英語を学ぶ理由というは一見すると自明のように思えるかもしれない.多くの日本人の英語学習者からは,広く国際コミュニケーションのためという答えが返ってきそうである.しかし,世界は広い.人々が英語を学ぶ理由は,多岐にわたる.Jenkins (35--36) は,Crystal が提案したものとして6点を挙げ,自らもう一つを加えて計7点の「英語を学ぶ理由」を以下のごとく列挙した.
1. Historical reasons: 英米帝国主義の遺産として.The Outer Circle の諸地域で特に強い.see [2009-11-30-1]
2. Internal political reasons: 多民族国家における中立的な(特にメディア上の)言語として.
3. External economic reasons: 国際市場の獲得を目指して.
4. Practical reasons: 国際的な交通,会議,観光などのため.
5. Intellectual reasons: 学術・技術の情報にアクセスするため.
6. Entertainment reasons: 音楽をはじめとする大衆文化に接するため.
7. Personal advantage/prestige reasons: 習得することによって社会的な地位を得られるため.
地域によって,個人によって,英語を学ぶ理由は異なるだろうし,複数の理由が共存しているのが通常だろう.だが,日本に生活する一般の日本語母語話者にとって,1 や 2 の理由は縁遠いだろう.世界には 1 や 2 の理由を無視することのできない地域や個人が少なからず存在するということは,英語を学ぶ者みながよくよく知っておく必要がある.
・Jenkins, Jennifer. World Englishes: A Resource Book for Students. Abingdon: Routledge, 2003.
・Crystal, David. English As a Global Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
現代の資本主義世界では,言語も市場のメカニズムに取り込まれている.市場においては,実用的なもの,役に立つものが評価されるが,これは言語も同じである.言語の多様性が重んじられる時代ではあるが,実用的な言語に高い価値が付くことは厳然たる事実である.そして,21世紀初頭の現時点で最も市価の高い言語は何かといえば,英語である.
ドイツ-日本研究所のフロリアン・クルマス氏によると,言語の実用的な価値は次の四つの要因の総和で決定されるという.
(1) その言語を母語とする発話者の数
(2) 第二言語とする発話者の数
(3) 機能領域の規模
(4) その言語共同体のもつ経済的・政治的影響力など
厳密に数値化することは難しいが,少なくとも概算して複数の言語間で比較できるくらいのファクターではある.英語で考えてみると,(1) の ENL 話者 ( English as Native Language ) は概数で4億人,(2) は ESL ( English as Second Language ) と EFL ( English as Foreign language ) の話者の合計と考えて約12億人という数字が出る.(3) は相対的な価値で計らざるを得ないが,[2009-06-15-1]で見たように,カバーする domain の広さでいえば,英語は世界の諸言語のなかでも際だっていると言える.(4) は,アメリカの国力だけを想定しても相対的な価値は推し計れるし,ESL や EFL 話者を多く擁する,経済発展の著しい国々を含めれば,やはり英語はダントツだろう.(ここでは具体的な数値は用意していないが,Graddol などに掲載されている各種統計が参考になる.)
世界語を巡る議論ではすでに常識といってよいが,言語に内在する特徴が言語の市場価値を決める要因となることはありえない.例えば,「響きの美しい言語」「語彙の豊富な言語」「論理的な表現形式を多くもつ言語」「比較的易しい文法をもつ言語」「文法的な性のない言語」などは,その言語の市場での人気を上げたり下げたりする要因とはなり得ない.決定因子は,あくまで言語に外在する要因である.
(4) の「経済的・政治的影響」に「など」がついているので補足してみると,軍事的,宗教的,文化的な影響力もあり得るだろう.少なくとも過去においては,ある言語の市場価値を飛躍的に高めた最初の一撃は,特に軍事的な成功だった.古代ギリシャ語,ラテン語,アラビア語,スペイン語,ポルトガル語,フランス語,そして英語も然り ( Crystal 9 ).
様々な言語観,世界語観があろうが,現代における世界語としての英語も,言語外的な歴史の遺産のうえに成り立っているということを認識しておくことは必要だろう.
・フロリアン・クルマス 「公共財としての言語」 『月刊言語』38巻10号,2009年,6--7頁.
・Graddol, David. The Future of English? The British Council, 1997. Digital version available at http://www.britishcouncil.org/learning-research-futureofenglish.htm.
・Crystal, David. English As a Global Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
近年,インターネットで使用される言語として英語のシェアが相対的に落ちてきている.ネット上のコンテンツがどの言語で記されているかについての統計を集めるのは難しいようだが,英語の使用が少なくなってきている傾向は間違いないようだ.
本来,インターネットは世界をつなぐのが売りだったはずだが,そこで有力な世界語たる英語が以前より使われなくなっているというのは,一見すると矛盾のように思える.だが,この下降傾向には根拠がある.
Graddol によると,以下のような要因があるという.
・インターネット人口では,非英語母語話者が増えてきている
・多くの言語をサポートするソフトウェアが増えてきている
・インターネットは世界のコミュニケーションではなく地域のコミュニケーションに使われている
・eコマースの対象は主に国内である
・多くの人が,インターネットを友人や家族とのコミュニケーションのために用いている
・インターネットは離散した言語共同体をつなぐ役割を果たしている
・ワンクリックで機械翻訳の機能を得られるようになってきた
・インターネットは,世界的には目立たない言語を学ぶ人にとって有益な情報源となっている
以上を眺めると,全体として,世界英語へ収斂してゆく英語化の方向ではなく,個別言語化や多言語化の方向を示しているように思われる.
インターネットの世界から現実の社会に目を移すと,生じていることは実は同じである.世界中の言語共同体において,英語学習熱こそ高いかもしれないが,英語が地元言語を置き換えるということは頻繁には起こっていないし,むしろ相変わらず個別言語を使い続けようとする方向や,英語を含めた多言語社会へ転換しようという方向のほうが目立つ.
世界における英語の社会言語学では,virtual と real の差はそれほど大きくないようだ.
・Graddol, David. English Next. British Council, 2006. Digital version available at http://www.britishcouncil.org/learning-research-englishnext.htm.44--45.
現代社会において英語は国際的に幅広く使われている.そんなことは分かりきっていると言われそうだが,ここでいう「幅広く」をもっと正確に定義してみたい.英語は一体どんな分野 (domain) において国際的に使われているのだろうか.以下は,Graddol (8) からの引用である: Graddol, David. The Future of English? The British Council, 1997. Digital version available at http://www.britishcouncil.org/learning-research-futureofenglish.htm.
(1) Working language of international organisations and conferences
(2) Scientific publication
(3) International banking, economic affairs and trade
(4) Advertising for global brands
(5) Audio-visual cultural products (e.g. film, TV, popular music)
(6) International tourism
(7) Tertiary education
(8) International safety (e.g. 'airspeak', 'seaspeak')
(9) International law
(10) As a 'relay language' in interpretation and translation
(11) Technology transfer
(12) Internet communication
主要な分野ということでいえば,上記12点で大体カバーしていると思われるが,いくつか漏れていると思われる分野を補足する.
(13) International personal conversation (言語の異なる個人どうしの会話.当たり前すぎて上記から漏れていたか.)
(14) Computer programming
(15) Postal communication
(16) Political declaration (e.g. speech, demonstration)
他に何があり得るだろうか.逆に,英語の影響力の及ばない国際的な分野というものはあるのだろうか.あるとしたら,何だろうか.英語の未来を考える上で,現在の時点での英語の強い分野と弱い分野を見極めておくことは重要だろう.
母語としての英語 ( ENL ) を代表する地域として挙げられるのは普通,以下の国々ではないだろうか.アメリカ合衆国,イギリス,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,アイルランド.いわば英語語学留学に行ける国と考えるとイメージしやすい.( see [2009-10-17-1], [2009-10-21-1], [2009-11-28-1] )
では,南アフリカ共和国 ( Republic of South Africa ) はどうだろう.南アは英語国として言及されることがあり,世界英語 ( World Englishes ) の話題でよく取り上げられる国である.しかし,上の5カ国と同グループに入れるのには違和感があるのではないか.世界の英語使用について ENL と ESL という区分を認めるとすると,南アフリカ共和国は,確かに両者の性質を合わせもった微妙な位置取りをしているのである.
典型的な ENL 国では,国民の大多数が「アングロサクソン系」 の白人であり,イギリス英語の伝統を多かれ少なかれ受け継ぎつつ,公私の場で英語を母語として使用している.一方,典型的な ESL 国では,母語として英語を話す人口は存在するとしてもごく僅かであり,英語はあくまで第2言語として習得され,歴史的・政治的・文化的な機能を担う言語として存在している.
上の典型の記述からわかるとおり,ENL と ESL が水を漏らさぬ相補的な関係であるわけではない.その隙間をつくような地域が存在するのも無理からぬことである.南アには「アングロサクソン系」の白人で英語を母語としている人口が存在する.しかし,典型的な ENL 国とは異なり,かれらが国民の大多数を構成しているわけではない.英語母語話者は10%ほどである.この10%という ENL 人口は多くもないが少なくもない.この中途半端な人口比こそが,南アの微妙な位置取りの主たる原因である.国内での英語使用をみてみると,政治的・文化的な機能が強く,この点では明らかに ESL 的である.
ENS と ESL という伝統的な区分のもとで,南アはいずれの側からも周辺的な存在とみなされる不遇(?)をかこってきたように思う.近年の議論では伝統的な英語話者の区分の妥当性が問われるようになってきており,南アはそのような議論に独自の例を提供できる立場にあるのではないか.
今月は FIFA World Cup の開催で South Africa が熱い.South Africa の英語使用については[2010-04-05-1]の記事で触れたが,今日は英語とも親戚関係にある Afrikaans を話題にする.
南アの言語構成は複雑である.1993年の憲法によると,実に11の言語が公用語として認定されている.Afrikaans, English, Ndebele, North Sotho, South Sotho, Swazi (Swati), Tsonga, Tswana, Venda, Xhosa, Zulu.このなかでも Afrikaans は英語と並んで,第一言語としても第二言語としても国内で広く影響力を保っている言語である.Afrikaans はゲルマン語派の系統図 ( [2009-10-26-1] ) にも組み込まれているとおり,英語とは広い意味で親戚関係にある.アフリカの南端でなぜヨーロッパに端を発する二つの西ゲルマン語が話されているかというと,オランダとイギリスによる植民地の歴史が背景にあるからである.1652年,オランダ東インド会社は南西端の喜望峰 ( the Cape of Good Hope ) に交易所を設けた.このときに当時のオランダ語 ( Dutch ) が持ちこまれ,現在おこなわれている Afrikaans ( 別名 Cape Dutch ) の種が蒔かれた.オランダ語の一変種として種が蒔かれた後は,ドイツやフランスからの移民,原住民の Khoisan,アフリカやアジアからの奴隷による使用により言語変化を経て,言語体系は非常に簡略化してきた.Afrikaans は文法カテゴリーとして格 ( case ) や性 ( gender ) を失なっており,この点で英語ともよく似ている.両言語とも,諸民族に揉まれるなかで簡略化を経てきたと言えるだろう.
Afrikaans についてはオランダ語との関係で,[2009-09-22-1]の記事でも少し触れているのでそちらも要参照.Ethnologue の Afrikaans の記述も参照.
昨日の記事[2010-06-08-1]では,17世紀のオランダ語に基づいて南アフリカで独自の発達をとげてきた Afrikaans を話題にした.南アでは Afrikaans と並んで英語も広く理解され,民族の壁を超えて国内コミュニケーションに供している.英語は,母語としては人口の1割ほどが使用するに過ぎないが,非母語としては人口の半分ほどが理解するといわれる.このように ENL と ESL が共存する興味深い国であることは,[2010-04-05-1]の記事でも取りあげた.
南アでの英語使用は19世紀初めにイギリスがオランダより the Cape を購入した時期に遡るが,本格的には1820年以降にイギリス人が大規模な移民を行うようになってからのことである.イギリス移民の最初期には,主に南東イングランドの田舎出身者が多く,かれらは Eastern Cape へ入った.このときの英語は諸言語との混交を経て,独特の変種を発達させた.これは Cape English と呼ばれる.
次の大規模移民は19世紀半ばに行われた.このときには社会階級の高い者が多く,Yorkshire や Lancashire など北イングランド諸州からの移民が多かった.かれらは Natal に住み着き,後に本国とも連絡を取り続けたため,この英語変種は威信のあるイギリス標準英語に近いままに保たれた.これは Natal English と呼ばれる.また,特定の地域に限定されず南アで広く聞かれる General South African English と呼ばれる変種も発達した.
上記の状況は,アメリカの変種の生まれた過程や現在の分布に似ている.主にイングランド西部からの植民者がアメリカ南部に Jamestown を設立してアメリカ南部方言の端緒を開き,主にイングランド東部からの植民者がアメリカ北東部を開拓して New England 方言の祖となった.一方,イングランド中部・北部やスコットランドなどからアメリカ中部に展開した植民者は,General American と呼ばれる地域色の薄いアメリカ英語変種の種を蒔いた.実際には移民の歴史はそう単純ではなく,いずれの変種も程度の差はあれ他変種との混交によって発展してきているが,移民元と移民先の変種に連続性があるという点では南アとアメリカの状況は比較される.実のところ,このような連続性は南アやアメリカのみならず,母語としての英語が移植された旧イギリス植民地では広く見られる現象である.
ちなみに,南アには上に挙げた英語三変種のほかに,独特な South African Indian English も聞かれる.1860年代以降,インド人が労働力として Natal に連れて来られ,後に独特な英語変種を話すようになったものである.
南アだけを見ても英語変種は少なくない.いわんや世界をや.
・ Svartvik, Jan and Geoffrey Leech. English: One Tongue, Many Voices. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006. 112--15.
[2010-05-29-1], [2010-05-30-1]の記事に引き続き,Ethnologue からの話題.Table 6. Distribution of living languages by country は,世界の諸地域を言語多様性の高い順に並び替えたものである.言語の多様性指数 ( diversity index ) とは,その地域における言語の密度といってもよいが,その地域からランダムに二人を選び出したときにその二人が異なる母語をもつ確率として定義される.取り得る最大の値は1で,このとき同じ母語をもつ人は皆無ということになる.最小値は0で,このとき皆が同じ母語をもつということになる.例えば,日本の多様性指数は,対象となっている224地域のなかでも下から数えた方が早く,202位で 0.028 という値である.日本は言語的に非常に同質的な国であるといえる.
多様性指数のトップ10を見やすく抜き出してみよう.
Rank | Country | Diversity index | Living languages |
---|---|---|---|
1 | Papua New Guinea | 0.990 | 830 |
2 | Vanuatu | 0.974 | 114 |
3 | Solomon Islands | 0.967 | 71 |
4 | Central African Republic | 0.959 | 82 |
5 | Democratic Republic of the Congo | 0.948 | 217 |
6 | Tanzania | 0.947 | 129 |
7 | Cameroon | 0.946 | 279 |
8 | Chad | 0.944 | 133 |
9 | India | 0.940 | 445 |
10 | Mozambique | 0.932 | 53 |
Rank | Country | Diversity index | Living languages |
---|---|---|---|
1 | Papua New Guinea | 0.990 | 830 |
2 | Indonesia | 0.816 | 722 |
3 | Nigeria | 0.869 | 521 |
4 | India | 0.940 | 445 |
5 | United States | 0.319 | 364 |
6 | Mexico | 0.137 | 297 |
7 | China | 0.509 | 296 |
8 | Cameroon | 0.946 | 279 |
9 | Democratic Republic of the Congo | 0.948 | 217 |
10 | Australia | 0.124 | 207 |
[2010-06-02-1]の記事で言語の多様性指数 ( diversity index ) について触れた.これは言語密集度と言い換えてもよいだろうが,興味深いことに,この指数は赤道に近いほど高く,両極に近いほど低い傾向がある(柴崎, p. 17).言語多様性指数で世界トップのパプアニューギニアを例に取れば,国土面積でいうと世界の0.4%を占めるにすぎないところに世界総人口の0.055%ほどの人が住んでいるのだが,そこに830もの言語(総言語数の12%)がひしめいている.一方で,例えばグリーンランドは比較的広大だが人口密度は低く,言語数も少ない ( see [2010-01-26-1] ).さらに興味深いことに,言語の死 ( see language_death ) の進行率が不釣り合いに高いのも,やはり赤道に近い地域である.言語密集度と言語消滅可能性は連動していることが知られており,高い値が赤道寄りに偏って分布していることは明らかである(柴崎,p. 21).
赤道に近いほど言語の多様性と消滅可能性が高いというのは,より広く社会的関心を引きつけている別の話題を想起させる.それは生物種の多様性と消滅可能性である.生物種の多様性も赤道直下をピークとして,両極へ向かうほど密集度が低くなっており,消滅可能性もそれと足並みを揃えている.再びパプアニューギニアを例に取ると,国内に約40万種,世界の全生物種の約5%が生息しているとされ,消滅の度合いも大きいという(柴崎, p. 21).
ここまで言語多様性と生物多様性の分布が一致すると,ヒトの言語が生態系の一部であることを認めざるを得ない.[2010-01-30-1]で言及したように ecolinguistics という呼称が現われてきていることも納得できるというものである.英語史の観点からこの状況を考察するとどうなるだろうか.言語生態系という考え方が生じている現代の社会においては,英語に代表される世界語は,かつて世界語と呼ばれ得た諸言語とは異なる役割と責任を負うことになるだろう.言語生態系という視点は,今後の英語を動かす,つまり新しい英語史を駆動する力の一つになってゆくかもしれない.
世界の人口と関連する話題については世界の人口が有益.
・ 柴崎 礼士郎 編 『言語文化のクロスロード --- 沖縄からの事例研究 ---』 文進印刷,2009年.
世界の ESL ( English as a Second Language ) 地域は,[2009-10-21-1]の記事で列挙したように多数あり,[2009-06-23-1]で示唆したように今後も増えてゆくことが見込まれ,世界英語へ及ぼす影響は大きいと考えられる.ESL 地域は主に英米植民地化の歴史を背負っており,それゆえにというべきだが日本にとってあまり馴染みのない地域が多い.現代日本にとって比較的関心の強いところでは Hong Kong, India, Malaysia, the Philippines, Singapore などの南・東南アジア諸国が挙げられる.特に India は ESL を論じる場合には欠かすことのできない主要国だが,それ以外の世界の ESL 地域における言語事情については,日本では一般にあまり知られていない.ESL 地域のもつ潜在的な影響力を考えれば,各 ESL 地域について無知でいることは許されない.私自身も言語事情をよく知らない地域が多いし,ESL に言及するときに India の話題だけでは心許ないので,これから少しずつ調べていきたいと思っている.そこで,今回は典型的な ESL 国の1つ Nigeria ( Federal Republic of Nigeria ) に焦点を当ててみたい.
Nigeria は西アフリカのギニア湾に面するアフリカで最も人口の多い国である.人口が多いだけでなく,アフリカの多くの国々と同様に民族の多様性も高い.[2010-06-02-1]の記事で言語の多様性指数 ( diversity index ) を取りあげたが,Nigeria の多様性指数は 0.869 で世界第23位である.1国内に使用されている言語の数でいえば実に521言語を数え,Papua New Guinea, Indonesia に次いで世界第3位を誇る.言語的同質性の高い日本からみると想像を絶する言語事情である.Nigeria で使用されている諸言語の詳細については Ethnologue report for Nigeria を参照.
主要な言語としては,北部の Hausa, Fula,南西部の Yoruba,南東部の Igbo が挙げられる.このうち Hausa は Afro-Aisatic 語族,それ以外は Niger-Congo 語族に属する.政治的に特に重要な言語は Hausa で,国内の lingua franca の1つとなっているが,母語話者と第2言語話者を合わせても総人口(1億4000万を超える)の1/4に届かない.English, Nigerian Pidgin English もそれぞれ1000万人,3000万人ほどの話者を有し,lingua franca として国内でよく通用する.いずれにせよ単独で人口の1/4ほどのシェアを占める言語は存在しないが,政治や教育の場で公式に用いられる言語は英語である.話者数では1000万人ほどにもかかわらず,国のなかで英語が高い地位を確保されているのはなぜだろうか.
1つは歴史的な遺産である.西アフリカ,ギニア湾沿岸へのヨーロッパ人の訪問の歴史は,[2010-06-13-1]で紹介したカメルーンの英語事情に記した通りである.15世紀にポルトガル商船の交易基地が Nigeria 地域にも築かれ,16世紀にはイギリス人との接触により同地域に様々な英語変種が話されるようになった.ただし,イギリス人による植民地が Lagos (旧首都)に正式に設立されたのは1861年のことである.他の多くの植民地と同様に,このイギリス統治時代に標準イギリス英語が政治・教育などの公式な言語となり,1960年の独立後も現在にいたるまでその状況が遺産として受け継がれている.
2つ目に,英語が民族的,政治的に最も中立な言語とみなされているということがある.India の場合と同様に,多民族・多言語国家 Nigeria では公用語をある1つの言語に特定することは民族対立の原因となる.Nigeria には圧倒的な多数派がいないことも,公用語の制定を難しくしている.もし Hausa を採用すれば非 Hausa 系が団結して対抗するだろうし,政治問題そして流血の惨事へと発展する可能性が高い.実際に,Hausa と Igbo が血を流した1967年からの数年にわたる内戦(ビアフラ戦争)では150万の犠牲者が出た.このような国では,ある言語話者にとって「不平等に有利」になる社会状況を作り出すよりは,すべての言語にとって「平等に不利」であるほうが平和的である.そこで,言語的有利を犠牲にして万人にとって(第2言語という意味で)不利な言語である外来の言語たる英語を選ぶということが現実的な解決策になる.
3つ目に,上記のような国内政治的な理由で英語を用いざるを得ない状況のポジティヴな側面を見れば,英語を用いることによって世界とつながる機会が増えることにもなる.英語を公用語に掲げる国家としても外交上有利だし,英語を習得する個人としてもキャリア上有利だろう.
多くの ESL 地域の言語事情は複雑である.このような地域の言語事情を調べると,世界の人々が英語を話したり学んだりする理由も千差万別だということが改めてわかる.[2010-01-19-1]の記事も改めて参照されたい.