hellog〜英語史ブログ

#843. 言語変化の予言の根拠[prediction_of_language_change][language_change][drift][acquisition]

2011-08-18

 中尾 (2) では,言語変化の予言とその根拠について次のように述べられている.

 一般にことばの変化についての予言は、
 (i) 現在進行中の変化および方向、
 (ii) 過去において実際に起こった歴史的変化および方向、
 (iii) 同系言語にみられる変化、
 (iv) 幼児の言語習得、
などに基づいて行われる。


 (i) から (iv) にかけて,具体から抽象へ,特殊から一般へと基準の普遍性が高くなっている点が注目に値する.(i) は当該言語の現在における変化の事実,(ii) は当該言語の過去に生じた変化の事実,(iii) は同系言語の現在と過去の変化の事実( drift の議論などが関与する),(iv) は言語そのものではなくヒトの言語習得 (language acquisition) の示す特性(過去も現在も未来も不変との仮定で)にそれぞれ相当する.
 しかし,(iii) の後に,同系・非同系言語の全体,つまり人類言語の総体において現在および過去に生じた変化の事実という参照点を加えてもよいのではないか.端的にいえば,通言語的な言語変化の類型論 (typology of language change) という視点である.「言語変化の予言の根拠」の改訂版を図示すると以下のようになるだろうか.

具体・特殊
  |  
  |  (1) 当該言語の言語変化(現在)
  |  
  |  (2) 当該言語の言語変化(過去)
  |  
  |  (3) 同系言語の言語変化(現在・過去)
  |  
  |  (4) 人類言語の言語変化(現在・過去)
  |  
  |  (5) 言語習得と言語変化(現在・過去)
  ↓  
抽象・一般


 これらの手がかりを参考に,当該言語が今後どのように変化して行くのか,その未来の姿はどのようなものになるだろうかについて予言がなされることになる.ただし,言語変化を予言するという行為については,言語学者の間にも様々な考え方がある.例えば,Sapir (Chapters 7--8) は積極的に言語変化の予言をしているが,一方で Bauer (21, 25) は予言がいかに危険であるかを説いている.
 上で引用した中尾 (2) は,次のように述べている.

 ことばの変化は、まったく同じ条件が整ったからといって必ず生起するとは限らない。その意味で、ことばの変化は自然科学の法則 (law) とはちがい、傾向 (trend, tendency) を示すにすぎない。
 結局、変化についての予言、記述などは、「ことばの変化を引き起こす要因は何か」という基本的な問題を解明する努力へ通じるものである。


 この文章から,著者は言語変化を予言するという行為の価値は,それが当たるかどうかという予言としての精度にあるのではなく,言語変化の原因を明らかにしようとする営みである点にあると考えていることが分かる.Bauer の批判的態度もよく分かるのだが,基本的には中尾の立場に同意したい.

 ・ 中尾 俊夫 著,児馬 修・寺島 迪子 編 『変化する英語』 ひつじ書房,2003年.
 ・ Sapir, Edward. Language. New York: Hartcourt, 1921.
 ・ Bauer, Laurie. Watching English Change: An Introduction to the Study of Linguistic Change in Standard Englishes in the Twentieth Century. Harlow: Longman, 1994.

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#844. 言語変化を予想することは危険か否か[prediction_of_language_change][language_change]

2011-08-19

 昨日の記事「言語変化の予言の根拠」 ([2011-08-18-1]) でも触れたように,言語変化を予想するという営みについては,歴史言語学者のあいだでも様々な意見がある.Bauer は,言語変化の予想は "hazardous" で "risky" であるとして,警鐘を鳴らしている.関連箇所を引用しよう.

Dealing with on-going changes is a very hazardous undertaking. It is tempting to conclude that, because we can see the beginning of a change, it follows that the change will continue. This is not true. It may even reverse itself. Consequently, predictions based on current trends mean very little. 'If current trends continue, then we may expect to find people saying xyz in the year 2050' is about as risky as predicting the value of the pound or the rate of inflation. (21)

Not only can we not predict the speed of a change, but we cannot predict whether it will be followed through to the end, or even whether it might be reversed. Diachronic linguistics is not a predictive science. (25)


 昨日の記事で引用した中尾 (2) も述べている通り,言語変化は自然科学の法則と異なり,傾向を示すにすぎない.これは確かである.そうだとすれば,予想をすることに何の価値があるのか,空虚な予想屋を演じているだけではないか,という意見が出るのは当然である.予想がいずれ当たるか当たらないかという次元の話しで終わるのであれば,学問的意味はないだろう.
 しかし,予想の学問的意味を疑う以前に,予想という行為に先だって存在するはずの,未来への関心や言語変化の理解を深めたいという好奇心は尊重されてよいように思う.まず,言語変化を研究していれば未来の姿を予想したくなる気持ちは当然である.この自然な関心を押し殺すというのは,教育においても研究においても精神衛生上好ましくない.また,過去から現在へと言語変化の道筋を追い,言語変化の理論を追究してきた者にとって,その視線を未来に延長しないというのはあまりに禁欲的である.
 そもそも,言語変化の理論は,現在まで続いてきた変化が逆流するかもしれないというような現実的な可能性を意識的に捨象することで組み立てられてきた.この作業は暗黙の了解だったのではないだろうか.中尾 (2) の言うように,予想は言語変化の要因を解明する努力そのものではないが,努力へ通じる営みであると,積極的に評価したい.
 実際のところ,Bauer も同書のなかで予想に近いことをしている.Bauer の警鐘は,予想があまりに "tempting" だからこそ,現実的には厳密な予想は不可能なのだという要点を強調しておきたかったものとして理解しておく.現時点で未確認だが,Bauer と同趣旨の議論が Lass (Phonology, 328--29) と Lass (Shape, 131) でなされているというので,いずれ確認したい.

 ・ Bauer, Laurie. Watching English Change: An Introduction to the Study of Linguistic Change in Standard Englishes in the Twentieth Century. Harlow: Longman, 1994.
 ・ 中尾 俊夫 著,児馬 修・寺島 迪子 編 『変化する英語』 ひつじ書房,2003年.
 ・ Lass, Roger. Phonology. Cambridge: CUP, 1984.
 ・ Lass, Roger. The Shape of English. London and Melbourne: J. M. Dent, 1987.

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#1019. 言語変化の予測について再考[prediction_of_language_change][language_change]

2012-02-10

 言語変化を予測することの意味については,[2011-08-18-1]の記事「#843. 言語変化の予言の根拠」や[2011-08-19-1]の記事「#844. 言語変化を予想することは危険か否か」で議論した.今回は,この問題についてもう少し議論を続けたい.
 言語変化の予測,予想,予言については,言語研究者のあいだでも考え方が分かれている.言語学を自然科学のようなものとしてみる向きの強い研究者は予測を是としているようであり,そうでない研究者は言語学の目指すところではないとさっぱり切り捨てる.ただし,後者でも,学問の対象としての言語変化予測は切り捨てるとしても,関心がないということではないだろう.むしろ,おおいに関心があるのではないだろうか.この点で,言語を記述する研究者が,しばしば言語の規範にも並々ならぬ関心を抱いているのと似ているように思う.
 予測を是とする者と非とする者の言葉を1つずつ引用しよう.私が読んでいて直接出会ったものである.まずは,賛成意見として,アメリカの著名な英語学者 Algeo (4) より.[2010-06-16-1]の記事「#415. All linguistic varieties are fictions」で取り上げた,言語の variety とはすべてフィクションだという趣旨の論文からの引用.

Without such fictions there can be no linguistics, nor any science. To describe, to explain, and to predict requires that we suppose there are stable things behind our discourse.


 Algeo の考え方はこうだろう.言語研究は言語を抽象化したところに成り立つものであり,抽象化した限りにおいてであったとしても,言語変化の予測が可能とならなければ,言語学はまだまだ記述力も説明力も足りない段階にあるのだ,と.なお,Algeo のこの発言については,Lilles (3) が ". . . the role of predicting language change hardly seems an essential component of linguistics." と返している.
 次に,反対意見として,日本語学者の小松 (17--18) を引く.

しかし、将来、どれほど研究が進歩しても、可能なのは、特定の限られた事柄についての短期予測だけであって、日本語の将来の状態を予測することは原理的に不可能である。/今から100年前(明治末期ごろ)、50年前(いわゆる戦後の時期)のデータに基づいて現在の日本語の状態を予測したとしても、その結果が現実と一致することはありえない。言語は社会の変化に連動して変化するが、社会の変動を具体的に予測することはできないし、社会の変動が言語にどのように具体的に反映されるかは、必ずしも一定ではない。また、予測が可能だと仮定しても、人口動態や自然災害などと違って、変化にそなえて対策を立てる必要はないから、役に立たないことに変わりはない。


 小松の要点は,言語変化の予測が (1) そもそも原理的に不可能であるという点と,(2) 役に立たないという点だ.しかし,(1) について,ある言語体系全体の予測は確かに原理的に不可能だろうが,限られた範囲での近い未来の予測であれば,それなりの精度が得られるかもしれない.次に,(2) について,なるほど言語変化の予測は役には立たないかもしれないが,予測への関心は,役立つかどうかというよりは,純粋な好奇心に根ざしているものであり,見返りを求めるものではない.
 言語変化の予測には捨てがたい魅力がある.ただし,その前にすべきことは,たくさん残っている.予測が可能かどうかの議論は別として,まず過去と現在の言語の動態を記述することが先決だろう.

 ・ Algeo, John. "A Meditation of the Varieties of English." English Today 27 (July 1991): 3--6.
 ・ Lilles, Jaan. "The Myth of Canadian English." English Today 62 (April 2000): 3--9, 17.
 ・ 小松 秀雄 『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』 笠間書院,2001年.

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