hellog〜英語史ブログ

#765. 補充法は古代人の実相的・質的・単一的な観念の表現か[suppletion]

2011-06-01

 昨日の記事「現代英語動詞活用の3つの分類法」([2011-05-31-1]) で参照した小林論文は補充法に関する考察だが,speculative ながらその結論がたいへん興味深い.ゲルマン諸語と古典語からの補充法の例を考察したあとで,小林 (47--48) は次のように述べている(原文の圏点は,ここでは太字にしてある).

 このやうな現象は、それでは一體如何なる心理的事情に基いて發生したものであらうか。
 以上引照した諸例は、それらが最も日常茶版的な、從つて使用されることの最も頻繁な語に屬するといふことを示してゐる。言換へれば、補充法によつて表現される觀念は、我々に最も親しいものばかりである。このとが我々の心理的解釋に對して鍵を與へる。
「人間は肉眼を以て物を見るときは、いつも空間的に手近な物が特に細かく眼に映るものであるが、それと同じく、心眼を以て物を見るときも――言語はその鏡であるが――表象界の事物を、それが話手の感覺と思惟に近ければ近い程一層細かく一層個別的に把握するものである」(オストホフ四二頁)。
 原始人にあつては、見るということと見たといふことと見るだらうといふこととは、質的に異つた三つの樣相であつたのであつて、それらは實踐的價値を異にしてゐた。見たといふことは、單に見るといふ行爲が過去に行はれたことを囘想するものではなくて、見たことは知得したことである。見たは即ち今知つてゐることを意味するのである。また善いこととより善いこととは、單に善さの量的段階ではなかつた。他人がより善いとは、彼が我に優ることである。それは我の存立を或は脅かし或は助けたであらう。また行動主を示す名格と、他者の行動を被る者を示す所の對格、與格等、いはゆる斜格とは、同一類に屬すべきものではなかつた。なかんづく代名詞の第一人稱に於てこの區別が必須であつた。我がなすときと我をなすときとでは、話手の關心の度合は全然別であつたのである。直系親族に於て異根的表現が用ひられ、傍系親族にあつては同根的表現が用ひられるやうな事例も(參考、vater : mutter. これに對して neffe : nichte )同樣にして説明が付く。或は又、數詞に於て、「三――第三」以上は大體に於て純正資料的に算へられてをりながら、「一――第一」、「二――第二」の二つのみは補充的に算へられる。なぜであるか。第一は物の始めである。一切の先端に位するものである。かくして「最も始め」(最上級)を意味する語形が要求される( first, prôtus, prīmus )。第二は第一に續くものである。或はそれから隔るものである。かくして比較級形が要求される( deúteros, secundus )。
 之を要するに、原始人は物を質的に、個別的に、そして實踐的價値に基いて見たのである。之に反して文明人は物を量的に、總括的に、そして論物的價値に基いて見るのを特徴とする。言語の發展は具體的表象の世界から抽象的概念の世界への移行を如實に示してゐる。イェスペルセンは彼らは「これらの觀念に共通なるものを表現する力を缺いてゐた」(「言語」四二六)と見てゐるが、力を缺いてゐたのではなくて、恐らく興味を缺いていたのではあるまいか、サピアなどもさう見てゐるやうである。つまりは遠近法の相違である。


 古代人の実相的・質的・単一的な発想という論題は speculative であり,実証はできないものの,文明史的な含蓄をもつ話題としておもしろい.

 ・ 小林 英夫 「補充法について」 『英語英文学論叢』7巻(廣島文理科大學英語英文學論叢編輯室編),1935年,39--49頁,1935年.

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#1580. 補充法研究の限界と可能性[suppletion][analogy][arbitrariness][frequency][taboo][preterite-present_verb]

2013-08-24

 補充法 (suppletion) は広く関心をもたれる言語の話題である.go -- went -- gone, be -- is -- am -- are -- was -- were -- been, good -- better -- best, bad -- worse -- worst, first -- second -- third など,なぜ同一体系のなかに異なる語幹が現われるのか不思議である.言語における不規則性の極みのように思われるから,とりわけ学習者の目にとまりやすい.
 しかし,専門の言語学においては,補充法への関心は必ずしも高くない.補充法を掘り下げて研究することには限界があると感じられているからだろう.その理由としては,(1) 単発であること,(2) 形態的に不規則で分析不可能であること,(3) 範列的な圧力 (paradigmatic pressure) から独立しており,形態的な類推 (analogy) が関与しないこと,などが挙げられる.つまり,個々の補充形は,文法のなかで体系的に扱うことができず,語彙項目として個別に登録されているにすぎないものと理解されている.一般にある語がなぜその形態を取っているのかが恣意的 (arbitrary) であるのと同様に,補充形がなぜその形態なのかも恣意的であり,より深く掘り下げられる種類の問題ではないということだろう.補充法の特徴を何かあぶりだせるとすれば,一握りの極めて高頻度の語にしか見られないということくらいである.
 Hogg は,一見すると矛盾するように思われる "Regular Suppletion" という題名を掲げて,補充法研究の限界を打ち破り,可能性を開こうとした.補充法は,形態理論の研究に重要な意味をもつという.Hogg は,英語史からの補充法の例により,次の4点を論じている.
 1つ目は,"the replacement of one suppletion by another" の例がみられることである.すでに古英語では yfel -- wyrsa -- wyrsta の補充法の比較が行なわれていたが,中英語では原級の語幹が入れ替わり,現代英語の bad -- worse -- worst へと至った.現在では,前者は evil -- more evil -- most evil となっている.yfel は極めて一般的な語義「悪い」を失い,宗教的な語義へ転じていったことにより,worse -- worst に対応する原級の地位を失い,後から一般的な語義を獲得した bad に席を譲ったということになる.Hogg は,古英語 *bæd はタブーだったために文証されていないだけであり,実際には14--18世紀に文証される badder -- baddest とともに,規則的な比較変化を示していたはずだと推測している (72) .あくまで仮説ではあるが,evilbad について,比較級変化は以下のような歴史的変化を経ただろうとしている (72) .

evilworseworse, more evilmore evil
badbadderworse, badderworse


 2つ目は,"the preference for suppletion over regularity" であり,go -- went に例をみることができる."to go" の補充過去形として古英語 ēode が中英語 went に置き換えられたことはよく知られている.それによって went の本来の現在形 wendwended という規則的な過去形を獲得したことが,英語史上も話題になっている.went の例で重要なのは,規則形よりも補充形が好まれるという補充法の傾向を示すものではないかということだ.ただし,北部方言やスコットランド方言では,別途,規則形 gaidgaed が生み出されたという事実もある.
 3つ目は,"the addition of regularity without disturbance of the suppletion" である.古英語 bēon の3人称複数現在形の1つ syndon は,印欧祖語 *-es からの歴史的な発展形である syndsynt という補充形に,過去現在動詞 (preterite-present_verb) の現在複数屈折語尾 -on を加えたものである.本来的に形態的類推を寄せつけないはずの語幹に,形態的類推による屈折語尾を付加した興味深い例である.これは,上で触れた (2), (3) の反例を提供する.
 4つ目は,"the creation of a new regular inflection on the basis of suppletion" である.古英語 bēon の1人称現在単数形の1つ (e)am は,Anglia 方言では語尾 -m の類推により非歴史的な bīom を生み出した.同方言ではこれが一般動詞に及び,非歴史的な1人称現在単数形 flēom (I flee) や sēom (I see) をも生み出すことになった.本来,補充形の内部にあって分析されないはずの -m がいまや形態素化したことになる.
 Hogg (80--81) は,以上のように補充法の語彙的,形態的な注目点を明らかにしたうえで,"[S]uppletion is not merely a linguistic freak which does no more than give a small amount of pleasure to a rather giggling schoolboy. . . . [S]uppletion is a dynamic process." と述べ,補充法研究の可能性を探りながら,論文を閉じている.

 ・ Hogg, Richard. "Regular Suppletion." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 71--81.

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#1585. 閉鎖的な共同体の言語は複雑性を増すか[suppletion][social_network][sociolinguistics][language_change][contact][accommodation_theory][language_change]

2013-08-29

 Ross (179) によると,言語共同体を開放・閉鎖の度合いと内部的な絆の強さにより分類すると,(1) closed and tightknit, (2) open and tightknit, (3) open and tightloose の3つに分けられる(なお,closed and tightloose の組み合わせは想像しにくいので省く).(1) のような閉ざされた狭い言語共同体では,他の言語共同体との接触が最小限であるために,共時的にも通時的にも言語の様相が特異であることが多い.
 閉鎖性の強い共同体の言語の代表として,しばしば Icelandic が取り上げられる.本ブログでも,「#430. 言語変化を阻害する要因」 ([2010-07-01-1]), 「#903. 借用の多い言語と少ない言語」 ([2011-10-17-1]), 「#927. ゲルマン語の屈折の衰退と地政学」 ([2011-11-10-1]) などで話題にしてきた.Icelandic はゲルマン諸語のなかでも古い言語項目をよく保っているといわれる.social_network の理論によると,アイスランドのような,成員どうしが強い絆で結ばれている,閉鎖された共同体では,言語変化が生じにくく保守的な言語を残す傾向があるとされる.しかし,そのような共同体でも完全に閉鎖されているわけではないし,言語変化が皆無なわけではない.
 では,比較的閉鎖された共同体に起こる言語変化とはどのようなものか.Papua New Guinea 島嶼部の諸言語の研究者たちによると,閉鎖された共同体では,言語変化は複雑化する方向に,また周辺の諸言語との差を際立たせる方向に生じることが多いという (Ross 181) .具体的には異形態 (allomorphy) や補充法 (suppletion) の増加などにより言語の不規則性が増し,部外者にとって理解することが難しくなる.そして,そのような不規則性は,かえって共同体内の絆を強める方向に作用する.このことは「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) で引き合いに出した accommodation_theory の考え方とも一致するだろう.補充法の問題への切り口として注目したい.
 閉鎖された共同体の言語における複雑化の過程は,Thurston という学者により "esoterogeny" と名付けられている.この過程に関して,Ross (182) の問題提起の一節を引用しよう.

In a sense, these processes, which Thurston labels 'esoterogeny', are hardly a form of contact-induced change, but rather its converse, a reaction against other lects. However, as they are conceived by Thurston their prerequisite is at least minimal contact with another community speaking a related lect from which speakers of the esoteric lect are seeking to distance themselves. Thurston's conceptions raises an interesting question: if a community is small, and closed simply because it is totally isolated from other communities, will its lect accumulate complexities anyway, or is the accumulation of complexity really spurred on by the presence of another community to react against? I am not sure of the answer to this question.


 "esoterogeny" の仮説が含意するのは,逆のケース,すなわち開かれた共同体では,言語変化はむしろ単純化する方向に生じるということだ.関連して,古英語と古ノルド語の接触による言語の単純化について「#928. 屈折の neutralization と simplification」 ([2011-11-11-1]) を参照されたい.

 ・ Ross, Malcolm. "Diagnosing Prehistoric Language Contact." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 174--98.

Referrer (Inside): [2022-12-02-1] [2018-08-23-1]

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