hellog〜英語史ブログ

#2051. 言語学に対して学生が感じるストレス[hel_education]

2014-12-08

 黒田は言語学の入門書で,大学などで言語学に初めて接する学習者がしばしば「言語学のストレス」を体験すると述べている.言語学を教える身としてこれは人ごとではなく,なかなか興味深い話題なので,考えてみたい.黒田 (29) は4つのストレスを挙げている.

(1) イメージを否定されるストレス
(2) 用語の厳密さに対するストレス
(3) 枠にはめられるストレス
(4) 日常のことば遣いに対して指摘されるストレス


 まず (1) について.すでに日本語を話しながら生活している者にとって,言語とは空気のように慣れ親しんだ自然なものである.ところが,言語学ではこれまで当然と思ってきたことがおよそすべて否定され,受け入れてきた前提が覆される.確かにその通りだ.多少のはったりを込めつつ,私もいろいろな授業で「日本語とか英語などというものは存在しない」とか「万人がバイリンガル,いやマルチリンガルだ」とか「正しい文法などは存在しない」などと明言する(「うそぶく」ともいう).日本語以外に知っている言語といえば英語であり,これまで何年も英語教育を受けてきた学生にとって,「英語というものは存在しない」とか「正しい英語とは虚構である」などと指摘されれたところで,何のことを言っているのかちんぷんかんぷんだろう.だが,そのような馬鹿げたことをある程度本気で言っているらしいということになれば,学生も言語学という分野に対して警戒心を抱くことになる.
 (2) は本当はどの学問分野にも一般に言えることなのだが,確かに言語学も用語にはうるさい.学生はこれまでの国文法や英文法の授業で「名詞」「動詞」に始まり「未然形」「係り結び」「現在完了」「分詞構文」などという小難しい用語に苦しめられてきた.そのような用語の嵐に襲われてきた末に入った大学では,言語に関わるディスコースでは「母国語」ではなく「母語」を使うべし (cf. 「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]) や「#1926. 日本人≠日本語母語話者」 ([2014-08-05-1]))とか,「語」ではなく「形態素」を使えとか,「方言」ではなく「変種」と言うべしなどと諭されることになる(←よく諭すのは私).この人は言葉尻を取ることばかり考えているのではないかということになり,不信感が増す.
 (3) は私としては実感がわかないのだが,黒田 (32--35) によれば例えば「言語は人間に特有の能力であり,他の動物にはないものである」というような枠のはめ方にストレスを感じる人がいるということらしい.このストレスについて私に(想像ですら)実感がわかないのは,私自身が言語学にあまり厳しい枠をはめたくないと思っているからかもしれないが,確かに伝統的な言語学やその下位分野にはそれぞれ独自の守備範囲,すなわち「枠」があるのは確かだ.構造言語学,生成文法,認知言語学などという学派を言語学の「枠」ととらえるのであれば,確かにこれは一種のストレスかもしれない.これは結構分かるような気がする.
 (4) のストレスは (1) に通じるが,黒田 (35) によれば「多くの人がフラストレーションを感じる最大のもの」であり「自分ではふだん何気なく使っていることばに対して,トヤカクいわれるのはみんないやなのだ」ということである.しかし,もしこのストレスが普段の言葉遣いの正誤に関して言語学に干渉されたくないというストレスという理解であれば,それは当を得ていない.というのは,そもそも現代の言語学は,言葉遣いの正用と誤用を判断する規範主義的な立場を取っていないからだ.言語学は,通常,語法の正誤について無関心である.したがって,(4) は幻のストレス,いわば独り相撲である.
 と,ここまで書いて,言語のような当たり前のことを追究するというのはとても難しいことなのかもしれないと思い直した.だが,私は言語学の考え方に対してストレスというよりはむしろ解放を感じているということは述べておきたい.(1) と (2) に基づいて,学生の言語に対する「イメージを否定」し「用語の厳密さ」を要求し続けていこうと思う(疎まれない範囲で).また,(3) と (4) については,完全とはいかないかもしれないけれども,なるべく干渉せずという方針でいきたいなと.

 ・ 黒田 龍之助 『はじめての言語学』 講談社〈講談社現代新書〉,2004年.

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