英語には Doric という,ギリシア語の Doris (ドーリス地方)に基づく形容詞がある.「ドーリス地方の,ドーリス語の;ドーリス方言」などを原義とする.しかし,Doric には,派生義として「方言の,田舎訛りの;(とりわけ)スコットランド訛りの」もある.スコットランド訛りの英語が Doric と形容されることがあるのだ.さらに細かくいえば,特にスコットランド北東部の方言,Aberdeen の方言などが,典型的に Doric だとされる.この背景には,どんな事情があるのだろうか.
「#1454. ギリシャ語派(印欧語族)」 ([2013-04-20-1]) で触れたように,古代ギリシアの言語の歴史を振り返ると,様々なギリシア語の方言が各地で,そして各ジャンルで用いられていたが,アテネを中心に行なわれ,学術・文学の担い手の言葉となった Attic 方言こそが,後にギリシアのみならずヘレニズム世界へ koiné として広がっていった経緯がある.ここから Doric を含むその他の方言は,社会言語学的に,下位にみなされるようになった.
こうして Doric に宿ることになった「田舎訛り」の語義が,ギリシア語方言に限らず,より一般的に用いられるようになった.そこから今度は英語方言の文脈に特化して,とりわけ「スコットランド訛り」の語義を帯びるようになったのは興味深い.
OED の Doric (ADJECTIVE & NOUN) によると,ギリシア語のドーリス方言を指す名詞用法の派生義として,今では廃義となっているが,近代に使われていものがある.
1.b. † Speech or writing likened to the Doric dialect of ancient Greek for its apparent simplistic, unrefined, antiquated, or rustic character. Obsolete. 1657-1888
このように,ある方言を軽蔑的にみなす名詞・形容詞としての用法が17世紀前半から見られるが,これが英語方言の文脈で「スコットランド訛り」を指すようになったのは,19世紀に入ってからである.まず,「スコットランド訛りの」を意味する形容詞としての用法を覗いてみよう.
1.c. Of or relating to Scots, a variety of English used in (esp. lowland) Scotland (see Scots n. B.1), esp. when regarded as rural or working-class; (now usually) spec. of or relating to the variety of Scots spoken in the north-east of Scotland, esp. Aberdeenshire. 1809-
1809 Were she to stay much in the country, she would acquire some knowledge of our Doric dialect which (I mean in books) is too much neglected by a fastidious generation. (J. Ramsay, Letter 28 September (1966) 263)
1840 The Scottish dialect of low life as first employed in novels by Sir Walter Scott:..it furnished the benefit of a Doric dialect. (T. De Quincey, Style: No. II in Blackwood's Edinburgh Magazine September 398/1)
1933 She has no difficulty in carrying on a conversation, frequently utilising Doric words and phrases. (Scotsman 14 September 10/6)
1993 The North East Scotland Heritage Trust, formed last year to promote the Doric language and culture, is facing an uncertain financial future. (Scotsman 6 April 5)
2023 Flora Garry, one of the most important Doric writers of the 20th Century. (Press & Journal (Aberdeen) (Nexis) 13 September 7)
次に「スコットランド訛り」を意味する名詞としての用法についても,解説と例文を挙げよう.
1.c. Scots (see Scots n. B.1), esp. when regarded as rural or working-class; (now usually) spec. the variety of Scots spoken in the north-east of Scotland, esp. Aberdeenshire. 1832-
1832 He returned thanks in the Doric of his native hills. (Gentleman's Magazine February 159/1)
1870 'My Lord,' commenced John, in his purest Doric..'I wad hae thocht naething o't.' (E. B. Ramsay, Reminiscences of Scottish Life v. 127)
1872 The good doctor dropped into the broadest Doric. (C. Gibbon, For the King vol. I. iii. 22)
1933 He fell readily into the Doric,..using it pithily and with humour. (N. Shepherd, Pass in Grampians iii. 15 in Grampian Quartet (2001))
1966 As one, who has for years fought for the proper recognition of our North-east dialect, the Doric, I welcomed the gesture of the latest report on the problem. (Aberdeen Evening Express 7 September)
2023 A book written and published in Doric by pupils from an Aberdeenshire school has been nominated for this year's Scots Language Awards. (Aberdeen Evening Express (Nexis) 5 September 3)
目下 Aberdeen に滞在しているが,Doric という語を目にしたり耳にしたりする機会がたまにある.
関連して「#5505. 古代ギリシアの方言観」 ([2024-05-23-1]),「#2752. dialect という用語について」 ([2016-11-08-1]) の記事も参照.
よく知られているように,古代ギリシア人はギリシア語以外の言語・民族については「バルバロイ」と蔑視する姿勢を示したが,ギリシア語諸方言についてはどのように見ていたのだろうか.Robins (15) に,古代ギリシアの他言語に対する態度やギリシア語内部の諸方言への眼差しを解説している箇所がある.特に後者を扱っている箇所を引用しよう.
. . . . the Greek designation of alien speakers as bárbaroi (βάρβαροι, whence our word barbarian), i.e. people who speak a language other than Greek, is probably indicative of their attitude.
Quite different was the Greek awareness of their own dialectal divisions. The Greek language in Antiquity was more markedly divided into fairly sharply differentiated dialects than many other languages were. This was due both to the settlement of the Greek-speaking areas by successive waves of invaders, and to the separation into relatively small and independent communities that the mountainous configuration of much of the Greek mainland and the scattered islands of the adjoining seas forced on them. But that these dialects were dialects of a single language and that the possession of this language united the Greeks as a whole people, despite the almost incessant wars waged between the different 'city states' of the Greek world, is attested by at least one historian: Herodotus, in his account of the major achievement of a temporarily united Greece against the invading Persians at the beginning of the fifth century B.C., puts into the mouths of the Greek delegates a statement that among the bonds of unity among the Greeks in resisting the barbarians was 'the whole Greek community, being of one blood and one tongue'.
引用最後のヘロドトス (8.114.2) への言及が興味深い.おそらく古代ギリシア人たちは明確に分かれていたギリシア語諸方言の存在を互いに認識していた.そして,それらを異なる方言とこそ捉えてはいたが,異なる言語とは捉えていなかった.諸方言からなるギリシア語は,ギリシア民族を(ペルシアに対抗して)まとめ上げる役割を果たしていたということだ.
考えてみれば,ギリシア語は dialect という単語を生み出した母体であり,諸方言間を平準化した共通語 (koine) を誇った言語でもあった.関連して,以下の記事も参照されたい.
・ 「#1454. ギリシャ語派(印欧語族)」 ([2013-04-20-1])
・ 「#2752. dialect という用語について」 ([2016-11-08-1])
・ 「#1671. dialect contact, dialect mixture, dialect levelling, koineization」 ([2013-11-23-1])
・ 「#1391. lingua franca (4)」 ([2013-02-16-1])
・ Robins, R. H. A Short History of Linguistics. 4th ed. Longman: London and New York, 1997.
一昨日の hellog 記事「#5291. heldio の「英語史の古典的名著 Baugh and Cable を読む」シリーズが順調に進んでいます」 ([2023-10-22-1]) でもお伝えしましたが,目下 Voicy heldio によるオンライン読書会シリーズに力を入れているところです.ウェブ時代の新スタイルの読書会・勉強会として,とてもおもしろい試みになっているという実感があります.参加者は今のところ20名程度ですが,読んでいる本のサイズを考えると理屈上は向こう数年間にわたって続いていくシリーズ企画ということもあり,これからメンバーがゆっくりと少しずつでも増えていくと楽しそうだなと夢想しています.毎回200円の有料配信ですが,第1チャプターは試聴可能となっています.
最新回は,昨日アップされた上記の「英語史の古典的名著 Baugh and Cable を読む (19) Hellenic」です.毎週1,2回,指定の英語史書をゆっくりと1節ずつ読み進めていくという企画で,7月に開始したばかりなので,昨日ようやく第19節にたどり着いたところです.英語史といえど,まだ英語の歴史に本格的に入る前の段階で,印欧語族を構成する各語派を概説しているところです.その1つがギリシア語派ということになります.
今回はテキストに沿ってあくまで印欧語族のなかのギリシア語派を紹介しているのですが,この語派(とりわけギリシア語そのもの)の英語史上の意義については,さほどお話ししていません.ギリシア語については本ブログで greek の記事群にて多く取り上げてきましたが,ギリシア語の英語史上のエッセンスを箇条書きすれば,次の4点となるでしょうか.
・ 古典ギリシア語は『新訳聖書』の言語である.
・ ギリシア語とギリシア文明は,現代まで続く西洋文明の基礎を形成する.そこから,英語自体が拠って立つのも究極的にはギリシア語とギリシア文明といってよい側面がある.
・ ギリシア語は,ラテン語に多大な影響を与え,ラテン語はフランス語に影響を与え,フランス語は英語に影響を与えてきた.ギリシア語が英語史上重要であるのはこのような事情による.
・ ギリシア語は古代・中世・近現代を通じて,上記の歴史的経緯により汎ヨーロッパ的な威信言語とみなされてきた.現代でもとりわけ学術の分野では,国際的な学名や学術用語は,しばしばギリシア語要素によって作られる (cf. 新古典主義的複合語 (neo-classical compounds)).現代の最たる国際語である英語も,その伝統と要素を多分に受け継いでいる.
ギリシア語に関連した Voicy heldio の配信回としては 「#137. 英語とギリシア語の関係って?」もお聴きください.
なお,今晩19:30~20:00の間に,こちらの Voicy heldio にてゲストを招いての生放送を配信する予定です.その内容は,テキストの次の節「英語史の古典的名著 Baugh and Cable を読む (20) Albanian」を題材とした初の「オンライン読書会生実況中継」(?)となる予定です.今回に関しましては,放送回の概要欄などにテキストも添付しますのでライヴあるいはアーカイヴにてお気軽にお聴きいただければ.
このように一風変わったオンライン読書回シリーズですが,関心のある方はぜひ覗いていただければ.精読しているテキストは,こちらの Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013. です.名著であることは保証します.

「#1447. インド語派(印欧語族)」 ([2013-04-13-1]) と「#1452. イラン語派(印欧語族)」 ([2013-04-18-1]) に続き,印欧語族の語派を紹介するシリーズの第3弾.今回は Baugh and Cable (26--27) を参照して,ギリシャ語派(Hellenic)を紹介する.
ギリシャ語派は,たいていの印欧語系統図では語派レベルの Hellenic 以下に Greek とあるのみで,より細かくは分岐していないことから,比較的孤立した語派であるといえる.歴史時代の曙より,エーゲ海地方は人種と言語のるつぼだった.レムノス島,キプロス島,クレタ島,ギリシャ本土,小アジアからは,印欧語族の碑文や非印欧語族の碑文が混在して見つかっており,複雑な多民族,多言語社会を形作っていたようだ.
紀元前2000年を過ぎた辺りから,このるつぼの中へ,ギリシャ語派の言語の担い手が北から侵入した.この侵入は何度かの波によって徐々に進み,各段階で異なる方言がもたらされたために,ギリシャ本土,エーゲ海の島々,小アジアの沿岸などで諸方言が細かく分布する結果となった.最古の文学上の傑作は,盲目詩人 Homer による紀元前8世紀頃と推定される Illiad と Odyssey である.ギリシャ語には5つの主要方言群が区別される.(1) Ionic 方言は,重要な下位方言である Attic を含むほか,小アジアやエーゲ海の島々に分布した.(2) Aeolic 方言は,北部と北東部に分布,(3) Arcadian-Cyprian 方言は,ペロポネソスとキプロス島に分布した.(4) Doric 方言は,後にペロポネソスの Arcadian を置き換えた.(5) Northwest 方言は,北中部と北西部に分布した.
このうちとりわけ重要なのは Attic 方言である.Attic はアテネの方言として栄え,建築,彫刻,科学,哲学,文学の言語として Pericles (495--29 B.C.) に用いられたほか,Æschulus, Euripides, Sophocles といった悲劇作家,喜劇作家 Aristophanes,歴史家 Herodotus, Thucydides, 雄弁家 Demosthenes,哲学者 Plato, Aristotle によっても用いられた.この威信ある Attic は,4世紀以降,ギリシャ語諸方言の上に君臨する koiné として隆盛を極め,Alexander 大王 (336--23 B.C.) の征服により同方言は小アジア,シリア,メソポタミア,エジプトにおいても国際共通語として根付いた(koiné については,[2013-02-16-1]の記事「#1391. lingua franca (4)」を参照).新約聖書の言語として,また東ローマ帝国のビザンチン文学の言語としても重要である.
現代のギリシャ語諸方言は,上記 koiné の方言化したものである.現在,ギリシャ語は,自然発達した通俗体 (demotic or Romaic) と古代ギリシャ語に範を取った文語体 (Katharevusa) のどちらを公用とするかを巡る社会言語学的な問題を抱えている.
古代ギリシャ語は,英語にも直接,間接に多くの借用語を提供してきた言語であり,現在でも neo-classical compounds (とりわけ科学の分野)や接頭辞,接尾辞を供給し続けている重要な言語である.greek の各記事を参照.

・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.
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