hellog〜英語史ブログ

#1926. 日本人≠日本語母語話者[terminology][sociolinguistics]

2014-08-05

 日本語や英語などについて言語学的な話をしているときに,「日本人は?」「イギリス人は?」「アメリカ人は?」という言い方がなされることがある.厳密には「日本語母語話者は?」「イギリス(変種の)英語母語話者は?」「アメリカ(変種の)英語母語話者は?」というべきところだが,長ったらしいのでそのように簡便に言うのである.しかし,以上のことを了解していたとしても,私はそのようなショートカットはできるだけ用いるべきではないと考えている.
 その理由は,「日本人は?」の類いは,その個人の国籍(あるいはさらに緩く民族)を問題にしている言い方であって,話す言語,とりわけ母語を問題としているものではないからだ.移民のように,国籍は日本人であっても母語が日本語以外であるという人はいるし,逆に母語は日本語でも国籍は日本にない人もいる.言語の話をする限り,「日本人」ではなく「日本語(母語)話者」という(残念ながら長ったらしい)表現を使うのが厳密だろう.ましてや,「英語母語話者」というべきところを「アメリカ人」で代表させるようなカジュアルな言い方は,何重もの誤解を含んでいる(あるいは誤解を招く)表現であり,避けたいと思っている.民族,国籍,言語は当然ながら互いに関連することも多く,社会言語学はまさにその関係を究明しようとしているのだが,一方で原則としてそれらを別々のパラメータとしてみることが社会言語学では常識となっている.この点で,私は小松 (14) の見解に賛成する.

日本語話者……○日本語を日常的に使う環境で育ち、日本語を自然に身につけた人たち、すなわち、日本語のネイティヴスピーカー(生得話者、native speakers)をさす。○日本語話者の大多数は日本国籍であるが、日本に定住している外国籍の人たちにも日本語話者はたくさんいる。○このような文章は、「日本人なら?」というように書き始めるのが常識になっているが、言語に関して日本人という排他的用語を使用すべきではない。○それと同じ理由で、母国語という用語も好ましくない。国籍にかかわらず、日本語話者にとって日本語は母語(native language、mother tongue)である。英語を母語とする人たちはイギリス人だけではないし、カナダ人やスイス人に母国語はない。このような用語に最新の注意を払うことが、グローバルに日本語を位置づけて考えるための第一歩である。


 関連するもう1つの問題として,厳密にいえば「?語母語話者」という長いほうの言い方ですら,注意を要することに触れておく.この件については,「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]) を参照されたい.
 上記から明らかなように,言語,及びそれを話す個人・集団を論じる言語学という分野にとっては致命的なことに,使いやすい適当な日本語表現がないのである.「日本語母語話者」や「英語母語話者」はあまりに長ったらしい言い方なので,私自身繰り返して発するのに辟易することもあり,なんとか便利な用語を作り出そうと思案してみるのだが,「日本語者」や「日本語人」は馴染まないし,英語で "L1 Japanese Speakers" というのも,むしろなおさら長い.「#1539. ethnie」 ([2013-07-14-1]) で示唆したように,「日本語エスニー」などと呼んでみるのは一案かもしれないと思っているが,モーラ数では特に短くなっていない.難しい.

 ・ 小松 秀雄 『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』 笠間書院,2001年.

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#1537. 「母語」にまつわる3つの問題[sociolinguistics][terminology][linguistic_right]

2013-07-12

 「母語」は言語学の専門用語というわけではないが,一般にも言語学にも広く使われている.英語で "mother tongue", フランス語で "langue maternelle", ドイツ語で "Muttersprache" であり,「母の言語」という言い方は同じである.典型的に母親から習得する,話者にとっての第1言語のことであり,自明な呼称のように思われるかもしれない.だが,「母語」という用語にはいくつかの問題が含まれている.すでに定着している用語であり,使うのを控えるというのも難しいが,問題点を指摘しておくことは重要だろう.
 1つ目は,用語にまつわる表面的な問題である.母から伝承される言語というイメージは情緒的ではあるが,現実には母以外から言語を聞き知る例はいくらでもある.母とはあくまで養育者の代名詞であるという議論は受け入れるとしても,「#1495. 驚くべき北西アマゾン文化圏の multilingualism」 ([2013-05-31-1]) で示したように,社会制度として父の言語が第1言語となるような文化も存在する.この場合には,むしろ「父語」の呼称がふさわしい.
 2つ目は,母語の定義についてである.上でも第1言語という代替表現を用いたが,これが含意するのは,母語とは話者が最初に習得した言語を指すということである.ほとんどの場合,この定義でうまくいくだろうが,習得順序によって定まる母語と心理的実在としての母語とが一致しないケースがまれにあるかもしれない.ブルトン (34--35) による以下の文章を参照.

国家が国勢調査を実施するために与えている多様な〔母語の〕定義は,時間的先行性と心理的内在性という2つの規準のあいだを行きつ戻りつするためらいを反映している.前者の定義はつまり,母語は最初の言語であるということであり,後者は,人が話し続け,なかんずくその中で思考する言語が,母語であるというわけである.幼年期,とくに第一幼年期において習得されるということが,客観的諸条件の中では一般に最も重要とされている(インド,メキシコ,フィリピン,カナダ,モーリシャスなど).しかし多言語使用の根強い伝統をもつスイスのような国は,母語とは自分が一番よくわかっていると信じかつそれで思考する言語だということを,正確に示している.いかなる定義を採用しようとも,母語を母語たらしめている本質的に重要な価値と,母語が個人の社会文化的帰属に関して重要な指標であることについては,一般に見解の一致を見ている.


 3つ目に,本質的に話者個人の属性としての母語が,用語として社会的な文脈に現われるとき,ほとんど気付かれることなく,その意味内容が社会化され,ゆがめられてしまうという問題がある.例えば,UNESCO 1953 は,次のように述べて,母語での教育の機会を擁護している.

On educational grounds we recommend that the use of the mother tongue be extended to as late a stage in education as possible. In particular, pupils should begin their schooling through the medium of the mother tongue, because they understand it best and because to begin their school life in the mother tongue will make the break between home and school as small as possible.


 意図として良心的であり,趣旨には賛成である.しかし,"the mother tongue" という用語が教育という社会的な文脈で用いられることにより,本来的に話者個人と結びつけられていたはずの問題が,社会問題へとすり替えられえいるように思われる.
 話者個人にとって母語というものが紛れもない心理的実在だとしても,その言語が社会的に独立した言語として認知されているかどうかは別問題である.例えば,その言語が威信ある言語の1方言として位置づけられているにすぎず,独立した言語として名前が与えられていない可能性がある.その場合には,その話者は母語での教育の機会を与えられることはないだろう.また,話者本人が自らの言語を申告する際に,母語を申告しない可能性もある.Romain (37) によれば,イギリスにおいて,家庭で普段 Panjabi を話すパキスタン系の人々は,自らは Panjabi の話者ではなく,パキスタンの国語である Urdu の話者であると申告するという.ここには故国の政治的,宗教的な要因が絡んでいる.
 母語を究極的に個人の属性として,すなわち個人語 (idiolect) として解釈するのであれば,母語での教育とは話者の数だけ種類があることになる.しかし,そのように教育を施すことは非現実的だろう.一方で,ある程度抽象化した言語変種 (variety) として捉えるのであれば,その変種は言語なのか方言なのかという,例の頭の痛い社会言語学的な問題に逆戻りしてしまう.社会的な文脈で用いられた母語という用語は,すでに社会化された意味内容をもってしまっているのである.

 ・ ロラン・ブルトン 著,田辺 裕・中俣 均 訳 『言語の地理学』 白水社〈文庫クセジュ〉,1988年.
 ・ Romain, Suzanne. Language in Society: An Introduction to Sociolinguistics. 2nd ed. Oxford: OUP, 2000.

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#2603. 「母語」の問題,再び[sociolinguistics][terminology][linguistic_ideology]

2016-06-12

「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]),「#1926. 日本人≠日本語母語話者」 ([2014-08-05-1]) で「母語」という用語のもつ問題点を論じた.
 母語 (mother tongue) とネイティブ・スピーカー (native speaker) は1対1で分かちがたく結びつけられるという前提があり,近代言語学でも当然視されてきたが,実はこの前提は1つのイデオロギーにすぎない.クルマス (180--81) の議論に耳を傾けよう.

 母語とネイティブ・スピーカーを結びつけることは,さまざまな形で批判されてきた.それはこうした概念が,現実に即していない,理想化された二つの考えに基づいているからである.①言語とは,不変であり,明確な境界をもつシステムであり,②人は一つの言語にのみネイティブ・スピーカーになることが可能であるというものである.
 こうした思想は,書記法が人々に広く普及し,実用言語がラテン語,ギリシア語,ヘブライ語といった伝統的な書き言葉から,その土地固有の話し言葉に移行した,初期ルネサンスのヨーロッパにおいて顕著だ.このときこそ「言語」文脈において,母のイメージが初めて現われたときである.フランス革命後の数世紀,義務教育の普及は母語を学校教育における教科として,そして政治的案件へと変えた.かつて無意識のうちに獲得すると考えられていた母語を話す技能は,意図的で,意識的な学習となったのだ.生来の能力であるものを学ばなければならないという,明らかな矛盾をはらみながら,完全な母語能力は生来の話者にしか到達し得ないという排他意識が強化されたのは,国民国家の世紀である19世紀であった.
 それは言語,帰属意識,領土,国民間を結ぶイデオロギーが,国語イデオロギーに統合されたためである.学校教育が普及するに伴い,ドイツの哲学者 J. G. ヘルダーが提唱した,言語は国民精神の宝庫であるという考えに多くの国が賛同した.ヘルダーは,子供が母語を学ぶのは,いわば自分の祖先の精神の仕組みを受け継ぐことであると論じている.ヘルダーの思想の流れに続くロマン的な思想は,国語と見立てることで母語を,生まれつきでないと精通できない,あるいはできにくいシステムであると神話化した.言語のナショナリズムは個別言語を,排他的なものとしてとらえる傾向を強めた.明治時代,このイデオロギーは日本でも定着した.多くのヨーロッパ諸国と同様,日本も国民の単一言語主義を理想的なものとして支持した.
 近代の始まりにヨーロッパで国家の統合のために使われた,排他的な母語のイデオロギー構成概念が,こうしたものとは違った伝統をもつ,つまり多言語が普通である土地の言語学者によって批判的に脱構築されたのは不思議なことではない.だからインドの言語学者 D. P. パッタナヤックは,人は実際に話すことができなくても,ある言語に帰属意識を感じる事が可能な一方,他方でそれが家庭で使われている言語であるかに係わらず,一番よくできる言語を母語として選べると指摘した.
 多言語社会の人間にとって,安らぎ,かつ自分をきちんと表現できる第一言語は必ずしも一つである必要はない.多言語社会では,言語獲得の多種多様なパターンが存在する.「母語は自然に身につく」というヘルダーの単一言語の安定性を重視するイデオロギーに対し,二つまたはそれ以上の言語システムが存在する社会では,母語能力とネイティブ・スピーカーを単純にむすぶイデオロギーも覆されることになる.


 ここでクルマスが示唆しているのは,「母語」とは相対的な概念であり,用語であるということだ.話者によって,社会によって「母語」に込められた意味は異なっており,その込められた意味とは1つの言語イデオロギーにほかならない.母語とネイティブ・スピーカーは必ずしも1対1の関係ではないのだ.
 私も,日常用語として,また言語についての学術的な言説において「母語」や「ネイティブ・スピーカー」という表現を多用しているが,その背後には,あまり語られることのない,しかしきわめて重大な前提が隠れている可能性に気づいておく必要がある.

 ・ クルマス,フロリアン 「母語」 『世界民族百科事典』 国立民族学博物館(編),丸善出版,2014年.180--81頁.

Referrer (Inside): [2016-12-30-1]

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