hellog〜英語史ブログ

#656. "English is the most drifty Indo-European language."[germanic][indo-european][drift][inflection][synthesis_to_analysis]

2011-02-12

 英語の文法史において,屈折の衰退の過程は最も大きな話題と言ってよいかもしれない.古英語後期から初期中英語にかけて生じた屈折の衰退により,英語は総合的な言語 ( synthetic language ) から分析的な言語 ( analytic language ) へと大きく舵を切ることになった.
 英語以外のゲルマン諸語でも程度の差はあれ同じ傾向は見られ,これはしばしば drift 「漂流,偏流」と呼ばれる.いや,実は drift は印欧諸語全体に広く観察される大きな潮流であり,ゲルマン諸語に限定されるべき話題ではない.とはいえ,ゲルマン諸語でとりわけ顕著に drift が観察されることは事実である.そして,そのゲルマン諸語のなかでも,英語が最も顕著に drift の効果が見られるのである.
 英語が "the most drifty Indo-European language" であることを示すには,本来は現存する印欧諸語のそれぞれについてどの程度 drift が進行しているのかを調査するという作業が必要だろうが,そうもいかないので今回は権威を引き合いに出して済ませておきたい.

La tendance à remplacer la flexion par l'ordre des mots et par des mots accessoires est chose universelle en indo-européen. Nulle part elle ne se manifeste plus fortement que dans les langues germaniques, bien que le germanique conserve encore un aspect alchaique. Nulle part elle n'a abouti plus complètement qu'elle n'a fait en anglais. L'anglais représente le terme extrême d'un développement: il offre un type linguistique différent du type indo-européen commun et n'a presque rien gardé de la morphologie indo-européenne. (Meillet 191--92)

屈折を語順や付随語で置きかえる傾向は,印欧語では普遍的なことである.ゲルマン祖語はいまだに古風な特徴を保持しているとはいえ,ゲルマン諸語以上に激しくその傾向の見られる言語はなく,英語以上に完全にその傾向が成功した言語はないのだ.英語はある発達の究極の終着点を示している.英語は印欧祖語の型とは異なった言語の型を提示しているのであり,印欧語的な形態論をほとんど保っていないのだ.


 「付随語」と拙訳した des mots accessoires は,Meillet によれば,古英語 ge- などの動詞接頭辞,北欧語の -sk のような再帰代名詞的な動詞につく接尾辞,指示詞から発達した冠詞といった小辞を指す.
 噂と違わず,現代英語は印欧語として相当の異端児であることは確かなようである.もっとも,ピジン英語 ( see [2010-08-03-1] ) などを含めれば,英語よりもさらに漂流的な言語はあるだろう.

 ・ Meillet, A. Caracteres generaux des langues germaniques. 2nd ed. Paris: Hachette, 1922.

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#685. なぜ言語変化には drift があるのか (1)[drift][synthesis_to_analysis][grammaticalisation][unidirectionality][teleology]

2011-03-13

 言語変化の drift 「ドリフト,駆流,偏流,定向変化」について,本ブログの数カ所で取り上げてきた (see drift) .英語の drift はゲルマン語派の drift を継承しており,後者は印欧語族の drift を継承している.英語史と関連して指摘される最も顕著な drift は,analysis から synthesis への言語類型の変化だろう.これについては,Meillet を参照して[2011-02-12-1], [2011-02-13-1]などで取り上げた.
 なぜ言語に drift というものがあるのか.これは長らく議論されてきているが,いまだに未解決の問題である.言語変化における drift はランダムな方向の流れではなく,一定の方向の流れを指す.しかも,短期間の流れではなく,何世代にもわたって持続する流れである.不思議なのは,言語変化の主体である話者は,言語を用いる際に過去からの言語変化の流れなど意識も理解もしていないはずにもかかわらず,一定方向の言語変化の流れを次の世代へ継いでゆくことである.言語変化の drift とは,話者の意識を超えたところで作用している言語に内在する力なのだろうか.もしそうだとすると,言語は話者から独立した有機体ということになる.論争が巻き起こるのは必至だ.
 drift という用語は,アメリカの言語学者 Edward Sapir (1884--1939) が最初に使ったものである."Language moves down time in a current of its own making. It has a drift." (150) と言っており,あたかも言語それ自体が原動力となって流れを生み出しているかのような記述である.しかし,この言語有機体論に対して Sapir 自身が疑問を呈している箇所がある.

Are we not giving language a power to change of its own accord over and above the involuntary tendency of individuals to vary the norm? And if this drift of language is not merely the familiar set of individual variations seen in vertical perspective, that is historically, instead of horizontally, that is in daily experience, what is it? (154)


 もちろん Sapir は,言語変化がそれ自身の力によってではなく,話者による言語的変異の無意識的な選択によって生じるということを認識してはいる.

The drift of a language is constituted by the unconscious selection on the part of its speakers of those individual variations that are cumulative in some special direction. (155)


 しかし,話者がなぜ後に drift と分かるような具合に,世代をまたいである方向へ言語変化を推し進めてゆくのかは,相変わらず未知のままである.結局のところ,Sapir は drift とは mystical で impressive な現象であるという結論のようである.

Our very uncertainty as to the impending details of change makes the eventual consistency of their direction all the more impressive. (155)


 付け加えれば,Sapir は英語が語彙を他言語から借用する傾向も drift であると考えている.

I do not think it likely, however, that the borrowings in English have been as mechanical and external a process as they are generally represented to have been. There was something about the English drift as early as the period following the Norman Conquest that welcomed the new words. They were a compensation for something that was weakening within. (170)


 最後の "something" とは何なのか.
 言語変化の方向の一定性という問題は,ここ30年の間に grammaticalisation の研究が進んだことによって新たな生命を吹き込まれた.grammaticalisation は言語変化の unidirectionality に焦点を当てているからである.Lightfoot は,これに激しく異を唱えている.もし言語に一定方向の drift が見られると仮定すると,一般に言語史にアクセスできないはずの話者にその原動力を帰すことはできない.とすると,何の力なのか.mystery 以外のなにものでもないではないか,と (International Encyclopedia of Linguistics, p. 399) .
 Sapir 以来,drift の謎はいまだに解かれていない.

 ・ Sapir, Edward. Language. New York: Hartcourt, 1921.
 ・ Frawley, William J., ed. International Encyclopedia of Linguistics. 2nd ed. 2nd Vol. Oxford: Oxford UP, 2003.

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#686. なぜ言語変化には drift があるのか (2)[drift][synthesis_to_analysis]

2011-03-14

 昨日の記事[2011-03-13-1]の続きで,言語変化の drift の不可解な性質について.drift という用語は明らかに通時的な次元の用語だが,生成文法家をはじめとする共時言語学者はあくまで共時的な観点から drift の謎を解決しようとしてきた.印欧諸語のたどってきた synthesis から analysis への言語変化の drift は紛れもない事実であり ([2011-02-12-1]) ,現在も同じ流れが続いていると考えられる以上,それを動機づける共時的な規則を見いだすことが言語学者の務めである.しかし,今のところ共時的な立場から説得力のある説明は出されていない.もし共時的な説明を諦めるとすれば,言語は "of its own accord" 「それ自身の力によって」 (Sapir 154) 話者の意識を超えたところで変化を生じさせるという説を受け入れざるを得ない.しかし,言語が話者から独立した有機体であるとする説は,筋金入りの通時言語学者であっても(かつての苦い経験も手伝って)受け入れるのに抵抗が伴うのではないか.『新英語学辞典』でも「今のところ,このドリフトも一つの有力な仮説とみておくほかはない」 (348) ともどかしい口調でこの問題を評している.
 drift に関して Lakoff の論文を読んだ.ラテン語からロマンス諸語への言語変化を中心に,印欧諸語の synthesis から analysis への drift を生成文法の立場から共時的に論じることができるかどうかについて論じている論文である.具体的には,主語代名詞の使用の義務化,定冠詞・不定冠詞の出現,格屈折から前置詞使用への転換,動詞における迂言形の時制・相の発達,助動詞の発達,副詞や比較表現の発達という個別の漂流的変化が,印欧諸語に共通して生じている事実を取りあげている.Lakoff はこれらの変化を synthesis から analysis への変化としてまとめる代わりに,"segmentalisation" (104) として言及している.では,これらの segmentalisation を示す drift をどう解釈すればよいのだろうか.Lakoff は以下のような諸仮説を提示しては排除してゆく.

 (1) synthesis から analysis への変化を言語に普遍的な規則として設定する universal rule 説.しかし,世界の言語を見渡せば逆方向の変化はいくらでもある (104) .印欧語族内ですら,共通ロマンス語時代には迂言的に表現されていた動詞の未来形が後に屈折語尾で表現されるようになったという反例があり,この説は受け入れられない (112) .同様に,人間の心理傾向に基づく同様の universal な仮説も排除される.
 (2) では,少なくとも印欧諸語という限られた範囲においては segmentation は universal rule あるいは "métacondition" と考えることができるのではないか.しかし,そのような metacondition を特徴づけ,動機づけているものが何であるかは依然として不明であり,説得力のある説明とはなりえない.
 (3) 印欧諸語に共通してみられる segmentalisation 傾向は,実はそれぞれ独立して生じたとする説.この場合,不可解な drift を想定する必要はない.しかし,現実的には偶然の一致の可能性はきわめて少ない.
 (4) 不可解であれ何であれ,drift という通時的な力を認めるしかないという説.(結局 drift は謎のままということになる.)
 (5) 現在の共時言語理論ではいまだ扱えない現象だが,理論の発展によりいつかは解決できるはずだと考える説.

 Lakoff の結論の1節を拙訳とともに引用する.Lakoff は (4) と (5) の狭間で揺れているようだ.

Dans cet article j'ai présenté un certain nombre d'exemple de changements qui ne peuvent pas être compris par l'examen des seules règles de la grammaire synchronique. Puisqu'ils ne sont probablement pas universels, on ne peut pas non plus les expliquer en ayant recours à des concepts de meilleure compréhension, ou à d'autres notions pertinentes de psychologie. A quel niveau se situe cette métacondition n'est pas clair du tout : ce n'est ni comme partie de la grammaire ni comme condition universelle des formes des grammaires. Comment une contrainte de changement à l'intérieur d'une famille de langues, une contrainte qui n'est pas absolue mais qui néanmoins est influente, doit-elle être considérée? Le problème n'est pas clair. Mais it n'y a pas d'autre façon de concevoir les choses : ou bien une telle métacondition existe, quelle qu'elle soit, ou bien toutes les langues indo-européennes ont été soumises à une serie extraordinaire de coïncidences. Rien dans l'état actuel de la théorie transformationnelle ne nous permet de caractériser la métacondition ou de la justifier. Si l'on accepte les faits tels qu'ils sont donneés, ou bien une autre explication doit être postulée, ce qui paraît tout à fait improbable, ou bien nous devons accepte l'idée que pour comprendre les changements syntaxiques nous devons arriver à une meilleure compréhension de la théorie syntaxique du point de vue synchronique. (113)

この論文では,共時的な文法の規則のみを調べても理解するのことができない変化の例をいくつか提示した.これらの変化はおそらく普遍的ではないから,理解が容易になるという考え方や他の関連する心理的な概念に訴えかけて説明するとことはもはやできないだろう.この共通条件がどの次元にあるのかは全く不明である.文法の一部としてあるわけではないし,文法形態の普遍的条件としてあるわけでもない.語族内部での変化の制約,絶対的ではないが影響力のある制約とはどのように考えればよいのだろうか.問題は明瞭ではない.しかし,事態を理解するには次のいずれかしか方法はない.それが何であれ,そのような共通条件が存在するのだということ,あるいは,すべての印欧諸語は偶然の異常なまでの連鎖に従っているのだということである.変形理論の現状では,その共通条件を特徴づけたり正当化することはできない.もし所与の事実を認めるということであれば,(まったくありそうにないが)別の説明を提示するしなければならない.あるいは,統語変化を理解するのに共時的な観点から統語理論をよりよく理解しなければならない.


 ・ Sapir, Edward. Language. New York: Hartcourt, 1921.
 ・ Lakoff, Robin. "Regard nouveau sur la <<dérive>>." Langages 32 (1973): 98--114.

Referrer (Inside): [2013-02-28-1] [2012-09-09-1]

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