hellog〜英語史ブログ

#1260. 共時態と通時態の接点を巡る論争[saussure][diachrony][history_of_linguistics][functionalism]

2012-10-08

 言語にアプローチするための2つの異なる側面,共時態と通時態の区別については,「#866. 話者の意識に通時的な次元はあるか?」 ([2011-09-10-1]) ,「#1025. 共時態と通時態の関係」 ([2012-02-16-1]) ,「#1040. 通時的変化と共時的変異」 ([2012-03-02-1]) ,「#1076. ソシュールが共時態を通時態に優先させた3つの理由」 ([2012-04-07-1]) ほか,diachrony の各記事で取り上げてきた.この問題に関する最大の論点の1つは,共時態と通時態のあいだには,ソシュールの力説するように,本当に接点がないのかという点である.
 この問題について,ソシュールに対抗する立場を明確にしているのが Roman Jakobson (1896--1982) である.Jakobson は,通時音韻論の諸原理に言及した最初の学者であり,ソシュールにとっては明らかに共時的な概念である「体系」を,通時的な現象にまで持ち込んだ先駆者だった.体系という概念を通時態に適用する可能性を否定したソシュールと,その可能性を信じて探ったヤコブソンの視点の違いを,ムーナンの文章によって示そう.

ソシュールは次のように述べている、「変遷はけっして体系の全面の上にではなく、その要素のいずれかの上におこなわれるものであるから、それはこれを離れて研究するほかはない。もちろんどの変遷も体系に反撃を及ぼさないことはないが、初発の事象は一点の上にのみ生じたのである。それは、それから流れ出て総体にいたる可能性をもつ帰結とは、何の内的関係をももたない。このような、継起する辞項と共存する辞項とのあいだの本性上の差異、部分的な事実と体系に影響する事実とのあいだの本性上の差異は、両者をただ一つの科学の資料とすることを禁じるのである。」 それに対してヤコブソンは、一九二九年の論文のなかでこう答えている、「言語を機能的体系として見る考えかたは、過去の諸言語状態の研究においても同様に採りあげられるべきものである。諸言語状態を再構成しようという場合にしても、あるいは言語状態から言語状態へという進化を確認しようという場合にしても、その点に変わりはない。ジュネーヴ学派がしたように、共時的方法と通時的方法とのあいだに越えることのできない障壁を設定することなど、できるものではない。共時言語学において、言語体系の諸要素をそれらの機能という観点から扱うのなら、言語がこうむった諸変化を判断するにあたっても、それらの変化の影響を受けた体系というものを考慮に入れずには判断できかねるはずだ。いろいろの言語変化が、偶然に生じる破壊的な損傷にすぎず、体系という観点から見れば異質なものにすぎない、と仮定するのは論理的でなかろう。言語変化が、体系や、その安定性や、その再構成などをねらって生じるということも少なくないのである。という次第で、通時論的研究は、体系や機能という概念を除外しないばかりではなく、逆に、これらの概念を考慮に入れないかぎり不完全なのだ。」 (168--69)


 両者を比較すると,実は大きく異なっていない.ソシュールもヤコブソンと同様に,体系の一点に与えられた打撃が体系全体を変化させる可能性について認識している.この点こそが重要だと考えるのであれば,両者はむしろ意見が一致しているとすら言える.ではどこに違いがあるのかといえば,ヤコブソンは,その打撃を,共時態のなかに静的に蓄えられているエネルギーとして捉えているのに対して,ソシュールは共時態のなかには存在せず(ないしは確認することができず),あくまで通時的にのみ確認されるエネルギーであるとして,共時態から切り離している点である.ソシュールがこだわっていたのは方法論上の厳密さであって,通時態の共時態への根強い浸食を止めなければならないという使命感により,かくまでに両者の峻別に固執したのである.
 だが,共時態の優勢が認められた後には,ソシュールの固執はすでに用無しだった.ヤコブソンの論じるように,言語変化のエネルギーが共時態と通時態の接点に宿っていると考えるほうが,論理的で自然だろう.

 ・ ジョルジュ・ムーナン著,佐藤 信夫訳 『二十世紀の言語学』 白水社,2001年.

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