現代の学校英文法で扱われる典型的な注意を要する事項に以下のようなものがある.
・自動詞 lie と他動詞 lay の区別をつけるべし
・which の所有格として whose を用いるべからず
・it is me ではなく it is I とすべし
・文末に前置詞を置くべからず
・二つ以上のもののあいだには between を,三つ以上のもののあいだには among を使うべし
・the oldest of the two ではなく the older of the two とすべし
・二重否定は使うべからず
・to fully understand などの「分離不定詞」は使うべからず
こうした「べき・べからず集」はどのようにして生まれたのだろうか.こうした慣例は,あるときに自然発生的に生まれ,慣例として守られてきたということなのだろうか.
いや,そうではない.これは,ほんの250年ほど前,18世紀の規範文法家 ( priscrictive grammarians ) たちが理屈をこねて作り上げたきわめて人工的な規則である.実はそれほど説得力のある理屈があるわけではなく,いってしまえば当時権威のあった文法家たちの個人的な嗜好にすぎない.それが不思議なことにその後も尊重され続け,現代の学校英文法の現場でも生きているというのが現状である.
生きているというのは生やさしい.受験生はこの「べき・べからず集」に生殺与奪の権を握られているといっても過言ではない.しかし,われわれが覚えさせられててきたこうしたがちがちの学校英文法が,実は18世紀の数名の規範文法家によって人為的に作られたことを知ってしまうと,受験生の頃のあの努力はなんだったのかと思わざるをえない.ある意味では,相当に不毛な勉強をしてきたともいえる.だが,こうした規範文法は,英語を学習する外国人のみならず,英語母語話者の英語観にもいまだ深く根付いているので,問題は単純ではない.
18世紀は秩序と規範を重んじる時代で,the Age of Reason 「理性の時代」と呼ばれた.文法規則こそが言語を支配するのだという文法先行の発想で,規範文法書が続々と出版された.特に影響の大きかったのは1762年に出版された Robert Lowth 著の A Short Introduction to English Grammar である.世紀の終わりまでに22版を重ねたというから,絶大な人気ぶりである.
規範文法ができあがった18世紀より前の英語の慣用では,上記の文法事項はいずれも普通におこなわれていたことは覚えておいてよい.これで,受験英語問題で間違えたときに「18世紀より前の英語では許されたんだけどね」と軽く受け流すことができる(かもしれない).
・ヤツェク・フィシャク 『英語史概説---第1巻外面史』 小林 正成,下内 充,中本 明子 訳.青山社,2006年.180--188頁.
1986年,BBC Radio 4 シリーズの English Now で視聴者アンケートが行われた.もっとも嫌いな文法間違いを三点挙げてくださいというものだ.集計の結果,以下のトップ10ランキングが得られた ( Crystal 194 ).
(1) between you and I : 前置詞の後なので I でなく me とすべし.
(2) split infinitives : 「分離不定詞」.to suddenly go など,to と動詞の間に副詞を介在させるべからず.
(3) placement of only : I saw only Jane の意味で I only saw Jane というべからず.
(4) none + plural verb : None of the books は are でなく is で受けるべし.
(5) different to : different from とすべし.
(6) preposition stranding : 「前置詞残置」.That was the clerk I gave the money to のように前置詞を最後に残すべからず.
(7) first person shall / will : 未来を表す場合には,I shall, you will, he will のように人称によって助動詞を使い分けるべし.
(8) hopefully : 文副詞としての用法「望むらくは」は避けるべし.
(9) who / whom : 目的格を正しく用い,That is the man whom you saw とすべし.
(10) double negation : They haven't done nothing のように否定辞を二つ用いるべからず.
20年以上前のアンケートだが,現在でもほぼこのまま当てはまると考えてよい.なぜならば,上記の項目の多くが19世紀,場合によっては18世紀から連綿と続いている,息の長い stigmatisation だからである.(8) などは比較的新しいようだが,他の掟は長らく規範文法で「誤り」とのレッテルを貼られてきたものばかりである.たとえ順位の入れ替えなどはあったとしても,20年やそこいらで,この10項目がトップクラスから消えることはないだろう.規範文法が現代標準英語の語法に大きな影響を与えてきたことは事実だが,一方でいくら矯正しようとしても数世紀にわたって同じ誤りが常に現れ続けてきた現実をみると,言語の規範というのはなかなかうまくいかないものだなと改めて考えさせられる.
Though the grammarians indisputably had an effect on the language, their influence has been overrated, since many complaints today about incorrect usage refer to the same features as those that were criticised in eighteenth-century grammars. This evident lack of effect is only now beginning to draw the attention of scholars. (Tieken-Boon van Ostade 6)
関連する話題としては,[2009-08-29-1], [2009-09-15-1]も参照.
・Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997.
・Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.
英語を数年間学んで大学に入学してきた学生が,言語学の授業で最初に習うことの1つに記述 (description) と規範 (prescription) の違いがある.言語学において,記述文法 (descriptive grammar) と規範文法 (prescriptive grammar) の区別は最重要項目である.
記述とは言語のあるがままの姿を記録することであり,規範とは言語のあるべき姿を規定するものである.言語学は言語の現実を観察して記録することを使命とする科学なので,「かくあるべし」という規範的なフィルターを通して言語を扱うことをしない.文法や語法が「すぐれている」,「崩れている」,「誤っている」という価値判断はおよそ規範文法に属し,言語学の立場とは無縁である.確かに,規範文法そのものを論じる言語教育や応用言語学の領域はあるし,英語史でも英語規範文法の成立の過程は重要な話題である (prescriptive_grammar) .しかし,言語学は原則として記述と規範を峻別し,原則として前者に関心を寄せるということを理解しておく必要がある.
記述を規範に優先させる理由としては,以下の点を考えるとよい.
・ 一般に科学はあるべき姿を論じるのではなく,現実の姿を観察し,理論化し,解説(記述)しようとするものである.言語学も例外ではない.
・ いかなる言語社会も(いまだ記述されていないとしても)記述されるべき文法をもっているが,すべての言語社会が規範文法をもっているとは限らない,あるいは必要としているとは限らない.実際に,規範文法をもっていない言語社会は多く存在する.英語の規範文法も18世紀の産物にすぎない.
・ 規範は価値観を含む「道徳」に近いものであり,時代や地域によっても変動する.個人的,主観的な色彩も強い.「道徳」は科学になじまない.
大学生,とりわけ英語学を学ぶ英文科の学生は,記述と規範の区別を明確に理解していなければならない.というのは,「実践英文法」などの実用英語の授業(規範文法)があるかと思えば,次の時間に「英語学概論」などの英語学の授業(記述文法)が控えていたりするからだ.2つは英語に対するモードがまるで異なるので,頭を180度切り換えなければならない.
記述と規範の峻別についてはどの言語学入門書にも書かれていることだが,Martinet (31) による一般言語学の名著の冒頭から拙訳とともに引用しよう.
La linguistique est l'étude scientifique du langage humain. Une étude est dite scientifique lorsqu'elle se fonde sur l'observation des fait et s'abstient de proposer un choix parmi ces faits au nom de certains principes esthétiques ou moraux. «Scientifique» s'oppose donc à «prescriptif». Dans le cas de la linguistique, il est particulièrement important d'insister sur le caractère scientifique et non prescriptif de l'étude : l'objet de cette science étant une activité humaine, la tentation est grande de quitter le domaine de l'observation impartiale pour recommander un certain comportement, de ne plus noter ce qu'on dit réellement, mais d'édicter ce qu'il faut dire. La difficulté qu'il y a à dégager la linguistique scientifique de la grammaire normative rappelle celle qúil y a à dégager de la morale une véritable science des mœurs.
言語学は人間の言語の科学的研究である.
ある研究が科学的と言われるのは,それが事実の観察にもとづいており,ある審美的あるいは道徳的な規範の名のもとに事実の取捨選択を提案することを差し控えるときである.したがって,「科学的」は「規範的」に対立する.言語学においては,研究の科学的で非規範的な性質を強調することがとりわけ重要である.この科学の対象は人間活動であるため,公平無私な観察の領域を離れてある行動を推薦する方向に進み,実際に言われていることにもはや留意せず,かく言うべしと規定したいという気持ちになりがちである.科学的言語学から規範文法を取り除くことの難しさは,生活習慣に関する真の科学から道徳を取り除く難しさを想起させる.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
私見だが,言語に関心のない人はまずいない.日本語でも英語でも,新聞等の記事や投書は,言葉に関する話題に事欠かない.敬語の使い方,漢字の間違い,横文字の氾濫,誤用の指摘,日英語比較,語源豆知識,お国訛り,なんでも話題になる.言語の話題は,概して人々の関心を惹くものだと思っている.
ところが,言語「学」となると不釣り合いに関心の度合いが急落する.文法と聞くとへどが出る,という人も少なくない.言語への関心はあっても言語学への関心は薄いというのが世間の現実である.ここ数日間の記事で Crystal を引用しながら言語の死 ( language death ) にまつわる話題を取り上げてきたが,Crystal は言語の死に対する世間の無関心は,つまるところ世間の言語意識の低さに起因すると指摘している.(特に英語についての)この状況を,次のように分析している.
All language professionals have suffered the consequences of a general malaise about language study which has long been present among the general public --- an inevitable consequence (in my view) of two centuries of language teaching in which prescriptivism and purism produced a mentality suspicious of diversity, variation, and change, and a terminology whose Latinate origins crushed the spontaneous interest in language of most of those who came into contact with it. (Crystal 96)
およそ同じことが日本語あるいは日本人についても言える.規範的な語法,発音,漢字が教育でも社会でも促され,そうでないものは誤りとしてレッテルを貼られる.また,日本語文法でも英文法でも,小難しい文法用語の洪水によって,言語学的な関心がそがれてしまうということは確かにあるだろう.
二つ目のポイントである専門用語については,ある程度は致し方がない.言語学に限らずどの分野でも専門用語は大量に存在するものである.むしろ,言語学では,語学教育を通して他分野よりもその専門用語が一般に広く知られているという事情がある.疎まれるくらいに認知されているというのは,考えようによっては希望がもてる.
だが,一つ目のポイントである規範主義 ( prescriptivism ) と純粋主義 ( purism ) は根が深い.このことを頭では理解している言語学者でも,実際的には prescriptivist であったり purist であったりすることもしばしばである.確かに,慣用上,正しい言葉遣いと誤った言葉遣いの区別はある.だからこそ,世間が話題にする.しかし,正しい言葉遣いがいつでもどこでも正しい言葉遣いであり続けるかどうかは別問題である.言葉に限らずあらゆる慣習において,何が正しくて何が誤っているかの基準は,時と場所に応じて変化する.言語の本質として "diversity, variation, and change" があるにもかかわらず,それがないかのような前提で言語を論じ始めれば,どうしても無理が生じ,議論はつまらないものになるだろう.
難しいのは,多くの場合,言語学への入り口が語学教育にあることだ.語学教育では,"diversity, variation, and change" などと呑気なことをいっていられないのが現実である.学習者は,学ぶべき規準を明確に提示されないと混乱するからだ.だが,例えば英語学習者であれば,スパイスとして英語史の話題をふりかけてみるとよいと思う.英語史は,英語の "diversity, variation, and change" を体系的に一覧にしたものだからである.
私も英語史という一分野を通じて,世の中に遍在する言語への関心を,もう一歩踏み込んで言語学への関心へと引き込むことがでれきばいいなと常々思っている.
今回 Language Death を読み,Crystal は応用言語学者として言語学の実際的な応用を考えるのが本職とは言いつつも,彼の他書にも通底する議論の熱さと啓蒙的な筆致はさすがだなと再評価した.
・Crystal, David. Language Death. Cambridge: CUP, 2000.