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linguistic_ideology - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-12-22 08:43

2017-12-19 Tue

#3158. 19世紀後半に始まった英語史記述の伝統 [history_of_linguistics][historiography][linguistic_ideology]

 イギリスにおける英語史記述の伝統は,19世紀後半に始まったといってよい.対象が英語という言語であるとしても,歴史の記述である以上,その時代のイデオロギーを反映せずにはいられない.19世紀後半の言語観は,標準英語を理想的な変種として称揚し,地域方言を含めた非標準変種はあたかも存在しないかのように扱うというものだった.昨今の variationist な英語史観からみると「政治的に公正でない」偏った立場のように見えるが,名立たる先達の英語(史)学者が公然とそのような立場を取っていたのである.Knowles (142--43) が,この状況について述べている.

In the course of the second half of the nineteenth century, the story of English gradually emerged in its modern form . . . . The study of words was fitted into a familiar account of English history identifying the different events that had led to the enlargement of the vocabulary; the coming of the Saxons, and the Danish and Norman invasions. Caxton could be seen as the harbinger of the new age that dawned at the end of the Middle Ages. A particular interest was taken in the sixteenth century, the growth of the vocabulary at this time being interpreted as an expression of the Renaissance. From an Anglican point of view, the Reformation was a major advance which led to Elizabethan English.
   The belief in progress can give the impression that the language has marched onward and upward, while suffering setbacks on the way. Thus West Germanic leads on to late West Saxon, which in turn leads to Elizabethan English, and eventually modern Standard English. The emphasis on literary texts led to an interpretation of major literary figures as creators of the language, with the result that the Beowulf poet, Chaucer, Shakespeare and Milton were taken to illustrate the rise of the language . . . .
   As the understanding of language broadened at the end of the nineteenth century, the 'internal' history branched out to cover the attributes of words, including spelling and pronunciation, semantic change and (to a limited extent) their changing grammatical behaviour. This 'internal' history has preserved some older beliefs about language change, including the ambivalence towards dialects. Although the relationship between dialects and Standard English has long been perfectly well understood, and this is made clear in explicit descriptions, conventional accounts of change in English pronunciation, grammar and vocabulary have never quite fitted the known 'external' history. Changes are given precise dates, as though they took place everywhere at about the same time in a standard language. In fact, there are changes usually ascribed to the Anglo-Saxon period which have still not taken place in the rural dialects of Cumbria. This approach to change is consistent with an older story, according to which (standard) Saxon collapsed after the Norman conquest, not to be reestablished until the end of the Middle Ages. Some scholars . . . have even sought to establish a historical link between the old and new kinds of Standard English.


 19世紀後半からなされた英語史記述は,標準英語の確立を輝かしいゴールとして掲げた一種のホイッグ史観の産物といってよいだろう.先に述べたように,昨今は variationist な英語史観が広がってきたとはいえ,古英語(以前)から現代英語までの(そして未来の英語を見据える)英語史を記述するあたっての大局的な視点として,標準英語を中心におく伝統的な史観がどれだけ本当に薄まってきているかは疑問である.21世紀の新鮮さを目指す英語史にも,それは死に絶えていないどころか,いまなお色濃く残っているのではないか.

 ・ Knowles, Gerry. A Cultural History of the English Language. London: Arnold, 1997.

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2017-05-13 Sat

#2938. 「バベルの塔」の言語観 [bible][tower_of_babel][origin_of_language][language_myth][linguistic_ideology]

 「#2928. 古英語で「創世記」11:1--9 (「バベルの塔」)を読む」 ([2017-05-03-1]) で,バベルの塔に言及した.それとの関係で,言語学という視点からバベルの塔の逸話について調べてみようかと手持ちの書籍をひっくり返してみたのだが,案外出てこない.最近の言語学書には,バベルの塔の出番はないらしい.これはどういうことだろうか.
 現在,言語学の言説において,特に言語の起源の議論において「バベルの塔」の説を持ち出す学者はさすがにいない.したがって,議論に付されることがない,ということは分かる.セム系一神教に密着した逸話であり一般性がないという点でも,科学としての言語学において出る幕がないのだろう.しかし,西洋で書かれる言語学史の文脈などでは,言及くらいあってもよさそうなものだが,あまり出てこない.
 しかし,(歴史)社会言語学の立場からは,そして間接的ではあるが英語史の関心からしても,「バベルの塔」は著しく大きな意義をもっている.現在広く共有されている言語観(近現代の言語学の言語観でもある)は,近代国家を後ろ盾として成立しているものであり,それを批判的に眺めることなしに,言語について論じることは本来できないはずである.では,近代国家とは何かといえば,近代ヨーロッパの作り出した特異な社会装置であり,その陰には常に国語と呼ばれる虚構があった.バベルによって散り散りになった人間の諸言語は,近代初期に,国家によってお墨付きを与えられた国語としてそれぞれ自立の道を歩み始め,近代期を通じて互いに覇権を競い合う時代へ突入したのである.そして,数世紀の競合により各国家に言語的安定がある程度もたらされ,英語などは国際的にも成功し,リンガ・フランカとして台頭してきた.こうした各国語の自立と発展のために,バベルの神話の言語観が部分的に利用されることもあった点に注意すべきである.
 現代の特に欧米主導の言語学が「バベルの塔」に言及しないという現状は,それが言語,国家,パワーという,言語のすぐれて社会的な側面に対して無関心であるか,あるいは意図的に避けている,という可能性を示唆するものではないか.
 今後「バベルの塔」の言語観に関する問題を考えていくに当たって,まずは McArthur (101) の言語学事典を引いてみた.

BABEL [14c: from Hebrew bābel Babylon, Assyrian bāb-ilu gate of God or bāb-ili gate of the gods. Pronounced 'bayble']. (1) Also Tower of Babel. The Biblical tower whose builders intended it to reach heaven. According to the Book of Genesis, all people once spoke the same language, but to prevent the completion of the tower God confounded their tongues. (2) A scene of confusion; a confused gathering; a turbulent medley of sounds, especially arising from the use of many language. Babelize and Babelization are sometimes used disparagingly of the growth of multiethnic, multicultural, and multilingual societies.


 英語史関係としては,渡部 (6--7) 『英語の歴史』に言及があった.さすがである.

「バベルの塔」伝承 ヨーロッパ人は,元来旧約聖書の創世記(11章)にあるバベルの塔 (the Tower of Babel) に関する記事を文字通りに信じていた.その話の大要は次の通りである.バベルとはバビロン (Babylon) のことであるが,ここにノアの大洪水の後に,人々が天までとどく高い塔を建てようとした.神はその人間の傲慢さを憎んで人々の言語を混乱せしめた.そのために協同で塔を作るということは不可能になり,お互に言葉の通ずる者同士が群になって,方方へ散っていた.これがいろいろな言語の起源である.
 この話が文字通りに信じられている間は,ヨーロッパ人にとって,さまざまな言語が地球上にあったとしても,少しも不思議なことではなかった.むしろそれぞれの民族の言語は違うのが当然という考え方であった.


 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.

Referrer (Inside): [2017-05-21-1]

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2017-04-27 Thu

#2922. 他の社会的差別のすりかえとしての言語差別 [linguistic_ideology][language_myth][sociolinguistics][function_of_language][aave]

 言語は,コミュニケーションの道具であるとともに,アイデンティティの指標でもある.言語のこの2つの機能は,言及指示的機能 (referential function) と社会指標的機能 (socio-indexical function) とも呼ばれる. 特に後者の機能は社会言語学における最重要のテーゼとして強調されるが,一般には広く認識されているとは言いがたい.多くの人が,言語はひとえにコミュニケーションの道具として機能していると思い込んでいる.
 しかし,「言語=コミュニケーションの道具」のみの発想にとらわれていると,狭い視野に閉じ込められるばかりではなく,現実にある社会的な問題を助長する可能性すらある.言語は道具であるから政治的には中立である,と無邪気にみなしてしまうと,言語を政治的に悪用する社会の不正にも気づきにくくなるからだ.言語は,コミュニケーションの道具であるにとどまらず,恐るべき政治的なツールへと容易に化けることができるのである.小山 (137) によるアメリカの黒人英語や英語公用語化を巡る問題についての評説が,言語の政治的な側面をよくあぶり出しているので,引用したい.

公的な場では人種差別の表明がタブーと化しているアメリカのような社会に生きる人種差別主義者たちは,たとえば1996年から97年に起こったエボニクス論争にみられたように,黒人を批判するのではなく黒人英語を批判したり,あるいはイングリッシュ・オンリー(英語公用語化)運動にみられるように,ヒスパニックを批判するのではなくスペイン語を喋ることを批判したりしている.つまり現代アメリカでは人種の問題が言語(および文化)の問題に置き換えられて語られているのであり,これは,上でみたような,アメリカ標準語としてのジェネラル・アメリカンの勃興にまつわる排外主義的,人種論的背景を,「中西部」や「西部」の発音などと,地域的な範疇にすりかえて語るという修辞とも共鳴する.
 なお,合衆国の法制度では,人種,宗教,性,出生国などと違い言語は差別の根拠となる範疇 ("suspect category") とはみなされておらず,これが,より一般的な公的言説における人種のタブー化とともに,言語が人種について語るための「コード・ワード」となっていることと関係していることは明らかである.Sonntag (2003) は,このような法的言説における言語の位置づけは,アメリカのリベラル民主主義の伝統,つまりジョン・ロック的な伝統においては,言語がアイデンティティの指標ではなくコミュニケーションのための中性的な道具であると考えられていることに由来する面があることを正しく指摘している.


 社会言語学者の大家 Peter Trudgill も,人種や性など多くの範疇での差別が消えていくなかで,言語は最後の最後まで差別の拠り所として根強く残っていくだろうと述べている.残念ながら,私もこの意見に同感せざるを得ない.言語の社会指標的機能について力説していくほかない.

 ・ 小山 亘 「第7章 社会語用論」『社会言語学』井上 逸兵(編),朝倉書店,2017年.125--45頁.

Referrer (Inside): [2022-06-23-1] [2019-05-16-1]

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2016-12-30 Fri

#2804. アイルランドにみえる母語と母国語のねじれ現象 [irish][terminology][linguistic_ideology]

 「母語」という用語を巡る問題について「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]),「#1926. 日本人≠日本語母語話者」 ([2014-08-05-1]),「#2603. 「母語」の問題,再び」 ([2016-06-12-1]) の記事で考えてきた.「母語」と「母国語」とは本質的に異なる概念である.「母語」 (one's mother tongue) とは,個人が最初に習得し,自らの日常的な使用言語であるとみなしている言語のことであり,きわめて私的なものである.一方,「母国語」 (one's national language) とは「母国」である国家が公的に採用している言語を指し,定義上,公的なものである.それぞれの用語の前提にある態度が正反対であることに注意したい.
 典型的な日本に生まれ育った日本人の場合,ほとんどのケースで「母語=母国語=日本語」の等式が成り立つだろう.したがって,日常の言説では,いちいち「母語」と「母国語」の用語を使い分ける必要性がほとんど感じられず,たいてい「母国語」で用を足している人が多いのではないか.しかし,古今東西,このような等式が成立しないケースは珍しくないどころか,普通といってよい.世界を見渡せば,多くの人々にとって「母語≠母国語」という状況がある.
 母語と母国語のねじれた関係が,およそ国家単位で見られるという興味深い例が,昨日の記事「#2803. アイルランド語の話者人口と使用地域」 ([2016-12-29-1]) でも取り上げたアイルランドに見られる.嶋田著『英語という選択 アイルランドの今』を読むまで知らなかったのだが,アイルランド人は,アイルランド語を流ちょうに使えずとも,ときにその言語を「私たちの母国語」ではなく「私たちの母語」と表現することがあるという.ここには上に述べた用語の混乱という問題が含まれているが,むしろ,人々がこの用語のもつ曖昧さに訴えて,アイルランド語に対する自らの思いの丈を表明しているのだと解釈するほうが妥当だろう.つまり,「私たちの母なることば」というニュアンスに近い意味で「私たちの母語」と呼んでいるのだと.
 嶋田 (25--26) は,1999年に行なったアンケート調査の自由記述欄から,アイルランド語を言い表す表現を集めた.

 ・ our true language
 ・ our national tongue
 ・ our native language
 ・ our native tongue
 ・ our own language
 ・ OUR language
 ・ our mother tongue
 ・ our original native language

 口から発せられている言葉と口から発せられるべきと信じている言葉が異なっているというチグハグ感.用語遣いにみる「ねじれ現象」を前に,何とも表現しがたいが,悲哀を禁じ得ない.

 ・ 嶋田 珠巳 『英語という選択 アイルランドの今』 岩波書店,2016年.

Referrer (Inside): [2018-03-09-1]

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2016-11-17 Thu

#2761. 「言語的保守主義」再考 [language_myth][purism][linguistic_ideology]

 「#2751. T. S. Eliot による英語の詩の特性と豊かさ」 ([2016-11-07-1]) で引用した宇野によると,保守主義の源流はアイルランド生まれの英国ホイッグ党の政治家 Edmund Burke (1729--97) に遡る.「保守主義」という用語を Burke の用いた意味で用いるならば,以下のことを踏まえる必要があるという(宇野,p. 13).

 (1) 保守すべきは具体的な制度や慣習であり,
 (2) そのような制度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず,
 (3) 大切なのは自由を維持することであり,
 (4) 民主化を前提にしつつ,秩序ある漸進的改革が目指される

 Burke は政治における「保守主義」のことを語っているわけだが,これを言語における「保守主義」に応用するならば,どのようなことになるだろうか.というのは,「#1318. 言語において保守的とは何か?」 ([2012-12-05-1]),「#1304. アメリカ英語の「保守性」」 ([2012-11-21-1]) で論じたように,言語における保守性という概念は,様々な問題を含んでいるからだ.
 もっとも,政治上の用語を言語の話題にそのまま当てはめようとしても無理が生じるだろうとは予想できる.(1) の「制度や慣習」というのは,言語でいえば文法,発音,語法などの具体的な言語項目といってよさそうであり,(2) の「歴史の中で培われた」という表現もそのまま言語に当てはめることができる.しかし,(3) 「自由を維持する」とは,言語において何に相当するのだろうか.言語使用者による個々の表現選択の自由のことだろうか,あるいは絶対的な規範主義の忌避というようなことを意味するのだろうか.(4) の「民主化」も,言語に当てはめると,その意味が分からなくなる.これについては,別途「#134. 英語が民主的な言語と呼ばれる理由」 ([2009-09-08-1]),「#1366. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由」 ([2013-01-22-1]),「#1845. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由 (2)」 ([2014-05-16-1]),「#2359. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由 (3)」 ([2015-10-12-1]) で考えてきた通りである.(4) の「秩序」や「改革」も,言語の場合には何に相当するのか判然としない.
 おそらく「言語的保守主義」とは「政治的保守主義の言語的側面」と理解しておくのがよいのだろう.つまり,言語体系そのものに関する話題ではなく,言語についての政治的信条に関する話題なのだろう.その意味で,「言語的保守主義」とは,もう1つの言語イデオロギー (linguistic_ideology) にすぎないのかもしれない (see 「#2163. 言語イデオロギー」 ([2015-03-30-1])) .

 ・ 宇野 重規 『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』 中央公論新社〈中公新書〉,2016年.

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2016-06-12 Sun

#2603. 「母語」の問題,再び [sociolinguistics][terminology][linguistic_ideology]

「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]),「#1926. 日本人≠日本語母語話者」 ([2014-08-05-1]) で「母語」という用語のもつ問題点を論じた.
 母語 (mother tongue) とネイティブ・スピーカー (native speaker) は1対1で分かちがたく結びつけられるという前提があり,近代言語学でも当然視されてきたが,実はこの前提は1つのイデオロギーにすぎない.クルマス (180--81) の議論に耳を傾けよう.

 母語とネイティブ・スピーカーを結びつけることは,さまざまな形で批判されてきた.それはこうした概念が,現実に即していない,理想化された二つの考えに基づいているからである.①言語とは,不変であり,明確な境界をもつシステムであり,②人は一つの言語にのみネイティブ・スピーカーになることが可能であるというものである.
 こうした思想は,書記法が人々に広く普及し,実用言語がラテン語,ギリシア語,ヘブライ語といった伝統的な書き言葉から,その土地固有の話し言葉に移行した,初期ルネサンスのヨーロッパにおいて顕著だ.このときこそ「言語」文脈において,母のイメージが初めて現われたときである.フランス革命後の数世紀,義務教育の普及は母語を学校教育における教科として,そして政治的案件へと変えた.かつて無意識のうちに獲得すると考えられていた母語を話す技能は,意図的で,意識的な学習となったのだ.生来の能力であるものを学ばなければならないという,明らかな矛盾をはらみながら,完全な母語能力は生来の話者にしか到達し得ないという排他意識が強化されたのは,国民国家の世紀である19世紀であった.
 それは言語,帰属意識,領土,国民間を結ぶイデオロギーが,国語イデオロギーに統合されたためである.学校教育が普及するに伴い,ドイツの哲学者 J. G. ヘルダーが提唱した,言語は国民精神の宝庫であるという考えに多くの国が賛同した.ヘルダーは,子供が母語を学ぶのは,いわば自分の祖先の精神の仕組みを受け継ぐことであると論じている.ヘルダーの思想の流れに続くロマン的な思想は,国語と見立てることで母語を,生まれつきでないと精通できない,あるいはできにくいシステムであると神話化した.言語のナショナリズムは個別言語を,排他的なものとしてとらえる傾向を強めた.明治時代,このイデオロギーは日本でも定着した.多くのヨーロッパ諸国と同様,日本も国民の単一言語主義を理想的なものとして支持した.
 近代の始まりにヨーロッパで国家の統合のために使われた,排他的な母語のイデオロギー構成概念が,こうしたものとは違った伝統をもつ,つまり多言語が普通である土地の言語学者によって批判的に脱構築されたのは不思議なことではない.だからインドの言語学者 D. P. パッタナヤックは,人は実際に話すことができなくても,ある言語に帰属意識を感じる事が可能な一方,他方でそれが家庭で使われている言語であるかに係わらず,一番よくできる言語を母語として選べると指摘した.
 多言語社会の人間にとって,安らぎ,かつ自分をきちんと表現できる第一言語は必ずしも一つである必要はない.多言語社会では,言語獲得の多種多様なパターンが存在する.「母語は自然に身につく」というヘルダーの単一言語の安定性を重視するイデオロギーに対し,二つまたはそれ以上の言語システムが存在する社会では,母語能力とネイティブ・スピーカーを単純にむすぶイデオロギーも覆されることになる.


 ここでクルマスが示唆しているのは,「母語」とは相対的な概念であり,用語であるということだ.話者によって,社会によって「母語」に込められた意味は異なっており,その込められた意味とは1つの言語イデオロギーにほかならない.母語とネイティブ・スピーカーは必ずしも1対1の関係ではないのだ.
 私も,日常用語として,また言語についての学術的な言説において「母語」や「ネイティブ・スピーカー」という表現を多用しているが,その背後には,あまり語られることのない,しかしきわめて重大な前提が隠れている可能性に気づいておく必要がある.

 ・ クルマス,フロリアン 「母語」 『世界民族百科事典』 国立民族学博物館(編),丸善出版,2014年.180--81頁.

Referrer (Inside): [2016-12-30-1]

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2015-04-05 Sun

#2169. 日本語における「女性語」 (3) [gender_difference][gender][japanese][discourse_analysis][historical_pragmatics][sociolinguistics][linguistic_ideology]

 「#1905. 日本語における「女性語」」 ([2014-07-15-1]),「#1915. 日本語における「女性語」 (2)」 ([2014-07-25-1]) に引き続いての話題.先の2つの記事では,日本語の女ことばの起源と発展について,日本語史で伝統的に言われてきたことに基づいて記述した.しかし,中村はジェンダー論,歴史談話分析,歴史社会言語学の立場から,従来行われてきた女ことばの歴史記述に異議を唱え,女ことばは各時代に特有の言語イデオロギー(「#2163. 言語イデオロギー」 ([2015-03-30-1]))により形成されてきたと主張する.
 例えば,室町時代の女房詞を女ことばの起源とする伝統的な見解について,中村は疑念を表明している.「女性たちが使ってきた言葉づかいは多様なので,多様な言葉づかいが自然にひとつの「女ことば」を形成することは考えにくい」 (50) とあるように,女房詞は後世の女ことばの数多くあるルーツの候補の1つではあるが,それが単独かつ直接に女ことばへ発展していったわけではないという.そもそも,女房詞の属性には,女性に使用されるということだけでなく,宮中で使用されるという社会階級に関する側面も含まれている.むしろ,後者に力点を置けば,女房詞は女ことばというよりは階級方言と呼ぶほうがふさわしい.もともと階級方言に近かった言葉遣いのいくつかを,後に女性一般の規範的な言葉遣いのなかへ意図的に取り込むことによって,徐々に女ことばが形成されてきたと考えられる.
 中村は,時代ごとの女ことばの発展の背景にはいつも政治的・倫理的な側面があったと主張し,それに支えられ,それを支えている言語イデオロギーの正体を次々と暴いていく.明治期の標準語策定における女ことばの排除,言文一致運動と翻訳文学に駆動された女ことばの創出,女子教育の高まりとともに却って女ことばに付加されるようになったセクシュアリティの含蓄,戦中の礼賛されるべき美しき日本語の伝統としての女ことば,戦後の自然な女らしさを発露するものとして捉えられた女ことば,等々.
 中村の提起する数々の言語イデオロギーを要領よくまとめることができないので,中村自身の結論を引用したい (227--29) .

 本書では,女ことばという理念が,西洋やアジアとのグローバルな関係や,都市と地方,中流階級と労働者階級,近代と伝統,未来と過去などのさまざまに対立する社会過程の中で,「女らしさの規範」「西洋近代との親和性」「セクシュアリティ」「天皇制国家の伝統」「家父長制の家族制度」「日本文化の優位性」「日本語の伝統」などの意味づけを与えられることで形成されてきたことを見てきました.
 鎌倉時代から続く規範の言説によって女性の発言を支配する傾向が,江戸時代の女訓書に列挙された女房詞という具体的な語彙によって強化され,「つつしみ」や「品」となって現代のマナー本にも見られるような女らしさとの結びつきが強調されるようになったこと.
 明治の開国後,近代国家建設の過程で必要となった国語理念を,男性国民の言葉として純化させるために,そして,女子学生を西洋近代と日本を媒介する性的他者とするためにも,「てよ・だわ」など具体的な語と結びついた女学生ことばが広く普及したこと.
 戦中期には,アジアの植民地の人々に日本語を教えることで皇国臣民にする同化政策や家父長的な家族的国家観に基づいて女性も戦争に動員する総動員体制を背景に,女ことばが天皇制国家の伝統とされ,家父長制の象徴である「性別のある国語」が強調されたこと.
 戦後には,占領軍によって男女平等政策が推進され,天皇制や家父長制が否定される中で,女ことばを自然な女らしさの発露として再定義する言説が普及し,女ことばには,日本の伝統を象徴することが期待されるようになったこと.
 その過程で,「女の言葉」は,近代国語を純化させる否定項として,帝国日本語の伝統として,常に「日本語」や「日本」との関係で語られ続けてきました.日本語に「女ことばがある」と信じられているのは,いつの時代にも女の言語行為について語る言説が可能になり,意味を持ち,普及するような政治経済状況があったからです.この意味で,女ことばの歴史を知ることは,女だけにかかわる事象というよりも,日本語がなぜ今ある形をしているのかを理解する上で,欠くことのできない作業だと言えるのです.


 非常に手応えのある新書だった.

 ・ 中村 桃子 『女ことばと日本語』 岩波書店〈岩波新書〉,2012年.

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2015-03-30 Mon

#2163. 言語イデオロギー [linguistic_ideology][sociolinguistics][gender][japanese][linguistic_imperialism][terminology]

 私たちは,個々の言語や変種について特別な思いをもっている.例えば,母語である日本語に対して伝統をもつ美しい言葉であると思っているかもしれないし,一方でその1変種である若者ことば堕落していると嘆くかもしれない.標準語は高い地位をもつ正式な言葉遣いだと認識しているかもしれないし,広く国際語として学ばれている英語は大きな力をもつ言語であると考えているかもしれない.これらの言葉に対する「特別の思い」は言語意識や言語観と呼ぶこともできるが,特定の集団に何らかの利害関係をもたらすような社会的な価値観を伴って用いられる場合には言語イデオロギーと呼んでおくのが適切である.
 『女ことばと日本語』を著した中村 (18--20) は,日本語における女ことばの位置づけについて考察する観点として,言語イデオロギーの概念を導入している.中村 (18) は 言語人類学者の Irvine を引用して,言語イデオロギーとは「言語関係について個々の文化が持っている理念の体系を指し,これらは倫理的・政治的価値をもっている」との定義を紹介している.(なお,Irvine の原文 (255) によると,". . . linguistic ideology---the cultural (or subcultural) system of ideas about social and linguistic relationships, together with their loading of moral and political interests" とあるので,定義の最初は「社会と言語の関係について」となるべきだろう.また,"interests" は「価値」よりも「利害関係」と理解しておくのが適当だろう.)
 この定義の要点は3つある.1つは,言語イデオロギーが言語の実践そのものではなく理念 (ideas) に関するものだということである.イデオロギーであるから,言語に関する考え方という抽象的なものである.例えば,母語や母方言を美しいと思うのは,その言語変種の実践ではなく,その言語変種に対して抱く理念である.
 2つ目に,言語イデオロギーとは,そのような諸理念の体系 (system) であるということだ.それぞれの理念が独立して集合されたものではなく,互いが互いに依存して成り立っている組織である,と.例えば,母方言に対する愛着は,標準語の無味乾燥という見方との対比に支えられているといえる.
 3つ目は,言語イデオロギーは倫理的・政治的な利害関係 (moral and political interests) を伴っているということだ.例えば,英語は国際的に優位な言語であるという肯定的なとらえ方,あるいは逆に帝国主義的な言語 (linguistic_imperialism) であるとの否定的なとらえ方は,英語を倫理的あるいは政治的な観点から評価している点で,イデオロギーである.「#1194. 中村敬の英語観と英語史」 ([2012-08-03-1]) で世界の4つの英語観を示したが,これらはいずれも倫理的・政治的な利害関係を伴う理念の体系であるから,4つの英語に対する言語イデオロギーと言い換えてよい.
 言語に対する美醜の観念,規範主義や純粋主義,言語の帝国主義批判,言語差別,言語権といった諸々の概念に共通するのは,その根底に何らかの形の言語イデオロギーが存在しているということである.

 ・ Irvine, Judith T. "When Talk Isn't Cheap: Language and Political Economy." American Ethnologist 16 (1989): 248--67.
 ・ 中村 桃子 『女ことばと日本語』 岩波書店〈岩波新書〉,2012年.

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