ここ20年くらいの間に言語の起源と進化を探る研究が活発化してきた背景については,[2010-09-24-1], [2010-01-04-1], [2010-07-02-1]などで述べてきた.私自身はこの分野に詳しいわけではないが,ことばの起源,進化,変化という,時間軸を前提としたキーワードを考えれば,英語史や歴史言語学と関連しないはずはなく,関心はもっていた.そこへ,今年の6月に近年の言語の起源・進化に関する研究がまとめられた本が出た.池内正幸氏による『ひとのことばの起源と進化』である.興味を抱いたので読んでみたら,いや,おもしろい.非常に平易に書かれていながら,この分野の最先端の知見と動向が盛り込まれており,読み終わったときにはこんなにエキサイティングな分野なのかと目が開かれた感じである.なるほど言語をこれくらい広い視野で眺めようとすれば,言語学の細分化された分野で研究する際にも大きな見方が可能になるのかもしれないなと思わせた.
この研究分野を何と称するかはまだ決まっていないようで,著者も「ことばの起源と進化の研究」と言っている.今後注目してゆくにあたって,この分野の「困った特徴」が2点挙げられていたのでまとめておきたい (pp. 85--87) .
(1) 言語の起源と進化のプロセスは,地球や人間の長い歴史のある時点で1回だけ起こったことであり,現在において観察することができない.この点で古生物学の研究と類似する問題を抱えているが,古生物学の場合には化石という形で物的証拠が残る.ところが言語の場合には物的証拠というものがない(言語の起源と進化の痕跡がヒトの DNA のなかに物質として埋め込まれていることが判明すれば別だが).客観的な物質に基づいていないのだから,何らかの仮説や理論が提出されても,それはどこまでいってもも推測の域を出ない.せめてなし得ることは,様々な領域の研究結果を総合して「どの程度総合的に妥当な説明が与えられるか」という妥当性 ( plausibility ) を少しずつ上げてゆくことである.科学として強気に出られないところが弱点ということだろう.
(2) この分野は単に学際的なのではなく「超」学際的である.「超」がつくために領域間の共通理解が進みにくいという問題がある.学際的であるということはエキサイティングであるということだが,あまりに広い領域を包み込んでいるので「共通語」が育ちにくいという事情があるようだ.言語の起源と進化の研究に関連しうる既存する学問分野を挙げればきりがない.例えば「言語学,進化学,生物学,心理学,言語獲得,生態学,動物行動学,考古学,遺伝学,脳神経科学,コンピューター・モデリング等々」.ここには英語史や歴史言語学の分野も鋭く切り込んでゆける(はずである).
上の2点において,言語の起源と進化の研究はしばしば比較される古生物学とは様相が異なっているということだ.
・ 池内 正幸 『ひとのことばの起源と進化』 〈開拓社 言語・文化選書19〉,2010年.
よく知られているように,ヒトの言語の発音器官 ( speech organ ) は言語のために進化してきたわけではない.いずれも主たる機能は生存のための生理的機能である.調音機能はあくまで副次的なものであり,だからこそヒトの言語の獲得は余計に不思議に思われるのである.
以下は O'Grady (2) より,発音器官の2重機能(生理機能と発音機能)を示す表である.
Organ | Survival function | Speech function |
---|---|---|
Lungs | to exchange CO2 and oxygen | to supply air for speech |
Vocal cords | to create seal over passage to lungs | to produce vibrations for speech sounds |
Tongue | to move food to teeth and back into throat | to articulate vowels and consonants |
Teeth | to break up food | to provide place of articulation for consonants |
Lips | to seal oral cavity | to articulate vowels and consonants |
Nose | to assist in breathing | to provide nasal resonance during speech |
「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1]),「#751. 地球46億年のあゆみのなかでの人類と言語」 ([2011-05-18-1]) の記事で言語の起源と進化の年表を示したが,コムリー他編の『新訂世界言語文化図鑑 世界の言語の起源と伝播』 (17) より,もう1つの言語年表を示す.
50,000 BC | アフリカからの人類の出現(最新の推定年代) | |
45,000 BC | ||
オーストラリアへの移動 | ||
40,000 BC | ホモ・サピエンス:言語形態の存在を示唆する複雑な行動様式(物的証拠の存在) | |
35,000 BC | ||
30,000 BC | ネアンデルタール人の死滅:最も原始的な言語形態 | |
25,000 BC | ||
20,000 BC | ||
15,000 BC | 言語の多様性のピーク(推定):10,000?15,000言語 | |
最終氷河期の終わり;ユーラシア語族の拡大 | ||
新世界への移動第一波:アメリンド語族 | ||
10,000 BC | ||
新世界への移動第二波:ナ・デネ語族 | ||
5,000 BC | オーストロネシア語族の拡大;台湾への移動 | |
インド・ヨーロッパ祖語 | ||
インド・ヨーロッパ語族の最古の記録:ヒッタイト語,サンスクリット語 | ||
0 | 古典言語:古代ギリシャ語,ラテン語 | |
500 | ロマンス語派,ゲルマン語派の発生;古英語 | |
1000 | ||
1500 | 植民地時代;ピジンとクレオールの発生;標準言語の拡がり;言語消滅の加速化 | |
2000 |
50,000 BC | アフリカからの人類の出現(最新の推定年代) | |
45,000 BC | ||
オーストラリアへの移動 | ||
40,000 BC | ホモ・サピエンス:言語形態の存在を示唆する複雑な行動様式(物的証拠の存在) | |
35,000 BC | ||
30,000 BC | ネアンデルタール人の死滅:最も原始的な言語形態 | |
25,000 BC | ||
20,000 BC | ||
15,000 BC | 言語の多様性のピーク(推定):10,000?15,000言語 | |
最終氷河期の終わり;ユーラシア語族の拡大 | ||
新世界への移動第一波:アメリンド語族 | ||
10,000 BC | ||
新世界への移動第二波:ナ・デネ語族 | ||
5,000 BC | オーストロネシア語族の拡大;台湾への移動 | |
インド・ヨーロッパ祖語 | ||
インド・ヨーロッパ語族の最古の記録:ヒッタイト語,サンスクリット語 | ||
0 | 古典言語:古代ギリシャ語,ラテン語 | |
500 | ロマンス語派,ゲルマン語派の発生;古英語 | |
1000 | ||
1500 | 植民地時代;ピジンとクレオールの発生;標準言語の拡がり;言語消滅の加速化 | |
2000 |