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translation - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-12-21 12:40

2024-04-26 Fri

#5478. 中英語における職業を表わす by-name とともに現われる定冠詞や前置詞とその脱落 [article][preposition][onomastics][personal_name][name_project][methodology][eme][by-name][latin][french][evidence][translation][me_dialect][sobokunagimon][occupational_term]

 英語の姓には,原則として定冠詞 the の付くものがない.また,前置詞 of を含む名前もほとんどない.この点で,他のいくつかのヨーロッパ諸語とは異なった振る舞いを示す.
 しかし歴史を振り返ると,中英語期には,職業名などの一般名詞に由来する姓は一般名詞として用いられていた頃からの惰性で定冠詞が付く例も皆無ではなかったし,of などの前置詞付きの名前なども普通にあった.中英語期の姓は,しばしばフランス語の姓の慣用に従ったこともあり,それほど特別な振る舞いを示していたわけでもなかったのだ.
 ところが,中英語期の中盤から後半にかけて,地域差もあるようだが,この定冠詞や前置詞が姓から切り落とされるようになってきたという.Fransson (25) の説明を読んでみよう.

   Surnames of occupation and nicknames are usually preceded by the definite article, le (masc.) or la (fem.); the two forms are regularly kept apart in the earlier rolls, but in the 15th century they are often confused. Those names in this book that are preceded by the have all been taken from rolls translated into English, and the has been inserted by the editor instead of le or la. The case is that the hardly ever occurs in the manuscripts; cf the following instances, which show the custom in reality: Rose the regratere 1377 (Langland: Piers Plowman 226). Lucia ye Aukereswoman 1275 1.RH 413 (L. la Aukereswomman ib. 426).
   Sometimes de occurs instead of le; this is due to an error made either by the scribe or the editor. The case is that de has an extensive use in local surnames, e.g. Thom. de Selby. Other prepositions (in, atte, of etc.) are not so common, especially not in early rolls.
   The article, however, is often left out; this is rare in the 12th and 13th centuries, but becomes common in the middle of the 14th century. There is an obvious difference between different parts of England: in the South the article precedes the surname almost regularly during the present period, while in the North it is very often omitted. The final disappearance of le takes place in the latter half of the 14th century; in most counties one rarely finds it after c1375, but in some cases, e.g. in Lancashire, le occurs fairly often as late as c1400. De is often retained some 50 years longer than le: in York it disappears in the early 15th century, in Lancashire it sometimes occurs c1450, while in the South it is regularly dropped at the end of the 14th century.


 歴史的な過程は理解できたが,なぜ定冠詞や前置詞が切り落とされることになったのかには触れられていない.検討すべき素朴な疑問が1つ増えた.名前における前置詞については「#2366. なぜ英語人名の順序は「名+姓」なのか」 ([2015-10-19-1]) で少しく触れたことがある.そちらも参照されたい.

 ・ Fransson, G. Middle English Surnames of Occupation 1100--1350, with an Excursus on Toponymical Surnames. Lund Studies in English 3. Lund: Gleerup, 1935.

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2024-04-22 Mon

#5474. 中英語における職業を表わす by-name の取り扱い (3) --- フランス語形の干渉 [onomastics][personal_name][name_project][methodology][eme][by-name][latin][french][evidence][translation][occupational_term]

 昨日の記事「#5473. 中英語における職業を表わす by-name の取り扱い (2) --- ラテン語形の干渉」 ([2024-04-21-1]) に続き,今回は英語の by-name に対するフランス語形からの干渉について.Fransson (24--25) より引用する.

   Besides in English, surnames also occur very frequently in French; I have made a calculation and found that one third of the surnames of occupation treated in this book is of French origin. The reason for this is to be found in the predominating position that the French language had during this period. French was spoken by all educated people, and English by the lower classes. Those who spoke French had, of course, surnames in French, and probably also used the French forms of English names when speaking with each other. It is possible, too, that those people who spoke English were influenced by this and used the French forms of their names, which, of course, were finer. During this period a large number of French names came into the language, and a great many of these have survived to the present day, whereas the corresponding substantives have often died out.
   There is also another reason, however, for the frequent occurrence of French names; the case is that the scribe often translated English names into French, especially in early rolls. These translations, which are most common in assize rolls, are principally due to the fact that the court proceedings were generally held in French. I have found some instances in which both the English and French forms occur of the same person's surname, e.g.: Humfrey le Syur 1270 Ass 144, H. le Sawyere ib. 139 (So). --- Ric. le Charpentir 1327 SR 211, R. le Wryth 1332 SR 96 (St).


 当時のイングランド人の姓が職業名に基づくものであり,かつそれがフランス語に語源をもつ単語だった場合,その取り扱い方は少なくとも3種類ある.

 (1) 英単語として取り入れられておらず,生粋のフランス単語の使用例である
 (2) 英単語として取り入れられているが,ここではフランス単語の使用例である
 (3) 英単語として取り入れられており,ここでは英単語の使用例である

 (1) であると確信をもって述べるためには,当時の英語文献のどこを探しても,英単語として取り込まれている形跡がないことを示す必要がある.しかし,今後の調査によって英単語として取り込まれている形跡が1例でも見つかれば,確信が揺らぐことになろう.
 (2) か (3) のケースでは,英単語として取り入れられていることは確認できたとしても,当該箇所におけるその単語が,フランス語単語として使用されているのか,あるいは英単語として使用されているのかを判別するのは難しい.というのは,その語形はフランス語の語形かフランス語に由来する語形かであり,いずれにせよきわめて似ているからである.
 職業名に限らず,法律・裁判・税金に関する公的な文書のなかに現われるフランス単語らしきものについては,常にこの問題が生じることに注意しておきたい.今目にしている単語は,フランス単語なのか,あるいはフランス語に由来する英単語なのか.あるいは,その両方であるという答えもあるのか.悩ましい問題である.

 ・ Fransson, G. Middle English Surnames of Occupation 1100--1350, with an Excursus on Toponymical Surnames. Lund Studies in English 3. Lund: Gleerup, 1935.

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2024-04-21 Sun

#5473. 中英語における職業を表わす by-name の取り扱い (2) --- ラテン語形の干渉 [onomastics][personal_name][name_project][methodology][eme][by-name][latin][french][evidence][translation][occupational_term][occupational_term]

 「#5470. 中英語における職業を表わす by-name の取り扱い」 ([2024-04-18-1]) で,英語の by-name の取り扱いの難しさは,ラテン語やフランス語からの干渉にあることを紹介した.今回はラテン語との関わりについて,Fransson (23--24) を引用して事情を解説したい.

   The medieval rolls were written in Latin, and Christian names and surnames were also, when practicable, often translated into Latin. This was especially the case in the early Middle Ages (12--13th cent.), and surnames in English are therefore rarely met with so early. The surnames that appear in Latin are chiefly those names that are in common use, e.g. Carpentarius, Cissor, Cocus, Faber, Fullo, Marescallus, Medicus, Mercator, Molendinarius, Pelliparius, Pistor, Sutor, Tannator, Textor, Tinetor. The surnames, however, that were rare and difficult to translate, e.g. Wirdragher, Chesewright, Heyberare, Geldehirde, generally occur in English, even in early rolls.
   In the 14th century these translations gradually pass out of use, and the native or French form becomes predominant. Thus, for instance, there is a considerable difference between SR [= Lay Subsidy Rolls] 1275 and SR 1327 (Wo); in the former there are a large number of names in Latin, but in the latter there are hardly any translations at all.
   There surnames in Latin seem to have had some influence on the later development; the case is that some of them still exist as surnames, e.g. Faber, Pistor, Sutor.


 初期中英語の公的名簿などはラテン語で書かれることが多かったために,本来は英語の語形としての姓が,しばしばラテン語に翻訳された形で記載されているという複雑な事情がある.英語としての姓を知りたい私のような研究者にとっては,なぜわざわざラテン語に翻訳してくれてしまっているのか,と実に歯がゆい.うまくラテン語に翻訳できないという場合にのみ,運よく英語名がしみ出てきて表面化している,という次第なのだ.
 それが14世紀以降,後期中英語に入ると,ラテン語へ翻訳するという慣習は影を潜め,背後に隠れていた本来の英語名が浮上してくるのだ.私のような研究者にとっては,ニヤニヤせざるを得ない時代となる.
 しかし,安心するのはまだ早い.ラテン語の干渉という問題は解決していくものの,中英語期にはもっとややこしいフランス語の干渉という別の問題があるのだ.この頭の痛い事情については明日の記事で.

 ・ Fransson, G. Middle English Surnames of Occupation 1100--1350, with an Excursus on Toponymical Surnames. Lund Studies in English 3. Lund: Gleerup, 1935.

Referrer (Inside): [2024-04-22-1]

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2022-02-01 Tue

#4663. 「翻訳の不確定性」と「根源的翻訳」 [terminology][philosophy_of_language][translation][semantics]

 「#4657. 翻訳の不確定性」 ([2022-01-26-1]) の補足として,関連の深い根源的翻訳について導入したいと思います.皆さんも一度は考えたことのある思考実験ではないでしょうか.無人島で,まったく異なる言語を母語とする人と2人きりでコミュニケーションを取ることになったら,どんなコミュニケーションになるのか,というあの問題です.言語哲学の分野では,2人の間で交わされる言語行為は根源的翻訳と呼ばれています.
 服部は「翻訳の不確定性」説の基盤にある「根源的翻訳」の思考実験について,次のように論じています (95--97) .

 クワインは,『ことばと対象』という本の中では,別の論拠によって翻訳の不確定性を主張している.それは,言語学者が自分の話す言語とはまったく異質の未知の言語を話す人々の住む社会に初めて遭遇したときに,彼/彼女がその言語をどのように翻訳するか---このような状況での翻訳は根源的翻訳と呼ばれる---という思考実験に基づいたものである.根源的翻訳は現実にはまず存在しない.というのも,現在ではもはやこの地球上のほとんどの地域が調査され,(たとえわずかであっても,また貧弱であっても)そこに住む人々の言語を通訳する人や辞書が存在したりするからである.しかしながら,現実には存在しなくとも,そのような仮想的な状況での翻訳作業がどのように行なわれるかということを考察することは,翻訳とはそもそもいかなるものなのか,ということを考える場合には有用である.
 以下,クワインの思考実験を辿ってみよう.ある日本人の言語学者が未知の言語を話す未知の社会に足を踏み入れたとする.そこで彼/彼女は現地の人と出くわす.折しも,その人の前を一羽のウサギが横切った.すると,それを見たその人は「ガヴァガイ!」と叫んだ.このとき,その言語の学者は,その人は「ウサギだ!」あるいは「ウサギが横切った!」と言ったのだろうと推測し,自分のノートに「カヴァガイ---ウサギ」というメモを残すだろう.これが私たちの通常の翻訳作業ではなかろうか.しかし,そうであるならば,「ウサギ」という表現は「ガヴァガイ」という表現の唯一正しい翻訳とは言えないかもしれない.なぜなら,ウサギを横切るのを見たとき,私たち日本人は「ウサギだ!」あるいは「ウサギが横切った!」と言いたくなるかもしれないが,現地の人もまたそうだとは断言できないからである.彼/彼女らは,たとえば,そのような場合,「ウサギ場面!」とか「ウサギの分離されていない部分!」と言っているのかもしれない.
 この事態は情報が不十分ということから起こっているわけではない.たとえば,どれが「ガヴァガイ!」の正しい翻訳であるかを決めるためにさらに観察を重ねたとしても,何ら事態は改善されないのである.というのは,新たにウサギを横切るのを見,そのとき現地の人が「ガヴァガイ!」と叫ぶのを見るとき,それは,一方の翻訳を支持する人---Aさん---にとっては「ウサギだ!」と訳すべきだということの証拠とされるが,他方の翻訳を支持する人---Bさん---にとっては「ウサギ場面だ!」と訳すべきだということの証拠とされるからである.
 「一羽の」の訳すべき現地語---それを「M」としよう---と「ガヴァガイ」が組み合わされて使用されるのを観察すれば,「ガヴァガイ」が(「ウサギ場面」ではなく)「ウサギ」と訳されるべきことであることがわかる,と言われるかもしれない.しかし,そのためめには「M」が「一羽の」と訳されるとういことが確定していなければならない.ところが,その M の翻訳においても,「ガヴァガイ」と同じように,複数の翻訳がありうる.つまり,「M ガヴァガイ」は A さんにとっては「一羽のウサギ」と訳されるべきかもしれないが,B さんにとっては「ウサギ場面」という表現を含むかなり複雑な表現に翻訳されるべきかもしれないのであり,このいずれが正しいのかを何らかの観察によって決めることはできないのである.
 以上の点は次のようにまとめることができる.すなわち,

「ある言語を別の言語に翻訳するための手引きには,種々の異なるものがありえ,しかも,いずれの手引きも言語性向全体とは両立するものの,それらの手引きどうしは互いに両立しえないということがありうる」.


 同床異夢と言いましょうか,よくおじいちゃんとおばあちゃんの会話などで,はたから聞いていると明らかにかみ合っていないのに,本人たちは互いにコミュニケーションが取れていると思い込んでいるように見えるケースがありますが,あれに近いのでしょうかね.
 「ガヴァガイ」問題については,心理言語学の観点から「#920. The Gavagai problem」 ([2011-11-03-1]) でも論じていますので,そちらも補足としてご覧ください.

 ・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.

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2022-01-26 Wed

#4657. 翻訳の不確定性 [philosophy_of_language][translation][semantics][terminology]

 意味は存在するのか,という言語哲学 (philosophy_of_language) 上の問題がある.素人考えでは,もちろん存在していると思うわけだが,犬や石が存在するのと同じように存在しているのかと問われると自信がなくなってくる.(普通の感覚では)犬や石は確かに客観的に存在しているように思われる.しかし,意味も同じような客観性をもって存在しているといえるのだろうか.意味とは,存在するにしても,あくまで主観的にのみ存在しているものなのではないか.もしそうだとすると,つまり客観的な意味というものが存在しないとすると,驚くべき結論が導かれることになる.ここからは,服部 (94--95) を引用しよう.

もし客観的対象としての意味が存在しないとしてみよう.すると,「正しい翻訳が唯一定まる」ということが意味をなさなくなるのである.この点を以下で説明しよう.
 翻訳とは,異なる言語の間で意味が同じ表現同士を対応させることである.私たちは通常,客観的対象としての意味が存在すると考えていて,一方の言語に属する表現 A がある場合,それが表す意味 m があって,その m を表すもう一方の言語に属する表現 B (があればそれ)を A に対応させると,A は正しく(B に)翻訳された,と考えてはいないだろうか.もし m を表さない表現 C を A に対応させれば,その翻訳は誤りとされるのである〔後略〕.
 ところが,〔中略〕m や n に相当するものが存在しないとすれば,どのようにして B が A の正しい翻訳であり,C はそうでないと主張したらよいのだろうか.さまざまな会話状況において円滑なやりとりが可能となるかどうか,といったことを目安に「翻訳の正しさ」を決めるということはありうるが,そのような基準をとったときに正しい翻訳が唯一定まる保証はどこにもない.かくして,翻訳の不確定性が生じることになる.


 これは,アメリカの哲学者 Willard van Orman Quine (1908--2000) が Word and Object (1960) で主張した翻訳の不確定性 (indeterminacy of translation) と呼ばれる現象を,かみ砕いて説明したものである.翻訳の不確定性を巡っては,生成文法を唱えた Noam Chomsky (1928--) との間で後に論争が繰り広げられたこともよく知られている.
 関連して「#920. The Gavagai problem」 ([2011-11-03-1]) を参照.

 ・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.

Referrer (Inside): [2022-02-01-1]

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2018-10-22 Mon

#3465. 知的対決としての翻訳 [translation][contact][philosophy_of_language]

 デカルトは『方法序説』を土着語たるフランス語で書いた.母語によって哲学できるということは,革命的な意味をもつ.以下,施 (pp. 61--62) から引く.

 哲学者の長谷川三千子は,デカルトらの近代哲学の始祖たちが「土着語」で哲学するようになったことの意義について,さらに踏み込んだ指摘をいくつか行っている.
 一つは,デカルトら哲学者が行ったラテン語やギリシャ語から「土着語」への翻訳とは,単に外来の語彙や概念をその土地の文脈に移し替えただけではないということである.翻訳作業とは,翻訳される言語と翻訳先の言語との間で綿密な概念の突き合わせが行われ,双方とも厳しい知的吟味にさらされる過程である.長谷川氏は,翻訳先の言語の文化は,翻訳元の文化との言わば知的対決を行うことになり,そのなかで自己認識を獲得し,深め,活性化されていくと指摘する.まさにその通りだ.外来の語彙や概念が触媒となり,土着の文脈が活性化され,発展し,多様化していくのである.


 昨今,英語教育を巡る議論が盛んだが,他言語を学ぶことの本質的な意義について,上のような文章からインスピレーションを得たい.言語と言語のインターフェースというのは,「翻訳」という言葉から連想されるかもしれない穏やかな架け橋などではなく,激しい知的戦いの場なのだ.ここでは,どのくらい精妙なすりあわせをしているかが重要なのであり,一つひとつの単語の置き換えこそが,いちいちに決然たる知的対決というべき戦いなのである.
 このことは,私自身が2017年に Simon Horobin 著 Does Spelling Matter? を『スペリングの英語史』として訳出したときに,身にしみて体感した.日英語間で容易に置き換えられないものを強引に置き換えなければいけないというときに感じる限界,濁し,諦念,ムリヤリ感は,実に苦しい.翻訳というのは言語接触の戦場である.言語接触 (contact) に関心をもつ者として,生々しいほどの現場である.

 ・ 施 光恒 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 集英社〈集英社新書〉,2015年.

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2011-11-03 Thu

#920. The Gavagai problem [psycholinguistics][language_acquisition][mental_lexicon][philosophy_of_language][translation]

 人はどのようにして多くの語を記憶語彙 (mental lexicon) へ蓄積してゆくのか,という問題は言語習得 (language acquisition) の分野における大きな問題である.大人になるにつれ音韻,形態,統語の規則の習得能力は落ちて行くと考えられているが,語彙の習得能力は維持されるという.子供にせよ大人にせよ,新しい語彙をどのように習得してゆくのか.意識的な語彙学習は別として,日常生活のなかでの語彙習得については,いまだに謎が多い.
 哲学者 W. O. Quine が議論した以下のような状況に言及して,心理言語学者が the Gavagai problem と称している語彙習得上の問題がある.

Picture yourself on a safari with a guide who does not speak English. All of a sudden, a large brown rabbit runs across a field some distance from you. The guide points and says "gavagai!" What does he mean? / One possibility is, of course, that he's giving you his word for 'rabbit'. But why couldn't he be saying something like "There goes a rabbit running across the field"? or perhaps "a brown one," or "Watch out!," or even "Those are really tasty!"? How do you know? / In other words, there may be so much going on in our immediate environment that an act of pointing while saying a word, phrase, or sentence will not determine clearly what the speaker intends his utterance to refer to. (Lieber 16)


 普通であれば,上記の場合には gavagai をウサギと解釈するのが自然のように思われるが,この直感的な「自然さ」はどこから来るものだろうか.心理言語学者は,人は語彙習得に関するいくつかの原則をもっていると仮定する (Lieber 17--18) .

 (1) Lexical Contrast Principle: 既知のモノに混じって未知のモノが目の前にあり,未知の語が発せらるのを聞くとき,言語学習者はその未知のモノとその未知の語を結びつける.
 (2) Whole Object Principle: 未知の語を未知のモノと結びつけるとき,言語学習者はその語をその未知のモノ全体を指示するものとして解釈する.未知のモノの一部,一種,色,形などを指示するものとしては解釈しない.
 (3) Mutual Exclusivity Principle: 既知のモノだけが目の前にあり,未知の語が発せられるのを聞くとき,言語学習者は周囲に未知のモノを探してそれと結びつけるか,あるいは既知のモノの一部や一種を指示するものとして解釈する.

 この仮説は多くの実験によって支持されている.現実には稀に the Gavagai problem が生じるとしても,上記のような戦略的原則を最優先させることによって,我々は多くの語彙を習得しているのである.確かに,このような効率的な戦略がなければ,言語学習者は数万という語彙を習得できるはずもないだろう.

 ・ Lieber, Rochelle. Introducing Morphology. Cambridge: CUP, 2010.

Referrer (Inside): [2022-02-01-1] [2022-01-26-1]

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