「#2289. 命令文に主語が現われない件」 ([2015-08-03-1]) の最後に簡単に触れたように,初期近代英語での依頼のポライトネス・ストラテジーとしては,Shakespeare に頻出するように,I pray you/thee, prithee, I beseech you, I require that, I would that などがよく用いられた.しかし,後期近代英語になると,これらは特に口語体において衰退し,代わりに17世紀より散発的に現れ始めていた please (< if you please < if (it) please you) が優勢となってきた.依頼に用いられる表現がこのように変化してきた背景には,何があったのだろうか.
この疑問については,please の成立に関する語順や文法化の問題として言語内的に考察しようという立場がある一方で,社会(言語)学や歴史語用論の観点から説明を施そうという立場もある.後者の立場からは,例えば,19世紀に pray が語感として強い宗教的な含意をもつようになったために,通常の依頼の表現としてはふさわしくないと感じられるようになった,という提案がある.
Busse も歴史語用論の立場からこの変化の問題に接近し,この時期に焦点を話し手から聞き手へと移すというポライトネス・ストラテジーの転換が起こったのではないかと推測している.古い I pray you のタイプの適切性条件 (felicity condition) は「話し手が聞き手に○○をしてもらいたいと思っている」ことであるのに対して,新興の (if you) please のタイプでは,「話し手が聞き手に○○をしようという意図があるかどうかを訊ねる」ことであるという違いがある.後者の適切性条件は,Can/could you pass the salt? のような疑問の形式を用いた依頼にも見られるものであり,確かに I pray you などよりも現代的な響きが感じられる.
Busse (31--32) はこの推測を次のようにまとめている.
Pragmatically, the redressed command and the question have in common that they ask for the willingness of the listener to do X (willingness on the part of the hearer being a felicity condition for imperatives to be successful). Yet, indirect requests with pray/prithee put the focus on the speaker and assert his/her sincerity: Speaker sincerely wants X to be done.
The diachronic comparison of requests with pray to those with please on the basis of the OED and the Shakespeare Corpus has led me to the assumption that the disappearance of pray in polite requests and the subsequent rise of please as a concomitant can be explained pragmatically. This is to say that at least in colloquial speech a shift in polite requests has taken place from requests that assert the sincerity of the speaker (I pray you, beseech you, etc.) to those that question the willingness of the listener to perform the request (please). . . .However, in more formal types of dialogue, verbs that express the speaker's sincere wish that something be done, such as I beseech, entreat, implore, importune, solicit, urge, etc. you still persist.
もしこの変化が初期近代英語から後期にかけてのポライトネス・ストラテジーの大きな推移――話し手から聞き手への焦点の移行――を示唆しているとすれば,それは英語歴史社会語用論の一級の話題となるだろう.
・ Busse, Ulrich. "Changing Politeness Strategies in English Requests --- A Diachronic Investigation." Studies in English Historical Linguistics and Philology: A Festschrift for Akio Oizumi. Ed. Jacek Fisiak. Frankfurt am Main: Peter Lang, 2002. 17--35.
英語史における thou と you の使い分け,いわゆる T/V distinction の問題については,「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) や「#1127. なぜ thou ではなく you が一般化したか?」 ([2012-05-28-1]),そして t/v_distinction の各記事で取り上げてきた.
2人称複数代名詞の敬称単数としての用法の伝統は,4世紀のローマ皇帝に対する vos の使用に始まり,12世紀の Chrétien de Troyes などによるフランス語を経て,英語へはおそらく13世紀に伝わり,1600年頃には慣用として根付いていた.一方,17世紀中に親称単数の thou は衰退し始め,標準英語では18世紀に廃用となった.Johnson (261) が,上記の歴史的経緯を実に手際よくまとめているので,そのまま引用したい.
IN LATIN THE EMPEROR, representing in his person the power and glory of his predecessors, was addressed with vos in the fourth century A.D. By the fifth century, this pronoun was commonly employed to indicate respect. In French by the time of Chrétien de Troyes, vous was not only given to superiors but was also interchanged by equals. In Latin and French works of twelfth-century England, the plural pronoun had been used as a singular by, for example, Geoffrey of Monmouth, Wace, and Marie de France. The practice of using ye and you (the "you-singular") instead of thou and thee (the "thou-singular") apparently spread to English during the thirteenth century and by about 1600 had become established in polite usage. For some time thereafter, however, the thou-singular continued to appear in emotional or intimate speech and in the discourse of superiors to inferiors and of the members of the lower class to one another. Gradually decreasing in use, it became obsolete in the standard language in the eighteenth century and now appears only in poetry and the address of the deity or among Quakers and those who speak a dialect.
Johnson は,thou の衰退する17世紀に焦点を当て,喜劇の戯曲と大衆フィクションの47作品をコーパスとして,you と thou の分布と頻度を調査した.登場人物を職業別に上流,中流,下流へ分類し,以下のような統計結果を得た (Johnson 265).
1600--1649 | You | Thou | You* | Thou* |
---|---|---|---|---|
Upper Class | 5,851 | 2,664 | 64.36 | 35.64 |
Middle Class | 2,807 | 629 | 81.40 | 18.60 |
Lower Class | 2,385 | 470 | 83.47 | 16.53 |
1650--1699 | ||||
Upper Class | 10,853 | 2,353 | 81.40 | 18.60 |
Middle Class | 3,145 | 574 | 81.77 | 18.23 |
Lower Class | 2,849 | 317 | 88.32 | 11.68 |
* In percent. |
The historical uses of the you-singular, as in respect or irony, and of the thou-singular, as in emotion or intimacy, to an inferior, or in the exchange of the members of the lower class, are exemplified in the various texts throughout the era. However, further demonstrating the meaninglessness of the distinction between them, you may frequently be found in circumstances where thou might be expected to occur, and, at times, thou where we should expect to find you.
・ Johnson, Anne Carvey. "The Pronoun of Direct Address in Seventeenth-Century English." American Speech 41 (1966): 261--69.
標題は,長らく気になっている疑問である.現代英語の命令文では通常,主語代名詞 you が省略される.指示対象を明確にしたり,強調のために you が補われることはあるにせよ,典型的には省略するのがルールである.これは古英語でも中英語でも同じだ.
共時的には様々な考え方があるだろう.命令文で主語代名詞を補うと,平叙文との統語的な区別が失われるということがあるかもしれない.これは,命令形と2人称単数直説法現在形が同じ形態をもつこととも関連する(ただし古英語では2人称単数に対しては,命令形と直説法現在形は異なるのが普通であり,形態的に区別されていた).統語理論ではどのように扱われているのだろうか.残念ながら,私は寡聞にして知らない.
語用論的な議論もあるだろう.例えば,命令する対象は2人称であることは自明であるから,命令文において主語を顕在化する必要がないという説明も可能かもしれない.社会語用論の観点からは,東 (125) は「英語は主語をふつう省略しない言語だが,命令文の時だけは省略する.この主語(そして命令された人も)を省略する文法は,ポライトネス・ストラテジーのあらわれだといえよう」と述べている.関連して,東は,命令文以外でも you ではなく一般人称代名詞 one を用いる方がはるかに丁寧であるとも述べており,命令文での主語省略を negative politeness の観点から説明するのに理論的な一貫性があることは確かである.
しかし,ポライトネスによる説明は,現代英語の共時的な説明にとどまっているとみなすべきかもしれない.というのは,初期近代英語では,主語代名詞を添える命令文のほうがより丁寧だったという指摘があるからだ.Fennell (165) 曰く,". . . in Early Modern English constructions such as Go you, Take thou were possible and appear to have been more polite than imperatives without pronouns."
初期近代英語の命令や依頼という言語行為に関連するポライトネス・ストラテジーとしては,I pray you, Prithee, I do require that, I do beseech you, so please your lordship, I entreat you, If you will give me leave など様々なものが存在し,現代に連なる please も17世紀に誕生した.ポライトネスの意識が様々に反映されたこの時代に,むしろ主語付き命令文がそのストラテジーの1つとして機能した可能性があるということは興味深い.上記の東による説明は,よくても現代英語の主語省略を共時的に説明するにとどまり,通時的な有効性はもたないだろう.
この問題については,今後も考えていきたい.
・ Fennell, Barbara A. A History of English: A Sociolinguistic Approach. Malden, MA: Blackwell, 2001.
・ 東 照二 『社会言語学入門 改訂版』,研究社,2009年.
呼称語 (address term) は,談話標識としてポライトネスの程度を調整する機能,人間関係の距離を調整する機能をもっている.呼称語は,「#1564. face」 ([2013-08-08-1]) の記事でも触れたように,相手の面子 (face) を尊重する戦略の1つでもある.
呼称語には様々なものがあるが,大きく分けて negative face への指向強い「敬称型」 (derefential type) ,positive face への指向の強い「愛称型」 (familiar type) ,中間的な「中立型」 (neutral type) の3種がある.これらをポライトネス座標軸に並べると,Raumolin-Brunberg を参照した椎名 (80) にあるとおり,次のように図示できる.
左から右へみていくと,敬称型には Sir のような敬称 (honorific) と Mr. Smith のような肩書き+名字などがある.中立型には woman などの総称 (generic) や captain などの職名 (occupational) がある.愛称型には Smith のような名字 (surname) や John のような名前 (first name),friend のような友好語 (familiariser),uncle などの親族語 (kinship term),dear などの愛称 (endearment) がある.
しばしば英語には敬語がないといわれるが,日本語の敬語体系に対応するものがないだけであり,「#1034. 英語における敬意を示す言語的手段」 ([2012-02-25-1]) でみたように英語なりの待遇表現は豊富に存在する.上記の英語の呼称語も,座標軸上に連続体をなしていることからもわかるとおり,選び方次第で相当に精妙な敬意や人間関係を示すことを可能にしている.英語では日本語以上に呼称語を会話の中で頻繁に織り交ぜるが,これは英語が日本語とは異なる戦略によってポライトネスを操作しているということにほかならない.
近年,歴史語用論の立場から,英語の呼称語の分布の通時的推移などが研究されてきている.通時的な比較研究や共時的な対照研究など,将来性のあるテーマである.関連する記事としては,address_term や title を参照.
・ 椎名 美智 「初期近代英語期の法廷言語の特徴」『歴史語用論の世界 文法化・待遇表現・発話行為』(金水 敏・高田 博行・椎名 美智(編)),ひつじ書房,2014年.77--104頁.
ポライトネス理論の重要な道具立てとして,「#1564. face」 ([2013-08-08-1]) という概念が重視されてきた.face work の議論では,面子を脅かす行為,face-threatening act (FTA) が注目され,様々に研究されるようになってきた.
FTA には,(1) positive face を脅かすもの,(2) negative face を脅かすもの,(3) 両方を脅かすものがある.(1) には不賛成,非難,批判,不一致,侮蔑など,(2) には助言,命令,要求,提案,警告など,(3) には不満,中断,脅威などがある.これらは主として聞き手の面子を脅かす行為だが,話し手自らの面子を脅かすものもある.例えば,お世辞を受け入れたり,謝意を表明したり,告白するという行為は,話し手の面子に関わる行為である.
人々は FTA を避ける,あるいはその効果を和らげるために,様々な言語的・非言語的戦略を用いて日常生活を営んでいる.Huang (117) に掲載されている "Brown and Levinson's (1987: 60) set of FTA-avoiding strategies" の図は,それらの戦略を分類したものである.少々改変した図を示そう.
面子を脅かす可能性が高い行為であればあるほど,それを和らげるためにより精巧で困難な戦略が要求される.上の図でいえば,下に行けば行くほど面子を脅かす度合いが高く,それを和らげるための戦略も高度になる.換言すれば,下の方にある5の戦略が最も気遣いのある手堅い戦略となり,上の方にある1の戦略が最もぶっきらぼうで戦略的効果は小さい.
ある学生が友人に講義ノートを貸してもらいたいという状況を想定しよう.上の図の戦略1?5に対応するのは,例えば次のような文である(Huang 118) .
1. On record, without redress, baldly:
Lend me your lecture notes.
2. On record, with positive politeness redress:
How about letting me have a look at your lecture notes?
3. On record, with negative politeness redress:
Could you please lend me your lecture notes?
4. Off record:
I didn't take any notes for the last lecture.
5. Don't perform the FTA:
[John silently looks at Mary's lecture notes.]
1から5に向かって,相手の面子を保つ効果の高い,心遣いのある丁寧な表現・行為となっているのがわかるだろう.一般的に,間接的な表現や行為ほどFTA を和らげる効果がある.ただし,注意したいのは,戦略1が必ずしも戦略2以降と比べてポライトではないとは言い切れないことだ.仲の良い相手に頼む場合には,むしろ戦略3のような表現はよそよそしいだろうし,戦略2や,ときには戦略1ですら,ふさわしい表現となる.そのような状況では,むしりあからさまに要求するという戦略は望ましいものとなる.
考えてみると,人と人が交流しているときには,いつでも互いにFTAを行っている,つまり面子を脅かしているといっても過言ではない.ということは,交流を円滑にするためにFTAを避ける,あるいは和らげる戦略も,常に展開しているということになる.そのような戦略はときに失敗することもあるが,多くの場合それなりに成功するものであり,それとともに交流も円滑に流れてゆく.このような人間どうしの複雑な行動が日々半ば無意識に行われているということは,驚くべきことである.「FTAを避ける戦略」という言い方はなんともネガティヴだが,「互いの face を守る努力」 (face-saving act or FSA?) ととらえれば,日々の人々の営みがポジティヴに感じられる.
・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.
英語史における2人称代名詞に関する語用論的問題,いわゆる T/V distinction の発達と衰退の問題は,t/v_distinction のいくつかの記事で取り上げてきた.今回は,高田に拠ってドイツ語の T/V distinction の盛衰の歴史を垣間見たい.
ドイツ語史は,T/V distinction について回る「敬意逓減の法則」の好例を提供してくれる.現代ドイツ語の du/Sie の2分法は,紆余曲折の歴史を経て落ち着いた結果としての2分法であり,ここに至るまでには,とりわけ近代期には複雑な段階を経験してきた.17--18世紀には,人々は相手を指すのにどの表現を使えばよいのか思い悩み,数々の2人称代名詞に「踊らされる」時代が続いていた.社会語用論的に不安定な時代と呼んでよいだろう.以下は,高田 (145) のまとめた「ひとりの相手に対するドイツ語呼称代名詞の史的発達」の表である(少々改変済み).上段にある代名詞ほど,相手の社会的身分が高い,あるいは自分と疎遠な関係にあることを示す.
この表は,ドイツ語史において2人称単数代名詞の敬称がいかに次々と生み出されてきたかを雄弁に物語っている.ゲルマン語の段階では,古英語などと同様に,2人称単数代名詞としてはT系統の形態が1つあるにすぎなかった.古英語の þū に対応する du である.この時代には王に対しても召使いに対しても対等に du のみが用いられていた.
9世紀後半になると,2人称複数代名詞であった Ihr が敬意を表す単数として用いられ始めた.これ自体は,「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) や「#1552. T/V distinction と face」 ([2013-07-27-1]) で触れたように,英語史やフランス語史にもみられた現象であり,しばしば権力と複数性との写像性 (iconicity) により説明される.ただし,ドイツ語史では英語史に比べてかなり早くにこの用法が現われたことは注目すべきである.こうして9世紀後半に始まった du/Ihr の2分法は,11世紀までには普及し,社会的な権力や地位,すなわち power というパラメータを軸に16世紀まで存続した.
16世紀になると長期にわたって安定していた du/Ihr の2分法が崩れ始めた.Ihr の敬意が逓減し,社会的な地位の高くない人にまで使われるようになった.その代替手段として der Herr, die Frau といった人物名称が用いられ始めたが,繰り返し使われるにつれて,これらの名詞句を受ける3人称単数代名詞 er や sie それ自体も呼称として用いられるようになった.ここに至って,新たな Er/Sie, Ihr, du の3段階システムができあがった.
18世紀に入ると,ドイツ語の呼称代名詞は「迷路」に迷い込んだ.その頃までには,高位の人に冠する称号として Eure Majestät (陛下)や Eure Ehre (閣下)や Eure Gnaden (閣下)のように,「威厳」「名誉」「恩寵」などの抽象名詞(たいてい女性名詞)を付す呼称が発達していた.これらの女性抽象名詞を前方照応する形で,3人称女性代名詞 sie が用いられていたが,これはたまたま3人称複数代名詞と同音だったために,後者にも敬称の機能が移った.ここに至って,Sie, Er/Sie, Ihr, du の4段階システムが成った.
18世紀後半には,4段階システムにおける最上位の Sie ですら敬意逓減の餌食となり,指示代名詞の複数形 Dieselben が新たな最上位の敬称として生み出され,5段階システムを形成した.ただし,Dieselben は前方の名詞と照応する形でしか用いられなかったし,書き言葉に限定されていたために,一般化することはなかった.
だが,世紀の変わり目に向けて,呼称代名詞をめぐる社会語用論の混乱は収束に向かう.最も古く,最も低位の du に「友情崇拝」 (Freundschaftskult) という社会的な価値が付され,積極的に評価されるようになってきたのだ.du に positive politeness の機能が付されるようになったといってもよいし,社会的階級あるいは power に基づく呼称体系から人間関係あるいは solidarity に基づく呼称体系へと移行したとみることもできる (cf. 「#1059. 権力重視から仲間意識重視へ推移してきた T/V distinction」 ([2012-03-21-1])).19世紀以降,du の役割の相対的な上昇と,細かな上位区分の解消により,現在あるような du/Sie の2分法へと落ち着いてゆき,ドイツ語は近代の社会語用論的な迷路から脱出することに成功した.
ドイツ語史の関連する話題としては「#185. 英語史とドイツ語史における T/V distinction」 ([2009-10-29-1]) と「#1865. 神に対して thou を用いるのはなぜか」 ([2014-06-05-1]) でも触れているので,そちらも参照されたい.
・ 高田 博行 「敬称の笛に踊らされる熊たち 18世紀のドイツ語古称代名詞」『歴史語用論入門 過去のコミュニケーションを復元する』(高田 博行・椎名 美智・小野寺 典子(編著)),大修館,2011年.143--62頁.
標記の日本語表現と英語表現は,それぞれ天皇と国王を指示する呼称であり至高の敬意を表わす.いずれの表現にも politeness や euphemism の戦略が複数埋め込まれており,よくぞここまで工夫したと思わせる語句となっている.
「陛下」は元来宮殿に上る階段の下を指した.そこには取次の近臣がおり,その近臣を経由して,伝達事項が天皇の上聞に達することになっていた.本来は場所を表わす語句によりそこにいる取次を間接的に指示し,さらにその取次を指示することにより上にいる天皇を間接的に指示するのだから,2重の換喩 (metonymy) であり,ポライトネスを著しく意識した婉曲表現でもある.「敬して遠ざく」の極致だろう.また,「下」は反意語「上」を否応なしに想起させ,天皇の至上性を暗示する点で,緩叙法 (litotes) の効果をも併せもつ.表現としては中国で天子の敬称として用いていたものが日本にも伝わったものであり,古くは天皇にはむしろ類義語「殿下」の称号が付された.明治以降,皇室典範の規程により,天皇と三后には「陛下」,三后以外の皇族には「殿下」と使い分けが定められ,今に至っている.
英語の Your Majesty も,ポライトネス戦略の点からは「陛下」に負けていない.まず,「#440. 現代に残る敬称の you」 ([2010-07-11-1]) でみたように,Your そのものが敬意を含んでいる (cf. t/v_distinction) .次に,Majesty はそれ自身の意味として至高の美徳を表わしている.加えて,その至高の美徳という抽象的な性質によって,具体的な王を間接的に指示している.ここには,換喩による間接性と婉曲性が感じられる.なお,抽象的な性質によって具体的な人や物を指す例は,She is our last hope., His latest novel is a complete failure., Our daughter is a great pride and joy to us. のような表現にも見ることができ,換喩として一般的なものである (cf. Stern 319--20) .
なお,Majesty のこの用法の初出は,OED によると,14世紀後半である.
a1387. J. Trevisa tr. R. Higden Polychron. (St. John's Cambr.) (1872) IV. 9 (MED), Whanne Alisaundre..wente toward his owne contray, þe messangers..of Affrica, of Spayne, and of Italy come in to Babilon to ȝilde hem to his lordschipe and mageste [L. ejus ditioni].
しかし,君主の敬称として定着したのは17世紀のことであり,それ以前には Henry III や Queen Elizabeth I が Your Grace や Your Highness と呼ばれるなど,諸形が交替した.James I に捧げられた The Authorised Version (The King James Version [KJV]) では,Your Highness と Your Majesty がともに用いられている.
「陛下」,Your Majesty,そして関連するいくつかの表現は,それぞれ異なるポライトネス・ストラテジーによってではあるが,最高度の敬意を表わすために作り出された感心するほど巧みな造語である.敬礼!
・ Stern, Gustaf. Meaning and Change of Meaning. Bloomington: Indiana UP, 1931.
2人称代名詞 you と thou を巡る英語史上の問題については,多くの記事で取り上げてきた( you thou personal_pronoun を参照).中英語期から初期近代英語期まで見られた敬称の you と親称の thou の使い分けは,「#673. Burnley's you and thou」 ([2011-03-01-1]) で述べたように,細かく規定しようとすると非常に複雑だが,基本ルールとしては,社会的立場が上の者に対しては敬称の you を用いるべし,といえる.ところが,キリスト教徒が神に対して呼びかける場合には,英語では親称の thou を用いるのが慣習である.神のことを社会的立場が上の者と表現するのも妙ではあるが,究極の敬意を示す対象として,敬称の you が予想されそうなところだが,なぜそうならないのだろうか.実は,英語だけの問題ではない.現代のフランス語とドイツ語などを参照すると,やはり神に対して親称の tu, du をそれぞれ用いる慣習がある.
歴史的には,politeness に基づく T/V distinction がいまだ存在しなかった時代,例えば古英語期には,キリスト教のただ一人の神への呼びかけは,当然ながら単数形 thou を用いていたという事実がある.その伝統的な用法を,中英語以降も継続したということはありそうだ.また,唯一神であることを強調するために,単数を明示できる thou が選ばれたという考え方もある.しかし,前代からの伝統とはいえ,T/V distinction が導入され定着した時代の共時的な感覚として,神に対して thou と呼びかけるのは失礼とはまったく思わなかったのだろうか.そんな素朴な疑問がわいてくる.
これに対する1つの解答は,「#1564. face」 ([2013-08-08-1]) で導入した positive face あるいは solidarity-face を立てようとする politeness の考え方である.その記事で「英語に T/V distinction があった時代の親しみの thou と敬いの you は,向きこそ異なれ,いずれも相手の face を尊重する politeness の行為だということになる」と述べたように,親称の thou の使用は,敬称の you の使用とは異なった向きではあるが,同じようにポライトだということである.前者は相手(神)の positive face を立てる行為であり,互いの solidarity を醸成するのに役立つ.神が自分のことを thou と呼び,親しく歩み寄ってくれているのだから,その神の厚意を尊重して受け入れ,こちらからも親しみを込めて thou と呼んで接しよう,という説明になろうか.positive politeness と negative politeness については,Wardhaugh (292) が次のように説明している.
Positive politeness leads to moves to achieve solidarity through offers of friendship, the use of compliments, and informal language use: we treat others as friends and allies, do not impose on them, and never threaten their face. On the other hand, negative politeness leads to deference, apologizing, indirectness, and formality in language use: we adopt a variety of strategies so as to avoid any threats to the face others are presenting to us.
浅田 (19) は,ドイツ語で神を敬称の Sie ではなく親称の du で呼ぶ慣習について,positive politeness という術語を導入せずに,次のように易しく説明している.
たとえば,こんなふうに考えてはどうでしょう.キリスト教を信じている人は,食事の前や寝る前など,日常生活のいろいろな場面で神様にお祈りをします.何かうまくいかないときや,なやんでいるとき,どうしてもかなえたい希望があるときも,神様にお祈りをします.つまり神様は,人々の日常生活の中にいつでもいて,すぐ身近に感じている存在なのではないでしょうか.いつもそばにいて身近だから,「ドゥー」をつかうのだともいえます.
ということは,ドイツ語では「ドゥー」をつかったからといって,敬意を表わしていないことにはならないのです.親しみの表現と尊敬の表現とはぜんぜん関係がなくて,日本語のように,尊敬の表現をつかうと親しみがなくなってしまうなどということはないのです.親しみのある表現をつかって,なおかつ敬意を表わすことができるのが,ドイツ語なのだといえるのではないでしょうか.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
・ 浅田 秀子 『日本語にはどうして敬語が多いの?』 アリス館,1997年.
「#1559. 出会いと別れの挨拶」 ([2013-08-08-1]) で触れた Goffman の face-work の理論は,近年の語用論や社会言語学で注目される politeness 研究において有望な理論とみなされている.
言語によるコミュニケーションにせよ,その他の社会的な交流にせよ,人は肉体的,精神的なエネルギーを費やしながらそれに従事している.だが,なぜ人はわざわざそのようなことをするのだろうか.社会から課される種々の制限を受け入れてまで,交流を図るのはなぜだろうか.自らの欲求を満たすためにそうするのだというのであれば理解できるが,例えば phatic communion (交感的言語使用)はどのようにして欲求の満足に関係するというのだろうか.アメリカの社会学者 Goffman は,人はみな face という概念をもっており,それを尊重し合うという行為 (face-work) によって社会生活を営んでいると主張した.Goffman (213) の定義によると,face とは次のようなものである.
The term face may be defined as the positive social value a person effectively claims for himself by the line others assume he has taken during a particular contact. Face is an image of self delineated in terms of approved social attributes---albeit an image that others may share, as when a person makes a good showing for his profession or religion by making a good showing for himself.
日本語にも「面目を失う」「面子を重んずる」などの表現があるので face の概念は分かりやすいだろう.英語にも "to lose/save face" という言い方がある.
face-work の理論の骨子は,Hudson (113--14) が以下の通りに述べている.
The basic idea of the theory is this: we lead unavoidably social lives, since we depend on each other, but as far as possible we try to lead our lives without losing our own face. However, our face is a very fragile thing which other people can very easily damage, so we lead our social lives according to the Golden Rule ('Do to others as you would like them to do to you!') by looking after other people's faces in the hope that they will look after ours. . . . Face is something that other people give to us, which is why we have to be so careful to give it to them (unless we consciously choose to insult them, which is exceptional behaviour).
人には自他ともに認める「面子」がある.自分はそれを宣伝し,失わないように努力していると同時に,他人もそれを立て,傷つけないように努力している.これが,face-work の原理だ.
Brown and Levinson の politeness の研究以来,face には positive face と negative face の2種類が区別されると言われる.両者ともに自他の尊重を表わすが,前者はその人への尊重を示すこと,後者はその人の権利を尊重することに対応する.だが,この区別は必ずしも分かりやすいものではない.Hudson は代わりにそれぞれを solidarity-face と power-face と呼びかえている (114) .
Solidarity-face is respect as in I respect you for . . ., i.e. the appreciation and approval that others show for the kind of person we are, for our behaviour, for our values and so on. If something threatens our solidarity-face we feel embarrassment or shame. Power-face is respect as in I respect your right to . . ., which is a 'negative' agreement not to interfere. This is the basis for most formal politeness, such as standing back to let someone else pass. When our power-face is threatened we feel offended. . . . Solidarity-politeness shows respect for the person, whereas power-politeness respects their rights.
親しい者に呼びかける mate, love, darling, Hi! などは solidarity-politeness の例であり,目上の人に呼びかける敬称,please などの丁寧化表現,婉曲語法などは power-politeness の例である.英語に T/V distinction があった時代の親しみの thou と敬いの you は,向きこそ異なれ,いずれも相手の face を尊重する politeness の行為だということになる.
関連して,「#1059. 権力重視から仲間意識重視へ推移してきた T/V distinction」 ([2012-03-21-1]) と「#1552. T/V distinction と face」 ([2013-07-27-1]) の記事,および「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) に張ったリンク先の記事を参照されたい.「顔」についての日本語の読みやすい文献としては,岡本真一郎の『言語の社会心理学 伝えたいことは伝わるのか』の第3章を挙げておこう
・ Goffman, Erving. "On Face-Work: An Analysis of Ritual Elements in Social Interaction." Psychiatry 18 (1955): 213--31.
・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.
・ 岡本 真一郎 『言語の社会心理学 伝えたいことは伝わるのか』 中央公論新社〈中公新書〉,2013年.
言語の重要な機能の1つに,phatic communion (交感的言語使用)がある.情報交換というよりは,相手との関係を構築・維持するための発話で,「波長合わせ」と考えるとわかりやすい.挨拶がその典型であり,用いられる言語形式はたいてい儀式的だが,儀式的というよりは儀式そのものと考えるほうが適切かもしれない.では,なぜ挨拶という儀式は必要なのだろうか.例えば,出会いと別れの挨拶は日常において,任意というよりは必須である.なぜ人々は儀式を演じる必要があるのだろうか.
多くの通常のコミュニケーションでは,まず出会いの挨拶が交わされ,コミュニケーションの本体が続き,別れの挨拶が交わされて終了する.普通,出会いと別れの挨拶はこの順序でセットとして理解されているが,発想を転換して,まず別れの挨拶が交わされ,コミュニケーションの不在が続き,出会いの挨拶が交わされる,と考えてみよう.妙な順序のように思われるが,ここでおもしろい洞察が得られる.コミュニケーションの不在が短いと予想されるとき,例えば明日にも再会するはずの相手との別れの場面では,「じゃあね」「バイバイ」と軽く済ませることが多いが,長い間会うことはないだろうと予想されるとき,例えば海外赴任で向こう3年間会えないかもしれないという場面では,軽く済ませずに,言葉を尽くして別れの挨拶が述べられる.言葉で述べるだけでなく,はなむけの品を用意したり,お別れ会を設定するなどの労を取ることすらある.永遠の別れ(死別)に至っては,残された者は,言語においても行為においても,葬儀という儀式の限りを尽くすのである.
一般に,次に続く不在期間の長さに比例して,別れの挨拶や儀式の長さが増す.同様に,ある期間をおいて次に再会するとき,その不在期間の長さに比例して,出会いの挨拶や儀式の長さが増すということも,誰しも経験から知っている.face-work を理論化した Goffman は,次のように述べている.
Greetings provide a way of showing that a relationship is still what it was at the termination of the previous coparticipation, and, typically, that this relationship involves sufficient suppression of hostility for the participants temporarily to drop their guards and talk. Farewells sum up the effect of the encounter upon the relationship and show what the participants may expect of one another when they next meet. The enthusiasm of greetings compensates for the weakening of the relationship caused by the absence just terminated, while the enthusiasm of farewells compensates the relationship for the harm that is about to be done to it by separation. (229)
長い不在期間中に,相手との間にそれまで構築してきた社会的関係の強さが逓減してゆくことは避けられない.その見込まれる減少分を先に埋め合わせておこうとするのが別れの儀式であり,実際の減少分を後から補おうとするのが再会の儀式なのではないか.言葉による挨拶は,別れと出会いに際する種々の儀式の一部をなす.このような現象は,言語のもつ情報交換以外の役割,すなわち社会的関係を構築・維持する役割を再確認させてくれる点で,広くいえば社会言語学に属する話題といってよいだろう.狭くいえば,言語の社会心理学という分野の話題である.
・ Goffman, Erving. "On Face-Work: An Analysis of Ritual Elements in Social Interaction." Psychiatry 18 (1955): 213--31.
「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) で,T/V distinction の起源に関する Brown and Gilman の古典的な学説を紹介した.Brown and Gilman 以来,ヨーロッパの主要言語以外でも2人称単数に対する呼称の T/V distinction が広く観察されることが知られるようになり,理論においても politeness や face という概念が育ってきたことで,新しい観点からこの問題に迫ることができるようになってきている.
先の記事[2012-05-27-1]でも既に示唆したが,敬称 (V) のもつ本来的な複数性が丁寧と結びつけられるのは,複数性が相手に権力を認めることになるからだとされる.一方で,同じ複数性は,実際には1人である相手への指示の度合いをぼかしたり弱めたりするということにもなる.矛盾する2つの力が働いているのだとすれば,互いに打ち消し合って敬称を用いる効果が減じてしまうように思われるが,これはどう説明されるのか.
一見矛盾する2つの力は,ポライトネス理論の face という観点から無理なく融合させることができる.複数性のもつ,相手に権威を付すという機能は相手の positive face を守る役割としてとらえることができ,指示対象をぼかし,「敬して遠ざく」ことにより敬意と遠慮と示すという複数性の機能は相手の negative face を守る役割としてとらえることができる.両者は方向こそ異なっているが,ともに相手の顔を立てようとしている点で一致している.これを,Hudson (124) は次のように要約している.
Their [Penelope Brown and Stephen Levinson's] explanation is based on the theory of face . . . . By using a plural pronoun for 'you', the speaker protects the other person's power-face in two ways. First, the plural pronoun picks out the other person less directly than the singular form does, because of its ambiguity. The intended reference could, in principle, be some group of people rather than the individual actually targeted. This kind of indirectness is a common strategy for giving the other person an 'out', an alternative interpretation which protects them against any threats to their face which may be in the message. The second effect of using a plural pronoun is to pretend that the person addressed is the representative of a larger group ('you and your group'), which obviously puts them in a position of greater power.
複数性を利用した意味のぼかしが権威付与と敬意に通じるという洞察は,広い言語現象に応用できるように思われる.日本語に多いぼかし表現の例である「?など」や「?みたいな」は,「?」だけではないことを柔らかく示しながらも,「?」に代表としての特別な地位を与えているともいえるのである.
・ Brown, R. W. and A. Gilman. "The Pronouns of Power and Solidarity." Style in Language. Ed. Thomas A. Sebeok. Cambridge, Mass.: MIT P, 1960. 253--76.
・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.
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