標題の問題に関して「#753. なぜ宗教の言語は古めかしいか」 ([2011-05-20-1]) や「#2417. 文字の保守性と秘匿性」 ([2015-12-09-1]) をはじめ,本ブログでも多く話題にしてきた.文字体系の保守性はいうまでもなく,文字を用いた言語行為,すなわち書き言葉の全体が,話し言葉に比して保守的であることは確かな事実である.だが,なぜそうなのだろうか.答えは様々あるだろうが,本質的な答えを知りたい.
昨日の記事「#2669. 英語と日本語の文法史の潮流」 ([2016-08-17-1]) で参照した森重 (86) に,書き言葉が当該の時代より前の時代の話し言葉を含む傾向が多い理由を論じているくだりがあり,標題を考察する上でおおいにヒントになる.(原文の旧字体は新字体になおしてある.また,太字による強調は引用者によるもの.)
筆録体の口語文は勿論すでに純粋の口頭語そのままではないがなほいはば発音式仮名遣に似て口頭語に近い。これに対して勝義の口語文も一層口頭語そのままではありえず,すでに文字言語としてあるもの,すなはちその口頭語乃至は筆録体の口語文の前時期乃至は前時代の文字言語に近づく。それは,その言語内容の客観的社会的論理的歴史的な対話性が,前時期語前時代語のもつ時期時代を超えた古典的客観性に必然的に結びつくからである。ここに一層客観的社会的論理的歴史的な対話性をもつ言語内容の文語,勝義の文語が成立する。したがってそれは,決してその時期時代の筆録体の口語文乃至は口頭語と著しい懸隔のあるものでは本来ありえない,と同時に,かならず前時期前時代的な古典語をも含む意味において,決してそれらと同一であることができない。たとへば,勝義の口語文において成立し,さらに勝義の文語において成熟する文字文芸や論説がそれである。その優れた作品とせられるものは,筆録体の口語文乃至は口語的な俗と古典的時期時代語的な雅との混淆,乃至は原文の一致においてしばしば完成せられた。それは個々の一個人としての聞手とともに,聴手一般としてのその集合全体者をも満足せしめる言語内容をもち,個人的にして社会的,主観的にして客観的な基盤に立つ。これらこそ本来の優れた意味において歴史にのこるものである。
強調した部分が言わんとしていることは,私の理解によれば以下の通りである.書き言葉は話し言葉と比べて「客観的社会的論理的歴史的」な性質をもつべきものであり,その性質を保ち続けるためには,すでにそのような性質を有することが実践を通じて証明されている既存の書き言葉に範を求めるのが妥当だ,ということである.話し言葉は常に変化を続けているものであるから,前時代から続く範例を重んじる傾向のある書き言葉は,相対的に古く,保守的ということになる.換言すれば,人々は,書き言葉として既に成功しているものを使い続ける傾向があるのだ.このように,書き言葉が保守的である理由は,それが本質的に「客観的社会的論理的歴史的」であるという原点に立ち戻ることにより,よく理解できる.
・ 森重 敏 「文法史の時代区分」『国語学』第22巻,1955年,79--87頁.
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