言語変化(研究)における "How" と "Why" の疑問について,「#784. 歴史言語学は abductive discipline」 ([2011-06-20-1]),「#2123. 言語変化の切り口」 ([2015-02-18-1]),「#2255. 言語変化の原因を追究する価値について」 ([2015-06-30-1]),「#2642. 言語変化の種類と仕組みの峻別」 ([2016-07-21-1]),「#3133. 言語変化の "how" と "why"」 ([2017-11-24-1]),「#3175. group thinking と tree thinking」 ([2018-01-05-1]) を含む how_and_why の各記事で考えてきた.
6月7日の朝日新聞朝刊の「福岡伸一の動的平衡」というコラムに,真理を探究する際の how と why の問題について次のような文章があった.これは,福岡が映画監督の是枝裕和氏との会話のなかで取り上げた話題だという.
why 疑問文は大きい問いであり,深い問いでもある.なぜ私たちは存在するのか,なぜ地球はこんなに豊かな生命の星になったのか.なぜ家族を作るのか,科学や芸術を含む人間の表現活動は,究極的には why 疑問文に対する答えを求める営みだ.しかしここに落とし穴がある.大きな問いに答えようとすれば,答えは必然的に大きな言葉になってしまう.大きな言葉には解像度がない.たとえは「世界はサムシング・グレイト(偉大なる何者か)が作った」のように.それは結局,何も説明しないことに限りなく近い.
だから表現者あるいは科学者がまず自戒しなければならぬことは,why 疑問文に安易に答える誘惑に対して禁欲すること.そして解像度の高い言葉で(あるいは表現で)丹念に小さな how 疑問を解く行為に徹すること.なぜなら,いちいちの how に答えないことには,決して why に到達することはできないからである.
まったくその通りだと思う.why 疑問文に対して安易に答えることを自戒し,禁欲的に振る舞うことは必要だろう.しかし,低い解像度の例として「サムシング・グレイト」にまで飛んでしまうのは,あまりに極端である.解像度の比喩はとてもおもしろいと思うので利用し続けるならば,その高低は相対的な問題であるわけだから,why 疑問文と how 疑問文の差も程度の問題ということになるだろう.それは連続体の両端なのだ.しかし,究極的には一方の端点,すなわち why 疑問文への答えを目指しつつも,具体的には他方の端点,すなわち how 疑問文から歩み始めるべきだという福岡の主旨については異存ない.
言語変化の "how" と "why" も,このような態度で追究していく必要があると思う.
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