日本語で敬語表現が発達していることはよく知られているが,それとの対比で,英語には敬語表現がないと錯覚している人も少なくない.昨日の記事「#1033. 日本語の敬語とヨーロッパ諸語の T/V distinction」 ([2012-02-24-1]) の最後に触れた通り,敬語表現のあり方こそ,日本語型と非日本語型といった区別が認められるかもしれないが,何かしらの敬語表現をもたない言語というものは考えられない.言語を使用する人間どうしのあいだに敬意という感情がある限り,それは言語表現の上に,精粗はあるにせよ,何らかの形で反映するはずである.現代英語にもれっきとして敬語表現が存在する.
ただし,英語は,敬語のあり方としては非日本語型であり,「敬語的表現のための専用言語要素を持たないか,持っていても数がすくなく,むしろ一般的な言語要素の用法に依存するか,あるいは非言語表現を用いる」(南,p. 37) というタイプの言語である.南 (45--49) は,大杉邦三(『英語の敬意表現』 大修館,1982年)の分類を参照しながら,英語における種々の敬語表現(より適格には,敬意を示す言語的手段というべきか)を次のように紹介している.
(1) 言語的表現.使用する言語的要素を選ぶことにより敬意を示す.Please comment on that. の代わりに,Would you comment on that? あるいは I wonder if you would care to comment on that. と述べる,など.(これは,communicative grammar などで強調される敬意の段階差である.)
(2) 論理的敬意表現.断わったり礼を述べたりするのに,論理的に納得させるだけの根拠を提示して表現すること.(英語では日本語よりも,この手段に訴える機会が多いように思われる.)
(3) 心理的敬意表現.相手の心情を察する表現を用いる.I'm sorry ... や I'm afraid ... など.
(4) 倫理的敬意表現.英語では比較的珍しく敬意を表わす専門言語要素として,尊称や敬称がある([2010-07-11-1]の記事「#440. 現代に残る敬称の you」を参照).ほかには,Mr. Smith and I など,1人称代名詞を後置する語法などもこれに含まれる.I'm sorry, Excuse me, I beg your pardon などの謝りことばもある.
(5) 配慮的敬意表現.尊敬,称賛,祝福,同情,理解,弔慰など.Please accept my sincere congratulations on your marriage. など.
(6) 遠慮的敬意表現.いわゆる謙譲表現のことで,日本語に比べて少ないものの,あることはある.This is only my personal opinion, but ... や You may be right, but I think you're mistaken. など.(5) と (6) の境は微妙である.
(7) 強調的敬意表現.相手の立場などを強調することによって敬意を表わす.例えば,相手のことについて,I am sure ... や I can assure you ... などを用いる.
(8) 弱調的敬意表現.(7) の逆で,控えめに表現することは英語にもある.You're mistaken. ではストレートすぎるので,I think you're mistaken. や I would think you're mistaken. や I should have thought you're mistaken. などと弱調的に述べる.
(9) 直接的敬意表現.明示的に祝福,尊敬,歓迎,感謝,謝罪を述べるもの.I wish to express my deep appreciation to Professor Smith for his kind invitation. など.
(10) 間接的敬意表現.賞賛や非難を婉曲的に表現するもの.This is a terrible man. ではどぎついので,I'm afraid he is not a very nice person. などと表現する.あるいは,What's your name? と直接きかずに,May I have your name, please? と尋ねる.
上記の項目の多くは相互に密接に関わっており,この分類が最良がどうかはわからない.しかし,敬意を表わす専門の語句や文法は備わっていないものの,英語にも敬意を示す言語的手段はしっかりと準備されていることがよくわかる.(1) で示したような命令や依頼の表現も,実のところ,日本語に比べてヴァリエーションは豊富だという.むしろ,日本語では,相手や場面ごとに使用すべき専門敬語表現の種類がある程度決まっているために,それを超えるヴァリエーションは生まれにくいのかもしれない.これを指して,日本語の敬語表現は体系的,あるいはマニュアル的であると評することもできるだろう.
(a) ある言語に敬意を示す手段がどのくらい体系的に備わっているかという問題と,(b) その言語を用いてどのような敬意をどのくらい表現できるかという問題は,同じではない.この観点から,日本語が敬語表現に長けた特異な言語であるという,巷によく聞かれる評が妥当なのかかどうか,改めて考えなおす必要がある.(a) の点ですら,通言語的には日本語と同じくらい,いやそれ以上に敬語体系の発達した言語があることは知られるようになってきた.韓国・朝鮮語,ベトナム語,チベット語,ヒンディー語,ベンガル語,そしてとりわけジャワ語の敬語体系の複雑さが知られている.アジアの言語に偏っていること自体は興味深い.
・ 南 不二男 『敬語』 岩波書店,1987年.
世界の言語における敬語(ここでは,狭い意味での,専門言語要素を用いた敬譲・丁寧表現を指す)の分類は様々になされているが,ネウストプニー氏による,相手敬語(対者敬語)と登場人物敬語(素材敬語)の2種類の分布による分類がある(南,pp. 34--36 参照.出典は,ネウストプニー,J. V. 「世界の敬語---敬語は日本語だけのものではない---」 『敬語講座8 世界の敬語』 林 四郎・南 不二男 編,明治書院,1974年.) .これは,一方で日本語のよく発達した敬語体系を,他方で中英語,現代フランス語,現代ドイツ語などにみられる T/V distinction などの比較的単純な敬語体系(実際の使い分けは精妙だが)を区別するのにも,ある程度は役に立つ分類である.
日本語は「○○がいらっしゃった」 (A),「○○がいらっしゃいました」 (B),「○○が来ました」 (C) ,さらにはそのいずれからも外れた「○○が来た」も含めて,素材敬語と対者敬語のありとあらゆる組み合わせが可能である.
一方,例えば現代フランス語では,Tu es vené venu (おまえは来た)と Vous êtes vené venu (あなたはいらっしゃった)といった対立が見られるものの,この T/V の対立は,聞き手に対して(対者),聞き手自身を指す2人称単数代名詞(素材)を用いる場合にしか生じない.Vous が素材敬語 (A) なのか対者敬語 (C) なのか,あるいは両者を兼ねているのか (B) は判然としないが,たとえ B だとしても,2人称単数代名詞に限られるという条件つきの敬語表現にすぎない.
英語では「#167. 世界の言語の T/V distinction」 ([2009-10-11-1]) や「#185. 英語史とドイツ語史における T/V distinction」 ([2009-10-29-1]) で見たように,近代英語期以降,T/V distinction すら失っており,現在ではこの図に関与すらしない.しかし,[2010-07-11-1]の記事「#440. 現代に残る敬称の you」で挙げたように Your Majesty のような称号は敬語表現として残っている.3人称単数として Her Majesty などとも言えるので,これは A や B に属する素材敬語の一種といえるだろう.
なお,世界の言語を見渡すと,A か C のいずれかの敬語タイプしかもたない言語はほとんどないという.
ネウストプニー氏の分類に代えて,南 (37) は「敬語的表現のための,多くの専用の言語要素を持ち,しかもそれがはっきりした組織をもっている」日本語型の言語と「敬語的表現のための専用言語要素を持たないか,持っていても数がすくなく,むしろ一般的な言語要素の用法に依存するか,あるいは非言語表現を用いる」非日本語型の言語とを区別することを提案している.
通言語的な敬語モデルに照らすと,日本語と英語が対蹠的であることは確かだ.
・ 南 不二男 『敬語』 岩波書店,1987年.
英語史における ye と thou の使い分けと,それに関連する2人称代名詞の話題は,[2009-10-11-1], [2009-10-29-1], [2010-02-12-1], [2010-03-26-1], [2010-07-11-1], [2010-10-08-1]の記事で扱ってきた.
古英語では,[2009-10-24-1]の人称代名詞屈折表に見られるように,þū は2人称単数,ȝē は2人称複数というように,数 ( number ) という文法カテゴリーによって使い分けが明確に区別されていた.しかし,中英語になると両者の使い分けは数によって区別される ([2009-10-25-1]) のとは別に,様々な文体的,語用論的な要素の関数として決まってくるようになった.
では,例えば Chaucer の英語を例に取ると,ye と thou の使い分けを区別する要素にはどのようなものがあったのだろうか.そして,各々どの程度の重みをもって使い分けの区別に関与していたのだろうか.これは Chaucer 研究,英語史研究における積年の問題であるが,完全な答えは出ていないといってよい.日本語の敬語体系にまつわる問題に喩えれば,問題の難しさが想像できるかもしれない.
しかし,一般的な提案はなされてきている.以下に,Burnley (21) のフローチャートを,少々改変した形で示そう.
中央から右上にかけての "addressee familiar", "non-intimate", "age +", "status +" の分岐については,特にその項目が焦点でなければ上の道筋をたどり,より丁寧な YE に近づくのが原則である.また,YE と THOU にはさまれた各種の "SWITCHING" は,最終的には感情,態度,文体といった要素が決め手になるということを表わしている.例えば "affective switching" によれば,ye の使用は detachment, distancing, formality, objectivity, rejection, repudiation などと結びつけられ,thou の使用は intimacy, solidarity, engagement, rapprochement, joking, patronising, cajolery, conspiracy などと結びつけられる ( Burnley 21 ) .
・ Burnley, David. The Language of Chaucer. Basingstoke: Macmillan Education, 1983.
中英語期の二人称単数代名詞が親称の thou と敬称の you で語用論的に使い分けられていたことについて,関連する話題を何度か扱ってきた ([2009-10-11-1], [2009-10-29-1], [2010-02-12-1], [2010-03-26-1]) .この区別が1660年くらいまでにほぼ消失し,you が一般化した.現在,かつての親称 thou を用いた表現は,聖書や古風な文体でのみ見られる化石的表現と考えてよい.では,かつての敬称 you の化石的表現は何らかの形で現代英語に残っているだろうか.
一般的ではないかもしれないが,高位の人への呼びかけや you の代わりに,以下のような表現が聞かれる.いずれも大文字で始められ,動詞は三人称単数で呼応する.ただし,代名詞は you として受けることもあれば,he や she として受けることもあり,一貫していない.
Your Majesty 「陛下」(君主)
Your Excellency 「閣下」(大使,知事,総督,司教・大司教など)
Your Grace 「閣下,猊下」(公爵,大司教など)
Your Highness 「殿下」(皇族)
Your Lordship 「閣下」(公爵をのぞく貴族,主教,裁判官など)
Your Honour 「閣下」(地方判事など)
Your Worship 「閣下」(治安判事,市長など)
これらの Your はかつての敬称の you の所有格であることは明らかである ( Svartvik and Leech, p. 211) .Your Majesty の起源はラテン語の vestra maiestas に遡り,そこからロマンス諸語やゲルマン諸語に広がった.英語では15世紀から見られるが,定着したのは17世紀である.
・ Svartvik, Jan and Geoffrey Leech. English: One Tongue, Many Voices. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006.
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