「#585. 「背広」の語源」 ([2010-12-03-1]) の記事で,日本語の「背広」の語源説の1つとして,ロンドンにある高級紳士服の仕立屋の多い街路 Savile Row に由来するとの見方を紹介した.種々の語源説に関して,服飾評論家の出石が新書で「なぜ「背広」の語源は分かっていないのか」および「「セビロ」は外来語なのか日本語なのか」と題して2章分を割いて論じている.その議論を紹介しよう.
出石は,一般の語源辞典のほか服飾分野の参考図書にも目を通した上で,まず幕末から明治初期に「せびろ」が日本語に入り,定着してから,おそらく大正時代に「背広服」という呼称が現われたらしい点を指摘している (99) .後者は漢字表記としての「背広」を前提としており,英語の civil, Savile Row, Cheviot などが究極の起源となっている可能性は残るにせよ,早い段階で「背広」として日本語に同化していたようだ.出石 (99) 曰く,
「背広服」の言い方が好きであろうとあるいまいと,「背広服」が「背が広い」説の語源をもとに生まれていることだ.仮に「セビロ」の語源を“セイヴィル・ロウ”であると信じていたなら,「セビロ服」の表現は思いつかなかったのではないか.
出石 (101) は結論として次の説を採用している.
要するに幕末から明治のはじめにかけて,たとえば横浜居留地あたりで中国人の洋服職人と日本人職人とが接触をもったことは,おそらく事実であろう.そして中国人が「背広服」と言い始めて,その影響から「背広」が日本語になった,と考えているのに違いない.中国人であったか日本人であったかは別にして広く「背が広い」から説のひとつであることも間違いない.
中国人の仕立てのうまいことは定評だったようだ.この説によれば,「背広」は,英語の何らかの表現から音をとって,それを日本語として当てたのではないことになる.服の構造的特徴に着目し,最初から中国語なり日本語なりの漢字表記を意識して用意された訳語ということになる.
なお,civil clothes の civil を取ってきたという説について,これまで出所が不明確であったが,出石 (102--04) は文献をたどって,荒川惣兵衛がその説を楳垣稔に帰し,後者はさらに師の市河三喜に帰していることが判明した.つまり,これは最終的には市川説と呼んでよさそうだという.英語起源説は,この英語学の大家によって人口に膾炙することになったもののようだ.国語学者の新村出までも,後にこの説を受け入れるに至った (106--07) .さらにいえば,出石 (108) はあくまで推測としているが,Savile Row 説の発案者は福原麟太郎ではないかという.この辺りの「言い出しっぺ捜し」はすこぶるおもしろい.語源学とは,歴史や学者の伝記にも目配りをする必要があるのだろう (cf. 「#466. 語源学は技芸か科学か」 ([2010-08-06-1]),「#727. 語源学の自律性」 ([2011-04-24-1]),「#1791. 語源学は技芸が科学か (2)」 ([2014-03-23-1]) .
・ 出石 尚三 『福沢諭吉 背広のすすめ』 文藝春秋〈文春新書〉,2008年.
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