917. 2500年に及ぶ「学習英文法」の水脈 --- 斎藤浩一(著)『日本の「英文法」ができるまで』より [prescriptive_grammar][lowth][history_of_linguistics][greek][latin][elt][review][english_in_japan]

 今年5月に研究社より出版された斎藤浩一(著)『日本の「英文法」ができるまで』を読んだ.古代のギリシア語文法から始まり,ラテン語文法に受け継がれ,西洋諸言語に展開し,幕末・明治期に日本にやってきた,2500年に及ぶ(英)文法研究の流れを一望できる好著である.

斎藤 浩一 『日本の「英文法」ができるまで』 研究社,2022年.

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 本書第1章の最初のページに「日本の「学習英文法」には,じつに2500年余りにも及ぶ長大な言語分析の伝統が盛り込まれている」 (p. 8) とあり,次のような見取り図が示されている.あまりに適切で,核心を突いており,分かりやすくて感動してしまった.

【古代】ギリシア語文法
  ≪ローマ帝国,カトリック教会の興隆≫
【(古代~)中世】ラテン語文法
  ≪宗教改革≫
【16~18世紀】英文法
  ≪19世紀イギリスのアジア進出≫
【19~20世紀】日本の「学習英文法」


 ≪ ≫に囲まれている語句は,時代を動かした「媒介項」を表わしているという.英文法史のエッセンスを,ここまで端的に(7行で!)大づかみにした図はみたことがない.見事な要約力.
 古代ギリシア語文法からラテン語文法を経て,初期近代のヴァナキュラーとしての英文法を模索する時代に至るまでの歴史(日本における「学習英文法」に注目する本書の観点からみると「前史」)については,hellog でも様々に記事を書いてきた.とりわけ古典語との関連では,次のような話題を提供してきたので,関心のある方はぜひ以下をどうぞ.

 ・ 「#664. littera, figura, potestas」 ([2011-02-20-1])
 ・ 「#892. 文法の父 Dionysius Thrax の形態論」 ([2011-10-06-1])
 ・ 「#1256. 西洋の品詞分類の歴史」 ([2012-10-04-1])
 ・ 「#1257. なぜ「対格」が "accusative case" なのか」 ([2012-10-05-1])
 ・ 「#1258. なぜ「他動詞」が "transitive verb" なのか」 ([2012-10-06-1])

 本書では,英語学史の奥深さを堪能することができる.昨今,近代英語期に関しては英語史と英語学史の研究の融合も起こってきているので,ぜひこのトレンドをつかみたいところ.

 ・ 斎藤 浩一 『日本の「英文法」ができるまで』 研究社,2022年.

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2022-05-02 Mon

#4753. 「英文法」は250年ほど前に規範的に作り上げられた! [prescriptivism][prescriptive_grammar][lmode][lowth][priestley][youtube][voicy]

 日本語なり英語なりの「文法」というものは,その話者集団が歴史のなかで暗黙裏に作り上げ,互いに従ってきた一種の慣習です.その意味では,日本語なり英語なりに歴史の当初から「文法」があったということはいうまでもありません.人間集団が作ったという点では厳密にいって人工的な文法であるには違いありませんが,さほど意識的にこしらえた文法ではなく,何となく慣習的に文法らしいものができあがってきたという点を考慮すれば,あくまで自然発生的な文法といえます.
 しかし,言語に対して意識が高まってきた西洋近代においては,文字通り人工的に文法をこしらえるという動きが出てきました.イギリスでは他国よりも若干遅れましたが,18世紀がまさにその時代でした.守るべき規範として意識的に作られた文法という意味で規範文法 (prescriptive_grammar) と呼ばれます.この時代にできあがった「規範英文法」は圧倒的に支持されることになり,現代に至るまで「英文法」といえば,デフォルトでこの時代にできあがって後に受け継がれた英文法を指すということになっています.日本の受験英文法も TOEIC の英文法もこれです.
 このような歴史的な事情があったことを踏まえ,私はあえて標題のように「『英文法』は250年ほど前に規範的に作り上げられた!」と述べることにしています.私たちがデフォルトで理解している「英文法」というものは,約250年ほど前にイギリスの知識人が有志で「英文法書」を上梓し,人々に受け入れられた瞬間に,生まれたといっても過言ではありません.つまり「英文法」とは,彼らが「英文法書」を書き上げた瞬間にできあがった代物ということになります.それ以前には「英文法」はなかったのです.
 昨晩公開された YouTube 番組「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」の第19弾は「英文法が苦手なみなさん!苦手にさせた犯人は18世紀の規範文法家たちです.【井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル # 19 】」というタイトルです.前回からの流れで関係代名詞の歴史から始め,18世紀の規範文法の時代に話が及びます.



 そして,この YouTube の内容を受けて,話し足りなかった部分を補足すべく,私の今朝の Voicy でも「18世紀半ばに英文法を作り上げた Robert Lowth とはいったい何者?」と題して,関連することをお話ししました.この規範文法の時代における最重要人物が Robert Lowth という人でした.



 詳しくは「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]) を始めとして lowth あるいは prescriptive_grammar の各記事をご覧ください.

Referrer (Inside): [2022-07-19-1]

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2022-02-06 Sun

#4668. Lowth と Priestley --- 2人の規範文法家の本当の関係 [prescriptivism][prescriptive_grammar][lowth][priestley][history_of_linguistics][lmode]

 今世紀に入ってから,従来の英語史では盤石な定説とされていた「18世紀=規範主義の時代」が相対化されるようになってきた.「18世紀=規範主義の時代」という全体的な理解は変わらないが,当時の規範文法家たちの態度は,部分的には記述的な側面がかなりあったし,お互いの間に温度差もあった,といった具合に再評価が進んできたのである.この傾向については「#2815. 18世紀の規範主義の再評価について (1)」 ([2017-01-10-1]),「#2816. 18世紀の規範主義の再評価について (2)」 ([2017-01-11-1]) で触れた.
 伝統的には,Robert Lowth (1710--1787) は A Short Introduction to English Grammar (1762) で強い規範的な態度を示したのに対して,ライバル関係にあった Joseph Priestley (1733--1804) は The Rudiments of English Grammar; Adapted to the Use of Schools with Observations on Style (1761) で穏健で記述的な態度を示したとして対比されるのが常だった.
 しかし,先行研究を参照した山本 (100) によると「記述文法家に近い言語観を有していたとされる Priestley も,初版では,prescriptive comment はわずか 22 comments だけであったが,第2版では,238 comments,10倍以上の増加が確認されている」という.Lowth の成功を目の当たりにして,焦った Priestley が強めの規範文法家に転身した,という風にも見える.一般に「ライバル関係」にあったと言われるが,実は Priestley が Lowth を勝手にライバル視していたということのようだ(山本,p. 98).
 いくつかの文法項目を取り上げて Lowth と Priestley の扱いを比較対照した後,山本 (108) は次のように締めくくっている.

Lowth と Priestly が執筆した文法書は,ともに規範的であり,記述的であったことは言うまでもないが〔中略〕,規範的な姿勢については,相対的なものであることが確認された.彼らの文法書は,文法項目によって異なる規範が適用されていただけでなく,その規範は時に積極的に,時には消極的であったことを本稿では提示した.Lowth は,関係代名詞の省略について,明確性の欠如の観点から推奨されない,つまり強い規範的態度を示し,Priestley は関係代名詞 that の使用について,Lowth よりも更に強い規範的立場をとっていた.動名詞については,両者ともに積極的に規範的なコメントを発しているが,二重比較に対しては,Lowth は,規範的立場を,Priestley は,記述的立場をそれぞれとった.このように,Lowth と Priestley の文法書には,各文法項目に対して more proscriptive か more descriptive か,だけではなく,more proscriptive か less proscriptive といったより詳細な態度まで反映されていた.18世紀の規範文法書の研究の興味深さの1つは,各文法家の言語観の微妙な相違を探求することにあると言える.


 ・ 山本 史歩子 「2人の規範文法家:Robert Lowth と Joseph Priestley」『青山学院大学 教育人間科学部紀要』第10号,2019年,93--111頁.

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2021-12-01 Wed

#4601. 規範文法,学校文法,伝統文法 [terminology][prescriptive_grammar][lowth]

 英文法について用いられる標記の3つの用語は,およそ同じ内容を指すものとして理解されているように思われる.個人によって語感は異なるかもしれないが,私自身あまり区別を意識せずに3者を用いることもあるし,自由に言い換えているケースが少なくない.
 しかし,改めて考えてみると,微妙にニュアンスが異なるように思われる.明らかに類義語ではあるが同義語ではない.3者とも指示対象は同じ(とは言わずとも,少なくともおよそ重なる)ものだが,指示する角度が異なる.フレーゲ流にいえば,3者は「意味」 (Bedeutung) こそほぼ同じでも「意義」 (Sinn) は異なる(cf. 「#2795. 「意味=指示対象」説の問題点」 ([2016-12-21-1])).私の個人的な語感であることを断わりつつ,3者の区別について考えてみたい.
 「規範文法」 (prescriptive_grammar) は,英語史研究者である私にとって第一に英語史用語である.17世紀の助走期を経て,理性の時代といわれる18世紀に興隆した言語規範主義 (prescriptivism) に立脚した,言葉遣いのマナーとして守らなければならない一連の語法,あるいは教養を示そうと思うならば決して発してはならない「べからず集」としての英文法である.Robert Lowth (1710--87) や Lindley Murray (1745--1826) による英文法書がその嚆矢とされる.現代では記述文法 (descriptive grammar) と対置されることが多く,生きた英文法ではないとして,しばしば批判の対象とされる.しかし,英語(学)史に位置づけるならば,規範文法の本質は,すでに英語を習得しており,普通に使いこなせる英語母語話者を念頭においた,言葉遣いのマナー集であるという点にあるだろうと私は考えている.
 一方,「学校文法」は一応 "school grammar" と英訳を与えることはできるものの,基本的には日本の英語教育(史)上の用語ではないか.文字通り「学校で学ぶ/教える文法」と受け取るならば,上記の18世紀以来の規範文法に基づいていながらも,記述的な観点も加えて現代風にアップデートされた,日本の学校の英語教育における現役の英文法を指すものととらえることはできる.しかし,英文法として実際に説かれる内容としては,規範文法も学校文法も中核部分はたいして異ならない.指示対象は同一とは言わずとも,十分に共通している.学校文法の本質は,英語を母語としない英語学習者が学校において習得すべき英文法であるという点にある.規範文法が本質として据える「言葉遣いのマナー」は,先に英文法を習得している英語母語話者にとってこそ関心事となり得るのに対して,学校文法とはあくまで第2言語としての英語を習得するために学校で取り扱う英文法である.およそ同じ内容を指しているとはいえ,両者のスタンスは大きく異なる.
 最後に「伝統文法」について."traditional grammar" と英訳されるが,これも指示している内容は,規範文法や学校文法と大きく異なるわけではないように思われる.18世紀以来の規範文法,および21世紀まで教授されている学校文法の間のスタンスの違いは上述の通りだが,歴史的にいえば両者は「伝統」として連続しているという事実を強調したい場合に,ピタッと来る用語ではないかと考えている.現代言語学理論に基づく最新の英文法と対置して用いられることもあるだろうが,私にとっては,18世紀の規範文法の流れを汲みつつ,現代まで(学校文法においても)影響力を持ち続けているタイプの英文法,という含意がある.そのため,英語の母語話者にとっても非母語話者にとっても等しく使える用語なのではないか.
 以上をまとめると,規範文法,学校文法,伝統文法の3つの用語は,指している文法項目の内容そのものは大きく異ならない.しかし,それをどうとらえるかという視点に応じて,私自身は(使い分けている場合には)使い分けているように思われるのである.
 みなさんは,3つの用語をどのようにとらえていますか?

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2019-05-28 Tue

#3683. 自動詞 lie と他動詞 lay を混同したらダメ (2) [verb][prescriptive_grammar][conjugation][preterite][participle][lowth]

 昨日の記事 ([2019-05-27-1]) に引き続き,自動詞 lie と他動詞 lay の問題について.現代の標準英語の世界において,両者の混同がタブー的といっていいほど白眼視されるようになったのは,規範文法家が活躍した18世紀の後,19世紀以降のことだろう.18世紀にそのような種を蒔いた規範文法家の代表選手が Robert Lowth (1710--87) である.
 Lowth (56) は「#3036. Lowth の禁じた語法・用法」 ([2017-08-19-1]) で触れたように,直接にこの2つの動詞の混同について言及している(cf. 「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1])).次のように Pope からの「誤用」例を示しつつ,明らかに読者に注意喚起をしている.

   This Neuter Verb is frequently confounded with the Verb Active to lay, [that is, to put or place;] which is Regular, and in the Past Time and Participle layed or laid.
         "For him, thro' hostile camps I bent my way,
         For him, thus prostrate at thy feet I lay;
         Large gifts proportion'd to thy wrath I bear." Pope, Iliad xxiv. 622.
Here lay is evidently used for the present time, instead of lie.


 Lowth が両動詞の混用にダメ出ししたことは英語史上よく知られているが,意外と指摘されていないことがある.上の引用からも分かる通り,両動詞の自・他の区別と時制の使い分けについては注意喚起しているが,layedlaid の間の形態・綴字の揺れについては特に問題視している様子はないことだ.
 関連して Lowth は自動詞 lie を議論のために初めて登場させている箇所で,"Lie,  lay,  lien, or lain" と活用を示している.過去分詞形に揺れが見られるばかりか,lien という,標準的には今は亡き形態のほうをむしろ先に挙げているのが驚きだ.Lowth がこの揺れを意に介している様子はまったく感じられない.規範文法の目指すところが「唯一の正しい答え」であるとするならば,lie を巡る Lowth の議論はいかにも自家撞着に陥っているようにみえる.
 ここから判断するに,規範文法家 Lowth の目指すところは「唯一の正しい答え」ではなかったととらえるべきだろう.18世紀の規範文法家は,しばしば言われるようにそれほどガチガチだったわけではなく,相当な寛容さを示していたのである.現代の文法家たちが,彼らをどのように評価してきたか,あるいは利用してきたか,という点のほうが,ずっと重要な問題なのかもしれない.
 実際,近年,18世紀の規範文法家について再評価の気運が生じてきている.「#3035. Lowth はそこまで独断と偏見に満ちていなかった?」 ([2017-08-18-1]),「#2815. 18世紀の規範主義の再評価について (1)」 ([2017-01-10-1]) も参照されたい.

 ・ Lowth, Robert. A Short Introduction to English Grammar. 1762. New ed. 1769. (英語文献翻刻シリーズ第13巻,南雲堂,1968年.9--113頁.)

Referrer (Inside): [2021-02-04-1]

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2019-05-27 Mon

#3682. 自動詞 lie と他動詞 lay を混同したらダメ (1) [verb][prescriptive_grammar][conjugation][preterite][participle][taboo][complaint_tradition][lowth]

 自動詞 lie (横たわる)と他動詞 lay (横たえる)の区別をつけるべし,という規範文法上の注意は,日本の受験英語界でも有名である(「#124. 受験英語の文法問題の起源」 ([2009-08-29-1]) を参照).自動詞は lie -- lay -- lain と活用し,他動詞は lay -- laid -- laid と活用する.前者のの過去形と後者の原形が同じ形になるので,混乱を招くのは必至である.私もこれを暗記してきた英語学習者の1人だが,英語使用においてこの知識を活用する機会に恵まれたことは,あまりない.
 だが,英語圏でも両者の混同に対する風当たりは非常に強く,正しく使い分けられないと「無教養」とのレッテルを貼られるほどなので,抜き差しならない.たとえ間違えても文脈の支えによりほとんど誤解は生じないと思われるが,それをやってしまったらアウトというNGワードに選ばれてしまっているのである.他にもっと誤解を誘うペアも多々あるはずだが,見せしめのようにして,このペアが選ばれているように思われる.この区別が,英語共同体において教養の有無を分けるリトマス試験紙となっているのだ.lielay のペアは,後期近代以降,そのような見せしめのために選ばれてきた語法の代表選手といってよい.
 現在でもリトマス試験紙として作用するということは,今でも混同する者が跡を絶たないということである.歴史的にいえば17, 18世紀にも混用は日常茶飯であり,当時は特に破格とみなされていたわけではなかったが,現代にかけて規範主義の風潮が強まるにつれて,忌むべき誤用とされてきた,という経緯がある.
 Fowler (445) に,ずばり lay and lie という項目が立てられているので,そこから引用しておこう.

Verbs. In intransitive uses, coinciding with or resembling those of lie, except in certain nautical expressions, lay 'is only dialectal or an illiterate substitute for lie' (OED). Its identity of form with the past tense of lie no doubt largely accounts for the confusion. In the 17c. and 18c. the alternation of lay and lie seems not to have been regarded as a solecism. Nowadays confusion of the two is taken to be certain evidence of imperfect education or is accepted in regional speech as being a deep-rooted survival from an earlier period. . . .
   The paradigm is merciless, admitting no exceptions in standard English. Incorrect uses: She layed hands on people and everybody layed hands on each other and everybody spoke in tongues---T. Parks, 1985 (read laid); Laying back some distance from the road . . . it was built in 1770 in the Italian style---Fulham Times, 1987 (read lying); Where's the glory in . . . leaving people out with their medals all brushed up laying under the rubble, dying for the glory of the revolution?--New Musical Express, 1988 (read lying); We are going to lay under the stars by the sea---Sun, 1990 (read lie); They may have lost the last fight [sc. the final of a ruby tournament], but how narrow it was, and they can still be proud of all the battle honours that will lay for ever in their cathedral in Twickenham--(sport column in) Observer, 1991 (read lie).


 両動詞の混同がいかにタブー的であるかは,"The paradigm is merciless, admitting no exceptions in standard English." という1文によって鮮やかに示されている.現代に至るまで,その「誤用」は跡を絶たないようだ.
 このタブーの伝統を創始したのは,Robert Lowth (1710--87) を始めとする18世紀の規範主義文法家といわれる(cf. 「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]),「#3036. Lowth の禁じた語法・用法」 ([2017-08-19-1])).しかし,彼らが創始したとしても,それが受け継がれていかなければ「伝統」とはならない.この伝統を受け継いできた人々,そして今も受け継いでいる人々の総体が,このタブーを維持してきたのである.昨日の記事「#3681. 言語の価値づけの主体は話者である」 ([2019-05-26-1]) や「#3672. オーストラリア50ドル札に responsibility のスペリングミス (2)」 ([2019-05-17-1]) の議論に従えば,私もその1人かもしれないし,あなたもその1人かもしれない.

 ・ Burchfield, Robert, ed. Fowler's Modern English Usage. Rev. 3rd ed. Oxford: OUP, 1998.

Referrer (Inside): [2021-02-04-1] [2019-05-28-1]

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2019-05-23 Thu

#3678. 英語は文法的性がないからこそ擬人法が生きてくる [gender][personification][lowth][rhetoric][style]

 英語以外の印欧諸語はほとんど文法的性をもっているが,英語にはそれがない.古英語にはあったのだが,中英語以降に完全に消失してしまった.しがって,現代英語には文法的性 (grammatical gender) はなく,あるのは,それに取って代った自然的性 (natural gender) にすぎない.
 歴史的な文法的性の消失により,現代英語は言語習得上のメリットを得たといわれるが,それによって印欧語やゲルマン語のプロトタイプから大きく逸脱した「変わった言語」となったこともまた事実である.英語が歴史的に獲得したこの特徴について,規範文法の権化ともいえる Robert Lowth (1710--87) がその重要著書 A Short Introduction to English Grammar において,たいへんおもしろい見解を述べている.すっかり感心してしまったので,すべて引用しておきたい (27--28) .

The English Language, with singular propriety, following nature alone, applies the distinction of Masculine and Feminine only to the names of Animals; all the rest are Neuter: except when, by a Poetical or Rhetorical fiction, things inanimate and Qualities are exhibited as Person, and consequently become either Male or Female. And this gives the English an advantage above most other languages in the Poetical and Rhetorical Style: for when Nouns naturally Neuter are converted into Masculine and Feminine [3], the Personification is more distinctly and forcibly marked.


 英語は文法的性がないゆえに,たまに擬人的に名詞に性を与えると,その擬人法がひときわ浮き立つ.一方,最初からすべての名詞に文法的に性があてがわれているような言語では,モノと性との関わりが日常的すぎて,たまに擬人法で効果を出したいと思っても,それを浮き立たせることが難しい.これは,そのような言語のもつ文学・修辞学上の弱みといってよい.
 これには指摘されるまで気付かなかった,目から鱗の落ちるような指摘だ.まさに逆転の発想.
 Lowth (27--28) は,上に引用した箇所で [3] として注を与えており,そこで具体例を出しながら,このことを丁寧に説明している.

   [3] "At his command th'uprooted hills retir'd
          Each to his place: they heard his voice and went
    (18) Obsequious: Heaven his wonted face renew'd,
          And with fresh flowrets hill and valley smil'd." Milton, P. L. B. vi.
          "Was I deceiv'd or did a sable cloud
          Turn forth her silver lining on the Night?" Milton, Comus.
   "Of Law no less can be acknowledged, than that her seat is the bosom of God; her voice, the harmony of the world. All things in heaven and earth do her homage; the very least, as feeling her care; and the greatest, as not exempted from her power." Hooker, B. i. 16. "Go to your Natural Religion: lay before her Mahomet and his disciples, arrayed in armour and in blood:---shew her the cities which he set in flames; the countries which he ravaged:---when she has viewed him in this scene, carry her into his retirements; shew her the Prophet's chamber, his concubines and his wives:---when she is tired with this prospect, then shew her the Blessed Jesus---" See the whole passage in the conclusion of Bp. Sherlock's 9th Sermon, vol. i.
      Of these beautiful passages we may observe, that as in the English if you put it and its instead of his, she, her, you confound and destroy the images, and reduce, what was before highly Poetical and Rhetorical, to mere prose and common discourse; so if you render them into another language, Greek, Latin, French, Italian, or German; in which Hill, Heave, Cloud, Law, Religion, are constantly Masculine, or Feminine, or Neuter, respectively; you make the images obscure and doubtful, and in proportion diminish their beauty. This excellent remark is Mr. Harris's , HERMES, p. 58.


 上記は,このたび Lowth を漫然と読みながら気付いたポイントなのだが,やはり一家言ある文法家のセンスというのは,ときにまばゆく鋭い.言語における文法的性と自然的性の議論に,新鮮な光を投げかけてくれた.

 ・ Lowth, Robert. A Short Introduction to English Grammar. 1762. New ed. 1769. (英語文献翻刻シリーズ第13巻,南雲堂,1968年.9--113頁.)

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2019-03-25 Mon

#3619. Lowth がダメ出しした2重比較級と過剰最上級 [comparison][double_comparative][superlative][lowth][prescriptive_grammar][adjective]

 「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]) や「#3036. Lowth の禁じた語法・用法」 ([2017-08-19-1]) で紹介したように,規範文法家の第一人者 Robert Lowth による1762年の文法書には様々な語法の禁止条項がみえるが,連日取り上げている形容詞の比較についても,2重比較級 (double_comparative) と,意味的に過剰な最上級へのダメ出しがなされている.Lowth (34--35) より関連箇所を抜き出そう.

[4] Double Comparatives and Superlatives are improper.

"The Duke of Milan, / And his more braver Daughter could controul thee." "After the most straitest sect of our religion I lived a Pharisee." Shakespeare, Tempest. Acts xxvi. 5. So likewise Adjectives, that have in themselves a Superlative signification, admit not properly the Superlative form superadded: "Whosoever of you will be chiefest, shall be servant of all." Mark x. 44. "One of the first and chiefest instances of prudence." Atterbury, Serm. IV. "While the extremest parts of the earth were meditating a submission." Ibid. I. 4.

"But first and chiefest with thee bring
Him, that you soars on golden wing,
Guiding the fiery-wheeled throne,
The Cherub Contemplation." Milton, Il Penseroso.
"That on the sea's extremest border stood." Addison, Travels.

   But poetry is in possession of these two improper Superlatives, and may be indulged in the use of them.
. . . .
[5] "Lesser, says Mr. Johnson, is a barbarous corruption of Less, formed by the vulgar from the habit of terminating comparisons in er."
      "Attend to what a lesser Muse indites." Addison.
   Worser sounds much more barbarous, only because it has not been so frequently used:

"Chang'd to a worser shape thou canst not be." Shakespeare, 1 Hen. VI.
"A dreadful quiet felt, and worser far / Than arms, a sullen interval of war." Dryden.


 ダメだしされているのは more braver, lesser, worser のような2重比較級,most straitest のような2重最上級,そして chiefest, extremest のようにもともと最上級に相当する意味をもっている形容詞をさらに最上級化する過剰最上級の例である.しかも,槍玉にあがっているのは Shakespeare, Milton, Addison, Dryden などの大物揃いだから読み応えがある(この戦略も Lowth の常套手段である).なお,lesser は現在では普通に用いられていることに注意.
 Shakespeare の worser 使用については「#195. Shakespeare に関する Web resources」 ([2009-11-08-1]) を参照されたい.また,Dryden はここで worser の使用ゆえに Lowth によって断罪されているが,「#3220. イングランド史上初の英語アカデミーもどきと Dryden の英語史上の評価」 ([2018-02-19-1]) で触れたように,実は Dryden 自身が2重比較を非難していたのである.
 近代英語における2重比較については「#3615. 初期近代英語の2重比較級・最上級は大言壮語にすぎない?」 ([2019-03-21-1]) も要参照.

 ・ Lowth, Robert. A Short Introduction to English Grammar. 1762. New ed. 1769. (英語文献翻刻シリーズ第13巻,南雲堂,1968年.9--113頁.)

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2017-08-19 Sat

#3036. Lowth の禁じた語法・用法 [prescriptive_grammar][lowth]

 Tieken-Boon van Ostade の論考の補遺 (553--55) に,"LOWTH'S NORMATIVE STRICTURES" の一覧が掲げられていた.A Short Introduction to English Grammar の1762年の初版より取ってきたものである.備忘録として以下に記録しておきたい.

・ Adjectives used as adverbs (pp. 124--5)
As
   instead of relative that or which (pp. 151--2)
   improperly omitted, e.g. so bold to pronounce (p. 152)
Be for have with mutative intransitive verbs (p. 63)
Because expressing motive or end (instead of that) (pp. 93--4)
Do: scope in the sentence, e.g. Did he not fear and besought . . . (p. 117)
His for its (pp. 34--5)
・ Double comparatives
   Lesser (p. 43)
   Worser (p. 43)
・ Wrong degrees of comparison (easilier, highliest) (p. 91)
Fly for flee (p. 77)
・ -ing form
   him descending vs. he descending (pp. 107--8)
   the sending to them the light (pp. 111--13)
It is I
   Whom for who (p. 106)
Lay for lie (p. 76)
Let with subject pronoun, e.g. let thee and I (p. 117)
・ Mood: consistent use (pp. 119--20)
Neither sometimes included in nor (pp. 149--50)
Never so (p. 147)
Not before finite (p. 116)
・ Nouns of multitude with plural finite (p. 104)
・ Past participle forms (pp. 86--8)
   Sitten (pp. 75--6)
   Chosed (p. 65)
・ Pronominalization/relativization problems (pp. 138--41)
・ Relative clause dangling (p. 124)
・ Relative and preposition omitted, e.g. in the posture I lay (p. 137)
So . . ., as for so . . ., that (pp. 150--1)
・ Subject
   lacking, e.g. which it is not lawful to eat (pp. 110; 122--4)
   superfluous after who (p. 135)
・ Tense: consistent use (pp. 117--19)
Than with pronoun following (pp. 144--7)
That including which: of that [which] is moved (p. 134)
That (conj.)
   improperly accompanied by the subjunctive (p. 143)
   omitted (p. 147)
This means/these means/this mean (p. 120)
To superfluous, e.g. to see him to do it (p. 109)
・ Verb forms
   subjunctive verbs in the Indicative (wert for wast) (p. 52)
   Thou might for thou mightest (pp. 97, 137)
   I am the Lord that maketh . . .: first person subject with third person finite in relative clause (p. 136)
Thou for you
Who
   Whom for who in subject position (p. 97)
   Who for whom in object position (pp. 99, 127)
   Whose as the possessive of which (p. 38)
   Who used for as, e.g. no man so sanguine who did not apprehend (. . . so sanguine as to . . .) (p. 152)
Woe is me (p. 132); ah me (p. 153)
Ye for you in object position (pp. 33--4)
You was (pp. 48--9)
・ Various:
   "Improper use of the Infinitive" (p. 111)
   Sentences "abounding" with adverbs (p. 127)
   "Disused in common discourse": whereunto, whereby, thereof, therewith (p. 131)
   Improperly used: too . . ., that, too . . ., than, so . . ., but (pp. 152--3)


 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. "Eighteenth-Century Prescriptivism and the Norm of Correctness." Chapter 21 of The Handbook of the History of English. Ed. Ans van Kemenade and Bettelou Los. Malden, MA: Blackwell, 2006. 539--57.

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2017-08-18 Fri

#3035. Lowth はそこまで独断と偏見に満ちていなかった? [prescriptive_grammar][lowth]

 Robert Lowth の後世への影響力は計り知れない.伝統的な解釈では,A Short Introduction to English Grammar (1762) で示された Lowth の規範は,彼自身の独断と偏見に満ちたものであるというものだ.そして,Lowth の断言的な調子は,彼の高位聖職者としての立場と関係しているとも言われてきた.
 しかし,Tieken-Boon van Ostade (543) によれば,この解釈は必ずしも当たっていないという.Lowth の批評家の多くは,彼のロンドン主教としての立場を強調するが,Lowth がこの職を得たのは1777年のことである.確かに少しさかのぼる1766年にも St. David's,そして Oxford の主教ともなっているが,いずれにしても1762年の文法の出版の数年後のことである.したがって,「高位聖職者にふさわしい独断と偏見」という評価は,アナクロだということになる.
 また,Lowth の頑固さのイメージについても誤解があるようだ.同時代の著者である William Melmoth (1710--99) が A Short Introduction to English Grammar の初版に対して施した訂正を,Lowth 自身が第2版 (1763) のために受け入れたという事実がある.さらに,初版の序文にて Lowth は読者に改善のための情報提供を直々に呼びかけているのだ.

If those, who are qualified to judge of such matters, and do not look upon them as beneath their notice, shall so far approve of it, as to think it worth a revisal, and capable of being improved into something really useful; their remarks and assistance, communicated through the hands of the Bookseller, shall be received with all proper deference and acknowledgement. (1762: xv; quoted in Tieken-Boon van Ostade, 543.)


 もっとも,この序文の文句はある種の社交辞令かもしれないが.いずれにせよ,Lowth のイメージは現代の規範文法を巡る言説のなかで作り上げられ,多かれ少なかれ誇張されてきたものであることは確かだろう.

 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. "Eighteenth-Century Prescriptivism and the Norm of Correctness." Chapter 21 of ''The Handbook of the History of English. Ed. Ans van Kemenade and Bettelou Los. Malden, MA: Blackwell, 2006. 539--57.

Referrer (Inside): [2019-05-28-1]

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2017-01-10 Tue

#2815. 18世紀の規範主義の再評価について (1) [prescriptive_grammar][prescriptivism][priestley][lowth][lmode][swift]

 英語史上,18世紀は "doctrine of correctness" に特徴づけられた規範主義の時代であると評価されてきた.確かにこの世紀には,前半だけで50ほどの,後半には200を超える英文法書が出版され,規範英文法書の世紀といっても過言ではない.
 しかし,Beal は,著書の第5章 "Grammars and Grammarians" において,18世紀に与えられたこの伝統的な評価について再考を促す.Beal (90) は,18世紀には規範主義の風潮自体は間違いなくあったものの,諸家の立場は,その政治的信条やイデオロギーに応じて様々かつ複雑であり,単に規範的といった評価では不十分であると論じている.

[E]ighteenth-century grammarians had a range of motives for writing their grammars, and . . . these and later grammars, far from being uniformly 'prescriptive', would be better described as occupying different points on a prescriptive-descriptive continuum.


 英語に関する著作をものした諸家は,各々の政治的スタンスから英語について発言していた.例えば,Swift は Ann 女王と君主制を守ろうとする保守主義から物を申し,行動もしていた.また,1707年の大ブリテン連合王国の成立を受けて,南部の標準的な英語を正しい英語と定め,スコットランド人などにそれを教育する必要性も感じられていた.規範主義の背景には,政治的思惑があったのである (Beal 97) .

Whilst it is perfectly valid to see eighteenth- and nineteenth-century grammars both as the necessary agents of codification and as self-help guides for the aspiring middle classes, it cannot be denied that many of the authors of these works were politically and/or ideologically motivated.


 Beal (111) は,しばしば対立させられる Lowth と Priestley にも言及し,両者の違いは力点の違い(含意として政治的スタンスの違い)であるとしている.

These two grammarians [= Lowth and Priestley] were writing within a year of each other, so any norms of usage to which they refer must have been the same. Although both used a classical system of parts of speech, neither is influenced by Latin here: they both describe preposition-stranding as a naturally occurring feature of English, more suited to informal usage. The difference between Lowth and Priestley is one of emphasis only, far from the prescriptive-descriptive polarization which we have been led to expect.


 18世紀(及びそれ以降)の言語的規範主義を巡る問題について,常に政治性が宿っていたという事実に目を開くべきだという議論には納得させられた.しかし,Beal の再評価を読んで,従来の評価と大きく異なっているわけではないように思われた.そこでは,18世紀は規範主義の時代であるという事実に対して,大きな修正は加えられていない.Beal では "prescriptive-descriptive continuum" という表現がなされているが,これは「基本は prescriptive であり,その prescription の定め方として reason-usage continuum があった」と考えることは,引き続きできそうである.この時代を論じるに当たって "descriptive" という形容詞を用いることは,まだ早すぎるのではないか.
 関連して,「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1]),「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]),「#2778. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家」 ([2016-12-04-1]),「#2796. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家 (2)」 ([2016-12-22-1]) を参照.

 ・ Beal, Joan C. English in Modern Times: 1700--1945. Arnold: OUP, 2004.

Referrer (Inside): [2022-02-06-1] [2019-05-28-1]

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2016-12-22 Thu

#2796. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家 (2) [lowth][priestley][webster][prescriptive_grammar][academy]

 「#2778. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家」 ([2016-12-04-1]) の第2弾.先の記事で述べたように,Rudiments of English Grammar の初版は1761年に出版された.その約1ヶ月後に Lowth の A Short Introduction to English Grammar が出版され,1762年には James Buchanan の The British Grammar が,1763年には John Ash の Grammatical Institutes が,それぞれ立て続けに出版されている.また,多少の時間を経て,1784年には Noah Webster の A Grammatical Institute of the English Language も世に出ている.このように,18世紀後半は主要な規範文法書の出版合戦の時代であった(なお,これらに先立つ1755年には Johnson の Dictionary of the English Language も出版されている).
 Priestley の Rudiments は,この出版合戦の先鋒となった点で重要だが,この文法書についてそれ以上に顕著な特徴は「慣用を言語の主要な基準とする近代的言語観を最も鮮明に打ち出し」た点にこそある(山川,p. 279).Priestley の慣用重視の姿勢は,その後の慣用主義の模範として,しかも乗り越えられない模範として燦然と輝くことになったからだ.
 山川 (287) の評によると,以下の通りである.

Rudiments よりもひと月遅れて A Short Introduction to English Grammar を出版した Robert Lowth や,一般文法の哲学的研究と銘打った Hermes (1751) の著者 James Harris が文法と修辞学の論理派に属するとするならば,Joseph Priestley は18世紀における科学派を代表する学者であった.Priestley は極力英文法をラテン語文法のわくから超脱させ,生きたありのままの英語を忠実に観察して,そこから則るべき規範を割り出そうと努めた.そのため,英語の生態に人為的制約を加えて,それをそと側から規制し固定しようとする公共の機関である学士院 (Academy) の設立には反対している.このような自由で進歩的な態度は,規則としての文法では律し切れない言語の慣用 (Usage) が存在することに注意する態度につながっている.Priestley にとっては,Preface で述べている言葉を借りていうならば,「話し言葉の慣習 (the custom of speaking)」こそ,その言語の本源的で唯一の正しい基準なのである.」実に,Priestley は18世紀において初めて英語の慣用を正しく認識した学者であるといえるが,それは Priestley の科学者的素養とそれに基づく公正な判断力に帰せられるものであった.Priestley の慣用を重視する態度は,のち1776年に The Philosophy of Rhetoric を著わした George Campbell に引き継がれ,彼によって usage が定義づけられた.しかし,その Campbell も,good usage と認められた言語表現も,その地位を保持するために依拠しなければならない規範 (canons) を設定しており,usage に対する見解に一貫性を欠くところがあった.その点,時代も数十年早い Priestley のほうが態度が一貫しており,Priestley こそ最も早く現代的言語研究の道を唱導し,みずからもそれを実践した開拓者であるといえる.Priestley が従来のラテン語式な文法規則にこだわらず,すぐれた作家たちによる実例に照らして慣用性を注目し,公平な解釈を下していることは,Rudiments 中でも,とくに 'Notes and Observations' の部に目立つ特徴である.それは現在に至るまで研究者の論議の対象となり,以降2世紀間における英文法問題考察の端緒となっていることが,読者に気づかれよう.


 近代のイギリスと結びつけられるコモン・センスという概念は,慣用重視の姿勢ともいえる.Priestley は,英語学史上の名前としては Lowth や Murray に比べれば影が薄いかもしれないが,ある意味でイギリスを最もよく代表する英文法家だったといえる.

 ・ Priestley, Joseph. The Rudiments of English Grammar with Explanatory Remarks by Kikuo Yamakawa and A Course of lectures on the Theory of Language, and Universal Grammar with Explanatory Remarks by Kikuo Yamakawa. Reprint. Tokyo: Naun'un-Do, 1971.

Referrer (Inside): [2017-01-10-1]

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2016-12-04 Sun

#2778. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家 [lowth][priestley][prescriptive_grammar][academy]

 18世紀には様々な文法家や「言語評論家」というべき人々が登場した.Samuel Johnson (1709--84), Robert Lowth (1710--87), John Walker (1732--1807), Lindley Murray (1745--1826) 等がとりわけ有名だが,もう1人の重要な登場人物として Joseph Priestley (1733--1804) の名前を挙げないわけにはいかない.理性を重視した Lowth に対し,Priestley は慣用を重視した文法書を著わしている.Priestley はこの時代の慣用派の代表的論客といってよい.
 例えば,1761年に出版された Rudiments of English Grammar という文法書で,Priestley は,でっち上げで恣意的な文法規則ではなく,自然に育まれてきた慣用に基づく文法規則を打ち立てるべきだと論じている.

It must be allowed, that the custom of speaking is the original and only just standard of any language. We see, in all grammars, that this is sufficient to establish a rule, even contrary to the strongest analogies of the language with itself. Must not this custom, therefore, be allowed to have some weight, in favour of those forms of speech, to which our best writers and speakers seem evidently prone . . . ?" (qtd. from Baugh and Cable 277)


The best and the most numerous authorities have been carefully followed. Where they have been contradictory, recourse hath been had to analogy, as the last resource. If this should decide for neither of two contrary practices, the thing must remain undecided, till all-governing custom shall declare in favour of the one or the other. (qtd. from Baugh and Cable 277)


 また,Priestley は同じ Rudiments のなかで,アカデミーについても発言しており,そのような機関を設けるよりは慣用に従うほうが妥当だもと述べている.

As to a public Academy, invested with authority to ascertain the use of words, which is a project that some persons are very sanguine in their expectations from, I think it not only unsuitable to the genius of a free nation, but in itself ill calculated to reform and fix a language. We need make no doubt but that the best forms of speech will, in time, establish themselves by their own superior excellence: and, in all controversies, it is better to wait the decisions of time, which are slow and sure, than to take those of synods, which are often hasty and injudicious. (qtd. from Baugh and Cable 264)


 1762年の Theory of Language でも,同趣旨が繰り返される.

In modern and living languages, it is absurd to pretend to set up the compositions of any person or persons whatsoever as the standard of writing, or their conversation as the invariable rule of speaking. With respect to custom, laws, and every thing that is changeable, the body of a people, who, in this respect, cannot but be free, will certainly assert their liberty, in making what innovations they judge to be expedient and useful. The general prevailing custom, whatever it happen to be, can be the only standard for the time that it prevails. (qtd. from Baugh and Cable 277)


 Priestley の言語観には,実に先進的で現代的な響きが感じられる.この言語観は,酸素を発見した化学者としての Priestley の名言の1つ「ひとつの発見をなしとげると,必ずそれまで考えつきもしなかった別の不完全な知識を得ることになる……」(すなわち,知識は常に発展する)とも共鳴しているように思われる.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

Referrer (Inside): [2017-01-10-1] [2016-12-22-1]

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2016-11-28 Mon

#2772. 標準化と規範化の試みは,語彙→文法→発音の順序で (1) [standardisation][prescriptivism][prescriptive_grammar][emode][pronunciation][orthoepy][dictionary][lexicography][rp][johnson][lowth][orthoepy][orthography][walker]

 中英語の末期から近代英語の半ばにかけて起こった英語の標準化と規範化の潮流について,「#1237. 標準英語のイデオロギーと英語の標準化」 ([2012-09-15-1]),「#1244. なぜ規範主義が18世紀に急成長したか」 ([2012-09-22-1]),「#2741. ascertaining, refining, fixing」 ([2016-10-28-1]) を中心として,standardisationprescriptive_grammar の各記事で話題にしてきた.この流れについて特徴的かつ興味深い点は,時代のオーバーラップはあるにせよ,語彙→文法→発音の順に規範化の試みがなされてきたことだ.
 イングランド,そしてイギリスが,国語たる英語の標準化を目指してきた最初の部門は,語彙だった.16世紀後半は語彙を整備していくことに注力し,その後17世紀にかけては,語の綴字の規則化と統一化に焦点が当てられるようになった.語彙とその綴字の問題は,17--18世紀までにはおよそ解決しており,1755年の Johnson の辞書の出版はだめ押しとみてよい.(関連して,「#1407. 初期近代英語期の3つの問題」 ([2013-03-04-1]),「#2321. 綴字標準化の緩慢な潮流」 ([2015-09-04-1]) を参照).
 次に標準化・規範化のターゲットとなったのは,文法である.18世紀には規範文法書の出版が相次ぎ,その中でも「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]) や「#2592. Lindley Murray, English Grammar」 ([2016-06-01-1]) が大好評を博した.
 そして,やや遅れて18世紀後半から19世紀にかけて,「正しい発音」へのこだわりが感じられるようになる.理論的な正音学 (orthoepy) への関心は,「#571. orthoepy」 ([2010-11-19-1]) で述べたように16世紀から見られるのだが,実践的に「正しい発音」を行なうべきだという風潮が人々の間でにわかに高まってくるのは18世紀後半を待たなければならなかった.この部門で大きな貢献をなしたのは,「#1456. John Walker の A Critical Pronouncing Dictionary (1791)」 ([2013-04-22-1]) である.
 「正しい発音」の主張がなされるようになったのが,18世紀後半という比較的遅い時期だったことについて,Baugh and Cable (306) は次のように述べている.

The first century and a half of English lexicography including Johnson's Dictionary of 1755, paid little attention to pronunciation, Johnson marking only the main stress in words. However, during the second half of the eighteenth century and throughout the nineteenth century, a tradition of pronouncing dictionaries flourished, with systems of diacritics indicating the length and quality of vowels and what were considered the proper consonants. Although the ostensible purpose of these guides was to eliminate linguistic bias by making the approved pronunciation available to all, the actual effect was the opposite: "good" and "bad" pronunciations were codified, and speakers of English who were not born into the right families or did not have access to elocutionary instruction suffered linguistic scorn all the more.


 では,近現代英語の標準化と規範化の試みが,語彙(綴字を含む)→文法→発音という順序で進んでいったのはなぜだろうか.これについては明日の記事で.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

Referrer (Inside): [2018-07-05-1] [2016-11-29-1]

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2016-11-15 Tue

#2759. Swift によるアカデミー設立案が通らなかった理由 [swift][prescriptivism][academy][lowth][johnson]

 Swift による A Proposal for Correcting, Improving and Ascertaining the English Tongue (1712) は,英語のアカデミー (academy) 設立に向けて最も近いところまで迫る試みだった.すでに17世紀前半には英語アカデミーを求める声は上がっており,18世紀初頭の Swift の提案においてピークを迎えたにせよ,その後の18世紀中もアカデミー設立の要求はそう簡単には消滅しなかった.しかし,歴史を振り返ってみれば,Swift の提案が通らなかったことにより,アカデミー設立案が永遠に潰えることになった,とは言ってよいだろう.では,なぜ Swift の提案は流れたのだろうか.
 そこには,個人的で政治的な論争や Anne 女王の死という事情があった.Baugh and Cable (262) に次のように述べられている.

   Apparently the only dissenting voice was that of John Oldmixon, who, in the same year that Swift's Proposal appeared, published Reflections on Dr. Swift's Letter to the Earl of Oxford, about the English Tongue. It was a violent Whig attack inspired by purely political motives. He says, "I do here in the Name of all the Whigs, protest against all and everything done or to be done in it, by him or in his Name." Much in the thirty-five pages is a personal attack on Swift, in which he quotes passages from the Tale of a Tub as examples of vulgar English, to show that Swift was no fit person to suggest standards for the language. And he ridicules the idea that anything can be done to prevent languages from changing. "I should rejoice with him, if a way could be found out to fix our Language for ever, that like the Spanish cloak, it might always be in Fashion." But such a thing is impossible.
   Oldmixon's attack was not directed against the idea of an academy. He approves of the design, "which must be own'd to be very good in itself." Yet nothing came of Swift's Proposal. The explanation of its failure in the Dublin edition is probably correct; at least it represented contemporary opinion. "It is well known," it says, "that if the Queen had lived a year or two longer, this proposal would, in all probability, have taken effect. For the Lord Treasurer had already nominated several persons without distinction of quality or party, who were to compose a society for the purposes mentioned by the author; and resolved to use his credit with her majesty, that a fund should be applied to support the expense of a large room, where the society should meet, and for other incidents. But this scheme fell to the ground, partly by the dissensions among the great men at court; but chiefly by the lamented death of that glorious princess."


 つまり,Swift の提案の内容それ自体が問題だったというわけではないのである.アカデミー設立は多くの人々の願いでもあったし,事は着々と進んでいた.ただ,政治的な点において Swift に反対する人物が声高に叫び,意見の不一致が生まれたということ,そして何よりも,アカデミー設立に向けて動き出していた Anne 女王が1714年に亡くなったことが,Swift の運の尽きだった.
 「上から」の英語アカデミーがついに作られなかったことにより,18世紀からは「下から」の言語規範の策定が進んでいくことになる (see 「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]), 「#1421. Johnson の言語観」 ([2013-03-18-1]), 「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1])) .イギリスは,アカデミーを作る意志がなかったわけではなく,半ば歴史の偶然で作るに至らなかった,と評価するのが適切だろう.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

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2016-06-01 Wed

#2592. Lindley Murray, English Grammar [prescriptive_grammar][history_of_linguistics][lowth][priestley]

 先日,1918世紀半ばの規範英文法書のベストセラー「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]) を紹介した.今回は,1918世紀後半にそれを上回った驚異の英文法家とその著者を紹介する.
 Lindley Murray (1745--1826) は,Pennsylvania のクエーカー教徒の旧家に生まれた.父親は成功した実業家であり,その跡を継ぐように言われていたが,法律の道に進み,New York で弁護士となった.示談を進める良心的で穏健な仕事ぶりから弁護士として大成功を収め,30代後半にはすでに一財をなしていた.健康上の理由もあり1784年にはイギリスの York に近い Holgate に転置して,人生の早い段階から隠遁生活を始めた.たまたま近所にクエーカーの女学校が作られ,その教師たちに英語修辞学などを教える機会をもったときに,よい英文法の教科書がないので書いてくれと懇願された.当初は受ける気はなかったが,断り切れずに,1年たらずで書き上げた.これが,18世紀中に競って出版されてきた数々の規範文法の総決算というべき English Grammar, adapted to the different classes of learners; With an Appendix, containing Rules and Observations for Promoting Perspicuity in Speaking and Writing (1795) である.したがって,この文法書は,規範主義の野心や商売気とは無関係に生まれた偶然の産物である.
 Murray は,序文においても極めて謙虚であり,この文法書を著作 (work) とは呼ばず,先達による諸英文法書の編纂者 (compilation) と呼んだ.参照した著者として Harris, Johnson, Lowth, Priestley, Beattie, Sheridan, Walker, Coote を挙げているが,主として Lowth を下敷きにしていることは疑いない.例の挙げ方なども含めて,Lowth を半ば剽窃したといってもよいくらいである.何か新しいことを導入するということはなく,すこぶる保守的・伝統的だが,読者を意識した素材選びの眼は確かであり,結果として,理性と慣用のバランスの取れた総決算と呼ぶにふさわしい文法書に仕上がった.
 English Grammar は出版と同時に爆発的な売れ行きを示し,1850年までに150万部が売れたという.イギリスよりもアメリカでのほうが売れ行きがよく,ヨーロッパや日本でも出版された.19世紀前半においては英文法書の代名詞として君臨し,その後の学校文法の原型ともなった.
 以上,Crystal (53) および佐々木・木原(編)(248--49) を参照した.

(後記 2016/06/06(Mon):冒頭に2度「19世紀」と書きましたが,いずれも「18世紀」の誤りでした.ご指摘くださった石崎先生,ありがとうございます.)

 ・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.
 ・ 佐々木 達,木原 研三 編 『英語学人名辞典』 研究社,1995年.

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2016-05-23 Mon

#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar [prescriptive_grammar][lowth][history_of_linguistics][preposition_stranding][syntax]

 規範主義が席巻した18世紀の前半における最も重要な文法家は,オックスフォードの詩学教授およびロンドンの主教も務めた聖職者 Robert Lowth (1710--87) である.1755年に Samuel Johnson が後に規範的とされる辞書を世に出した7年後の1762年に,今度は Lowth が一世を風靡することになる規範英文法書 Short Introduction to English Grammar: with Critical Notes を匿名で上梓した.この本は1800年までに45刷りを経るベストセラーとなり,後にこの記録を塗り替えることになる Lindley Murray の大英文法書 English Grammar (1795) の基礎となった本でもある.Lowth の文法書に現われる規範的な文法項目は,その後も長くイギリスの子供たちに教えられ,その影響は20世紀半ばまで感じられた.まさに規範文法の元祖のような著作である.
 Lowth の規範主義的な立場は序文に記されている.Lowth は当時の最も教養ある層の国民ですら文法や語法の誤りを犯しており,それを正すことが自らの使命であると考えていたようだ.例えば,有名な規範文法事項として,前置詞残置 (preposition_stranding) の禁止がある.Lowth 曰く,

The Preposition is often separated from the Relative which it governs, and joined to the Verb at the end of the Sentence, or of some member of it: as, "Horace is an author, whom I am much delighted with." . . . . This is an Idiom which our language is strongly inclined to; it prevails in common conversation, and suits very well with the familiar style in writing; but the placing of the Preposition before the Relative is more graceful, as well as more perspicuous; and agrees much better with the solemn and elevated Style.


 おもしろいことに,上の引用では Lowth 自身が "an Idiom which our language is strongly inclined to" と前置詞残置を用いているが,これは不用意というよりは,ある種の冗談かもしれない.いずれにせよ,この文法書ではこのような規範主義的な主張が繰り返し現われるのである.
 Lowth がこの文法項目を禁止する口調はそれほど厳しいものではない.しかし,Lowth を下敷きにした後世の文法家はこの禁止を一般規則化して,より強く主張するようになった.いつしか文法家は "Never end a sentence with a preposition." と強い口調で言うようになったのである.
 この規則に対しておおいに反感を抱いた有名人に Winston Churchill がいる.Churchill が皮肉交じりに "(this was a regulated English) 'up with which we will not put'" と述べたことは,よく知られている (Crystal 51) .

 ・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.

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